2009年11月30日月曜日

メラニーからうろこ



ディアムス『S.O.S.』
 DIAM'S "S.O.S."


 2006年"DANS MA BULLE"は100万枚を売りました。ちょっと太めの郊外少女ラッパーが,サルコジや極右をめった切りにするライムと私小説的な郊外少女の生きざまが同居するカラフルなアルバムで,一方で政治的なリファレンスとなり,もう一方で少女たちの姉御分的アイドルになり,PARIS MATCH誌の表紙を飾ったり,2007年大統領選セゴレーヌ・ロワイヤルに肩入れするスターのひとりになり...。この最後の「スター」という言葉がくせ者で,スターシステムに乗ったその時からフレンチ・ラップの了見の狭い連中は猛烈な批難といやがらせをディアムスにするようになります。またスターになった時から黄表紙ピープル誌のパパラッチたちが待ち受けるようになり,私生活をぐじゃぐじゃにします。
 2007年後半から2008年にかけて,ディアムスの醜聞がピープル誌にさまざま書き立てられます。ナイトクラブで暴行,泥酔,暴言...。2008年3月,フランスで最も栄誉ある音楽賞ヴィクトワール賞に2部門ノミネートされ(結局ひとつも取れないのですが),そのセレモニーで"Ma France à moi"を歌ったあと涙を流しながらこう言います「私に次のアルバムができるのか私にはわからない。これが多分私の最後のヴィクトワールの宴になるわ。メルシ」。
 メラニーの地獄は既に始まっていたのです。
 この迷いと自信喪失、すなわち「書けない」「表現できない」「言葉が出ない」「人前に出れない」の数ヶ月間、心の平静を取り戻すきっかけを作ってくれたのがイスラムの教えであった、とメラニーは言います。イスラム改宗はずいぶん前だったそうですが、2008年その教えが上の事情でほとんどセラピーとなった頃からメラニーはヘジャブ(イスラム教徒女性のスカーフ)で頭髪を隠すようになります。この姿がパパラッチに盗撮されピープル誌を賑わします。曰く「元ヒット歌手ラッパー、イスラム原理主義に入信」のような書かれ方です。
 2009年、多くの人たちから再起不能と言われていたディアムス/メラニーMCが、新アルバムを準備していて、しかも予定されているツアーにはヘジャブ姿(一説には全身を覆い隠すニカーブ姿)でステージに出るという噂が流れます。折りも折り、フランスではニカーブをめぐって公共の場所でのニカーブ着用を禁止する法律を作るべきか否かの論争があり、またサルコジ政権の移民担当相エリック・ベッソンが「フランス人のアイデンティティー(identité nationale)」を明確化する全国的議論を展開して、極右まがいの論法でイスラム教徒や外国人および異文化を保持する移民出身フランス帰化人の表面化を制限しようとしている時でした。
 ディアムスの新アルバム『S.O.S.』はそんな時勢に押しつぶされて、愚かにも元人気歌手が話題狙いでイスラム帰依したことが一笑に付されて、誰からも相手にされずに消えていくはずと予想されていました。ところが、ところが、11月13日、EMIからリリースされた『S.O.S.』はアルバムチャート初登場1位。たとえどんな雑音があっても、郊外少女たちがその姉御アイドル、ディアムスを死守するために結集したということでしょうか。そしてNO.1FMネットのNRJがそっぽを向いても,ヒップホップ/R&BのFMであるSKYROCK,FUN RADIO,VOLTAGE FMなどが強力にディアムス新アルバムを後押ししたことも,美しい連帯だなあ,と見ました。
 11月18日,ディアムスが国営TVフランス3のフレデリック・タデイの番組CE SOIR OU JAMAISに出て新アルバムの中の最後の曲"SI C'ETAIT LE DERNIER"(これが最後だったら)をライヴパフォーマンスしました(ヴィデオ見ると口パク混じりですね)。10分のパフォーマンスです。こんなものなかなか国営テレビで見れるものではないです。白いキャップ(カスケット帽)の下にメラニーMCはイスラムのスカーフを見せています。フレデリック・タデイはそのイントロダクションで,この2年間にディアムスについて問われたこと(人気転落,神経衰弱,精神分析,イスラム,アフリカ旅行...)すべてに対する回答がこの曲にある,と語ってその10分のスペースを明け渡したのでした。
 アルバム『S.O.S.』は「メラニー」という曲に始まり,この「これが最後だったら」(14曲め)で締めます。この2曲がこのアルバムの核心中の核心と言えましょう。「メラニー」は,メラニー(生身の自我)とディアムス(アーチスト)という一心同体で二つに切り離された自分のひとりダイアローグです。メラニーは自分がこんなにボロボロになったのはディアムスのせいだと恨み言を言います。ディアムスはおまえはそれしかできないのだから(ライムを)書くしかないんだ,とメラニーを苛めます。その対話は何一つ包み隠すことなく,驚くほどはっきりと明晰に語られます。
 アルバムは地獄からの蘇りの記録です。前アルバムが"DANS MA BULLE"(ビュルの中で。ビュル=泡=漫画の吹出し)というタイトルであったから,メラニーはビュルを抜け出さなければ再生することができないと考えました。泡から抜け出すにはアフリカの砂漠を歩いて渡り切らねばならなかった(3曲め"Enfants du désert")のです。

