2009年12月22日火曜日

Let's TWEET TWEET again!



 エイブラハム・インク『トゥイート・トゥイート』
 ABRAHAM INC. "TWEET TWEET"


 配給会社SPHINXのダミアン君とは長いつきあいなんですが,今年はDjango 100(ジャンゴ100)のCDなんかもあって,例年よりも取引高が多かったんです。長引く音楽業界危機の中で,ここ数年は毎年末「来年も続けられるかねえ?」なんていう暗い年越しの挨拶ばかりだったのに,今年はちょっと上向きのうす笑顔があったりする業界人も見ます。ダミアン君もそのひとりですし,かく言う私もしかりです。私の場合は長い長い売上減の下降グラフ線が2008年でやっと止まったという程度で,何も大喜びをする類いのものではありません。それでも家族で年を越せて,来年春までのヴィジョンが立てられるのだから,ほっと一息の感じはあります。
 ダミアン君も今年はこれでダメかもしれないと思っていて,10月頃まで不安材料はたくさんあったのですが,そこが「ショービジネス」の極端なところで,1枚のヒット作品さえあればすべてが変わってしまうことになるのです。ダミアン君の在籍する小さな会社の救世主はこの「エイブラハム・インク」でした。11月から1日に500枚出荷のペースだそうです。つまり万の単位に届くようなところにあるのですが,われわれのような独立の中小会社では会社の半期の旗色を変えてしまうような好珍事です。
 エイブラハム・インクはフランスの作品ではなく,米国のTable Pounding Recordsという会社の制作になるもので,Table Poungingがフランスのジャズ・レーベル Label Bleu(ラベル・ブルー)にライセンシングして,フランスではLabel BleuのCDとして商品化され,それをダミアン君のSphinxがフランス国内配給しています。因みにさきほど Amazon.com(米国)でこの作品検索しましたら「フランスからの輸入盤」ということになっていたので,世界中でこの作品はこのフランス盤しか存在しないのかもしれません。
 で,フランスでのリリースが10月19日。
 TSF JAZZやFIPといったFMで火がつきます。テレラマ誌やモンドミックス誌が絶賛します。そうなると多くの人がCDを買うようになるのです。
 エイブラハム・インクはクレズマー・クラリネットとニューオーリンズ系のブラス・ファンクとヒップホップの調和的融合に成功して,未体験のグルーヴネスを実現したプロジェクトです。中心人物は3人。かれこれ20年に渡ってニューヨークでクレズマー・クラリネットのヴィルツオーゾとして活躍するデヴィッド・クラカウワー(そのバンドの名前は Klezmer Madness!),ジェーム・ブラウンのJB's,ブーツィー・コリンズ,パーリアメント=ファンカデリックなどのトロンボーン奏者フレッド・ウェスリー,そしてカナダ人ヒップ・ホップ・クレズマーのDJであるソーコールド(本名ジョシュ・ドルギン)。クラカウワーとソーコールドは90年代末から共演していて,クレズマーとイディッシュ歌謡の21世紀的変種を模索していたのですが,ここに来てファンクの名トロンボーン奏者とそのホーンセクションを招き入れたら,とんでもないクレズマー・ファンクが出来てしまったというわけです。
 もともと東欧ジューイッシュ(アシュケナージ)の冠婚葬祭の伴奏器楽音楽だったクレズマーが,こうやってブラス・ファンクと溶け合ったら,その祝祭性が数倍に増幅される感じがします。アフリカ起源のブラックネスとバルカン・ジューイッシュ起源の超絶技巧クラリネットが一緒にハバナギラして,電気仕掛けも絡み合ってグルーヴィー。この足し算はそんなに簡単じゃないと思いますけど,私の今年下半期のめちゃくちゃお気に入りです。

<<< トラックリスト >>>
1. TWEET-TWEET
2. MOSKOWITZ REMIX
3. IT'S NOT THE SAME (FIGURE IT OUT)
4. THE H TUNE (HAVA NAGILA)
5. TROMBONIK
6. PUSH
7. "BALEBOSTE - A BEAUTIFUL PICTURE"
8. FRED THE TZADIK
9. ABE INC TECHNO MIX

ABRAHAM INC. "TWEET-TWEET"
CD LABEL BLEU LBLC6711
フランスでのリリース: 2009年10月19日


(↓エイブラハム・インクのプロモーショナル・ヴィデオ)

