2024年4月28日日曜日

町の小さなお風呂屋さん

Matia Bazar "Ti Sento"(1985)
マティア・バザール「ティ・セント」(1985年)


詞曲:Carlo Marrale - Aldo Stellita - Sergio Cossu

の朝市という意味ではない。マティア・バザールは1975年地中海の港町ジェノヴァで結成されたイタロ・ポップバンドである。オリジナルメンバーは、ピエロ・カッサーノ(kbd)、カルロ・マッラーレ(g,vo)、アルド・ステリータ(b)、ジアンカルロ・ゴルツィ(dms)、そして紅一点ヴォーカルのアントネッラ・ルッジエロであった。1979年にはイタリアを代表してユーロヴィジョン・ソングコンテストに出場し、"Raggio di luna(月の光)"という曲を披露したが、エントリー19曲中、15位という結果に終わっている。イタリアでは70年代からずっと第一線のポップバンドであったろうが、私はずっとフランスにいるのでその活躍のほどはよく知らない。マティア・バザールがフランスで”ヒット”したのは2曲しかない。ひとつは1978年の"Solo Tu(あなただけ)"、そしてもうひとつが1985年の”Ti sento"である。「ティ・セント」はイタリアでシングルチャートNO.1だっただけでなく、ベルギーで1位、オランダで2位、その他西ドイツ(当時)や北欧圏でチャートインし、1985年と86年を通してヨーロッパ中でヒットしたことになっている。そのヒットの国際化に対応してマティア・バザールは「ティ・セント」の英語ヴァージョン"I feel you"も録音している。
 フランスは1981年(ミッテラン当選の年)にFM電波が解放され、一般視聴者(特に若いジェネレーション)への音楽情報量が飛躍的に増加し、音楽の”聞かれ方”が革命的に変化した。1984年、フランスはSNEP(全国音楽出版協会)が統計する公式のナショナル・チャート”TOP 50”がスタートし、テレビ(カナル・プリュス)で発表される週間チャートはたいへんな視聴率を上げていたのだよ。日本からは英米ヒットや旧時代のビッグ(アリデイ、サルドゥー、ヴァルタン...)が支配的と思われがちだったフランスのチャート事情の現実はまるで違っていて、この1980年代半ば、この国のチャートやFMは欧州が元気だった。ベルギー、西ドイツ、イタリア。ユーロ・ポップ、ユーロ・ビート。欧州産シンセ・ポップはだいたい英語で歌われるのだが、ベルギーからはフランス語ものも出てくるし、イタリアからはイタリア語ものも堂々と出てくる。当時私はイタロ・ポップのシングル盤たくさん買いましたよ。Righeira "Vamos A La Playa"(1983年)、Finzi Contini "Cha cha cha"(1985年)、Gazebo "I Like Chopin"(1983年)、Ryan Paris "Dolce Vita"(1983年)、Andrea "I'm a lover"(1986年)、Tullio De Piscopo "Stop Bajon"(1984年).... 
 この当時、私は”音楽業界”に入っておらず、一介の音楽リスナーだったが、イタリアが欧州ポップの前衛であることは実感していて(当時の私の知る範囲というのはシングル盤ヒットとFMヒットの領域に限られるものの)、サウンドテクノロジーにおいてもプロダクションの繊細さにおいてもフランス”ヴァリエテ”はイタリアにかなり遅れているという印象があった。Italians do it better。あの頃の私の"遊び場"だったレ・アール地区で、"FIORUCCI"の店がひときわ面白かったのも懐かしい記憶。

 そういう1980年代半ばにあって、マティア・バザール「ティ・セント」は大変な衝撃であった。端的に”のけぞりもの”、進行するにつれて果てしなくクレッシェンドしていき、最後には絶頂がある、性的オーガズム型。どこまで上昇するんですか、というアントネッラ・ルッジエロのハイトーンパワー・ヴォーカルに圧倒されるしかない。このヴォーカルは後年、セリーヌ・ディオンやアデルなどと並んで、21世紀のテレビのど自慢/タレント発掘リアリティーショーたる「ザ・ヴォイス」その他のリファレンス・パフォーマンスとなり、挑戦者の定番レパートリーとなっていく。だが、誰もアントネッラに比肩できる歌唱などできはしないのですよ。