 S.O.S. S.O.S. S.O.est-ce que tu pleures
  Dans le fond tout comme moi ?
   - S.O.S. S.O.S. おまえも私のように奥の奥で泣いているのか? -
   (4曲め「S.O.S.」)
 

 そしてメラニーは閃き的にこう叫びます「アイ・アム・サムバディー」(2曲め"I am somebody")。私はサムバディーよ。これなどはほとんどアルチュール・ランボーの "JE est un autre"(私とは一個の他者である)と同じものでしょうに。「私は」「メラニーは」「ディアムスは」と一人称で私的に,極私的にあらゆることを語り(ラップし)尽くした挙げ句,彼女は「サムバディー」という他者の境地に至ったのです。
 テレラマ誌ヴァレリー・ルウーはこのアルバムはこの冬中何度も聞くようなアルバムではないし,前作のように変化に富んだアルバムでもない,と断りながらも,このアルバムは「アッパーカット」であると評しました。この告白の密度と強度によって聞く者は打ちのめされる思いでアルバムを聞き終わる,と。
 傷ついた魂が徐々にもとの球形に戻っていくことが記録されたアルバム14曲。74分!長くて当たり前。これに時間がかからないわけがありまっせん。この蘇りに時間がかからないわけがありまっせん。このセンセーションを聞く者が共有できたら,このアルバムは凡百のラップアルバムとは切り離されて扱われなければなりません。アルバムチャート初登場1位。私は多くの人たちがこのアルバムの数曲で涙が迸り出たはずだと確信しています。

<<< トラックリスト >>>
1. Mélanie
2. I am Somebody
3. Enfants du désert
4. S.O.S.
5. Dans le noir
6. Coeur de bombe
7. Rose du bitume
8. L'honneur d'un peuple
9. Lili
10. Poussière
11. Sur la tête de ma mère
12. Peter Pan
13. La Terre attendra
14. Si c'était le dernier

DIAM'S "S.O.S."
CD EMI FRANCE / HOSTILE RECORDS 6860440
フランスでのリリース:2009年11月13日



(↓11月16日 FRANCE 3のフレデリック・タデイの番組CE SOIR OU JAMAISでのディアムス "SI C'ETAIT LE DERNIER")

