2007年12月31日月曜日

バンコとして闘う



 レ・テット・レッド『バンコ』
 Les Têtes Raides "Banco"


 今、前作"FRAGILE"(2005)を引っぱり出してみたら、もうこの頃からTOT OU TARDレーベルとお別れしていたのですね。
 熱心なリスナーじゃないのがバレてしまいます。
 ステージは見るたびに圧倒されて、クリスチアン・オリヴィエのカリスマ性はベルトラン・カンタ(ノワール・デジール)やマジッド・シェルフィ(ゼブダ)に通じるものがあるのは確かなのですが、スタジオアルバムで聞くとそれがどうもうまく伝わってこないのでした。爺を含めてファンの一部の人たちは、クリスチアン・オリヴィエにどうしてもジャック・ブレルの亡霊みたいなものを求めてしまう(それはベルトラン・カンタにジム・モリスンの亡霊を求めるのと同じですけど)ので、ライヴステージではそれが満たされても、CDではシャンソン寄りの曲でないとその欲求は満たされないのですね。それを知ってて(すなわちそれを嫌って)、クリスチアン・オリヴィエは3作ぐらいシャンソン離れしたアルバム作ってしまいましたし。
 新作『バンコ』は力が入ってます。われわれ年寄りが大好きだった「ジネット」みたいな、縦横無尽アコーディオン・ワルツ(ただし必殺の超絶アコーディオンはジャン・コルティさんではありまっせん)の5曲め"J'ai Menti"を聞いた時には、わ、爺の求めていたレ・テット・レッドが帰ってきた、と小躍りしたものです。時事問題である不法滞在移民(Sans papiers)の窮状を歌った3曲め"Expulsez-moi"も強烈なメッセージで、「活動家」レ・テット・レッドは健在です。
 その他シャンソン寄り、オルタナ・ロック寄り、いろいろ良いのではありますが、このアルバム、10曲めに19分35秒の長い長いテキスト朗読(バックにインスト演奏があるので、スラムのように聞こえないこともないです)があります。"Notre besoin de consolation est impossible à rassasier"(われわれの慰めへの欲求を満足させることは不可能である)という長い長いテキストをクリスチアン・オリヴィエが、アジ演説でもするように読み上げます。これはクリスチアン・オリヴィエ作のテキストではありません。スウェーデンのアナーキスト作家スティーグ・ダーゲルマン(1923-1954)のエッセー(原文スウェーデン語の仏語訳)の全文です。
 ダーゲルマンは第二次大戦中に労組系新聞のジャーナリストとなり、43年にナチスを逃れてスウェーデンに亡命してきたドイツの労組活動家の娘と結婚します。戦後にドイツに取材し、ナチスの残した惨状を報告する記事を多く書き、世界から自業自得と冷観されながら極端な窮状を生きるドイツ市民の苦悩や憎しみが、彼の小説に大きく反映されます。45年発表の小説「蛇」から、ダーゲルマンは新しい北欧文学の旗手のように称賛され、世界各国語で翻訳されます。4年間第一線の作家として作品を出し続けたのち、49年に妻アンネマリーとの関係の悪化から、実存的苦悩に苛まれ、文字が書けなくなってしまいます。50年に離婚し、女優アニタ・ビョークと再婚しますが、その4年後車庫の中で排気ガス自殺でこの世を去っています。この「われわれの慰めへの欲求を満足させることは不可能である」は1952年に書かれたことになっていて、その全文(フランス語訳ですが)は(↓)に公開されています。
"Notre besoin de consolation est impossible à rassisier"
 あなたたちに(↑)を読めと言っているのではありません。この180行の文章は、生易しいものではありません。爺に訳せと言われても私はしません。重いのです。私はフランス語で字面を追うだけでもつらくなります。
 この180行をクリスチアン・オリヴィエは、このアルバムの最重要作品として私たちに押し付けてきたのです。12曲60分のアルバムで、この1曲だけで19分35秒ですから、この場所取り加減は尋常ではありません。このアルバムをどう評価するか、というのはこの1曲をどう評価するか、ということにほぼ等しいのです。で、私は、これはまずいのではないか、と思ってしまったのです。
 
<<< Track List >>>
1. Tam-Tam
2. La Bougie
3. Expulsez-moi
4. Banco
5. J'ai menti
6. Les Autres
7. Ici
8. Les pleins
9. Plus haut (feat. Olivia Ruiz)
10. Notre besoin de consolation est impossible à rassasier
11. On s'amarre

(試聴は以下のサイトで可能です)
"www.tetesraides.fr"
"www.myspace.com/tetesraidesofficiel"

CD WARNER 2564697302
フランスでのリリース:2007年12月3日


 

2007年12月30日日曜日

ジスカール=デスタン時代のお嬢さん



 パトリシア・ラヴィラ『全録音集 1973-1979』
 Patricia Lavila "Intégrale 1973-1979"


 歌詞の中に出て来る「ジョン・レノン」という名前にひっかかりました。お立ち会い、よろしいですか、この時代、ジョン・レノンは生きていたのですよ。ビートルズが解散して、ジョン・レノンは(普通のひとりの)ソロ・アーチストで、まだ聖人になっていなかったのですよ。ジョルジュ・ポンピドゥーが死んで、中道保守のヴァレリー・ジスカール=デスタンが48歳の若さで新大統領になったのが1974年のことです。ジスカール時代というのは、フランスが日本よりも10年ほど遅れてテレビがようやく一般家庭に定着した時期にあたり、レコードやラジオから生まれていた大衆的ヒット曲が、急激にテレビ主導型に移行していき、テレビからスター歌手が生まれるという現象が一般化していきます。テレビですから、容姿が良いこと、歌って踊れること、といったことが必須条件になるわけですね。クロード・フランソワとシェイラが急速に領土を拡張していった理由はここにあると言えましょう。
 大衆音楽のテレビショー化は別の言葉では「ヴァリエテ」の誕生となります。いまだに「ヴァリエテ」とはどういう音楽ジャンルなのか、誰もはっきりと言えないところがありますが、ウィキペディア(仏)はかなり明確に、20世紀後半にテレビ娯楽番組が普及させたさまざまな(varié)音楽のことで、アーチストは多くの場合事前にテープ録音された音に合わせて口パクするもの、と記述しています。狭義の音楽ジャンルとしてのヴァリエテとはそのテレビ用の歌と踊りの音楽である、ということになります。そのヴァリエテ創世記である60年代後半から70年代にかけては、そんなにヴァリエテに対する侮蔑的な意見というのは出なかったと思うんですが、「シャンソン」の人も「ロック」の人もこういう形でなければテレビに出られなくなっちゃった、というフランスのテレビの間口の狭さ(80年代半ばまでテレビ局は国営の3局しかなかったのです)が、あらゆる大衆音楽のヴァリエテ化という現象を招いてしまったのですね。それで80年代にFMが自由化されて、大衆音楽がヴァリエテでなくてもちゃんと表現の場を得られるようになってから、ヴァリエテ(この場合はテレビの口パク歌謡)がおおいに軽蔑されるようになるわけです。
 前説明が長いですが、ジスカールの時代はこのヴァリエテ全盛期です。ジスカール時代に絶大の人気を誇ったテレビ司会者が、ダニエル・ジルベールという女性で、「ジスカール=テレビ=ダニエル・ジルベール」はよく三題噺のタネになります。(そしてこのジルベールは81年のミッテラン当選後、テレビ界から消されてしまいます)。ヴァリエテ・テレビはクロード・フランソワ、シェイラというトップクラスの他に、ミッシェル・デルペッシュ、ジェラール・ルノルマン、ミッシェル・トール、デイヴ、イレテ・チュヌフォワ(Il etait une fois)、カレン・シェリル、ニコレッタ、アラン・シャンフォール、パトリック・ジュヴェなどをスターにしていきます。日本のアイドル路線に遠くない現象で、テレビでは録りの日の局の「出待ち」ファンたちが群がり嬌声を上げるという状態でした。マイク・ブラント、ジョー・ダッサン、沢田研二らもこの時代のど真ん中の人たちです。
 
 このパトリシア・ラヴィラは1957年、アルジェリアのオランで生まれています。父はフランス憲兵隊の隊長でした。パトリシアが5歳の時にヴィラ一家はアルジェリアを去り、リヨンに移住しています。そこで少女パトリシアはダンスと歌唱の勉強をみっちりして、中学・高校の文化祭の人気を一身に集め(そんなもんあるんかいな?)、いつしか土地の歌姫になってしまいます。それが功を奏して、73年にはバークレイ・レコードに届いたデモ・テープが社内に大反響を起こし、16歳で初のレコード録音をして、ヴァリエテ界にデビューしてしまいます。
 私は全くこの女性歌手を知りませんでしたし、聞いたこともありませんでした。爺がフランスで暮し始めたのがジスカール時代の最末期の頃だったからかもしれません。あるいはその頃テレビを見ても、熱心にヴァリエテを追いかけていたわけではなかったからです。またここで個人史的に考えて言えるのは、私のある音楽への興味の発端は「レコードから」と「ラジオから」という二つのパターンはあっても、「テレビから」ということはまずなかったということです。
 テレビ・ヴァリエテ時代の寵児であったらしいパトリシア・ラヴィラのバークレイ・レコード在籍時の全録音44曲(うち10曲は未発表録音)を収めた2枚組CDです。シャンソン復刻レーベルとして大変マニアックな仕事をしているマリアンヌ・メロディー社による初CD化になります。多すぎます。2枚組にしないで、編集ベストで1枚もので十分だと思います。そして旧譜復刻にしてはこの市販価格は高すぎます。コレクタープライスということなのでしょうか。しかしマリアンヌ・メロディーに多数の復刻依頼投書があった末のCD化ということがライナーノーツにも書かれてあって、コレクター市場で法外な値段で売買されているらしい彼女のレアなレコード盤のことを考えれば、旧ファンおよびセブンティーズ・ファンおよびヴァリエテ・ファンには目から涙の復刻であったようです。
 ここにあるのは、オリヴィア・ニュートン=ジョンとシーナ・イーストンとアバの同時代人です。全盛期のユーロヴィジョン・コンテストに見られた、どの国の出場者でも同じような満面の笑みと振り付けで歌われた、全肯定的(オール・ポジティヴ)なポピュラーソングのエッセンスがすべて詰まっています。パトリシア・ラヴィラの歌は、安定成長期セブンティーズのオプティミズムのすべてが詰まっています。失業もエイズもなかった時代のフランスです。歌のタイトル見ただけで楽観論が了解できます:「いつも恋はヴァカンス(L'amour est toujours en vacances)」,「あなたの心の小さな場所(Une petite place dans ton coeur)」,「365日が日曜日(365 dimanches)」,「ブルージーンとTシャツ(En blue jeans et tee-shirt)」,「いい天気,だから好きよ(Il fait beau et je t'aime)」,「1万人の男の子(cent mille garçons)」,「今夜はあなたのところにお泊まり(Ce soir tu me trouveras chez toi)」....。
 1年中がヴァカンスと恋であったセブンティーズ,そういうものは実際には存在しなかったのですが,ヴァリエテ歌謡の中ではそれしかなかった時代であったようです。夢のようです。ですからノスタルジーをそそるのです。存在しなかったものへのノスタルジーは,時代を共有しなかった若い人たちにも持つことができるのです。不滅のアバやカーペンターズを追いかける若い人たちの気持ち,わかってあげましょう。ひとつのキーワードはハーモニーです。70年代ほどハーモニーが重宝がられた時代はその前にもその後にもないように爺は思っています。調和の幻想と言いましょうか。そう言えば一家に一枚イ・ムジチ合奏団の「四季」があったのもその頃ではなかったかしらん。
 パトリシア・ラヴィラのような健康&安全ポップ・ミュージックは次の世代に否定されてしまう。それはジスカールが落選してミッテランが大統領になったというフランスの変化にもよるものです。国家統制テレビの匂いのするヴァリエテは,次世代の若者たちから忌み嫌われたのです。
 それが徐々に復権してくるのは,全世界的に散在する熱狂的なユーロヴィジョン・フリークたちのキッチュ趣味みたいなものが,インターネットの世の中に多くの奇妙なファンサイトによって伝播したからかもしれません。パトリシア・ラヴィラも(↓)のような強烈なファン・ブログがあります。題して『ジスカール時代のキラ星』!
La Star des années Giscard

 この73年から79年の足掛け7年にパトリシア・ラヴィラは13枚のシングル盤と1枚のLPをバークレイに残しました。その後も引退したわけではなく,CBSに移籍し何枚かシングルを出し,さらにVogueに移籍して1986年までレコードを出し続けます。人知れずですが。プライベートには,最初の夫がダヴィッド・アレクサンドル・ウィンター(オフェリー・ウィンターの父親。オフェリーはパトリシアの娘ではありまっせん)でした。二度の結婚で二児をもうけ,時は経ち,現在は二人の孫を持つ,幸福なおばあちゃん(50歳!)として暮らしているそうです。

<<< Track List >>>
- CD1 -
L'amour est toujours en vacances
Souris-moi et chante
Une petite place dans ton coeur
365 dimanches
C'est la première fois
Schlik schlak boom boom
Chante avec les oiseaux
En sortant du lycée
C'est bon d'avoir quinze ans
Te faire un peu souffrir
La chanson de nos vacances
Pense à moi
En blue-jean et tee-shirt
Pour toi c'est rien pour moi c'est tout
On se fâche on se quitte
Cent mille garçons
Ce n'est pas tout à fait ça
Mets tes bras autour de mon cou
Je n'ai jamais vu Jacques Brel chanter
A double tour à double coeur
Peut-être plus peut-être moins
- CD2 -
Paloma Blanca
Un garçon ça ne pleure pas
Il fait beau et je t'aime
Encore amoureuse
Ce soir tu me trouveras chez toi
Est-il heureux sans moi
Des larmes de musique
La petite fille qui pleurait
La nuit des Dieux
Made in paradis
Parle-moi
L'amour me va bien
Vis ta vie
La vraie vie
Et l'amour le reste du temps
Choisis l'amour
Chanson d'enfance
Parle-moi de toi
L'enfant blond
Devenir une femme
Je suis venue t'aimer
Je l'ai dit mille fois
Déclaration de paix déclaration d'amour

2CD MARIANNE MELODIE UN7882 (通販価格 24.90ユーロ)
フランスでのリリース:2007年2月


PS:youtubeにパトリシア・ラヴィラの73年ヒット「恋はいつもヴァカンス」(CD1の1曲め。L'amour est toujours en vacances)のテレビ画像を見つけました。超長髪にご注目ください。ドライヤーに2時間という感じでしょうか。
Patricia Lavila "L'Amour est toujours en vacances"

2007年12月29日土曜日

ポップ・フランセーズの100年



 セリーヌ・フォンタナ著『ラ・シャンソン・フランセーズ』
 Céline Fontana "LA CHANSON FRANCAISE"


 (128頁の一部)「ジョルジュ・ブラッサンスと並んでシャンソン・フランセーズ界の魅惑の口ひげ男だったジャン・サブロンは,日本公演の際に現地女性と恋に落ち,日本で生まれたジャンの息子はのちにシャンソン・ジャーナリストとなり,向風サブロンと名乗った」。

 (↑)うそですよ。

 この種の小百科全書的なシャンソン事典は他にもたくさんあり,向風のムックも多くの題材をそれらの書物に依存していたわけですが,この本は向風ムックとほぼ同時の9月末刊行でした。つまり爺はこの本を参考にできなかったのです。私は盗作ライターではないと身の潔白を訴えますけど.... この本が参考書として加わったら,もっともっと面白い内容になったであろうに....と悔やまれる一冊です。
 15年選手の女性ジャーナリスト,セリーヌ・フォンタナの初著。ソフトカバー270頁のシャンソン年代史で,シャンソン発祥のイントロダクションに始まり,本編は1920年代から2007年まで(ミスタンゲットからアブダル・マリックまで)の総覧的ガイドです。インターネット画面のような構成で,思わずクリックしたくなるような見出し+アーチスト太文字と,それに続く簡潔な紹介本文があり,その左右に,"Zoom"(注目すべき詳細),"la petite histoire"(エピソード),"Pour en savoir plus"(補足情報)といった小さい活字のコラムがついています。これがとっても味があるんですね。
 たとえば157頁めでアラン・スーションがらみで「ネーム・ドロッピング」という作法について説明していて,歌の中に著名人の名前を織り込むやり方なんですが,スーションでは「テオドール・モノー,ボリズ・ヴィアン,ジャック・プレヴェール,ジョン・レノン,アダモ,カール・マルクス,ジュリエット・グレコ,ソフィー・マルソー,クラウディア・シファー,フランソワーズ・サガン,サマーセット・モーム,アルレット・ラギエ,ピエール神父....」等が顔を出しています(歌がほとんど思い出されるところがすごい→自分)。それがヴァンサン・ドレルムでは「ファニー・アルダン,ステフィー・グラフ,チャールズ・ブコウスキ,パトリック・モディアノ,ダニエル・バラヴォワーヌ,ロザンナ・アーケット...」等ですね(これも歌全部知ってるところがすごい→自分)。というような,オタッキーな愛好者の心をくすぐるような記述があったりします。
 また141頁めにはジュリアン・クレールのファンの会のことが書いてあります。数あるファン組織のひとつに『パティヌールの会』というのがあり,1972年発表のエチエンヌ・ロダ=ジル作詞の"LE PATINEUR"(スケート男)という歌に因んで会の名前をつけた,言わば「初期ジュリアン・ファンの会」なんですね。ファン組織にありながらこの会は公然とクレールの80年代期(ジャン=ルー・ダバディー,リュック・プラモンドン,セルジュ・ゲンズブール,デヴィッド・マクニールなどが作詞していた時期。"LA FILLE AUX BAS NYLON", "COEUR DE ROCKER", "MELISSA"...)を酷評するんですね。気持ちはわからないでもないですが,長くやっているアーチストでは初期ファンと後期ファンで内ゲバがあったりするんでしょうね。

