2022年10月30日日曜日

世の中は三日見ぬ間の桜かな

 

Muriel Barbery "Une rose seule"
ミュリエル・バルブリー『ただ一輪の薔薇』

ミュリエル・バルブリーの”京都小説”。当ブログ2022年9月に紹介した最新刊『狂ほしの時(Une heure de ferveur)』の2年前2020年8月に発表されたもの。その最新刊の方が、京都の富豪美術商ハル・ウエノの一生を描いたものであり、フランス人女性モードとの間に出来た娘ローズ(生まれも育ちのフランス)を40年間(秘密に雇ったカメラマン/諜報マンを通じて)娘に知られることなく京都から見守っていたが、死期に娘に遺産相続する意思の遺言状を残す。この前作の『ただ一輪の薔薇』は、時間軸的には逆で、娘ローズがその存在すら知らなかった父親ハルの遺志を確かめるために、初めて日本にやってきて京都に滞在する物語である。私は先に『狂ほしの時』を読んでいたので、すんなり小説の中に入れたが、逆の順序で読むとどうなんだろうか。順序がごっちゃなスター・ウォーズ連作のように脈絡はあとでわかるからいいのかな。
 主人公はアラフォー、独身、子なしの気難しいフランス女性ローズであり、日本の国際法律事務所(原文は"notaire = 公証人”となっているが、その職業は日本にはないから国際弁護士事務所か法律事務所と解釈されたし)から一度も会ったことのない(実はパリで一度会っていることが『狂ほしの時』でわかる)父親ハル・ウエノの遺産相続の件で呼び出され、(費用先方負担で)来日する。このことには憤懣があり、40年も自分を放っておきながら、その故人に今さら”父親”と名乗られることには全く納得のいかないものがある。迎えるのは、ハルの後継者であるベルギー人のポール。20歳そこそこで日本にやってきて、その堪能な日本語と日本文化知識を買われ京都の大物美術商ハル・ウエノに弟子入り、厳しい修行の甲斐あってハルの右腕にまで成長し、年齢は違えどハルとは私的にも深い友情で結ばれるようになった。生前のハルの第一の親友だった陶芸家のケイスケ・シバタですらローズの存在は知らされていなかったが、ポールには打ち明けていた(この辺の事情は『狂ほしの時』に書かれている)。ハルはその遺言でローズに財産を相続させることだけでなく、ローズにそれを受諾させることが難しいことを予め知っていて、そのための手筈/シナリオを立ててその実行をポールに託したのだった。それは7日間の時間をかけて、ローズに京都の東西南北にあるハルに縁りのある寺、旧跡、墓地、料理屋などを訪問させるということだった。

 ローズが京都で宿泊する鴨川沿いにあるハルの邸宅には、長年ハルに雇われハル邸の家事全般と会計帳簿を担当しているサヨコという年配の女性がいる。ぶっきらぼうで言葉少ないが、ハルから全幅の信頼を預かった重要人物であり、『狂ほしの時』では予言めいたことも口にし、ケイスケはこの女性を”キツネ”の化身と思っている。毎朝花を生け、その花に合わせた花模様の着物を身につける。ローズの職業は植物学者(ボタニスト)であり、この生花や京都の庭園の植物に敏感に反応している。小説は12章に分かれていて、各章にプロローグとして中国や日本の植物にまつわる故事(牡丹、なでしこ、つつじ、あやめ...)が紹介され、物語は花・植物と混ざり合って進行する。
 サヨコは片言の英語でローズにその日の予定やポールからの伝言を伝える。ハル邸のお抱え運転手のカントともコミュニケーションは片言英語である。この言葉少ない日本人にも打ち解けず、ローズはこの意思に反しての日本滞在への苦々しさと怒りはなかなか消えない。ましてや滞在最初は言われるがまま、されるがままで、日本円も携帯電話も持たされず、スケジュールをこなすだけの囚われ人であった。1日目、運転手は銀閣寺にローズを連れていく。何の説明もなく、わけもわからず、であるが、固く閉ざされていたローズの感受性は少しずつ刺激されていく。それは未体験者/予備知識ゼロ者の”京都発見”におおいに関わっているのだが、さまざまな名勝を描写するミュリエル・バルブリーの筆力の見事さに惹き込まれるフランス人読者も多かろうと思う。もちろん最初ローズはまったく心動かされるものがなかったのに、徐々に徐々に...。
 初日の銀閣寺で、ひとりの英国人女性ベス・スコットと遭遇する。後日この女性が生前のハルと関係の深い人物(一時は愛人でもあった)と知るのであるが、古くから京都に住んで京都を愛していると一面的に理解したのか、ローズはこの女性の言うことにいちいち引っかかる。初対面でのこのやりとりは非常に興味深い。

