ラファエル・クナール『タタウィンでくたばれ』
2025年6月現在、書店ベストセラー1位。1991年生れ当年34歳の男優(兼映画作家/脚本家/プロデューサー)のラファエル・クナールの初小説作品。初稿は7年前、出版社にことごとく拒否されたそうだが、昨今映画俳優として評価が急上昇(2024年セザール新人男優賞)して事情が変わったのだろう、初稿に大分”直し”を入れられたものの、無事フラマリオン社から出版の運びとなった。当初”ピエロ・チッチ Pierrot Tchitch"という筆名を用意していたが、出版前に変更してクナールが著者名となった。まあラファエル・クナールの名がなければこのベストセラーはあり得なかったであろう。それだけクナールは昨今の映画で世に憚るキャラクターになっているのである。
小説は一人称で書かれ、その文体はクナールの(独特のイントネーションの)話声が聞こえてきそうな不逞さが浮かび上がる。作中の注意書きでも、メディアのインタヴューでもクナールはこの小説は私小説ではなく純粋なフィクションであり、文中の話者の思想と行動を作者(クナール自身)は全く弁護するものではない、と強調している。この小説の話者は反社会妄想者(ソシオパット Sociopathe)であり、女性ばかりを標的にしたシリアル・キラーである。
タタウィン(Tataouine)はチュニジア南東部に実在する地方都市であり、主人公が2024年にフランスで起こした6件の連続殺人事件の後、”高飛び”した場所である。話者はここでその連続殺人を記録した手記を”文学”として書き上げるである。
タタウィンで話者は住処として、フランス人老婆リリアンヌが切り盛りしている(夕食付き)民宿に逗留する。この老婆と毎晩夕食を共にするのだが、話者はなぜか彼女とウマが合い、やがてその打ち解けた身の上話から、老婆が過去において一時は頂点を極めた映画プロデューサーだったことを知る。全面的な社会不適合者のはずだった話者が、老婆との触れ合いに和み、親密さの度合いを濃くしていき、老婆が毎明け方4時に目を覚まし、便所で小用するのを毎度手伝うまでに関係が密になる。この人生で初めての他者との融合的調和に幻惑したか、話者は老婆に自分は小説を書いていると告白する。そしてリリアンヌにこの作品の最初の読者になってくれないか、と。
こうして本書の25ページめからがリリアンヌによって読まれる話者の”小説手稿”というかたちで進行する。プロローグは2024年1月、ここで話者は8階建ての建物の屋根から飛び降り自殺を試みるが、踏みとどまる。この社会との折り合いの悪さは既に頂点に達していて、社会に順応する意志などこれっぽっちもなく、ましてや生きている理由など何もない。死ぬしかないのだが、話者はこの自殺未遂で「ほとんど死んだ」と自己納得し、一匹狼社会復讐アクティヴィストに変身してく。ここの箇所、自殺断念→シリアル・キラー化、という推移に私は何らの論理的整合性を読み取れないのだが、話者はそんなものに拘っているヤカラではない。朝決心したことを昼にあっけなく翻す、説明なんぞどうでもいい、という文体で書かれているのだ。かと言って野卑な”郊外語”に溢れた”町”小説というわけでもない。膨大な読書経験と学歴(化学専攻)と豊富な雑学に裏打ちされた読ませる無頼文学なのだ。映画で見られるこの男優のキャラから想像して読み始めるとかなり面食らう。
卑劣にも自殺を断念した男はその代償を他人を殺すことによって埋め合わせる。勝手なリクツだが、凶悪犯罪者のリクツなどこんなものだろう。予め社会から拒否され、自らもそれを拒否した男による社会への復讐は、男から可視できる社会の最上部から最下部まで(つまり男から手の届く”全社会”)の女たちを一人一人惨殺することだった。6階層の女たちが選ばれ、小説はそこから6章に分かれて殺人劇が展開される。
Acte I : L'aristocrate (貴族夫人)小説は殺人鬼が惨たらしく標的を殺害するという描写がメインなのではない。話者がこの女と決めた標的にどのように巧みに接近していくか、接近し、信頼を勝ち得、打ち解け、その私生活の細部まで打ち明けられるほど親密な関係を構築できるのか、これが非常に面白いのである。最上流、上流、中流、下層、最下層という標的の社会環境でそのアプローチプロセスはそれぞれ全く異なり、話者は入念な観察と分析をもってターゲットをものにする。それぞれの社会階層の人間模様も鮮やかに見えてくる。ちょっとバルザック的。これがこの小説を”文学”たらしめているのだと思う。
