このアルバムを評するレ・ザンロキュプティーブル誌のレヴューがイントロで「ラップは今やヌーヴェル・シャンソン・フランセーズになった。オレルサンはそれに乗じていて、この分野の最も才能ある作者の一人であることは明白だ」と言うのですよ。新しいシャンソン・フランセーズかぁ。この呼称は90年代にミオセックやドミニク・アが出てきた時に言われたものだけど、「シャンソン性」とは今日どんなものなのだろうか。例えばストロマエが出てきた時にもろにジャック・ブレルと比較されたのは、その叙情表現性によるものだと思う。哀愁や悲嘆や悔恨や苦悩がエレクトロに乗ったら、それはシャンソンと呼ばれても不思議ではない。最初から極めて文学的だったクロード・MC・ソラールが、シャンソンと呼ばれたのを聞いたことがないが。で、オレルサンである。これをシャンソンと呼ぶとすれば、それはその「物語性」によるものだと思う。
この物語性やシナリオ性に関するオレルサンにまつわる避けて通れないことは、かの裁判沙汰である。その女性蔑視的表現、性暴力的表現を含むライムが訴訟となって争われたわけだが、オレルサンは一審でも二審でも無罪となっている。なぜ? それはフィクションだからである。映画や小説の中と同じように、その作中人物は卑劣漢やレイシストやセクシストであり得るし、その発言は創作的表現であり、作者の思想や性向を直接表現するものではない。作中に登場するナチス将校が極めてナチス的な反ユダヤ表現をしても、その作者は罰せられることはない。オレルサンのラップに登場する暴漢が暴力的表現をしようが、創作においては...という理屈なのである。この訴訟によって女性蔑視者のレッテルを貼られたオレルサンは、名誉回復の権利があるが、いたずらにその方面で刺激的な表現はしなくなったようだ。そりゃそうだろう。
ノルマンディー地方オルヌ県アランソンから出てきた35歳。本名をオーレリアン・コタンタン。日本語版ウィキペディアにも載っているが、ひどい日本語なので見ない方がいい。
オレルサン名義の3枚目のアルバム。この人日本のマンガが大好きで(このアルバムの中の"Christophe"という歌の中で "J'aime que les mangas"という歌詞あり)、その手の日本語は結構知ってて、「オレルサン」というのは「オーレリアンさん」のつづまったものらしい。アルバム冒頭の「San」という曲で「"さん"とは3のこと、"さん”とはムッシューのこと」と言っている。このアルバムは三部作の最終章だ、とも。
OK 俺、新しいアルバム出すぞ。 だけどその前に基礎の復習が必要だ。 俺、単純なヴィデオ作って、そん中で単純なこと言うぞ あんたたちときたらアホすぎるんだから シンプルでベーシックなやつさ、オーケイ?
(↑ "Basique" オフシャルクリップ)
これ、学校の先生の常套句なの。数学とかフランス語の授業で、先生は必ず言うのですよ「あんたたち基礎がなってない、もう1回基礎からやり直して来い」ってね。おお、いやだ、いやだ...。これがアルバムの3曲め。
続く4曲めは、オレルサン作詞+ストロマエ作曲の「ヌーヴェル・シャンソン・フランセーズ」。オフィシャルクリップ制作もストロマエ。アルバムには12曲めにオレルサン+ストロマエ作詞、ストロマエ作曲、ヴォーカルフィーチャリングストロマエという"La Pluie"という佳曲も含まれている。オレルサンの才能を疑うものではないが、ストロマエ初め、強力な友人たち(メートル・ギムス、イベイ、ネクフー...)のサポートでこのアルバムは「すごいこと」になったんだと思う。では、その4曲め "Tout va bien (万事良好)"。
<<< トラックリスト >>> 1. SAN 2. LA FETE EST FINIE 3. BASIQUE 4. TOUT VA BIEN 5. DEFAITE DE FAMILLE 6. LA LUMIERE 7. BONNE MEUF 8. QUAND EST-CE QUE CA S'ARRETE 9. CHRISTOPHE (feat MAITRE GIMS) 10. ZONE (feat NEKFEU & DIZZE RASCAL) 11. DANS LA VILLE, ON TRANE 12. LA PLUIE (feat STROMAE) 13. PARADIS 14. NOTES POUR TROP TARD (feat IBEYI) CD/LP 7TH MAGNITUDE - WAGRAM フランスでのリリース:2017年10月20日 カストール爺の採点:★★★★★
