2007年7月30日月曜日

延長戦に入りました



 昨日レ・ネグレズ・ヴェルトのアルバム『ムラー』でもって、一応第一部の1968/1988の20年(実は21年ある)は主原稿だけは書き終えました。『ムラー』はLPを引っ張り出してきて(CDを持っていなかった!)、20数年ぶりに聞き通しました。ナツメロ系のFMで「ゾビ・ラ・ムーシュ」や「ヴォワラ・レテ」などはよくかかるのですが、FMの音というのは結構すべすべしているのに、昨日聞いたLPではかなりワイルドでささくれ立っている音だったのだ、と気がつきました。いい曲が多いアルバムでしたね。レ・ネグレズ・ヴェルトではその次の『ファミーユ・ノンブルーズ』よりも『ムラー』の方がずっと好きです。
 原稿の方は延長戦で、谷さん担当の第二部の中の、1989, 90, 91, 92, 94, 95の6年分を書いています。今朝未明に1989年のカオマ「ランバーダ」書き上げました。ウィキペディア(日本)に日本では刺激が強すぎるため「ランバダ禁止」のディスコが現れた、と書いてありました。カオマ「ランバーダ」のバンドネオンは名手ホワン・ホセ・モサリーニが弾いています。必殺の哀愁バンドネオンでした。さまざまな背景はともかくとして、私はカオマ「ランバーダ」はとても好きな曲でした。

2007年7月24日火曜日

今夜はヴァネッサ・パラディを書く



 ちょっと間があきました。原稿の方は今夜から1987年です。もう終盤と言っていいんですが,「野球はツーアウトから」でこれから絶対に盛り上げてやろう,という気になってます。
 (閑話休題)今,ラジオ(フランス・アンテール)にゴンザレスが出ていて,-M-(マチュー・シェディド)のことを「音楽界のサルコジ」と言いました。なんか私がずっと思っていたことをズバっと言ってくれたみたいで,とても感動しました。(閑話休題終わり)
 86年はダニエル・バラヴォワーヌの死を書いて,コリューシュの死を書いて,ヴールズィの「ベリル・アン・メール」の美しさを再確認して(サン・ヴァンサンは東カリブ海,セイムールはガラパゴス諸島,とか歌われている島々の位置を全部調べているうちに,ヨットで世界一周した気分になっていました),おしまいはエリ・メデロスの「トワ・モン・トワ」でした。エリのこの歌はウェブ上でいろいろ解題されているのですが,コキーヌ(エッチ)な歌でした。それはそれでしかたないですね。原稿では全部ばらしました。
 私は既にこの中でエチエンヌ・ロダ=ジルに関してもう4曲について書いてしまったのですが,今夜は5曲め「ジョー・ル・タクシー」について書くことになりそうです。自分で書いた原稿をもう振り返ってみてしまうのですが,68-88年はロダ=ジルとジャン=ルー・ダバディーという2大作詞家に負うところが多いです。やっぱりいい詞が多いし,ゲンズブールやボリス・ベルグマンみたいに理屈っぽくないですし。(写真は在りし日のエチエンヌ・ロダ=ジル)

2007年7月16日月曜日

華麗なるヤマスキの世界



 1983年ラ・コンパニー・クレオール「C'EST BON POUR LE MORAL」のことを調べていたら,プロデューサーチーム,ジャン・クリューガー&ダニエル・ヴァンガルド(ギブソン・ブラザース,オッタワンとかでディスコヒット出した仏人プロデューサー2人です。ダニエル・ヴァンガルドはダフト・パンクのトマの父親)が1971年に怪しげな(偽)日本バンド,ザ・ヤマスキ・シンガーズというのをやっていたことがわかりました。「華麗なるヤマスキの世界」というLPと,シングル2枚「ヤマスキ」,「アナタバカナ」というのを出していたと,BIDE ET MUSIQUEのサイトに書いてありました。
http://www.bide-et-musique.com/artist/2982.html
 こういうの見ると,欲しくてたまらなくなるカストール爺でした。
 どなたか持っている人いらっしゃいませんか?

