2011年8月30日火曜日

人これを「コピナージュ」といふ。



 コピナージュ copinage : n.m. [話]1.仲間関係。 2.[蔑]仲間うちの助け合い,なれ合い。


 よく使われるのは,ジャーナリストがその知り合いや同業ジャーナリストの小説作品や映画作品を紹介して褒め上げたりする記事のことを指してコピナージュと言います。私は今月,向風三郎名義で公然とコピナージュをやってしまおう,というわけです。
 主人公は私の飲み友だちです。仲野麻紀さんは2002年からパリを拠点として活動している音楽アーチストです。ジャズ/イムプロヴィゼーション,ワールド,クラシック,シャンソンなどをほどよくミクスチャーした,近距離で聞く音楽(聞き取れない音を聞きたくなるような音楽)を奏でる楽士さんで,楽器はサキソフォン,メタルクラリネット,ネイなどを吹き,歌も歌います。ヤン・ピタール(ブルターニュ系フランス人。エレクトロ/アコースティック・ギター,エレクトロ/アコースティック・ウード,ヒューマンビートボックス,妙な機械もろもろ)を相方として,Ky(キィ)というユニットを組んでいて,ミニアルバムを2枚,フルアルバムを4枚出しています(Ky オフィシャルサイト)。 世界中よく飛び回っていて,レバノン,モロッコ,米国,日本...などに出没します。
 日本ではこの9月23日に東京の代々木能舞台で,夢枕獏の朗読にKyが音楽で共演する「陰陽師朗読コンサート」を開く他,10月からは麻紀さんとヤンの他にフランス,ブルキナファソ,コート・ディヴォワールのミュージシャンを加えた5人のグループBala Déeとして,和歌山,広島,京都などの8回のコンサートが組まれています。
 その間に10月頃にはこの夏にスタジオ録音していた新しいアルバムも出ることになっています。というような事情で,大変忙しい方なので,さぞ売れっ子なのでしょう,と思われるムキもありましょうが,この世界,これだけで喰うには...。麻紀さんも料理教室の先生やったり,介護のアルバイトしたり,そりゃあ大変苦労されています。
 お立ち会い,よろしいですか,イムプロやフリーの人がポルシェやフェラーリを乗り回してるのを見たことがありますか? (あ,これ,職業差別っぽい発言だなあ...)
 私だって音楽の仕事をして既に20数年になるのに,イムプロ/フリーにはできるだけ近寄らないようにしていたキライがあります。日本の歌謡曲だって全然平気なのに。(あ,これも問題発言かなあ...)。了見の狭い人間なのです。こういう私のような人間が多いから,この手のコンサートはいつも百人単位の会場だし,インテリ&頭でっかちしか集まらないし,ワールドっぽくても踊れないし,スポンサーはつかないし,ミニバスで仮眠とるしかないし,いつも駅前食堂だし...ということになるのです。プロモーションなんて不要,聞きたい人だけが聞けばいい音楽,などと言ったら,私と麻紀さんの飲み友だち関係はどうなるんですか?
"With a little help from my friends"
"Like a bridge over troubled water"
"You've got a friend"
 3曲歌って,私は仲野麻紀さんのプロモーションのお手伝いをすることにしました。人これをコピナージュと呼ぶ。
 金曜日(9月2日)に麻紀さんとヤンにインタヴューし,二人の旅と音楽について語っていただきます。その原稿を5日まで上げると,9月20日売り出しの「ラティーナ」に載り,23日の「陰陽師コンサート」にはそれを手にした人たちが来る,なんていうシナリオを考えているわけですが。
 冗談はさておき,麻紀さんとヤンの友人であり,昨年11月にヤンと常味裕司氏と「インターナショナル・ウード・トリオ」として日本をツアーしたエジプト人ウード奏者/歌手のムスタファ・サイッド(ラティーナ2011年2月号に北中正和さんの記事あり)が,9月に自費(旅費自腹)で日本に行き,福島でコンサートを行うことになり,麻紀さんも同行するそうです。「イスラエルがシナイ半島で使った劣化ウラン弾の影響で,生まれつき全盲」(前掲北中さんの記事より)のサイッドが,原子力/核の被害者たちにどうしても訴えたいことがあり,本人の意志の強さに動かされた麻紀さんのコーディネートの甲斐あって,緊急の福島行きが決まりました。実に行動力のある人たちです,感服。このことも記事で報告しようと思っています。
ムスタファ・サイッドの日本ツアー日程
 9月28日 福島 五大院 不動尊護摩供養 演奏
 9月29日 南相馬 銘醸館
 10月1日 東京 ティアラ江東 (対談:西谷修)