2009年12月19日土曜日

今朝の爺の窓(2009年12月)



 コペンハーゲン会議(COP15)が何の具体的な決議もできずに終わったのは、3日前から私たちを襲っている寒波が微妙に影響したのかもしれません。日中でも最高気温が零度を越えない日が何日間か続いたら、「温暖化」のリアリティーが薄れてしまう感じです。「まだまだ寒い日は寒い、だからたぶん地球も大丈夫」みたいな妙な楽観論ですね。
 向かいのサン・クルー庭園にシロクマ君が現れてもおかしくないような寒さです。1年で一番日が短い頃です。ドミノ師も外に出る時は、タカコバー・ママが手編みした毛糸の胴巻きを着てお散歩です。爺は雪多い北国の生まれなので、この頬が痛くなるような寒さはとてもなつかしく、子供の頃の記憶がふわ〜っと蘇るような感覚を楽しんでいます。ノスタル爺。

PS 1 12月20日
わがバルコンのリラの木の枝に吊るしてある鳥餌箱に、よく来てくれるメザンジュ(四十雀)です。うぐいす色がとてもきれい。初めて写真撮影に成功しました。

 

2009年12月9日水曜日

何でもアルノー



 アルノー・フルーラン=ディディエ『ラ・ルプロデュクシオン』
 Arnaud Fleurent-Didier "LA REPRODUCTION"


