Daniel Pennac "Chagrin d'école"
ダニエル・ペナック 『学校の悲しみ』
2007年度ルノードー賞
ベルヴィル人情物語「マローセーヌ」連作で知られるダニエル・ペナックが、300頁にわたって教育と学校についてその思いのすべてをぶつけている本です。この本の最も重要な言葉は "カンクル = cancre = 劣等生"というものです。一般に教育と学校の問題を語る場合、「問題」となるのは劣等生、落第生、落ちこぼれだけであって、及第点以上の子供たちは問題ではありません。できない子とできる子のバランスがあるから学校やその先の社会は成り立っているという相対論で落ち着いている人たちには、教育は問題になりません。しかし自分ができない子であったり、その子の親であったりしたらどうするのか。できない子とは何か。できない子はどこから来たのか。できない子は救済されないのか。そういうことをダニエル・ペナックは熱を込めて語ります。
まず「できすぎたストーリー」という罠を恐れずに、ペナックは自分がどうしようもない劣等生であったことの告白から始めます。できない坊主から学校教師への転身、それよりも長い目では文章を全く書けなかった子供から作家への転身、これがペナックのパーソナル・ストーリーです。要するにあんたはどん底から這い上がって成功したという話をしたかったんでしょ、俺ができたんだからきみたちにできないわけはないというナルシスティックなお説教でしょ、と言われてもしかたのないことを、ペナックは敢えて書きます。これを書かなければいけないのは、自分は自力で這い上がったわけではないからです。作者はその崖っぷちにあった時にある教師と出会って救われたという契機があったのです。人生においてそういう教師に出会える人たちはごく少ないかもしれません。私自身を振り返るとそういう教師の顔は浮かんできません。しかしこの本に沿って言えば、私は劣等生だったことは一度もなかったので、私は救済される必要がなかったとも言えます。ダニエル・ペナックは複数の教師からその救済の手を差し伸べられた経験を語ります。それはありふれた話ではないにしても、そういう教師というのは昔も今も存在するのです。
それは今度は自分が職業として中学(コレージュ)の教師となって出会った生徒たちや同僚教師たちの話として続きます。70年代から90年代にかけて、地方や郊外でペナックは教師として何千人という子供たちと教室で会い、そのひとりひとりのケースを見てきました。できない子に対する教師の言い訳のひとつに "manque de base"(基礎知識の欠如)というのがあります。つまりこの子が中学校でついていけないのは、その前の小学校での基礎学習がなっていないからであり、小学校でそれができないのはその前の家庭での基礎学習がされていないから...といった理由づけです。「できない子」はどこから来たのか。子の勉強も見れない共働きの親の家庭だったり、離婚家庭またはシングルマザーの家庭だったり。そして80年代からは圧倒的にフランス語の基礎を持たない両親の家庭、つまり移民家庭の子供たちである、と言われるようになります。郊外の公立学校は人種のるつぼと化し、その学力低下を恐れる(フランス中流以上の)親たちは子供を私立の学校に入れるようになり、公立の学校はますますできない子と移民の子でふくれていきます。教師ペナックはその現場にいて、自分がそうだったような「できない子」たちに手を差し伸べ、成功するか失敗するかわからないさまざまな救済策を実行します。美談はほとんどありません。しかしいい話ばかりです。
共和国の義務教育は19世紀後半にジュール・フェリーの考案で始まりました。共和国は未来を建設する子供たちを共和国の名において育てなければならないと考えたのです。重要な原則は「ライシテ」(宗教と切り離した教育)です。信仰は自由であるが,学校という場所は無宗教でなければならないという考えです。なぜなら宗教は科学や歴史に対する考え方が共和国の教育の考え方と違う場合があるからなのです。フランスの公立学校教育は教師が宗教心に基づいて教育することも,生徒が宗教的な表徴をつけて学校に入ることも禁じています。イスラム者のスカーフと同じように公立学校ではキリスト者の十字架も外に見えてはいけないのです。宗教を禁じる考え方ではありません。学校という場はそれと無縁なのである,ということを通すために必要なきまりなのです。
この例が示すようにフランスの公立学校は歴史的に先生たちが宗教や政治が介入することを必死で防いできました。私はフランスの教師たちのこの努力に敬意を表する者ですし,そのことを小学教師が外国人子女たる私の娘にまでちゃんと教えてくれたことを感謝しています。(スカーフ論争があった時に,それくらいいいじゃない,と言ったタカコバー・ママにまだ11歳だった娘が「学校はそういうところではないんだ」と断言して,ライシテとは何かを説明したのでした。びっくりでした)。日本で神話教育や国旗や「君が代」に抵抗する先生たちの考え方は,共和国の先生たちと似たものがあると思い私は支持できます。
