2009年2月23日月曜日

ヴェロニク・サンソンを(もっと)抱きしめて

 

(←左からヴィオレーヌ・サンソン、ヴェロニク・サンソン、ミレイユ・デュマ。

2009年2月23日放送のミレイユ・デュマの番組Vie Privé Vie Publiqueから)  もうインタヴューしてから1年が過ぎているようです。  今日国営テレビFrance 3のミレイユ・デュマの番組に、ヴェロニク・サンソンと姉のヴィオレーヌが出演していました。言ったらなんですが、この人まだ60歳にもなっていないのですよ。この4月で60歳にはなりますが。しかし、去年のインタヴューの時も気になってはいましたが、この老婆のようなしゃべり方は、ますますひどくなっていて、今日のテレビではまるで...。ろれつが回らないのと、涙もろくてすぐ泣いてしまうのと、もう本当に老婆の態で、2歳年上の姉ヴィオレーヌが(たしかにずっと若く見えました)まるで母のことを証言する娘のような図で...。  例の血液の病気か、それともアルコール中毒が続いているのか、なにかとても痛々しい映像でした。息子クリストファー・スティルスもずいぶん母親を弁護する証言をしていましたが、現在息子君はカメル・ウアリ(TF1テレビ番組スターアカデミーで有名になったダンサー/振付師/プロデューサー)の新作ミュージカル『クレオパトラ』でシーザー役を演じています。シンガーソングライターとして大成し、2008年CDアルバム売上の3位となったトマ・デュトロン(フランソワーズ・アルディの息子)とは、やや差が出てしまいました。  フランソワーズ・アルディの自伝本では、アルディが1972年のヴェロニク・サンソンのデビューにものすごい衝撃を受けたことが正直に記述されています。まさにサンソンとミッシェル・ベルジェが60年代イエイエを葬り去ったということを言っています。同時に、ジョニー・アリデイをはじめアルディも含めて60年代のアーチストたちが、貧しい環境から出て来た人たちがほとんどだったのに、サンソン、ベルジェ、ジュリアン・クレール、アラン・スーションなど70年代の牽引者たちはブルジョワ子弟だったことも、時代の変化として特記しています。  ヴェロさんにはまた会いますよ、きっと。  

2009年2月21日土曜日

Qui verra Vera l'aimera (*)



 フェイスブック友だちのロールが、おととい唐突にピンク・フロイドの"Goodbye Blue Sky"(THE WALLの中の1曲です)の歌詞を引用したことに即座に反応してしまいました。ピンク・フロイド"THE WALL"はCDで持っていません。アラン・パーカーの同名映画もビデオやDVDは持っていませんが、映画館で少なくとも3回は見たはずです。アルバムはダブルLPで、文字通り擦り切れるほど聞いていた記憶があります。で、またダブルLPを出して昨日しっかり聞き直してしまいました。
 このアルバムの中で「ヴェラ」という歌があります。ロジャー・ウォーターズが歌うと「ヴィ〜ラ〜」と聞こえますね。この歌の話は結構有名ですから、知っているムキもありましょうが、ヴェラ・リン(1917 - )という第二次大戦中にイギリス軍兵士たちの心の恋人(Force's sweetheart)と呼ばれ、大変な人気を博した女性歌手のことを歌っているんですね。このヴェラ・リンの有名な歌で「また会いましょう We'll meet again」というのがありまして、戦友たちにいつかどこかは知らないけれど、陽光の下でまた会おう、と歌ってるような歌詞です。


 これをロジャー・ウォーターズは、誰かヴェラ・リンのことを覚えているやつはいるか、あの女は、俺たちがいつかまた再会できると歌っていたんだぜ、バカヤロー...というような恨み節にしてしまったんですね。
(↓ 1980年アラン・パーカー映画『ピンク・フロイド - ザ・ウォール』の中の「ヴェラ」)


 このヴェラ・リンの"We'll meet again"は、1964年のスタンレー・キューブリック映画『博士の異常な愛情』のラストシーンで、全世界で核爆発のきのこ雲が上がっている中でこの歌が流れるというのでも有名になりました。


 また1954年にヴェラ・リンは "It hurts to say goodbye"という歌を吹き込んでいます。


 この歌がその14年後に、セルジュ・ゲンズブールによる「超翻訳」の訳詞をされて、"Comment te dire adieu"(邦題「さよならを教えて」)となってフランソワーズ・アルディに歌われた、ということは言うまでもありまっせん。