ー 日本は人々が非常に苦難の数々に晒されている国だけど、人々はそれに頓着していない。その不幸への無関心の報酬としてこれらの多くの庭園をいただき、そこに神様たちが降りてきてお茶を飲むのよ。
ー そうとは思わないわ。苦難を報酬するものなど何もないわ。
ー ほんとうにそう思う? (とイギリス人女性は尋ねた)
ー (ローズは言った)傷ついた人生、それを待つことなど何の得にもならないことよ。
イギリス人女性は顔をそむけ、銀閣を凝視することに没頭していった。
ー もしも苦しむことに心の準備ができていないということは、生きることの準備もできていないのよ。(p19)


日本は多くの苦しみに苛まれているが、人々は耐え忍び、それを鎮めるモニュメントがいたるところにあり、神様たちとたたずむ場所がある ー このテーマは本書でも何度か繰り返される。自然災害や大地震など、日本のそれは(恵まれたフランスのようなところにいる)西欧人の目から見れば大変なものだと思う。日本で生きることは苦しむことだが、それと共生するための”美”がある。
 第一日めの午後、美術商ハルの後継者のベルギー人ポールと初対面。お互いに第一印象は良くない。ポールは故ハル・ウエノの遺志だけでなく、ローズの全く知らないハルの人となりについて少しずつ話し始めるのだが、40年間父から放棄されていたと思い込んでいるローズの憤りと京都という異郷にいる居心地の悪さは容易に消えはしない。『狂ほしの時』でも同様だが、この小説でも酒と料理はふんだんに登場する。酒豪であったが酩酊することが一度もなかったハルのDNAか、ローズはよく呑む。料理屋でポールが「ビールか酒か?」と聞くと「両方」と答えるローズ。だがこの酒がローズとポールの険悪な会話を柔和にするというわけではない。
 『狂ほしの時』はハルの生涯という長い年月のタームで展開するが、雪のシーンが多く登場する。雪降る京都がいつも背景にあるような。それに対してこの『ただ一輪の薔薇』は、展開される時間が一週間ほどで、梅雨(mousson)の時期で、雨降る京都である。透明ビニール傘が欠かせない。
 ハルが望んだローズの京都めぐりの2日目は詩仙堂へ。つつじ。バルブリーの描写が素晴らしい。その日、ローズはポールに導かれてハル邸の奥にある隠された書斎の壁一面に貼られた40年分のローズの隠し撮り写真と対面し、衝撃と激しい怒りでその場に膝を折って沈んでいく。「ハルは一日とてあなたのことを思わなかったことはない」とポールは慰めるのだが...。
 大徳寺高桐院)、真如堂、くろ谷墓地(ハルの墓だけでなく、ポールの妻クララ、ケイスケ・シバタの妻と子供の墓もある)、南禅寺(やっぱり昼食に豆腐を食べることになる)、龍安寺(観光客で混み合う時間を避けて、朝早く訪問。この石庭をローズは「巨大な猫の砂場のようだ」と喩える)、そして嵐山西芳寺(苔寺)...。私は(50数年前の高校修学旅行を除いて)全くの京都知らずなので、このバルブリー描くイマジナティヴなローズの京都名勝めぐりにうっとりしてしまった。なぜ人々はこの庭園に来て心を鎮めるのか、なぜハルは京都を愛したのか。この環境の中で、ポールはローズにハルの人物像、そしてハルと共に歩んだ人々(陶芸家ケイスケ、ポール、ベス・スコット、サヨコ、カント...)のこと、そしてポールがハルから聞き知っている限りのモード(ローズの母)とローズの祖母ポール(Paule)のことを語っていく。父親ハルに固く心を閉ざしていたローズが、一日一日と雪解けていく。
 ハルと何十年と寄り添って生きたサヨコは、ローズの印象を "volcano ice lady”と言った。火山と氷を合わせ持った女。それはハルの目と同じだ、と。火と氷の目。そしてベス・スコットは二、三度ローズと茶屋で茶を汲み交わしただけで、ポールとローズが似たもの同士であると見抜いた。そして、ローズは最初の敵愾心から打って変わって、数日後にはポールに強く惹かれるようになる。この豹変をその目で見たベスが、ポールに”日本語で”こう言うのである。

