2022年5月30日月曜日

だんだん良く鳴る法華のタンブール

Bertrand Belin "Tambour Vision"
ベルトラン・ブラン『タンブール・ヴィジオン』

35歳でデビューしたベルトラン・ブランが51歳になって7枚目のアルバムを発表した。2010年の サードアルバム『イペルニュイ(Hypernuit)』の高評価以来、安定した音楽活動および作家創作活動をしていたような(外部から見た)印象があったが、最新のテレラマ誌(2022年5月11日号)インタヴューでは生活はいつも火の車で、他のミュージシャンたち同様、30年間いつも路上(オン・ザ・ロード)にいた、と。そのツアー続きの生活を突然ストップさせたのが2020年のコロナ禍であり、ベルトラン・ブランも30年ぶりの"定住”生活を余儀なくされる。2020年、フランスの第一次外出制限(3月17日〜5月11日)と第二次外出制限(10月30日〜12月15日)の間の夏、8月と9月を通して撮影されたのがラリウー兄弟(アルノーとジャン=マリー)監督のミュージカル映画『トラララ』で、ベルトラン・ブランは主役マチュー・アマルリックの弟役という準主役級の本格”俳優”出演(+音楽担当)という、楽隊稼業とはかなり異なる2ヶ月間を過ごしている。
 そうやってツアー/ライヴ活動なしの1年半のあとで新アルバム制作に入ったら、なにかが変わったようだ。これまでベルトラン・ブランと言えば"ギター”(グレッチ)だった。今回のアルバムではずいぶん後退した、と言うよりもほとんど聞こえない。ギタリストとしてこの世界に入り、35歳でシンガーソングライターとしてデビューするまでは一介のバンドマンだった。そのギターと出会ったのは、ブルターニュの漁村キブロンで不安定な少年時代を過ごしていた13歳の時だった。その出会いを前述テレラマ誌インタヴューでこう語っている。
私が知っていたのはギターが自分のためになる瞬間と時間を私に保証してくれるということだった。私の脳はどのようにメロディーと和音が機能するのかを探し求めた。そのことで私は他のことをしなくてもよくなったし、この休息の感覚によって私は自分の力で100%生きている印象をもたらした。私がそれを望んでいたんじゃない。それは発見だったんだ。私の人生にとって信じられないほどの幸運さ。すでに存在していた音楽というものが、他のミュージシャンたちと同じように私をその従者として従えたんだ。 (テレラマ2022年5月11日号)

ギター(音楽)によって救済された、という感覚で音楽に没入していった少年時代。何から救済されたかと言うと、ベルトラン・ブランの歌に時々現れるテーマであるが、「貧困」なのである。男5人女1人の兄妹、漁師の父、主婦の母。キブロンで何代も前からそうやって生きてきた家系で、周囲の村民もみんな同じようなもの。このフランス深部の貧困は、私たちは北フランスの寒村から出てきた青年作家エドゥアール・ルイの登場で知らされることになるが、苛烈に激情的に短い年月でそれを抜け出すドラマを生きたエドゥアール・ルイとは違い、ベルトラン・ブランは長い年月をかけてここまで来た。露骨にそれをテーマに歌うことはほとんどしていないが、今回のアルバムでは2曲め(つまりアルバム中最も聴かれることを前提に選曲された曲)に"Que dalle tout"というエレクトロ・ロカビリーな歌がある。

先祖代々酔っ払いの家系の出身
宴会の邪魔者
結婚式ぶちこわし野郎
バス停の脅かし屋
猛犬使い
そんな先祖たちから俺は受け継いだ
あることないことすべて

先祖代々酔っ払いの家系の出身
歯止めを食いちぎる
無制限セックス野郎
さかしま城のお殿様
複雑怪奇な肉欲
そんな先祖たちから俺は受け継いだ
くだらないことすべてを
 
すべてすべて
くだらないことばかりを

0と1で長々と続いた家系の出身
血の気の多いおセンチ野郎
ヘビ使い
土地の顔役
そんな先祖たちから俺は受け継いだ
くだらないことすべてを

すべてすべて
くだらないことばかりを

"Que dalle"(クダル)を"くだらない”と訳したのはバイリンガルな爺ならでは(自画自賛)。それはそれとして、この歌は明らかにキブロンの少年時代を投射したものである。貧困とアルコールと奇癖のある代々の住人たち。変わらない深部の人々。
 ベルトラン・ブランはゆっくりと時間をかけてその世界から離れようとしていた。ギターはその道を拓いてくれ、音楽は彼の生活となった。17歳で最初の自作曲を書いたが、人に発表するようになったのは35歳の時だ。その道をひたすらに歩んできたのだが、2020年、コロナ禍はミュージシャンたちの歩みを止めてしまったのだ。強いられた休息。その風景をベルトランは止まってしまった行進のように見ていた。1曲め「カルナヴァル」と3曲め「タンブール(太鼓)」はそのふたつのスケッチである。
カルナヴァル
俺は人間の
裏側を見た
カルナヴァル
俺は俺の頭の
尻を見た
勝利を叫び
敗北を叫んだ
カルナヴァル
征服者の顔
栄光の時
野獣たちの時
カルナヴァル
俺はもう歩けない
俺はもう歩けない
カルナヴァル
俺はくちばしまで
油でどろどろだ
カルナヴァル
俺はもう歩けない

この歩みの止まってしまった行進のイメージは、勝利だろうが敗北だろうが、人間の裏側や公にされた自分の恥部を見てしまった者には耐えがたいものだ。戦争と一兵卒の関係、奇しくもこのアルバムと同じ日に刊行されたルイ=フェルディナン・セリーヌの未発表小説『戦争』(1944年執筆)をも想ってしまう兵士の恨み節のようにも聞こえる。その戦争進軍のリズムを奏でるのが鼓隊であり、3曲め「タンブール(太鼓)」は(クラフトヴェルク風シンドラムで奏でられる)太鼓に引っ張られてしまう兵士や小市民の性(さが)の歌である。