 カフェ・コンセール,ミュージッコール,ザズー,スウィング,ロックンロール,68年,フォーク,ディスコ,ヒップホップ,オルタナティヴ,ラップなど時代のキーワードに関する説明もとても丁寧です。写真(アーチストもレコード写真も)は一切載っていません。これはインターネットじゃないんだから,画像は無視して,文字を読め,という編集方針のように見ました。良い態度です。登場するアーチストたちもちゃんとしてます。向風と違って,ブリジット・フォンテーヌもマッシリア・サウンド・システムもミレイユ・マチューもちゃんと紹介されてます。-M-マチュー・シェディッドは表紙を飾ってますし。
 表紙に関して言えば,ピアフ,サルヴァドール,ブラッサンス,カルラ・ブルーニ(言うまでもなく,セリーヌ・フォンタナはこんなことになるとは知る由もなかったはずです)ですから,それとなくエディトリアルがうかがえようと言うものです。入門編としては申し分ありません。エピソードの数々こそがこの本の魅力の決め手です。シャポー,バ。
 因みにセリーヌ・フォンタナは現在トマ・フェルセンに関する本を準備中だそうです。おおいに期待しています。

CELINE FONTANA "LA CHANSON FRANCAISE"(HACHETTE PRATIQUE 2007年9月26日刊。12.90ユーロ)
 

2007年12月27日木曜日

山師トマ



 トマ・フェルセン『ノミ掻きの歌』(ポケット版ベストアルバム)
 Thomas Fersen "Gratte-moi la puce"(Best of de poche)


 ウクレレレレのレ。ホノルルルル。
 爺も子供の頃弾いてました。「カイマナヒラ」やら「竹の橋の下」やら。もちろん「タフアフアイ(ああやんなっちゃった)」も。牧伸二とタイニー・ティムね。牧伸二の女性版は? マキシン・ナイチンゲール!.... (頭いた。こういうのを北中さんは”オヤジギャグ”と言っていたんだろうな,と今急に自覚しました)。
 減ることを知らぬフェルセン。これが何枚めのアルバムでしょうか。ポケット版(文庫版)ベストアルバムと副題された,トマ・フェルセンの自選ベスト/ミニマル再録アルバムで,トマ(ウクレレ+ヴォーカルと相棒ギタリストのピエール・サングラ(バリトン・ウクレレ,マンドリン,バックコーラス)の二人だけの演奏です。「レ・パピヨン(蝶々)」,「ラ・ショーヴ・スーリ(こうもり)」,「ル・シャ・ボテ(長靴をはいた猫)」,「イヤサント(ヒヤシンス)」など,ライヴでやったら大合唱になってダンスが始まるような曲が,小音量撥弦楽器とトマの自然体ヴォーカルで聞こえてきます。これをレ・ザンロキュプティーブル誌のジョアンナ・セバンは「ストリップ・ショー」なんてうまい表現で評していました。確かに歌と声が裸にされる感じですね。この裸の感じがすごく良いのですね。こんなにきれいな旋律だったんだ,こんなに優しい言葉だったんだ,というのがくっきり浮き上がってきますね。
 編曲で旧友で偏屈な弦編曲の鬼才ジョゼフ・ラカイユの名前も出ていて,謝辞に「ウクレレ道を伝授してくれてありがとう」と書いてありました。つまりトマにウクレレの道を開いたのはラカイユさんだったのですね。ラカイユさんもドミニク・クラヴィック等のウクレレ・クラブ・ド・パリ(発音にうるさい人はユクレレ・クリュブと言うのかな)のメンバーです。
 聞いているうちに「吟遊詩人」という言葉がこれほどぴったりするスタイルはないのではないか,と思うようになりました。電気のないところでも,通りでも,地下鉄内でも,このスタイルでトマとピエールの二人はかなりの人たちを周りに集めて演奏できると思います。多くの人たちはそこでトマ・フェルセンをじっくり歌詞聞いて味わおうという気になるはずです。裸に近いこのスタイルで,トマは本当に聞かせてくれる芸人ですね。次はもっと脱いでくれるかもしれません。
 ピエールはやはりマンドリンがいいです。あの「鳥の舞踏会」(1993年。爺の本にも出てきた)のマンドリンが秀逸です。

<<< Track List >>>
1. LES PAPILLONS
2. MONSIEUR
3. CROQUE
4. LA CHAUVE-SOURIS
5. PEGASE
6. DIANE-DE-POITIERS
7. HYACINTH
8. JE SUIS DEV'NUE LA BONNE
9. LE CHAT BOTTE
10. ZAZA
11. LE BAL DES OISEAUX
12. LES MALHEURS DE LION
13. PIECE MONTEE DES GRANDS JOURS
14. MON MACABRE
15. GEORGES
16. LOUISE
17. BELLA CIAO
18. BIJOU
19. SAINT-JEAN-DU-DOIGT
20. LA BLATTE

CD TOT OU TARD 2564696890
フランスでのリリース:2007年11月

2007年12月25日火曜日

バルバラ事件



 どうにかこうにか、原稿を書き上げました。ヴァレリー・ルウーのバルバラ評伝『バルバラ/明暗のポートレイト』には驚かされる記述が多く、夢中で読みました。バルバラは死後10年間で聞かれ方/読まれ方がどんどん変わってきています。そのことを中心に原稿を書いたつもりなんですが、ほとんどヴァレリー・ルウーの受け売りになってしまったみたいです。ルウーは今、テレラマ誌のシャンソン評をよく書いていて、アラン・ルプレストのトリビュートアルバムを"ffff"で絶賛したのですが、その結論が

L'artiste a mal, mais n'a pas peur. Leprest sourit. « Pour moi, ça gazera mieux quand je serai devenu du gaz, quand je serai devenu du jazz, dans le sax du bon Dieu... » Il est, depuis longtemps, un gaz totalement enivrant.
(このアーチストは病んでいる、しかし恐れていない。ルプレストは微笑む「俺はガスになってしまった方がうまくスウィングするだろうさ、神様のサックスの中でジャズ気体になってしまった方がね」。彼はずっと前から全身が興奮ガスである)

と書いているんですね。爺の訳でうまく伝わるかどうかアレですが、背景を説明すると、実はルプレストは(こういうことははっきりと断言してはいけないことですが、多分)死期が近いようなんです。それをもうすぐ気体になって天国でスウィングするみたいに言うわけですね。それをルウーは、あんたはもともとガスなんだよ、と切り返すのですね。こういうこと書けるっていうのはすごいなあ、と爺はぶっ飛んでしまったのです。それ以来彼女が書くことは爺にはすごく説得力持っちゃってるわけです。ジャンピング・ジャック・フラッシュも実体はガスですけど。
 で、バルバラなんですが、ルウーの筆にかかると、本当にジム・モリソンかジャニス・ジョプリンか、と思うほど、破天荒でロックンロールな生きざまがはっきりと見えてきます。めちゃくちゃによく笑う、冗談噺の名人である一方、永遠の不眠症者で死と隣り合わせに生きていたようなところも、すごいです。ルウーはやはり父親との関係がバルバラの生と歌を決定したという大きな軸論にしたがって書いています。死後1年後に刊行されたバルバラ自伝で父親との近親相姦が告白されたことが、バルバラの歌の聞かれ方を決定的に変えてしまったわけですね。「ナント」は父の死の前に会うことができなかったことを悔やむ歌ですが、その悔やみとは父と和解し父を許すということができなかったこと、とルウーは読みます。以来バルバラは父を許すということばかりを歌に盛り込んでいる、と言うのです。「黒いワシ」しかり、「リリー・パシオン」しかり。バルバラの歌を愛する人たちにはぜひ読んでいただきたい本です。



 その原稿の終わりは、バルバラの代表曲のひとつである "Ma plus belle histoire d'amour c'est vous"を、大統領選挙敗北の総括本のタイトルにしたセゴレーヌ・ロワイヤルへの非難の文章で締めました。これは、本当にバルバラに対するリスペクトに欠けた愚行だと思います。カストール爺もたまには怒りの文章も書きます。

2007年12月22日土曜日

今朝の爺の窓(冬至)



 2007年冬至、午前9時半のわが窓です。朝日が当たって、しなの木の梢の赤がとてもきれいです。零下の日が続いているので、芝地は霜で真っ白になっています。今冬はアルプスもピレネーもスキー・リゾート地は、地球温暖化どこ吹く風の、豊富な雪だそうで、観光業者たちはえびす顔です。たぶん近いうちにこの下界にも雪がやってくるでしょう。
 スタニスラスの『冬』(ヴィヴァルディ『四季』の"冬”をモチーフにした曲です)のサウンドが合いすぎる昨日今日の風景です。そう言えば爺が押し売り気味にスタニスラスのCDを送りつけたウールハットのまつやまさんも、おさななじみのれいこちゃんも、スタニスラスを称賛してくれたので、じわじわと日本にスタニスラス病が蔓延していくかもしれまっせん。楽しみ楽しみ。
 さて爺は今日・明日・明後日と原稿地獄です。24日夜には解放されたいです。Joyeux Noelのあいさつはその時に。

2007年12月18日火曜日

サンタが町にやってきた



 (←)こんな写真だとわからないでしょうかね...。
 この2月から8月にかけて,「わが人生で最も」とは言わないけれど,精神的にも肉体的にも金銭的にも極端にハードな日々を送っていたので,その頃は今年はクリスマスなんか来ないだろうと思っていました。9月になってほっと一息ついたので,その苦難の期間をずっと暖かく支えてくれた妻子にお礼がしたくて,世界最高のロック・コンサートをプレゼントしようと思ったのでした。チケット発売とほぼ同時にフナック・ドッココムにアクセスした甲斐があってかなり良い席が取れました。
 12月17日POSB(ベルシー室内総合運動場)外は零下の寒さです。中は中高年のものすごい熱気です。娘は自分と同じような歳の子供たちはもちろんのこと,いわゆる若い世代の人々がほとんどいないコンサート会場にやや不安を抱いておりました(これはジョニー・アリデイっぽいぞ,と)。タカコバー・ママはこの年齢層の観客であれば,最初から最後まで座って見れそう,とほっとしておりました。持ち込んだ双眼鏡でVIP席ゾーンを見てみて,ひょっとしてサルコジ&ブルーニも来ているのではと探してみましたが...。
 開演予定20時,実際の開始は20時40分。しかし23時近かった終了まで,ザ・ボスとその仲間たちは全知全能を使って私たちにヴァイブを放っていたのでありました。タカコバー・ママの予想は見事に外れて,第一曲め第一音から総立ちでした。そりゃ,そうだもの。ありがたや,ありがたや。世にもありがたいものがステージで大奮闘しているような図です。E・ストリート・バンド,ブルース・スプリングスティーン,恩寵の瞬間というのはこのことでしょう。これを見るだけでも生きていて良かったと思ってしまいました。娘は両腕を高く上げて踊って,わけもわからず歌詞を大声で唱和しているし,こんなことを普段しないタカコバー・ママが何度も私に抱きついてきました。ああ生きていて良かった。これを見たら,この瞬間を体験したら,また明日からも生きて行けるはずです。
 私たちにもクリスマスがやってきました。皆さんにもクリスマスがやってきますように。そしてザ・ボスは最後にこんなサンタ帽をかぶって『サンタが町にやってくる』をゴキゲンなロックンロールで歌ってくれました。私たちに世界最高のサンタクロースが降り立ってくれました。一体どういうやつなんだ,こいつは!

 

2007年12月17日月曜日

さびしい王様



 12月17日,毎朝のクセで起きるとラジオのスイッチを入れ国営ラジオFRANCE INFOのニュースが流れる。「大統領ニコラ・サルコジと歌手でマヌカンのカルラ・ブルーニが交際中」。えらく日本ぽいニュースだなあ,と思い,そういう夢を見ていたのかなあ,と思い出してみる。ベッドを起き出して,サロンに行くと国営テレビFRANCE 2のニュースが「ニコラ・サルコジとカルラ・ブルーニが15日土曜日にディズニーランド・パリでデート中のところを雑誌3誌が写真でとらえた」と言っている。
 Assez !!!
 もうこれ以上同じことをマスメディアが言ったら,爺は怒り狂うぞ。
 今朝は気温が零下で,外は霜で真っ白だ。きのうのニュースでホームレス支援団体「ドンキホーテの子供たち」が,去年のサン・マルタン運河での行動と同じように,ノートル・ダム寺院近くのセーヌ河岸にホームレスのテント村を開設しようとしたら,機動隊の出動で強制撤去させられた,きわめてヴァイオレントな映像を見せられたばかりだ。このホームレスたちはこの寒さをどうやってしのぐのか。そんな時に大統領はディズニーランド・パリで美人マヌカンと遊んで,そんなところをニヤニヤ笑ってピープル雑誌の表紙写真におさまっている。
 先週1週間,カダフィに翻弄され,「人権宣言発祥国」のメンツを泥だらけにされた国の大統領が,その翌日にディズニーランドで,美人マヌカンとにやにや笑って遊んでいて,サルコジの親友アルノー・ラガルデールがオーナーであるピープル雑誌パリ・マッチと,その傍系ピープル誌にヤラセで写真をとらせ,明けて月曜日の朝,フランスの全メディアがそのことしか言わないのだ。外は零下だと言うのに!

 一般誌L'Expressのサイトを見たら,「サルコジはフランスで最初のアメリカ大統領だから」と書かれていた。メディア工作,世論操作や世論はぐらかしに長けた策士であるから,というのである。セシリアとの離婚をサルコジはものの見事に逆利用し,「傷ついた男」のポーズを最前面に出すことで,国民の同情票を集めた。外遊の際にファーストレディ連れでないことはたいへんなハンディキャップであるというような論調を雑誌メディアに展開させた。
 大統領になる前まではプライバシーを書き立てられる度に烈火のごとく怒っていたサルコジが,大統領になったとたんプライバシーを露出して国民からの好感度とシンパシーを操作しようとしている。
 カルラ・ブルーニにはあきれる。もう少しインテリジェンスのある女性と思っていた。
 だが爺にはもうシナリオが読めている。サルコジの作戦である。
 数週間後サルコジはカルラ・ブルーニに振られることになっている。サルコジはまたそこで「傷ついた男」を演じることができ,その時の失政や国民からの批判を,そのセンチメンタル・ドラマで大目に見てもらえることになるのだ。
 自ら不幸を演じる男,作戦的に自ら振られる男になること,これを爺は「人工(じんこう)コキュ」と名付ける。

 若い頃に,爺よりずっと美男でスポーツ体型の優男であった親友がいて,当然ものすごくモテたのである。女の子たちが向こうから次々に寄ってくるタイプ。しかしそいつは遊ばずにしっかりと真剣に恋愛してしまう性格で,恋しては破れては泣き,また恋しては破れて泣き,ということをくり返していた。つまりそれでもっともっといい男になっていったのだけれど。実にいい奴だったのだ。しかし,恋に破れるサイクルはかなり早くて,数ヶ月から1年くらいで失恋していた。だがいい男なので次の女性は見つかるのだよ。私はそいつの恋人だった女性たちを4人ほど知っているが,驚いたことに,その4人が4人とも容姿がとてもよく似ているのだ。よくもまあ,こんな似たタイプとばかり恋愛ができるもんだ,と思ったが,同じようなタイプでないと愛せない,ということもあるのだろう。つまり理想型というのがすでに固まっているのかもしれない。
 今朝フランスのメディアでは,セシリア・サルコジとカルラ・ブルーニの相似性を強調するものも少なくなかった。だからどうだと言うのか。背の小さい男にはナポレオン伝説が似合う,とでも言うのか。外は零下だと言うのに。


 

2007年12月13日木曜日

クリムゾンとクローバー


トミー・ジェームスとザ・ションデルズ
『アンソロジー 1966/1970』
Tommy James And The Shondells "Anthologie 1966/1970"


 しょんでるず,しょんでるず,七つの海が,早く来いよとしょんでるず
                         (三田明『若い港』1964年)
 
トミー・ジェームスというのは目立たない名前でしょうね。どこにでもありそうです。若い人たちには玩具のトミーが出している「きかんしゃトーマス」のジェームスとしか思いつかないかもしれまっせん。
 1966年のことです。My baby does the hanky panky, my baby does the hanky panky, my baby does the hanky panky, my baby does the hanky panky...。英語を知らなくても誰でも覚えられる必殺リピート歌詞の「ハンキー・パンキー」が全米1位になります。これがデビューシングルだそうです。日本では明石家さんまがテレビ番組のテーマで使っているということで知られているようです。

 バンド名のShondellsは「トミー・ジェームスと小便小僧たち」という意味ではありまっせん。トミー少年のあこがれのギタリスト/歌手だったトロイ・ションデルにあやかってのものです。ギタリストの分際で"トロイ"という名前なのは,エリック・クラプトン異名スロー・ハンドと関連があるのか,などと考えてはいけません。トロイ・ションデルは61年に「ジス・タイムThis time」という一発ヒットを放っていて,この歌は漣健児の日本語詞がついて『涙のさようなら』(いったいどうやったら,こういう必殺の日本語タイトルが考えつくのでしょうか!)というタイトルで飯田久彦(愛称チャコ。現エイベックス・エンタテインメント取締役)が歌っていました。