2007年7月14日土曜日

多分この夏はこればかり聞くだろうなあ


 曇り空のキャトルズ・ジュイエです。奥様はテレビでシャンゼリゼの軍隊パレードを見ています。サルコジが凱旋門からコンコルド広場に「お立ち台カー」に乗って移動する途中で、お立ち台カーを止めてそこから降りて、沿道の「ファンたち」に握手して回る、という前代未聞のことをやったのですが、まあ、今だったらやりたい放題の勢いがありますから...。
 モスキートスはブラジル娘(ジュジュという名前)と紐育男二人のトリオですが、米国では既に3枚のアルバムが出ているそうです。フランスでは「アンチクラフト」というインディー互助会みたいな小さな配給会社が、2003年(1st)と2004年(2nd)のアルバムを最近フランスで出してくれました。基本的にボサノヴァですけど、とても涼しげなサウンドがカフェ&バー向きという感じです。2004年の『サンシャイン・バラト』は私の車のCDプレイヤーに既に4日間乗りっぱなしです。頭が疲れているせいでしょうか。このCDはマインド・ヴァケーション効果があります。北回りペリフェリック(パリの城壁跡の環状道路)を走りながら、このCD聞いてると、周りに南仏の糸杉がにょきにょきと生えてきて、ゴッホの絵よろしく空気がぐるぐる渦を巻いている気がしてきます。今夏はお金が全くないので、このCDで十分です。

2007年7月12日木曜日

Anem Danielon (それ行けダニエル)



 (←ボデガを吹くダニエル・ロッドーさん)
 昨日からラ・タルヴェーロの新アルバム『ブラマディス』の翻訳に入りました。いろいろわからないことがあって、ラ・タルヴェーロの主宰するオクシタン文化研究所CORDAEに電話を入れたら、電話口に出てきたのはダニエル・ロッドーさんその人でした。ダニエルは私が歌詞訳を始めたと言ったらとても喜んでくれて、「フランス語から訳してるの?オック語から訳した方がずっと簡単だよ」と言うのでした。確かにその通りなのだろうけれど、私にはオック語のイロハがないので、と返事したら、「書いてある字の通り、声に出して読んでごらん、だんだんわかってくるよ」だそうです。実行してみました。なんとなく、なんとなく、です。読んでみると、すぐにしゃべれそうな言葉だな、と思いました。
 『ブラマディス』は面白い詞がたくさんあって、どれもみんな長編ですが、風刺のきいたダニエル節で楽しいです。5曲めの「アネン・ダニエロン(それ行けダニエル)」という歌は、村の少年ダニエルが新天地を求めてフランスのいろいろなところに行くのですが、ファシズムや権力システムやさまざまな障害にぶつかって、たくさんの経験の末にやっぱり自分の家に帰ってくる、という歌でした。この歌はフランス語訳を見ないで、オリジナルのオック語から訳そうという努力を試みたのですが....。やっぱり無理でした。

2007年7月10日火曜日

Bal des naze


 新大統領ニコラ・サルコジが7月14日(フランス革命記念日)の夜にエッフェル塔下のシャン・ド・マルスで「大衆的な大祭典 une grande fete populaire」を行うそうです。サルコジの選挙運動中お抱えDJをしていたボブ・サンクラールが19時に登場して,その後メインはミッシェル・ポルナレフと彼の楽団のライヴがあります。22時半からは,エッフェル塔を使った恒例の大花火大会(パリ市主催)になります。私はその日は雨が降ると信じています。
 ポルナレフにしてみれば大変な栄誉なのでしょうが,この後はサルコジに呼ばれてほいほい出て来たアーチストと言われてもしかたがないでしょうね。

