『ある晴れた朝』
2022年フランス映画
監督:ミア・ハンセン=ローヴ
主演:レア・セイドゥー、メルヴィル・プーポー、パスカル・グレゴリー、ニコル・ガルシア
フランスでの公開:2022年10月5日
ミア・ハンセン=ローヴ監督の映画を観るのは前作の『ベルイマンの島』(2020年)に続いて二度目。北欧の奇岩島と映画聖人ベルイマンと女性映画作家の難航するシナリオ書きという三題噺が交錯する世にも美しい職人技の(英語)映画(→予告編)。こういう映画撮れる人なので、すごく期待して観た最新作は、現代のパリが舞台の(フランス語)映画。
ストーリーは前作ほど混み合ってなくていたってシンプル。一方で進行する難病に冒され死につつある父親ジョルグ(演パスカル・グレゴリー)を、必死で最良の条件で旅立たせようとする家族(含む元妻フランソワーズ:演ニコル・ガルシア!すばらしい)の奮闘があり、その中心になっているのが娘のサンドラ(演レア・セイドゥー)である。もう一方に娘リン(演カミーユ・レバン・マルティンス)をひとりで育てる(娘の父親は他界)ことで10年間恋なしで暮らしてきたサンドラが、偶然再会した(娘の父親の親友だった)クレマン(演メルヴィル・プーポー)との間に育ちつつある愛の上昇と下降と再上昇と再下降と...(いたってシンプルなラヴ・ストーリー)。この二つの筋が同時にひとりの人間=サンドラを通して、一方はじわじわと悪化、他方はじわじわと結実へ、という愛と死、エロスとタナトスのクロスする1時間50分。
まずパトリス・シェローやエリック・ロメール映画の名男優パスカル・グレゴリーが演じる難病で死にゆくジョルグという人物は、年齢こそ明らかにされていないが、70歳前後と想定され、本来ならまだ”現役”という年代。哲学教授/翻訳家として人生のすべてを哲学書との取っ組み合いに費やしてきたような男。ちなみに演じるパスカル・グレゴリーは現在68歳、そしてこの人物のモデルとされるミア・ハンセン=ローヴの父で哲学教授のオレ・ハンセン=ローヴはこの映画のシナリオを書き上げる直前に72歳で亡くなっている。この"現役”のジョルグを突然襲った病気は”神経変性疾患”の一種で、視力と記憶力と言語能力を奪っていく。本が読めない、ノートに書く言葉が出てこない。書物と言葉と論理で生きてきた人間にとって、これはすでに”死”を生きていることに等しいが、それを本人が認識することすらできない。肉体は残っていても、この初老の男は既に”行ってしまって”いる。娘サンドラはそれを直視して立ち会っている。パスカル・グレゴリーの演技はその途方もない悲しみを見事に表現しているのだ。脱帽。
自宅アパルトマンで書物に囲まれて暮らすことができなくなり、オテル・デュー病院の神経科に入院、現代医学でできることは限られていて(処置なし)、老人施設(Ehpad)へ入居。奇しくも2022年のフランスで、世界的規模で展開する民間老人施設チェーンのORPEA(世界で1200施設、フランスだけで200施設)で収容老人の死亡事故や虐待が次々に告発されるスキャンダルがあった。この映画はその問題とは全く関係はしていないものの、ジョルグはなかなかこの老人施設環境に溶け込めず(そういう施設に入るような”歳”でも"状態”でもない)、サンドラら家族の配慮で、この映画の時間だけで三度老人施設を引っ越している。だが病状は目に見えて悪化していく。私ね、パスカル・グレゴリーと同い年ということもあって、こちら側の病気ストーリーの方は観るのが本当にヘヴィーだったのですよ。
さてもう一方のラヴストーリーの方はというと、外見は若づくりでも、アラフォーとアラフィフの恋という設定。サンドラは翻訳家/同時通訳という職業があり、国際会議や歴史的式典にも出ていく。クレマンは宇宙化学者(astrochimiste)という隕石サンプルを化学分析する研究者で、妻帯者・子持ち(10歳前後の男児)であるが、妻との愛はとっくに冷めているもののそのままにしている。だからクレマンの側は世間的には"不倫”ということになる。私はね、この”不倫”という言葉が大嫌いで世界中の辞書からこの言葉を削除したいと考えているのだが、それはまた別の機会に。で、あまり変わりばえのない月並みなラヴストーリーなので、妻に気づかれた、もう会わない方がいい、etc etc で映画の時間で二度クレマンは別離を告げ消えていく。泣くのはいつもサンドラ。メイクが薄いせいなのか、結構泣き顔がボロボロなのが、この映画でのレア・セイドゥー。"ボンドガール”まで演った国際的花形スターとはちょっと距離がある今回の役どころであり、映画冒頭で娘リンを小学校に迎えに行く格好が、スウェットにジーンズ(!)という出たちで近所のおかあさんになりきっている。いいですね。
