2022年10月30日日曜日

世の中は三日見ぬ間の桜かな

 

Muriel Barbery "Une rose seule"
ミュリエル・バルブリー『ただ一輪の薔薇』

ミュリエル・バルブリーの”京都小説”。当ブログ2022年9月に紹介した最新刊『狂ほしの時(Une heure de ferveur)』の2年前2020年8月に発表されたもの。その最新刊の方が、京都の富豪美術商ハル・ウエノの一生を描いたものであり、フランス人女性モードとの間に出来た娘ローズ(生まれも育ちのフランス)を40年間(秘密に雇ったカメラマン/諜報マンを通じて)娘に知られることなく京都から見守っていたが、死期に娘に遺産相続する意思の遺言状を残す。この前作の『ただ一輪の薔薇』は、時間軸的には逆で、娘ローズがその存在すら知らなかった父親ハルの遺志を確かめるために、初めて日本にやってきて京都に滞在する物語である。私は先に『狂ほしの時』を読んでいたので、すんなり小説の中に入れたが、逆の順序で読むとどうなんだろうか。順序がごっちゃなスター・ウォーズ連作のように脈絡はあとでわかるからいいのかな。
 主人公はアラフォー、独身、子なしの気難しいフランス女性ローズであり、日本の国際法律事務所(原文は"notaire = 公証人”となっているが、その職業は日本にはないから国際弁護士事務所か法律事務所と解釈されたし)から一度も会ったことのない(実はパリで一度会っていることが『狂ほしの時』でわかる)父親ハル・ウエノの遺産相続の件で呼び出され、(費用先方負担で)来日する。このことには憤懣があり、40年も自分を放っておきながら、その故人に今さら”父親”と名乗られることには全く納得のいかないものがある。迎えるのは、ハルの後継者であるベルギー人のポール。20歳そこそこで日本にやってきて、その堪能な日本語と日本文化知識を買われ京都の大物美術商ハル・ウエノに弟子入り、厳しい修行の甲斐あってハルの右腕にまで成長し、年齢は違えどハルとは私的にも深い友情で結ばれるようになった。生前のハルの第一の親友だった陶芸家のケイスケ・シバタですらローズの存在は知らされていなかったが、ポールには打ち明けていた(この辺の事情は『狂ほしの時』に書かれている)。ハルはその遺言でローズに財産を相続させることだけでなく、ローズにそれを受諾させることが難しいことを予め知っていて、そのための手筈/シナリオを立ててその実行をポールに託したのだった。それは7日間の時間をかけて、ローズに京都の東西南北にあるハルに縁りのある寺、旧跡、墓地、料理屋などを訪問させるということだった。

 ローズが京都で宿泊する鴨川沿いにあるハルの邸宅には、長年ハルに雇われハル邸の家事全般と会計帳簿を担当しているサヨコという年配の女性がいる。ぶっきらぼうで言葉少ないが、ハルから全幅の信頼を預かった重要人物であり、『狂ほしの時』では予言めいたことも口にし、ケイスケはこの女性を”キツネ”の化身と思っている。毎朝花を生け、その花に合わせた花模様の着物を身につける。ローズの職業は植物学者(ボタニスト)であり、この生花や京都の庭園の植物に敏感に反応している。小説は12章に分かれていて、各章にプロローグとして中国や日本の植物にまつわる故事(牡丹、なでしこ、つつじ、あやめ...)が紹介され、物語は花・植物と混ざり合って進行する。
 サヨコは片言の英語でローズにその日の予定やポールからの伝言を伝える。ハル邸のお抱え運転手のカントともコミュニケーションは片言英語である。この言葉少ない日本人にも打ち解けず、ローズはこの意思に反しての日本滞在への苦々しさと怒りはなかなか消えない。ましてや滞在最初は言われるがまま、されるがままで、日本円も携帯電話も持たされず、スケジュールをこなすだけの囚われ人であった。1日目、運転手は銀閣寺にローズを連れていく。何の説明もなく、わけもわからず、であるが、固く閉ざされていたローズの感受性は少しずつ刺激されていく。それは未体験者/予備知識ゼロ者の”京都発見”におおいに関わっているのだが、さまざまな名勝を描写するミュリエル・バルブリーの筆力の見事さに惹き込まれるフランス人読者も多かろうと思う。もちろん最初ローズはまったく心動かされるものがなかったのに、徐々に徐々に...。
 初日の銀閣寺で、ひとりの英国人女性ベス・スコットと遭遇する。後日この女性が生前のハルと関係の深い人物(一時は愛人でもあった)と知るのであるが、古くから京都に住んで京都を愛していると一面的に理解したのか、ローズはこの女性の言うことにいちいち引っかかる。初対面でのこのやりとりは非常に興味深い。

ー 日本は人々が非常に苦難の数々に晒されている国だけど、人々はそれに頓着していない。その不幸への無関心の報酬としてこれらの多くの庭園をいただき、そこに神様たちが降りてきてお茶を飲むのよ。
ー そうとは思わないわ。苦難を報酬するものなど何もないわ。
ー ほんとうにそう思う? (とイギリス人女性は尋ねた)
ー (ローズは言った)傷ついた人生、それを待つことなど何の得にもならないことよ。
イギリス人女性は顔をそむけ、銀閣を凝視することに没頭していった。
ー もしも苦しむことに心の準備ができていないということは、生きることの準備もできていないのよ。(p19)