 2010年のKyのアルバムは『Musique Vagabonde 旅する音楽』と題されています。この人たちは here, there and everywhere,パリのスタジオに籠っているのではなく,世界中飛び回って,道ばたの音楽を食べて生きているようなところがあります。私はそういう話をふんだんに入れた,コピナージュ記事を書こうと思ってます。

(↓旅するKyのロード・ムーヴィー。2009年日本ツアー)

2011年8月22日月曜日

A cause du soleil... 太陽のせいやんけ...



 こういうどこの家の庭/ベランダにでもあるような白のプラスティック椅子でした。屋外や覆いのないベランダのようなところで使われるために作られたものですから,悪天候でもそのまま外に放置されています。
 この夏,ヴィルヌーヴ・ルーベに2週間借りたレジデンスのベランダにも4脚ありました。こういう生活の場合,リヴィングで食事を取るのは稀で,だいたいがベランダでアペロや食事や団らんの語らいの時間を過ごすことになります。テレビは備え付けてあるものの,ほとんど見ない。FMラジオは音楽だけでなくローカルな天気予報やイヴェント情報が入るので,レジデンスにいる時はほとんどつけっぱなし状態で,十数年前に買ったAIWAのCDラジカセは今夏も大活躍で,ベランダでゴキゲンな音楽を流し続けてくれました。
 私たちのお気に入りのステーションはふたつあって,中高年である私と奥様はラジオ・モナコ,ハイティーンである娘はKISS FM,共にパリでは聞けないコート・ダジュールの地方ステーションです。
 この夏のヴァカンスはわが家は,私+奥様+娘+犬様に加えて,娘の親友のルイーズというお嬢さんを連れての,4人+1匹の休暇でした。レジデンスにはちょっと立派なプールがついていて,午後9時まで開放しているので,私たちが午後7時頃にビーチから帰ってきても,娘たちはプールに直行して,あたりが薄暗くなるまでプールで遊んでいます。そして私が3階(最上階)からプールに向かって「ア・ターブル!(食事ができたから帰っておいで!)」と叫ぶと,水着のまま上がってきて,そのままテーブルに着席します。この場合,このプラスティック椅子がたいへん役に立つわけですね。濡れてたってかまわないわけですから。
 さて,このプラスティック椅子なんですが,私たちが入居して3日めの昼,体重84キロの私が食後満腹のリラックス気分で後ろ方向にちょっとスウィングしたら,4本ある脚の後ろ側の2本がバレエの大開脚のようにゆっくりと左右に広がっていき,私の体もスローモーションで後方に倒れていき,限界点でプラスティック椅子はバキっと大きな音を立てて一本の脚を折ってしまい,私は椅子と共にベランダのコンクリート床に倒れて,後頭部を激しく打ってしまったのでした。
 ここはどこ? 私は誰?
 人の不幸をなんとも思わず,奥様と娘たちはこのスペクタクルに大笑いして喜んだのでした。そしてこのアクシデントの原因はひとえに私の体重にある,と決めつけたのです。太りすぎ,食べすぎ,飲みすぎ,運動不足。あらゆる名前をつかって私の過失を責めるのです。したり顔で「これが教訓だからお父さんは痩せる努力をしないと」などとのたもうのでありました。
 そんな理不尽な,そんな不条理な...。
 私の不幸を少しもおもんぱかってくれない女性たち。打った後頭部を気遣って,なでなでしてくれるくらいの愛情があってもいいんではないですか,え? もしももっと頭を強く打ってしまって万一私が死んでしまったら,「プラスティック椅子殺人事件」が立件する可能性だってあったかもしれないんですよ! だいたいこの椅子は体重84キロごときで脚が折れるはずはないでしょう。一体誰がこの椅子脚が折れるように細工したのか? 奥様か? 娘か? ルイーズか? 犬様か? 私に殺意を抱いているのは一体誰なのか?