La parola non ha 言葉には
Né sapore, né idea 
香りも想いもない
Ma due occhi invadenti ただ迫りくる二つの眼か
Petali d'orchidea 蘭の花びらのようなもの
Se non hai その言葉に
Anima, ah 魂がなければ

Ti sento わたしはあなたを感じる
La musica si muove appena 音楽はかすかに動いている
Mi accorgo che mi scoppia dentro 私はそれが私の中で爆発するのがわかる

Ti sento わたしはあなたを感じる
Un brivido lungo la schiena 背中に走る戦慄
Un colpo che fa pieno centro 真ん中から突いてくる一撃

Mi ami o no? あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami o no? 
あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami あなたはわたしを愛しているの?

Che mi resta di te あなたにはわたしの何が残っているの?
Della mia poesia わたしのポエジー?
Mentre l'ombra del sonno その愛の影が忍び寄り
Lenta scivola via ゆっくりと去っていく
Se non hai もしもわたしのポエジーに
Anima, ah 魂がなければ

Ti sento わたしはあなたを感じる
Bellissima statua sommersa 水に沈んだ世にも美しい彫像
Seduti, sdraiati, impacciati 座り、横たわり、身動きがとれない

Ti sento わたしはあなたを感じる
A tratti mia isola persa 時には私の失われた島のように
Amanti soltanto accennati 何も見えないまま愛し合うこと

Mi ami o no? あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami o no? 
あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami o no? 
あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?

Ti sento わたしはあなたを感じる
Deserto, lontano miraggio 砂漠のはるかな蜃気楼
La sabbia che vuole accecarmi 砂嵐がわたしの目をふさぐ

Ti sento わたしはあなたを感じる
Nell'aria un amore selvaggio 大気に舞う野生の愛
Vorrei, vorrei incontrarti 会いたい、あなたに巡り合いたい

Mi ami o no? あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami o no? 
あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami o no? 
あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?

Ti sento わたしはあなたを感じている
Vorrei incontrarti! あなたと出会いたい!


なんとも20世紀的なまだ見ぬ恋人への激しい恋歌でした。

(↓)1987年西ドイツ、ミュンヘンでのライヴ。たいへんな実力のシンセテクノ・ポップバンドだったことがわかる。アントネッラの超絶ヴォーカルも。



(↓)1986年、スウェーデンのレーナ・フィリプソン(Lena Philipsson)によるカヴァー"Jag Känner"。なんか歌謡曲になっちゃいましたね。


(↓)2009年、ドイツの”ハッピーハードコア”バンド SCOOTERによるカヴァー。ここでフィーチャリング・ヴォーカリストとして歌っているのは、なんとアントネッラ・ルッジエロご本人。


(↓)2023年、フランスのスターDJ、ボブ・サンクラールによるリミックス、もと音源はマティア・バザール&アントネッラ・ルッジエロ(vo)のオリジナルヴァージョン。


(↓)2024年、イタ車アルファ・ロメオ・トナーレのコマーシャル・クリップ。

2024年4月14日日曜日

「やりすぎたらバランスが壊れる」

"Le Mal n'existe pas"
『悪は存在しない』


2023年日本映画
監督:濱口竜介
音楽:石橋英子
主演:大美賀均(タクミ)、西川玲(ハナ)
2023年ヴェネツィア映画祭銀獅子賞
フランス公開:2024年4月10日


