2022年9月30日金曜日

京都の町はそれほどいいの

Muriel Barbery "Une heure de ferveur"
ミュリエル・バルブリー『狂ほしの時』

これを書いている9月末現在、2022年ゴンクール賞の第一次選考(15作)に選ばれた作品。ちなみに第二次選考(8作)が10月4日、第三次最終選考(4作)が10月25日、そして晴れのゴンクール賞2022の発表は11月3日。何が選ばれても爺ブログでは紹介することになっているので、楽しみにお待ちください。
さてミュリエル・バルブリーについては、2006年の大ベストセラー小説『はりねずみのエレガンス(L'élégance du hérisson)』を映画化した『はりねずみ(Le hérisson)』(監督モナ・アシャシュ、主演ジョジアーヌ・バラスコ、2009年フランス公開)を爺ブログで取り上げたのみであるが、たいへんな日本通である。新作小説は全編京都が舞台となっているが、ミュリエル・バルブリーは2008年から2年間アンスティチュ・フランセが運営する京都市のヴィラ九条山のレジデントであった。たぶん京都の奥の奥まで知っているのであろう。
 小説の時間は1970年から現在までの50年ほどで、飛騨高山の造り酒屋の家業を継がず、京都に出て美術商として成功し莫大な財を成した男ハル・ウエノの一代記である。無宗教者でありながらハルが心のよりどこころとして、欠かさず週に一度本堂およびその周辺を散策するのが真如堂である。その真如堂に隣接して、難破した帆船のような態の建物があり、1960年代に(美術関係のドキュメンタリーを制作する)テレビプロデューサーのトモオ・ハセガワが自宅として建造したものであるが、「自宅に人を招くことが稀な日本人」(バルブリー)の倣いに反して、このトモオ邸は京都中の芸術家たちや外国人アーチストたち、その他エキセントリックな人々が集まり、酒宴やハプニングパーティーを開く解放されたスペースとなっていた。このトモオを介して、ハルは現代陶芸家のケイスケ・シバタと出会う。このケイスケの陶芸作品の価値を見抜いたハルが、それを売り出すことで美術商ハルの大サクセスストーリーは始まる。稀な芸術家であり詩人でもあり論客でもあるケイスケは底無しの酒呑みであり、ハルは彼を師匠・論友・ポン友を兼ねた生涯の親友とする。その親交は50年続き、ハルの最期を見届けるのもケイスケだった。真如堂を"本拠地”に酒と宴と芸術の髄を極め、全京都のアートピープルからリスペクトされた黄金のトリオ(トモオ+ケイスケ+ハル)の時代はしばらく続くのだが、その栄華を蝕んでいくのは親しい人々の死であった。この小説は絶え間ないほどにたくさんの人たちが死んでいく。病死、事故死、自殺、そして阪神淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)にも巻き込まれてハルとケイスケは近い縁者を失っている。この死の悲しみのたびに、死者の記憶を背負った人たちは、故人を生き続けさせるために自分は生き続ける決意を新たにするのである。小説中ある西欧人は、自国では墓地は”死"しかない死者の場所であるが、日本の墓地は故人を生き続けさせる場所である、という印象を述べている。当たってると思う。