 その午後,レジデンスの管理人室に壊れたプラスティック椅子を持って行って,事情を説明して,椅子を取り替えてもらいました。その時管理人のムッシューに聞きましたよ - 「この椅子ってそんなに弱いものなんですか? 私くらいの体重でも耐えられないものなんですか?」 - するとムッシューはこう言ったのです「それは太陽のせいなのです。- C'est à cause du soleil」と !!! 強い日射に晒されっぱなしだと,プラスティックは強度を失ってしまうのです,と。きわめてきわめて文学的な瞬間でしたね。私の体験した不条理は「太陽のせい」という一言ですべてが了解できたのでした。一瞬にして地中海的でカミュ的なヴィジョンが目の前に広がります。

↓ルッキノ・ヴィスコンティ『異邦人』(1967年。ムルソー役にマルチェロ・マストロヤンニ)


2011年8月16日火曜日

気体になったアラン・ルプレスト



 2011年8月15日、アラン・ルプレストが自殺しました。プロデューサーのディディエ・パスカリがAFPを通じて発表したコミュニケによると、ジャン・フェラの「山」に歌われ、フェラが半生を過ごしたアルデッシュ地方の山村アントレーグで7月半ばに開かれた「ジャン・フェラ・フェスティヴァル」にメイン・ゲストとして出演したルプレストは、そのままその村でヴァカンスを過ごしていましたが、15日未明に死体で発見されました。遺書は残されていますが、公開されていません。
 2008年1月、私はメニルモンタンのカフェでアランと会い、シャンソンのこと、詩のこと、病気のことも含めてたくさんのことを聞きました。誰もがアランの余生はいくばくもないと思っていた頃で、脳腫瘍の手術を奇跡的に成功させたものの、肺ガンが進行していた頃でした。ブレル、フェレ、フェラ以来のシャンソン詩人と言われながら、一般には知られず、オランピア出演は一度だけ、というマージナルなアーチストの作品を、他のアーチストたちが愛し、これらの歌は詩人が生きている間にもっともっと知られなければならないと言い、トリビュートアルバム「シェ・ルプレスト」(ルプレスト亭で)は2巻作られました。オリヴィア・ルイーズ、ジャック・イジュラン、ニルダ・フェルナンデス、エンゾ・エンゾ、イヴ・ジャメ、ロイック・ラントワーヌ、クラリカ、ケント、ラ・リュー・ケタヌー...。
 詩人はこれらのシャンソン「同業者(コレーグ)」たちに支えられて、元気を取り戻しているように見えました。バタクランで開かれた「シェ・ルプレスト」の宵は超満員で、喝采の中でルプレストは人々に愛されていることを感じたはずです。
 私はその後も何度かメニルモンタン界隈でアランと出会っていて、この写真の頃のような抗がん剤使用による脱毛状態から脱して、頭髪がどんどん伸びているのを自慢して私に見せてくれました。「いろんなプロジェクトがあるんだ」と会うたびに新アルバムのことや、新しい共演相手のことなどをうれしそうに話してくれました。
 2009年アルバム『氷山が溶けてしまう時』が発表され、私のブログでも紹介しました。私はそこで「死の床からの帰還を記念するアルバム」と書きました。死の床で書いた詩を再びシャンソンという声のアートで作品化できる、これは帰還です。脳という言葉の出どころを冒され、肺という声の出どころを冒され、アランの中でシャンソンは死ぬしかなかったのに、アランはシャンソンで帰ってきた。私たちはあの頃、少し軽々しくはありますが、「不死身の男」と彼を呼んだのです。
 しかし、病いの状態は完治ではなく、あくまでも Rémission(レミッシオン)= 鎮静期間であったにすぎません。闘病中も鎮静期間中も酒とタバコはやめていなかったようです。