太鼓よ
おまえは良い太鼓か
これらの白骨死体は誰なのか
太鼓よ
この辺を飛び回る
ハゲタカは何をしているのか
太鼓よ
おまえは憎んで欲しいのか
それとも愛して欲しいのか
おまえは俺の音楽を奏で
おまえは俺を美しいと言う
太鼓よ
それはもうすぐ起こるとおまえは言う
太鼓よ
おまえは良い太鼓か
これらの白骨死体は誰なのか
太鼓よ
この辺を飛び回る
ハゲタカは何をしているのか
太鼓よ
おまえは憎んで欲しいのか
それとも愛して欲しいのか
待ってくれ
おまえに追いつくから
太鼓よ
おまえの言うとおりだ
太鼓よ
おまえは良い太鼓だ
さあおまえに追いついた
太鼓よ
俺はここにいる
 極めて政治的な歌にも聞こえる。たしかに2020年以降、私たちは国家主導の「コロナ感染対策」に全面的に従わざるをえなかった。統制に従順な私たちがそこにあった。秩序は保たれ、マスクはすべての人の顔を覆い、休息せよと言われれば休息し、辛抱はしかたないと我慢し、おかげで長時間かかりながら「感染」は押さえ込まれようとしている。こんな号令太鼓もあれば、文字通りの進軍太鼓でロシアは隣国に兵士たちを送り攻め入った。
 『太鼓の視点 ー Tambour Vision』、どうしてこんなアルバムタイトルにしたのだろうか。国家行事や軍隊や祝祭の進行をリードしてしまう鼓手のヴィジョンとは? 鼓手が刻むリズム、あるいは誰か(あるいは国家)が鼓手に刻ませるリズムは私たちを鼓舞させるためか。これにベルトラン・ブランは不安になっているのだ。良い太鼓か悪い太鼓か。私たちは、それが大概は悪い太鼓だと思うようにしたい。
 8曲めに「ナシオナル」というタイトルが来る。「国の」「国家的な」という意味の形容詞であるが、かのナシオナリスト政党だけでなく、ナシオンに固執する人々や出来事は私たちを不安にさせる。「フェット・ナシオナル」(国民祝日)、「アンテレ・ナシオナル」(国益)、「デファンス・ナシオナル」(国防)など十数語のナシオナルとつく言葉を羅列しただけの歌詞。結語に
Autour du soleil 太陽の周りでは
C'est la vie du monde des pays これが国家群でできた世界のあり方
C'est la vie du monde これが世界のあり方
ともってくる。私たちはこれをどうしようもないことだとは思わないが、重い。2015年のベルトラン・ブランのアルバム『ウォーラー岬(Cap Waller)』の新ヴァージョン追加曲に「ラ・ナシオン(国家)」という反軍歌があるが、それと対をなす曲であろう。
 上に既に書いたことだが、このアルバムのバックトラックはギターをはじめ”楽器”が大きく後退して、ミニマルなシンセ音で構成されている。あたかもコロナ禍で楽隊メンバーが休息を余儀なくされているのを象徴するように。メロトロン、プロフィット5、シンドラム...。長年の相棒ティボー・フリゾニとブランの二人だけで作っている。どんなシンセの音かと言うと、70-80年代的な、もろにマリアンヌ・フェイスフル「ルーシー・ジョーダンのバラード」(1979年)の音で、改めてあの頃のシンセは”味があった”と再認識。しかしブラン/フリゾニのバックトラックは、そんな”味”よりも、もともと俳句的に装飾を削りに削り取った表現を好んでいたブランに、ますます”音数”を少なくさせるためのものだったようだ。高踏的な韻文詩人ブランはこういう表現で、国家や権力に反目する視点(ヴィジオン)を展開するのである。
 体言止め、名詞羅列を多用するベルトラン・ブランの詞は易しいものではない。何度か繰り返して聞くことを要求されるが、あのなんとも言えぬトーンで聴かせるビロード低音ヴォイスがその意味の味わいを聴くごとに深化させてくれる。ベルトラン・ブランに惹かれる人は最初から”声”でイチコロなのだと思う。
 今回のミニマルインスト・バックトラックのアルバムで、声と詞が否応なしに深められるのだが、その中で例外的に一番”歌って”いる曲が10曲めの"La Comédie(喜劇)”という歌である。

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
カルナヴァル
町はマチネーの回に並ぶ
斜めの人影でいっぱいだ
俺もその中にいる
英雄的なトロイ戦争の風
俺はこの音楽を知っているが
俺は好きじゃない

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
獣たちは交配のために一緒に繋がれても
もう興奮もしない
この分野で
俺は今ここにいることの
ものごとの成り行きを
軽く見すぎていたのか
尻もちをついてしまった

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
俺は水たまりの窪地で
あるいは水泳の最中に
眠ってしまったのか
この計算では
どうして俺は物に生まれなかったのか
この計算では
俺はバラ色の人生を送ったかもしれないのに

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
一切宗教儀式なし
一切の名前もなし
一切の星もなし
一切宗教儀式なし
一切の名前もなし
一切の星もなし

お立ち会い、字面見たら、難解でしょう。しかし歌聴いたら、エモーショナルにジ〜ンとなるでしょう。これはハイブロー叙情派の文学体験だと私は思うのですよ。これがベルトラン・ベルトランの名人芸なのですよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Carnaval 
2. Que dalle tout
3. Tambour
4. T'as vu sa figure
5. Alléluia
6. Marguerite
7. Lavé de tes doutes
8. National
9. Pipe
10. La Comédie
11. Maître du luth

Bertrand Belin "Tambour Vision"
CD/LP/Digital CINQ7/WAGRAM MUSIC 3414272
フランスでのリリース:2022年5月5日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ベルトラン・ブラン『タンブール・ヴィジオン』ティーザー


(↓)2022年7月12日発表のヴィデオ・クリップ "Alléluia"(5曲め)

