2023年8月31日木曜日

クイ クイ クイ クイ クイ

Amélie Nothomb "Psychopompe"
アメリー・ノトンブ『プシコポンプ』

クイ クイ クイ クイ クイ
("Oiseau" Laurent Bardainne & Bertrand Belin 2022)


恒例夏の終わりのアメリー・ノトンブ、第32弾。前作で表紙写真(ニコス・アリアガス撮影)が今ひとつだったが、今回従来のジャン=バティスト・モンディーノに戻って、さすがの冴え(被写体の狂気がくっきり)。その表紙の右上に描かれているのが一羽の鶴。鳥類と自らの飛翔願望について大部分が割かれる小説であるが、鶴は冒頭に登場する。ノトンブの前31作と同じように"Roman(小説)”と銘打たれているが、傾向としては自伝エッセイのように読める。幼女期からの鳥との親密な関係、自分は鳥類であると自覚する少女期などが展開されていく。ただこの作家は種々の作品において自らの過去を再解釈して書き直すことがままあり(例えば3歳にして自殺未遂、8歳でアルコール常習者、など)、自伝的ではあってもフィクションとして読まれるべきであり、それは”小説”(ノトンブゆかりの関西の言葉で言えば”ハナシ”)なのである。
 小説冒頭、作者が最初に鳥から受けた衝撃のエピソードとして、生まれて5歳まで暮らしていた神戸夙川の家の乳母だった「ニシオさん」が語ってくれた日本の民話「鶴の恩返し」が紹介されるが、作者の遠い記憶を頼りに文章化したと断るものの、地方によって様々なヴァリエーションがあることを了解しても、このノトンブ版の「鶴の恩返し」はわれわれ日本人が知る民話とはかなり異なっていて独創的である。ノトンブ・ヴァージョンには「恩返し」がない。ある生地反物商の店に絶世の美女が現れ、嫁にして欲しい、と。反物商はこのような美女を妻にするチャンスを逃す手はないと、二つ返事で結婚。私は嫁入りの貢物を持ってこなかったので、小さな機織小屋を与えてくれれば、生地を織ってあなたの商売を助けましょう、ただし小屋の中を絶対に覗いてはいけません、と。1週間後、世にも美しい織物が出来上がってくるが女は極度に疲労した姿に。夫はさっそくそれを売りに出すとたちまち超高価で売れてしまい、その噂が広がり店に同じ布地の注文が殺到する。夫は妻に増産に次ぐ増産を請い、いくら値段を吊り上げても即刻に売れてしまうこの織物のおかげで大金持ちになるが、寝食を忘れて小屋で降り続ける女は消耗し痩せ細っていく。妻の命が長くないと踏むや、夫は妻が死ぬ前にこの機織りの制法を知っておくべきだ、と、小屋の中を覗き...。多くの羽根が抜けて見るも哀れな姿になった鶴がそれでも最後の力を振り絞って山に向かって飛び去っていく....。という(当時4歳だった)子ども心には非常に怖かった残酷物語になっている。欲に目が眩み、約束破りをしてしまった男は、自らの愚劣さを猛省し、最後の織物を”床の間”に飾り、一生大切にした、という結末。おいおい...。
 私はこの出だし6ページでおおいに挫かれた。小説は私に構わずどんどん話を進め、少女がいかに鳥類に魅せられ、鳥に自己同一化していくかを描いていく。鳥類図鑑や鳥類百科を暗記するほど読みあさり、鳥たちのいるところへ近づくことに無上の喜びを覚える。父親(パトリック・ノトンブ、大使職を歴任するベルギー上級外交官)の頻繁な転任で、神戸から北京へ、北京からニューヨーク(国連)へ、そして11歳の時にバングラデシュに至る。環境の著しい変化に従って、見る鳥たちもまた。数ある鳥の中で話者がとりわけ偏愛していたのが東南アジア亜熱帯に生息するというオオミミヨタカ(仏語 Engoulevent oreillard/英語 Great eared nightjar)である(↓ Youtube動画)。