この関係に微妙に介入するのがサンドラの娘のリンであり、全然性格の悪くない聡明な子なのだけれど、せまい2部屋アパルトマンで、母娘ふたりだけの世界を作ってきた(つまり母を独り占めしてきた)のに...。概ねはこの優しくて子供つきあいのうまいクレマンを許容しているものの、どうしても自分の存在を主張したい本能があり、ある日からリンは(どこも悪くないのに)片足を引きずって歩くようになる(このエピソード、とてもよくわかる)。
そしてある晴れた朝、サンドラはリンとクレマンを連れて、老人施設にジョルグに会いに行く。記憶も理解も視力もあやふやになっているジョルグに、私が娘のサンドラ、あなたの孫娘のリン、これがこの前話したクレマン、と紹介する。すると施設のスタッフたちが、大広間でショータイムよ、と収容老人たちを連れて移動していく。そこではサンドラ、ジョルグ、リン、クレマンと老人たちの前で、ボランティアのお兄さんお姉さんたちが歌詞カードを配って、みんなで歌いましょう、とミュゼットの名曲「サン・ジャンの恋人」を。なんと、これ、みんな歌うのだよ。老人たち、クレマン、リン、そしてジョルグまで唇を動かしている。この映画でしょっちゅうくちゃくちゃの顔で泣いているサンドラは、ここでも涙が止まらなくなって...。いたたまれなくなったサンドラは、リンとクレマンを連れて老人施設を出て、モンマルトルの丘へ。それがこの映画ポスターに描かれた、笑顔の3人の姿。映画は一方のストーリーの方だけに少し開かれた未来の可能性を与えて終わるのである...。片方だけと言えど、この優しさは例外的であり、心揺さぶられる。
カストール爺の採点:★★★★☆
監督:ミア・ハンセン=ローヴ
主演:レア・セイドゥー、メルヴィル・プーポー、パスカル・グレゴリー、ニコル・ガルシア
フランスでの公開:2022年10月5日
ミア・ハンセン=ローヴ監督の映画を観るのは前作の『ベルイマンの島』(2020年)に続いて二度目。北欧の奇岩島と映画聖人ベルイマンと女性映画作家の難航するシナリオ書きという三題噺が交錯する世にも美しい職人技の(英語)映画(→予告編)。こういう映画撮れる人なので、すごく期待して観た最新作は、現代のパリが舞台の(フランス語)映画。
ストーリーは前作ほど混み合ってなくていたってシンプル。一方で進行する難病に冒され死につつある父親ジョルグ(演パスカル・グレゴリー)を、必死で最良の条件で旅立たせようとする家族(含む元妻フランソワーズ:演ニコル・ガルシア!すばらしい)の奮闘があり、その中心になっているのが娘のサンドラ(演レア・セイドゥー)である。もう一方に娘リン(演カミーユ・レバン・マルティンス)をひとりで育てる(娘の父親は他界)ことで10年間恋なしで暮らしてきたサンドラが、偶然再会した(娘の父親の親友だった)クレマン(演メルヴィル・プーポー)との間に育ちつつある愛の上昇と下降と再上昇と再下降と...(いたってシンプルなラヴ・ストーリー)。この二つの筋が同時にひとりの人間=サンドラを通して、一方はじわじわと悪化、他方はじわじわと結実へ、という愛と死、エロスとタナトスのクロスする1時間50分。
まずパトリス・シェローやエリック・ロメール映画の名男優パスカル・グレゴリーが演じる難病で死にゆくジョルグという人物は、年齢こそ明らかにされていないが、70歳前後と想定され、本来ならまだ”現役”という年代。哲学教授/翻訳家として人生のすべてを哲学書との取っ組み合いに費やしてきたような男。ちなみに演じるパスカル・グレゴリーは現在68歳、そしてこの人物のモデルとされるミア・ハンセン=ローヴの父で哲学教授のオレ・ハンセン=ローヴはこの映画のシナリオを書き上げる直前に72歳で亡くなっている。この"現役”のジョルグを突然襲った病気は”神経変性疾患”の一種で、視力と記憶力と言語能力を奪っていく。本が読めない、ノートに書く言葉が出てこない。書物と言葉と論理で生きてきた人間にとって、これはすでに”死”を生きていることに等しいが、それを本人が認識することすらできない。肉体は残っていても、この初老の男は既に”行ってしまって”いる。娘サンドラはそれを直視して立ち会っている。パスカル・グレゴリーの演技はその途方もない悲しみを見事に表現しているのだ。脱帽。