Acte II : L'ingénieure (女技師)
Acte III : La femme de footballeur (フットボール選手の妻)
Acte IV : La jeune active (若い活動的な女)
Acte V : La caissière (レジ係の女)
Acte VI : La SDF (ホームレスの女)
第1章「貴族夫人」は高級住宅地区パリ16区の聖テレーズ礼拝堂の中で標的が定められる。ローマ・カトリック系の由緒ある教会で、著名な慈善活動(恵まれない子女たちの更生援助団体)の本部でもあり、富裕で敬虔な信者たちが毎度のミサに集う。話者はこの神妙な空間を嫌っておらず、批評的な聞き方であるが司祭の説教も有り難く拝聴する。話者の一列後ろの礼拝席でミサに一人で参列している身なりも身のこなしも貴婦人そのものの中年女性を観察し、接近する。最も重要な働きをするのが言語(Langage ランガージュ、言葉づかい)である。グルノーブル郊外出身の社会経験の乏しい(予め社会に拒否され、自らも社会を拒否した)話者が、なぜこのような実生活での接点のない階級(上層も下層も)の人種と臆することなく接触できるのか、それは膨大な量の読書によって獲得した数々のランガージュのおかげだ、と話者は説明している。口が上手いのではない。その階層の人間たちと話せるランガージュを持っているということなのだ。ミサが終わり礼拝堂出口へ向かう参列者たちの歩みの渋滞に乗じて、男は貴婦人に話しかけ始める。今日の司祭の話のことから始まり、ミサの常連でもないのに聖テレーズ礼拝堂の界隈の話題に移り、15区に住んでいるがこの礼拝堂近くのフランソワ・ミレー通りに仮住まいを買ったばかりですよ、と。「まあ偶然ですね、私たちは言わばご近所同士ね」と貴婦人が親近感を示し始める。この住まいや生活の場の近さを知ることは警戒心をかなり取り除くものらしい。こうして男は善良な中年貴婦人の防御を解き、名をマルトという男爵位の貴婦人が未亡人であり、代々受け継いでいるブルゴーニュ地方の城主であり、パリとブルゴーニュの半々の生活をしていることを知る。城の維持費が嵩張りすぎて、家計は苦しい、とやんごとなき婦人の苦言を話者は理解する。格好の話し相手と出会った男爵夫人は、今朝お隣さんからいただいたプラムのタルトがあるので、一緒に召し上がりませんか、と16区オトゥイユ街の超豪華アパルトマンに男を招待する...。(そこが話者の第一殺人事件の犯行現場となる)
貴婦人には20数年前にガンで死んだ夫=男爵との間にオルタンスというひとり娘がいるが、この娘が小説の最終部(タタウィンでの後日談=エピローグ)に登場する。
第二の事件は、若い(と言っても40代か)エリート富裕層の女性で、ひところ”ヤッピー”と呼ばれたアーバン社会階層と言っていいのかな。一流メーカーの上級エンジニアであるエレーヌは国立病院のがん研究医師の夫フランクとの間にひとり娘のマルゴがいて、リセの理系セクション最終課程にあり進学試験準備中。特に化学が弱いというので家庭教師として(スーパー等に張り紙広告を出していた)話者が起用される。エンジニアであるからその”理系”方面の知識は大変なものなのだが、それを納得させられるだけのハッタリ知識を話者(学歴詐称しているが実際は大学中退)が持っていて、まんまとこの富裕家庭の中に入り込むことができた。娘マルゴとの師娣関係はすこぶる良好で、母エレーヌは家庭教師に全幅の信頼を。”進歩的”女性を自認するこの母は往年の”ニューエイジ”系の厳格なヴィーガンであり、唯一の飲料がアーモンドミルクであり、いつも冷蔵庫の中にある。そしてこの家は彼女の”進歩的”ネットワークを通じて、アメリカからオペア学生を迎えている。1年の予定で迎えられたカトリンという名のジョージア州出身の娘は、仏語学習という名目でやってきたが、実際はパリの無秩序な自由を謳歌するのが主目的で、家へのドラッグの持ち込みなどでエレーヌと衝突することが多い。話者はこのカトリンとエレーヌの反目関係を利用しない手はない、と直観する。家庭に受け入れられ全幅の信頼を得ている家庭教師は、ある日、冷蔵庫の中のアーモンドミルクの瓶の中に青酸カリを混入する。事件が発覚すると、嫌疑は家庭と諍いの絶えなかったアメリカ人学生に集中する...。