『ラ・ブーム』は13歳の映画だった



 英国に行っている娘は昨日から英語の授業が始まったそうで、ヴァカンスなのに勉強させられている理不尽さを電話で訴えてきました。おととい昨日は周りが英語で何を言っているのかさっぱり分からず、かなり心細い思いをしたそうです。私が初めてフランスに来た時を思い出しました。大学で3年間フランス語を学んでいたとは言え、最初は何も聞き取れず、何も話せずが数日間続いていました。
 原稿の方は昨日は1980年の映画『ラ・ブーム』について書きました。フランスで何度もテレビで見たのですが、永遠のアドレッセンス映画ですね。当り前ですが、二度としないから初恋で、二度としないからファーストキスなんですね。ソフィー・マルソーの13歳はまぶしかった。「ラ・ブーム」は大人抜きのホームダンスパーティーで、60年代にはSurprise Partie (シェイラの歌ではこういうスペルだった)と呼ばれていたと思います。ダンスよりも「出会い」が目的みたいな感じですね。映画ではそこで13歳の少女ヴィック(ソフィー・マルソー)が初恋相手を見つけるわけです。
 折りも折り、娘が昨日電話で「木曜日はラ・ブームがあるから、夜は電話しないで」と言いました。ラグビーの英語スクールでダンスパーティーがあるようなのです。そう言えば、娘もあと1ヶ月足らずで13歳。『ラ・ブーム』の子たちと同じ年齢なのでした。娘が初恋をしても何の不思議もない、親と離れた夏を今過ごしているのです。

2007年7月8日日曜日

悲しき玩具


 7月7日、書きかけ中の原稿が1979年篇に入って、シェイラの「スペイサー」という曲について6000字で書き上げました。シェイラの曲というよりは、作者ナイル・ロジャース&バーナード・エドワーズ(即ちCHIC)の曲と言うべき、シック風味100%のファンク・ディスコですが、当時私この曲大好きでした。私たちが行っていたのはあの頃「パリスコープ」にも広告が出ていたリヴォリ通りの「スロークラブ」というディスコで、当時の最先端だった「パラス」や「バン・ドゥーシュ」は敷居が高くて行けなかった(と言うか多分知らなかった)のです。「スロークラブ」は普通に普通のディスコ曲がかかって、「リング・マイ・ベル」やら「ファンキー・タウン」やらに盛り上がる、そういうディスコでした。私は「スペイサー」は「スロークラブ」で知り、シングル盤を買ったのですが、当時は家にラジカセしかなく(フランスで生活を始めたばかり)、人に頼んでシングル盤をカセットに録音してもらった、そんな時代でありました。
 原稿の資料を集めていたら、1978年にフランスの玩具メーカー、ドラヴェナ社が「シェイラ人形」というのを発売していたことを知りました。バービー人形の対抗なのですが、いかに大衆的な人気があったとは言え、シェイラというのはそういうキャラだったのか、と恐れ入りました。モデルとなったシェイラは当時32歳。幼女〜少女のアイドルにするには無理があったのではないでしょうか。

2007年7月6日金曜日

娘はラグビーに行った


 7月6日,夏休み中の娘(もうすぐ13歳)は今朝「英語研修ホームステイ」の旅に出ました。フランス人子弟はこうやってヴァカンス利用の語学勉強で海峡の向こうの国に行くのです。英国は海峡トンネルが開通して,さらに高速鉄道ユーロスターが通ってからは,ここから本当に近い国になってしまったのですが,英国に住むフランス人の数も飛躍的に増えて,ロンドンでも平気でフランス語が通じるようになってしまいました。同じようにパリでもずいぶん英語が通じるようになったようです(私はこの国で英語は話さないのでよくわかりませんが)。
 しかし娘の滞在費(+お小遣い)のためにユーロからUKポンドに両替しなければならなかった時,やっぱりまだ遠い国なのかなあ,と思いました。ホームステイ先の家庭に娘の紹介レターを英語で書きました。英語のレターなんか数年ぶりですね。私の英語は中学生程度かな? ビジネスで通用していたのはもっぱら非英語圏の相手(スペイン,ドイツ,イタリア,韓国....)で,私の英語というのも捨てたものではないな,と自画自賛していたのですが,英人・米人の前ではほとんど通じないのが現実です。
 娘が滞在するのはイングランド中部のワーウィックシャー州のラグビーRugby という町です。伝説に曰く,この町の市立ラグビー高校の生徒ウィリアム・ウェッブ・エリスが,サッカーの試合中に興奮してボールを手で持って走ったことが,ラグビーという球戯の始まりとされています。1846年のことだそうです。ルール違反から始まったスポーツなんですね。アナーキー・イン・ザ・UKと言いましょうか。町のお土産屋さんにはたくさんのラグビーボールが並んでいることでしょう。娘のお土産はこれかな。ラグビー最中とかラグビー饅頭みたいなものがあればいいのにね。
 というわけでこれから10日間,娘のいない家です。