(*)記事タイトルの解説です。ちょっと衒学的でごめんなさい。わしらが仏文科学生だった頃はちょっとカルト化されてた19世紀フランスの象徴主義作家オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダンの幻想中編小説『ヴェラ』の有名なフレーズです「ヴェラを見た者は愛さずにはいられないだろう Qui verra Véra l'aimera」

***  *** *** *** ***

2020年6月18日追記

英国の国民歌手ヴェラ・リンが2020年6月18日、103歳で亡くなりました。100歳過ぎても現役で、戦時から英国の希望の象徴とされた代表曲"We will meet again"を歌い続けた。英紙ザ・ガーディアンによるYouTube投稿(↓)ヴェラ・リンと"We will meet again"へのオマージュ。


2009年2月17日火曜日

もう森へなんか行かない 林もアルディよ



 聖ヴァレンタインにタカコバー・ママにオーキッドの花を贈ったんですが,そのお返しにSpeedoの水泳パンツをもらいました。少しはスポーツせよ,とのココロでした。「サイズLでよかったんでしたっけ?」と言われました。それはコンモリ部分のサイズではなく,ウエスト周りを意味するのですね。「合わなかったら交換しに行きますよ」と,タカコバー・ママははじめから最悪XLを予想していたようなもの言いでした。むっ。で,その場で全部脱いで試着して見せましたよ。..... うわぁぁぁぁぁっ!なんと醜い姿でしょうか。水泳パンツLサイズは問題なく入ったものの,そのウエストの上に盛り上がったゴム浮き輪のような腹部。前腹はもちろんのこと脇腹から背中まで...。爺はホーマー・シンプソンそのものでありました。

  Ma jeunesse fout l' camp

 マジュネス・フ・ル・カン。まじ,私の若さは古い缶詰。私の胴回りはツナ缶のようになってしまった。もう私の若さはシーチキンになって飛んで行ってしまった。おっとチキンは空が飛べないので,のたのたとした足取りで森の中にかくれてしまった,というのが正しいでしょう。
 一体どうしてここまでぶよぶよになるまで放っておいたのでしょう。もうプールになんか行けない。もう海になんか行けない。
 タカコバー・ママとはもう30年来のつきあいです。そりゃあ長い間のことですから,その間には仲違いがあったり,どちらも違う相手に傾いたりとか,いろいろありましたわね。もうこの人とは二度と会うまいと思ったことも何度かありました。タカコバーになんか二度と行くもんか,と。タカコバー・ママは旧姓を「森さん」と言い,爺は若い頃,ずっと森さんと呼んでいたのでした。そして,もう森さんのところへなんか行かない,と捨て台詞を吐いて,その翌日には花束やら菓子折りを持って行くというのが,若い頃の私の常でありました。

  Ma jeunesse fout l' camp

 マジュネス・フ・ル・カン。まじ,私の若さはどっかに消えてしまった。大いなるアンニュイを抱いてこれからの余生を生きていかなければなりません。フランソワーズ・アルディ(1944 - )は早くも20歳の頃にこの大いなるアンニュイを覚え,こういう歌を1967年に歌っていますが,作詞作曲はアルディではなくギ・ボンタンペリです。
 この歌"Ma jeunesse fout l'camp"は日本では「もう森へなんか行かない」という題になりました。これは比喩的に感傷的に少女時代の終わりを暗示させ,もう森にひとりで行ってはいけないんだ,あるいはひとりで森に行ったら別の目的になってしまうんだ,ということを言っているのだなあ,とやんわりわからせる卓抜な邦題でした。が,この歌のリフレイン第一行にある"Nous n'irons plus au bois"(私たちはもう森に行かないだろう)は,18世紀に作られた(ポンパドゥール夫人作と言われる)童謡の題名でした。

  Entrez dans la danse, voyez comm' on danse,
  Sautez, dansez, embrassez qui vous voudrez.
    踊りの輪に入って,どんなふうに踊るのか見て
   跳んで,踊って,好きな人にキスして

 こんな童謡ですから,アンニュイとは何のエニシもないのがこの"Nous n'irons plus au bois"でした。ところがフランソワーズ・アルディがあの声で「もう森へなんか行かない」とぼそぼそ歌うと,アンニュイの霧煙がもくもくもくもくとたちこめてしまうのですね。不思議です。
 