2022年5月22日日曜日

むざむざ捨てるには

Lancia Musa

産地イタリア風に読めば「ランチア・ムーザ」、当地フランスでは「ランシア・ミュザ」と呼ばれる。こちらでもあまりポピュラーな車種ではないが、ときたま見かける。日本語版ウィキペディアの記述によると「イタリアの自動車メーカー・フィアットのランチア部門が2004年から製造販売する5ドアのミニバン風ハッチバック型乗用車」だそうだ。「2012年生産終了」との記述も。 
 あんまり触れたくないのだが、このランチア・ムーザのCMスポットはトップモデルからシンガー・ソングライターに転身して成功を収めた頃(サルコジ大統領夫人となる前)のカルラ・ブルーニが起用された大予算もの。連作で3作ぐらいあったのかな? 言い訳するわけではないが、私はこのCMのこと知らなかった。知っていたら購入するの躊躇したはずだ。それはそれ。
 カルト・グリーズ(Carte Grise 灰色カードと呼ばれる自動車登録証)によると、その発行日が2010年4月9日ということになっている。人生で2度目、新車で買ったクルマ。人生で7台目の自家用車。イタリアの工場からフランスの販社に移送されて私が受け取ったのが2010年4月だったのか。このランチア・ムーザを2022年5月14日に手離した。12年も乗っていたのだね。手離すことを決めたのは、この3月の(2年に一度の)車検で、第一回の検査で修理義務を命じられた箇所がかなりあって(2年前はかなり簡単に通ったのに....)、しかも重要かつ高価な交換パーツのものばかりで。2千ユーロ近くかけてまで、この12年選手を保持する価値があるか。おまけに私は2017年の発病・退職・隠居以来、運転することもずいぶん減った上、病気ゆえの運転することへの恐怖があり、そのせいもあって事故も何度か起こしてしまった。もう運転しない方がいい、というのは私も含めた家族の一致した意見であり、遠い郊外の病院通いも病院から保険カバーのタクシー使用許可をもらえるようになったので自分のクルマで行かなくなった。昨今は愛犬ウィンキーの散歩に適した近くの郊外の緑地公園(ムードン、セーヴル、ヴィル・ダヴレー、サン・ジェルマン島、ロンシャン競馬場...)に行ったり、ハイパー(カルフール、オシャン)への買い出しに行ったりが主な役目となっていた。
 2016年に娘が免許を取ってからは、娘がよく運転するようになっていて、毎夏のヴァカンスも娘に運転してもらって私はずいぶん楽になっていた。写真(→)は初めてムーザを運転した時にフロントガラス側から撮った(2016年)。その娘は(2021年独立別居したので)今や自分のクルマを5月に購入してしまったし。
 ランチア・ムーザとの思い出はたくさんある。最初はまだオーベルカンフ通りにオフィスを構えていた頃で、後部座席を畳んでミニバンにするとかなりの量の荷物が積めて、毎週木曜日の集荷周りに大活躍してくれた。それは2013年7月にオフィスを自宅に近いブーローニュ・ビヤンクールに移してからも事情は同じだったけれど、週1回の集荷作業を除いて、通勤は徒歩かバスになったので、仕事でのクルマの出番は少なくなった。
 愛犬ドミノ(2001年6月 - 2016年10月)は抜け毛の量がたいへんなものだったので、クルマの中は常に毛だらけだった。ムーザの最初の遠出が2010年5月、ブルターニュのコンカルノーだった。ホテル泊まりにどうしても慣れなかったドミノは、コンカルノーのホテルの部屋で長時間吠え続け、たいへんなクレームをもらったものだ。写真(←)は2016年10月4日、ドミノを最後に獣医病院に連れていった時のもので、その翌日ドミノは旅立った。一緒にいろんなところに行ったね。
 夏のヴァカンスは概ね地中海方面と決まっていたが、2017年闘病生活が始まってから、治療通院(2〜3週間に1回)の合間を縫ってということになって、滞在は短期化を余儀なくされたけど、ムーザはがんばって私たちを南に連れて行ってくれた。コート・ダジュールにいれば、どうしてもイタリアまで足を伸ばしたくなるもので、サンレモで昼食なんてことも何度かあった。イタリアが生まれ故郷のクルマだから、やっぱり町に似合うのだね。コート・ダジュールでは犬が許可されているビーチが限られているから、ドミノもウィンキーも宿泊地からムーザに乗ってそのビーチまで行って、夕方砂や海水を吸った体毛のままムーザに乗り込み帰路に着く、という往復。車内は一回の夏ヴァカンスでたいへんな汚れ方になるのだけど、しかたないよね。
 定番のコート・ダジュール往復の他にはアルザス、ヴォージュ、ピカルディー、パ・ド・カレ、ノルマンディー、ブルターニュ、ヴァンデ、シャラント(レ島)... 娘がトゥールーズの大学に行ってた頃は、引越しも含めてトゥールーズ往復3回。よく走ってくれたものだ。メーター上の総走行距離は14万キロ弱。地球3周半分。
 2017年6月まで音楽業界人だったが、オフィスでも自宅でも「いいオーディオ」装置を持ったことがない。現役の頃は月に30枚〜50枚の新譜見本を受け取っていて、それを聴いて資料/インフォペーパーを作成して日本に売り込みをかけるというのが私の仕事だった。電話や雑事に邪魔されることなくこの新譜見本を聴き通せる最適な場所がクルマの中だった。ムーザは間違いなく私の生涯最高の"リスニングルーム"だった。オーベルカンフ通りにオフィスがあった頃はクルマでは片道平均45分。CD1枚の時間。ここで初めて聴かれた音楽が、数日後数週間後に日本で”輸入盤ヒット”するなんてことが、少なからずあったのだよ(クロ・ペルガグさんは私のムーザに感謝してほしい)。

 というわけで40年近かったクルマ生活を終わりにして、クルマのない生活になった。行動範囲がさらにせまくなった印象があるが、もともと出不精だから、さほど変わっていないかも。さすがにウィンキーは好きな(ちょっと遠めの)緑地公園に行けなくなったからフラストレーションはあるようだが、こらえてほしい。これまで空港送迎などしてもらっていたわがVIP同志たちは、これからは自力でパリ市内に入りなさい。私は歩く人として生き続けます。Ciao ma musa, ciao ma bella...