 ハルが備えた(子供の頃から培った)感性は、素材と形を見極める能力を得させた。素材とは山河や植物や季節気候などであり、それを形にしたものが芸術品である。それは飛騨高山の渓流を毎日見ていた目が育て、京都の花鳥風月、寺社仏閣、もみじや桜や雪や苔などがその目を肥した。それを形にするという営為は自分にはできないが、素材から形への移行に対する飽くなき興味は時間をかけて彼独特の審美眼を得させた。これが美術商ハルの成功を招くのだが、これと目をつけた作品はみな超高価で売れていった。ところが、その目はこの現世界に自分の前にだけ現れる霧や霞や先祖の魂(霊)やキツネの姿を見てしまうようになる。本書の表紙となっている絵は橋本関雪(1883 - 1945)の「夏夕」の一部であるが、キツネはこの小説では非常に重要である。稲荷神伝説、化物(妖怪)などみな関係している。
 独身で大金持ちでトモオ邸でのパーティーでは帝王然としているハルは、複数の愛人を持ち、嫌味なく誘惑の話術も使う優男であるが、ケイスケに言わせると女も恋も知らない孤独な男である。そんな中で出会ったこの小説中最も重要と思われる女性がフランス人のモードである。ケイスケはこの女が霧のようにつかみどころがなくハルにとって危険であると感じ取っているが、どうすることもできない。この「液体の火事」のような女は感知できぬうちにハルを燃やし尽くすかもしれない。初めてトモオ邸で会ったその夜、二人は鴨川べりのハルの豪邸に行き、ヒノキの風呂に浸かる。湯船の中でハルはケイスケから聞いた伝説をモードに語る。
平安時代の中期(西暦1000年頃)、すべてが美しい夜明けがあった。空の奥の方で、紫の花々が色を失っていくような。時折大きな鳥がこの火事のような朝焼けの中に吸い込まれていった。宮廷に何代にもわたって隠遁窟に住む一族の女がいた。掟によって囚われの境遇にあり、その部屋から通じる小さな庭に出ることも禁じられていた。しかしこの曙の時だけ女は縁側の板の上に跪いて空を眺めてした。すると正月から一匹の子ギツネが毎朝庭に現れるようになった。ひっきりなしに降る雨の季節になり、それは春まで続いた。 女はこの新しい友達に一緒に雨宿りしましょうと乞うたが、囲いの覆いになるのは一本のもみじの木と寒椿の灌木しかなかった。女とキツネはそこで沈黙のうちにお互いを知り合うようになり、やがて女とキツネだけの共通の言語を編み出したのである。女とキツネが語れる唯一のこと、それはおのおのの一族の死んだ者の名前を唱えることだった。(p33)

聞き終わって沈黙して固まってしまったモードだったが、ハルは湯気の向こうのその姿がどんどん巨大化する砦のようなものに変わっていくのを幻視し、その幻影を消し去りたいようにその肉体を欲していく。モードはそれを受動的に受け入れるのだが、ハルに生じた強烈な欲情と裏腹にモードは心そこにあらずのような不在感。ベッドでの情交のあとハルは眠りに落ちてしまうが、キツネと風呂の混沌とした夢を見る。目が覚めるとモードの姿はない。次の夜、またモードはハルの家にやってきて、一緒にヒノキの風呂に入り、ハルから昔語りを一話聞き、次いで昨夜と同じようにベッドで情交するが、その不在感は変わらない。こうしてモードとハルは10日間夜を共にし、やがてよそよそしく別れてしまう。
 数ヶ月後、ハルはモードが妊娠してフランスに帰ったことを知る。直感でハルはそれが自分の子であり、女児であることを確信する。そこで、在パリの文化情報通の日本人マナブ・ウメバヤシ(それらしい名前であるな)に依頼してモード・アルデンの住所を調べてもらい、すぐに手紙を出す"Si l'enfant est de moi, je suis là(子供が私のものだったら、私はすぐに行く)" 。数週間後、ハルは返事を受け取る"L'enfant est de toi. Si tu cherches à me voir ou le voir, je me tue. Pardonne-moi(あなたの子よ。でもあなたが私か子供に会おうとしたら、私は自殺するわ。ごめんなさい)”。
 ハルはこの”禁止”を尊重する。なぜならハルは本当にモードが死んでしまうことを知っていたから(そして二十数年後、実際にモードは自ら命を絶ってしまう)。だがハルは”父親”になること、そして娘(ローズという名前)を愛し続けることは絶対に断念しない。彼はマナブ・ウメバヤシに巨額の報酬と資金を与え、追跡者/カメラマンを雇い、モードと娘が同居するモードの母親の実家(トゥーレーヌ地方)を四六時中偵察させ、超望遠レンズで捉えた写真と偵察レポートを定期的に送らせる。こうして二十数年間にわたって、ハルは娘の成長とモードの動向を京都にいながら知ることができたのである。ハルは毎日送られてきた娘の写真に語りかけ、遠隔の"父親”であり続けた。
 小説は娘ローズの成長の時間と並行して、上述したようにトモオ、ケイスケ、ハルの黄金トリオの身内に次々にやってくる"死”の試練の記録でもある。妻と2人の子供を相次いで失ってしまうケイスケ、最愛のパートナーのイサオに先立たれ自らも病いに斃れるトモオ、その他親しい友人たちの伴侶や子供が命を落としていく。この悲しみの儀式(葬儀)のたびに、人々(死者も生者も)を鎮めるのが京都の佇まいであり、寺社仏閣であり、鐘の音とジャズの音がどこからか聞こえてくる、もみじや雪や苔の環境なのである。小説はミュリエル・バルブリーの知る限りの京都が登場する、大いなる京都讃歌である。真如堂、黒谷、鴨川、南禅寺、竹中稲荷、吉田神社、苔寺、嵐山、北野、三嶋亭のすきやき...。冬は凍え死ぬほどに寒く、夏は厳しい暑さに加えて大量に発生する虫に苦しめられる(バルブリー)。おそらくバルブリーは雪の京都を好んでいて、小説に雪の情景は多く登場する。美しい。小説のテーマ的には多くの死に取り残されて生き残った者たちが死者に代わって「熱情の時間、狂ほしの時、Une heure de ferveur 」を苛烈に生きる場所が京都なのだろう。ハルはこの京都で星の声が聞こえ、キツネの姿を見るのであるが、ケイスケからすればハルは人間を見ていない。
 小説には他にも魅力的な登場人物がある。ハルの自宅兼美術商事務所である鴨川の家で、ほぼ住み込みで家事一切と会計帳簿をあずかるサヨコは、無愛想で言葉は少ないが、ハルが全幅の信頼を置き、プライベートなことも相談している。口には出さないがサヨコは不吉な予感を察知する能力があり、ケイスケはこの女性がキツネであると思い込んでいる。また、美術商ハルの後継者になっていくベルギー人の若者ポールも、たくみな日本語と審美センスでハルを魅了していて、公私ともに親密な仲になる。ハルの子供ローズの件をハルから告白されたポールが、この件を第一の親友ケイスケが知らないということを不思議に思い、ハルに問うシーンがある。
「彼は二人の子供を失ったんだ。私が自分の父親としての失敗を彼に話すことができるものか?」
「でも友だちでしょう?」
「私はそれぞれの友だちで異なった友人関係を築いている。それを私に説明しろと言うな。説明というのは西洋人の病癖だ」(p174)