 2月15日(日曜日),妻子からあれほど行けと言われていたプールに私は行かず,フランソワーズ・アルディ自伝"LE DESESPOIR DES SINGES...et autres bagatelles"(猿たちの絶望...その他のつまらない小話集)を読み始めました。タイトルの"Le désespoir des singes"は直訳すると「猿たちの絶望」という意味になり,「猿」と見ただけでアルディ流の高飛車な視線,つまり人間より愚かで物真似ばかりする動物への蔑みみたいなものが匂ってきて,われわれはみんな猿みたいなもんですかいのう,と,むっと来るムキもありましょう。しかしこれは植物の名前でもあり,チリ原産の杉科の樹木アラウカナ(南洋杉)のことです。この写真でわかるように,枝にびっしりとトゲ状の葉が繁っていて,木の枝に登ろうとする猿たちも絶望してしまう,というのがこの名の由縁ナシンバラハウンドッグです。こんな木であったら,猿ならずとも人間でも絶望してしまうでしょう。このトゲだらけで,猿も人間も寄り付かない人間像がフランソワーズ・アルディであるというメタファーでしょうか。それは読んでいくうちにわかることでしょうが,アンニュイの日にはやっぱりアンニュイ,400頁を超えるアンニュイのエクリチュールを,私は灰色の冬空の下で背を丸めながら,一気に読んでしまいそうです。
 また後日。

2009年2月11日水曜日

サイバーな詐欺



 昨日たまたまダフト・パンクに関するメールを松山さんに送ったら、今朝のネット版リベラシオン紙にデカデカとニュースが載っていて....偶然ですね。
 ダフト・パンクは数日前に米グラミー賞で2部門受賞でした。それでも当地のメディアはたいした報道をしておりません。まあ,この種の音楽につきまとう,一般メディアの蔑みと言いますか,冷淡な態度が原因してのことと思います。天下のグラミー賞2部門受賞ですよ,もうちょっと騒いでやってもいいんじゃないか,と思いますが。
 ところが,こういう事件になるとデカデカと出ます。一体何が起こったかと言うと,サイバー詐欺ですね。ことの発端は先週から,中国は上海のフランス人コミュニティーの中で,ダフト・パンクがシークレット・コンサートを行うらしいという噂が流れた,ということのようです。そういう噂は瞬く間に全世界に広がってしまいますわね。それを知った2人の若者(フランス人とスイス人)が,この噂を利用して,"DAFT PUNK HIDDEN TOUR 2009"と名乗るツアーをでっち上げ,偽オフィシャル・サイトとフェイスブック・コミュニティーを立ち上げるんですね。
 ダフト・パンクが2月13日,上海でシークレット・ライヴを行う。場所は当日まで明かされない。ヴァーチャルチケットが発行され,チケット代57ユーロを払った人には,当日携帯メールでコンサート会場が通知される。
 これにひっかかった人たちが世界で2000〜5000人いるそうです。もちろんコンサートは開かれません。まんまと売上金を手に入れた二人はとんずらしました。フェイスブックには事件追及糾弾コミュニティー"HIDDEN CONCERT SCAM"が立ち上げられました。"scam"とは米俗語で詐欺のことです。「まんまとすかまされる」と覚えましょう。

 私も娘もフェイスブック利用者で,告知されるイヴェントなどは結構信頼して見てます。またフランスでの話ですけど,去年の暮にある造船工場が銀行融資を受けられなくなって,受注があるにも関わらず百数人の従業員の12月の給料が払えない,倒産もまぬがれない,ということに責任を感じて社長が自殺してしまいます。その娘(まだ20代前半)がやり場のない怒りをフェイスブックに書込み,金融危機を理由に不条理かつ非業の死を遂げなければならなかった父に代わって,私が従業員に給料を払いたいので,みなさんに連帯の心があれば,どんな小額でもいいから寄付してください,と訴えたのですね。そうしたら,この大不況の時期に,たくさんの人たちが激励の手紙もそえて思い思いの額で小切手を送ってきてくれたんです。その結果社員は遅れた月給を支払われ,工場もよい条件で人手に渡る方向に向かっているそうです。これがラジオやテレビなどでも紹介されて,経済危機の時代に花咲くフェイスブック美談になってしまったわけです。
 両極端ありますね。ナイーヴさを捨てて疑ってかかりましょう,と言うつもりはありません。わかると思うんですけどねえ,怪しいものは。

 

 
 