しかしペナックは,この共和国の学校がジュール・フェリーの100年後の1975年頃にその役目が終わったかのような,悲観的なことも言っています。それは子供たちの未来,共和国の未来というものをもはや学校はつくってやることができなくなった,という述懐です。落伍し,落ちこぼれていく子たちだけではなく,親の失業や兄姉の失業を見ている子供たちは,未来というきれいな言葉を希望を持って考えることができなくなったからです。「努力すれば何でもできる」というのは最初からうそっぱちな言葉ですが,75年頃まではまだそのウソの効力があったはずです。リアリティーは失業であり,貧困であり,ということだけを言おうとしているのではありません。6歳から15歳まで,それまで学校が子供の生活の中心であったのに,学校は自分の未来と関係がないと早々と知ってしまう子供たちはそれに関心が持てなくなってしまうのです。
ペナックの本は「子供=消費者」の不幸に多くのページを割いています。ナイキやアディダスといったブランドや,アイポード,携帯電話などで身をかためてしまうことです。子供は早くから消費者として商業戦略の対象となって,雨霰となって降る広告を四六時中かぶっています。子供たちはこの攻撃に無防備であり,親にあれ買ってこれ買ってとねだり,その欲求が満たされれば幸福でしょうが,多くの子供たちは満たされず,消費者的欲求不満に陥ります。クラスの中で,持っている子と持っていない子がいます。持っていない子はそれだけで不幸なのです。容赦のない広告の嵐はこの不幸を深め,絶望の果てに子供は盗みを働いてでもそのアイテムを手に入れようとします。私の世代は大人になって自分で稼ぐようになれば好きなものを買えるという考え方で納得していた部分があると思います。消費者になるのは大人になってから,と。しかし,この子たちは早くからその欲求を刺激され,未来を待つことなどできないわけです。すぐにアイポードを持てないと不幸なのです。これはいつ頃から始まったのでしょうか。たぶん私の子供時代というのが,駄菓子屋でアメを買っていた子たちが,テレビで宣伝している明治や森永などの大量生産菓子に移っていった頃なのかもしれません。母親の手編み(または機械編み)のセーターと手製のコール天のズボンを着せられていたのが,デパートで既製子供服を買うようになった頃でしょう。徐々にでしょうが,このように子供=消費者は,小額の菓子ものから広告品を買うようになり,バービー人形やハイテク玩具を買うようになり,やがてブランド品や先端テクノロジーなどにまで手を出すようになります。
今日の「できない子」は,失業者予備軍としての未来に絶望していること,子供=消費者として「持てない」不幸に生きていることという,昔はなかった絶望と不幸を理由に,学校は自分に何もしてくれないと思っています。ダニエル・ペナックはこの悲観的な状況を書きながらも,それでも教師たちはいるのだ,と言うのです。つまり,できない子であった自分を救済してくれたような先生が,まだこの世にはたくさんいるのだ,と。最終部の自問自答で,この学校という崩壊するかもしれない場所の最後の決め手になる言葉は,たぶん言ってはいけない禁句だし,人にはすごすぎる言葉だし,誰も信じてくれないと思うが.... ともったいをつけておいて,やっぱり「愛」なのではないか,と言ってしまいます。
学校は必要ない,教育は必要ない,とピンク・フロイド『ザ・ウォール』が歌ったのは80年代初めのことでした。ペナックがジュール・フェリーの共和国義務教育の役目が終わったと言っていた時期とほぼ重なります。標題が言っているように,学校はそれ以後「悲しみ」を抱えた場所になっているのかもしれません。それは学校の壁の外と同じほどの悲しみであるとは私は思いません。ピンク・フロイドと逆のことを言うと,私は学校の壁に守られているものをまだ信頼しています。実際に私の娘が毎日通っている公立学校を,私は信頼しています。教師たちにも信頼を置いています。点数はあまり良くないけれど,娘はがんばっていて,学校が好きだと言ってくれるからです。そして,娘は私が教わらなかった「共和国とは何か」を知らないうちに身につけていてくれたからです。
その意味でダニエル・ペナックの公立学校の教師を信頼せよという訴えは私にはたいへんな説得力があったのです。
DANIEL PENNAC "CHAGRIN D'ECOLE"
(Gallimard刊 2007年10月。310頁。19ユーロ)
ダニエル・ペナック 『学校の悲しみ』
2007年度ルノードー賞
ベルヴィル人情物語「マローセーヌ」連作で知られるダニエル・ペナックが、300頁にわたって教育と学校についてその思いのすべてをぶつけている本です。この本の最も重要な言葉は "カンクル = cancre = 劣等生"というものです。一般に教育と学校の問題を語る場合、「問題」となるのは劣等生、落第生、落ちこぼれだけであって、及第点以上の子供たちは問題ではありません。できない子とできる子のバランスがあるから学校やその先の社会は成り立っているという相対論で落ち着いている人たちには、教育は問題になりません。しかし自分ができない子であったり、その子の親であったりしたらどうするのか。できない子とは何か。できない子はどこから来たのか。できない子は救済されないのか。そういうことをダニエル・ペナックは熱を込めて語ります。