 16日、レコード会社ロートル・ディストリビュシオンのリュック・ジェヌテーと長い時間電話で話しました。彼もすべての情報を集められているわけではありませんが、重いショックの中、電話の応対に追われていました。アントレーグのジャン・フェラ・フェスティヴァルにリュックは行っていないものの、見た人たちの証言によると驚くほど若々しく張りのあるステージだった、と。デビューアルバム『Mec(野郎)』(1986年)の頃のアランを見るようだった、と。観る者たちもアーチストもこのステージに大満足だったから、アランはこの村に残って休暇をすごすことに決めたのではなかったのか、とリュックは自問します。
 2011年末発表予定とされていた新アルバムは、どこまで進行していたものかわかりません。また来年にはパリのラ・シガールでの連続コンサートの予定が入っていました。

 俺が気体になったら、もっともっとスウィングするさ
  俺は神様のサキソフォンを出入りするジャズになるのさ
 Pour moi ça gazera mieux quand je serai devenu du gaz
  Quand je serai devenu du jazz, dans le sax du bon Dieu

 アラン・ルプレストは気体になってしまいました。鳴きたい気体。泣きたい気体。アラン、生きたい気体ではだめだったのですか?

(↓ Allain Leprest "C'est peut-être")

 

<<< 爺ブログ内のアラン・ルプレストに関する記事 >>>

2008年1月20日 明日アラン・ルプレストに会う。
2008年1月22日 
Allain Leprest is alive and well and living in Paris

2008年2月3日 Le Bonheur est dans Leprest
2008年3月13日 バタクランで「シェ・ルプレスト」
2008年8月5日 今朝の爺の窓(2008年8月)