少女の願望はこの鳥に”生まれ変わりたい”ではなく、訓練すればこの鳥になれる、なのである。その飛翔を覚えるためにクラシックバレエを習い、軽くなるために食べ物の摂取を減らしていく。
 これが話者が極端な拒食症(アノレクシア)に陥ることになるのは、また別の事件が原因で、それがこの小説のターニングポイントでもある。仏メディアのこの本の書評の多くはこの部分にばかり焦点を当てるのだが、バングラデシュのコックスバザールのビーチで泳ぎに行った12歳の話者が集団による性暴行に遭うのである。この体験は2004年発表の自伝的小説”Biographie de la faim"以来、ノトンブ自身によって作中で何度か告白されている。
水から上がってきた時、私は子供たちがいないことを残念に思った。あの子供たちの一群はどこに消えてしまったのだろう?もはや私たちしかいない。
「サメに気をつけるのよ」と母が言った。
私は言いつけを無視して、岸からこれまで行ったことのない遠くまで離れていった。水平線まで泳いで行けたらと思いながら。
その時海から手が現れ私を捕まえた。全く見えない体から出ている何本もの手が私を掴み、私を裸にし、私を犯した。この痛みと同じほどの恐怖が襲った。
「食べられてしまえ!」
叫び声を上げるのに私には1世紀の時間を要した。
母が聞きつけ、私の方に走ってきたが、私は遠すぎた。母は到底私のところまでたどり着けないと思った。その間中、海から現れた何本もの手は手当たり次第にすべてをめちゃくちゃにした。
母が30メートルの距離まで近づいた時、手は私を離した。母は私を腕の中に抱え岸まで連れ戻しt。私の水着はかかとに引っかかっていた。
遠くに4人の男が水から出て走って逃げていくのが見えた。彼らは身の軽い若者たちだったが、誰も彼らのことは知らなかった。
「かわいそうな娘(Pauvre petite)」とだけ母は言った。
居合わせた3人の口からはただの一言も出なかった。私の母のこの言葉がなければ、私は発狂していただろう。
私は狂わずに済んだが、私の中で何かが消え去った。それ以後誰も私が水の中にいる姿を見ることはない。
その午後、私は浜辺の上を一羽の川つばめが飛んでいるのを見た。通常このつばめはこんなところまで来ない。私は浜辺に横になり、それを観察していた。つばめは私にひとつの解釈を示していたのだ。海から現れた手による暴力はたまごの殻を壊してしまった。私はもはやたまごではない。私は殻を壊されて出てきたひな鳥だが、羽根がない。私は鳥の身分に昇格しなければならないのだが、それは途方もなく難しいことだった。
(p79 - 80)

 こうして話者は人間として死に、鳥として孵化して再生したのだが、翼がなかったのだ。鳥として空を飛翔することに全身全霊を捧げて鍛錬するのだが、食べ物をまったく摂取できなくなり衰弱していく。私はここで、1984年のアラン・パーカーの映画『バーディ』の主人公が軍の精神病院で全裸で鳥の姿勢を取りながら檻窓から夜空を見続けるシーンを思い出した。それはそれ。この同じ時期に話者は、当時の高い教養ある家柄の子女の教育に必須だったラテン語と古典ギリシャ語の習得に並々ならぬ情熱を覚え、とりわけホメロス(『イリアス』『オデッセイ』)の著作に没頭する。これによって、14歳の少女は”ものを書く”という行為を発見する。別の言い方をすると”エクリチュールを獲得する”のである。2年間の拒食症で衰弱の極みの淵にまで至った少女は、「書くこと」によって自分を救済する。すなわち「作家の誕生」である。書くことは少女ノトンブにとって鳥が飛翔することに等しい。どちらも命がけの行為なのである。
Ecrire, c'est voler
書くこととは飛ぶことである
2023年現在57歳の作者にとって上に述べたようにこれが(本として発表された)32冊めの書物であるが、今日まで書き終えた小説は105篇あると言う。つまり73篇が引き出しの中に残っているらしい。不眠症であり、鳥のように夜明け前から活動を開始する作者は、機織小屋のような密室で自らの羽根を毟りながら小説を織り上げているのだろう。飛ぶことと同じように書くことをやめれば転落(墜落)するのである。
 バングラデシュからビルマ、ラオスと外交官の娘の”オデッセイ”は続き、17歳でブリュッセルに戻り大学で人文学および哲学を修了し教授資格を取得、憧憬の地であった日本へ”帰郷”、東京で世界的商社「ユミモト」の社員となって屈辱的ハラスメントの犠牲となる(1999年の小説”Stupeur et tremblements")....。