(↓)ランチア・ムーザ最後の頃(生産終了1年前)、2011年のCMスポット(女性モデルはカルラ・ブルーニではない)

2022年5月13日金曜日

No - no - Future

Aki Shimazaki "No - no - yuri"
アキ・シマザキ『野のユリ』

ナダ/モンレアル在住の日本出身フランス語作家アキ・シマザキの、これがなんと18作目の作品で、まだ名前のついていない第4のパンタロジー(五連作)の第3話。第1話の『スズラン』(2020年)と第2話の『セミ』(2021年)は当ブログで紹介しているので、(リンクから飛んで)参照していただきたい。このパンタロジーは"フクシマ”以降の21世紀日本を舞台とし、鳥取県米子市の中流家庭「ニレ家」(北杜夫『楡家の人びと』にインスパイアされたかどうかは定かではない)の隠居老夫婦とその二人の娘と一人の息子を中心とした展開。第1話『スズラン』は性向の全く違う姉妹(派手好き男好き金好き都会好きの姉キョーコ、地味で離婚歴ありの陶芸家の妹アンズ)の愛着と確執を妹アンズの視点で描いている。第2話『セミ』では年代的には第1話から数年後、実家を去って老人施設入りした父テツオと母フジコ(アルツハイマー性認知症がだいぶ進行している)の双方の知らないそれぞれの過去のアヴァンチュールを再発見していった末に、テツオの知らぬうちに崩壊寸前だった夫婦に幸福な「和解」の幻想へ導くエモーショナルな秀作(テレラマ、リベラシオン紙等が初めてシマザキ作品を絶賛)。
 さてこの第3話『野のユリ』は、時系列では『スズラン』より前に位置する。稀なる美貌の持ち主で、情夫を何人も取替えながら、東京でキャリアウーマンとしてアクティヴに生きるニレ家の長女キョーコが本作の話者。シマザキのパンタロジー連作のひとつの弱点と言えると思うが、『スズラン』を読んだ者はキョーコがこのあとガンで病死するということを予め知ってしまっていて、終盤かなり興味を殺がれるように思う。終盤に現れる電撃フィアンセのヨージのことも『スズラン』で知ってしまっているし。ま、それはそれ。
 キョーコはこの時35歳。アンダーソンという名の米国系化粧品大手の日本支社で支社長秘書として働いている。英語堪能、仕事もできる。そして(すごいのは)仕事が大好きだときている。この会社におけるキョーコの満足は、自分のビジネススキルが100%発揮でき、支社長および米国本社の信頼があつく、高給であり、支社長同行の国外出張が多く、世界中のハイレベルのビジネスコンタクトと渡り合え、それに相応しい高級ブランドのファッションで身を包み...。こんな暮らしをしていれば、両親が望んでいるように郷里の米子に戻って暮らしたり、古い日本の考え方のように男と所帯を持って"落ち着い”たり、などという考え方などキョーコには全くできない。(シマザキ文学にあって毎回気になるのだが、非常にパーソナリティーが単純化されている。その中でもキョーコの場合は際立っていると思う)
 その美貌で幾多の男を情夫としてものにし次々に捨ててきた経緯は『スズラン』でも詳説されていたが、本作ではキョーコは既婚者の男しか相手にしないという性向が明らかになっている。それは結婚をせがむような男を避けるためだが、既婚者情夫でも「離婚するから結婚してくれ」という段階になったら自動的に捨てられることになる。結婚・家庭を牢獄的束縛としか見なさない傾向が十数年も持続している、これが本作の終盤で変わるという進行。
 この小説でおおいにものを言っているのが"企業小説”的ファクターである。はっきり言ってシマザキは得意ではないと思う。いつの時代の大企業かとあきれる部分あり。まず若き日のキョーコがどうしても"外資系”で働きたがったのは、日本式経営の擬大家族主義とミリタリズムと上下左右関係の粘着性を忌み嫌ってのことで、欧米系企業は実力主義・能力主義でスマートに割り切れるという神話に依っている。キョーコのいる米大手の日本支社にも「コピーとり/お茶くみ」という"女の仕事”は存在する。アンダーソン日本支社は前任支社長のスミスの手腕で業績を伸ばし、とりわけ日本市場向けに現法たるアンダーソン日本が開発商品化した製品の売上が好調で、スミスはその分野をさらに伸ばすべく日本での研究所/工場を増やす方向で本社と交渉していたが、道半ばで夫人の難病悪化で退職し、アメリカに帰国する。スミスの有能・完璧・自慢の支社長秘書だったキョーコは、これによって秘書職を解かれる危機にあった。
 支社長秘書という会社の情報が集中する心臓部で働く緊張あふれる重要なポジション(まあ、一種の"働き甲斐”とも言える)とその高給と派手な海外出張がキョーコを活き活きと生きさせるすべてであった。これを失ったら...。
 ところが、後任となったのは日本支社内で営業統括者だった若手のやり手で、本社派遣の米人やさ男グレン(いつも緑系のウェアで身を包んでいるので、社員たちから"グリーン”とあだ名されている →シマザキのこういうマンガっぽいペルソナージュづくり、どうもいただけない)で、日本語ベラベラかつ日本文化贔屓(朝食から白米と味噌汁)。プライベートでは離婚後のひとり者で、元妻は韓国人でソウルでグレンの子供と暮らしている。プレイボーイとの噂もあり、グレンの現日本人秘書(愛人とされる)を昇格後そのまま支社長秘書にするというのが社内情報通の話だった。ところがところが、グレンは大胆にもキョーコを誘惑するのである。この誘惑ドラマ(バーでかなり飲む→気がつくとグレンの自宅で目がさめる→暴行の形跡などなく丁重に看護されている→味噌汁朝食など出されて魅惑の米人に好意を抱いてしまう)には小説の後半で明らかになるが、”レイプドラッグ”使用疑惑が浮かび上がる。
 グレンはその味噌汁の朝、キョーコへの愛を告白し、未来の支社長秘書のポジションを差し出し、プライベートでは隠密に愛人関係を結ぼうと申し出、キョーコは願ってもないことのようにこの魅惑の米人に身も心も預けてしまうのである。ここまで86ページ。ちょうど小説の真ん中。(ついてきてください、まだ続きます)
 新支社長と美貌の有能秘書の社内でのパートナーシップは正常に機能し、土曜日になるとキョーコがグレン宅にお忍びで通い濃厚な交情をするという二重生活は誰にも気づかれずにしばらく続く。しかし今度のシマザキは"企業小説”に重点があるので、このカップルの変調は会社の業績不振とシンクロするのである。前支社長の現法日本製品の拡張路線に異を唱える本社は、グレンに本社製品(つまりアメリカからの輸入化粧品)の日本での販売拡充を命じる。高級&高価のイメージのある本社ブランド商品を日本で大衆化させるには大規模な広告キャンペーンを打たねばと、グレンは巨額の広告予算を使い、派手なキャンペーンを繰り返すのだが、売上は一向に伸びない。グレンは焦り、アルコールの量も多くなる。なんとか別のことで手柄を立てて、本社に認めてもらわねば。そんな時に某国から超大口顧客になる可能性を持った人間が家族旅行で日本にやってくる。グレンの懸命の接待で客の心がアンダーソン社との契約になびきかけたところを見計らって、グレンはキョーコにその客の東京案内を依頼し、要求があれば夜のおつきあいもアクセプトするように、と。”エスコートガール”役をさせられそうになったキョーコは激怒し、グレンと破局することになる。
 そこからグレンのさまざまな不正の発覚による失脚劇があり、キョーコがもはや”外資系大企業高給秘書”に固執しなくなり、人生のやり直しに「合コン婚活」するという唐突な展開に入っていく...。そして初めての、たった一回の合コンで、運命の男と出会ってしまうという...。