自宅アパルトマンで書物に囲まれて暮らすことができなくなり、オテル・デュー病院の神経科に入院、現代医学でできることは限られていて(処置なし)、老人施設(Ehpad)へ入居。奇しくも2022年のフランスで、世界的規模で展開する民間老人施設チェーンのORPEA(世界で1200施設、フランスだけで200施設)で収容老人の死亡事故や虐待が次々に告発されるスキャンダルがあった。この映画はその問題とは全く関係はしていないものの、ジョルグはなかなかこの老人施設環境に溶け込めず(そういう施設に入るような”歳”でも"状態”でもない)、サンドラら家族の配慮で、この映画の時間だけで三度老人施設を引っ越している。だが病状は目に見えて悪化していく。私ね、パスカル・グレゴリーと同い年ということもあって、こちら側の病気ストーリーの方は観るのが本当にヘヴィーだったのですよ。
さてもう一方のラヴストーリーの方はというと、外見は若づくりでも、アラフォーとアラフィフの恋という設定。サンドラは翻訳家/同時通訳という職業があり、国際会議や歴史的式典にも出ていく。クレマンは宇宙化学者(astrochimiste)という隕石サンプルを化学分析する研究者で、妻帯者・子持ち(10歳前後の男児)であるが、妻との愛はとっくに冷めているもののそのままにしている。だからクレマンの側は世間的には"不倫”ということになる。私はね、この”不倫”という言葉が大嫌いで世界中の辞書からこの言葉を削除したいと考えているのだが、それはまた別の機会に。で、あまり変わりばえのない月並みなラヴストーリーなので、妻に気づかれた、もう会わない方がいい、etc etc で映画の時間で二度クレマンは別離を告げ消えていく。泣くのはいつもサンドラ。メイクが薄いせいなのか、結構泣き顔がボロボロなのが、この映画でのレア・セイドゥー。"ボンドガール”まで演った国際的花形スターとはちょっと距離がある今回の役どころであり、映画冒頭で娘リンを小学校に迎えに行く格好が、スウェットにジーンズ(!)という出たちで近所のおかあさんになりきっている。いいですね。
この関係に微妙に介入するのがサンドラの娘のリンであり、全然性格の悪くない聡明な子なのだけれど、せまい2部屋アパルトマンで、母娘ふたりだけの世界を作ってきた(つまり母を独り占めしてきた)のに...。概ねはこの優しくて子供つきあいのうまいクレマンを許容しているものの、どうしても自分の存在を主張したい本能があり、ある日からリンは(どこも悪くないのに)片足を引きずって歩くようになる(このエピソード、とてもよくわかる)。
そしてある晴れた朝、サンドラはリンとクレマンを連れて、老人施設にジョルグに会いに行く。記憶も理解も視力もあやふやになっているジョルグに、私が娘のサンドラ、あなたの孫娘のリン、これがこの前話したクレマン、と紹介する。すると施設のスタッフたちが、大広間でショータイムよ、と収容老人たちを連れて移動していく。そこではサンドラ、ジョルグ、リン、クレマンと老人たちの前で、ボランティアのお兄さんお姉さんたちが歌詞カードを配って、みんなで歌いましょう、とミュゼットの名曲「サン・ジャンの恋人」を。なんと、これ、みんな歌うのだよ。老人たち、クレマン、リン、そしてジョルグまで唇を動かしている。この映画でしょっちゅうくちゃくちゃの顔で泣いているサンドラは、ここでも涙が止まらなくなって...。いたたまれなくなったサンドラは、リンとクレマンを連れて老人施設を出て、モンマルトルの丘へ。それがこの映画ポスターに描かれた、笑顔の3人の姿。映画は一方のストーリーの方だけに少し開かれた未来の可能性を与えて終わるのである...。片方だけと言えど、この優しさは例外的であり、心揺さぶられる。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)"Un beau matin"予告編
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