『ルイ=フェルディナン・セリーヌ』
"Louis-Ferdinand Céline"
2015年制作フランス映画
監督:エマニュエル・ブールデュー
主演:ドニ・ラヴァン、フィリップ・デムール、ジェラルディーヌ・ペラス
フランス公開:2016年3月9日
時は1948年8月、『夜の果てへの旅』の作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ(1894年ー1961年)(演ドニ・ラヴァン)は、第二次大戦中の対ナチ協力の嫌疑でフランス当局に追われて国外逃亡を余儀なくされ、妻のリュセット(演ジェラルディーヌ・ペラス)とデンマークの片田舎でフランス政府監視下の幽閉状態で暮らしています。そこへアメリカの大学教授で熱烈なセリーヌ信奉者であるミルトン・ヒンダス(演フィリップ・デムール)がやってきます。戦後国賊の汚名を着せられ窮地にあったセリーヌに、このユダヤ系アメリカ人学者は友好的な手紙を送り続け、その熱意に気を良くしたセリーヌが彼を招待したのです。
ミルトンはこの呪われた大文豪との交流は自分にとっての大きなチャンスであると思っています。その呪われた部分をミルトンだけが知ることができたなら。そしてそれを本にすることができたなら、という野望もあります。
その文体そのままに、野卑な言葉を使い、周囲(デンマーク)や世界(彼にとっては共産主義が世界征服しつつある世界)を大声で呪い続ける大作家は、まだ50代だと言うのに、体の自由がきかない老人の態です。それにひきかえ自ら大作家の「ミューズ」と名乗る妻のリュセットは美貌と気品を保ち、大作家の癇癪や気まぐれによく耐えると言うよりは、その手のつけられない性悪さをこの世で唯一コントロールできる魔力を備えているような描かれ方です。セリーヌとリュセットの目下の望みは「名誉回復・パリ復帰」なのですが、それには外国の知識人・文学人たちの支援が最も有効であると思っています。特にヘンリー・ミラーがセリーヌ擁護を訴えている米国の力があれば。リュセットはミルトン・ヒンダスの来訪がその大きなチャンスであると踏んでいて、セリーヌにヒンダスの前では愚行を慎み、友好的に振る舞うように厳命するのですが...。
映画の冒頭で、コペンハーゲンからの長距離バスを降りてくるヒンダスにセリーヌが「プロフェッサー、プロフェッサー!」(仏語訛り英語です)と、まるで終戦直後の子供が米兵にチョコレートやチューインガムをねだるような媚びた呼び声を発します。道化師のようです。このドニ・ラヴァンの演技をテレラマ誌は"le jeu parfois trop clownesque"(過剰に道化師的な演技)と眉をしかめるのですが、この映画の副題は "Deux Clowns Pour Une Catastrophe"(ひとつの劇的結末のための二人の道化師)というものです。セリーヌの演技は長続きしません。地が出てしまいます。その地は陰険で狡猾でわがままで誇大妄想狂で助兵衛なのです。映画の中で、貧しい家計を支えるために元バレリーナのリュセットが、村の少女たちのためにバレエ教室を開いていて、その年端もいかぬ少女たちの練習をセリーヌがのぞき穴から見ていて、その体について下卑た品評をするというシーンがあります。セリーヌを崇めるヒンダスは、その地がどんどん露わになるにつれて、自尊心をどんどん傷つけられていきます。
ヒンダスが自分に近づいたのは、インタヴューを取って自分の本を出版することが目的だと見抜いた時から、セリーヌは「抜け目のないユダヤ人め」と侮蔑の態度をちらつかせるようになります。リュセットはそれも復権のチャンスなのだから利用しなければ、と協力的な立場を取ります。しかし並外れた巨大なエゴを持つセリーヌは、その主導権を自分が取らねば気がすまず、ヒンダスが書くであろう未来の本は、俺とミルトンで作り出す傑作でなければならないと方向付けるのです。だからインタヴューでは、ああ書けこう書けという命令になっていくのです。