2009年11月28日土曜日

今夜はコルテックスでした。



 今夜はパリの南郊外の町、レイ・レ・ローズ(世界的に有名なバラ園のある町です)で、アラン・ミヨン+コルテックスのコンサートでした。
 この3月の、突然のコルテックス30年ぶり一回こっきり復活コンサートは爺ブログ3月5日で紹介しましたが、一回こっきりと言っておきながら、「俺は引退する」と宣言しておきながら、こうして8ヶ月後にもう一度やってしまうのは、ミヨンさんがまだまだ若いという証拠でしょう。よいことです。
 今回はドラムスにマイケル・カースティング(ジャコ・パストリアスと長年プレイしていた人です)、ベースにジェラール・プレヴォ(ジャズ・ロックからヴァリエテまでいろいろやってましたが、特に知られているのは14年間ジプシー・キングスのベーシストだったこと)、サックス(+フルート)3人、そしてヴォーカル/キーボード/パーカッションの紅一点アドリーヌ・ド・レピネー(この人のマイスペース)という人たちに囲まれて、ミヨンさんがグランドピアノとフェンダーローズを弾き分けて、曲によってはヴォーカル&スキャットも披露します。
 またこのコンサートがクラシック系の音楽専門ケーブルTV局MEZZOによって録画され、後日ヨーロッパ中で放映されることになっているそうで、撮影カメラが3台あり、おまけにステージ前をカメラ搭載クレーンがしょっちゅう8の字状の動きをして、目障りなのがちょっと残念でした。
 レイ・レ・ローズのバラ園は高台にあり、そこからパリの町並みが見下ろせるのですが、そういう香り高い郊外都市の公立文化会館という趣きのホールでのコンサートで、土地の音楽好きの中高年が主な客層で、みんな良いクッションの座席に大人しく坐って、というタイプのコンサートですから、ニューモーニングでのようなファンキーでアルコールつきでほとんどがみんな立って踊って、というようなコンサートとはかなり様相が違いましたね。それでもこの客層はセヴンティーズを体験した本当のコルテックスファンかもしれない、とも見えないこともなく...。
 (↓ CORTEXのカルト的名盤"TROUPEAU BLEU"のレパートリー "La rue")

2009年11月24日火曜日

ペイジの技もなく、プラントの声もなく、しかし!



 THEM CROOKED VULTURES "THEM CROOKED VULTURES"
 ゼム・クルックト・ヴァルチャーズ 『ゼム・クルックト・ヴァルチャーズ』


 わが窓から見える対岸の夏ロックフェス「ロック・アン・セーヌ」で、この夏爺がぶっ飛んだバンドの初アルバムが届きました。クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・ネイジ(QOTSA)のジョシュア・オム、ニルヴァーナ〜ザ・フー・ファイターズのデイヴ・グロール、レッド・ゼッペリンのジョン・ポール・ジョーンズが集まったバンド、ゼム・クルックト・ヴァルチャーズです。私は門外漢で、普段ほとんどロックを聞かないのですが、その門外漢があのステージを見てしまったために、かなりの興奮度で待ちわびていたアルバムです。本当に久しぶりのことです。全ジャンルを通してアルバムを待ち望むこと自体、本当に久しぶりのことなのです。
 良いオーディオで聞きたい、そう思いました。結局人に遠慮することなく大音量で聞けるカーステが理想の環境ですし、しかもパリを外周する環状自動車道(ペリフェリック)を混雑のない夜10時以降に運転しながら聴くというのが、私の貧乏臭い恍惚の瞬間を持続的につくってくれたのでした。
 重戦車の地響きのようなものに快感を覚えるのではありまっせん。はっきりと聴こえてくるのは激しく連打するドラムスの音であり、うねりまくる重低音のベースの音です。オールドスクールの重いロックビートです。私はツェッペリンはわずかに編集盤4枚組CD(ロングボックス)1セットを持っています(日本で若い時分に持っていたLPは今頃どこで朽ち果てていることやら)。ディヴ・グロール関連ではニルヴァーナはLPを持っていますが、フー・ファイターズは何も持っていません。ジョシュア・オムに関してはQOTSAもイーグルス・オブ・デス・メタルも何も持っていないどころか、聞いたこともありません。こういう私ですからここで講釈できるようなものは何もないのです。
 アートワークがわかりやすい。鳥の頭をした男が3人。だから鳥男(トリオ)。
 なぜにこんなに強烈に揺さぶられるのか。その揺さぶられがどうしてこんなに心身の奥底を刺激するのか。これは説明のしようがないのですが、私たち中高年には最初に太古の記憶のような意識下の懐かしさなのかもしれません。幼年期に私は、自分が乗ったバスや車がバックする時、不快に近い、息がつまりそうなセンセーションを覚えたものでした。それがいつの間にか何ともなくなったのですが、子供の頃それがとても嫌だったという記憶はある。このバンドを夏にロック・アン・セーヌで初めて見た時、こういう音に揺られると、その不快に近かったセンセーションを思い出してしまったような気がしたのです。そしてその不快はバランスが崩れる恐怖だったのかもしれないけれど、グラっと揺れることが快感に近いものに変わっていく体験をあなたはしていませんか? 最初の煙草や最初のアルコールは誰にとっても不快なものであったはずです。それがグラっと揺れるときに違うセンセーションを覚えた時にあなたはそれをやめることが難しくなったのではありませんか? 遊園地で目の回る遊びをたくさんした記憶みたいなものじゃないですか?
 話が音楽から外れましたら、もとに戻すと、このバンドでこの揺れを作っている真犯人はデイヴ・グロールのドラムスでしょう。力まかせとシンコペーション、この二つの武器でゴッホの絵のように大気にさまざまな渦巻きを次々に描いてしまっているようなドラミングです。
 揺さぶりの13トラック66分。薬品もアルコールもなく陶酔できる人たちの幸福。デイヴ・グロールとJP・ジョーンズが決め手を握っている曲では、そこにペイジのヴィルツオーゾがなくても、プラントの恍惚ヴォーカルがなくても、それはそれで中高年を狂喜乱舞させるリズムの魔があります。だから、私はあまりメロディーやギターが気になりません。もう一度ナマで体験してみたいです。