まず「できすぎたストーリー」という罠を恐れずに、ペナックは自分がどうしようもない劣等生であったことの告白から始めます。できない坊主から学校教師への転身、それよりも長い目では文章を全く書けなかった子供から作家への転身、これがペナックのパーソナル・ストーリーです。要するにあんたはどん底から這い上がって成功したという話をしたかったんでしょ、俺ができたんだからきみたちにできないわけはないというナルシスティックなお説教でしょ、と言われてもしかたのないことを、ペナックは敢えて書きます。これを書かなければいけないのは、自分は自力で這い上がったわけではないからです。作者はその崖っぷちにあった時にある教師と出会って救われたという契機があったのです。人生においてそういう教師に出会える人たちはごく少ないかもしれません。私自身を振り返るとそういう教師の顔は浮かんできません。しかしこの本に沿って言えば、私は劣等生だったことは一度もなかったので、私は救済される必要がなかったとも言えます。ダニエル・ペナックは複数の教師からその救済の手を差し伸べられた経験を語ります。それはありふれた話ではないにしても、そういう教師というのは昔も今も存在するのです。
それは今度は自分が職業として中学(コレージュ)の教師となって出会った生徒たちや同僚教師たちの話として続きます。70年代から90年代にかけて、地方や郊外でペナックは教師として何千人という子供たちと教室で会い、そのひとりひとりのケースを見てきました。できない子に対する教師の言い訳のひとつに "manque de base"(基礎知識の欠如)というのがあります。つまりこの子が中学校でついていけないのは、その前の小学校での基礎学習がなっていないからであり、小学校でそれができないのはその前の家庭での基礎学習がされていないから...といった理由づけです。「できない子」はどこから来たのか。子の勉強も見れない共働きの親の家庭だったり、離婚家庭またはシングルマザーの家庭だったり。そして80年代からは圧倒的にフランス語の基礎を持たない両親の家庭、つまり移民家庭の子供たちである、と言われるようになります。郊外の公立学校は人種のるつぼと化し、その学力低下を恐れる(フランス中流以上の)親たちは子供を私立の学校に入れるようになり、公立の学校はますますできない子と移民の子でふくれていきます。教師ペナックはその現場にいて、自分がそうだったような「できない子」たちに手を差し伸べ、成功するか失敗するかわからないさまざまな救済策を実行します。美談はほとんどありません。しかしいい話ばかりです。
共和国の義務教育は19世紀後半にジュール・フェリーの考案で始まりました。共和国は未来を建設する子供たちを共和国の名において育てなければならないと考えたのです。重要な原則は「ライシテ」(宗教と切り離した教育)です。信仰は自由であるが,学校という場所は無宗教でなければならないという考えです。なぜなら宗教は科学や歴史に対する考え方が共和国の教育の考え方と違う場合があるからなのです。フランスの公立学校教育は教師が宗教心に基づいて教育することも,生徒が宗教的な表徴をつけて学校に入ることも禁じています。イスラム者のスカーフと同じように公立学校ではキリスト者の十字架も外に見えてはいけないのです。宗教を禁じる考え方ではありません。学校という場はそれと無縁なのである,ということを通すために必要なきまりなのです。
この例が示すようにフランスの公立学校は歴史的に先生たちが宗教や政治が介入することを必死で防いできました。私はフランスの教師たちのこの努力に敬意を表する者ですし,そのことを小学教師が外国人子女たる私の娘にまでちゃんと教えてくれたことを感謝しています。(スカーフ論争があった時に,それくらいいいじゃない,と言ったタカコバー・ママにまだ11歳だった娘が「学校はそういうところではないんだ」と断言して,ライシテとは何かを説明したのでした。びっくりでした)。日本で神話教育や国旗や「君が代」に抵抗する先生たちの考え方は,共和国の先生たちと似たものがあると思い私は支持できます。
しかしペナックは,この共和国の学校がジュール・フェリーの100年後の1975年頃にその役目が終わったかのような,悲観的なことも言っています。それは子供たちの未来,共和国の未来というものをもはや学校はつくってやることができなくなった,という述懐です。落伍し,落ちこぼれていく子たちだけではなく,親の失業や兄姉の失業を見ている子供たちは,未来というきれいな言葉を希望を持って考えることができなくなったからです。「努力すれば何でもできる」というのは最初からうそっぱちな言葉ですが,75年頃まではまだそのウソの効力があったはずです。リアリティーは失業であり,貧困であり,ということだけを言おうとしているのではありません。6歳から15歳まで,それまで学校が子供の生活の中心であったのに,学校は自分の未来と関係がないと早々と知ってしまう子供たちはそれに関心が持てなくなってしまうのです。