笑っちゃいますよね。「説明は西洋人の病癖だ(L'explication est une maladie occidentale)」、これ、今度、しつこく説明を求めるフランス人に言ってやろうっと。
 
 さて時は流れ、定期的に送られてくるフランスのローズの写真は大学も終え社会人になっていくのだが、時折不鮮明に片隅に現れるモードはいよいよ精気がなく、引き篭り鬱の兆候を見せ、やがてモードが自殺したという報せが届く。そして事実上の育ての親であったトゥーレーヌ地方のモードの母ポール(Paule)も亡くなり、ローズは身内がなくなる。多くの死者たちを見送ってきたハルも末期の肺がんと診断され、余命わずかと覚悟する。”父親”になることを果たせずに死んではならないと、ハルは意を決して病身を押してひとり関空からパリに向けて飛ぶ....。
 マナブ・ウメバヤシの集めた情報から、ローズが毎朝寄るカフェテラスで待ち伏せる。案の定ローズはやってきて、ハルの隣のテーブルに座り、カフェを注文する。カップを持ち上げたひょうしにスプーンが落ちてします。ハルはそれを拾って女性に差し出す。女性は礼を言い、ハルは you're welcome と答える。
「あなた日本人ですか?」
「そうです。あなたは日本を知っていますか?」
「あまり私の趣味ではないんです」
「日本には美しいものがありますよ」
「美しいもの?」
「そんなにたくさんではありませんが、ありますよ」
「どんな美しいものですか?」
「日本には空があります」
「空?」
「空の奥の方で庭園の色が薄らいでいき、ときおりキツネが駆け抜けます」(p224)

このカフェの一瞬だけで、名乗り出ることもなく、ハルは翌日日本へ飛び立った...。
富豪の美術商はその財産を娘ローズに残す手続きをして死を待つ...。

 日本人読者なら重箱の隅つつきをかなりできそうな”京都小説”であるが、そんなことはたいしたことではない。ふとした時にキツネを見かけ、山河や空や植物や雪に先の兆しを感じ、星の言葉を聞く.... それはフランス人ミュリエル・バルブリーの想像した京都人のことなのか。私にはこの京都ファンタスムは十分に魅力的だし、夢の京都はかくのごとくあってほしい。夢のテリトリーとして保存してほしい。禁じられた娘ローズも、この夢のテリトリーの住人であるはずだ。キツネにつままれたような話であるが。

Muriel Barbery "Une heure de ferveur"
Actes Sud刊 2022年9月 240ページ 20,80ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆ 


(↓)出版社アクト・シュッド制作のプロモーション動画で『狂ほしの時 Une heure de ferveur』を語るミュリエル・バルブリー

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