2011年8月15日月曜日

サルコジ前夜に消されたゲイジャーナリスト



Joseph Macé-Scaron "Ticket d'entrée"
ジョゼフ・マセ=スキャロン『入場券』


 世に左翼から保守に転向した政治家、作家、文化人はごまんといます。現東京都知事でさえ若気の至りの頃は左翼でしたから。その逆で保守から左翼に転じる人は珍しいのです。フランスではフランソワ・ミッテランという大きな例外がありますが。この小説の作者、ジョゼフ・マセ=スキャロンは保守系ジャーナリストとして15年間「リベラル」論陣を張っていたのち、2007年に保守紙フィガロの別冊週刊誌フィガロ・マガジンの編集長の座を追われ、数ヶ月後に左翼系週刊誌マリアンヌのジャーナリストとして復活して現在に至っています。
 小説はこの経過を追うような自伝的フィクションで、時代背景は2005年から2007年にかけてです。現実の世界では歴史ある保守新聞フィガロの出版グループが、セルジュ・ダッソー(仏軍用機産業のドン。創業者マルセル・ダッソーの息子)に買い取られ、同紙の報道の独立性の維持が危ぶまれました。古今東西保守紙が財界/産業界におもねる紙面を作るのは当り前のことではありますが、ダッソーにはこの新聞をラジカルに変えてしまう狙いが最初から見え見えでありました。この軍需産業の巨魁にはその地元ヌイイ・シュル・セーヌで親子二代で我が子のように育ててきた若手政治家がおりまして、すくすく育ったその辣腕政治家は2005年、天下取りの一歩手前まで来ている。ニコラ・サルコジを大統領にするために、この保守紙はダッソーによってサルコジ新聞に変身を迫られるのです。第一面の扱いや見出しタイトル、記事内容に関してダッソーと内務大臣(当時のサルコジの役職)が事前チェックを入れるようになるのです。編集部や記者たちの人事はコロコロ代わり、少しでもサルコジに批判的だったり疑問を抱いたりする記事を書いたり載せたりする者は容赦なく左遷されるようになります。
 小説の話者バンジャマン・ストラーダは40代のジャーナリストで、伝統あるリベラル全国紙「ル・ゴーロワ」(読者の誰もがフィガロと見抜いてしまう)の政治部に勤め、ジム通いを欠かさない筋肉質の肉体と魅惑的な風貌を持つホモ・セクシュアル者です。それも「ボボ・ゲイ(bobos-gays)」と呼ばれるハッピー・フュー、つまり裕福で最先端のゲイカルチャーやゲイイヴェントのために世界中のゲイスポットを周れる、ごく一部にだけ許されたゲイ世界の共有者です。パリ3区のマレー地区だけでなく、バルセロナ、ベルリン、ニューヨークなどの普通の人々からは隠されたハイクラスの最先端ゲイの世界が描写されていて、私などはとても興味深く読みました。そのエロいショーやテクニックのことなども。この小説のプレス評の中には、このゲイとエロの部分をことさらに強調してスキャンダルものとして扱うむきもあります。マセ=スキャロンは、この330頁ある小説の中で、エロ描写の部分はたった14頁しかないのだ、とその批判を相対化しています。
 ストラーダが長年連れ添ってきた若い恋人ユゴーと破局するところから小説は始まります。さてどうするか。ホモであろうがヘテロであろうが、40歳代の男の危機感は変わらないのです。論語は四十不惑(しじふにしてまどはず)と教えますが、惑ってしまうのです。今までやってきたことは何だったのか、今まで寄り添っていた連合いとは何だったのか、やり直せるとしたら今しかないのではないか。40代の男はみんなそういう顔をしています。ストラーダは俺は一体今までどこにいたのか、わからなくなってしまいます。このアイデンティティーの危機的状況から脱するために、精神分析医にカウンセリングを求めたり、プルースト『失われた時を求めて』を読み直したりします。出会いは新しい恋人を探すためではなく、往々にして自問自答を他人にぶつけることのためです。
 そんな中でストラーダは初老の国際コンサルタント会社社長ルノー・ワラスと出会い、二人でバルセロナ旅行(エロいゲイスポットの旅。性関係込み)の果て、記者業に甘んじることなく大きなキャリアを狙えと進言します。そして政財界に強力なコネを持つワラスが、ル・ゴーロワ紙の新経営陣とも通じていて、その総帥シャルル・サボ(読者は誰もがセルジュ・ダッソーと見抜いてしまう)との会見までセッティングして、ストラーダをル・ゴーロワの別冊週刊誌「ル・ゴーロワ・マガジン」の新編集長に抜擢させてしまうのです。
 ニコラ・サルコジはそのままの名前で小説に登場します。内務大臣として内務省を要塞化し、内政問題に関しては大統領府を凌駕する権限を発動させていた、前例を見ない権力アニマルです。その昇り竜の勢いが最も顕著だった2005年から2007年、現職大統領シラクはもはや表舞台には立てず、難聴と噂され、記憶も薄れているとさえ言われ、引退して自叙伝でも書くことくらいしかこの人物に残されたものはない、と思われていました。
