2021年8月24日火曜日

父よあなたは強かった

Amélie Nothomb "Premier Sang"
アメリー・ノトンブ『最初の血』

2021年度ルノードー賞


1963年、ベルギーの若き外交官パトリック・ノトンブ(当時27歳)は最初の赴任地である独立間もない中央アフリカのコンゴ共和国(のちのザイール→コンゴ民主共和国)の首都レオポルドヴィル(のちのキンシャサ)に妻子と共に移住、翌1964年夏、同国北東部のスタンレーヴィル(のちのキサンガニ)にベルギー領事として任命され、単身で任地にやってきた。
8月6日、20世紀最悪の人質監禁事件が始まった。反乱軍が市を制圧し、そこに住む1500人の白人が人質となった。スタンレーヴィルの新しい征服者たちは首都の政府権力に対して彼らの条件を受け入れなければ、人質は全員処刑されると警告した。その要求は単純なもので、彼らが制圧した東部領土をスタンレーヴィルを首都とするコンゴ人民共和国として認めよ、というものだった。(p143 - 144)
すべて史実。ベルギー国領事パトリック・ノトンブはその人質のひとりにして、反乱軍に真っ先に銃殺されかねない(国際的)重要人物であった。同市の豪華ホテル(ヴィクトリア・パラス)に収容された人質たちの監禁は3ヶ月半にもおよび、11月24日、ベルギー陸軍パラシュート部隊320人が米空軍輸送機5機から降下したいわゆる「ドラゴン・ルージュ作戦」によってほとんどの人質が解放されて終結する。とは言え、この小説の中でベルギー領事は、長い監禁の間に気の短い反乱軍兵士に処刑されてしまった人質たちが30人あまりいたことを証言している。いつ殺されてもおかしくない緊迫した状況だった。それを人質となったその日から、1日でも長い人質たちの延命のために反乱軍幹部との交渉の矢面に立ったのがパトリック・ノトンブだった。交渉と言ってもこの監禁状態の外交官には外部(コンゴ共和国政府、旧宗主国のベルギー政府および人質白人の属する欧米諸国の政府)との接触は一切ない。反乱軍はレオポルドヴィル政府および事件関係国政府から要求への回答が得られないことに非常に苛立っている。この苛々をなだめるのがノトンブの仕事であり、彼らを怒らせず、かつ不確実な楽観論を徹底的に排除したきわめて限定的で曖昧な融和論でご機嫌を伺う。この方便を毎日少しずつ変えて喋り続け、相手が最後まで聞き手として座り続けてくれれば、その日は処刑から免れることができる。これを3ヶ月半もの間、若きベルギー領事はしゃべってしゃべってしゃべりまくったわけである。この必死のしゃべりをこの小説では "palabres"(パラーブル)という言葉で表現している。手元のスタンダード仏和辞典では”palabres(パラーブル)"を「長広舌、だらだらした議論、小田原評定」と訳している。ー 小田原評定(おだわらひょうじょう)という言葉知ってましたか?私初めて知りましたよ。うまいこと言うもんですね。ー 千夜一夜のシェヘラザードのごとく、人質1500人の命が1日でも長く保たれるように、パトリック・ノトンブはパラーブルの名人となった、という一席、講談にしたらさぞ面白かろう。
 この名人芸に魅せられたか、反乱軍の頭目であり9月5日にコンゴ人民共和国の暫定大統領を僭称したクリストフ・グベニエ(Christophe Gbenye)はベルギー領事に一目置き、格好の問答相手として重宝する。しかし人質作戦3ヶ月が過ぎ、情勢の極度の緊迫化はついにノトンブ処刑という決定を導いてしまう。