<<< トラックリスト >>>
1. "No One Loves Me & Neither Do I"
2. "Mind Eraser, No Chaser"
3. "New Fang"
4. "Dead End Friends"
5. "Elephants"
6. "Scumbag Blues"
7. "Bandoliers"
8. "Reptiles"
9. "Interlude With Ludes"
10. "Warsaw Or The First Breath You Take After You Give Up"
11. "Caligulove"
12. "Gunman"
13. "Spinning In Daffodils"

THEM CROOKED VULTURES "THEM CROOKED VULTURES"
CD SONY MUSIC 88697619362
フランスでのリリース 2009年11月13日


(↓2009年レディング・フェスでのゼム・クルックト・ヴァルチャーズ。もろ「移民の歌」ノリの"Spinning in Daffodiles")

2009年11月19日木曜日

Juste quelqu'un de bien 単純にいいヤツ




11月19日パリ、ラ・シガールでケントのコンサートでした。
 ケントは1957年リヨン生れのシンガーソングライター/BD作家ですが,1977年にリヨンのパンクバンド,スターシューターのリードヴォーカリストとしてデビューしています。あの当時フランスのリセの子たちが「ロック」として夢中になっていたのは,テレフォヌ,ビジュー,リリ・ドロップ,トラスト,スターシューターだったんですが,リリ・ドロップのベーシストだったのがエンゾ・エンゾです。
 ケントもエンゾ・エンゾもバンド解散後,シャンソン・ポップのソロアーチストになります。それぞれメジャーシーンに出て来るのが90年代前半で,十数年間「中堅アーチスト」としてそこそこの活躍をしますが,音楽産業大会社は「そこそこ」とは契約更新しない時代になりました。ま,インディーから出直せばよろしいわけですが,ベテランの生きにくいご時世ですわね。
 エンゾ・エンゾに1995年度のヴィクトワール賞(最優秀女性アーチスト賞)を獲得させるきっかけとなったのが,ケント作詞作曲の"JUSTE QUELQU'UN DE BIEN"です。ケントはケントでそれなりのヒットアルバムやヒット曲があるんですけど,それでもケントの一番の代表曲となると,この曲になるきらいがあります。群を抜いていい曲ですもの。98年から99年にかけて,ケントとエンゾ・エンゾはデュエットで1年間のツアーを行っています。このあたりが二人の絶好調期でしょうか。