日本は多くの苦しみに苛まれているが、人々は耐え忍び、それを鎮めるモニュメントがいたるところにあり、神様たちとたたずむ場所がある ー このテーマは本書でも何度か繰り返される。自然災害や大地震など、日本のそれは(恵まれたフランスのようなところにいる)西欧人の目から見れば大変なものだと思う。日本で生きることは苦しむことだが、それと共生するための”美”がある。
 第一日めの午後、美術商ハルの後継者のベルギー人ポールと初対面。お互いに第一印象は良くない。ポールは故ハル・ウエノの遺志だけでなく、ローズの全く知らないハルの人となりについて少しずつ話し始めるのだが、40年間父から放棄されていたと思い込んでいるローズの憤りと京都という異郷にいる居心地の悪さは容易に消えはしない。『狂ほしの時』でも同様だが、この小説でも酒と料理はふんだんに登場する。酒豪であったが酩酊することが一度もなかったハルのDNAか、ローズはよく呑む。料理屋でポールが「ビールか酒か?」と聞くと「両方」と答えるローズ。だがこの酒がローズとポールの険悪な会話を柔和にするというわけではない。
 『狂ほしの時』はハルの生涯という長い年月のタームで展開するが、雪のシーンが多く登場する。雪降る京都がいつも背景にあるような。それに対してこの『ただ一輪の薔薇』は、展開される時間が一週間ほどで、梅雨(mousson)の時期で、雨降る京都である。透明ビニール傘が欠かせない。
 ハルが望んだローズの京都めぐりの2日目は詩仙堂へ。つつじ。バルブリーの描写が素晴らしい。その日、ローズはポールに導かれてハル邸の奥にある隠された書斎の壁一面に貼られた40年分のローズの隠し撮り写真と対面し、衝撃と激しい怒りでその場に膝を折って沈んでいく。「ハルは一日とてあなたのことを思わなかったことはない」とポールは慰めるのだが...。
 大徳寺高桐院)、真如堂、くろ谷墓地(ハルの墓だけでなく、ポールの妻クララ、ケイスケ・シバタの妻と子供の墓もある)、南禅寺(やっぱり昼食に豆腐を食べることになる)、龍安寺(観光客で混み合う時間を避けて、朝早く訪問。この石庭をローズは「巨大な猫の砂場のようだ」と喩える)、そして嵐山西芳寺(苔寺)...。私は(50数年前の高校修学旅行を除いて)全くの京都知らずなので、このバルブリー描くイマジナティヴなローズの京都名勝めぐりにうっとりしてしまった。なぜ人々はこの庭園に来て心を鎮めるのか、なぜハルは京都を愛したのか。この環境の中で、ポールはローズにハルの人物像、そしてハルと共に歩んだ人々(陶芸家ケイスケ、ポール、ベス・スコット、サヨコ、カント...)のこと、そしてポールがハルから聞き知っている限りのモード(ローズの母)とローズの祖母ポール(Paule)のことを語っていく。父親ハルに固く心を閉ざしていたローズが、一日一日と雪解けていく。
 ハルと何十年と寄り添って生きたサヨコは、ローズの印象を "volcano ice lady”と言った。火山と氷を合わせ持った女。それはハルの目と同じだ、と。火と氷の目。そしてベス・スコットは二、三度ローズと茶屋で茶を汲み交わしただけで、ポールとローズが似たもの同士であると見抜いた。そして、ローズは最初の敵愾心から打って変わって、数日後にはポールに強く惹かれるようになる。この豹変をその目で見たベスが、ポールに”日本語で”こう言うのである。

世の中は三日見ぬ間の桜かな (p144)
ふだんはフランス語で会話する英国人女性とベルギー人男性が、その場にいる(日本語の全くわからない)フランス人女性の頭ごなしに日本語で「世の中は三日見ぬ間の桜かな」と、日本の風流人のように決め台詞を放つ。チョーンっと拍子木を合わせたいようなシーン。笑っちゃいますよね。だがこの諺はハルのローズへの遺言の最初のフレーズであることも、小説の終わりの方でわかる。

 小説のタイトルとなっている「ただ一輪の薔薇 Une rose seule」は、ライナー・マリア・リルケの詩からの引用である。
ただ一輪の薔薇、それはすべての薔薇、
そしてまたひとつの薔薇(高安国世 訳)
これはケイスケ・シバタとハル・ウエノが愛した詩だった。たった一輪の薔薇が、これまで咲いたすべての薔薇を内包するという、ひとつがすべてというヴィジョン。お分かりかな、お立ち会い? この小説はこのようななんとなく「なるほど」なんとなく「納得」という無説明の禅問答のような故事やダイアローグが多く登場する。そこにいるとなんとなく「ありがたく」なんとなく心の平静を得られるような京都の庭園空間のようなものか。私は『狂ほしの時』のレヴューの最後に「狐につままれる」という表現を使ったのだが、ミュリエル・バルブリーの京都は狐も神様も姿を見え隠れさせる世界である。ただ一輪の薔薇であったローズは、京都ですべての薔薇であることを悟る、という謂と解釈してもいいのではないか。
 ハルがローズに遺した手紙(ポールがフランス語訳している)を最後に読む、という大詰めがある。どれほどハルがローズを想っていたことか。その手紙の自筆原文(日本語)の最後にハル・ウエノは正真正銘を証明する印璽を押印してあったが、その印璽に彫られていたのは漢字二文字の「薔薇」であった、という話なんだが、これはくどいし、しつこい。巨万の富を築いた美術商の印璽が...。

 日本文化と京都にたいへん造詣の深いミュリエル・バルブリーの労作である。次作の『狂ほしの時』と同じように、日本/京都の描写表現のディテールについては重箱のスミをつつきたくなる部分がままある。しかしそれはそれ。一生暗く情緒が傷ついていた母親モードに大きな愛情を注がれず、ましてや父親には全く接点がなく、気難しく40年生きてきたローズが、一週間の京都滞在で自分が誰か、自分の居場所はどこかを見出してしまう物語。日本と中国の故事、生花、茶、京都の名勝、料理屋、梅雨... などがローズの心にどう影響していくのか、決してわかりやすいわけではない。それでも読者はなんとなく「納得」するように読めてしまうのでしょう。

Muriel Barbery "Une rose seule"
Actes Sud Babel文庫刊 2022年5月 160ページ 6,70ユーロ (単行本刊 2020年8月)