そして最もヒンダスが打ちのめされるのは、セリーヌの髄の部分から毒水のように吐き出されるユダヤ排斥言説であり、憎悪を通り越したユダヤ呪詛の罵詈雑言の数々によってです。「第一次大戦も第二次大戦も一体誰が勝利者か? 決まってるじゃないか、あんたたちに」というような。ヒンダスを前にしても、それをことさらに誇示するように反ユダヤ節をぶちまけるのです。ヒンダスはと言えば、妊娠5ヶ月の妻を残して、一世一代の決意をしてアメリカからデンマークに来たのですが、第二次大戦中にセリーヌが書いた政治パンフレット(ほとんどユダヤ人撲滅論)によってこの作家は全ユダヤ人の許しがたい敵となっていて、家族と一族から猛反対を受けながらセリーヌ擁護の立場を取っているのです。莫大なリスクを負ってこの男を慕ってやってきたのに、自分はこの男から最悪の屈辱を舐めさせられている。
俺も道化師だが、おまえも道化師だ、というセリーヌ論法で、二人はあるひとつの傑作を生むはずというセリーヌの読みは外れ、ヒンダスの忍従は限界を超え、切れます。これがひとつの劇的大惨事(une catastrophe)であり、この映画の結末です。この映画ではセリーヌは強い憤りのうちにデンマークを去っていくヒンダスに、バスを追いかけて許しを乞う哀れな男となります。どうしようもない男と誰の目にも映るでしょう。
ヒンダスはそのコペンハーゲンに向かう屈辱のバスの中で、乗り合わせた客に「アメリカ人かい?」と尋ねられ、「いや、私はユダヤ人だ」と答えるのでした...。
セリーヌ+リュセット+ヒンダスのトリオは、リュセットがいる時だけ歯車が一緒に回るのです。映画にはそういういいシーンが幾つか挿入され、音楽あり、(嘘か誠か)友情ありの暖かい場面もあるのです。駄々っ子のようなセリーヌの無邪気さがあると思うと、怪物のように豹変して全く手がつけられなくなってしまう、この落差は大変なものですが、実像は怪物なのです。ドニ・ラヴァン、素晴らしいと思います。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『ルイ=フェルディナン・セリーヌ』 予告編
"Louis-Ferdinand Céline"
2015年制作フランス映画
監督:エマニュエル・ブールデュー
主演:ドニ・ラヴァン、フィリップ・デムール、ジェラルディーヌ・ペラス
フランス公開:2016年3月9日
時は1948年8月、『夜の果てへの旅』の作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ(1894年ー1961年)(演ドニ・ラヴァン)は、第二次大戦中の対ナチ協力の嫌疑でフランス当局に追われて国外逃亡を余儀なくされ、妻のリュセット(演ジェラルディーヌ・ペラス)とデンマークの片田舎でフランス政府監視下の幽閉状態で暮らしています。そこへアメリカの大学教授で熱烈なセリーヌ信奉者であるミルトン・ヒンダス(演フィリップ・デムール)がやってきます。戦後国賊の汚名を着せられ窮地にあったセリーヌに、このユダヤ系アメリカ人学者は友好的な手紙を送り続け、その熱意に気を良くしたセリーヌが彼を招待したのです。
ミルトンはこの呪われた大文豪との交流は自分にとっての大きなチャンスであると思っています。その呪われた部分をミルトンだけが知ることができたなら。そしてそれを本にすることができたなら、という野望もあります。
その文体そのままに、野卑な言葉を使い、周囲(デンマーク)や世界(彼にとっては共産主義が世界征服しつつある世界)を大声で呪い続ける大作家は、まだ50代だと言うのに、体の自由がきかない老人の態です。それにひきかえ自ら大作家の「ミューズ」と名乗る妻のリュセットは美貌と気品を保ち、大作家の癇癪や気まぐれによく耐えると言うよりは、その手のつけられない性悪さをこの世で唯一コントロールできる魔力を備えているような描かれ方です。セリーヌとリュセットの目下の望みは「名誉回復・パリ復帰」なのですが、それには外国の知識人・文学人たちの支援が最も有効であると思っています。特にヘンリー・ミラーがセリーヌ擁護を訴えている米国の力があれば。リュセットはミルトン・ヒンダスの来訪がその大きなチャンスであると踏んでいて、セリーヌにヒンダスの前では愚行を慎み、友好的に振る舞うように厳命するのですが...。