 アルノーとはもうずいぶん長いつきあいです。4年ほど連絡が途切れていましたが、この夏にラ・ロッシェルのフランコフォリーに出演したとどこかで読んで、まだがんばってるねえ、と思ったものですが、その直後SONY MUSIC FRANCEの2009年秋冬のリリース情報の中にアルノーの名前を見て仰天しました。おお、ついにメジャーデビューかあ。しかもレコード会社が次々に大物アーチストたちを解雇している時代に。新人アーチストはレコード会社がよっぽど勝算ありと踏まなければ契約できないでしょうに。難しい時勢にSONY MUSICは慎重に、しかも有効にプロモーションしています。アルバム発売のずいぶん前から、レ・ザンロック誌、テレラマ誌、リベラシオン紙、エル誌などに絶賛記事が出ました。エールのニコラ・ゴダン、ヴァンサン・ドレルムなどがアルノーを褒めちぎりました。国営ラジオのFIPやFRANCE INTERは9月頃からアルバム1曲めの「フランス・キュルチュール」をかなりの頻度でオン・エアしてます。
 で、アルバムの発売は延ばし延ばしで、最終的には2010年の1月4日に出ることになっています。
  と、ここまで書いていたら、今夜のテレビ番組「タラタタ」(国営フランス4。今夜のメインはシャルロット・ゲンズブール)にアルノーが出演していました。「フランス・キュルチュール」を女性ベーシスト&女性キーボディストを従えたトリオで披露しました(プレイバックだったような気もしますが、同番組の売りはプレイバックなしなので、ライヴだったんでしょうね)。「フランス・キュルチュール」は語りものなので、アルノーの音楽性のとんがったところは見えないでしょうが、ナイーヴな「父親は何も僕に教えてくれなかった」的なモノローグは、事情を知らない人には「新種のスラマーか」と思わせたかもしれません。
 私が初めてアルノーに会ったのは96年のことで、当時のインディーポップ誌「マジック」の自主制作盤コーナーに載ったノートル・ダム NOTRE DAMEというバンドの解散記念アルバムを通信販売で買って、気に入ってぜひ日本に紹介させてくれ、とコンタクトしたところ、アルノーがやってきて「いやあ、バンドはもうないから」みたいな...。当時22歳。17区ブルジョワのボンボンみたいな若い子たちが、自宅スタジオで作った「青春の記念盤」的なアルバム。ナイーヴで青臭く、それでも多重録音で弾ける楽器をすべて使った素人オーケストラルなサウンドが、ヌーヴェル・ヴァーグ映画のように低予算ながら遊びと荒削りが同居して...。
 アルノーは今晩の「タラタタ」で司会のナギーに対して「僕は音楽をやめるつもりであのアルバムを作ったのに、日本人に注目されて、再び音楽をやるようになった」という発言をしました。そうだったのですね。バンドはなくなって、それでも日本で注目されてNOTRE DAME名義であと2枚のアルバムを作り、そのうちの1枚は日本のレーベルが制作したものですし。良い時代でしたね。
 2004年、30歳。アルノー・フルーラン=ディディエ名義の初アルバム『若き芸術家の肖像 = PORTRAIT D'UN JEUNE HOMME EN ARTISTE』(これはもちろんジェームス・ジョイスからの援用ですが、ジョイスの方の題は "PORTRAIT DE L'ARTISTE EN JEUNE HOMME"。違いははっきりしてるんですが、ここでは説明してあげない)を発表します。これがインディー時代最後の作品ですが、日本では有名なのにフナックやフランスのレコード会社やFM局は何もしてくれない、という恨み言なんかが歌われてました。
 2009年アルノー35歳。作詞作曲編曲、ほとんどの楽器、全コーラス、ジャケットのアートワーク、ヴィデオクリップまで、全部ひとりでやらないと気がすまないところは、基本的に全然変わってません。「自分の好きなようにやりたい」をSONY MUSICは通してくれた、と私あてのメールで言ってました。これがインディーでやっていたら、やっぱり貧乏臭さが出て来ると思うんですが、さすがメジャーと言いますか、何か音処理がまるで違うように聞こえてきます。いつも通りのどこか調律がいいかげんなようなピアノの音がしますが。
 これは一種のコンセプトアルバムです。トップの何も教えてくれなかった父親への恨み言「フランス・キュルチュール」から始まって、その父親への逆コンプレックスから、生殖(ラ・ルプロデュクシオン。再生産)することを恐怖する若者が描かれます。それは母親に対して問い、恋人や、68年(5月革命)を知っているおばあちゃん、44年(ドイツ軍占領時代)を知っているおじいちゃん、などに問いかけ、なぜみんなは自分に何も教えてくれなかったのか、左翼になることも保守になることも知らず、万が一子供ができたらば子供に何も教えることができない親になることを恐怖して、愛の行為がブロックします。
 これはある種のサイケデリックな体験です。戦争で死んだ父親を思い続けてその欠乏感ゆえに自分に壁をつくってしまう、ピンク・フロイド『ザ・ウォール』の物語にも似ています。多分今日のテレビ「タラタタ」を見た多くの人たちは、アルノーが若き日のロジャー・ウォーターズに極似していることに気がついたでしょう。私はこれは偶然ではない、と確信しています。
 アルバムは私小説的で、映画的です。多くを語らない父親は、最後の曲で、この若者が小さい頃に母親と離婚していることが明かされます。「たとえすべてを語り合わなくても、いいんだ、父さん」という和解がこのアルバムのエンドマークです。
 サウンド的には「アルノー印」とでも言うべき、ひとり多重録音コーラスワークがあちこちで「決め技」になっていて、バート・バカラック/ミッシェル・ルグラン風のメロディーとハーモニーがびんびん迫ります。
 ジャケットは本当に分かりやすく、愛し合う多数のカップルが寝そべるビーチで、ひとり立ち尽くすやせっぽちの若者の背中です。大人になれない35歳です。
 ぜひ聞いてみてください。アルノーの才能はちょっとここで加速度がついたように私は見ました。

<<< トラックリスト >>>
1. FRANCE CULTURE (フランス・キュルチュール)
2. L'ORIGINE DU MONDE (世界の起源)
3. IMBECILE HEUREUX (幸福な愚者)
4. REPRODUCTIONS (ルプロデュクシオン)
5. MEME 68 (68年おばあちゃん)
6. JE VAIS AU CINEMA (映画館に行く)
7. NE SOIS PAS TROP EXIGEANT (注文をつけすぎないで)
8. MYSPACE ODDITY (マイスペース・オディティー)
9. RISOTTO AUX COURGETTES (ズッキーニ入りリゾット)
10. PEPE 44 (44年おじいちゃん)
11. SI ON SE DIT PAS TOUT (たとえすべてを打ち明けなくても)

ARNAUD FLEURENT-DIDIER "LA REPRODUCTION"
CD SONY MUSIC FRANCE
フランスでのリリース:2010年1月4日


(↓「フランス・キュルチュール」のクリップ)


PS 1 : 12月10日
(↓12月9日放映のフランス4「タラタタ」でのアルノー・フルーラン=ディディエ)

2009年11月30日月曜日

メラニーからうろこ



ディアムス『S.O.S.』
 DIAM'S "S.O.S."