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アクト・シュッド社のプロモーションヴィデオで『ただ一輪の薔薇』を紹介するミュリエル・バルブリー


2022年10月26日水曜日

エリザ、エリザ、僕の首に飛びついて

2022年10月3日、セルジュ・ゲンズブールの最初の妻だったエリザベート・レヴィツキーがブルターニュ地方の老人施設でひそかに亡くなった。96歳だった。訃報の公けの発表は死後三週間後になされ、われわれが報道で知ったのは10月24日のことだった。職業は画家と記されている。将来画家になるはずだった若い二人が出会った時、エリザベート(愛称リーズ)は21歳、リュシアン・ギンズブルグ(のちのセルジュ・ゲンズブール)は19歳だった。二人が一緒だった10年間の日々のあと、リュシアンは画家にならずに音楽家「セルジュ・ゲンズブール」になり、二人は離婚する。
 1991年に62歳で亡くなったゲンズブール、その19年後の2010年にリーズ・レヴィツキーはリュシアンとの"40年”の関係を暴露する告白手記本『リーズとリュリュ』を発表し、それまで幾冊も刊行されたゲンズブール評伝本に書かれなかった多くの”裏事情”を白日の元に晒した。この本の発刊に文字通り飛びついて、私はラティーナ誌2010年6月号に4ページ記事を書いた。あちら側でゲンズブールと再会しているであろうエリザベート・レヴィツキーの冥福を祈って、その記事を以下に再録します。

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★


この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2010年6月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。
 
「ゲンズブールが自作画すべてを焼いて捨てたというのは作り話」(リーズ・レヴィツキー)

(In ラティーナ誌2010年6月号)

ルジュ・ゲンズブール(1928 - 1991)の生涯についてはたくさんの評伝本が書かれ、その表側はよく知られている。数ある伝記本の中で、正史本であるとされているのがジル・ヴェルラン(1957 - 2013)著『ゲンズブール』(2000年アルバン・ミッシェル社刊)という750ページの大著である。2010年1月に公開されたジョアン・スファール監督映画『ゲンズブール(その英雄的生涯)』も、多くの資料根拠をこのヴェルラン本に拠っている。ゲンズブールの晩年の証言をもとに、ほとんどゲンズブール/ヴェルランの二人三脚で書かれたとされるこの本の穴は、本人の記憶を尊重するがゆえに、本人が忘れ去りたいことは軽んじられる、あるいは無視される、ということである。そして多少本人の意思で書き換えられた過去もある。それはヴェルラン本の偉業をいささかも傷つけるものではない。この中心的な正史本があるからこそ、数々の外伝本が補って多面体的でしかもその各面が相反して逆説的なゲンズブール像が鮮明になっていくのである。
 その外伝本のひとつにベルトラン・ディカル(フィガロ紙のシャンソン/大衆音楽担当のジャーナリスト)著『ゲンズブール入門10課(Gainsbourg en dix leçons)』(2009年ファイヤール社刊)がある。その人と作品を「遅延する」「失望する」「挫折する」「売却する」「衝突する」「忍耐する」「勝利する」「持続する」「浪費する」「死ぬ」という10の動詞を章テーマにして解説した評伝である。この本の執筆のためにディカルはゲンズブールの最初の妻エリザベート・レヴィツキーと接触し、インタヴューを重ねていくうちに、その数々の証言のあまりにも偶像破壊的な裏事実に驚愕し、こうして独立した一冊の手記本として発表することを思い立ったのである。
 ジョアン・スファール映画の中で、画学生リュシアン・ギンズブルグがモンマルトルのデッサン教室で出会った2歳年上の女画学生がエリザベートで、彼女はどういうわけかサルバドール・ダリのパリのアパルトマンの鍵を持っていて、ダリ不在中に二人がダリの寝室で愛し合うというシーンがある。リュシアンが喰うや喰わずのボエームの生活をしていた頃である。
 750ページあるヴェルラン本では、エリザベート・レヴィツキーは81ページめ、1947年にリュシアンと出会うところから登場し、その42ページ後の123ページめ、1957年にリュシアンと離婚する、というところで姿を消している。彼女がゲンズブールと関わった時期はわずか42ページの時間という勘定だ。二人が出会った時エリザベートは21歳、リュシアンは19歳。この10年間の二人の関係をヴェルラン本は詳しく触れない。しかしこの10年間にリュシアンに何が起こったのか(絵画の道を捨ててシャンソン作家になる、リュシアン・ギンズブルグからセルジュ・ゲンズブールになる)を考えると、この10年を共に生きたエリザベートという女性がゲンズブール史において重要な鍵を握った人物でないわけがないのだ。それまであたかも若気の過ちのように言われていたゲンズブールの最初の結婚、それとその後の、二人の子供をもうけながら、養育費も払わず、ゲンズブール史のタブーのように扱われているフランソワーズ=アントワネット・パンクラッジ(別名ベアトリス)との二度目の結婚、この二つがゲンズブール伝の暗部で、生前ゲンズブールが多くを語ろうとしなかった過去である。
 