うすぐ日本公開(2024年4月26日)なのだから、爺ブログの出る幕じゃないとは思うのだが、どうしても書き記しておきたいことがあるので。フランスで濱口竜介の評価は非常に高い。2015年の超5時間映画『ハッピーアワー』(フランス上映題”Senses")はフランスでもアートシアター系上映館を中心とした配給だったが、観客数は10万人を超えた。ダイアローグだらけ、言葉だらけの5時間だった印象がある。ノン・プロ俳優陣の棒読みセリフの洪水のような。フランス語字幕はちゃんと追っていただろうか?往々にして字幕は”はしょる”ものである。しかし私は母語として日本語を解してしまうので、この洪水に耐えた。そしてこの濱口という映画作家は「言葉の人」という第一印象を持った。それがフランスではよくエリック・ローメール(1920-2010)と比較される所以で、監督本人もその影響を認めている。2018年の日仏合作映画『寝ても覚めても(フランス上映題"Asako I & II"』はプロの男優女優が演じる”動き”と”筋”がある映画になって、これもフランスで10万人を動員した。そして日本でも大ヒットし、カンヌ映画祭脚本賞、米オスカー国際映画賞も取った3時間映画『ドライブ・マイ・カー』(2021年)は、文学と演劇とロードムーヴィーが交錯する”大家撮り”のヘヴィースタッフで、フランスでは20万人を超す観客を呼んだ。ああ、この人完成してしまった、という印象。ただ、この映画で音楽を担当した石橋英子サウンドトラックというのはあまり印象に残っていない。←私の耳は節穴。
 映画『悪は存在しない』は『ドライブ・マイ・カー』での石橋英子・音楽との出会いが出発点になって制作された作品だそうで、その経緯は日本語版ウィキペディアに詳しい。そうか、言葉よりも音楽がものを言う映画なのか、という映画を観る前に構えてしまった私。これは私の”映画の観かた”を問われる問題で、自覚的に私は筋ばかり追いたがり、セリフ/ダイアローグに従って映画を”解ろう”とするタイプである。散文的な観客。そうか、今回は石橋英子の音楽が映画を引っ張っていくのだな。←私の耳はそれに感応できるのかな。
 映画冒頭はかなり長いシークエンスの風景トラヴェリング(移動撮影)で、冬の森を地面の側から木々を空に向かって撮っていてゆっくり移動する。たぶん自然音と弦楽器群が奏でるゆっくりした物憂い(モノトーンな)音楽が聞こえる。そうか、これか、と思った。この寒さはタルコフスキー的だとも思った。濱口の初めての言葉の少ない映画の始まり。 
 映画で場所は特定されていないが、長野県八ヶ岳山麓のとある集落らしい。タクミ(演大美賀均 = ノンプロ俳優ではあるが、映画関係者で濱口のスタッフでもある)は職業不詳(自分では”何でも屋”と言い、薪割りや湧水汲みをしている)の言葉少ない寡夫で小学児童の娘ハナ(演西川玲 = プロの子役)と二人暮らし。ハナの下校時間に二人で森の中を歩いて帰り、木々や動植物の名前と自然の事象について教えている。鹿の通り道、その水飲み場や食べ物や習性についても。出会うことは稀でもここは鹿と人間が共棲している自然。調和(バランス)は取れているがそれは壊れやすい。ここまでが(調和的な)イントロ。その親子二人の幸福な自然を学び教える時間に、うっすらと影があるとすれば、タクミが近頃この約束の下校時刻をうっかり忘れることがある、という....。
 この静かな集落に、東京の芸能プロの子会社がコロナ助成金目当てに高級キャンプ施設(これを今日びの日本語では”グランピング”と言うらしい)の建設を計画、集落住民全員を集めてその説明会を開く。東京から派遣された説明員は二人:タカハシ(演小坂竜士)とマユズミ(演渋谷采郁)、その美辞麗句でかためた建設案を住民たちは問題点をひとつひとつ挙げて突き崩していく。ここでわかるのはこの集落に住む人たちにとって、その湧き水がどれほど大切なものであるか、ということ。それを高級キャンプ施設が汚染してしまう可能性があること。タクミはその水は鹿とも共有していること、その建設予定地が鹿の通り道であることも知っている。住民たちは即答できない東京もん二人にさまざま宿題を課し、その回答があるまで建設には賛成できない、と。