 2006年"DANS MA BULLE"は100万枚を売りました。ちょっと太めの郊外少女ラッパーが,サルコジや極右をめった切りにするライムと私小説的な郊外少女の生きざまが同居するカラフルなアルバムで,一方で政治的なリファレンスとなり,もう一方で少女たちの姉御分的アイドルになり,PARIS MATCH誌の表紙を飾ったり,2007年大統領選セゴレーヌ・ロワイヤルに肩入れするスターのひとりになり...。この最後の「スター」という言葉がくせ者で,スターシステムに乗ったその時からフレンチ・ラップの了見の狭い連中は猛烈な批難といやがらせをディアムスにするようになります。またスターになった時から黄表紙ピープル誌のパパラッチたちが待ち受けるようになり,私生活をぐじゃぐじゃにします。
 2007年後半から2008年にかけて,ディアムスの醜聞がピープル誌にさまざま書き立てられます。ナイトクラブで暴行,泥酔,暴言...。2008年3月,フランスで最も栄誉ある音楽賞ヴィクトワール賞に2部門ノミネートされ(結局ひとつも取れないのですが),そのセレモニーで"Ma France à moi"を歌ったあと涙を流しながらこう言います「私に次のアルバムができるのか私にはわからない。これが多分私の最後のヴィクトワールの宴になるわ。メルシ」。
 メラニーの地獄は既に始まっていたのです。
 この迷いと自信喪失、すなわち「書けない」「表現できない」「言葉が出ない」「人前に出れない」の数ヶ月間、心の平静を取り戻すきっかけを作ってくれたのがイスラムの教えであった、とメラニーは言います。イスラム改宗はずいぶん前だったそうですが、2008年その教えが上の事情でほとんどセラピーとなった頃からメラニーはヘジャブ(イスラム教徒女性のスカーフ)で頭髪を隠すようになります。この姿がパパラッチに盗撮されピープル誌を賑わします。曰く「元ヒット歌手ラッパー、イスラム原理主義に入信」のような書かれ方です。
 2009年、多くの人たちから再起不能と言われていたディアムス/メラニーMCが、新アルバムを準備していて、しかも予定されているツアーにはヘジャブ姿(一説には全身を覆い隠すニカーブ姿)でステージに出るという噂が流れます。折りも折り、フランスではニカーブをめぐって公共の場所でのニカーブ着用を禁止する法律を作るべきか否かの論争があり、またサルコジ政権の移民担当相エリック・ベッソンが「フランス人のアイデンティティー(identité nationale)」を明確化する全国的議論を展開して、極右まがいの論法でイスラム教徒や外国人および異文化を保持する移民出身フランス帰化人の表面化を制限しようとしている時でした。
 ディアムスの新アルバム『S.O.S.』はそんな時勢に押しつぶされて、愚かにも元人気歌手が話題狙いでイスラム帰依したことが一笑に付されて、誰からも相手にされずに消えていくはずと予想されていました。ところが、ところが、11月13日、EMIからリリースされた『S.O.S.』はアルバムチャート初登場1位。たとえどんな雑音があっても、郊外少女たちがその姉御アイドル、ディアムスを死守するために結集したということでしょうか。そしてNO.1FMネットのNRJがそっぽを向いても,ヒップホップ/R&BのFMであるSKYROCK,FUN RADIO,VOLTAGE FMなどが強力にディアムス新アルバムを後押ししたことも,美しい連帯だなあ,と見ました。
 11月18日,ディアムスが国営TVフランス3のフレデリック・タデイの番組CE SOIR OU JAMAISに出て新アルバムの中の最後の曲"SI C'ETAIT LE DERNIER"(これが最後だったら)をライヴパフォーマンスしました(ヴィデオ見ると口パク混じりですね)。10分のパフォーマンスです。こんなものなかなか国営テレビで見れるものではないです。白いキャップ(カスケット帽)の下にメラニーMCはイスラムのスカーフを見せています。フレデリック・タデイはそのイントロダクションで,この2年間にディアムスについて問われたこと(人気転落,神経衰弱,精神分析,イスラム,アフリカ旅行...)すべてに対する回答がこの曲にある,と語ってその10分のスペースを明け渡したのでした。
 アルバム『S.O.S.』は「メラニー」という曲に始まり,この「これが最後だったら」(14曲め)で締めます。この2曲がこのアルバムの核心中の核心と言えましょう。「メラニー」は,メラニー(生身の自我)とディアムス(アーチスト)という一心同体で二つに切り離された自分のひとりダイアローグです。メラニーは自分がこんなにボロボロになったのはディアムスのせいだと恨み言を言います。ディアムスはおまえはそれしかできないのだから(ライムを)書くしかないんだ,とメラニーを苛めます。その対話は何一つ包み隠すことなく,驚くほどはっきりと明晰に語られます。
 アルバムは地獄からの蘇りの記録です。前アルバムが"DANS MA BULLE"(ビュルの中で。ビュル=泡=漫画の吹出し)というタイトルであったから,メラニーはビュルを抜け出さなければ再生することができないと考えました。泡から抜け出すにはアフリカの砂漠を歩いて渡り切らねばならなかった(3曲め"Enfants du désert")のです。