 さて小説の冒頭は、話者(私=パトリック・ノトンブ)が銃殺の処刑場に連れていかれるところから始まる。しゃべってしゃべってしゃべり続けた3ヶ月がようやく終わり、死の恐怖よりも、もうしゃべらなくてもいいのだという安堵感が勝り、心は平静であり、その12人から成る銃殺隊の12の銃口から弾丸が発射されるまでの短いが永遠のような時間に目の前に蘇ってくるのは28年の"私”の人生である。
 この175ページの小説は、この冒頭イントロに続いて全体の4分の3までがパトリック・ノトンブが生まれて妻ダニエルと結婚するまで(26歳ごろまで)、そして終わりの4分の1がパトリック・ノトンブが見舞われたコンゴ、スタンレーヴィルで起こった反政府軍による大量人質監禁事件、そして大団円がドラゴン・ルージュ作戦である。
 パトリック・ノトンブは言うまでもなく作者アメリー・ノトンブの父親であり、2020年3月17日に83歳で亡くなっている。死因は最初コロナウィルス感染症と報じられたが、直後心不全と訂正された。しかしベルギーも1回目のコロナ・ロックダウン期であり、アメリーは病室での最後の対面ができなかったと悔やんでいる。ベルギーの外交官として華々しいキャリアを積んでおり、このドラゴン・ルージュ作戦(1964年)のトラウマも癒えたであろう4年後の1968年から1972年まで大阪のベルギー領事館に総領事として日本滞在している。アメリー・ノトンブは1966年7月ベルギー生まれで、「1967年8月神戸生まれ」と書いてあるバイオグラフィーは誤り(自身の詐称)であるが、日本関連の記述/発言はホラもフィクションという作家なので気にしないで。幼いアメリーの日本体験が後の大作家を生むことになるのは間違いないのだから。この小説に話をもどすと、あの時スタンレーヴィルで銃殺されていたら、アメリーもこの世にいないわけで、娘の未来の生を救い、多くの人質たちを救い、彼自身を救ったのはパトリックの「パラーブル術」であったというのがこの小説の最も重要なテーマ。その「パラーブル」のセンスは、作家アメリー・ノトンブの「ストーリーテリングの妙」として継承されている、と言いたいのだろうね。
 パトリック・ノトンブ自身、かのスタンレーヴィルの人質事件の回想手記本"Dans Stanleyville(スタンレーヴィルの中で)"を1993年に発表している(右写真)。おそらくこの小説の同事件に関する記述はこの手記を基にしているであろう。アメリー・ノトンブの創作部分もかなりあるとは思うが、この事件の中でのベルギー領事の立ち回りは敬意をもって書き写されたと信じる。ただ、この小説の中で(当時の)「私(=パトリック・ノトンブ)」が、反乱軍兵士たちにある種のシンパシーを抱きかけるところで、「ストックホルム症候群」として分析しようとするのだが、この症候群の名のもとになったストックホルムの銀行強盗人質立てこもり事件は1973年に起こっていて、これはさすがに矛盾するのですよ。それはそれ。
 