2007年7月5日木曜日

リカルド・テジの翻訳を日本に送った



 サンク・プラネット社の世界の民族楽器のソロ・ヴィルツオーゾを集めたシリーズの最新作が,ディアトニック・アコーディオン奏者のリカルド・テジさんで,テジさんは先月日本の「イタリア週間」みたいな催しで日本に行っていたそうです。7月2日パリに取材に来ていた松山さん(ジェーン・バーキンやらアブダル・マリックやらを取材したそう)に,このCDをあげようと差し出したら,日本でテジさんのライヴを見てすごく良かったのでそのコンサート会場でこのCD買っちゃいましたよ,と言ってました。
 日本盤を出してくれるそうなので,昨日午後いっぱいかけて,テジさん自筆のCD解説を訳して(テジさん自身はイタリア語で書いたんでしょうけど,ブックレットはイタリア語/フランス語/英語の3か国語。私はフランス語から訳しました),日本の配給会社に送りました。70年代にディアトと出会って,大学の勉強(心理学)を捨てて,ディアトの道に入ってしまったテジさん。教本や学校のないこの楽器を自己流でマスターするために,いろいろなところを旅するんですね。その旅の途中で先達マルク・ペロンヌとも会っている。テジさんの解説はマルクへの敬意がいっぱいで,道を同じく研鑽する者同士のリスペクトなんですね。美しいです。
 テジさんは途中でトラッドのやり方をそのまま真似るのでは,ディアトの可能性はそこで留まってしまうと悟り,ジャズやロックやカンタトゥーレのアーチストたちとぶつかって行って,トラッド流から脱したテジ流のディアトを開発してしまうんですね。
 百聞は一聴にしかずで,このディアト・ソロのアルバム聞いたら,たいていの人はぶっ飛ぶと思います。なぜ,どうやって,こんなことが出来るのか,という感じです。テジさんは,解説でいとも簡単に,リズムのサポートが必要だったら,両足を踏みならせばいいんだよ,みたいな謎解きをします。名人ならではの言です。

2007年7月4日水曜日

季節はずれの写真でごめんなさい


 去年の春ソー公園で撮った写真です。自分の姿をとどめた写真がほとんどない,ということを改めて知りました。人に見せられるような写真があまりないのですが,まあ,このページにたどり着いた人たちに,安心してもらおう,と,できるだけ愛想のいい顔をしている写真を選びました。今後もいい顔の自分があったら公開するつもりでいます。
 これまでフランス音楽関係のホームページを11年間運営していましたが,6月25日に力尽きて閉鎖しました。
 あれから10日近く経ったら,とても清々しい気持ちになりました。人様に情報を送る使命感みたいな大それたものがあったわけではないですが,HPがあのような形で「資料」然として公開されているのは自分にとってとても重いことであったのだ,と気がつきました。閉鎖してから,サーバー管理者から,遺体ひきとりのように,「ここに置いてありますから,取りにきてください」と言われて,保管用にダウンロードしたら750MBの重さでした。重いはずだなあ,と思いました。多分もう二度と使うことがないだろうから,墓のようなファイルに密封しました。
 さあ,これからは楽な気持ちになって,気ままなことを書いてみよう,なんて思ってブログを始めてみました。
 7月も8月もどこにも行かず,パリ(&ブーローニュ)にいる予定です。ヴァカンスに行かない人たち,よかったら遊びに来てください。