 誰もが振り向く美貌、完璧な英語でのコミュニケーションと難度の高いビジネススキル、高級ブランドで身をまとうこと、海外の大都市へ飛び回ること、自由に男との欲望を満たすこと... そんなキャラクターをフィクション小説で創造することは、不可能ではない。極端にステロタイプ化された"ウワベ”をいろいろ積み重ねていけばいいのだが、とにかく薄いのですよ。人間の厚みがない。それが見せかけであり、見せかけに隠されたものをフランス語人読者たちは見つけられるのだろうか?
 2022年5月7日付けリベラシオン紙のヴィルジニー・ブロック=レネによる書評は、こんな褒め言葉で結ばれている。
Entre les tsukemono de radis, l'odeur du miso et les non-dits, ce roman est un bijou et un bain d'identité japonaise.
「大根の漬物と味噌の匂いと言外の含みに満ちたこの小説はひとつの宝石であり日本のアイデンティティーに浸る湯船である。」

フランス人にはそう読めるのだろうか。"les non-dits"(言われていないこと、言外の含み)はたくさんあるだろう。みんな読み取っているのでしょうね、フランス語同志たちは。

 さて小説題『野のユリ』は、はじめに小説冒頭でキョーコの当時の愛人に連れて行かれた東京の丘の上にある小洒落たガリシア料理レストランの名前で出てくる。チリ産の良質ワインのセレクション、そして生演奏ピアノによるジャズ。これがガリシアなのは聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラと関係している、とふっと気がつくのは「言外の含み」で小説文面には現れていない。次に登場するのは、退職帰米するスミス支社長の妻ヘレン(病気療養中)への贈り物として、滞日中に生け花が第一の趣味となったヘレンのために妹アンズ(陶芸家)が焼いた花器を選ぶのだが、その花器にアンズがつけた名前が「Lily of the field」。アンズがキョーコに説明したこの名の由来は、旧約聖書の雅歌のひとつ「私はシャロンのバラ、谷間のユリ」、そしてとりわけ新約聖書マタイ書の一節「なぜ着る物のことで心を悩ませるのか? 野のユリがどうやって増えていくのかよく見てごらん。働きも紡ぎもしない。だが栄華を極めたソロモンでさえこの花ほどに着飾ってはいない...」... キョーコは教養がないことで卑下していたアンズがなぜこんなことを知っているのか?と驚くのだが、それはそれ。
 三度目の登場はその花器を受け取ったボストン在住のヘレン夫人からの感謝の手紙。この「Lily of the field」という名で夫人も(キリスト教徒ゆえに)マタイ書を想い、生け花をたしなむ上での華美への戒めのこころを(言外に)見てとり、花器の美しさ共々感動する。そして自宅の庭園を日本語で「No-no-yuri(野のユリ)」と名付けるのだった。
 四度目は小説の最終部、アンダーソン社でのゴタゴタとグレン解任劇のあと、なにかを悟ったキョーコがたった一度の「合コン」で出会った運命の男ユージとの胸躍る最初のデートで連れてこられたのが、驚いたことに(ちょうど1年前、別の男と訪れた)レストラン「野のユリ」だった。予期しなかったそのレストラン再訪に戸惑うキョーコ、小説はここで終わる。
 もの心ついて以来「着る物のことで心を悩ませて」ばかりでここまで生きてきたキョーコに、「野のユリ」は言外になにか非常に重要なことを悟らせたのかどうか...。

 虚飾を愛した女キョーコが、「働きも紡ぎもしない」野のユリとして生き直す序章のような展開と読めるが、前に発表された小説『スズラン』で読者にはその行く末が知らされている。それだけでもこの『野のユリ』がたいへん弱いものになってしまう。その大部分をかなり凡庸と読める「企業小説」で埋めたところも、なんとも残念に思ってしまう。企業・セックス・聖書 : 三題噺としては興味深いテーマではあるが、「言外の含み」はリベラシオン紙文芸評論家が称賛するほどのものではありえない。ましてや味噌/漬物を想わせる日本性などどこにもない。アキ・シマザキ文学につきあってきたフランス語人たちはそれでもエキゾティックにこれを読み通せるのだろうか。私=仏日バイリンガル人にはかなりきびしかったですよ。ではまた次作で。

Aki Shimazaki "No-no-yuri"
Actes Sud刊 2022年5月4日 175ページ 16,50ユーロ


カストール爺の採点 : ★☆☆☆☆

(↓)何の関係もなくジリオラ・チンクエッティ「夢みる想い」(1964年)


(↓)何の関係もなくザ・スパイダース「No-no-boy」(1966年)