 小説題の「プシコポンプ psychopompe」とは何か。手元の大修館スタンダード仏和辞典では
a. 【ギ神話】死者の霊魂を導く〔アポロ、ヘルメス、オルフェウスなどを形容〕
という形容詞として説明されているが、この小説では「死者を冥界に導く付き添い」のように書かれている。話者はとりわけオルフェ(オルフェウス、オルペウス)をプシコポンプの代表と見なしている。冥界から死んだ妻を連れ戻そうとするが、振り向いてはいけない(「鶴の恩返し」の”見てはいけない”)という厳命に従わず、妻を取り返せない。現世と冥界の往復をした死者の魂の付き添い人にして、得も言われぬ音楽を奏でる者、それがオルフェである。原初、音楽とは鳥の鳴き声の模倣であった。鳥はプシコポンプの資質を持ってこの世にいる。(飛ばなければ死ぬ)空中という生と死(此界と冥界)の境界を行き来しながら音楽を奏でる、という話者のリクツなのである。
 アメリー・ノトンブという作家もまたしかり。書くこととは飛ぶことである。この作家は書くことによって死者の魂を冥界に導いたことが2度ある、とこの本で語り出すのだ。おそらくこの二つの作品が今日までのこの作家の最高峰なのだ、と言いたいのだろう。ひとつはイエス・キリストの最後の瞬間の喉の渇きを描いた『渇き(Soif)』(2019年、同年ゴンクール賞候補作)、もうひとつは父パトリック・ノトンブ(1936-2020)の病死を悼む伝記フィクション『最初の血(Premier Sang)』(2021年ルノードー賞)。私もこの2作品はほぼ絶賛したので文句はない。おそれおおくもかしこくも(stupeur et tremblements)、イエス・キリストの迫りくる死とその渇きに寄り添い、その魂をしかるべきところにお届けする小説を書いたのだ。こんな小説を書いてしまったら、あとは何も書けなくなるだろう、と思われよう。だが、ノトンブは書き続け、飛び続けるのである。最も身近な死であったはずの父パトリックへの鎮魂、コロナ禍で最後の姿も死に顔にもまみえることができなかったゆえ、その小説は亡き父を自らの手を用いて死化粧を施してやるような趣で描かれていた。対話は夢の中でなされる。このプシコポンプは”口寄せ”でもあった。
 それは認めますよ。それはいいですよ。だがしかし、この『プシコポンプ』という小説の後半にあふれかえる小説家アメリー・ノトンブの壮大なる自画自賛は、ちょっとぉ.... 。いかにこの作家が鳥類に近く、飛び、歌い、書き、眠らずに生きているか。地球の環境変動で種の存続を危うくしている鳥類への思いも、警告も、それはそれでいいんだけど。これで160ページはきびしい。ほんとうにきびしい。

Amélie Nothomb "Psychopompe"
Albin Michel刊 2023年8月22日 160ページ 18.90ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)2023年8月28日、フランス国営ラジオFrance Interの朝番組で(切れ者ジャーナリスト)レア・サラメを相手に『プシコポンプ』について語るアメリー・ノトンブ


(↓)ローラン・バルデンヌ+ ベルトラン・ブラン「クイ クイ クイ クイ クイ」

2023年8月25日金曜日

ある理想のカップルの終焉

"Anatomie d'une chute"
『ある転落死の解剖分析』

2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞


2023年フランス映画
監督:ジュスティーヌ・トリエ
主演:サンドラ・ヒューラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネ
フランスでの公開:2023年8月23日