 ケントがインディーに移っての初のアルバムがこの『パノラマ』で,ギタリストのフレッド・パレムとケントの2台のギターを屋台骨にして,スターシューター時代から今日までのケントのレパートリーを文字通りパノラマ的に読み直してみよう,というプロジェクトです。きのうケントがステージ上のMCでも言ってましたが「最良のものは Best of ではない」という考え方で,人様にとってのヒット曲をセレクトするのではなく,自分にとって重要だったものをピックアップするという選曲方針です。そのためあまり知られていない曲も入っています。
 ギターが良く鳴っています。ギターをかき鳴らすというのは,この人のルーツであるオーソドックスなメインストリーム・ロックがよく見えてきます。激しいストロークを繰り返す時は往年のハードロックよろしく獅子舞首振りをしてしまいますし,エンディングにはネックを振り上げて開脚ジャンプしますし。
 普段の生活ではメガネをかけているのに,ステージでは首振りが激しすぎてとてもかけてられない,と言ってました。スポーツ選手のようにメガネにストライプをつければ,とすすめられるが,「それはセクシーではない」という理由でステージではメガネを拒否しています。おかげでギターのチューニング器や曲順表が見えなくて難儀しているそうです。歳だなあ。
 当夜の場所ラ・シガールはほぼ全席「着席」でした。ロックンロールじゃない感じでした。ステージ左側にギターを抱いたケントが立ち,右側でフレッド・パレムがさまざまなギターを持ち替えての伴奏です。ボディーがすんなりしているし,動きもしなやかなので,私などにはとてもうらやましい万年青年の図。その割に客席側は熟年女性の多さが目につきます。ステージングはそういう客層にも関わらず,ノスタルジー・モードの「合唱」強要が一切なく,歌い,語り,ギターをかき鳴らすという淡々とした進行でした(良い良い)。
 アルバム『パノラマ』の性格上,オリジナル曲発表当時の思い出などが語られたりするのですが,私にはナツメロではないので,全然大丈夫。ゲストで,アルバムにもデュエットで参加しているアニェス・ジャウイ,バルバラ・カルロッティ,アルチュール・H等が出ましたが,みんな待っていたのはスザンヌ・ヴェガでしょうかね。
 初めて見たケントだったのに,なにか懐かしい友人に再会したような親密さ,これが私たち年寄りが陥りやすいワナですな。ある種のセミ中高年層を魅惑するオーラに溢れている感じですね。気持ちいいんだから,しかたない。


(↓昨夜のライヴで,ケントとアニエス・ジャウイのデュエット "Parole d'homme")


(↓Youtubeで公開されているスザンヌ・ヴェガとのデュエット "Juste quelqu'un de bien")

2009年11月18日水曜日

ジャンゴ100 オン・ステージ



 11月17日昼、クリニャンクールのみの市(日本人はこう言うんですが、実は土地の人々は「サン・トゥーアンのみの市」と言う)のど真ん中、マヌーシュ・ギターの聖地ショップ・デ・ピュスで、アルバム『ジャンゴ100』の発表記念パーティーでした。
 ショップ・デ・ピュスは外から見るとただのビストロ・バーですが、奥にりっぱなステージ付きのレストラン・ホールがあり、ステージのホリゾンにはジャンゴ・レナールのお姿が。店内にはジャンゴが使ったいろいろなギターが陳列されていたりして、ファンにはたまらないでしょうね。
 りっぱな場所です。普段に来たら、レストランも結構高そうです。この上の階にはロマーヌも教師をしている新設の私立音楽学校があり、マヌーシュ・ギターを中心に後進の教育につとめています。昨日はその学校もロマーヌの案内で見ることができました。
 場所の持主はマルセル・カンピオンという人で、「旅の民」界ではたいへんな大物で、年末年始の風物詩となったコンコルド広場の大観覧車もこの人の持ち物で、移動遊園地やサーカス界で勢力のある人で、ジタン/ジプシー/マヌーシュ/ロムの地位向上やその文化を一般市民に理解してもらうために尽力する市民運動家でもあります。
 「ジャンゴ100」の企画者/プロデューサーのJMS(ジャン=マリー・サラニ)があいさつ。今日に生きるギタリストたる者,誰でもジャンゴ・レナールに負うところがあるはず。来年の生誕100周年に,そんなギタリストたちの「ありがとうジャンゴ」の気持ちを伝えたい。これはビレリ・ラグレーヌからのジャンゴ・トリビュートでも,ロマーヌからのジャンゴ・トリビュートでもない。有名無名を含めたギタリスト集合体からのジャンゴありがとうなのである--- というようなことを強調していました。いいですね。
 ビュッフェで美味しく食べ,美味しく飲み,そのあと「ジャンゴ100」のショータイムです。マトロの息子ふたり,エリオス&ブールー・フェレ,そしてロマーヌの姿は,この催しの最初の頃から見えていましたが,アンジェロ・ドバールの姿が見えません。「来ないんじゃないの?」と言う声が隣から(私に同行したハタノ君です)。あにはからんや,遅れに遅れてやってきました。ジャン=マリー・サラニがすかさずマイクを握って「メダム・ゼ・メッシュー,アンジェロ・ドバール!」とアナウンスしますと,大喝采が起こりました。このメンツではやはり一番のスターでしょうかね。
 というわけで,初冬の昼時,美味しい食事とワインの後,私たちは(そうそう見られるものではない)ロマーヌ,エリオス・フェレ,ブールー・フェレ,アンジェロ・ドバールの四重奏という極上の音楽を楽しむことができたのでした。ありがたや,ありがたや。