 フランスのレコード復刻の鬼職人,マルシアル・マルチネイ(Magic Records/MAM Productions社長)によるトミー・ジェームスとザ・ションデルズの『精選集 1966/1970』であります。6枚のEP(4曲)シングルと11枚のドーナツ盤から厳選した24曲で,「ハンキー・パンキー」(1966)に始まり,「ふたりの世界 I think we're alone now」(67年。この曲は20年後の87年に当時15歳のティファニーちゃんがデビューシングルとして全米NO.1になります),「モニー・モニー」(68年。これも19年後の87年ビリー・アイドルが全米NO.1ヒットにしてしまいます),「クリムゾンとクローバー」(69年)といったシクスティーズ有名曲が並んでいます。
 マルチネイの解説には,「ハンキー・パンキー」が63年に録音されたのに66年までリリースされなかったことや,67年から68年にかけてバンドメンバーの総入れ替えがあったことが書かれています。トミー・ジェームスを除いては前後で顔ぶれが全員変わったということなんですが,それがバンドはヴォーカリストだけで持っているという証拠と勘違いして,バンドなんかなくたってと70年にトミー・ジェームス君はソロアーチストになるんですね。それが斜陽の始まりなんですが。
 モップ・バンドみたいな音から,バブルガムになって,さらに極端なサイケデリックに至って,最後にはソフト・ロックになってしまう4年間のように聞こえました。60年代後半の一通りのことがすべて詰まっているような凝縮度です。

 爺はと言えば,あの当時は中学生ですから,トミー・ジェームスとザ・ションデルズはレコードでは一枚も持っておらず,AMラジオでのみの記憶になります。全米で1位だったら,青森あたりの民放ラジオでも聞くことができた時代です。「ミュージックライフ」にも載ってましたし。日本でも「サイケ」と3文字で一般化されたPsychedelicなLSD幻覚アートが幅を利かせていた頃で,原色たくさんのカラフルな流れ水玉やペイズリー模様を「サイケ調」と言ってました。また音楽はファズ・ギターやワウワウ・ペダルやジェット・マシーンや電気シタールが入ってると「サイケ調」でした。中学生だった爺もかなり幻覚状態というのに興味があって,接着剤系の吸嗅遊びというのも経験がありましたが,どちらかと言えば1本の「新生」とか「ゴールデンバット」で簡単にトリップしてしまえる,お手軽アシッド小僧でした。レコード持ってませんでしたらAMラジオだけが頼りなんですけど,ラジオでこの曲が流れたらトリップ気分という歌が数曲あって,その代表がレモン・パイパーズ「グリーン・タンブリン」,アイアン・バタフライ「ガダダビダ」,トミー・ジェームス&ザ・ションデルズ「クリムゾンとクローバー」であったわけです。
 かくして40年後に「クリムゾンとクローバー」と再会ということなんですが,それまでにもナツメロ系のFM局では何回も聞いているので,格別の懐かしみというのはありませんでした。ところが驚いたのはこれはは5分以上の曲だった,ということで,私はラジオではおそらくこの長いヴァージョンは一度も聞いたことがないと思います。これすごいですね。この浮遊感というのはただのトリップ感覚ではないですね。

 たぶん(←)のオリジナルアルバムにはこのヴァージョンで入っているのかもしれません(絶対入手しなければなりません)。真っ赤な心臓(クリムゾン色でしょうか)と三つ葉のクローバーというシュールな出会いもよろしいですが,ギターが何種類も違う音で介入するのが非常に絵画的です。あの頃,ギターって何でもできたんですねえ。揺れ加減もいいですねえ。天使系のコーラスワークもいいですねえ。4分30秒頃にスクラッチ効果の切れ切れヴォーカルになって徐々にフェイドアウトしていきますが,昇天モードです。

<<< Track list >>>
1. HANKY PANKY
2. SAY I AM
3. LOT'S OF PRETTY GIRLS
4. GOOD LOVIN'
5. IT'S ONLY LOVE
6. YA! YA!
7. I THINK WE'RE ALONE NOW
8. DON'T LET MY LOVE PASS YOU BY
9. MIRAGE
10. I LIKE THE WAY
11. RUN RUN RUN
12. GETTIN' TOGETHER
13. OUT OF THE BLUE
14. LOVE'S CLOSIN' IN ON ME
15. MONY MONY
16. 1.2.3. AND I FEEL
17. SOMEBODY CARES
18. DO SOMETHING TO ME
19. CRIMSON AND CLOVER
20. SWEET CHERRY WINE
21. CRYSTAL BLUE PERSUASION
22. BALL OF FIRE
23. SHE
24. GOTTA GET BACK TO YOU

CD MAM PRODUCTIONS 3930648
フランスでのリリース:2007年11月27日

(↓)「クリムゾンとクローバー」5分32秒ヴァージョン(1969年)


(↓)トミー・ジェームス&ザ・ションデルズ「クリムゾンとクローバー」(1968年)いとも”サイケ”な動画クリップ3分25秒


(↓)1982年ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツによるカバー「クリムゾンとクローバー」。なんともキマリますなぁ、う〜ん。


(↓)2009年プリンスによるカバー「クリムゾン&クローバー」。別格の輝き。トロッグス「ワイルド・シングス」を間に挟む殿下のお遊び。

2007年12月10日月曜日

カダフィがパリに来た朝,セーヌに鵜を見た



 朝9時頃,パリ16区のルイ・ブレリオ河岸の下のセーヌ脇自動車道路(ヴォワ・ジョルジュ・ポンピドゥー)を運転しながら,車窓から右手を伸ばして録った写真です。まあ危険!と思われましょうが,今日からカダフィがパリに来るというので厳戒体制で,朝から渋滞がひどかったので,シャッターを押した時は車は停まっていたので危険はなかったのです。
 鵜です。フランス語ではCormoran(コルモラン),別名 Corbeau de mer(海のカラス)とも言われますが,カラス科ではなくペリカン科の鳥です。秋冬にセーヌに多く見ることができます。潜水しての魚取りの名人ですから,セーヌにもたくさん魚がいるということですね。
 向こう岸に若干緑の芝生が見えているのは15区のアンドレ・シトロエン公園(そうです自動車王の名前のついた公園です)で,青い球形のものはその公園から百メートル上空まで昇れる遊覧気球(ただし地上とワイヤーでつながっています)です。また河岸に停泊しているTHALASSA(タラサ)と書かれた船は,国営テレビFRANCE 3の超長寿番組「タラサ」(毎週金曜日夜9時,フランスと世界の海と船のできごとを紹介する2時間番組。素晴らしい。見るたびに海をいとおしく思うようになります。海洋国日本にどうしてこういう番組がないのだろうか。)を生放送しているスタジオ船です。
 鵜は魚を口に入れても咀嚼せずに,そのまま喉に落としてしまいます。これを称して「鵜呑み」と言います。転じて,人の言うことを考えもせずに信じてしまうことの意味になります。元国際テロ仕掛け人であったカダフィを,内外の大きな反対の声を聞かずに,国賓として招待したサルコジは,カダフィのリビアは大量殺戮兵器の開発生産を放棄し,人権問題でも大きく前進したのだから国際的パートナーとして受け入れたと言っていますが,誰がそれを鵜呑みにできますか。

2007年12月9日日曜日

ザ・リデンプション・ソング



 5年間の亡命生活にピリオドを打ち、ティケン・ジャー・ファコリーが故国コート・ディヴォワールに帰ってきました。国は今やまっ二つに引き裂かれ、ローラン・グバグボ大統領の政府に反対する北部の人々が武装蜂起して内戦となり、多くの犠牲者を出しながら、南北対立は解決されず、あたかも二つの国となっていがみ合いながら共存しているような状態です。ティケン・ジャーは北部出身者であり、北側の反政府蜂起を理解するとしながらも武力衝突に反対し、和平を訴え続けていました。国として南北は和解しなければならないというメッセージを歌ってきました。そのことでティケン・ジャーは北側からは親グバグボ派のように見られ、南(政府支持)側からは反政府主張のメッセンジャー歌手のように見られ、どちらからも脅迫を受け、ティケン・ジャーの友人たちが実際に暗殺されたり、投獄されたりしました。
 そこで彼はマリに逃れ、音楽活動はフランスを中心に行うようになったわけです。
 12月8日、アビジャンのパルク・デ・スポールに集まった3万人のファンの前で、ティケン・ジャーは故国で5年ぶりのコンサートを行いました。そして国民の和解を訴え、グバグボの名前も、ギヨーム・ソロ新首相(元反乱軍代表)の名前も、アラサン・ウワタラ(北部勢力のリーダー)の名前も、同じように大聴衆に喝采させました。そしてステージ上には、北部支持のアーチストたちと親グバグボ派のアーチストたちも登場させ、和解のセッションを行ってしまったのですね。
 このメガコンサートは同じセットで来週は北部勢力の中心地でコート・ディヴォワール第二の都市ブーアケで行われることになっています。
 これで本当にコート・ディヴォワールに平和が訪れてしまうかもしれません。信じられますか? − 信じたいです。それだけの力を持ったアーチストですから。

2007年12月7日金曜日

今朝の爺の窓(2007年12月)



 10月30日の写真と見比べてみてください。
 これは今朝9時半頃のわが窓です。日が一番短い季節で夜明けは8時45分くらいです。これから冬至まで短くなり続けます。
 プラタナス(スズカケの実がぶらぶら)もポプラも全部葉っぱが落ちて,セーヌが丸見えになりました。手前に見える緑色塗りの箱型住宅は,船に乗った船上住宅なのです。岸から白い橋が架かっているのが見えます。向こう岸に2艘停泊しているのは石炭運搬船です。
 10月の写真にはなかったのに,向こうの河岸壁に大胆な7文字のグラフィティーが見えます。
 このところ雨がよく降っていて,気温がやや高い(日中は10度を越す)ので,芝生は緑色です。梢が赤くなっている木立はティユール(しなの木)です。この赤がなかなかきれいで,次の萌えを待っている希望を感じさせます。
 次回は雪でまっしろになっている図をお見せしたいです。
 
 

2007年12月3日月曜日

老いるショック



 64歳であります。考えるでありましょうね。
 「ステージに立つために痛み止めの注射が必要になったら,決断せざるをえないだろうに」と法國転岩王ジョニー・アリディは2009年を最後にロードに出ることを止めると発表しました。オン・ザ・ロード・アゲイン,オン・ザ・ロード・アゲインとここまで続けてきましたが,毎晩違うホテルで袋ひとつ抱えてボロボロになって寝る生活はもう続けられない,とも言いました。「俺は75歳までブルースやロックンロールを歌うつもりはない」とも言いました。この辺が歳を重ねる毎に古いワインのように味を増していくミシシッピーやシカゴの黒人ブルースメンとは違うのですね,とアゴラヴォックス(www.agoravox.fr)は書いてます。ロックンロール・アティチュードは「三つ子の魂」ではなかったのですか,と涙に暮れる女性ファンがラジオ(RTL)で引退撤回を訴えていました。
 国民のヒーローは多くのロックンローラーのような「野垂れ死に」を選ばなかった、ということだと爺は理解します。ジョニー・アリディは枯れることをせずに、花のままで去りたい。50年近い現役ですから。自分を保つために、スポーツだけでないさまざまな「ブツ」を使用していることを否定しないジョニーです。限界は玄界灘、限界だな。おまえはだまって隠居してろ、と言われた人たちが急に復活して小銭をかせぐ今日このごろ、絶対に引退は許さないというファンたちが圧倒的に多いジョニー・アリデイは、死ぬまで歌い続けることを宿命としなければならないはずだったのに、昨日急に「俺にも安楽な老後を楽しむ権利はある」と日和ったわけです。おまえは真のロックンローラーじゃねえ!と言われたら、「はい、そうでございます」と答える開き直りができちゃったのですね。
 フランスはこの男を許すんですよ。ド・ゴールやミッテランを許したように、フランスはこの男を偉人として歴史に残すでしょう。これから先、なんぼアホなこと言うても、ジョニー・アリデイは終身国民歌手です。それはそれでたいへんな重荷でしょう。

2007年12月2日日曜日

ヴァンサン会



ヴァンサン・ドレルム『フェイヴァリット・ソングス』
Vincent Delerm "FAVOURITE SONGS"


 こういうのは年寄りのすることですね。
 お気に入りの歌をゲストとデュエットしてしまうやつです。フランソワーズ・アルディとかシルヴィー・ヴァルタンもやりましたし、ミッシェル・デルペッシュは自分のレパートリーだけでそれをやりました(一種のトリビュート・トゥー・ヒムセルフ)。一連の「心のレストラン」ものなんかそれしかないのですが、もはやナツメロ・レパートリー再生手段でしかないような感じです。
 というわけで通常ならば、そういう企画だけで爺は相手にしないようにするのでしたが...。このヴァンサン盤はなごみましたねえ。2006年の11月と12月にパリのラ・シガールでライヴ録音されたものです。歌ヘタがひとつの芸になっているドレルム唱法と誰がデュエットできるのか、という興味もありましたが、結果はすべてのデュエット相手をドレルム化してしまい、どんな歌を歌っても全音楽をドレルム化できるという征服者の趣きです。なんとも言えない浮遊感に、頭はホワ〜っとしてきます。
 ムスタキさんは最初と最後(ゴーストトラック)で出てきますが、ドレルムの直系の先駆者ってムスタキさんだったと、はっと気付いてしまいます。もうゆるい、ゆるい。たまんないですね。
 一番ガツーンと来るのは4曲めのバンジャマン・ビオレーの佳曲中の佳曲「ル・セール・ヴォラン」(凧凧上がれ、天まで上がれ)で、原曲どおり、マリリン・モンローの「帰らざる河」がウクレレひとつで裏声歌唱されて、そのあとでジャーンと盛り上がりの間奏が入るところがありまして、この間奏の前の数秒の静寂があって、そこではどうしようもなく客からクスクス笑いが入ってしまうのです。ここがどうにもドレルム的で、ギャグではないのにどうやってもクスクス笑いがこぼれてしまう、ドレルムのキャラクターの勝利と言いましょうか、ここでビオレーの大名曲は一挙にドレルム化されてしまったのです。
 ヴァレリー・ルメルシエとの「ル・クー・ド・ソレイユ」(日焼けと言うよりは太陽の一撃、リカルド・コッチャンテ/リシャール・コッシアントの大ヒット曲です)もよろしおまっせ。二人のふわふわ感で、この熱唱曲(オリジナルでは)がぶちこわしなんですが、極上ですね。
 ニール・ハノン(ディヴァイン・コメディー)は、本国よりもフランスで評価が高くて、フランスの軟弱ロマンティストたちのヒーローとなっていますが、やはり貫禄ものですね。曲はドレルムの前のスタジオ録音アルバムに入っていたドレルム/ピーター・ヴォン・プールの作品で、ハノンのフランス受けを皮肉ったような歌なんですが、ハノンはちゃんとその役を演じてしまうし。えらいっ!
 「ジュッセ、ジュッセ、アイ・ラヴ・ユー」というセリフ部分まで入れてしまって原曲に忠実に再現するアラン・スーションの"Y'a d'la rumba dans l'air"(ルンバなふんいき)だけは、スーションがシャンパーニュ飲みながら正装して歌うもんだから(ブックレット写真でそうなっているからそう想像しているのですが)、勢いでドレルムが負けてるところがあります。スーションというのはたいへんな役者ですことよ。
 そのあとでゴーストトラックの「三月の雨」(ジョビン、ジョビンと降る雨)でムスタキさん再登場です。Un pas, une pierre, un chemin qui chemine... というフランス語詞(ムスタキさんです)も軽やかに、ドレルム流サウダージが極まります。いやあ、よい夜をありがとう、という感慨にひたれます。

<<< トラックリスト >>>
1. Votre fille a vingt ans (avec GEORGES MOUSTAKI)
2. Cent ans (avec RENAUD & BENABAR)
3.L'ennemi dans la glace (avec ALAIN CHAMFORT)
4. Quoi (avec CALI)
5. Les cerfs-volants (avec BENJAMIN BIOLAY)
6. Desir desir (avec IRENE JACOB)
7.Poulet No 728120 (avec KATERINE)
8. C'etait bien (avec HELENA)
9. Les embellies de mai (avec FRANCK MONNET)
10. Favourite song (avec NEIL HANNON)
11. Le coup d'soleil (avec VALERIE LEMERCIER)
12. Marine (avec PETER VON POEHL)
13. Au pays des merveilles de Juliet (avec YVES SIMON)
14. Les gens qui doutent (avec JEANNE CHERHAL & ALBIN DE LA SIMONE)
15. Na na na (avec MATHIEU BOOGAERTS)
16. Y'a d'la rumba dans l'air (avec ALAIN SOUCHON)
(Ghost track) Les eaux de Mars (avec GEORGES MOUSTAKI)

VINCENT DELERM "FAVOURITE SONGS"
TOT OU TARD / CD 8345105752
フランスでのリリース 2007年11月19日

2007年11月28日水曜日

フレッド・シシャン



 大好きだったから,あの本にも2曲について書いたのでした。
 今夏の(わが家対岸)ロック・アン・セーヌのフェスティヴァルだって,ビヨークなんかどうでもよくて,数年ぶりでレ・リタのステージを見ることだけが楽しみだったのでした。作曲者/ギタリストと言ったって,リード取るわけじゃなくて,生ギターをコードでジャラジャラ弾いているだけですが,それだけでも絵になる人っているじゃないですか。この夏,フレッドはずっと奥の方で大人しくしていましたね。
 病気とは聞いていて,コンサートがずいぶんキャンセルになっていたし...。
 フレッド・シシャンが今朝,ガンで死んでしまいました。53歳。合掌。セ・コム・サ....

2007年11月25日日曜日

マイ・ベイビー、ベイビー....