2022年5月7日土曜日

どこか幼くていい男

Annie Ernaux "Le Jeune Homme"
アニー・エルノー『若い男』

2021年、アニー・エルノー関連の(重要な)映画が2作も公開された。日本公開もされた『シンプルな情熱(Passion simple)』(監督ダニエル・アルビド)の原作は1992年発表の(ソ連崩壊前)”東の国”の外交官との狂熱不倫を描いたベストセラー(スキャンダル)小説。そしてもうひとつ、78回ヴェネツィア映画祭で金獅子賞を獲得した『出来事(L'Evénement)』(監督オードレー・ディワン)の方は、2000年発表の同名小説が原作で、1963年ルーアン大学の学生だった頃の主人公が当時非合法だった妊娠中絶を敢行したいきさつを描くもの。オートフィクションと呼ばれるようになった”自伝的小説”の先駆的作家であるゆえ、この2作が"人間”アニー・エルノーの生涯においてどれほど重要な事件のことであったかを、読者は知っている。彼女の読者になることは、”人間”アニー・エルノーの生きざまと立ち会うことを自ら許すことなのだから。で、このうすい40ページ足らずの短編『若い男』を手にした時、エルノーの読者はこれはちょうど『シンプルな情熱』(1992年)と『出来事』(2000年)の間に起こったことなのだ、ということを理解してしまう。
 『若い男』は1990年代後半の話であり、1940年生まれの作家も50代後半の時期である。30歳年下の学生が1年間も手紙を送り続け、作家にどうしても会いたいと。こうして一夜の縁があり、それから男は毎日電話するようになり、いつしか二人は毎週末会うようになっている。男はノルマンディーの古都、ルーアン大学の貧乏学生。そのキャンパスに話者・作家もその30年前に籍を置いていた。事情を知らないムキに一応紹介しておくと、アニー・エルノーは1940年、ノルマンディー、セーヌ・マリティーム県(首邑ルーアン)の村リルボンヌの労働者家庭に生まれ、両親が小さな雑貨店兼カフェを開店した同県イヴトの村で少女時代を過ごした典型的な"田舎娘”であった。大学に進んだ地ルーアンは彼女にとって初めての"都会"であり、良くも悪くも”世界”に目を見開かされた最初の場所であった。この記憶は否応なしに23歳の時の妊娠→(非合法)妊娠中絶という事件に直結するもの。おそらくこの「若い男」が出現しなければ、ルーアンという都市はしげしげと再訪するのが難しく、両親の墓参りの際に通過するだけの町にとどまっていただろう。
 「若い男」は単なるアヴァンチュールに始まり、やがて"物語(histoire)"に昇格していく。
 「若い男」は30年前の自分のコピーであった。一間アパルトマンに床直置きのマットレスの寝床、温度調節のできない電熱調理器、野菜が凍ってしまう冷蔵庫、冬の湿気と寒さに対抗できない暖房(日中も3枚セーターを重ね着するしかない)... そして貧乏だった頃の(忘れかけていた)仕草「早く溶けるように角砂糖をコーヒーの中で揺り動かすこと、スパゲッティーを短く切ること、リンゴを細かく分割してからナイフで突き刺して食べること」(p21)をこの若者が同じクセとして持っていることに当惑する。
 そしてそのアパルトマンの窓からは、”オテル・デュー・ド・ルーアン(Hôtel-Dieu de Rouen)"が見える。この小説の時期(1990年代)に大改装工事中で未来の県庁とフローベール博物館(ギュスタヴ・フローベールの生家)と医学史博物館になる予定のところであったが、もともとは12世紀からの歴史を持つ大病院であった。作者はこの病院に1963年1月、(非合法)ヤミの妊娠中絶手術後の異常出血で緊急入院させられている。こうして、「若い男」の出会いに伴う偶然の符合の数々によって、作者の30年前の記憶の扉が大きく開いていくのである。(そこから件の中絶を題材にした小説『出来事』への執筆が始まっていく、という本作の結末になるのであるが)
 この「若い男」との恋愛関係はフェアーではない。50代女と20代男の関係がフェアーであるわけがない。男は女にフィジカルな悦楽を与え、女は男に旅行(ヴェネツィア、ナポリ、マドリード...)とレストランの機会を与える。二人の間のルールは女が決める。「若い男」は女を熱愛していて、それまであのせまいアパルトマンで同居していた娘と別れてくれ、女はそれを"勝利”として自慢しさえもする。しかしこの交際中にもセルジー・ポントワーズの作家の一人住まいには、彼女の複数の情夫(セフレと言うべきか)が訪れていて、「若い男」は便所の便座が上がっているのを見つけ、猛烈に嫉妬し、この女の”不貞”をなじるのだった。作家はこの本の冒頭でも、自分が男との情交が必要なことの言い訳をしている。その快楽の果ての”疲れ”が、文学を創造する歓びに勝るものは何もないのだ、ということを自分に再確認させるためだ、と。なんというリクツであろうか。だがこのリクツが人間アニー・エルノーなのだよ。
 世間は男が50代で女が20代のカップルならば、それは”あり”とするのであるが、逆の場合、すなわち女が50代で男が20代であれば、かなり異常に見るだろう。25歳の差があるブリジット/エマニュエル・マクロンのカップルの存在がまだ誰も知らなかった頃である。その世間の白眼視に挑むように、話者と「若い男」のカップルは公に露出していく。場所によってはホモセクシュアルのカップルよりも敵意ある視線を浴びる。そしておおかたの人が想像しているのは母と息子の近親相姦であることも感じとる。世にはばかる。このセンセーションは、彼女がノルマンディーの田舎娘だった頃ボディーラインにぴったりした服を着て歩いた時の、周囲のとがめるような視線、そして母親の恥と怒りの声を想い起こさせるのである。私は30数年後に再びスキャンダラスな娘に立ち戻った、と。 
 「若い男」はナイーヴでありフツーの(貧乏)若者である。選挙に行かず、ロトくじを買い、音楽はFMのEurope 2(ポップ/ロック主流、2008年から局名がVirgin Radio)で聞く。そして「未来」のことも考えたりする。「私」との間に子供が欲しいと飛んでもないことを言ったりするが、現代医学ではそれは不可能なことではない。だが「私」の30年前のコピーである「若い男」が"現在"とすれば、「私」は過去でしかない。そしてこんなことまで言ってしまうのだ:
Je voudrais être à l'intérieur de toi et sortir de toi pour te resembler.
僕はあんたに似るために、あんたの内側に入ってそれからあんたから抜け出したいんだ。
(p34)

 この「若い男」が起爆剤となって大きく扉を開けてしまった30年前の記憶は、この作家に”そのこと”を書くことへの道筋をつけることになってしまった。書くこと、それこそがこの作家のレゾン・デートルであり、そのことで彼女は生きていられる。これをアニー・エルノーはこの短い本の冒頭本文前の3行の序句で、はっきりとこう書いてしまっている。
Si je ne les écris pas. les choses ne sont pas allées jusqu'à leur terme, elles ont été seulement vécues.
もしも私がそのことがらを書かなければ、それらは結末を迎えることがなく、単に体験されたことにとどまってしまう。
(p9)

すべてはここに凝縮されている。書かなければ落とし前はつけられない。最後の結語を与えてことを終わりにする。"les choses = ことがら、もの"とは、ずいぶん突き放した表現に思われるが、この作家にとっては、体験であり、見たものであり、男たちであり、この本の場合「若い男」なのだ。アニー・エルノーにあって文学はこうして生まれるのであるよ。