 リーズ(エリザベート)・レヴィツキー(+ベルトラン・ディカル)著『リーズとリュリュ』(2010年4月ファースト・ドキュメント社刊)は、1991年3月にゲンズブールが他界してから19年の月日が経ったところで、最初の妻が沈黙を破って発表した手記本である。リュシアンは彼女をリーズと呼び、リーズは彼をリュリュと呼んだ。彼女は「セルジュ」という名を忌み嫌っている。この芸名はリーズに対する嫌がらせとして付けられた、と彼女は確信している。
 その名を選んだ理由として「セルジュというのはロシア人ぽいだろう?」とだけリュシアンは言った。
 リュシアンもリーズもロシア・ボルシェヴィキ革命(1917年)を逃れてフランスに流れ着いたロシア人家族の子であるが、バックグラウンドは全く異なる。ギンズブルグ家はユダヤ人であったがゆえに、レヴィツキー家は貴族であったがゆえに、それぞれソヴィエトを恐れて亡命した。『リーズとリュリュ』の前半3分の1を占めるリーズ・レヴィツキーの生い立ちも凄絶なものだ。暴力をふるう父親と男癖の悪い母親。フランスに移住してもロシア大貴族の家系であったその一族郎党はみな一様に共産主義者とユダヤ人を忌み嫌い、第二次大戦中にリーズの父親は自ら志願してナチス親衛隊入りし、ポーランドでロシア語通訳として従軍中に行方不明になった。父はナチスがロシアを共産主義者の手から奪い返し、自分たち貴族の領地を取り返すことができると信じたのだ。その自らナチスとなって姿を消した父親の名はセルジュ。
 気位だけが高い旧貴族の環境に耐えられず、リーズは成人(21歳)と共に家を飛び出し、パリで念願の絵の勉強を始める。
 ギンズブルグ家では父親ジョゼフの頑なな芸術観が少年リュシアンに重くのしかかる。画家を目指す息子に、ジョゼフはそれが「メジャー芸術」であることを絶対の条件とし、そのメジャー芸術家となる滑り止めとして建築を並行して学ぶことを条件に画学校に入学することを許す。ゲンズブールにとってメジャー/マイナー芸術という定義は一生つきまとった問題であったが、絵画、彫刻、建築、クラシック音楽などが時代を越えて生き続ける"大(メジャー)芸術”であり、シャンソンやジャズといった大衆音楽や映画や通俗文学などは一時のメシの種でしかない”小(マイナー)芸術”と見做された。
(←自作の絵を前にしたリュシアン・ギンズブルグ)
 モンマルトルの画学校でリュシアンと出会ったリーズは、この内気ながらも高慢な青年に絵画の天才を直感している。自ら画家を目指していたリーズは、リュシアンという人物よりもその天才を愛していたきらいがある。彼女はリュシアンが世界的な画家として20世紀芸術に名を残すはずだと確信する。二人は愛し合い、絵画や文学を語り合い、リュシアンのためにリーズは裸婦モデルとなり、毎日曜日にはルーヴル美術館(当時は日曜日入場無料)に通った。まるでシャルル・アズナヴールのシャンソン「ラ・ボエーム」のように、若いアーチストの卵の二人は喰うや喰わずの生活を送っていた。リュシアンは喰うためにバーでギターとピアノを弾き、リーズは下着メーカーのモデルや画商の秘書をしていた。
 その生い立ちから旧貴族の封建性に反逆したリーズは、一族郎党が仇敵としていた共産党に入党し、シモーヌ・ド・ボーヴォワールを手本とする自由恋愛を標榜し、リュシアンの他にも愛人を持っていた。ダリなどシュールレアリスムと交流を持ち、現代絵画に大きく影響され画風が抽象的だったリーズに対して、リュシアンの天才は古典的で具象的な画風で花開くはずだった。リーズは一枚でも多くリュシアンに絵を描いてほしいと願うのだが、リュシアンはなかなか絵筆を持とうとしない。
 1948年リュシアンは兵役に取られ、その期間に彼は一生つきまとうことになるアルコール中毒に陥る。その兵舎の中で、のちにゲンズブール代表曲のひとつとなる「エリザ」の原曲を作った。
エリザ、エリザ、
エリザ、僕の首に飛びついておくれ
エリザ、エリザ、
僕の髪の毛のジャングルの中から
きみの繊細な指と爪で
ノミを探し出しておくれ、エリザ

兵舎に慰問に行ったリーズは、上官の監視つきの面会室で、幾多の面会人と新兵によって座られたであろう長椅子に座って面会し、その長椅子からシラミをうつされたと言う。ノミやシラミが恋の歌に登場する時代だったのだろう。エリザ(ベート)を歌ったこの歌は、のちに「きみは20歳、僕は40歳」という歌詞が加えられ、ジェーン・バーキンに捧げられることになる。
(ゲンズブールのシングル盤「エリザ」1969年→)
 「作詞作曲をするのは、これで小銭を稼いで絵の具と絵筆を買うためさ」とリュシアンはリーズに言っていた。リーズはそれを信じていたが、小銭が入っても彼は一向に絵を描こうとしない。ピアニスト稼業、アルコール、作詞作曲、この3つが彼の主な日課になっていく。
 1951年、結婚はリュシアンの側からの頼みだった。ボーヴォワール流の自由恋愛を信条としていたリーズは反対だったが、強引な「結婚するか別れるか」の脅しに負けて、リーズは黒衣で結婚セレモニーに出席している。この婚姻関係は1957年まで6年間続く。
 その間にリュシアンはいよいよ大衆音楽の世界に吸い寄せられ、ヴァカンス期には北部フランスの海浜保養地トゥーケで専属ピアニストとなり、パリではピガール地区の女装キャバレー「マダム・アルチュール」に父ジョゼフの後任としてピアニスト兼楽団指揮者、次いで右岸のシャンソン・キャバレー「ミロール・ラルスイユ」(その看板スターはミッシェル・アルノー)に伴奏者として契約。シャンソンの世界の深みにはまっていく過程でかのボリズ・ヴィアン(1920 - 1959)との邂逅が、リュシアンのシャンソン作家としての方向性を決定したと言われる。そしてリーズの切なる願いも叶わず、リュシアンは全く絵を描かないようになる。