 もうひとつ重要なテーマは、未来のパラーブル名人となるパトリック・ノトンブの人格形成において決定的な役割を果たしたベルギーの古い貴族家(男爵家)である「ノトンブ家」にまつわる奇譚である。実に奇態な家柄である。
 パトリックの父アンドレ・ノトンブは軍人で、パトリックが生後8ヶ月の時、地雷処理訓練の最中に25歳の若さで爆死した。未亡人となった母クロード(軍人家の出身)は再婚を希望せず、社交界に出入りする美貌の寡婦として自由に生きる道を選ぶが、ノトンブ家を忌み嫌い、幼子パトリックの養育はもっぱら自分の両親にまかせていた。5歳で既に読み書きも堪能な聡明な子になったが、育ての親たる老将校夫婦はパトリックが(柔和な老人に育てられたがゆえに)人形のように華奢な子に育ったことが不安になり、軍人家の子として逞しさを備えなければならない、と。この子をガッチリ鍛え直すには「ノトンブ家に送ればいい」というのが老将校のアイデアだった。6歳の夏休み、パトリックはルクセンブルク国境に近いアルデンヌ地方の奥地にあるノトンブ男爵の壮大な城に送られる。亡き父アンドレの父、すなわち少年の祖父ピエール・ノトンブ男爵は由緒ある貴族家の当主にふさわしい品格と誇りは持っているが、経済/金銭感覚が欠落していて、一応職業は弁護士であるがまともな収入を得られない状態でこの城を維持するという恒常的貧困状態にあった。その上子沢山(全部で13人)で、最初の妻(パトリックの祖母)と死別してから、若妻と再婚していて、一番下の子供はパトリックと同い年だった。亡きアンドレが長男であったから、その男爵称号はパトリックが引き継ぐことになる(実際、現在のwikipediaでpatrick nothombを検索すると「1953年10月より男爵」とある)。しかしそんな金看板とは無縁の現実がこの城にはあり、歳のいかない5人の子供たち(+新座のパトリック)にはまともな食事が出ないほどの困窮ぶりであり、ボロを纏った山賊のような子供たちとパトリックは生存をかけて食べ物を取り合うはめになる。ハラペコの体で野山を駆け回り、川で体を洗い、サッカーPKごっこでキーパーばかりやらされボロボロになる。ところが幼いパトリックはこの野生的で原始的なサバイバルの毎日に未体験の歓びを覚え、そのインテリジェンスで野生児たちの信頼すら勝ち得ていく。当初は一度の夏休み体験だけと組まれていたノトンブ城滞在は、パトリックのたっての希望で冬も夏も何年も続けられるようになる... 。冬はベルギーの極寒地方でありながら城の暖房はほとんどなく、取れる作物もないから食事も減り、夏とは比べ物にならないほど過酷なものであるが、雪の止んだ日、湖面に積もった雪をはらいのけて、その凍った湖面でのスケート、これに夢中になってしまう。しかし汗で衣類をびしょびしょにするとあとで暖房のない城で強烈な感冒にやられてしまうので、汗をかかない程度の運動量でスケートするという微妙なテクニックを会得する(こういうエピソードの滑稽さはアメリー・ノトンブ一流のものである)。
 城主ピエール・ノトンブ男爵は自称詩人であり、詩集も出版している。ヘボい詩なのだが、幼いパトリックが詩と文学に拓けていくきっかけともなっていて、この小説では男爵の詩から一挙飛びでランボーに至っている。それがのちには「言葉の人」としての才能をどんどん開花させていく。学生時代、フラットシェアの同居者の恋路を助けるためにラヴレター代筆をするエピソードでも、状況に応じた感情表現の盛り上げを変幻自在の文体で綴るパトリック・ノトンには、未来のパラーブル名人となる要素が顕在している。
 そういう「言葉の人」パトリック・ノトンブへのオマージュをこのような小説の形で表現した娘アメリー・ノトンブにあふれる亡き父への敬愛の書である。

 ここまでで私もやめておけばいいのだが、この小説の核心の核心をバラしてしまう。パトリック・ノトンブには致命的なハンディキャップがある。今「致命的」と書いたが、まさに「命に至る」問題である。血を見ることで起こってしまう反射性失神。鮮血を見ると気を失ってしまう。これは少年の頃、ノトンブ城での滞在中に初めて症状が出てから、ずっと治ることなく、そういう機会を極力避けてきた。例えば精肉店の前を通らないとか、レストランでレアステーキを注文しないとか...。職業選択の段になって、医者や軍人は無理、と。外交官が血を見ないという保証はないのだが...。コンゴに赴任して、前述の事件に遭遇して、死体のそばにいる場面はあったのだが、必死に目を背けてこらえた。
 小説の最後はかの「ドラゴン・ルージュ作戦」で、ベルギー軍パラシュート降下隊が人質たちの監禁されたヴィクトリア・パラスホテルに突入して、反乱軍との銃撃戦の中、約9割の人質たちが救出される。パトリック・ノトンはその助かった生存者の一人である。つまり周りが銃撃戦の流血事態となっている中、パトリックは気絶せずに逃げ通すことができた。これをアメリー・ノトンブはエピローグと本の裏表紙にこういう1行で結語する:
Il ne faut pas sous-estimer la rage de survivre
生き延びるための狂躁をあなどってはいけない
これは名人の娘の名人、アメリー・ノトンブ、至芸の一席である。

Amélie Nothomb "Premier Sang"
Albin Michel刊 2021年8月18日、175ページ、17,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)出版社アルバン・ミッシェル制作のアメリー・ノトンブによる"Premier Sang"紹介動画。

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