世の中は三日見ぬ間の桜かな (p144)
ふだんはフランス語で会話する英国人女性とベルギー人男性が、その場にいる(日本語の全くわからない)フランス人女性の頭ごなしに日本語で「世の中は三日見ぬ間の桜かな」と、日本の風流人のように決め台詞を放つ。チョーンっと拍子木を合わせたいようなシーン。笑っちゃいますよね。だがこの諺はハルのローズへの遺言の最初のフレーズであることも、小説の終わりの方でわかる。

 小説のタイトルとなっている「ただ一輪の薔薇 Une rose seule」は、ライナー・マリア・リルケの詩からの引用である。
ただ一輪の薔薇、それはすべての薔薇、
そしてまたひとつの薔薇(高安国世 訳)
これはケイスケ・シバタとハル・ウエノが愛した詩だった。たった一輪の薔薇が、これまで咲いたすべての薔薇を内包するという、ひとつがすべてというヴィジョン。お分かりかな、お立ち会い? この小説はこのようななんとなく「なるほど」なんとなく「納得」という無説明の禅問答のような故事やダイアローグが多く登場する。そこにいるとなんとなく「ありがたく」なんとなく心の平静を得られるような京都の庭園空間のようなものか。私は『狂ほしの時』のレヴューの最後に「狐につままれる」という表現を使ったのだが、ミュリエル・バルブリーの京都は狐も神様も姿を見え隠れさせる世界である。ただ一輪の薔薇であったローズは、京都ですべての薔薇であることを悟る、という謂と解釈してもいいのではないか。
 ハルがローズに遺した手紙(ポールがフランス語訳している)を最後に読む、という大詰めがある。どれほどハルがローズを想っていたことか。その手紙の自筆原文(日本語)の最後にハル・ウエノは正真正銘を証明する印璽を押印してあったが、その印璽に彫られていたのは漢字二文字の「薔薇」であった、という話なんだが、これはくどいし、しつこい。巨万の富を築いた美術商の印璽が...。

 日本文化と京都にたいへん造詣の深いミュリエル・バルブリーの労作である。次作の『狂ほしの時』と同じように、日本/京都の描写表現のディテールについては重箱のスミをつつきたくなる部分がままある。しかしそれはそれ。一生暗く情緒が傷ついていた母親モードに大きな愛情を注がれず、ましてや父親には全く接点がなく、気難しく40年生きてきたローズが、一週間の京都滞在で自分が誰か、自分の居場所はどこかを見出してしまう物語。日本と中国の故事、生花、茶、京都の名勝、料理屋、梅雨... などがローズの心にどう影響していくのか、決してわかりやすいわけではない。それでも読者はなんとなく「納得」するように読めてしまうのでしょう。

Muriel Barbery "Une rose seule"
Actes Sud Babel文庫刊 2022年5月 160ページ 6,70ユーロ (単行本刊 2020年8月)

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アクト・シュッド社のプロモーションヴィデオで『ただ一輪の薔薇』を紹介するミュリエル・バルブリー


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