 伝説はここで、マイナー芸術(シャンソン)かメジャー芸術(絵画)かの選択を悩み抜いた末に、リュシアンがそれまで描いた絵をすべて燃やしてしまう、という劇的な事件があったとしている。ところがリーズの証言は違う。燃やすほどの数の絵をリュシアンは描いていない、と言うのである。リュシアンの絵画との決別は、現代絵画に自分の場所はないと悟ったからである。
 1958年6月5日、パリ4区サン・ルイ島のリーズの友人である画商宅の豪華アパルトマンに、正装したパリ中のアート関係者と世界の画商とコレクターを集めて、”青の単色画家”イヴ・クライン(1928 - 1962)が作品の実演創作を行う。床一面に敷かれたキャンバスに、バケツ2つ分のクライン・ブルーの塗料がまかれ、ヌードモデルを絵筆にみたてたクラインがその裸体をかかえて、塗料の上を何度も何度も動かしていく。パフォーマンスが終わり、一瞬、唖然とした沈黙が流れたのち、「ブラボー!」の大喝采が場内に響く。そしてその場で作品は競りにかけられ、値段はどんどん上がっていく。リーズに誘われてその場に来ていたリュシアンは激怒し、このスキャンダルを大声で呪い、その激昂のあまり呼吸困難に陥り、その場に倒れてしまう。
 リーズはこの晩にリュシアンは絵画と決別したのだ、と言う。翌日彼はリーズに「もしもあれがモダンアートだと言うのなら、俺には何も見るべきものがない」と語っている。
 若きリュシアンに絵画の天才を見、それを大成させたいと、喰うや喰わずの苦労を分かちあってきたリーズは、シャンソンばかりで絵を描かなくなったリュシアンに、半分は懲らしめの意味、半分は刺激を与える意味で、この機会を持った結果、そのショックは画家リュシアンに鉄槌を下すことになった。
 リーズはここで自分とリュシアンの生活はメジャー芸術に挫折することで失敗に終わったのだと述懐する。その後悔、その悔恨はゲンズブールに一生ついてまわるのである。
 
 これで二人の関係は終わるはずだった。少なくともジル・ヴェルランの正史本では最初の妻エリザベート・レヴィツキーはここから以後姿を消している。ところが離婚の届け出を済ませたその夜、二人はお互いの自由を取り戻したことを祝って、シャンパーニュを数本買ってホテルで愛し合うのである。酔った勢いでリュシアンは酒瓶を割り、「血の婚姻」の儀式をしよう、と言う。それはジタン(ロマ)に伝わる風習で、夫婦間でするものではなく、二人の大人がお互いの血を混ぜて、生きるも死ぬも一緒と誓い合うことだという。二人は割った酒瓶のガラス破片で、右手の掌を十字に切りつけ血を流させ、その二つの手を重ね合わせて血を混ぜ合わせた。そしてリュシアンは誓いの言葉を唱えた「われら二人は血を混ぜ合わせた。よってわれら二人はこれより生きるも死ぬも一心同体である」。

 1947年の出会いから1957年の離婚までで消えていたはずのリーズ・レヴィツキーは、その後も頻度は一定ではないが(週に一度、月に一度、3ヶ月に一度...)ゲンズブールと逢瀬を重ね、その関係は40年を越すのである。リーズはゲンズブールを呼び出すことは一度もない。ゲンズブールがリーズを呼び出すのである。しかもいつも同じ口調の電話で。
C'est moi. Viens tout de suite.
俺だ、すぐに来い。

この声を聞くと、リーズはすぐにタクシーを飛ばして彼のもとに行くしかない。それが緊急のSOS発信であることを知っているから。
 往々にしてそれは目下意中の女性との関係で傷ついたり悩んでいるケースが多く、リーズはそれを精神分析医のように聞いてやり、助言を与え、自らの肉体で慰めもする。フランソワーズ=アントワネット・パンクラッジ、ブリジット・バルドー、ジェーン・バーキン、バンブーその他、彼を幸福にも不幸にもした女たちへの愚痴をリーズはすべて聞いている。「俺だ、すぐに来い」は生涯続くのである。かの血の婚姻の儀式で盟約したように。

 1991年3月2日土曜日、午前10時に電話が鳴る。こんな時刻にリュリュは電話してきたことがない。そしていつもの「すぐに来い」のセリフがない。彼はその三日後のリーズの誕生日に何が欲しい、と尋ねる。そして初めて二人は電話で長い時間雑談をするのである。ひとしきりの雑談が終わると、彼は突然口調を変え、怒りの声になる。「俺は死にたくない。俺はもう死んだようなもんだ、わかるかい? 俺はもう勃起しないんだ、もうセックスもできないんだ、こうなったらバンブーもずらかってしまうんだ!」・・・・・・ その数時間後、パリ7区ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸で、ひとりひっそりとリュリュは息を引き取るのである。

 この手記本の帯には「ゲンズブールとの40年の恋」とある。ベルトラン・ディカルはリーズの元原稿で書かれていたことを大部分尊重したと言うが、あまりにも暴露的なところは抑えるようにしたとも証言している。それでも、リュシアンがキャバレーの楽団員たちに集団強姦されるシーンや、彼がその女主人と懇意になって通うようになったパリ16区の娼婦館で、娼婦を買うだけではなく、自分の肉体も売っていたことなど、驚くべき裏事実も証言されている。
 この本のプロモーションでテレビ出演したリーズ・レヴィツキーに、これだけの真実をゲンズブールと分かち合ったあなたこそ、ゲンズブールの「ファム・ド・ラ・ヴィー(Femme de la vie、生涯の女性)」だったのですね、とインタヴュアーが問うと、きっぱりと否定して「ゲンズブールに”生涯の女性”は二人います。それは彼の母と娘のシャルロットです」と断言した。傷ついた掌を重ねて血を混ぜ合わせたリュリュとリーズよりも、ゲンズブールは血でつながった母と娘を愛していた、ということか。
 手記『リーズとリュリュ』は愛情あふれる回想録とはほど遠い。むしろ苦々しさが随所に見てとれる。その通奏低音はゲンズブールとリーズ・レヴィツキーが一生分かち合ってきたものが、メジャー芸術への悔恨であった、ということである。84歳のリーズはこのデーモンのような悔恨を死ぬ前に祓いたかったのかもしれない。

(ラティーナ誌2010年6月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)2010年5月、TVフランス5の番組"Café Picouly"(ホスト:ダニエル・ピクーリ)に出演したリーズ・レヴィツキー