ペナックの本は「子供=消費者」の不幸に多くのページを割いています。ナイキやアディダスといったブランドや,アイポード,携帯電話などで身をかためてしまうことです。子供は早くから消費者として商業戦略の対象となって,雨霰となって降る広告を四六時中かぶっています。子供たちはこの攻撃に無防備であり,親にあれ買ってこれ買ってとねだり,その欲求が満たされれば幸福でしょうが,多くの子供たちは満たされず,消費者的欲求不満に陥ります。クラスの中で,持っている子と持っていない子がいます。持っていない子はそれだけで不幸なのです。容赦のない広告の嵐はこの不幸を深め,絶望の果てに子供は盗みを働いてでもそのアイテムを手に入れようとします。私の世代は大人になって自分で稼ぐようになれば好きなものを買えるという考え方で納得していた部分があると思います。消費者になるのは大人になってから,と。しかし,この子たちは早くからその欲求を刺激され,未来を待つことなどできないわけです。すぐにアイポードを持てないと不幸なのです。これはいつ頃から始まったのでしょうか。たぶん私の子供時代というのが,駄菓子屋でアメを買っていた子たちが,テレビで宣伝している明治や森永などの大量生産菓子に移っていった頃なのかもしれません。母親の手編み(または機械編み)のセーターと手製のコール天のズボンを着せられていたのが,デパートで既製子供服を買うようになった頃でしょう。徐々にでしょうが,このように子供=消費者は,小額の菓子ものから広告品を買うようになり,バービー人形やハイテク玩具を買うようになり,やがてブランド品や先端テクノロジーなどにまで手を出すようになります。
今日の「できない子」は,失業者予備軍としての未来に絶望していること,子供=消費者として「持てない」不幸に生きていることという,昔はなかった絶望と不幸を理由に,学校は自分に何もしてくれないと思っています。ダニエル・ペナックはこの悲観的な状況を書きながらも,それでも教師たちはいるのだ,と言うのです。つまり,できない子であった自分を救済してくれたような先生が,まだこの世にはたくさんいるのだ,と。最終部の自問自答で,この学校という崩壊するかもしれない場所の最後の決め手になる言葉は,たぶん言ってはいけない禁句だし,人にはすごすぎる言葉だし,誰も信じてくれないと思うが.... ともったいをつけておいて,やっぱり「愛」なのではないか,と言ってしまいます。
学校は必要ない,教育は必要ない,とピンク・フロイド『ザ・ウォール』が歌ったのは80年代初めのことでした。ペナックがジュール・フェリーの共和国義務教育の役目が終わったと言っていた時期とほぼ重なります。標題が言っているように,学校はそれ以後「悲しみ」を抱えた場所になっているのかもしれません。それは学校の壁の外と同じほどの悲しみであるとは私は思いません。ピンク・フロイドと逆のことを言うと,私は学校の壁に守られているものをまだ信頼しています。実際に私の娘が毎日通っている公立学校を,私は信頼しています。教師たちにも信頼を置いています。点数はあまり良くないけれど,娘はがんばっていて,学校が好きだと言ってくれるからです。そして,娘は私が教わらなかった「共和国とは何か」を知らないうちに身につけていてくれたからです。
その意味でダニエル・ペナックの公立学校の教師を信頼せよという訴えは私にはたいへんな説得力があったのです。
DANIEL PENNAC "CHAGRIN D'ECOLE"
(Gallimard刊 2007年10月。310頁。19ユーロ)
2 件のコメント:
この話題については、おじさんと一晩中でも議論できます。そのためだけにパリに行っても良いと思った。でも、ネットには書けない。もしかするとおじさんとパリで会っても話せないかもしれない。一つだけ言えるのはペナックもコレージュの先生を実際にしているときには書けなかった本だろうということ。僕はペナックの読書に関するエッセを最初に読んだときに深い深い「学校の悲しみ」を感じました。それ以来ペナックは信用しています。
かっち。君コメントありがとうございました。
その前のブログでも書いたように,日本滞在中に読んだことと,体調がぐじゃぐじゃだったことも言い訳にしますけど,全然読み込めてないのです。ペナックの教師体験で仏語文法の説明なんか出てくるので,爺のようなアバウトな仏語学習者にはとてもつらくて,読み飛ばした部分もあります。
しかしこれは爺には小説にも随筆にも読めませんでした。なんか熱くなってしゃべっているな,という感じだけがすごいです。こういうのがルノードー賞というのも,爺の「文学理解」を越えてしまう事件でありました。
それにひきかえ,今読んでいるゴンクール賞「アラバマ・ソング」,これは爺が安心して「文学」と呼べる作品です。
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