 バルバラ10周忌の日。
 テレビのニュースやラジオの特番を見たり聞いたりで、それだけでこみ上げてくるものがあります。このアーチストに関しては書きたいことがたくさんある、そんな思いがどんどんふくらんでいきます。
 バルバラに関して、日本の雑誌に書かせて欲しいと提案したのが、11月19日。翌々日、その件は上部に決定を仰ぐので待て、との返事。それでもこの命日が近づくにつれて気持ちが昂って、23日に再びメールしたら、そのあとで日本は三連休なのだと知って、ああ答えは来ないのだ、と納得。
 リベラシオン紙ではリュドヴィック・ペロンが非常に簡潔で卓抜な筆致で、死後の評価の変容ぶりを書いています。嫉妬します。バルバラはインタヴューでは多くを語りません。ですから、続々出た評伝本(ヴァレリー・ルウー、ディディエ・ヴァロ...)と自伝本"Il etait un piano"が、このアーチストを知る上での多くの手がかりを提出しています。バルバラには父親から受けた体罰の痕とされる骨格畸形や、やけどあとがあったという証言は死後でなければ出てこなかったのです。
 34歳で初めて自作自演歌手となったバルバラは、過去ばかりを歌うアーチストでした。笑い、おどけ、客を笑わせるショー・ウーマンであった彼女は、コンサート毎に45分から1時間のアンコール演奏を求められ、その熱狂はコンサート後の地下鉄の車両での客の歌うバルバラのレパートリーの大合唱となって続くのです。一体この怪物は何者なのか。「私は歌手ではなく、歌うピアノ弾き」と自称します。この震える声の持主は一体誰なのか。私にはそのすべてを知る由はありません。ただ、知っていることは少しはあるので、少し長々と書いてみたいと思っているのです。バルバラへの思いはいつも切ないです。

2007年11月22日木曜日

待ってましたと目に涙



 11月21日、国営TVフランス2、20時50分。フランス・ギャルが16人のゲストアーチストにミッシェル・ベルジェのレパートリーを歌わせるという「TVショー」を準備するという趣向の特番がありました。いわば演出された「メイキング・オブ」を「完成番組」として見せ、その楽屋裏のフランス・ギャルとゲストアーチストたちのやりとりが見物なわけですね。ジョニー・アリデイ、セリーヌ・ディオン、フランソワーズ・アルディ、ヴァネッサ・パラディ&マチュー・シェディド、ルイ・シェディド+ローラン・ヴールズィ+アラン・シャンフォール+ミッシェル・ジョナス、クリストフなどの古顔に加えて、若いところではクリストフ・マエ、クリストフ・ウィレム、テテ,レスリー、アメル・ベント...それからディアムスも出ました。
 そういう人たちがベルジェを歌うのを見ながら、またうしろで流れるベルジェのヴィデオ画像を見ながら、フランス・ギャル様は始終目をうるませていたのでした。そのうるうる目のフランス・ギャルを見せるために制作されたような番組ですから。気になったのは、ゲストとの対話のときに、フランス・ギャルの質問や受け答えが、ゲストの発言と噛み合ないことしきり。それを編集サイドがぶちぶち切っちゃったのでしょうが、全然対話になっていない(特にフランソワーズ・アルディ相手の時)のもありました。
 ご自分の若い時のヴィデオは部分部分で挿入されますが、ご自身は歌いません。坐って、目をうるうるさせて見ているだけ。婆様の図ですね。それはそれでファンにはありがたいものでしょうが。

2007年11月17日土曜日

スタン誕生



 スタニスラス『綱渡りの歌』
 STANISLAS "L'EQUILIBRE INSTABLE"


 世のすべてのロマンティスト諸姉諸兄のみなさん、春夏秋冬の風の香の移りを頬に受けただけで涙してしまうセンシブルな同志のみなさん、喜びたまへ。両の腕を大きくひろげて迎えたまへ。
 スタンはあなたたちのためにやってきた。スタンは爺のためにやってきた。
 ありがたや。ありがたや。神よ祝福されてあれ。
 すべてのポルナレフィアンたち、すべてのマッカートニストたち、驚愕せよ。
 スタンは疾風怒濤の海からやってきた。ほせい体躯のポセイドン、昼のごはんは鶏丼だ。

 スタニスラス・ルヌーは1972年のある日あるところで生まれた。海の底かもしれない。3歳でソルフェージュを始め、あらゆる楽器を触りまくった。12歳でパリ・オペラ座(ガルニエ宮)で少年オペラ歌手として初舞台を踏んでいて、「マクベス」(ヴェルディ)と「トスカ」(プッチーニ)にソロ役を取り、共演者のひとりルチアーノ・パヴァロッティはこの少年をして「プチ・テノール」(チビ低能)とあだ名して可愛がった。そして「トスカ」の最終公演のあと、オペラ・ガルニエ管弦楽団の指揮者ジェームス・コロンから、その成功の記念に指揮棒をいただいた。これが引導となって、スタン少年はパリの西郊外シュレンヌのコンセルヴァトワールを経て、ボストンのバークレー音楽院、さらに19歳でパリ音楽師範校の指揮科に入り、その3年後にはマッシー管弦楽団の指揮者ドミニク・ルイツの助手の地位を得て同学校を卒業している。今日スタニスラスは師匠ルイツの座を継ぎ、マッシー管弦楽団の常任指揮者となっていて、同時にパリ音楽師範校の指揮科教授である。つまりクラシック音楽のマエストロの王道をまっしぐらだったわけである。
 それと平行して、かくれロック・フリークでもあったスタンはバンドを組んだり、ロックバンドのセッションにキーボディストとして参加したり、というフツーの若者っぽいこともしていた。またマッシーの指揮者となってからも、カロジェロ、パスカル・オビスポ、セリーヌ・ディオン、クール・シェン(ex NTM)などのストリングス編曲・指揮の仕事もしていて、ヴァリエテ界と通じていた。
 カロジェロがアイドル小僧であったのはレ・チャーツ(Les Charts)というポップ・トリオ(カロジェロとジョアキノのマウリッシ兄弟と、そのダチのフランシス)にいた時であるが、そのカロジェロの弟であるジョアキノ・マウリッシとスタニスラス・ルヌーは2000年にピュア・オーケストラ(Pure Orchestra)というエレクトロ・ポップのデュオを組んでいて、2001年に"Singin' Dog"(Universal France 5868072)というアルバムを発表している。まあ爺がちょっと聞いた感じではモジョみたいな(英語歌詞)フレンチ・タッチ・エレクトロ・ポップであったが、目立たない結果に終わったようである。(シングルヒットした"U and I"は一聴の価値あり)。
Pure Orchestra
 ちょっとがっかりしたのは、スタンの兄にチボー(Thibaud)というフォーク・ポップ系の自作自演歌手がいて、ルヌー兄弟は2004年にチボー名義のソロアルバム "Les Pas Perdus"(消えた足跡)というアルバムを発表している(CD化はされず、ネット上のダウンロードのみ)。ルーファス・ウェインライト寄りのヴァリエテ・フォークのように聞こえる。 
Thibaud "Les Pas Perdus"
 このようにヴァリエテ界での仕事も多くしているので、オフィシャルのバイオグラフィーが書いているような、クラシック界の若き俊才が突然にポップ界に「天下り」したような転身劇ではない。ヴァリエテ界でかなり苦労した末でのスタニスラス・ルヌーのソロ・デビューであり、この実像の方が爺にはしっくりくる。昔の人はクロート(玄人)を「苦労徒」と当て字して、その匠は一日にしてなるものではないことを寓意したものであるが、スタンは玄人であり、天使や王子様ではなく、苦しみながら海の底からのぼってきたポセイドンである。

 スタニスラス『L'equilibre instable(あやうい平衡、不安定な均衡)』は、高久光雄さんの表現を借りれば「美しきロマンの復活」(これはナレフ様1978年アルバム"Coucou me revoilou"の日本題)とでも称したい、久しく聞くことができなかったロマン主義志向のアルバムである。鳥の飛翔に嫉妬し、風の行方に遠い国を想い、花の香に涙ぐみ、木漏れ陽に目を閉じて万華鏡を楽しむ....そういう人たちが待望していたアルバムに違いない。だから爺も待望していた。
 スタンが長年の研鑽の上に身につけたクラシック・オーケストラの魔術を駆使し、細やかな叙情表現はお得意のアートであり、そのあたりはかつてのイージーリスニング楽団をサンプルしたフレンチ・タッチDJたちとは格が違うのである。弦の震えはこういう風に聞こえて欲しい。ここでカスタネット、という時に入ってくれるカスタネット、ロマンの人たちならば予知できる音が出てくる不思議。21世紀的環境で生きる爺たちに、ああ、まだこういう音で音楽が作れる人がいたのだ、という懐かしい安堵感。ありがっとう、スタン。
 シングルとしてラジオにオンエアされている第1曲め"Le Manege"は、このアルバムではフル・ヴァージョンの4分48秒だ。すごい。メカーノ「イホ・デ・ラ・ルーナ」以来、ポップ界で最も美しいワルツに違いないこのメリー・ゴーラウンド曲は、回転と上昇と下降に心地よい目眩をおこそう。スタンのヴォーカルは自然にオーケストラに溶けているソロ楽器であり、出るべき高音がそのノートに達してヴィブラートする人間のエモーションを伝えるリード楽器である。機械で作られたものとの違いを感じてほしい。
 2曲め"La belle de mai"(5月の美しい人)は、古典的な愛の儚さを歌う哀歌であるが、子供たち、かつては愛の儚さはたくさんの歌を生んだのだよ、と教えてあげたいくらい、昨今聞かれないテーマのエレジーで心が震える人も多いだろう。
 4曲め"La debacle des sentiments"(感情の激流)は、カロジェロ君(ベース、ギター、ヴォーカル)をフィーチャーした歌で、タイトルからして疾風怒濤の曲であってほしいのだけれどそうはいかず、ペリー・ブレイクの音処理にも似た、遠くに聞こえるピアノとカロ君の連打ベースが嵐の満ち引きのようで妙である。
 5曲め"Entre deux femmes"(二人の女性の間で)と6曲め"Ana quand bien meme"(それでもアナは)は、マッカートニー趣味がよくわかるしゃれたバラードとソフトロックで、5曲めの方ではフィリップ・ユミンスキーのこじゃれたギターが聞こえる。
 7曲め"Nouveau Big Bang"(新ビッグ・バン)は、アルバム中唯一の疾風怒濤もので、ストラヴィンスキー、バリー・ライアン「エロイーズ」、ポルナレフ「想い出のシンフォニー Dans la maison vide」系の展開であるが、劇団四季のミュージカルの一番の山場のようなわざとらしさが、どうも爺は苦手である。
 8曲め"L'absinthe pour l'absent"(不在者のためのアプサント酒)は、なんとゲンズブールへのオマージュのデカダンスものであるが、スタニスラスに欠けているのはこういう曲になくてはならない退廃文学趣味で、ジャン=ルイ・ミュラのように滲み出る毒のようなものが全くないのだ。スタンも万能ではない。
 11曲め"A d'autres"(他人には)は、雨降るロマン・ノワールのように始まるバロックな(音楽様式ではなく、異形な、という意味ね)佳曲で、謎(エニグマ)やチェス盤やコード番号が顔を出して、アルバムタイトルが示す不安定な世界が最もよく表現されている。
 12曲め"Memoire morte"(死んだ記憶)は、最初の最高音から徐々に降りて来る音階ヴォーカルから鳥肌ものの、消えていく記憶を追っていくドラマティックなバラードで、この透明な悲しみは追っても追っても追い切れないものに何度も何度も手を伸ばしていく。もうこうなると爺はぐじょぐじょだ。
 最終曲13曲め "L'hiver"(冬)はスタニスラスからのクリスマス・プレゼントのような曲で、アントニオ・ヴィヴァルディの『四季』の「冬」をベースにした冬讃歌。浮ついた季節が終わり冬は私を大地にもどしてくれる、光を待望する冬こそ私の季節、冬はすべての戦争を凍らせてくれる、と歌っている。「すべての緊急事を凍結させ、クリスマスの火を囲んで踊ろう、冬にきみの目は美しく輝く」ー なんて美しい結語。こんなすてきなクリスマス・ソングは、ルーチョ・ダッラ「ストルネロ」(1984 アルバム "Viaggi Organizzati")以来初めて聞いた。ヴィヴァルディとルーチョ・ダッラの言語で「ブオン・ナターレ!」とクリスマスを祝福したくなる曲だ。2007年の冬は、この歌で越せそうだ。

 綱わたり師のようにアンバランスで、軽やかに早足な35歳スタニスラス・ルヌーのデビューを心から祝福します。
 世界中のロマンティストたちのご意見をうかがいたいです。

<<< トラックリスト >>>
1. Le menage (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
2. La Belle de mai (Patrice Guirao/Stanislas Renoult)
3. Les lignes de ma main (Elodie Hesmes/Stanislas Renoult)
4. La debacle des sentiments (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
5. Entre deux femms (Julie d'Aime/Stanislas Renoult)
6. Ana quand bien meme (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
7. Nouveau Big Bang (Elodie Hesmes - Stanislas Renoult/Stanislas Renoult)
8. L'absinthe pour l'absent (Elodie Hesmes - Stanislas Renoult/Stanislas Renoult)
9. Le temps des roses (Elodie Hesmes/Stanislas Renoult)
10. L'age bete (Stanislas Renoult)
11. A d'autres (Fredric Doll/Stanislas Renoult)
12. Memoire morte (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
13. L'hiver (Stanislas Renoult/Stanislas Renoult - Antonio Vivaldi)

CD POLYDOR/UNIVERSAL FRANCE 5303542
フランスでのリリース : 2007年11月19日


 

 

2007年11月16日金曜日

交通ストライキ3日めの朝



 ← 2007年度のコンスタンタン賞はダフネのセカンドアルバム『カルマン』が取りました。これはまだ爺がインターネットサイトをやっていた時に最後の頃に紹介していました。日本盤(V2ミュージック)も出たようですが,日本のレコード会社はやはり彼らの感覚でジャケ・アートを変えてしまいました。業界の中の「日本で売るためにはこうでなければならない」というセオリーは90年代頃から猛威をふるって,オリジナルジャケットで出ないものがすごく多くなりました。どんなもんでしょうかねえ。ことフランスの作品に関しては,日本のレコード会社のイマジネーションがまず「女性受け」を考えてしまうようで,ファッション誌まがいの画像にしないと気がすまないような傾向がありますね。ところがそのイマジネーションによるパッケージングをはみだす力を持った作品の方が多いのではないかしらん。ダフネの『カルマン』はちゃんと聞いて欲しいです。ディオニゾスのバベッドの『奇妙な鳥』もね。2007年の女性の2枚です。この2枚だけで2007年は終わってもいいくらいです... なんていう思いでこの2枚を聞きながら,昨日はボージョレ・ヌーヴォーを飲みました。今年の味はfruit rougeだという見解で,三者(爺,タカコバー・ママ,セシル・カストール=未成年)のテイスティングは一致しました。

 11月16日,交通ストライキ3日めの朝。いつも娘を学校まで車で送っていく朝8時。ラジオでは「地下鉄は何本に1本の割」で運行するとは言うのだけれど,それが何を示すのかは,具体的に地下鉄のホームで待ったり,ぎゅうぎゅう詰めの車両の中でもまれたりしないとわからないと思います。きのうから急に気温が下がって,今朝はパリ圏でも零下のところがあったと聞きます。その中を重装備で自転車で移動する人たちも数多く見ます。
私はスト初日のおとといには,娘を学校に降ろしたあと,その前のバス停で待っていたたくさんの人たちに「コンコルドからバスチーユ方面に行く人はいませんか?」とco-voiturage (コ・ヴォワチュラージュ=乗用車相乗り)をプロポーズしました。ご婦人二人がよろこんで乗ってくれました。それで渋滞にも関わらず,道々いろんな話をしながら,道中を共にしたのですが,いいもんですね。ただこの二人とも,勤めに行く人ではなく私用移動だったのがちょっと私の人助け意図とは微妙にずれていたんですが,こういう時に人を選んだりしてはいけませんよね。2日め,同じようにバス停で待っている人たちに声をかけたのですが,誰も乗ってきませんでした。私の車は6人乗りなので,こういう時にひとりで乗っていると,ちょっと罪の意識を覚えます。
 このコ・ヴォワチュラージュは,数年前までは自分の住んでいるアパルトマンの掲示板にスト前日に「○○時にXX経由でYYまで行きます。3席まであります。ご希望の方は....」みたいな張り紙をしておいたものです。また,フロントガラスにバスみたいに行き先を貼付けていた車もありました。いいもんですね。市民同士の連帯です。私はこういう連帯にはぜひ参加したいので,ストの時は近所づきあいのある方たちには声をかけています。今はこのコ・ヴォワチュラージュがインターネット上で専門サイトがあり,市民同士の助け合いが機能的に行われているようです。
 私は多くの日本の人たちが抱いているような「ストライキ・アレルギー」がありません。「迷惑スト」などと言って目くじらを立てて怒る人たちの気持ちも理解しますが,怒る人たちがいなければこのストの効果もないわけですから。ブルドーザー式の行政改革を選挙公約にしてサルコジは当選したのでしょうけれど,そのブルドーザーでも前に進めない岩だらけの土地もあるんですね。アイ・アム・ア・ロック。