2022年10月19日水曜日

いにしえの(女流)浪漫詩のシンセポップ化

Ezéchiel Pailhès "Mélopée"
エゼキエル・パイレス『調べ(メロペ)』

初めて聴いたアーチストだが、2013年からすでに3枚のソロアルバム(+ダニエル・ラフォールと共作のブルーノ・ポダリデス監督映画"Bancs Publics"のサントラアルバム)を出していて、その前は2001年からエレクトロ・ポップ・デュオ Nôze (アルバム5枚)として活動していた人。現在年齢46歳。コンセルヴァトワールでクラシック・ピアノ次いでジャズ・ピアノを学び、ジャズマンとなるはずだったが... (エレクトロに転向)。
 2020年の3枚めのアルバム"Oh!”の中で、19世紀の浪漫主義詩人マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(Marceline Desbordes-Valmore 1786 - 1859)の3篇の詩に曲をつけてエレポップ仕上げの歌にしている。古典詩にインスパイアされる傾向があるようだが、20世紀のシャンソンの巨星たち(トレネ、フェレ、ブラッサンス、ムスタキ等)がランボー、ヴェルレーヌ、ボードレールなどに曲をつけて歌ったのとは、やや趣きが異なるようだ。
 2022年のこの新作『メロペ』は1曲のインストルメンタルを含む11曲入りだが、そのうち8曲がこの古典詩に曲をつけたもので、そのすべてが女流詩人(ポエテス)の作品である。上述のマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールが4篇、ルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien 1877 - 1909、彩流社より日本語訳詩集→写真)が3篇、そしてルネサンス期のリヨンの詩人ルイーズ・ラベ(Louise Labé 1525 - 1566)が1篇となっている。
 ランボーとヴェルレーヌに多大な影響を与えたと言われる近代浪漫主義詩のパイオニアであるマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールの詩を歌曲化した例は古今多数あり、同時代人カミーユ・サン=サーンス、ジョルジュ・ビゼーをはじめ、われわれの時代ではジュリアン・クレール、パスカル・オビスポ、ヴェロニク・ペステルなども。
参考作品として(↓)ジュリアン・クレール "Les Séparés"(N'écris pas)"(1997年アルバム『ジュリアン』)


というわけで、ジュリアン・クレールの古典詩へのアプローチはたいへん折り目正しく格調の高さも感じられるのだが、このエゼキエル・パイレスの制作態度はどうなんだろうか。アルバム冒頭第一音からそこはかとないメランコリーが全体を包むのだけど、始まるのは繊細で小洒落たエレクトロシンセポップなのだよ。思わず首が振れてしまう心地よいリズムとピコピコ音。これは誰も古典的な名詩だと意識しないで聴いてしまうと思うが、それでいいのか?

例えば5曲め「エレジー(哀歌)」、詩はマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール。

たぶんあなたに会う前から私はあなたのものだった
私の命は形になる過程ですでにあなたのものと約束されていた
あなたの名前は予期せぬときめきによって私に告げられた
あなたの魂は私の魂を目覚めさせるために潜んでいたのだ
 
あなたの声は私を青ざめさせ、私の目は下を向いた
交わされた沈黙の視線のうちに、二人の魂は抱きあっていた
この視線の奥に、あなたの名前が明かされた
それを問うことなく、私は思わず声を上げた、これこそその人だと!
 
ある日その声を聞いた時、私は声を失った
その声にしばらく聞き入り、私は答えることを忘れてしまった
私の存在とあなたの存在は見分けがつかなくなり
私は生まれて初めて名前を呼ばれたと思った

あなたはこの奇跡を知っていたの? あなたのことを知らずに
私はその名で私の恋人と見抜いた
あなたの声の響きを聞いただけでそうとわかった
私のやるせなくも美しい日々をあなたは輝かせてくれた

その声が私の驚いた耳に届いたとたん
耳はそのとりこになり、狂喜した
私はそれだけで私のこの上なく甘美な感情の数々を表現できた
私はそれを集めて、誓いの言葉を書き著した

その名が私を愛撫し、私はその息を吸い込む
愛しい名前! すてきな名前! 私の運命のお告げ!
なんてこと! あなたは私を魅惑し、あなたの優美さが私を射抜く!
まるで私の口を閉ざす最後の接吻のよう

もうちょっと優雅に翻訳するべきなんだろうが、だいたいこんな感じ。古風な”激情恋慕”の表現だと思うが、(19世紀的には)大胆な女性のエモーションが伝わってくる。それがエゼキエル・パイレスの音楽世界ではどうなるのか?

ストロマエのラテン趣味("Tous les mêmes"、"Santé"...)をほうふつとさせる、軽妙エレクトロ・ハバネラになってしまうんですよ。ジュリアン・クレールとはずいぶん方法論が異なるということがわかると思う。

 次に必殺のアルバムタイトル曲「メロペ」(3曲め)であるが、これはルネ・ヴィヴィアン(←写真)の詩。32歳で夭折し、同性愛者詩人として「1900年のサッフォー」とも呼ばれたこの詩人に関しては日本でもかなり知られているようで、グーグルジャパンで「ルネ・ヴィヴィアン」と検索するとたくさん項目が出てくる。仏語ウィキによると、あの時代に日本へ旅行したことがあるようだ。「メロペ」は初めてラジオFIPから流れてきた時は、わおっ、これはキラー・チューンのエレクトロ・ズークボッサだなぁ、と感心したにとどまっていたのだが、詩がこんなだったとは全く思いませんでしたよ。
流れる水のようなおまえの声で語っておくれ
告白のささやきがゆるやかになったら
冷やかしや残酷な言葉も言ってもいい
そして酔わせるような調べ(メロペ)で私を揺すっておくれ
 