 サルコジは早くもストラーダに直接電話を入れてきます。「この前のおまえの記事よかったぞ。セシリアもすごく気に入ってた」というようなチュトワマン(おまえ、俺、で話す)で内務大臣はしゃべりますが、ストラーダはヴーヴワマン(あなた、わたくし、で話す)で答えることになります。こいつには逆らわない方がいい、という世の中の動きがあります。そうであるべきではないジャーナリズムの世界でもそうなのです。とりわけル・ゴーロワ社内では。
 保守とゲイはかつては水と油の関係でした。フランスの保守が重要視する諸価値のひとつに「家族」があるからです。それはカトリック的道徳観と強い関連があり、ローマ法王庁のように同性愛、避妊(コンドーム使用)、中絶などを禁止しようとする考えに近いものです。保守はゲイを日陰者にしてきました。同性愛は1981年まで「犯罪」として扱われてきたのです。それを撤廃したのがミッテランでした。という事情で、ゲイ・コミュニティーは概ね反保守であり、選挙には左翼やエコロジストに投票するのが常でした。ところが時代と共にオーヴァーグラウンドで活躍するようになったゲイの人々(自営業者、会社幹部、一部アーチスト...)には、保守にシンパシーを抱く傾向が増えていきます。
 ストラーダはル・ゴーロワ・マガジンの次の号の表紙と目玉記事用に、ジャック・シラク大統領のインタヴューを申込み、翌日にいざそのインタヴューという前夜真夜中に、ル・ゴーロワ幹部から電話が入り、「明朝、内務省でニコラ・サルコジにインタヴューの約束を取り付けたので、そっちに行け」と厳命されます。ル・ゴーロワ首脳陣の中では既にシラクは用のない人物であり、読者が求めているのは新時代への期待である、というリクツですが、実はそれは影からの圧力に他なりません。
 ストラーダはやむなく内務省に向かい、チュトワマンでしゃべりまくる超アクティヴな内務大臣と相対します。このパッセージがこの小説の大きな山で、おそらくジョゼフ・マセ=スキャロンの実体験の記憶で一字一句正確に記録されているものをそのまま持ってきたのでしょう。国や国益や国民のためにそこにいるのではない、まさに自分のためだけにその地位にいる人間がもろに見えてきます。この男は国を盗るでしょう。
 過去と断絶すること:Rupture(リュプチュール)。サルコジのお題目のひとつでした。「私はリュプチュールの大統領になる」。12年間のシラクのぬるま湯の中に眠るような不動/停滞政策から断絶して、サルコジはアクティヴにフランスを目覚めさせる、という期待は、一部のゲイ・コミュニティーを魅了します。それをダイナミックにサルコジ・キャンペーンの中に取り込もうと、UMP党は「ラ・ディアゴナル(対角線)」と名乗る新保守系ゲイのアソシエーションを組織し、パリ3区マレー地区を煽って、「バン・ドゥーシュ」クラブで大規模なラ・ディアゴナル・ナイトを催します。サルコジ派政治家たちも多くかけつけますが、メインスターはもちろんニコラ・サルコジです。大歓声の中で門に現れたサルコジは、その場にストラーダがいるのを見つけ、「なんだ、おまえもいたのか。あのインタヴュー記事は全くなっていない!」と不平を言います。上背のあるストラーダは体を硬直させ、この大統領候補を上から見下して、こう答えます「私はあなたのゴーストライターではありません」。すぐさまサルコジから罵りの一喝「馬鹿者!」。入口への階段を昇っていくサルコジは、ふいに振り返り、ストラーダに向かって、子供の遊びのように指鉄砲を構え「パーン!」。
 ストラーダのジャーナリスト生命はその時に絶えたのです。時を待たずにル・ゴーロワ幹部はストラーダを呼び出し、辞表提出を強制し、いとも簡単にクビになります。
 小説はおおいにジョゼフ・マセ=スキャロンの生身の部分を表出させていると思います。滑稽でもあり痛々しくもあり、コカインの作用で性の怪物と化して夜を彷徨する悲しいゲイの姿もあります。あの「バン・ドゥーシュ」ナイトのあと、夜のさまよいの果てに辿り着いたバーで知り合った、奇しくもニコラという名の男、この優しい歴史教師の男は、満身創痍の獣のようなストラーダの肩を抱きしめ、こう言うのです。

「きみは大人の人間の生の第一原則を知らずに生きているんだよ」
  − 何だい、それは?
「生きることだよ」


 この夜、バンジャマン・ストラーダはサルコジに殺され、ニコラという男に生きることを教わるのです。よくできた話じゃないですか!

JOSEPH MACE-SCARON "TICKET D'ENTREE"
(GRASSET刊 2011年5月 330頁 19ユーロ)


(↓国営テレビFRANCE 3での短い紹介ヴィデオ)


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