(お写真撮影はハタノ君でした)

2009年11月11日水曜日

Elaeudanla Téïtéïa エル・ア・ウ・ダン・ラ・テイテイア



 2010年1月20日公開のジョアン・スファール監督映画『ゲンズブール:その英雄的生涯』の予告編がおとといからインターネット(公式サイト)で見れるようになりました。
 エリック・エルモスニノ(ゲンズブール)、ルーシー・ゴードン(ジェーン・B)、レティシア・カスタ(ブリジット・B)、フィリップ・カトリーヌ(ボリズ・ヴィアン)、サラ・フォレスティエ(フランス・ギャル)、ヨランダ・モロー(フレエル)、ゴンザレス(ピアノバーのピアノ弾きだったゲンズブールの演奏シーンでの両手で登場)...。監督がもともと劇画家だったということなのか、極端に顔にこだわったキャスティングに見えますね。
 エリック・エルモスニノはインタヴューで「俺はローラン・ジェラ(フランスで最も人気のある声帯/形態模写アーチスト)じゃない」と言い張ってましたが、この予告篇見たら、やっぱり完璧コピーを目指しているような演技に見えます。イッセー尾形演じる昭和天皇を思い出しました。
 たった2分の予告編ですが、圧倒的に私の目を引いたのはレティシア・カスタのブリジット・バルドーでした。バルドーは最近のインタヴューでこのそのカスタ起用について「驚異的な美しさ。私の代わりになる人にこれ以上のものを望めないわ」とむしろ光栄のようなコメントをしています。先週まで苦しみながらバルドーの原稿を書いていた私はそのDVDや写真集をオーヴァードーズ気味に見ておりました。しかし、この予告編のわずか数秒登場のカスタ/バルドーを見て、私はコピーはオリジナルを凌駕してしまうこともある、と思ってしまいました。
 予告編の前半で歌われる「エル・ア・ウ・ダン・ラ・テイテイア」は、L AE T I T I Aレティシアという名前のスペリングを歌にしたものです。なにか、ゲンズブールがレティシア・カスタの出現を予期していたような歌にも聞こえてきます。

(↓『ゲンズブール:その英雄的生涯』の予告編)



PS : 11月18日。
オフィシャルサイトに公開されているヴィデオの一つに,映画の音楽シーンのMAKING OF があります。ディオニゾス、ゴンザレス,カトリーヌなどは知っておりましたが、マヌーシュ・ギターを弾いているのが,アンジェロ・ドバールと知った時は仰天しました。

PS 2 : 11月24日
BB=レティシア・カスタのシーン。「そして神はレティシア・カスタを創った」という感じですね。ありがたや、ありがたや。

2009年11月9日月曜日

今夜はプリミティフでした。



 11月8日、パリ10区ニューモーニングで、レ・プリミティフ・デュ・フュチュールのコンサートでした。日曜日の夜って、つらいですよね。勤め人泣かせですよ。どうしても引きます。そういう大衆心理を察してか、今回のステージはいつもに増してゲスト多数の大サーヴィス。舞台が狭い狭い。それと今夜は本格的にカメラ3台を使ってのヴィデオ撮りがありました。だから本当は満員の観客の熱気みたいなものも欲しかったんでしょうが、客の入りは八分かなあ、私も含めて年寄りが多いのと、椅子席がちゃんと用意されていて、みんなしっかり坐って大人しく聴いてました。手拍子する人もワルツを踊る人もなく。
 ゲストの中にラウール・バルボーサがいました。本当に久しぶりに見ました。新アルバムが出たそうです。 "Invierno en Paris"というタイトルで、クラシック系のZig-Zag Territoiresというレーベルから出てまして、11月10-11-12-13日とパリ11区のル・ゼーブルでお披露目コンサートです。今夜もいつもながらのダイナミックな蛇腹さばきで、ラウールが弾くととなりのダニエル・コランさんのアコーディオンが全然聞こえなくなってしまいます。ギターで例えて言えばクラシックギタリストのとなりでチャヴォロ・シュミットが弾いているような、音量の桁違いがあります。
 お箏のみやざきみえこ(この方はこうやってひらがなでアーチスト名なのですね)も終盤2曲で登場。やっぱりプリミティフに華を添えますねえ。お着物も美しいですし。フェイ・ロヴスキーのテルミンとの掛け合いなんですけど、才ある女性二人の目配せの応酬が美しかったりして。
 そして、今や髪の毛ふさふさで、道ですれ違っても誰か分からないような変身をとげたアラン・ルプレストが登場して、かの闘病中にプリミティフのアルバム"Tribal Musette"に彼がヴォーカルを入れた「カナル・サン・マルタン(サン・マルタン運河)」を披露。アコーディオンはフランシス・ヴァリスでした。(↓にちょっとだけヴィデオ)。