Annie Ernaux "Le Jeune Homme"
Gallimard刊 2022年5月4日、40ページ 8ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2021年、テレビARTEが制作した「アニー・エルノーのノルマンディー」という動画。生まれ育ったリルボンヌとイヴトの町から、大学に通ったルーアンなど。


(↓)記事タイトルに引用させてもらったダリダ「18歳の彼」

2022年5月1日日曜日

魅惑の美形シンガーの謎の死

ティーナ誌に12年間も連載されていた『それでもセーヌは流れる』は、毎回3〜4ページという長文記事だった。題材は私の独断で決められ、それが日本の読者に関心があろうがなかろうが、フランスの音楽および文化一般に関する内容で紙面は埋められていった。編集側から露骨に言われたことはないが、同誌で熱心に読まれることなどない連載だったという自覚はある。だから、時々「読まれる記事」を書きたいと悪あがきをした。マイク・ブラント(1947 - 1975)について書いた記事は、100%芸能誌ネタだった。1970年無一物でフランス上陸、フランス語も全くできないのにシングル盤が連続ミリオンヒット、短期間でスーパースターの座を手に入れ女性ファンたちを熱狂させたが、その人気の頂点にあった1975年、謎の転落死(自殺説/他殺説種々あり)。日本での知名度はたいしたものではなかったと思う。それでもこれは日本読者も興味を引いてくれる芸能ネタだろうと私は思ったのだが....。2015年マイク・ブラントの40回忌の年に書いたこれは、良くも悪くもわが連載にしては異色の記事だったと思っている。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2015年7月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


誰がバンビを殺したの?
マイク・ブラントの死から40年

(In ラティーナ誌2015年7月号)


 1975年4月25日午前11時頃、パリ16区エルランジェ通り6番地()の舗道上にマイク・ブラントの死体が発見される。同番地の最上階6階のアパルトマンから転落した。死因はオフィシャルには自殺だが、他殺説(極端なのはイスラエル秘密警察による暗殺説)もいろいろ出ている謎の死である。28歳だった。

 アウシュビッツ収容所から救出されたポーランド系ユダヤ人夫婦の長男(キプロス生れ、国籍イスラエル)本名モッシェ・ブランドは、4歳まで口が利けなかった。これがホロコースト体験のある両親から受け継いだ精神的疾患だったのかどうかは定かではないが、最後の年の2回の高い階からの転落(一度めはスイスのホテルで命を取りとめていて、2度めは前述のパリのアパルトマン)を自殺とする説にはこの精神的トラウマの影響を説明するものがある。
 イスラエルのハイファに居を固めたブランド一家は父がキブツ農場で働き糧を得るつましい生活であった。モッシェは学業も仕事も身につかない青年に育ったが、美貌に恵まれ歌がうまく、バンドを組み、観光ホテルで米国ヒット曲(プレスリー、シナトラ、トム・ジョーンズ等)を歌って人気を得ていた。やがて周辺国からも仕事が来るようになり、外国での受けを考慮して芸名をマイク・ブラントと名乗るようになった。1969年5月、テヘラン(イラン)のホテルのショーで歌っていたマイクを、ちょうどツアー中だったフランスのトップスター、シルヴィー・ヴァルタンとその付き人のカルロス(世界的に著名な児童心理学者フランソワーズ・ドルトの息子)が注目。これが幸運の出会いになって、ヴァルタンとカルロスはこの若者のフランスでの成功は間違いない、とバックアップを約束して、パリ渡航を促すのだった。



 1969年7月末、このフランス語を一言も話せない男がパリ・オルリー空港に降り立ったのは22歳の時だった。カルロスに紹介された作詞作曲家のジャン・ルナールは、その夏、ジョニー・アリディの「ク・ジュテーム(邦題:とどかぬ愛)」というメガヒット曲の作者として勢いに乗っていた。ルナールの編曲者としてコンビを組んでいたのがジャン=クロード・ヴァニエ(ゲンズブール『メロディー・ネルソンの物語』の共作者。本誌201412月号の拙稿参照)で、ブラントとルナールの初対面は、私が昨年インタヴューで訪れたパリ3区のヴァニエのアパルトマンでなされたのだ。フランス語を話せない若者に、ルナールはピアノでFマイナー(ヘ短調)の和音を弾いて、これで何か歌ってみろ、と促した。ブラントはガーシュインの「サマータイム」の冒頭をほとんどシャウトで熱唱した。15秒もせずルナールはこの声の響きに圧倒され、このアーチストの潜在力を確信した。


 デビュー曲「レス・モワ・テメ Laisse-moi t'aimer」(きみを愛させて)はルナール作詞作曲、ヴァニエ編曲で用意されたが、フランス語を解さないため、歌詞をヘブライ文字表音に置き換えて、極端な外国訛りがなくなるまで練習するのに数週間かかった。この表音置き換えで歌詞を覚えるテクニックを「フォネティック」と言うが、75年にフランスでデビューした沢田研二は同じようにカタカナによるフォネティックでフランス語歌詞を歌った。

 この70年2月のデビューシングル以来、75年に亡くなるまでの5年間にマイク・ブラントは16枚のシングル盤、4枚のLPアルバムを発表し、その売上総数は3千万枚と言われている。この5年間で区切れば、それはクロード・フランソワやジョニー・アリデイをはるかに凌いでいた。


 70年代は日本に数年遅れながらもフランスも本格的なテレビの時代に入り、大衆歌謡のヒット曲もラジオを超してテレビがヘゲモニーを握るようになった。それが曲や歌詞よりもルックスが人気のポイントになる現象を生み、レコード購買層の年齢を一挙に低下させる。こうして次々にテレビに登場したティーンネイジ・アイドルたちを、フランスでは「シャントゥール・ア・ミネット chanteurs à minettes 」(仔猫のような女の子たちに好かれる歌手)と呼び、当代の日本語ではイケメンと言うのだろうか、テレビ受けのするルックスと身のこなしと無内容なラヴソングでヒットパレードを席巻した。デイヴ、パトリック・ジュヴェ、クリスチアン・ドラグランジュ、C・ジェローム、アラン・シャンフォール... その中でマイク・ブラントは一馬身も二馬身も先を行く人気があり、コンサートでは若い女性の失神者たちがあとを断たなかった。

 