映画の冒頭で、コペンハーゲンからの長距離バスを降りてくるヒンダスにセリーヌが「プロフェッサー、プロフェッサー!」(仏語訛り英語です)と、まるで終戦直後の子供が米兵にチョコレートやチューインガムをねだるような媚びた呼び声を発します。道化師のようです。このドニ・ラヴァンの演技をテレラマ誌は"le jeu parfois trop clownesque"(過剰に道化師的な演技)と眉をしかめるのですが、この映画の副題は "Deux Clowns Pour Une Catastrophe"(ひとつの劇的結末のための二人の道化師)というものです。セリーヌの演技は長続きしません。地が出てしまいます。その地は陰険で狡猾でわがままで誇大妄想狂で助兵衛なのです。映画の中で、貧しい家計を支えるために元バレリーナのリュセットが、村の少女たちのためにバレエ教室を開いていて、その年端もいかぬ少女たちの練習をセリーヌがのぞき穴から見ていて、その体について下卑た品評をするというシーンがあります。セリーヌを崇めるヒンダスは、その地がどんどん露わになるにつれて、自尊心をどんどん傷つけられていきます。
ヒンダスが自分に近づいたのは、インタヴューを取って自分の本を出版することが目的だと見抜いた時から、セリーヌは「抜け目のないユダヤ人め」と侮蔑の態度をちらつかせるようになります。リュセットはそれも復権のチャンスなのだから利用しなければ、と協力的な立場を取ります。しかし並外れた巨大なエゴを持つセリーヌは、その主導権を自分が取らねば気がすまず、ヒンダスが書くであろう未来の本は、俺とミルトンで作り出す傑作でなければならないと方向付けるのです。だからインタヴューでは、ああ書けこう書けという命令になっていくのです。
そして最もヒンダスが打ちのめされるのは、セリーヌの髄の部分から毒水のように吐き出されるユダヤ排斥言説であり、憎悪を通り越したユダヤ呪詛の罵詈雑言の数々によってです。「第一次大戦も第二次大戦も一体誰が勝利者か? 決まってるじゃないか、あんたたちに」というような。ヒンダスを前にしても、それをことさらに誇示するように反ユダヤ節をぶちまけるのです。ヒンダスはと言えば、妊娠5ヶ月の妻を残して、一世一代の決意をしてアメリカからデンマークに来たのですが、第二次大戦中にセリーヌが書いた政治パンフレット(ほとんどユダヤ人撲滅論)によってこの作家は全ユダヤ人の許しがたい敵となっていて、家族と一族から猛反対を受けながらセリーヌ擁護の立場を取っているのです。莫大なリスクを負ってこの男を慕ってやってきたのに、自分はこの男から最悪の屈辱を舐めさせられている。
俺も道化師だが、おまえも道化師だ、というセリーヌ論法で、二人はあるひとつの傑作を生むはずというセリーヌの読みは外れ、ヒンダスの忍従は限界を超え、切れます。これがひとつの劇的大惨事(une catastrophe)であり、この映画の結末です。この映画ではセリーヌは強い憤りのうちにデンマークを去っていくヒンダスに、バスを追いかけて許しを乞う哀れな男となります。どうしようもない男と誰の目にも映るでしょう。
ヒンダスはそのコペンハーゲンに向かう屈辱のバスの中で、乗り合わせた客に「アメリカ人かい?」と尋ねられ、「いや、私はユダヤ人だ」と答えるのでした...。
セリーヌ+リュセット+ヒンダスのトリオは、リュセットがいる時だけ歯車が一緒に回るのです。映画にはそういういいシーンが幾つか挿入され、音楽あり、(嘘か誠か)友情ありの暖かい場面もあるのです。駄々っ子のようなセリーヌの無邪気さがあると思うと、怪物のように豹変して全く手がつけられなくなってしまう、この落差は大変なものですが、実像は怪物なのです。ドニ・ラヴァン、素晴らしいと思います。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『ルイ=フェルディナン・セリーヌ』 予告編
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