(リフレイン) 南回帰線、アフリカの角 Cancer du tropique, corne de l'Afrique アジア・ヨーロッパ大西洋条約 Traité Atlantique euro-asiatique 天使の風景、自動小銃 Paysage angélique, arme automatique 俺のボールペンよ、問題点を書き出せ Mon bic, note les tics 詩人のG.O. G.O poétique
詩人のジェ・オ、そらぁ、あんたぁ、ねえじぇよ。
< トラックリスト > 1. INTRONISATION 2. SONOTONE 3. L'ATTRAPE-NIGAUD 4. FROZEN FIRE (featuring JULIA BRITE) 5. JANE & TARZAN 6. EKSASSAUTE 7. LA CLE 8. LES MIRABELLES 9. MEPHISTO IBLIS 10. J.A.Z.Z. (KIFFEZ L'AME) (featuring MAUREEN ANGOT) 11. SUPER GAINSBARRE (featuring MAUREEN ANGOT) 12. I NEED GLOVES 13. ADAM & EVE 14. ON SE LEVE 15. ZONME DES ZOMBIES (featuring BAMBI CRUZ) 16. AIWA 17. GEOPOETIQUE 18. PILI-PILI 19. LA VENUE DU MC
CD/LP PWAY TWO/WARNER FRANCE フランスでのリリース:2017年11月3日
「金のかかってるやっちゃなぁ」というある種のいや〜な予感。つくりもの感。
アルバムを手にして、いろいろな先入観が消えていくには、クリオとのデュエット曲が必要だったし、アラン・ルプレストへのオマージュ曲"Comme chez Leprest"も、極右FN市政にめげず生きる人々を歌う"Hénin-Beaumont"も、地下鉄構内を住処とする誇り高き乞食の歌”Un clodo sur toute la ligne"も、すべて嬉しい「意外」であった。アルバムを閉じる6分の「大曲」”Mon fils est parti au djihad"(私の息子はジハードに行った)という、イラクで死んだフランス人ジハード戦士を思う母のバラード、こんな重いテーマを淡々と平易な言葉(優しい母の言葉)で、飾りなくも頼りない音程の地声直情の歌唱で歌い上げる。このフォークは二重にも三重にもデリケートである。シャポー。
パリ生まれでないのに、ガヴロッシュ(パリ小僧)を気取る。このポーズは今日びかなり難しいことだと思う。ガヴロッシュはヴィクトール・ユゴー作『レ・ミゼラブル』の登場人物であり、それが「パリ小僧かたぎ」の代名詞になる。往時のパリ下町風なスカーフやカスケット帽のような身なりの真似だけではガヴロッシュになれない。
この「ガヴロッシュ」がキーワードになっている歌 "DANS MES POCHES"(俺のポケット)(↓)
ちょっと訳してもしかたがない。これは全部 "oche"(オッシュ)という韻踏みで、poche, croches, mioches, téloche, moche, roche, sacoche.... gavroche(ガヴロッシュ)と連鎖しているもの。結構な芸達者。叩いてみるたび、味のあるアーチストになっていきそう。 <<< トラックリスト >>> 1. POURVU 2. DANS LA BAGNOLE DE MON PERE 3. MON RAMEAU (en duo avec CLIO) 4. DANS MES POCHES 5. HENIN-BEAUMONT 6. UN CLODO SUR TOUTE LA LIGNE 7. LE VENTRE DU BUS 96 8. QUAND ELLE APPELLE SA MERE 9. SUR TON TRACTEUR 10. ENTRE REPUBLIQUE ET NATION 11. COMME CHEZ LEPREST 12. LE POULET DU DIMANCHE 13. COMME SI C'ETAIT HIER 14. MON FILS EST PARTI AU DJIHAD CD MERCURY FRANCE 5763240 フランスでのリリース:2017年6月7日 カストール爺の採点:★★★☆☆