2007年11月11日日曜日

Another brick in the wall

 Daniel Pennac "Chagrin d'école"
 ダニエル・ペナック 『学校の悲しみ』

 2007年度ルノードー賞
 
 ベルヴィル人情物語「マローセーヌ」連作で知られるダニエル・ペナックが、300頁にわたって教育と学校についてその思いのすべてをぶつけている本です。この本の最も重要な言葉は "カンクル = cancre = 劣等生"というものです。一般に教育と学校の問題を語る場合、「問題」となるのは劣等生、落第生、落ちこぼれだけであって、及第点以上の子供たちは問題ではありません。できない子とできる子のバランスがあるから学校やその先の社会は成り立っているという相対論で落ち着いている人たちには、教育は問題になりません。しかし自分ができない子であったり、その子の親であったりしたらどうするのか。できない子とは何か。できない子はどこから来たのか。できない子は救済されないのか。そういうことをダニエル・ペナックは熱を込めて語ります。
 まず「できすぎたストーリー」という罠を恐れずに、ペナックは自分がどうしようもない劣等生であったことの告白から始めます。できない坊主から学校教師への転身、それよりも長い目では文章を全く書けなかった子供から作家への転身、これがペナックのパーソナル・ストーリーです。要するにあんたはどん底から這い上がって成功したという話をしたかったんでしょ、俺ができたんだからきみたちにできないわけはないというナルシスティックなお説教でしょ、と言われてもしかたのないことを、ペナックは敢えて書きます。これを書かなければいけないのは、自分は自力で這い上がったわけではないからです。作者はその崖っぷちにあった時にある教師と出会って救われたという契機があったのです。人生においてそういう教師に出会える人たちはごく少ないかもしれません。私自身を振り返るとそういう教師の顔は浮かんできません。しかしこの本に沿って言えば、私は劣等生だったことは一度もなかったので、私は救済される必要がなかったとも言えます。ダニエル・ペナックは複数の教師からその救済の手を差し伸べられた経験を語ります。それはありふれた話ではないにしても、そういう教師というのは昔も今も存在するのです。
 それは今度は自分が職業として中学(コレージュ)の教師となって出会った生徒たちや同僚教師たちの話として続きます。70年代から90年代にかけて、地方や郊外でペナックは教師として何千人という子供たちと教室で会い、そのひとりひとりのケースを見てきました。できない子に対する教師の言い訳のひとつに "manque de base"(基礎知識の欠如)というのがあります。つまりこの子が中学校でついていけないのは、その前の小学校での基礎学習がなっていないからであり、小学校でそれができないのはその前の家庭での基礎学習がされていないから...といった理由づけです。「できない子」はどこから来たのか。子の勉強も見れない共働きの親の家庭だったり、離婚家庭またはシングルマザーの家庭だったり。そして80年代からは圧倒的にフランス語の基礎を持たない両親の家庭、つまり移民家庭の子供たちである、と言われるようになります。郊外の公立学校は人種のるつぼと化し、その学力低下を恐れる(フランス中流以上の)親たちは子供を私立の学校に入れるようになり、公立の学校はますますできない子と移民の子でふくれていきます。教師ペナックはその現場にいて、自分がそうだったような「できない子」たちに手を差し伸べ、成功するか失敗するかわからないさまざまな救済策を実行します。美談はほとんどありません。しかしいい話ばかりです。
 共和国の義務教育は19世紀後半にジュール・フェリーの考案で始まりました。共和国は未来を建設する子供たちを共和国の名において育てなければならないと考えたのです。重要な原則は「ライシテ」(宗教と切り離した教育)です。信仰は自由であるが,学校という場所は無宗教でなければならないという考えです。なぜなら宗教は科学や歴史に対する考え方が共和国の教育の考え方と違う場合があるからなのです。フランスの公立学校教育は教師が宗教心に基づいて教育することも,生徒が宗教的な表徴をつけて学校に入ることも禁じています。イスラム者のスカーフと同じように公立学校ではキリスト者の十字架も外に見えてはいけないのです。宗教を禁じる考え方ではありません。学校という場はそれと無縁なのである,ということを通すために必要なきまりなのです。
 この例が示すようにフランスの公立学校は歴史的に先生たちが宗教や政治が介入することを必死で防いできました。私はフランスの教師たちのこの努力に敬意を表する者ですし,そのことを小学教師が外国人子女たる私の娘にまでちゃんと教えてくれたことを感謝しています。(スカーフ論争があった時に,それくらいいいじゃない,と言ったタカコバー・ママにまだ11歳だった娘が「学校はそういうところではないんだ」と断言して,ライシテとは何かを説明したのでした。びっくりでした)。日本で神話教育や国旗や「君が代」に抵抗する先生たちの考え方は,共和国の先生たちと似たものがあると思い私は支持できます。
 しかしペナックは,この共和国の学校がジュール・フェリーの100年後の1975年頃にその役目が終わったかのような,悲観的なことも言っています。それは子供たちの未来,共和国の未来というものをもはや学校はつくってやることができなくなった,という述懐です。落伍し,落ちこぼれていく子たちだけではなく,親の失業や兄姉の失業を見ている子供たちは,未来というきれいな言葉を希望を持って考えることができなくなったからです。「努力すれば何でもできる」というのは最初からうそっぱちな言葉ですが,75年頃まではまだそのウソの効力があったはずです。リアリティーは失業であり,貧困であり,ということだけを言おうとしているのではありません。6歳から15歳まで,それまで学校が子供の生活の中心であったのに,学校は自分の未来と関係がないと早々と知ってしまう子供たちはそれに関心が持てなくなってしまうのです。
 ペナックの本は「子供=消費者」の不幸に多くのページを割いています。ナイキやアディダスといったブランドや,アイポード,携帯電話などで身をかためてしまうことです。子供は早くから消費者として商業戦略の対象となって,雨霰となって降る広告を四六時中かぶっています。子供たちはこの攻撃に無防備であり,親にあれ買ってこれ買ってとねだり,その欲求が満たされれば幸福でしょうが,多くの子供たちは満たされず,消費者的欲求不満に陥ります。クラスの中で,持っている子と持っていない子がいます。持っていない子はそれだけで不幸なのです。容赦のない広告の嵐はこの不幸を深め,絶望の果てに子供は盗みを働いてでもそのアイテムを手に入れようとします。私の世代は大人になって自分で稼ぐようになれば好きなものを買えるという考え方で納得していた部分があると思います。消費者になるのは大人になってから,と。しかし,この子たちは早くからその欲求を刺激され,未来を待つことなどできないわけです。すぐにアイポードを持てないと不幸なのです。これはいつ頃から始まったのでしょうか。たぶん私の子供時代というのが,駄菓子屋でアメを買っていた子たちが,テレビで宣伝している明治や森永などの大量生産菓子に移っていった頃なのかもしれません。母親の手編み(または機械編み)のセーターと手製のコール天のズボンを着せられていたのが,デパートで既製子供服を買うようになった頃でしょう。徐々にでしょうが,このように子供=消費者は,小額の菓子ものから広告品を買うようになり,バービー人形やハイテク玩具を買うようになり,やがてブランド品や先端テクノロジーなどにまで手を出すようになります。

 今日の「できない子」は,失業者予備軍としての未来に絶望していること,子供=消費者として「持てない」不幸に生きていることという,昔はなかった絶望と不幸を理由に,学校は自分に何もしてくれないと思っています。ダニエル・ペナックはこの悲観的な状況を書きながらも,それでも教師たちはいるのだ,と言うのです。つまり,できない子であった自分を救済してくれたような先生が,まだこの世にはたくさんいるのだ,と。最終部の自問自答で,この学校という崩壊するかもしれない場所の最後の決め手になる言葉は,たぶん言ってはいけない禁句だし,人にはすごすぎる言葉だし,誰も信じてくれないと思うが.... ともったいをつけておいて,やっぱり「愛」なのではないか,と言ってしまいます。
 学校は必要ない,教育は必要ない,とピンク・フロイド『ザ・ウォール』が歌ったのは80年代初めのことでした。ペナックがジュール・フェリーの共和国義務教育の役目が終わったと言っていた時期とほぼ重なります。標題が言っているように,学校はそれ以後「悲しみ」を抱えた場所になっているのかもしれません。それは学校の壁の外と同じほどの悲しみであるとは私は思いません。ピンク・フロイドと逆のことを言うと,私は学校の壁に守られているものをまだ信頼しています。実際に私の娘が毎日通っている公立学校を,私は信頼しています。教師たちにも信頼を置いています。点数はあまり良くないけれど,娘はがんばっていて,学校が好きだと言ってくれるからです。そして,娘は私が教わらなかった「共和国とは何か」を知らないうちに身につけていてくれたからです。
 その意味でダニエル・ペナックの公立学校の教師を信頼せよという訴えは私にはたいへんな説得力があったのです。

 DANIEL PENNAC "CHAGRIN D'ECOLE"
(Gallimard刊 2007年10月。310頁。19ユーロ)

コーシュマール、コーシュマール!(でっかいわ...)



 (← 前立腺ガンの早期発見のキャンペーンにヨーロッパではブリュッセルの小便小僧マヌカン・ピスが広告イメージとして採用されています。「出にくくなったらすぐ検診」というのがそのココロです)

 9日の金曜日の成田からパリまでのフライト中、激しい頭痛があって、客室乗務員の方からバッファリンを2錠いただき、それでもおさまらなかったのですが、1時間もしたら眠ってしまってそのまま到着2時間前まで寝ていたようです。5泊6日の日本ツアーの後半3夜は暴飲気味で、たいへん楽しかったのですが、体にはたいへん良くないことをしていたと思います。おまけに宿酔気味でホテルに帰ったあとは、半錠の誘眠剤を寝入りに飲み、2〜3時間後にトイレに起きて(これが問題!)また半錠の誘眠剤を飲み、という無理矢理の時差矯正をしていたので、おとといで薬が切れてしまいました。
 時差のマジックで9日の午後にはパリに到着して、空港にはタカコバー・ママが待っていました。こういう図は久しくなかったものです。いつもは爺が空港で待つ役で、当然その前にタカコバー・ママや娘が旅行に発つ時もいつも爺が空港に残されて、Everytime you go away, you take a piece of me with you... (ポール若、またはホール大津)を泣きながら歌っていたのです。
 税関出口から駈けて行ってタカコバー・ママを抱きしめたら、開口一番「あなた口臭がひどいわよ」と言われました。

 口臭は自覚できませんからやっかいです。私も人の口臭が大嫌いなので、そういう人と遭遇するとできることなら二度とお会いしたくないと思ってしまう側の人間でした。中学の時の国語の先生(女性)がものすごかったのですが、ある日勇気ある子が無言で「エチケット・ライオン」を進呈したのでした。その先生はその意味がよくわからなかったと思います。本人にはわからないのですから。次の日からも状態は変わりませんでしたから、使わなかったか、ライオン歯磨きの宣伝に嘘があったかのどちらかだったのでしょう。
 この年齢なので何が起こったっておかしくないのですが、旅行前の10月前半に主治医の内科先生に診察してもらった時に、夜のトイレの回数が多くなったことを言いましたら、前立腺肥大の可能性があるので、検査を受けなさいと言われていたのでした。日本から帰ってから、と思っていたら、出発の2日前にクルマの運転中に2本脚の付け根のさる部分に急に痛みが来てしまったので、あああ、来ましたね、来ましたね、と何がやってきたのかわからないけれど、あるものが爺の体の中に到来していることを感じたのでした。
 青森ではどうだったのか覚えていません。たぶんそれほどではなかったのではないかな。3日めの東京から、普段クルマ生活者で歩くことをほとんどしない私が、これほど歩いたのは何年ぶりのことだろうと思うくらい、駅通路や「駅から徒歩8分」や「駅から徒歩10分」(これって不動産屋の用語でしたよね。大体が実際よりも大幅に少なめの時間になってますよね)を歩いて歩いて歩いたのでした。
 昼はひとりの時は富士そばや某カレースタンドを利用する、賢明な外国人旅行者だったのですが、夜は今回全部相手方が出してくれたので、喰うわ呑むわ。東京はどこでも食べるものが美味い。何を呑んでもお酒は美味い。おごられていただくものはすべて美味い。
 夜中に口腔がざらざらに乾いた感じがあったり、胃で何かが消化されていない感じがあったり、朝起きるとふらふらで平衡を取り戻すのに時間がかかったり...。たぶん東京での3日間は爺の何かを壊すには十分にハードなことの連続だったのでしょう。

 で、私はいつ頃からこのひどい口臭を人様に吹きかけていたのでしょうか。タカコバー・ママは出発前はそんなことはなかったと言っているので、日本に行ってからということですね。青森の友だちがもうおつきあいを考えさせてください、と言ったら、その時からすでにそうだったのでしょう。東京で商談した相手から、注文がぱったり来なくなったら、その時もそうだったのでしょう。東京の飲み屋で、まわりの騒音に負けじと顔寄せ合って大声で談笑しあったあの彼、あの彼女は、もう私と会ってくれないかもしれません。
 その時に、相手から何も言わずにす〜っとエチケット・ライオンのチューブが出てきたり、仁丹の容器をカシャカシャ振ってくれたりしたら、それとなく爺はわかったでしょうか。たぶんわからなかったでしょうね。
 口臭の悪夢(コーシュマール)は自分ではわからないことであり、人はなかなか言ってくれないことですね。娘ははっきりと Ta bouche pueと言ってくれたので、帰仏第一夜は「火吹き怪獣遊び」で娘を追い回したのでした。

 しかしコーシュマールは続き、口臭だけでなく、飛行機から始まった頭痛は時折再発し、眠る薬が切れたとたん、帰国第一夜からトイレに2時間おきに行くようになって、ほとんど眠れなくなってしまいました。これは時差ボケだけではないのです。おまけに膀胱部分は痛みこそないのですがいつも張っているような感じで気になってしかたがない。
 翌日薬局で口臭止めは買うことができました。眠る薬は処方箋がないと買えないので月曜日までお預けです。2日め(土曜日)の夜、やはり眠ることができず、元気にこんなことを書いています。眠れないので、ダニエル・ペナックの最新小説『学校の悲しみ Chagrin d'Ecole』を読み終えましたが、さっぱりわかりませんでした。ちなみにこの小説は爺が日本に行っている間に、今年のルノードー賞を獲得していました。ゴンクール賞作品はジル・ルロワの『アラバマ・ソング』で、きのうわが町のフナックで買いました。わが町のフナックには日本語を話す気だての良い女性店員の方がいて、いつもその人のレジで買うことにしています。昨日は娘と二人で買い物をしたのですが、そのレジに列を作っていた時に、娘が「パパ、口臭消しのスプレー使って!早く!」と言ってくれたのでした。よく気がつく娘です。レジで私たちの番になって、いつものように日本語で迎えてくれた彼女から微笑みが消えず「日本はいかがでしたか?」なんて優しく言ってくれたもんだから、この時私の口臭は消えていたものと確信しています。ああ、娘のおかげで、次もこの女性と会うことができる。ありがっとう、ありがっとう。
 『アラバマ・ソング』はニール・ヤングとは何の関係もありまっせん。米国の大作家スコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダ・フィッツジェラルドの生涯を描いた、生涯夫の影で尽くし通して生きた女性の(と書くと山内一豊の妻のようですが)伝記小説です。これを「ゼルダの伝説」と訳すと、話はまったく違ってしまいます。次回の「新刊を読む」で紹介いたします。しかし読み始めましたが、やっぱり下腹部が気がかりで、全然読み込めていないのです。コーシュマール、コーシュマール...。
 

2007年11月4日日曜日

デジカメを壊してしまった



 11月3日、パリ〜名古屋線に乗り込むために高速地下鉄RERのB線でロワッシー空港に向かう途中の娘セシル・カストールです。つい3日前につけられた歯列矯正装置で、食べるものに不便のしている娘が、これ青森のおばあちゃんに見せてあげてね、と撮影した写真です。
 11月4日、青森に来てわがiBOOKにこの写真をケーブル移動したところで、4年前に買ったNIKON Cool PIx3200がうんともすんとも動かなくなってしまいました。円安・ユーロ高をよいことに、タカコ・バー・ママは「新しいの買うてきて」と軽い感覚です。なにしろあさってからの東京の定宿がそういうところで新宿西口付近なので...。
 中部空港は日曜日なので家族連れ「空港見学」の人たちにたくさん出会いました。「セントレール」と言うのだそうですねえ。待ち時間にコーチン・ラーメンを食べて、家の土産に生きしめんのセットを買いました。屋上の散歩道は板張りで「ドーヴィル」みたいなんですが、固定のベンチが10メートルおきで、すわる人たちを制限する思想がありますね。日本の公園地や散歩道はどこでもそうなんですけど。

2007年11月3日土曜日

綱渡りの歌





 スタニスラス『あやうい平衡』
 STANISLAS "L'EQUILIBRE INSTABLE"