でに定評あるドイツ人女流作家サンドラ(演サンドラ・ヒューラー)とフランス人大学教授で作家に転身したいが行き詰まっているサミュエル(演サニュエル・テイス)の夫婦とその一人息子で11歳のダニエル(ミロ・マシャド・グラネ、怪演、ピアノ演奏も)が住み。仕事場兼住処としているフランスアルプス山中の孤立したシャレー。事故で視力が極度に弱くなったダニエルがその盲導犬(これもすごい名演、ボーダーコリー犬、“スヌープ”という名も素敵)と雪山の散歩から帰ってくると、シャレーの前に父サミュエルの転落死体が横たわっている。シャレーの最上階からの転落。検死の結果、他殺とも解釈できる要素が複数見つかり、当時シャレーにいた妻のサンドラに嫌疑が。サンドラは弁護士として旧友(と言うか何年も前に恋仲だったという含み)ヴァンサン(演スワン・アルロー、この男優いつも素晴らしすぎて)を指名、映画のほとんどは、この法廷での争いの動向であり、切れ者にして鬼のような検察側主任検事(演アントワーヌ・レナール、これもすごい迫力)が次から次に出してくる嫌疑証拠と鬼の弁舌で被告サンドラは何度も窮地に。殺人動機として夫サミュエルへの恨みを証明する材料はある。その決定的とも言える物証は、転落死の前夜に起こった夫婦間の激しい口論(と身体的ヴァイオレンスを示す格闘の音)をサミュエル自身が録音してあったUSBキー...
 映画は容疑者サンドラを容赦なく追い詰める方向で進行する。それはまさにこのサンドラとサミュエルというカップルの関係を”解剖鑑定”するしかたで進められる。徐々に深まっていったであろう二人の間の亀裂が深くなればなるほど、サンドラの”殺意”説が優勢になる。最初は理想的なカップルだったのだろう。お互いに独立した仕事を持つインテリ人であり、お互いの創造領域においても刺激しあっている。お互いがその「第一の読者」であろう。お互いがインスピレーションの引き出しであることもあろう。法廷弁論でサミュエルの小説原案をサンドラが二度ほど拝借して自分の小説にしたことが問い沙汰される。検察側の読み方はこれが”剽窃”であり、二人の関係を悪化させたに違いないとする。過去において”分かち合う”夫婦であった、という見方はしない。

 その亀裂の大きなきっかけは息子ダニエルを失明寸前にまで陥れた事故であり、その間接的な責任の多くはサミュエルにあった。サミュエル自身も呵責に苛まれるのだが、このことも二人の確執を説明づけるものと見られる。ロンドンでの平穏な三人生活を捨てて、親の持ち物だったアルプスのシャレーに居を移したのは、サミュエルが作家としての創作活動に専念するためだったが、作品も書けず、経済的にも困窮したサミュエル。順調に本を出しているサンドラ。サミュエルのエゴは傷つき、サンドラへの嫉妬は隠しようがない。大きなシャレーの中で別寝室/別書斎で生活する夫婦。バイセクシュアルのサンドラ。法廷弁論でサンドラが何度”女性”と情交したか、という検察質問も出る...。
 おそらくこのカップルの最初のルールであったであろう「英語」。このドイツ人とフランス人が対等の関係であるために、おたがいの母語ではない「英語」をコミュニケーション言語として採用している。映画はサンドラは(フランス語はほぼ完璧に操れるが)ほとんどの場面で英語で通している。だから私のような非英語人は(フランス映画なのに)字幕を見るのがたいへんだった。法廷でも鬼検事の鬼のようなフランス語弁説にサンドラはフランス語で対応するのを断念し、後半はもっぱら英語になる。しかし八方塞がりまで追い込まれそうになりながら、それを救うのはダニエルとその盲導犬スヌープなのである。11歳で両親の醜い諍いの細部の細部まで法廷の弁論応酬で知ってしまったダニエルの葛藤、これがこの映画を救済するのだ。そしてサンドラが激しい検察側の攻撃にも屈せず、その傷や諍いや因縁や憎しみも含めて夫を許していたし愛してもいた、カップルというのはそういうものじゃないですか、と返す。終わっていたかもしれないカップル、だが、続けられるのである。世の”続いている”カップルの当事者たちよ、自分の胸に手を当てれば、
それは不承不承にも理解できることだと思うよ。私は納得して見終わった2時間半の長尺映画であった。

 目がほとんど見えないダニエルはピアノの練習を欠かさない。その練習曲であり、映画中何度かそのパッセージが挿入され、映画のエンディングジェネリックでも流れるのが、ショパン「24のプレリュード第4」なのね、つまり7月に亡くなったジェーン・バーキンの「ジェーンB」(”Je t’aime moi non plus”B面)の元曲。私、この映画でこの旋律が流れるたびに、ジェーンBの声を幻聴してしまいましたよ。合掌。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ある転落死の解剖分析』予告編