 この人気の重要なファクターがエキゾティスムであった。フランス語を一言もしゃべれない異国の王子様、言葉よりも神秘的な瞳が語りかけるエトランジェ...74年に地球規模でヒットしたソフトポルノ映画「エマニエル夫人」を思い起こしてみよう。性的倦怠を覚えていた外交官夫人が世界の片隅でアジア人導師に性のイニシエーションを授かるのである。興味本位のエキゾティスムは70年代西欧の女性たちにおいて爆発的に流行するのである。マイク・ブラントの大成功に続いて、その二匹目のドジョウを狙って、同じようにエキゾティック王子様タイプのシンガーが次々とフランスのテレビに登場する。ヨニ(イスラエル)、サンチアナ(チュニジア)、シェイク(マレーシア)、ジャイロ(アルゼンチン)、沢田研二(日本)... どれも一様に黒い長髪の美青年であり、人気は短命だった。


 5年間常に人気の頂点にあったマイク・ブラントは、この短い間に制作スタッフ、レコード会社、マネージメントを頻繁に変えている。言葉の点で不安があった彼は不透明な芸能界で誰も信用できなかった。トップヒットを連発していくうちに、自分がやりたいことはティーンネイジャーに騒がれるシャントゥール・ア・ミネットを続けるのではなく、トム・ジョーンズのようなヴォーカル・アーチストになることである。実際ブラントはコンサートで女子たちのキャーキャー叫び声に「静かにしてくれ」と訴えることが少なくなかった。

 

 数多く出ているバイオグラフィー本で、異口同音で最大の転機とされているのが、1974年のシモン・ワイントロブ(→写真。1978年に自殺。他殺説もあり)とのプロデューサー契約である。それまで音楽界とは縁のなかったこのイスラエル人はサルバドール・ダリの画商として成功して巨万の富を得、ブラントとは100%ヘブライ語でやりとりをして「兄弟のような」信頼を勝ち得たという。しかし南仏マフィアのドン、ジャン=ルイ・ファルジェット(1993年に暗殺された)との関係もある不透明極まりない人物で、ブラントと派手にメディアに登場するものの、ブラントに約束した支払いの不履行のトラブルが二人の関係を険悪にしていった。

 不眠不休(そして薬物漬け)のスーパースターは友人ジョニー・アリディの勧めで7411月スイスの私立クリニークで数日間の休養を取っている。1122日、そこから25キロ離れたジュネーヴのホテルにシモン・ワイントロブが逗留していて、ブラントは支払い不履行の抗議をするべくそのホテルまで出向いていく。12時9分、6階の509号室のバルコニーの手すりを越えてマイク・ブラントの体は地上めがけて落下していく。途中3階の雨樋いに脚がひっかかり、それがショック緩和となって地上に叩き付けられたブラントは一命を取り留めた。一体何が起こったのか?公式には極度の神経衰弱による発作的自殺未遂となっていて、この事件の瞬間にワイントロブはシャワールームでシャワーを浴びていたことになっている。別証言(歌手ダリダにブラントが打ち明けたとされる)では、ワイントロブが「空を飛びたいのか?やってみろよ」とけしかけたとされている。

 5日間の昏睡状態を抜けて、この世に帰ってきたブラントは2月までジュネーヴの病院で過ごし、雨樋いにひっかかることで彼の命を救った左脚の回復を待ってカムバックを心に誓っていた。その再起シングルとして4月21日にパリで録音されたのが「ディ・リュイ Dis-lui」(彼女に言って)(75年モーリス・アルバートの大ヒット「フィーリングス」のカヴァー※※)であった。スイス事件の前に空き巣強盗によって荒らされた住居を捨て、4月22日ヌイイに新しいアパルトマンと契約、2階建てなので、ここならいくら飛ぼうとしても大した怪我をしなくてすむ、と冗談を飛ばしていたという。4月23日、病院からレントゲン検査の結果、左脚の経過は良く、将来においてびっこを引くことはないと太鼓判を押され、ブラントは大喜びだった。424日、再起後初のテレビ出演を翌日に控え、昼からシモン・ワイントロブの事務所で打ち合せ、ワイントロブと金銭のことで大口論、ブラントが涙を流す場面が証言されている。

 24日夜、フランス移住時以来の女友だちジャンヌ・カッシのアパルトマン(パリ16区エルランジェ通り6番地6階)で眠ることにし、そこに着くが不安と興奮で眠れない。テレビを見ながらジャンヌにプロデューサーに裏切られた話を長々としている。23時半に付き人のアラン・クリエフ(84年に地下鉄に投身自殺している)から「今晩テレビで恐怖映画は見ない方がいい」という電話。ブラントはもっとましな電話を期待していた、と憤慨。その夜は眠れず、睡眠薬も飲んでいない。

 25日午前11時頃、ジャンヌはシャワールームにいる。電話が鳴る。不機嫌さを露にしながらブラントが電話をとる。しかし相手の声を聞くやいなやブラントは受話器を置いてしまう。その数分後に,6階下の地上にマイク・ブラントの落下死体が発見される

 死の
15日後に発売されたシングル盤「ディ・リュイ」は即日に百万枚のセールスを記録。

 一体なぜ死んだのか。自殺か他殺か。関係者(ワイントロブ、クリエフ)が次々に死んでいるのはなぜか。繊細な魂を死に追いやったのは芸能界の暗黒部分か。40年後もこのスーパースターの死は謎に包まれ、ドラマやミュージカル劇の題材になってきた。2016年にはイスラエル人監督エイタン・フォックスによる本格的伝記映画『マイク』(ジョゼ・ガルシア、メラニー・ローラン等出演)が予定されている(※※※)。




 

そこから20メートルほどの距離にあるエルランジェ通り10番地で1981年6月に佐川一成の殺人・人肉食事件が起きている。 そのエルランジェ通りで起こった怪事件に端を発するジャン・エシュノーズ小説『ジェラール・フュルマールの生涯』(2020年)の紹介記事が爺ブログにあり。(→『因縁のエルランジェ通り』)
※※1957年に作曲家ルールー・ガステがダリオ・モレノのために作曲した「プール・トワ Pour Toi」が原曲。ガステ未亡人の歌手リーヌ・ルノーが7年の訴訟の末にモーリス・アルバートの盗作を認めさせ、以後作曲者名はルールー・ガステと明記されるようになっている。日本のハイ・ファイ・セットによるカバー(1976年)もしかり。
※※※エイタン・フォックスによるバイオピックはマイク・ブラント親族の反対により2016年に企画が頓挫している、



(ラティーナ誌2015年7月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)