おやまっ、若くない。一聴してぐわぐわ押し寄せてくる年寄り感。2017年、最もイヤフォンで聴いたアルバム。つまり散歩の友。メランコリックになりがちな散歩をニヤニヤ笑いに変えてくれた怪盤。本当にお世話になりました感の強い1枚。
ジュリエット・アルマネは1984年北フランス(つまりとてもベルギー寄り)リール生まれ(現在33歳。若くない)で、音楽アーチストになる前は、ARTE(独仏共同経営の文化教養テレビ局)とフランス国営ラジオFRANCE CULTURE(名は体を表す文化教養ラジオ局)でドキュメンタリー制作のジャーナリストだった。若くない感に加えてのクセモノ感は多分ここに由来するのかもしれない。それは単純なインテリっぽさではなくて、曲を作ったり編曲したりする時に、この女性はこうしたらこうなるという術の抽出しが多くて、ふふふと笑いながら作業している様子が目に浮かぶのである。
この年寄り感のもとは多くのメディア評が指摘するようにもろな「セヴンティーズ」嗜好であり、より具体的には「ヴェロニク・サンソン・ヘリテージ」ということなのだ。トップアーチストとしてキャリアが長く、今や大御所中の大御所の地位にあるヴェロニク・サンソンであるが、辛口の批評誌/批評家に言われるまでもなく、その最高峰のアルバムは1972年のデビューアルバム『Amoureuse(アムールーズ)』(邦題『愛のストーリー』)であり、同じ年のセカンドアルバム『L'autre côté de mon rêve(夢の裏側)』(邦題『愛と夢の詩集』)であり、この2枚のクオリティーは群を抜いているのである。米人スティーヴン・スティルスと出会う前のもので、当時23歳だったサンソンが、当時の伴侶であり25歳だったプロデューサー、ミッシェル・ベルジェと二人三脚で制作した2枚。ジュリエット・アルマネのデビューアルバムは、誰が聞いても「サンソン+ベルジェ」のサウンドそのまんまであり、アルマネ自身、その影響を全く否定していない確信犯である。だから、2017年4月、このアルバム『プティ・タミ』が出た時、メディアは口々に「新ヴェロニク・サンソン」とはやし立てたのだった。
サンソンだけではない。ヴールズィ、スーション、ウィリアム・シェレール、バシュング、ゴールド、ミレーヌ・ファルメール.... 後年ある種蔑視&否定される傾向にあった「非FM系」セヴンティーズ・ヴァリエテのアトモスフィアがボコボコ立ち上ってくる。しかもほとんどが美しいラヴソングであるのだから。例えばこの「アレクサンドル」である。
<<< トラックリスト >>> 1. L'AMOUR EN SLITAIRE 2. L'INDIEN 3. SOUS LA PLUIE 4. A LA FOLIE 5. CAVALIER SEULE 6. ALEXANDRE 7. MANQUE D'AMOUR 8. A LA GUERRE COMME A L'AMOUR 9. UN SAMEDI SOIR DANS L'HISTOIRE 10. STAR TRISTE 11. LA CARTE POSTALE 12. L'ACCIDENT
CD/LP BARCLAY 5748401 フランスでのリリース:2017年4月7日
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)"LA CARTE POSTALE" ジュリアン・ドレとのデュエットのヴァージョン(ライヴ)、これは「サンソン+ベルジェ」風。