私をしんみりさせたり喜ばせたりしてくれるおまえのくぐもった声で
私の額がおまえの波打つ髪にうもれる
おまえの望み、おまえの悔い、おまえの願いを表してくれ
おお、私の妙なる調べを奏でる恋人よ

おまえの姿は稲妻
おまえの微笑みは一瞬だけ
おまえを切望する声がすると
おまえは逃げてしまう、おお私の望みよ
 
おまえの姿は稲妻、つかまえようとしても腕の中はからっぽ
おまえの微笑みは一瞬だけ、とらえることができない
おまえを激しく切望する声が私の唇から発せられると
おまえは逃げてしまう、おお私の望みよ

おまえはシメールのように襲うことなく軽く触れていくだけ
いつもおまえの満たされない望みを差し出していく
この苦悶にまさるものはない
おまえの希なくちづけの苦い陶酔よ

私はおまえの声、その優しい歌を聞き続けるだろう
私は何も理解できなくなっても聞き続け探すだろう
さもなくばすべてを忘れるか、うとうとと眠ってしまう
 
もしもほんの一瞬でもおまえが歌うのをやめても
その沈黙の奥から私は聞くだろう
なにか恐ろしいものがすさまじい声で泣いているのを

おまえの望み、おまえの悔い、おまえの願いを表わしてくれ
そして酔わせるような調べ(メロペ)で私を揺すっておくれ

ひどい訳でごめんなさいだけど、だいぶ(ヴェルレーヌやボードレールに近い)象徴主義的詩風になっているのがわかるかしら?レスビアンの恋情が高踏的な表現で綴られているわけだが、この詩で表現されている音楽はやはり高踏的でないとまずいんじゃないか、と思うわね。ところがエゼキエル・パイレスの手にかかると... 。



 そして今回のアルバムで取り上げられたもうひとりのいにしえの女流詩人が16世紀ルネサンス期のルイーズ・ラベ(→写真)。この人も日本で研究書が複数出ているようで、グーグルジャパンで「ルイーズ・ラベ」と検索してみたら、いろいろわかる。日本語ウィキで、網紐商人の夫人となったルイーズの異名である「ラ・ベル・コルドニエール(La belle cordière = 美しい網紐商夫人)」を「網屋小町」という訳語で紹介しているのには笑った。それはそれ。エゼキエル・パイレスがこのアルバム『メロペ』の最終曲(11曲め)にルイーズ・ラベの詩をもってきたのはそれなりにわけあってのことだろう。
私の目が涙を流せる限り
私の手が網紐を引っ張れる限り

あなたとの過去を悔い
涙とため息を抑えようとする時
私の声はほんの少しものを言う

可憐なリュートに合わせ、あなたの優美さを歌う
魂があなたのことを理解することしかできないことに
甘んじている限り

おお甘美な視線よ、おお豊かな美をたたえた眼よ
私はそれを自信をもって言いたくはない

おお優しき睡りよ、おお私の幸福な夜よ
心地よい休息、静けさに包まれ
私の夢を毎夜見させ続けておくれ

万が一私の哀れな恋する魂が
現実の世界で幸福を知らぬことになろうとも
せめてその幻想だけでも見させてやっておくれ

中世フランス語の韻文なので、雅(みやび)な古文風な日本語で訳すべきところであろうが、私にはそういう教養がないのでごめんなさい。ルネサンス期の(女性の)恋歌である。16世紀にこの女流詩人が切り開いた自由な浪漫詩への敬意/オマージュがあってしかるべきところであるが、エゼキエル・パイレスはこんなふうなのだ(↓)

ロマンティックなピアノと、アンニュイで渋めなクルーナーヴォーカル、後半の弦サンプルの厚めなバックトラック、これは中世浪漫詩とはかなり距離がある、ウルトラモダンなチルアウト音楽ではないですか。

 46歳の、たぶん機械が揃っていれば何でもできる人。ストロマエを老成したようなヴォーカルとエレクトロセンス。よく練ったメロディー。たいへん驚きました。バロック(baroque)という言葉は「奇異な、風変わりな、異様な、(真珠が)いびつな」という意味であるが、音楽(文学/建築/美術)の様式の意味に捉われずにあえて言えば、このエゼキエル・パイレスというアーチストは非常にバロックな人だと見た(聴いた)。

<<< トラックリスト >>>
1. Dors - tu ? (poème : Marceline Desbordes-Valmore)
2. Regard en arrière (poème : Renée Vivien)
3. Mélopée (poème : Renée Vivien)
4. L'attente (poème : Marceline Desbordes-Valmore)
5. Elégie (poème : Marceline Desbordes-Valmore)
6. Prélude (instrumental)
7. La fille de la nuit (poème : Renée Vivien)
8. Ni toi, ni moi (Ezéchiel Pailhes)
9. Le beau jour (poème : Marceline Desbordes-Valmore)
10. Opaline (Ezéchiel Pailhes)
11. Tant que mes yeux (poème : Louise Labé)

EZECHIEL PAILHES "MELOPEE"
CIRCUS COMPANY CC022 (LP/CD/Digital)
フランスでのリリース:2022年10月

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)"L'attente"(詩:マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール)これはエレクトロ・レゲエバラード。

2022年10月8日土曜日

シンプルな愛と複雑な死

"Un beau matin"
『ある晴れた朝』

2022年フランス映画
監督:ミア・ハンセン=ローヴ
主演:レア・セイドゥー、メルヴィル・プーポー、パスカル・グレゴリー、ニコル・ガルシア
フランスでの公開:2022年10月5日