 世界一のレコード会社Uとは日頃親しい関係ではなく、長年のつきあいにも関わらず爺がやっていたような小さな会社などどうでもいいという態度があって、あれをしたいこれをしたいというプロポーザルがあっても真剣に応えてくれたためしがありません。彼らとはこういうつきあいが20年も続いています。それでもプロとして、爺は彼らのニューリリースの情報を1ヶ月以上前に受け取るシステムの中に入っているので、人様よりは早く「音」が聞ける特権があります。とかくヴァリエテ系はほとんど興味がなくなってしまったので、毎週の情報は来てもほとんどうっちゃっておくのですが、10月の上旬にリストに載ってきたこのスタニスラスは、なにか惹かれるものがあって、バイオグラフィーもちゃんと読んで、試聴の4曲もしっかり聞いたのでした。
 スタニスラス・ルヌー、35歳、クラシック教育をしっかり受けた名門学校出で、指揮法を有名マエストロに師事したのち、クラシックオーケストラ(オペラ・ド・マッシー管弦楽団)の指揮者に就任し、音楽高等師範校(エコル・ノルマル)で教授もしています。こういう人が若くしてポップ・ミュージックに「天下り」きたわけですが、本来ならば爺ならいくらでも悪口を言いたくなるようなこのキャリアの前に、シングル曲予定になっていた「ル・マネージュ(回転木馬)」の第一音を聞いたとたん、胸がキューンとなったのでした。
 確信犯的なロマン主義です。クラシカルでセンチメンタルで夢見心地で、声楽系でない高音少年ヴォイス(若き日の岩沢兄弟のような声に聞こえる)で、大空に上昇していくようなワルツ曲が展開されます。
 爺は何年ぶりかで世界一のレコード会社Uのディレクターにメールを書いて、スタニスラスのデビューアルバム全曲聞きたいので、必ず必ずアルバム送れとお願いしたのでした。何年かぶりでそのディレクターが直々に電話をくれて「私もこのアーチストの才能には賭けているものがある。きみが目をつけてくれたのはとてもうれしい」と急に "tu"(きみよばわり)で話したのでした。
 それから3週間、何も音沙汰がなかったのに、今朝、スタニスラスの6曲入りサンプラーが届きました。ディレクターの手書きのメモで「アルバム製品は上がっていないので、ストック入り次第送る」と書いてありました。なにか愛情物語の始まりのようなふんいきがあります。ネット上の試聴と違って、CD盤は大音量で聞いたら、コンサートホール感覚でした。
 クラシックとポップの狭間と言うよりは、これは古き良き少女マンガ時代のロマンが香り、劇団四季ミュージカルのようでもあります。ディヴァイン・コメディーが高音ヴォイスになって、もっともっとクラシック寄りになった感じです。
 これはですね、爺の持っている少女ゴコロを直撃するのです。隠れていたわけではないのですが、中学/高校と少女マンガを読みあさった頃の記憶がふ〜っと蘇ってきます。
 全曲版(製品アルバムは11月12日リリースです)が届いたら、もう一度総合的に紹介してみたいと思います。
 
 マイスペースに4曲公開されていますが、肝心の「ル・マネージュ」が載っていないのが残念です。
 http://www.myspace.com/stanislaslequilibreinstable
 (公開ヴィデオもぜひごらんください。ちょっと神経質そうな人柄がよくわかります)

 続報をお待ちください。
 しかし、しかし、ひさしぶりに興奮するヴァリエテであります。
 

2007年10月30日火曜日

今朝の爺の窓



 おとといから「冬時間」になったので,朝明るくなってから出勤できるようになりました。
 これは今朝8時のわが窓です。手前のヒマラヤ杉の大木は,入居した13年前には7階のわが窓の下にあったのに,今やてっぺんは9階の高さにあります。その次がプラタナス並木でまだ緑が残っていますが,もうすぐ茶色くなります。
 セーヌ川のこちら側の河岸はポプラ並木で,もうすっかり黄色です。今朝はおだやかな色をしたセーヌの流れです。その向こう側の河岸にラ・デファンスとイッシー・レ・ムーリノーを結ぶトラムウェイ電車が走っています。この電車はずっと川岸を走っていくので,ブーローニュの森を対岸に見る車窓は,見応えのある絵画的風景です。
 その向こうはマリー・アントワネットの居城があったサン・クルー城趾で,栗色に色づいている木々はマロニエの大木です。1999年暮れの大嵐の時にこの森の一割の本数の木が倒れてしまいました。あの時はまるでゴジラが通ったあとのようだ,と思ったものでした。その森の手前に緑の芝地がちょっと見えますが,この芝地はかなり広大で,ここで毎年夏にはロックフェスティヴァル ROCK EN SEINEが開かれ,今年の夏はビヨークさんもここに来てました。
 この景色は四季折々に色を変え,毎冬一度くらいは雪で真っ白になったりもします。夏の夕方はこの城跡の後ろ側に金色の太陽が沈み,ベランダでそれを見ながらタカコバー・ママと私は冷えたビールを飲み,おつまみの地中海オリーブを食べてはそのタネを口からペッと7階から外に噴き出す,なんていう行儀の悪いことをします。
 わが家で自慢できるものは何ひとつありませんが,この景色だけは宝物です。宝物と言っても,これは私たちが所有するものではありません。しかしこれは私たちの地球の一部なのです。爺の窓を日々愛するように,地球のことも考えてあげなければなりませんね。

2007年10月29日月曜日

父たちは「移民の歌」を歌っていた




 オリジンヌ・コントロレ (feat. ムース&ハキム)『アルジェリア移民の歌』
 ORIGINES CONTROLEES "CHANSONS DE L'IMMIGRATION ALGERIENNE"


 フランスのワインや地方名産品についている「AOC」(appellation origine controlee)表示は,その産物が確かにその土地で作られていることを証明することによって,その品質を保証するものです。シャンパーニュ地方で作られていないスパークリング・ワインをシャンパーニュと称することや,ノルマンディー地方で作られていないチーズなのにカマンベールと名乗ることを妨げるためです。この「オリジンヌ・コントロレ」という耳慣れた地方物産表示は,直訳的には「コントロールされたオリジン」となり,聞きようによっては気に触る表現です。トゥールーズのゼブダ周辺の市民団体であるタクティコレクティフはこれを移民問題と関連づけて,外国人居住者への不当な差別に反対し,学校でも病院でも(未成年者でも病人でも)容赦なく不正滞在者を狩り出して強制送還させる(非人道的なること甚だしい)移民政策に抗議する音楽フェスティヴァル「オリジンヌ・コントロレ」をトゥールーズで開きました。サルコジの選挙公約であった「選択/選別された移民政策」を直接的にあてこするものですが,移民流出国(具体的にはアフリカ諸国)と条約を結び,フランスが必要な職能とその人数のみにそのビザを発給するというものです。つまり外国人労働者の出身地(オリジン)で既に選択/選別というコントロールをしてしまおうという考え方です。新しいタイプの奴隷売買に見えませんか?
 アルジェリア移民は,産業革命期のヨーロッパ移民(特にイタリアと東欧)に続いて,20世紀に多くフランスに流入しましたが,フランス人に都合がいいことにヨーロッパ人たちよりも賃金が安く,原則的に短期(ほとんど季節労働)で帰っていってくれるはずだった彼らは,やがて経済成長に欠かせない社会構成エレメントとなってフランスに同化していきます。なぜならアルジェリア人は外国人ではなく独立前までフランス人だったのですから。そして彼らは兵士としてフランスのために戦場で戦ったのですから。
 ゼブダのアモクラン兄弟,ムースとハキムは,このアルジェリア移民の第二世代としてフランスで生まれましたが,今日保守系フランス人たちが目の色を変えて大問題にしているこの移民というものが,ムースとハキムの親の時代にはどうだったのか,ということを当時の歌によって検証/追体験をしているのがこのアルバムです。親たちの時代ももちろんバラ色のものではありませんでした。しかし,彼らはその共同体の中で音楽を愛し,歌を歌い,日頃の憂さを晴らし,望郷の念を分かち合いました。ここに収められた多くの歌は,バルベスやベルヴィルといった当時のパリ市内のマグレブ町でのヒット曲であり,親たちはバルベスやベルヴィルのアラブ・カフェでこれらの歌を聞き,歌っていたはずなのです。
 一番古いもので1930年代,ほとんどが50-60年代に「ヒット」したこれらの歌は,アラブとカビールの違いを越えて,フランスで生きるアルジェリアの悲喜こもごもの記録でもあります。このアルバムのシングルとして,今国営ラジオのFIPやコミュニティー系のラジオでよくオンエアされている「アデュー・ラ・フランス」(さらばフランス)という歌があります。

 Adieu la France, Bonjour l'Algerie (さらばフランス,こんにちはアルジェリア)
 Quand j't'ai quitte combien j'ai pleure (おまえと別れた時俺はどれだけ泣いたことか)
 Fini souffrance fini l'indifference (もう苦しみもつれないそぶりもおしまいだ)
 Bientot je s'rai avec toi ma cherie  (俺はもうすぐおまえのもとに帰るから)

 リフレインだけがフランス語です。このフランス語リフレインに移民のどれだけの思いが込められていたでしょうか。何度フランスにアデューと言いたかったことがあったでしょうか。
 アルバムはアイト・メンゲレット,マトゥーブ・ルーネスなどの曲を含む11曲で,ムース&ハキムは「レ・モティヴェ」や「100%コレーグ」などのアルバムと同じようにアコースティック・バンドで,この歌の数々をまさにカフェで友人たちと唱和しながら演奏するようなスタイルでレコーディングしています。アコーディオン,ギター,マンドーラ,ネイ,ダルブーカなど,総勢10人のメンバーでプレイされ,私のダチのセルジュ・ロペス君もギターで参加していて,サウンド・エンジニアリングとプロデュースにゼブダのレミ・サンチェスの名前も見えます。
 ラシッド・タハ『ディワン』2作にも通じる,彼らの父たちへのリスペクトです。ホームシック・ブルースは湿るよりも,みんなでわいわい歌った方がいいに決まっているのですが,この哀感はいつか笑顔に変えたいですね,変えられるものなら。

<<< トラックリスト >>>
1. AZGAR (Slimane Azem)
2. Into ADIEU LA FRANCE
3. ADIEU LA FRANCE (Mohamed Mazouni/Ahmed Soulimane)
4. TELT IYYAM (Ait Menguellet)
5. Maison Blanche (Cheikh el Hanaoui)
6. Intro LA CARTE DE RESIDENCE
7. LA CARTE DE RESIDENCE (Slimane Azem)
8. GATLATO (Djamel Allam)
9. BAHDJA BEIDHA (Dahmane el Harrachi)
10. CHEHILET LAAYANI (Abdelhakim Gourami - populaire chaabi)
11. ABRID (Matoub Lounes)
12. INTAS MA DYAS (Cheikh el Hanaoui)
13. ANFASS (Cheikh Arab Bouyazgaren / traditionnel)

CD ATMOSPHERIQUES/TACTIKOLLECTIF
フランスでのリリース:2007年10月22日

2007年10月26日金曜日

リュックス・Bの不在



 今夜はエリゼ・モンマルトルでマッシリア・サウンド・システムのライヴでした。
 このライヴは日本の雑誌から原稿依頼が来たので、真剣に見ましたが、3年前にバタクランで見た時との大きな違いは「ワールド風味」がごっそり抜けてしまった感じで、ダンスホール・スタイル(サウンドシステム)の基本に還ったような、MCはノセノセにすること(「ワイ」をぶちまけること)に専念する見事な展開でした。タトゥーとジャリは年寄りなので、交替で休んでいた感じでしたが、ガリはひとりで出っぱなしでワイをぶちまけていました。
 終わり近くになってからガリが「ワイスターの俺の兄弟、リュックス・B」のために「アイオリ〜〜〜!!!」と会場全部を大合唱させたので、そう言えばマッシリアの4人のMCのひとりリュックス・Bがいないことに気がついたのでした。リュックス・Bはアルバム『ワイと自由』の録音にも参加していません。ガリの説明によると、リュックスは喉の病気にかかってこの6月に手術したのだそうです。それでアルバムにも今度のツアーにも参加していないのだそうです。
 さあこの週末はこの原稿書きですね。

2007年10月25日木曜日

ミュラの声にはアプサント効果が...



 ジャン=ルイ・ミュラ『シャルルとレオ - 悪の華』
 Jean-Louis Murat "CHARLES ET LEO - LES FLEURS DU MAL"


 シャルル・ボードレール(1821-1867)の詩集『悪の華』に,レオ・フェレ(1916-1993)が曲をつけたものを,ジャン=ルイ・ミュラ(1952- )が新しい編曲で歌った12曲のスタジオ録音CDと,ドニ・クラヴェゾルのピアノとミュラのヴォーカルのデュオによる14曲(ボードレール詩/フェラ曲)のライヴDVDのセットです。
 聞く前に構えてしまいますよね。高踏で衒学的な文芸シャンソンが展開されるのではないか,と。それはボードレールですからポップソングとはまるで違ったもので構わないのですが,突き放されるのを覚悟して聞くとCDの第一音が始まるやいなや,ふ〜っと緊張が抜けて,いつものミュラの声の詩を愛撫するような歌い込みに引き寄せられ,酔い心地が始まっていきます。
 これは酔いのアルバムです。文学の人たちじゃなくても,この酔いは絶対に共有できます。聞き始めたらアルバムはあっと言う間に終わっています。もう一回初めから,と思うに違いありません。この酔いは曲と曲の違いをわからなくしてしまいますから。

<<< TRACK LIST CD >>>
1. SEPULTURE (BAUDELAIRE/FERRE)
2. AVEC SES VETEMENTS ONDOYANTS ET NACRES (BAUDELAIRE/FERRE)
3. LA FONTAIRE DE SANG (BAUDELAIRE/FERRE)
4. L'HEAUTONTIMOROUMENOS (BAUDELAIRE/FERRE)
5. L'HORLOGE (BAUDELAIRE/FERRE)
6. LE GUIGNON (BAUDELAIRE/FERRE)
7. MADRIGAL TRISTE (BAUDELAIRE/FERRE)
8. LA CLOCHE FELEE (BAUDELAIRE/FERRE)
9. L'EXAMEN DE MINUIT (BAUDELAIRE/FERRE)
10. BIEN LOIN D'ICI (BAUDELAIRE/FERRE)
11. JE N'AI PAS OUBLIE, VOISINE DE LA VILLE (BAUDELAIRE/FERRE)
12. A UNE MENDIANTE ROUSSE (BAUDELAIRE/FERRE)

CD+DVD V2 MUSIC VVR1048802
フランスでのリリース: 2007年10月

2007年10月21日日曜日

欧州深部のクィンシー・ジョーンズ

エミー・ドラゴイ&ジャズ・ホット・クラブ・ルーマニア『エトゥノ・フォニア』
Emy Dragoï & Jazz Hot Club Romania "Etno-Fonia"
麻雀用語にしたいような名前ですね。エミー・ドラゴイは1976年生まれですから、31歳の若造です。ルーマニアのツィガーヌの音楽一家に生まれ、アコーディオンはガキの時分から父親からみっちり仕込まれています。1996年20歳でフランスに移住して,パリでジャズ・ピアノを学ぶ一方,アコーディオニストとしてロシア東欧系の楽団,ジャズバンド,マヌーシュ・スウィングバンドなどでプレイして,その世界最速級のテクが注目されていきます。マルセル・アゾラ,ダニエル・コラン,ジャン・コルティなどの仏アコーディオンの巨匠たちや,チャヴォロ・シュミット,ドゥードゥー・キュイユリエ,フローラン・ニクレスクなどのマヌーシュ・スウィングの達人らと共演して,その技が磨かれていきます。CDは既に2枚リーダーアルバムを出していますが,マヌーシュ・スウィングのバンド「ラッチョ・ドローム」のアコーディオニストでもあります。 そしてシャンゼリゼのロシア・キャバレーとして名高い「ラスプーチン」で2年間バンドマスターとしてステージをつとめています。私の見方では,何よりもこの「ラスプーチン」体験がドラゴイ君の客サービス精神を培ったのではないか,と思っています。「ラスプーチン」はずいぶん前に一度行ったことがありますが,シャンゼリゼという場所柄,諸外国の観光客や地方のお登りさんやロシア&東欧のディアスポラといった客層で,ノリの悪いお客さんたちを乗せるにはいろいろと苦労がありましょう。高級ぶったり,お芸術っぽくしたら客はそっぽ向きますから。客サービスを常に考え,通俗的であることに徹しないといけません。その苦労はいつかは報われませんとね。
 このCDはジャンゴ・ラインハルトゆかりの「ホット・クラブ」を名乗っているので,アコーディオンによるオーソドックスなマヌーシュ・スウィングを予想される方が多いでしょう。はずれです。また,レーベルが「ルーマニア・トラッドをベースにしたヴィルツオーゾによるアコーディオン・ジャズ」のように宣伝しているので,そのつもりで聞く人たちもいるでしょう。はずれです。
 この品格ありそうで折り目正しそうなモノクロ写真のジャケにも関わらず,このアルバムは通俗性に徹し,サービス精神あふれる,超カラフルな東欧キャバレー・アルバムです。エミール・クストリッツァ監督がボリウッド映画をつくったようなおもむきです。世界最速級(具体的にどの程度かと言うと,リムスキー・コルサコフ『熊ん蜂の飛行』が倍速から4倍速で演奏できるテクです)のアコ奏者とツィンバロム奏者とキーボディストとギタリストが集まって,あれもできる,これもできる,という芸を客席に向かってにっこり微笑みながら披露する,というけれんみとはったりの連続ショーを想像していただければいいでしょう。しかもシンフォニックにストリングスや女声コーラスも混じり,ミッシェル・ルグランのミュージカル音楽顔負けの盛り上がりの山と谷を展開したり,アストル・ピアソラのドラマティカルなハーモニー使いを援用したり,カスケード・ストリングスとティンパニーなどを重厚に重ねたウォール・オブ・サウンドでボレロをしてみたり。パヴァロッティ風なベルカントのヴォカリーズが出て来たり,エコーを利かせたバグパイプで風景をケルト北海ものに変えてみたり,沖縄スタイルレゲエが出たり,東欧マライア・キャリーのこぶしソウルヴォーカルがあったり,ジャコ・パストリウス風のボンボン鳴るベースが来たり...。高級な耳の人たちには嫌われてもしかたのない,チープな電子キーボードの音や,ムード音楽展開のストリングスや,お涙ちょうだい型の東欧叙情のピアノ・インプロはありますが,こういう通俗性が私などにはびしびし来るものがあります。次々に出てくるアコーディオンとツィンバロムの世界最速プレイだけでも,おひねりをばんばん投げたい気持ちになります。
 ルーマニアのクラシック作曲家グリゴラシュ・ディニク(1889-1948)の作品に幕をあけ,リムスキー・コルサコフの「熊ん蜂の飛行」で終わる11曲。タラフ・ド・ハイドゥークスが最新作でやはりルーマニアのクラシック作品を取り上げていますが,たぶんドラゴイ君の方がハチャメチャだと思います。ドラゴイ君のオリジナル曲が3曲で,残り6曲はルーマニア民謡が原曲です。これをけれん&はったり&サービス精神のいっぱい詰まった編曲で,大仕掛けでシンフォニックな通俗キャバレー風ボヘミアン・ラプソディーに変えてしまったドラゴイ君のアートは,欧州深部のクィンシー・ジョーンズとでも称したい快挙です。
<<< トラックリスト >>>
1. HORA MASRISORULUI (G DINNICU)
2. ETNO FONIA (EMY DRAGOI)
3. BARBU LAUTARU (TRAD arr. EMY DRAGOI)
4. MOCIRITA (TRAD arr. EMY DRAGOI)
5. BOHEMIAN SWING (EMY DRAGOI)
6. BLESTEMAT SA FI DE STELE (TRAD arr. EMY DRAGOI)
7. FOIE VERDE TREI SMICELE (TRAD arr. EMY DRAGOI)
8. PE DEAL PE LA CORNATEL (TRAD arr. EMY DRAGOI)
9. NOSTALGI GYTAN (EMY DRAGOI)
10. SANIE CU ZURGALAI (TRAD arr. EMY DRAGOI)
11. ZBORUL CARABUSULUI 熊ん蜂の飛行(R KORSAKOV)- CIOCARLIA (TRAD arr. EMY DRAGOI)