 タカハシとマユズミは東京もんの分際で住民たちの主張に理ありと考えてしまう”弱さ”があり、東京に戻り、会社と建設企画コンサルタントに再考を促すが、東京側のリベラル資本主義論理は、形式的に説明会は成功したことにして、日程通り計画を実行するべく、逆にタカハシとマユズミに、再度現地に飛び、集落の賢者にして重要人物であるタクミを抱き込んで味方につけて計画を軌道に乗せよ、と命令。
 観る者はここで映画題の「悪」とは東京ゼニ儲け勢力であると単純に構図化するかもしれない。心にその「悪」に承服できないものを多く抱えながら、「悪」の使者たるタカハシとマユズミはしぶしぶ車を走らせ集落へと向かう。この自動車の中という閉鎖された空間で、運転席と助手席というポジションで、二人は”本音の会話”を展開する。お立ち会い、ここがこの映画でほぼ唯一「言葉の人」濱口の(これまでの彼の映画で見慣れた)ダイアローグアートの見せ場なのである。その”本音”は会社上司への抑えきれない憤りに始まり(タカハシはマユズミに「おまえこんな会社やめちまえよ」と執拗に進言する)、二人がそれぞれどんな経緯でこの”悪の手先”の現在位置までたどり着いたのか、そしてそれぞれの極々私的な体験(マッチング・アプリでの経験)に至るまで。”戦場”に着くまでの和みの時間のように。
 重い気持ちで現地に着いた二人をタクミは好意も敵意もなく自然体で迎える。東京側のタクミ抱き込み策は試す前から頓挫することが二人にはわかっている。着いた時、タクミは薪割りの作業中で、タクミはその仕事の切りがつくまで薪割りをやめない。「ちょっとやらせてもらっていいですか?」とタカハシはタクミからまさかりを借りて薪割りを試みる。生まれてこの方薪割りなどやったことのないタカハシはまさかりを振り上げ振り下ろすのだが、割るべき丸木に命中しない。何度やっても結果は同じ。見かねたタクミは両足の位置を教え、まさかりは頭上に振り上げたらあとは力を抜いて自然落下させろ、と。すると、なんと薪はスパーンと割れたのである。タカハシは「この10年間でこんなに気持ちよかったことはないです!」と素直な喜びを。(←薪割りシーンの写真)
 俄然タカハシとマユズミはタクミとこの自然環境に魅了され、東京悪との決別を思うようになる。タクミは汲んできた湧水で茹でて調理した(脱都会夫婦がやっているうどん屋の)うどんを二人に賞味させ、さらに二人を連れて湧水の汲み馬まで行き、水汲み作業を手伝わせる。三人の心の交流が始まったかのように見える。水は存在する。この生態系を共有するすべてのもののために。集落の人々はこの水を拠り所にしてここに住みついている。彼らはスマホやインターネットや四駆の車を使う21世紀フツー人であり、大なり小なりこの生態系にダメージを与えて生きている。タクミは守るべきバランスがあると言う。「やりすぎたらバランスが壊れる」と言うのだが、この言葉に映画のすべてが集約されている、と観終わったら気がつきますよ。
 水は存在する ー 私はとっさにこの映画題からのダジャレで「アクア存在する」なんて独語してみたのだが、出来わるいっす、ごめんなさい。
 ここまでが映画の第三段階。そして映画は最後のカタストロフィーに向かっていく。やりすぎたらバランスが壊れる。東京もん二人との心の交流にうつつを抜かしていたタクミは、娘ハナの約束の下校時刻をすっかり忘れてしまう。あわてて小学校に車を飛ばしたタクミだったが、そこにはハナはもういない。その場にいた教員の女性は「おとうさんの毎度のことだから、と言い残してひとりで歩いて帰って行った」と。ハナは家に戻っていない。ここからハナを隠してしまった自然の中にタクミとタカハシと集落民たちが分け入り、大捜索が展開される。映画はふたたび森の中の移動撮影(トラヴェリング)と石橋英子の不安げな音楽と自然音の長いシークエンスへ。音楽はものを言う。自然とはしかしてその正体は「悪」なのか、とも思わせるような。われわれはタクミの言う「バランスが壊れる」局面に立ち会っている。そしてカタストロフィーはやってくる。観る者がまったく予期できなかった映像が展開される....。
 そこはネタバレが許されないところなので、これ以上は触れない。