2023年8月19日土曜日

起こらない何かを待ち続けるダンスフロア

"La Bête Dans La Jungle"
『ジャングルのけもの』


2023年フランス映画
監督:パトリック・ヒハ
主演:アナイス・ドムースティエ、トム・メルシエ、ベアトリス・ダル
原作:ヘンリー・ジェームズ
フランスでの公開:2023年8月16日

ンリー・ジェームズ(1843 - 1916)作のカルト短編小説『ジャングルのけもの(The Beast In The Jungle)』(1903年)を下敷きにした自由翻案作品。テレラマ誌によると、この原作小説はマルグリット・デュラスによって戯曲化されたり、フランソワ・トリュフォー 映画『緑色の部屋』(1978年)に重要なインスピレーションを与えた、ということになっている。
 男女の不思議な交感の物語であり、それはたぶん”愛”に近いものである。男(ジョン)はそのエキセントリックな感受性によって、ある種の強迫観念のように、自分の身にある日(近い未来)に”何か”がやってくることを確信している。その何かはとてつもないものであることは間違いないがそれが何であるのかはわからない。必ず来るからそれを待っているしかない。この秘密めいた確信をある日、女(メイ)に告白する。メイは好奇心からこの何かを待つ男に興味を抱き、共にその何かが何であるのかを知りたいと思う。いつしかこの男と女は”何かを待つ”ことを共有するようになる....。

 映画は20世紀後半のパリを舞台に始まる。正確には最初の映像(たぶん8ミリ撮影)はその数年前の地方の野外ダンスパーティーで、牧歌的に和気藹々と踊る老若男女をよそに、スタンド座席でただそれを見つめている赤セーターの男、それがジョン(演トム・メルシエ)だったということはあとでわかる。映画的現在は1979年、メイ(演アナイス・ドムースティエ)は友だち(メイを入れて男女四人組)と毎土曜日にダンスフロアでパーティー騒ぎをすることが生き甲斐のような明朗な娘。その夜オープンしたばかりのクラブ、「何ていう店なの?」と訊くと「名前はないのよ」と答える女フィジオノミスト(physionomiste 日本語ではバウンサーかな。カジノやクラブなどの入り口で入場者を識別鑑別して、おまえは入ってもいい、おまえはダメ、と整理する用心棒)。このフィジオノミストを演じるのが(今や怪女優)ベアトリス・ダルで、その声が映画進行上のナレーターともなっている。なぜならこの女フィジオノミストがジョンとメイの動向をすべてお見通しだからなのだ。映画は一種の”密室”ものであり、ジョンとメイの物語はすべてこのナイトクラブ/ダンスフロアで展開し、それはすべてフィジオノミストの目に映っている。
 そして、なんとこのダンスフロア密室映画は25年間(1979年から2004年)というタームで進行するのである。1983年エットーレ・スコラ監督の名作『ル・バルLe Bal)』は同じようにダンスホールの密室映画で1930年代から1980年代までの50年の”フランス現代史”がダンスホールでの音楽とダンス(ミュゼット→スウィング→ラテン→ロック→ディスコ)だけで描かれる”無声映画”であった。このパトリック・ヒハ(Patric Chiha オーストリア人なのでこうカタカナ表記したが、そう読むのかは定かではない)監督の『ジャングルのけもの』も『ル・バル』のスタイルを継承して、1979年からのパリのダンスフロアの音楽/ダンス/ナイトクラバーたちの風俗の変遷が大きくクローズアップされている。ニューウェーブ、テクノ、レーザー光線、ドレスコード...。81年5月、このダンスフロアーはミッテラン大統領当選に沸き立ち、89年ベルリンの壁崩壊に熱狂する。しかしエイズ禍がやってくる。クラウス・ノミ(1944 - 1983)の死はこの映画でも大事件として取り上げられてる(「コールド・ソング」が流れるとやっぱり泣くよね)。クラブシーンはゲイカルチャーと抜き難く結びついているゆえに、90年代このダンスフロアにも閑古鳥が鳴く時期がある。映画の時間の最後方には2001年9月11日ワールド・トレード・センターのテロがテレビ画像で映し出される。それらの”外界”の事件は、すべて何かとてつもないことではあるのだが、ジョンの待っている”何か”ではない。
 ダンスフロアで踊り我を忘れることがカタルシスであったメイは、場違いの異星人のようにそこにいて踊らず立ち尽くしているジョンに惹かれていく。それはこのダンスフロアに初めて足を踏み入れた時から数年前、あの田舎の野外ダンスパーティーの座席スタンドに陰気な顔でただ踊る人々を眺めていたジョンとの初めての出会いが発端だった。ジョンはそのことを覚えていない。メイははっきりと覚えている。ジョンはその時、何かとてつもないことが自分に訪れる運命のような予感に怯えながらも、自分を根本的に変えてしまうに違いないその事件を待っている、と初対面のメイに告白したのだ。それをジョンは覚えていない。だがメイにはその出会いに運命的なものを感じていた。そしてこのダンスフロアでの再会にも運命を。そこからメイはジョンを離さないと決めたのだ。毎土曜日、メイとジョンはナイトクラブにやってくる。ジョンが待っている”何か”と立ち会うために。
 接吻も交わすことのないこの二人の関係はこうして25年も続くのである。メイは踊らなくなり、ジョンと二人ギャラリー席でダンスフロアを見下ろすようになる。二人の会話は交わされるのだが、中身は進展のない形而上的ダイアローグばかり。だがこの二人は強烈に惹かれあっている。二人の共通の目的は”何か”を待つことである。
 メイには恋人がいるし、ジョンも気の合った女性に靡いていったりする。小さな嫉妬もお互いに抱くこともあるのだが、それはささいなことなのだ。メイとジョンは離れられない。この性愛のない親密な関係は、フランス語で"fusionnel"と形容していいのかな。溶け合うような一心同体のような関係。これは”愛”なのだと思いますけどね。
 遠くから来ると思っていた”何か”は、自分と溶け合うような距離にあり、それは見えない、25年後それを失った時に、初めてその”何か”が何であったのかに気がつく、という結末。