CD FREMEAUX & ASSOCIES / LA LICHERE LLL324
フランスでのリリース:2007年10月29日


(↓)Etno Fonia


 

2007年10月15日月曜日

獄入り意味多い



 ノワール・デジールのヴォーカリスト,ベルトラン・カンタが明日釈放されます。
 2003年7月リトアニアで当時の恋人マリー・トランティニャンと口論の末,カンタの殴打によって転倒したトランティニャンが脳を打ち,それが直接の原因で死亡した事件で有罪となり,リトアニアで8年の懲役の判決,まずリトアニアで服役したのち2004年9月から南西フランスのミュレ(トゥールーズ近郊)監獄に移送されて刑務をつとめていました。刑期8年のうち,半分を終えた時点で,服役者はその刑務態度などを判事に判断してもらい,条件付き出獄を申請することができます。カンタの担当判事はこれを受理し,晴れて明日10月16日,シャバの空気を吸うことができるようになりました。
 マリーの母親ナディーヌ・トランティニャンは,この条件付き出獄にはじめから反対の態度を示し,「女性に対しての死に至らしめた暴力」の重大さを再考して仮出獄申請を拒否するように,という手紙を大統領ニコラ・サルコジに書き送っていました。
 インターネット版のリベラシオン(10月15日)に載ったカンタの弁護士オリヴィエ・メツネールの言によると「彼が音楽活動を再開するかは定かではない」としています。
 獄入り意味多い。歌はともかくとして,とりあえず獄中日記のような本がとても読みたいです。ベルトラン・カンタが何を黙考していたか,とても知りたいです。

2007年10月13日土曜日

空の上でダイヤモンドを持っているルーキ



 パトリック・モディアノ著:『失われた青春のカフェ』
 Patrick Modiano "DANS LE CAFE DE LA JEUNESSE PERDUE"


 リという都市の区々の顔がもっともっとはっきり違っていた時代の小説です。舞台となっている60年代にはセーヌ右岸と左岸という大きな違いだけではなく、例えばモンマルトルの丘の上と下で人々の言葉使いも服装も違っていた、というようなことです。だからその街区から出て違う街区に移動するということが、国境を渡るようなドラマでもあったりします。一歩その境を踏み越えただけで、ずいぶん遠いところに来たようなセンセーションがあります。その一方で特徴的な街区と別の特徴的な街区に挟まれた、あまり性格のはっきりしない中間地帯もあります。作中人物のひとりがこれをニュートラル・ゾーンと呼んで、宇宙のブラックホールに例えています。なぜならこの中途半端で個性のない地帯は時間と共に徐々に増大していって、やがては街区や町全体を呑み込んでしまう、つまり町全体が性格のないニュートラルなものになってしまいつつあるからです。
 60年代の初め、パリ6区オデオン界隈にあったカフェ「ル・コンデ」には明日のことなど考えない文学/芸術系の若者たち(アズナヴールの歌ではないですが)いわゆるボエームたちがたむろしていました。カフェの女主人が後年「迷い犬のような」と回想する若者たちですが、議論とアルコールと前衛の空気を求めていつしかそのカフェの常連になってしまいます。彼らは偽名で呼び合い、住所や職業や学校名はたぶん偽りのもので通していますが、それはこのカフェが実生活と離れた別空間であり、彼らが別人物を演ずる舞台のように思っているからです。(現在、人々はそれをインターネット上でヴァーチャルに"カフェ"化した空間で行っていますが、60年代にはカフェが本当のカフェだったわけです)。その中にある日、ひとりの美しく若い女性が入ってきます。最初場違いのような印象を与えたこの女性はしだいにその空間に慣れていき、ある日常連のひとりがみんなの前で高らかに「きみの名前はルーキだ、きみはこれから自分をルーキと名乗るのだ」と命名します。こうして新常連ルーキはこのカフェの風景を構成するジグソーパズルの一片となったのです。
 小説はこのルーキと呼ばれた22歳の女性の記憶を、4人の話者が綴っていく構成で展開します。4人の証言はすべて一人称体の文で書かれ、読むものに最初誰が「私」なのかを戸惑わせることになります。最初の話者は、ル・コンデの常連の学生で、ルーキに密かな思いを寄せながら、ずっとカフェで彼女を観察していた、4人の中ではもっとも客観的でニュートラルな視点の語り口で、このカフェに集まる群像の描写を交えながら、自分の未来はこの場所にはないと悩みながらの文体は「失われた青春のカフェ」という題に最もふさわしい回想録です。
 二人めの話者は、ルーキと呼ばれた女性の実人生での姿であるジャクリーヌ・シューロー(婚前名ジャクリーヌ・ドランク)の夫から、妻ジャクリーヌの失踪について調査を依頼された私立探偵ケスレーで、美術出版者を偽称してル・コンデに探りに入ります。このケスレーの証言によってルーキがどのような過去を持った女性なのかがはっきりしてきます。モンマルトルの丘の下に、キャバレー・ムーラン・ルージュの従業員として働く母と一緒に暮らしていた少女ジャクリーヌは、14歳で既に20歳以上に見られる大人っぽさがあり、2度「未成年者彷徨」で警察に補導されていました。母の死後、秘書として働いていた職場の共同経営者のひとりで倍ほども歳の違うジャン=ピエール・シューローと結婚しますが、1年後にパリ西郊外の高級住宅街ヌイイにあるシューローの家から姿を消しています。ホテルを住処として、何度かホテルを移り、やがてルーキはル・コンデに辿りつきます。
 三人めの話者はルーキ自身、つまりジャクリーヌ・ドランク自身です。父不明の私生児として生まれたジャクリーヌは、夜から未明までムーラン・ルージュで働く母の不在をよいことに、少女の頃から隠れて夜の町を徘徊する癖がついていました。そしてジャクリーヌはモンマルトルの上と下のすべてを知り、そこから境界を抜けて西へ西へと行こうとします。その名状しがたい越境願望が、二度にわたって補導事件を起したわけです。モンマルトルには母に言えなかった交友関係もあり、カフェの裏側の不透明な人々との抜けられない関係からも彼女は逃避を企てます。彼女の人生はすべて逃避です。母から逃げ、モンマルトルの暗部から逃げ、夫から逃げ、そしてル・コンデに逃げ込むのですが、そこからも逃げ出さなければならない日が来るのです。
 四人めの話者はルーキと同い年の男で、その当時はロランと呼ばれていたボエームで、モディアノの前作『ある血統 Un pedigree』で自伝的に描かれていた、小説を書く前の複雑な父母関係に翻弄されていた頃の作家と同一人物と見ることができるでしょう。ロランもやはり育った家(セーヌ河岸の大アパルトマン)を逃れて、ホテルを転々として生きる青年で、ある書店で紹介された隠遁知識人ギ・ド・ヴェールのプライヴェート読書会に参加したことでルーキと知り合っています。過去から逃げようとしている同じような二人は、お互いに同じ波長を感じ、同じホテルの同じ部屋に住むようになり、ホテルを転々とするようになるのです。パリはこの二人にはさまざまな境界線があり、それを一人ずつで越境してきたのですが、似た者二人はそれを一緒にするようになるわけです。二人はパリ中を徒歩で横切って行きます。この道行きを描くモディアノの筆は、区々が持つさまざまなミステリーと暗く曖昧な輪郭をなぞっていく、墨絵のような美しさです。毎度のことながらモディアノの描くパリは、ドワノーの写真を暗室で見るような思いがします。
 何におびえて、何から逃げているのか。ルーキのそれは結局誰にもわからないのです。越境しても越境しても、その次に越えるべき境界線が見えてきます。それを越えるために、ある日ルーキはホテルの窓から身を投げてしまいます。

 胸が締め付けられる小説です。最後は目の前が白くなりました。「モディアノ・タッチ」のたちこめるうす闇の文体はこの小説では四者四様で、ひとつのテーマの4つのヴァリエーションとなりながら、全体像は絶対にはっきりとは見えないのです。この中に入ったら誰も抜けられないような魔力です。
 なぜ逃げるのか、何から逃げるのか、ということをある種の青春の病いと見る人もいるかもしれません。自覚症状のある人は、自分はいつから逃げなくなったのか、いつから逃げるべき対象を失ったのかを思い出してみましょう。

 Patrick Modiano "Dans le cafe de la jeunesse perdue" (Gallimard刊 2007年10月4日 150頁  14.50ユーロ)

2007年10月12日金曜日

俺のDNAに手を出すな(Touche pas a mon ADN)





 サルコジが選挙公約としていた移民対策専用の省庁が5月に創設され,その初代担当大臣となったブリス・オルトフーによる新しい移民法案が出され,そこにヴォークルーズ県選出の保守UMP党議員ティエリー・マリアニが修正案として,移民労働者の家族呼び寄せの不正(家族と称して他人を呼び寄せる)を防止するために親子関係を証明するために家族呼び寄せ申請者にDNAテストを義務づける,という条項を追加します。下院上院とも絶対多数議席を持つUMP党はこれを両院で通過させようとしますが,UMP党内にもこのマリアニ修正案に疑問を抱く議員があり,特に上院ではこの修正案が何カ所も項目を削られたものの,DNAテストは残りました。下院→上院→下院と戻ってきたこの修正案はこのまま可決されそうな情勢ではあります。しかし,私たち移民/外国人居住者たちだけではなく,多くのフランス人たちもこのDNAテスト法案に反対しています。
 週刊紙シャルリー・エブド,日刊紙リベラシオン,市民団体SOSラシスムが共同で10月3日からこの法案に反対する署名運動を始めました。http://www.touchepasamonadn.com スローガンは "TOUCHE PAS A MON ADN"(私のDNAに手を出すな)。1週間で12万人の署名が集まり,私たち家族も昨日署名しました。
 なぜ私たちがこのDNAテスト法案に反対するのかという理由はたくさんあります。まず外国人の居住権をDNAで決定するということ自体が問題だと思います。住む権利とDNAに因果関係はあってはならないと思います。次に外国人の親子関係をDNAで決定するという考え方です。フランス人の親子関係はDNAテストで証明されるものではありません。出生を役所に届け出を出し,その母欄と父欄に名前を登録した者がその子の父母です。その際DNAテストは要求されません。それがどうして外国人にだけ要求されるのですか?
 DNA検査の結果,遺伝子縁が認められなかった子供はその父母の子供ではないのですか?それは基本的な個人の自由の範疇に属する問題ではないのですか? 養子や連れ子やその他複雑な事情のある親子関係というのは外国人にはあってはならないという考え方ですか?
 これまで犯罪捜査に使うことは許されていたこのDNA鑑定が,外国人の,しかも合法居住者(!)の家族呼び寄せ申請の審査に使われるということの裏には,外国人を最初から疑っている差別意識と排外意識がはっきりと見えるではないですか。
 そしてこれは外国人だけでなくフランス人にとっても重要な問題です。この法案は国家行政による住民管理に初めてDNAという管理方法を導入したものだからです。これが認められれば,次々にDNAによる国民管理が出てくるでしょう。サルコジは将来的な凶悪犯罪者を未然に防ぐために,幼児期にDNA鑑定をして凶悪犯罪者の遺伝子胤のある者を発見してしまおう,という考えを大統領選挙キャンペーン中に公言しています。幼稚園入学時のDNAテストや,公務員(特に警察と軍隊)採用時のDNAテストといったものも出てくるでしょう。
 私はこの法案にひとりの外国人居住者として反対します。反対署名者は野党議員や市民団体や左翼系知識人や移民出身アーチストたちだけではなく,前首相(保守UMP党)ドミニク・ド・ヴィルパン,元大臣(中道保守UDF党)フランソワ・レオタール,詩人エーメ・セゼール,ベルギー人作家アメリー・ノトンブ等の名前が見えます。音楽アーチストではアケナトン(I AM),ベナバール,カリ,ジャンヌ・シェラル,ティケン・ジャー・ファコリー,トマ・フェルセン,マニュ・ディバンゴ,マリアンヌ・ジェイムス,ルノーなど,映画演劇人では女優イザベル・アジャーニ,ジャンヌ・モロー,ミッシェル・ピコリ,先日このブログに書いたフェラーグなども署名しています。
 10月14日(日曜日)18時から,パリのゼニットでマリアニ修正案撤回要求の集会が開かれます。出演者としてレ・テット・レッド,ティケン・ジャー・ファコリー,ベナバール,ルノー,イザベル・アジャーニ等の名前が上がっています。私は社会党第一書記フランソワ・オランドと哲学者ベルナール・アンリ・レヴィーの話を聞きたくないので,行かないと思います。それでも,多くの人たちが集まって大きな反対の声になるよう願っています。がんばろう!
 

2007年10月10日水曜日

「天国の楽士」とコクトーは讃えた



 フランク・プゥルセル『フランク・プゥルセル・オリジナルズ VOL.1』
 Franck Pourcel "ORIGINALS FRANCK POURCEL VOLUME ONE"


 昨夜はサン・ジェルマン・デ・プレの寿司屋「築地」で,久しぶりにおいしいおさかな,おいしいお寿司,おいしい冷酒でした。さすがはサン・ジェルマン・デ・プレの本格寿司でありますな。お相手は名刺に「ムードミュージック・コーディネイター」と銘打ってある坂井さんでした。坂井さんとは氏がかつて目黒のレコード会社に勤めていた頃からの付き合いで,独身の身軽さをいいことに年に1〜2度,ヨーロッパ各地を回って趣味の楽団音楽のレコードを買って回るという,ムード音楽コレクターではおそらく日本でトップクラスにある方だと思います。氏がフランスで買い付けたレコードを私の会社が預かって再梱包して,日通ペリカン便で発送してやる,というのが私の友情の証しでして,それに対してパリの日本料理屋で好きなだけ飲み食いをおごってやる,というのが氏の友情の証しです。美しい関係です。
 フランク・プゥルセル(1913-2000)は生前に2000曲を越える録音をしておりますが,エキスパート坂井さんはそのオリジナル盤,編集盤,フランス盤/米盤/独盤/日本盤/その他外国盤のすべてを蒐集しつつあるプゥルセルの大ファンであります。しかし全米ヒットとなる『オンリー・ユー』(プラターズのカヴァー)の1959年前の録音というのは,なかなかお目にかかることができないものだそうで,CD化もほとんどされていないようです。
 その坂井さんに「こういうCDが出るんだぞぉぉ!」とお見せしたのがこれ。とたんにおさかなもお酒も急においしくなったのでした。「これはすごいっ!」というわけです。日本で涙を流す人たちはたくさんいる,というものらしいです。
 戦前はヴァイオリニストとしてイヴ・モンタンやリュシエンヌ・ボワイエの伴奏者であったプゥルセルは,自分のフルオーケストラを持つことが夢でしたが,その夢は1950年に実現するものの,フランスのレコード会社がどこも契約してくれず,52年にプゥルセルは40人の楽団員を連れてアメリカに移住します。そこで"フレンチ・フィドラー"とそのオーケストラは徐々に名が知られるようになり,その名を聞きつけた初レコーディングの申し出は皮肉にもフランスのプロデューサーからやってきます。アメリカの楽団と思ってパリに呼び寄せたら,フランス人だったという笑い話ですが,フランク・プゥルセルと彼の楽団は1952年秋,仏レコード会社デュクレテ・トムソンに記念すべき第一回録音を果たします。それが「ライムライト」(チャップリン作)と「ブルータンゴ」(リロイ・アンダーソン作)でした。
 このCDは,この「ライムライト」に始まるフランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの最初期の録音を1956年の「秋のコンチェルト」まで年代順に25曲収録しています。監修はフランク・プゥルセルの娘フランソワーズ・プゥルセルが行っていて,正規権利継承者のスーパーヴァイズによってやっと実現したオフィシャルなオリジナル録音リマスター復刻盤というわけで,これが「ヴォリューム・1」となっているからには「2」も「3」も出て行くということなのでしょう。
 ムード楽団指揮者ではポール・モーリア(プゥルセルと同じマルセイユ人)とレイモン・ルフェーブルがピアニストであるのに,プゥルセルはヴァイオリニストですから,その弦楽芸がとりわけものを言うわけです。それは過去においてフレンチタッチ系のDJ諸氏によってサンプルしまくられたのですが,娘フランソワーズはそのことをむしろ誇りに思っていて,今日にもなお若い人たちを刺激できるストリングスアートとなっていることを喜んでいるようです。私もそういう毒にちょっと感染したのか,このCDを聞きながら,この部分のストリングスをいただいて切り貼りしてこういう使い方をしたら....なんていうことを考えてしまった箇所がいくつかありました。いけないリスナーですね。
 「ムーラン・ルージュの歌」,「私の心はバイオリン」,「ポルトガル洗濯女の歌」(アンドレ・ポップ作),「モンマルトルの哀歌」,「枯葉」,「アンチェインド・メロディー」,「ストレンジャー・イン・パラダイス」.... それはみんな耳に親しいメロディーでも,ストリングスの甘美もあり哀愁もありの浮遊感は元祖・名人の巧によるものです。以前の本の中でエリック・セラの映画音楽「グラン・ブルー」に触れて,眠くなるのも音楽効果のひとつである,みたいなことを書きましたが,このストリングスも睡くなってしまうセラピー効果はあると思います。天国的なるものは薄目でしか見えないものでしょうに。
 「オンリー・ユー」で世界的に有名になるのは1959年のこと,かの「ミスター・ロンリー」(日本のFM番組『ジェット・ストリーム』テーマ)は1964年の録音でまだまだ先のことです。このザ・フレンチ・フィドラーのアートが,この「オリジナルズ」コレクションで愛好者の諸姉諸兄を涙させ,門外漢諸氏をうたた寝させ,若いDJ君たちにネタをたくさん提供し.... それぞれの道で愛されることになりましょう。