 とてつもないカオス、混沌が最終章となる時、そういう終わり方をする音楽として私はラヴェルの「ボレロ」の最終音、ビートルズ「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の最終音などを想ってしまうのだが、石橋英子の音楽はどうだったのか、私は憶えていないのだ!←私の耳は節穴。それよりもなによりも最後のミステリアスなカオスの強烈な映像にあっけに取られてしまったのですよ。

 テレラマ誌の執筆ライターで自ら映画監督でもあるマリー・ソーヴィオンがそのYouTubeチャンネルの動画の中で、去年7月のヴェネツィア映画祭で初めてこの映画を観たあとで、驚きを隠せない周囲の人たちに「最後のところわかった?」と尋ねると「あまりよくわからない、でもこのミステリアスなエンディングは心にずっと残るだろう」と答えたという話を伝えている。私はこれに膝を叩いて同意する。私が観たパリ6区の映画館では、観客たちは映画の最後に口をポカンと開けながら、エンドクレジットを読むでもなく眺めながら、じっと映写ホールの灯りがともるのを待っていた。わかるもわからぬもなくこれは重く残るのですよ。
 映画題『悪は存在しない』は反語であろうし虚言でもあろうが、エリック・ローメール映画の諺・格言のように、それはそれでありがたいものである。映画のトーンは(エコロジックな)寓話のように捉えられようが、この映画で善悪は重要な問題ではない。問題はタクミが言うように「バランス」なのである。それを濱口は(「言葉の人」の才を抑えて)トラヴェリングと音楽と自然音を前面に出して表現したのである。できる映画監督なのだと思う。ことさら山麓の映像は美しい。Pourtant la montagne est belle.

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『悪は存在しない』フランス上映版予告編


(↓)仏民放テレビTMCのトーク番組QUOTIDIEN で『悪は存在しない』のプロモでインタヴューに答える濱口竜介(Bonjour... とちょっとフランス語も)。濱口の日本語語りが多い中で自動車の中の対話シーンに関する説明が面白い。

2024年4月5日金曜日

日本で震度2は軽い

"Sidonie au Japon"
『シドニー、日本で』


2023年フランス映画
監督:エリーズ・ジロー
主演:イザベル・ユッペール、アウグスト・ディール、伊原剛志
フランス公開:2024年4月3日

ルヴィル東京』(2011年)のエリーズ・ジラール監督の最新作でイザベル・ユッペール主演で日本で撮られた映画『シドニー、日本で(Sidonie au Japon)』、本日フランス公開、わが町のランドフスキー座13時45分の回で観た。人は結構入っていて、わが町の日本文化ずきとおぼしき年配女性たちがほとんど。桜の季節でもあるし。

 事故で両親家族を失い、次いで夫も事故で失い、それ以来小説が書けなくなってしまったかつてのベストセラー作家シドニー(演イザベル・ユッペール)、そのかつての代表作が日本で復刻再出版されることになり、その出版社からプロモーション来日の招待を受ける。この日本行きを最後まで躊躇してフライト時刻に遅れて空港カウンターに着き、「もう乗れませんよね」と問うと、カウンター女性が「大丈夫です、出発時刻が3時間遅れましたから」と。あ、これは軽〜い映画の始まり、っと思わせるのだが...
 日出ずる国の空港では日本の出版社の代表ミゾグチ・ケンゾウ(まあ、それを狙った役名ではあるが、映画中にシドニーに著名映画監督の縁者かと問われ、ミゾグチとは日本ではザラにある名前と答えている。演伊原剛志)がいて「ビヤンヴニュ・オ・ジャポン、シドニーさん」と迎え、日本式に「カバン持ち」をする要領で、客人のスーツケースとハンドバッグをほぼひったくりモードで奪い取り、すたすたと前を歩いていく。この不思議の国ニッポンの「カバン持ち」作法はこの映画でギャグとして多用され、重要なファクターとなるのだが、古今の欧米映画監督が日本を撮る際に誇張したがる(非日本人からは奇妙に見える)”ジャパニーズ・ビヘイビア”はこの映画でもたくさん出てくる。その描き方はソフィア・コッポラ『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)のやり方を踏襲していると思われる部分が多い。繰り返される深々としたお辞儀とか日本の高級ホテルの不思議な決まり事(”セキュリティー・リーズン”で絶対に開かない窓)とか。
 しかしその”セキュリティー・リーズン”を破って、ある時シドニーのルームの窓は大きく開いている。このホテルには幽霊が出没してイタズラをしている。ミゾグチにそのことを告げると賢人のようなものの言い方でミゾグチは「日本ではいたるところに幽霊がいて、われわれは幽霊と共に生きている」とのたもう。