 メイが2001年に46歳で亡くなった死因はエイズと解釈していいのかな?私はそう理解したけれど定かではない。当時のエイズ禍の深刻さの捉え方が、2017年ロバン・カンピーヨ監督映画『120BPM』(2017年カンヌ映画祭審査員グランプリ)を想起させる部分あり。
いつもながらアナイス・ドムースティエ(21歳から46歳という役どころ)の魅力に溢れている。素晴らしい女優さんです。そしてジョンを演じたトム・メルシエはイスラエルの人だそうで、フランス語に異邦人的なアクセントがあり、それが(ル・クレジオの最初期作品群の主人公のような)場違いな異星人的キャラクターにとてもマッチしている。ジャングルで獲物を待ち続ける獣の視線も(かなりジャン=ルイ・トランティニャン寄り)。ダンスフロアで流れるオリジナル音楽<by Yelli Yelli (Emilie Hanak), Florent Charissoux (Miles Oliver) & Dino Spiluttini (Renzo S)>はみな素晴らしい。ダンスフロアの熱狂もあればダンスフロアの寂寥もある。しかし20世紀は遠くなったものだという感慨も。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ジャングルのけもの』予告編

2023年8月7日月曜日

イミグレおおちゃんと転がる石

"Yamabuki"
『やまぶき』


2022年日本(+フランス)映画
監督:山崎樹一郎
主演:カン・ヤンス、祷キララ、和田光沙
アニメーション:セバスチアン・ローデンバック
音楽:オリヴィエ・ドパリ
(日本公開:2022年11月5日)
フランスでの公開:2023年8月2日