このようにひとつひとつのエピソードが巧妙なシリアルキラーの邪悪な画策がまんまと成功する悪漢小説ストーリーなのである。同時にそれぞれの社会階層に特徴的な人間模様が鮮やかに描かれているのである。軽妙な文体にも関わらず鋭い観察眼が発揮されている。上手い。
こうやって全部の章を紹介していくと大変な行数になるので、もう一つだけでとどめておくが、第3章の「フットボール選手の妻」は前章のエレーヌというブルジョワ家に生まれたブルジョワと異なり、本来ならばそのポジションにいるはずのない”成り上がり”富豪層の話である。話者はレセプションのホスト・ホステス派遣エージェントに臨時職契約で就職、各種イベントでホストとしてゲストのお世話・接待を。ある夜、フランス最強のプロサッカーチームPSGの試合後レセプションで、スター選手ネストール・ゴンザーグと波長が合ってしまい、気に入られ、次回からのイベントにゴンザーグから指名が入るようになる。話者がこの社会階層・身分・階級を容易く越境でき、その関係に溶け込めるのは話術や所作というテクニック上のことではなく、自然体として人に不安を抱かせることのない”好人物”っぽさが効いているのだろう。まるで幼なじみのダチが会話するようにネストールとの関係は親密化し、ブージヴァルにあるスター選手の豪邸でのホームパーティーにも”招待客”として参加を許される。前庭に並ぶベントレー、ランボルギーニ、ポルシェ、フェラーリを横目に、話者は公営貸自転車ヴェリブで豪邸にやってくる。仏サッカー界のVIPが集ったこのガーデンパーティーは音楽とシャンパーニュと山海珍味でいよいよ盛り上がっていくのだが、夜半にネストールと美貌の妻シンディーの間に始まってしまい、激怒したシンディーは邸宅の中に引き込んでしまう。宴は何事もなかったように続くのだが、話者はシンディーを探して人気のない館の中に入る。三階建て(日本式に数えると四階建て)のてっぺん、屋上バルコニーにシンディーがいて涙に暮れている。南仏ヴィルヌーヴ・ルーベの貧しい家庭出身のシンディーは、専門学校の研修で(スキーリゾート地)ムジェーヴのホテルで働いていたが、従業員特権で利用していたサウナルームに、既に大スター選手だったネストールが入ってきて、双方一目惚れ、電撃的な恋に落ちた。あれよあれよという間に婚約、結婚、超派手で豪奢で虚飾に満ちた世界に。シンデレラガール。ふんだんに金はあるのに、スターの妻として自由が制限される身に。このストレスをスター選手は理解できない。こんな打ち明け話を話者は神妙に聞いてやるのである。そしてそれを解放するかのように、シンディーを三階屋上(日本式には四階屋上)から突き落とすのである....。(パーティーの喧騒で誰もこのことに気がつかず、事件は”自殺”として処理される....)
B級映画、B級ロマン・ノワール、悪漢小説の類のリファレンスをふんだんに取り入れたオムニバス殺人日記は”読ませる”魅力に溢れている。話者の人物像は、100%殺人衝動に憑かれたサイコパスとしては描かれず、黒いユーモアもある微妙な”揺れ”(生粋の人間嫌い変質者が見せてしまう殺人対象への感情移入)が、これを”文学”たらしめているのだと思う。この本がベストセラーになるのは、”一癖も二癖もある”ものに出会った時のニヤニヤ笑いをみんな経験したのだろう。道徳性を問われると身も蓋もない作品ではあるが、それが”文学”の領域さ、と作者と共に哄笑しようではないか。
Raphaël Qunard "Clamser à Tataouine"
Flammarion刊 2025年5月14日 190ページ 22ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)5月8日、国営ラジオFrance Interの朝番でソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えるラファエル・クナール。
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