 6日間の日本滞在中、書店でのサイン会、レクチャー、文芸ジャーナリストたちのインタヴューなどの合間を縫って、ミゾグチはシドニーに不思議の国ニッポンを案内して回る。奈良東大寺、京都法然院(+谷崎潤一郎の墓)、香川県直島(ベネッセハウスミュージアム)...。それはそれは絵になる”絵ハガキ”日本であり、しかも時期が桜満開の頃となっていて、シドニーさんは外国人観光客のようにためいきをついて目を瞠り、その美しさに魅了される。あ〜あ、ヴェンダースの『パーフェクト・デイズ』の時にも書いたけど、スポンサー(この場合は直島)の言うがままのような映像であるよ。
 そしてこの不思議の国の旅に幽霊もついて回るのである。シドニーの前に姿を現した幽霊は亡き夫のアントワーヌ(演アウグスト・ディール)。幽霊の出やすい国にシドニーがやってきたから、出ることができたみたいな。いつまでも”喪が明けられない”シドニーが気にかかってこの世を彷徨っているという、幽霊譚はなんとも日本的なおもむきである。シドニーはこの黄泉の国から戻ってきた実体のない霊体を捕まえたい、離したくないと望むのだが、相手は幽霊なので。他の人には見えず、自分にしか見えない幽霊。ここでフランス人監督は、見えるものと見えないものが共に生きる国ニッポン、みたいなイメージを映像化しようとするのだが、それ、どうかなぁ?

 桜の季節なのに、ここで援用されているのは「お盆」であろう。この数日間だけ死者は戻ってきて現世の人間たちと共に過ごし、また去って行く。シドニーは夢うつつのうちに、この死者との別れ、すなわち喪の終わりを悟るのである。喪が終わらなかったから書けなかった作家がふたたび筆を持ち書き始めるという「生き直し」の瞬間を描こうとした映画なんだが...。
 そして図らずもその作家再生の不思議の旅を道案内してしまったのがミゾグチという男なのだが、映画はこのぼそぼそと不明瞭なフランス語(フランス上映版では伊原剛志の話すフランス語には全部フランス語字幕がつく)を話すこの日本男性に道士的役割まで与えてしまう。「日本人は本心を隠すことを美徳とする」なんてことを言っておきながら、このミゾグチはある夜、シドニーの泊まるホテルのバーで、氷なしストレートのウィスキーをガブ飲みしながら(日本の男はヤケ酒でも飲まないと本音を吐かないというクリシェ)、自分の妻との壊れっちまった関係のいきさつを吐露する。サムライ映画のパーソナリティのようだったミゾグチが壊れっちまった時、シドニーにこの不思議ニッポン人へのシンパシーが芽生えるという...ちょっとちょっとカンベンしてくれ、なシナリオなんですよ。
 旅の疲れという設定なのか、この映画でヒロインはよく眠るのである。ホテルでも旅館でも、はたまた電車の中でも(電車の中で熟睡するというのも欧米人からすれば特殊な光景でしょう)。この夢とうつつと幽霊が混在する世界がシドニーの日本であり、その幽玄ワンダーランドに奥深く浸ることが、歌を忘れたカナリア、筆が進まなくなった作家たるシドニーの再生セラピー、という映画を企図したんだ、ということはわかるんですがね、それ、めちゃくちゃ薄っぺらくないですか?いたるところに桜咲く日本の(観光クリップ然とした)映像は、そういう世界を喚起できますか?
 幽霊は消えていき、喪は終わり、目の前にはあの幽玄ワールドガイドのミゾグチがいる。旅の途中から書き始めたノートはまた文章を創造するパワーを取り戻していく。こじつけのように滞在最後の夜は、女と男の愛情まじわりで...。

 エンドロールに「吉武美知子に捧ぐ」という字幕あり。個人的にお会いしたことはないが、2019年に亡くなった在パリ映画プロデューサーの吉武さんは、仏日の映画の架け橋として大変重要なお仕事をされた方。この映画を捧げられて草葉の陰でどう思われただろうか。笑ってくれたら、それはそれで。
 ケチをつけたくなるところをいちいち挙げていったら大変な行数になると思う。この”夢みられた”日本は、監督の勝手だろうが、私は違うと思う。とにかく軽すぎて、薄い。人物もシナリオもニッポンも。大女優イザベル・ユッペールをこんなふうに使ったらいけないでしょう。皆さんのご意見聞きたいです。


カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)『シドニー・オ・ジャポン』予告編