本で公開された映画であるし、たいへん評価も高く、いろんな人が称賛している作品なので、私などが何も付け加えることはないと思う。8月2日からフランス21都市の映画館で公開されているが、パリは唯一5区のルフレ・メドシス座で。私は公開2日めの8月3日午後3時半の回で観たが、130席のホールかなり入っていた。テレラマ評も「bien」(”ひとりの労働者、ひとりの警官、ひとりの苦悩する少女... これらのありふれた日本人の運命が遭遇する出来事の数々がときおり皮肉の色に染まりながらひとつの詩的な寓話を紡ぎ出していく”テレラマ8月2日号)だった。いいことです。
 岡山県真庭市、映画の舞台はすべてここ。主人公が日本語を母語としない人間である、ということがフランス人観客にはわかったかな?映画の後半で憤怒や昂りで発せられる言葉は”生身”の母語である。チャンスー(演カン・ヤンス、素晴らしい)は、東京オリンピック出場も可能だったかもしれない韓国の馬術競技のトップ騎手のひとりだったが、家業の倒産による多額の借金を返済するために日本のこの地方都市にやってきて採石会社の重機操縦者となって働いている。この採石会社にはチャンスーだけではなく、日本語を母語としない移民労働者たち(ヴェトナム人など)も働いている。おお、これはイミグレ(移民)主題の映画か、と一瞬思わせる出だし。非正規/期間限定雇用で汗流すイミグレたちにあって、チャンスーはある日会社上司から正社員採用を仄めかされる。正社員になったら待遇は変わるわ、生活は安定するわ、韓国家族の負債返済も楽になるわ...。この町で知り合い”仮の”家族となっているミナミ(演和田光沙)とその幼い娘ユズキにそのことを伝える。ミナミは夫の実家のハラスメントに耐えきれず娘を連れて家出してこの町に流れ着き、保母として働きながらユズキを育て、新しい家族となったチャンスーを迎えるが未来を想定できない不安定な関係が続いていた。ひょっとして本当の三人家族としてスタートできるかもしれない。それが予告編にも出てくるこのやりとり:

ミナミ「チャンスーはこれからもここでいい?いつか自分の国に帰りたいと思わない?私はもう帰れないから」
チャンスー「私もここでいい。ユズキとミナミのいるここにいたい」

日本の地方の町において、それがこの言葉のように簡単なことではない、というのはフランス人観客にもわかっていることだとは思う。だがいいスタートだと思う。今ここは起承転結の「起」。

 この「起」の部分で、バイリンガルの私はものすごいものとぶつかってしまったのである。それはユズキがチャンスーのことを「おおちゃん」と呼んでいることなのだ。この呼び名の意味はしばらくしないとわからないのだが、ユズキはチャンスーが父親ではないことを知っていながら、その親密度が深まるにつれ、父親のようなものに変わっていっているものへの愛称なのだ。「おとうちゃん」でも「とおちゃん」でもないのだけれど「おおちゃん」になったのですね。これも重要だけれど、もっと重要なのは、この「おおちゃん」をフランス語字幕がなんと... ”Pap” と訳してあるのですよ。最初は注意して字幕なんか読んでないから、なんだこれは、なんか変だな、と思っていたんだが。あとで辞書とかネット検索で調べてみたんだが、”Pap"なるフランス語単語も幼児語も存在しない。はっと気がついた。これは "Papa"から最後の”a"を取り去ったものだ、と。フランスの幼児は父親の愛称は”papa(パパ)"、"papou(パプー)"、"papounet(パプーネ)"などと呼んだりするのだが、この字幕翻訳者は「おおちゃん」というパパならざるものを、"papa"や"papou"の語幹だけ取って”pap(パプ)"として訳し、「とおちゃん」ではない「おおちゃん」のニュアンスを伝えようとしたのだろうな、と私は想像する。 字幕翻訳の方、たいへん苦しんで思案されたのではないかな。私にはわかりましたよ。この苦労、ノン・バイリンガルなフランス人観客にもわかってくれたらいいですね。こういうところに、私は”日仏合作映画”の妙というものを感じて心打たれたり...。
 さて映画はこの希望を思わせる「起」の部分で、家族の再創造を始めようとする三人と、過去のチャンスーの生きるすべてだった馬術への復帰の可能性も見えてくるのだが、そうは問屋が卸さない。
 その一方で町の交差点で(戦争や基地問題や移民人権などに関する)抗議プラカードを持って”サイレントスタンディング”をする女子高校生ヤマブキ(演祷キララ)がいる。本を読み世の不条理不正義に義憤の心を持ち、封建的家父長制権威の権化のような口の聞き方(”まだ高校生だろ、デモはやめろ、そんなことよりもっとやるべきことがあるだろう”)をする父親で警察官のハヤカワ(演川瀬陽太)との二人暮らしはギクシャクしている。この保守反動丸出しの地方警官の亡き妻(ヤマブキの母)が気骨ある国際ジャーナリストであり、トルコとシリア国境付近でジハードの戦争に巻き込まれて命を落としている。この設定ちょっと無理ではないかな?まあそれはそれ。娘ヤマブキは亡き母親に似すぎたところがあるのだろう、と了解しよう。
 この堅物警官の面白いところ(中国人コールガールと”純愛”していることもかなり面白いが)は大の山好きであること。人生の鬱憤のすべてを山登りで発散しているようなところがある。半分日陰で育つ山吹の花が好きで、山登りでその根付きの木を採取してくるところが、この映画の大きなターニングポイント。ネタバレを避けて謎解きのようにボカして言っておきますが、ヤマスキの頑固オヤジ警官とウマスキのイミグレ韓国人、この二人の運命が出会うことになるのは転がる石(ローリング・ストーン)のせいなのですよ。(←映画観ないとわかりませんよ)