ア・ハンセン=ローヴ監督の映画を観るのは前作の『ベルイマンの島』(2020年)に続いて二度目。北欧の奇岩島と映画聖人ベルイマンと女性映画作家の難航するシナリオ書きという三題噺が交錯する世にも美しい職人技の(英語)映画(→予告編)。こういう映画撮れる人なので、すごく期待して観た最新作は、現代のパリが舞台の(フランス語)映画。
 ストーリーは前作ほど混み合ってなくていたってシンプル。一方で進行する難病に冒され死につつある父親ジョルグ(演パスカル・グレゴリー)を、必死で最良の条件で旅立たせようとする家族(含む元妻フランソワーズ:演ニコル・ガルシア!すばらしい)の奮闘があり、その中心になっているのが娘のサンドラ(演レア・セイドゥー)である。もう一方に娘リン(演カミーユ・レバン・マルティンス)をひとりで育てる(娘の父親は他界)ことで10年間恋なしで暮らしてきたサンドラが、偶然再会した(娘の父親の親友だった)クレマン(演メルヴィル・プーポー)との間に育ちつつある愛の上昇と下降と再上昇と再下降と...(いたってシンプルなラヴ・ストーリー)。この二つの筋が同時にひとりの人間=サンドラを通して、一方はじわじわと悪化、他方はじわじわと結実へ、という愛と死、エロスとタナトスのクロスする1時間50分。
 まずパトリス・シェローやエリック・ロメール映画の名男優パスカル・グレゴリーが演じる難病で死にゆくジョルグという人物は、年齢こそ明らかにされていないが、70歳前後と想定され、本来ならまだ”現役”という年代。哲学教授/翻訳家として人生のすべてを哲学書との取っ組み合いに費やしてきたような男。ちなみに演じるパスカル・グレゴリーは現在68歳、そしてこの人物のモデルとされるミア・ハンセン=ローヴの父で哲学教授のオレ・ハンセン=ローヴはこの映画のシナリオを書き上げる直前に72歳で亡くなっている。この"現役”のジョルグを突然襲った病気は”神経変性疾患”の一種で、視力と記憶力と言語能力を奪っていく。本が読めない、ノートに書く言葉が出てこない。書物と言葉と論理で生きてきた人間にとって、これはすでに”死”を生きていることに等しいが、それを本人が認識することすらできない。肉体は残っていても、この初老の男は既に”行ってしまって”いる。娘サンドラはそれを直視して立ち会っている。パスカル・グレゴリーの演技はその途方もない悲しみを見事に表現しているのだ。脱帽。
 自宅アパルトマンで書物に囲まれて暮らすことができなくなり、オテル・デュー病院の神経科に入院、現代医学でできることは限られていて(処置なし)、老人施設(Ehpad)へ入居。奇しくも2022年のフランスで、世界的規模で展開する民間老人施設チェーンのORPEA(世界で1200施設、フランスだけで200施設)で収容老人の死亡事故や虐待が次々に告発されるスキャンダルがあった。この映画はその問題とは全く関係はしていないものの、ジョルグはなかなかこの老人施設環境に溶け込めず(そういう施設に入るような”歳”でも"状態”でもない)、サンドラら家族の配慮で、この映画の時間だけで三度老人施設を引っ越している。だが病状は目に見えて悪化していく。私ね、パスカル・グレゴリーと同い年ということもあって、こちら側の病気ストーリーの方は観るのが本当にヘヴィーだったのですよ。
 さてもう一方のラヴストーリーの方はというと、外見は若づくりでも、アラフォーとアラフィフの恋という設定。サンドラは翻訳家/同時通訳という職業があり、国際会議や歴史的式典にも出ていく。クレマンは宇宙化学者(astrochimiste)という隕石サンプルを化学分析する研究者で、妻帯者・子持ち(10歳前後の男児)であるが、妻との愛はとっくに冷めているもののそのままにしている。だからクレマンの側は世間的には"不倫”ということになる。私はね、この”不倫”という言葉が大嫌いで世界中の辞書からこの言葉を削除したいと考えているのだが、それはまた別の機会に。で、あまり変わりばえのない月並みなラヴストーリーなので、妻に気づかれた、もう会わない方がいい、etc etc で映画の時間で二度クレマンは別離を告げ消えていく。泣くのはいつもサンドラ。メイクが薄いせいなのか、結構泣き顔がボロボロなのが、この映画でのレア・セイドゥー。"ボンドガール”まで演った国際的花形スターとはちょっと距離がある今回の役どころであり、映画冒頭で娘リンを小学校に迎えに行く格好が、スウェットにジーンズ(!)という出たちで近所のおかあさんになりきっている。いいですね。
 この関係に微妙に介入するのがサンドラの娘のリンであり、全然性格の悪くない聡明な子なのだけれど、せまい2部屋アパルトマンで、母娘ふたりだけの世界を作ってきた(つまり母を独り占めしてきた)のに...。概ねはこの優しくて子供つきあいのうまいクレマンを許容しているものの、どうしても自分の存在を主張したい本能があり、ある日からリンは(どこも悪くないのに)片足を引きずって歩くようになる(このエピソード、とてもよくわかる)。

 そしてある晴れた朝、サンドラはリンとクレマンを連れて、老人施設にジョルグに会いに行く。記憶も理解も視力もあやふやになっているジョルグに、私が娘のサンドラ、あなたの孫娘のリン、これがこの前話したクレマン、と紹介する。すると施設のスタッフたちが、大広間でショータイムよ、と収容老人たちを連れて移動していく。そこではサンドラ、ジョルグ、リン、クレマンと老人たちの前で、ボランティアのお兄さんお姉さんたちが歌詞カードを配って、みんなで歌いましょう、とミュゼットの名曲「サン・ジャンの恋人」を。なんと、これ、みんな歌うのだよ。老人たち、クレマン、リン、そしてジョルグまで唇を動かしている。この映画でしょっちゅうくちゃくちゃの顔で泣いているサンドラは、ここでも涙が止まらなくなって...。いたたまれなくなったサンドラは、リンとクレマンを連れて老人施設を出て、モンマルトルの丘へ。それがこの映画ポスターに描かれた、笑顔の3人の姿。映画は一方のストーリーの方だけに少し開かれた未来の可能性を与えて終わるのである...。片方だけと言えど、この優しさは例外的であり、心揺さぶられる。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"Un beau matin"予告編