<<< Track list >>>
1. LIMELIGHT (CHAPLIN) 1952
2. BLUE TANGO (ANDERSON) 1952
3. MOULIN ROUGE (AURIC-LARUE) 1953
4. WONDERFUL COPENHAGEN (LOESSER) 1953
5. GRISBI BLUES (WIENER) 1953
6. MON COEUR EST UN VILON (LAPARCERIE-RICHEPIN) 1953
7. EN AVRIL A PARIS (TRENET) 1954
8. MEA CULPA (GIRAUD) 1954
9. COIN DE RUE (TRENET) 1954
10. UN JOUR TU VERRAS (VAN PARYS) 1954
11. C’EST MAGNIFIQUE (PORTER) 1955
12. AVEC CE SOLEIL (PH GERARD) 1955
13. THE PORTUGUESE WASHERWOMAN(POP) 1955
14. COMPLAINTE DE LA BUTTE (VAN PARYS) 1955
15. LE MAMBO DE MON REVE (CONDE) 1955
16. SOUS LES PONTS DE PARIS (SCOTTO) 1956
17. LA VIE EN ROSE (PIAF – LOUIGUY) 1956
18. LES FEUILLES MORTES (PREVERT – COSMA) 1956
19. MADEMOISELLE DE PARIS (CONTET-VAUDRICOURT) 1956
20. SOUS LES TOITS DE PARIS (MORETTI-NAZALLES) 1956
21. UNCHAINED MELODY (NORTH – HY) 1956
22. MERNANDO’S HIDEAWAY (ADLER-ROSS) 1956
23. STRANGER IN PARADISE (WRIGHT – FORREST) 1956
24 ARRIVEDERCI ROMA (PASCAL – GARIEI – GIOVANNINI) 1956
25. AUTUMN CONCERTO (BARGONI) 1956

CD EPM 986232
フランスでのリリース:10月15日

2007年10月7日日曜日

セシル・カストールの作品・2



 9月1日に発表した娘の創作ストーリー『リラのヴァカンス Les vacances de Lilas』の第2ヴァージョンがやっと届きました。だいぶ変更があり、その間の読書体験が効いているのか、ずいぶんとこなれてきたように思います。タイトルも変わって『リラの初めてのときめき Le premier emoi de Lilas』になりました。ときめきのストーリーですが、いろいろと無理があるところに目をつぶってお読みください。原文はフランス語です。日本語訳は爺です。

 『リラの初めてのときめき』 ー 文:セシル・カストール

 その日、母は何度も私に「コロニー(ヴァカンスの集団旅行)ではちゃんと食べるのよ」と言った。引率者が参加する子供たちの名前をアルファベット順に呼んだ。私は両親と妹にさよならを言った。私がバスに乗ると、ひとりの少女が自分の隣に坐るように私に合図していた。バスの奥に進む途中、私はひとりの可愛い男の子がいるのを見た。バス旅行中、私はそのローラという少女と知り合いになった。彼女はブロンドの髪で緑色の目をしていてとても感じがよかった。
 目的地についたら、それは巨大なシャレーだった。もちろんそれは40人もの人間を収容できるのだからあたりまえかもしれない。私とローラは同室になった。他の女の子たちは、緑色の目で栗色の髪をしたマノン、青い目でブロンドの髪をしたクロエ、黒い目で褐色の髪のマリオン、茶色の目で栗色の髪をしたシャルロットだった。部屋に入ると、そこには2台のシングルベッドと2台の二段ベッドがあった。とても広い部屋だったが、壁はゲッとなりそうなローズ・ボンボンのピンク色で塗装されていた。私は窓に近づいて行き、そこから広がる大きな森と素晴らしい山々を見た。女の引率者が入ってきて私たちに食堂に行くように言った。私とマノンが新入りなので、彼女は私たちに自己紹介をした。「こんにちわ、私の名前はセシルよ。みんなのように私のことをセセって呼んでもいいのよ」。
 夕食時間になって私は食堂へ向かって、自分たちのテーブルについた。そして私はマリオンに「あそこの男の子はなんていう名前なの?」と聞いた。彼女は「ジョスランよ」と答えた。ジョスランは私たちのテーブルに寄ってきて、私たちにあいさつをし、私のことをじっと見つめた。私は食べるのを続け、ジョスランを見ずに他のテーブルを見ていた。
 愛称をステフという男の引率員ステファヌが「さあ、子供たち、夜更かしの時間だよ」と言った。ステフは私たちにその日のイベントを言う人で、今夜は夜更かしの会で、「狼男」のゲームをして遊んだ。そして私たちは部屋に帰り寝床に入った。セセが灯りを消したあと、私たちはこそこそ話を始めた。
 次の朝は私の部屋の子たちと他の女の子の部屋の子たちでチームを作りフットボールの試合だった。私たちはステフの試合開始の合図を待っていた。「さあ時間だ、始めていいぞ」とステフが言った。午前の活動が始まり、その終了時にクロエは「勝った、勝った!」と叫び声を上げた。クロエは私たちのチームの一員だった。
 「昼食の時間だから食堂へ」とステフは2回も大声で告げた。私たちは食堂へ行ったが、ジョスランの姿が見えなかった。ジョスランの仲間たちが私たちに自己紹介をした。ポールは褐色の髪で青い目をしていて、トマは褐色の波打つ髪で黒い目をしていて、その弟のミッシェルは青い目と栗色の髪で、マチューは栗色の髪に栗色の目で、ジョルダンはブロンドの髪に青い目をしていた。こうしてみんなと知り合いになれたので、私たちはひとつのグループになり、みんな一緒に食事するようになった。
 セセが来て言った「今日の午後は男の子たちと一緒にフットボールよ」。「素敵!これでもっと良く知り合いになれるんじゃない?」とマリオンはとても満足そうに言った。と言うのは彼女はミッシェルのことを気に入っていたから。午後、セセがチーム分けをして、私は偶然にも彼と一緒だった。
 しばらくしたある日、セセが私たちに「明日はみんなの両親がここを訪問する日だから、部屋をちゃんと片付けておきなさいよ」と言った。その日の夕食にはステフが「さあ食事を召し上がれ、明日はきみたちの両親が来るっていうことを忘れないで」と言った。
 その次の日、私はとても浮き浮きして入り口のところに向かっていった。その時ジョスランが私の方に歩いてきて「家族がきみに会いに来てくれるのでうれしいのかい?」と言った。私は「ええ、とても興奮しているわ。あなたは?」と答えた。「僕の両親は今オーストラリアにいるんだ。この一日のために来るわけにはいかないよ」とジョスランは言った。私は両親の車を見つけ、満面の笑みで車に走り寄って行った。
 その1週間後、その夜はラ・ブーム(ダンス・パーティー)が予定されていた。その朝ジョスランが私の方に寄って来て「今夜、僕と一緒に踊らないかい?」と言った。「もちろん、喜んで!」と私は答えた。
 その午後、みんなで海辺へ行った。みんなでビーチ・バレーやビーチ・フットをして遊んだ。最高に楽しかった。夕方、みんなそれぞれ部屋に帰り、ラ・ブームの身支度をした。クロエとマリオンはほとんど似たような服装だった。そして夜がやってきて、私たちがホールに入って行ったら、そこには大きなビュッフェがあり、その隣にDJセットがあった。みんな最高に決まった服装をしていた。
 激しいダンスのあとスロー曲が始まり、ジョスランが私の方にやってきて、ダンシングピストに誘った。私たちは目と目で見つめ合い、彼の顔が私の顔に近づいてきた。そして彼は私に接吻した。私は信じられなかった。でも素敵だった。曲が終わり、私はローラ、マノン、マリオン、シャルロット、クロエの方に戻って行った。彼女たちは彼が私に接吻したところを見ていたのだ。ラ・ブームの間中、彼女たちはそのことばかりをしゃべっていて、私の顔はどんどん赤くなっていった。
 次の日はシャレーの滞在が終わる日、朝私は旅行カバンに荷物を詰め、時間があったのでジョスランに会いに行った。
 そしてバスが来て、この旅行の初めの時のように引率員が私たちの名前をアルファベット順に呼んだ。
 バスが帰路につき、みんなの両親の待つ場所についた時、私は妹の姿がないのに気がついた。私は両親に「妹はどこなの?」と聞いたら、母は「友だちのところに行っているのよ」と答えた。私はヴァカンス友だちの方を振り向いて「女の子たち、また会おうね、さようなら。ジョスラン、さようなら、キスを送るわ! みんなにもキスを送るわ! さようなら!」と言って別れた。そしてまた両親のところに行って「ママン、パパ、帰ってきてうれしいわ」と抱きついた。
 新学年が始まり、私を待っていたのは...。ジョスランがなんと私と同じクラスだった。なんて素敵なこと。彼は授業中ずっと私の隣にいる。いつかきっと私は彼とデートできるでしょう。

- Fin -

2007年10月6日土曜日

おゔぁりのない夜



 パリ市長ベルトラン・ドラノエの発案で始まった恒例の「ニュイ・ブランシュ」(「白い夜」直訳すると徹夜なんですが、夜通し夜明けまでパリ市内の美術館やアートギャラリーやアトリエなどで、エクスポやパフォーマンスやインストレーションやコンサートが行われる、アート的な夜明かしの一夜)が行われる今夜、ラグビーのW杯準々決勝、ウェールズのカーディフが行われたフランス対オールブラックス(ニュージーランド)戦で、勝つ確率は2割と言われていたフランスが勝ってしまいました。今、わが窓の外側ではクラクションと"On a gagne"(オンナガーニェ!)の大合奏が聞こえています。
 今晩パリの夜はお祭りです。「ニュイ・ブランシュ」イヴェントのために既に地下鉄が夜通し運転されるようになっているので、町に繰り出す人たちは多いでしょうね。今夜はわが家に娘の友だちのシャルロットが泊まりに来ていて、もうパジャマ姿で寝る体勢に入っているので、これから出かけるのは難しいでしょうね。今宵パリは甘美な夜でしょう。悔しいなあ、出て行けないなんて.....。

2007年10月2日火曜日

歌ってクレヨン



 アメリー・レ・クレヨン『ペン軸』
 AMELIE-LES-CRAYONS "LA PORTE PLUME"

 もともとフランス語が原語ですけど,フランス語の crayon は日本語で言うクレヨンのことではなく,鉛筆のこと。だからアメリーさんのことを「くれよんアメリー」と紹介したら誤解になるんですね。「えんぴつアメリー」となります。私はこの les crayonsという複数形を拡大解釈して,たくさんの鉛筆だから色鉛筆ととってもいいんじゃないか,と思います。「色えんぴつアメリー」。カラフルな女性ですから,これでだいぶイメージが近づいてきました。
 アメリー・レ・クレヨンはリヨン出身の女性シンガーソングライターで,これが2枚めのアルバムになります。2001年のジャン=ピエール・ジュネ映画『アメリー・プーラン』以来,アメリーと名のつくアーチストたちはみんなかの映画のあやかりであろう,という嫌疑をかけられるのですが,あの周りの人たちをすべて幸せにしてしまう少女アメリー・プーランのイメージは,この「色えんぴつアメリー」と無縁ではありまっせん。たぶんこの女性の歌を聞いて幸せになってしまう人たちはたくさんいるはずです。
 いろいろなものを発見して,それから想像して,絵本のようなストーリーをいくらでも歌にできてしまう,そういう女性です。永遠の少女眼をしたアーチストです。風が吹けば飛びそうなやせっぽちに少女の恋物語に始まり,洗濯したおかあさんの肌着の良い匂いの秘密を知りたがったり,幻の汽車の旅を夢見たり,自分が世界最低の女だったらと想像してみたり....。
 これは私たちが子供の頃に「NHKみんなの歌」で見ていた原風景と似ています。童話のようで,やさしく,時おり不条理で,ピリ辛があったりする少女画です。色えんぴつアメリーの曲は三拍子系が多く,ピアノやギターやアコーディオンや木管楽器の優しい伴奏で,たま〜にカミーユ風に前衛遊びが加わったりします。でもエレクトロ系はほとんど除外されています。
 30頁もあるカラーブックレットは,歌詞ひとつひとつに1頁大のイラストレーションがついた絵本仕立てです。描いているのは彼女自身ではなく,サミュエル・リベイロンというイラストレーターですが,どれも素晴らしいです。7歳から77歳までの人たちがこの絵本を読んで,この音楽を聞いたら,ふわ〜っと浮く感じがするでしょうね。ひとかけらの下品さもないけれど,決して子供向けだけのものではない味わいがあると思うんですけど,ちゃんと日本に紹介されたらいいですね。

<<< Track list >>>
1. LA MAIGRELETTE
2. LE LINGE DE NOS MERES
3. LE TRAIN TROIS
4. LA DERNIERE DES FILLES DU MONDE
5. LES MANTEAUX
6. L'ERRANT
7. LES PISSOTIERES
8. LA FEVE
9. DE NOUS NON
10. CALEES SUR LA LUNE
11. LE CITRIONNIER
12. DEPUIS
13. CHAMELET
14. MARCHONS
15. LE GROS COSTAUD

CD L'AUTRE DISTRIBUTION OP10AC2295
フランスでのリリース:2007年10月15日

2007年9月29日土曜日

娘と私のコピーヌ




 昨夜はタカコバー・ママがクスクスを作り、私と娘の12年来のコピーヌのリザが来てくれました。家に来る前に、わが町ブーローニュの市営スケートリンクで、娘のフィギュアスケート・クラブの練習風景をリザに見てもらいました。スケートを始めて5年めなのに、私に似た「思い切りの悪さ」が災いしてジャンプ力とスピードに欠ける娘は、上級クラスへの道が険しいのですが、きのうは特別にコンペティション組に合流しての練習でした。しかし他の子たちの水準についていけないみたいで、あまり良いところをリザに見せられなくて残念。それでもリザも子供の頃にスケートをやってたそうで、コピーヌ同士の話ははずんでいたみたいでした。
 リザとSATANICPORNOCULTSHOPはこれからリール、パリ、マドリードにツアーです。10月2日にパリの「パレ・ド・トーキョー」でライヴです。私たちも2日に参上します。お近くの人たちもぜひ来てください。
 8月に日本で出たリザの「ラ・ボッサ」の新録入りベスト盤『サンバ・サラヴァ』をいただきました。若い時の声と非少女ヴォイス(今の声です)が同居していて、はははは.... 時は過ぎ行くサウダージです。「サンバ・サラヴァ」はステーシー・ケントの最新アルバムでもステーシーがピエール・バルー詞のフランス語ヴァージョンで歌ってますけどセリフ部分ははしょっていました。リザのヴァージョンはちゃんとセリフ込みですからね。 サ ラ ヴ ァ !

 
 

2007年9月26日水曜日

この女性は生半可ではない



 たぶん革命が起こる(起こってほしい)ミヤンマー(ビルマ)の刻一刻の状況の中で、アメリカに亡命していたミャンマーの反軍政政府の首相セイン・ウィンが、今日パリのフランス大統領官邸でニコラ・サルコジに会い、民主化運動のための援助を求めました。この時、セイン・ウィンに同行したのが歌手・女優のジェーン・バーキンでした。サルコジとの会談前のセイン・ウィンの記者会見では、ジェーン・バーキン自身が仏・英語の通訳を買って出ました。
 ジェーン・バーキンはこのミャンマーの民主化運動の支持だけではなく、演劇人アリアーヌ・ヌムーシュキンらと共にチェチェンのロシア圧政支配に抗議したり、アフガンやコソボの女性たちへの援助のために動いたり、たいへんアクティヴに国際政治現場に出て来る人です。この辺は全く半端ではありません。バーキンはそれに関することならどんなに複雑な質問でも答えられると思います。
 こういう女性たちがいるのです。アルジェリア問題の時のイザベル・アジャーニにしてもそうですし、アフリカ系移民の住居問題で身を張って抗議するエマニュエル・ベアールもそうですし....。ちょっとやそっとの売名行為で絶対にできることではないのです。この女性たちは本気でアンガージュマンしているのです。闘士です。すごく良いことだと思います。