2009年2月7日土曜日

シャンソン喫茶「ルビエ」のマッチ



 2月5日、ニコル・ルーヴィエ(1933-2003)の伴侶だったジュヌヴィエーヴ・グラトロンに取材。1958年10月からの日本公演滞在の時のたくさんの資料(ポスター、コンサートプログラム、新聞雑誌の切り抜き、スナップ写真...)を見せていただいて、驚くことばかり。あの頃の日本は本当にシャンソンに対して熱かったんですね。読売新聞社、新芸術家協会、労音などが主催しての日本ツアーは2ヶ月近く続いて、東京、大阪、奈良、京都から九州まで行ったそうです。
 当時の日本でのカタカナ表記は「ニコール・ルヴィエ」。
 プログラムや雑誌シャンソンの特集号には、矢内原伊作、芦原英了、谷川俊太郎、伊吹武彦といった人々がニコル・ルーヴィエ讃の文章を寄せていました。歌詞なんかみんな翻訳してあるんですね。すごいなあ。あの頃はこういう感じでシャンソンを聞いていたんですね。
 フランスからはニコルとジュヌヴィエーヴだけの渡航で、伴奏はハープとギターとベースの日本人トリオ(トリオ・オルフェ)。フランスで小さなキャバレーやホールでしか歌ったことのないニコルは、日本ではみんな2〜3千人クラスの会場を回るのでびっくりしていたそうです。東京は共立講堂でした。
 しかしニコルのレパートリーだけでは集客が難しいと考えたのでしょう、ニコル・ルーヴィエはシャンソンのスタンダード曲(枯葉、ミラボー橋...)も歌うことになったのです。フランスでは自作以外の歌を人前で歌ったことがないのに、ニコルは日本に来て初めて他人のレパートリーを歌ったのです。ギ・ベアール作の「河は呼んでいる L'eau vive」に至っては、日本語歌詞でも歌ったんですね。
 あと、ジュヌヴィエーヴから聞いて仰天したのは、ニコルの名前を冠したシャンソン喫茶が東京にあった、ということ。なんとシャンソン喫茶「ルビエ」は京橋にありました。ジュヌヴィエーヴはその店のメニュー表とマッチを持っていました。店の主人(男性)とニコルが並んで店の前で撮った写真もありました。店内にはニコルのポスターや肖像画があって、ニコルがそれにすべてサインをしていったそうです。もう50年前の話ですから、想像するしかありませんが、東京でニコルのシャンソンを愛する人たちがこんなところに集まって、目を閉じればサン・ジェルマン・デ・プレ、なんて思っていたのかもしれません。


(← コンサートプログラムの一部。谷川俊太郎、芦原英了、高英男の鼎談が載っています)

2009年2月6日金曜日

寒い日にふわ〜っと暖まる音楽



 ここも事務所から歩いて10分ほどにある「サテリット・カフェ」です。初めて行きました。ジル・フリュショーのブダ・ミュージックからCDを出しているレユニオン島のグループ「ティパリ」です。とは言っても島のバンドではありません。島出身者は島娘コリンヌと島娘ジゼルだけ。コリンヌ(と相棒のベーシストのケヴィン)の作るレユニオン望郷の歌をパリ在住のミュージシャンが集まってトロピカル・ジャジーな味付けで展開する、とてもフルーティなバンドです。
 というわけで、島出身者たちが集まってディープな島音楽に酔いしれるというコンサートではありません。インド洋に浮かぶ小さなレユニオン島が、マダガスカル、アフリカ大陸、中東、インド、中国などの人と文化を混ぜて凝縮したような土地柄のせいか、今夜の客層もパリ的にカラフルで、トロピな人、アフロな人、アジアな人、白人な人、老若男女さまざまでした。
 コリンヌもよく混ざったクレオール娘で、褐色の肌で大きな瞳(チャーミングな垂れ目)ながら中国アジア系のいいところがよく出た華やかな女性。ハイビスカスやヒマワリみたいな花びらの大きな花を思わせます。ケヴィンがジャズベーシストなので、アレンジはリズムが複雑だったり、インストの聞かせどころを必ず挿入してあって、ジゼルのヴォカリーズもジャズ風になったり、メロディカの長〜いアドリブがあったり、とても都会的で洗練されたアンサンブルでした。きっちりしている、と言うか、ハーモニー/リズムの狂いゼロの腕達者バンドでした。その代わり土着性やディープな伝統もゼロなんですね。それはそれで、パリ・トロピカルの典型みたい、と思いました。誰にでも踊りやすいし。