 その結果、「おおちゃん」は片脚を潰される大怪我を負い、馬術を再開する夢はもちろんおじゃん、さらに非情なことに採石会社の正社員雇用の話もおじゃん、八方塞がり四面楚歌。ミナミとユズキとの全幅の信頼関係も翳りが見えてくる。Nobody knows you when you're down and out. そんな時に天から降って湧いたように、巨額の万札がチャンスーの目の前に。だがしかし、昔のイギリス人はうまいこと言いますね、Soon gotten soon spent あるいは Easy come easy go、つまり「悪銭身に付かず」という意味なのだが、これはチャンスーのチャンスとはならず、逆にこのせいで警察に追われる身に。署での取り調べにチャンスーは「遺失物横領、隠匿、使い込み、これは何年の懲役になるんですか?」と自虐的開き直りを。家族を顧みなかった罪に何重もの天罰が下ったとチャンスーは涙した。この取り調べでのチャンスーの独白が素晴らしい。家族とは何か、祖国とは何か。韓国の兵役での訓練で朝に穴を掘らされ、その日の終わりに穴を埋める話。しかし万事休す。そこに因果応報、身から出たサビ落とし、転がる石の逆のぼり、救済はヤマスキ警官ハヤカワから差し出される...。

 テレラマ誌が「詩的寓話 fable poétique」と評したこの映画の寓話性は多面的である。苦悩する少女ヤマブキは難しい顔をして交差点にプラカードを持って立つことで、変わる何かを待っているが、”釣れた”のはナイーヴな男子高校生の片想いだけである。しかしその男子ですら、スタンディングを妨害する右翼ファシストに突進して行ったり、「自衛隊に入ろうかな」とか(バカなことを)考えるようになる。映画はこの片想いを救済してやる。心優しい監督さんだ。

 映画の二つの軸、重なる災難で押し潰されそうになるイミグレのチャンスーと世の不条理に押し潰されそうになっている少女ヤマブキは、映画の中で一度だけ出会う(←写真)。そこでその美しい名前「ヤマブキ」を知ったチャンスーは、”いい名前ですね”と断りながら、かつて山吹とはその色が小判と似ていたから賄賂を意味する隠語であった、とウンチクを垂れるのだった。Money money money。あなたは資本主義の歪みを名前としてこの世に生まれてきたのだよ、と言外に言っているようなシーンではない。大判小判はきれいだが人の心を狂わせる、山吹もまたしかり、なんていう含蓄もないと思う。ゆめゆめ全然そんなことないですから。しかし、このウンチクはやっぱり何かを語っているのであって、これも「詩的寓話」の重要な一部なのだと思う。
 そして映画は「おおちゃん」を救済して終わる。おおちゃんに愛する家族(ユズキが呼びかけて、ミナミ+チャンスー+ユズキで「ぎゅっ」とハグしあうところで、観客はみんな涙を流すのだよ)と馬を戻してやる。その頃、少女ヤマブキは砂丘で風に吹かれ、戦地にいた母がそうしたように、スカーフで頭を覆うのである...。

 地方の市井の人々の生きる姿を撮りながら、世界の細部まで視界が広がってしまう映画。16ミリフィルム。地方の粗い舗装道路やジャリ道を進む自転車感覚。あそこにもここにも味のあるポエジーが、というカメラアイ。印象が長時間残り続ける映画でした。ありがとうございました。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)フランス上映版の予告編



(↓)断片。ヤマブキと生前の母のスカイプ対話。「おかあさん、いつもきれいごと言ってる」(私もそう思う)