マジッド・シェルフィ「ジョニーは傷ついた魂の代理口頭弁論」 男でも女でもみんなそれぞれひとりのジョニーを持っている。私は80年代にその構文や文法や動詞活用の間違いのことでジョニーをバカにしていた若者たちのひとりだった。その頃はまだ「政治的」な時代で、人々はまだ左派を支持していた。われわれはその無教養を嘲り、その現実離れした美貌と完璧なアポロンのようないでたちを笑い、その歌の髪振り乱したロマンティスムや往々にして反動的な様相をバカにしたものだった。その学識の欠如と語彙の少なさをからかった。神というのはここまで誤りを冒すものか、と安心したりもした。人間が到達できるような偶像をめちゃくちゃにすることはたやすいことだった。 私はレオ・フェレを神格化するような、今言葉で言うなら「ボボ」(註:ブルジョワ・ボエーム=進歩派を気取る若い裕福層の蔑称)の一派だったが、最も反動的なものは見かけではわからないということを忘れていたのだ。私はそういう見かけを気にするような奴らのひとりだったが、例外的に、人に隠れてジョニーのアルバムを買っていた。私はその手作りの「美」によだれを流さんばかりだった。私はひざまづいてその歌詞よりもその声を聞き、それは私を打ちのめし、その後私は足取りを軽くさせその場を去った。たしかに、私は前衛なるものを自認していた「恥ずべき連中」のひとりだったし、あらゆる希望よりも高いところから降りてくるこの影のようなものに我慢がならなかったのだ。私はこの男が単なる声だけでないものであり、この声はどん底の人々の苦悩の化身であり、同時に担がれた十字架より高いところにある一筋の光なのだということを忘れていたのだ。それは頭痛の種を破壊するヴァイブレーションであり、傷ついた心を甲羅で包んでくれる。その声は疲労困憊した肉体を再びシャキっとさせ、朝には再び最低の職種と最低の仕事に赴かせてくれるのだ。その声はわれわれの声を救いにやってきてくれる。怒りの日にはわれわれの声を逞しくしてくれる。押しつぶされた苦悩の叫びを助けるために、その声はわれわれの声帯に乗り移ってくれる。それはすべての助けを求める叫びのメガフォンであり、下層の人々のメガフォンなのである。彼は自分ではそうとは気付かずに、すべての声なき人々、すべてのシステムから除外された人々の声を支えてきたのだ。彼は学識のない人にイロハを提供し、傷ついた魂に代わって口頭弁論をし、語彙の少ない人々の欠席答弁を買って出たのだ。 彼の楽曲の数々はバイブルとなり、居心地の悪い大多数たる無言者たちの口頭弁論と不幸な人々の光となった。自らを励ますことしか望まないこの男は、打ちのめされた者たちの自信を取り戻させ、より良い世界を説くあらゆる理想主義者たちに集中砲火を浴びせ、選挙公約や神の啓示を粉々に砕く。彼は自分自身のための約束しか守らない神であった。彼は老いて、病気を患い、酒を飲み、喫煙し、自分自身の欠陥に打ち勝ってきた。このジョニーはロックンローラーではなく、歌手でもなかったが、われわれのあらゆるフラストレーションに効く膏薬であり、あらゆる人生の不幸に効く絆創膏であった。悲嘆に暮れた日々の心を縫いつくろってくれる修繕装置だった。このジョニーは彼自身よりもはるかに大きなものであり、慰安の化身であり、プロレタリアの苦しみの穴を塞いでくれた。彼は最悪の不幸を生き抜いた人々、あらゆる格下げ被害者たちを慰めてくれた。これらのすべての人々が不幸に打ち勝つ勝利の可能性を説くこの男に自分の姿を見ようとした。彼はいつしか大きな不在者、失われた指導者、あまりに早く死んでしまった母親、傷ついた子供の代役となったのである。貧困者、のけ者、ホームレス、失業者、暴力にさらされた女、黒人、アラブ人、ロマ、一言のフランス語も解さない者の苦しみを和らげてくれた。彼の歌声はその歌詞や歌そのものをはるかに上回った。常に彼はその態よりも、彼自身よりも強いものだった。天使のような顔をした男、その彼が「俺のツラがどうしたってんだ? qu’est-ce qu’elle a ma gueule ?」と歌う時、あらゆる醜男たちはそこに自分を投影し、そのまさに真実味ある抑揚と勇ましさに自分の姿を見るのである。彼の声はまぶたの中にあらゆる悲しみの涙をせき止めるダムを建設してくれた。その堰の内側にわれわれは身を避難させていたものだが、この喪の悲しみの時に際して、私はそのダムが大量に作られたとは思えないのだ。今日、私は私の家族でない者の死のために泣いている。だが、彼は家族だったのではないのか?
(↓)死の5ヶ月前、2017年7月1日「ヴィエイユ・カナイユ・ツアー」(ジョニー・アリデイ+エディー・ミッチェル+ジャック・デュトロン)ボルドーでの映像(YouTube投稿動画)。"La musique que j'aime"(作詞ミッシェル・マロリー/作曲ジョニー・アリデイ。オリジナルシングル1973年)