2009年11月7日土曜日

(あまの)ジャクノ



 ジャクノ(本名:ドニ・キニャール)が11月6日ガンで亡くなりました。52歳。
 ジャクノは1976年にエリ・メデロスらとザ・スティンキー・トイズを結成して、フランスのパンクシーンのパイオニアだったのですが、伝説では「安全ピン・ファッション」の元祖と言われています。そのあとエリと二人になってエリ&ジャクノとして3枚のアルバム(そのうちの1枚がエリック・ローメールの映画『満月の夜』のサントラ)を発表しています。
 このスティンキー・トイズからエリ&ジャクノに移行するまでの間に、ジャクノは1979年に1枚のソロアルバムをセルロイド・レーベルから出してます。これが後年フランスのシンセ・ポップのカルトアルバムとなるんですが、そこからのシングルで出たインスト曲「レクタングル」が当時まだ非合法だったフランスの自由FM放送局(言わば海賊放送ですね)でヒットして、さらにスイスのインスタントコーヒー屋(今や多国籍巨大食品コングロマリット)だったネスレに注目されて同社のインスタントショコラ「ネスクイック Nesquik」のテレビコマーシャルスポットの音楽に使われます。このおかげでジャクノのフトコロは大変潤ったと言われています。
 このジャクノ独特のピコピコサウンドは、当時18歳だったポルトガル人少女歌手リオのデビューアルバム(1980年)でも威力を発揮して"Amoureux solitaires"というヒット曲も生んでいます。そして81年にはエチエンヌ・ダオの(不遇の)ファーストアルバム"Mythomane"をプロデュースして、その結果としてダオのセカンドアルバム"La Notte la notte"(1984年)から急激に盛り上がる80年代ポップ・フランセーズ(ダオ、リオ、レ・リタ・ミツコ...)の影の大物のように見られるようになります。
 エリ&ジャクノ解消後、2006年まで6枚のソロアルバムを発表していますが、そのありようはひとことで形容すれば「ダンディー・ポップ」でしたね。

(↓ ジャクノ「レクタングル」)


(↓ジャクノ「レクタングル」をCMテーマにしたNesquikのスポット)

1980 - nesquick
envoyé par fifitou. -

2009年11月4日水曜日

愛情まじわりの場所

 最近聞いた、めちゃくちゃお気に入りの笑い話です。

 テレビの街頭インタヴューです。夫婦の方に別々にセックスに関する同じ質問をします。カップルでそれぞれ同じ答えが出れば夫婦円満の証拠ですが、違う答えが出ればどちらかが不倫をしていることになります。正直に答えてください。

 質問:最後にセックスをしたのはいつですか?
 夫:昨夜です。
 質問:相手はどなたでしたか?
 夫:妻です。
 質問:それはどこでしましたか?
 夫:(恥ずかしそうに)実はちょっと変なところなのです。
 質問:どこなのですか?正直に答えてください。
 夫:台所のテーブルの上でしました。

 質問:最後にセックスをしたのはいつですか?
 妻:昨夜です。
 質問:相手はどなたでしたか?
 妻:夫です。
 質問:それはどこでしましたか?
 妻:(恥ずかしそうに)実はちょっと変なところなのです。
 質問:どこなのですか?正直に答えてください。
 妻:... お尻でしました...。