 S.O.S. S.O.S. S.O.est-ce que tu pleures
  Dans le fond tout comme moi ?
   - S.O.S. S.O.S. おまえも私のように奥の奥で泣いているのか? -
   (4曲め「S.O.S.」)
 

 そしてメラニーは閃き的にこう叫びます「アイ・アム・サムバディー」(2曲め"I am somebody")。私はサムバディーよ。これなどはほとんどアルチュール・ランボーの "JE est un autre"(私とは一個の他者である)と同じものでしょうに。「私は」「メラニーは」「ディアムスは」と一人称で私的に,極私的にあらゆることを語り(ラップし)尽くした挙げ句,彼女は「サムバディー」という他者の境地に至ったのです。
 テレラマ誌ヴァレリー・ルウーはこのアルバムはこの冬中何度も聞くようなアルバムではないし,前作のように変化に富んだアルバムでもない,と断りながらも,このアルバムは「アッパーカット」であると評しました。この告白の密度と強度によって聞く者は打ちのめされる思いでアルバムを聞き終わる,と。
 傷ついた魂が徐々にもとの球形に戻っていくことが記録されたアルバム14曲。74分!長くて当たり前。これに時間がかからないわけがありまっせん。この蘇りに時間がかからないわけがありまっせん。このセンセーションを聞く者が共有できたら,このアルバムは凡百のラップアルバムとは切り離されて扱われなければなりません。アルバムチャート初登場1位。私は多くの人たちがこのアルバムの数曲で涙が迸り出たはずだと確信しています。

<<< トラックリスト >>>
1. Mélanie
2. I am Somebody
3. Enfants du désert
4. S.O.S.
5. Dans le noir
6. Coeur de bombe
7. Rose du bitume
8. L'honneur d'un peuple
9. Lili
10. Poussière
11. Sur la tête de ma mère
12. Peter Pan
13. La Terre attendra
14. Si c'était le dernier

DIAM'S "S.O.S."
CD EMI FRANCE / HOSTILE RECORDS 6860440
フランスでのリリース:2009年11月13日



(↓11月16日 FRANCE 3のフレデリック・タデイの番組CE SOIR OU JAMAISでのディアムス "SI C'ETAIT LE DERNIER")

2009年11月28日土曜日

今夜はコルテックスでした。



 今夜はパリの南郊外の町、レイ・レ・ローズ(世界的に有名なバラ園のある町です)で、アラン・ミヨン+コルテックスのコンサートでした。
 この3月の、突然のコルテックス30年ぶり一回こっきり復活コンサートは爺ブログ3月5日で紹介しましたが、一回こっきりと言っておきながら、「俺は引退する」と宣言しておきながら、こうして8ヶ月後にもう一度やってしまうのは、ミヨンさんがまだまだ若いという証拠でしょう。よいことです。
 今回はドラムスにマイケル・カースティング(ジャコ・パストリアスと長年プレイしていた人です)、ベースにジェラール・プレヴォ(ジャズ・ロックからヴァリエテまでいろいろやってましたが、特に知られているのは14年間ジプシー・キングスのベーシストだったこと)、サックス(+フルート)3人、そしてヴォーカル/キーボード/パーカッションの紅一点アドリーヌ・ド・レピネー(この人のマイスペース)という人たちに囲まれて、ミヨンさんがグランドピアノとフェンダーローズを弾き分けて、曲によってはヴォーカル&スキャットも披露します。
 またこのコンサートがクラシック系の音楽専門ケーブルTV局MEZZOによって録画され、後日ヨーロッパ中で放映されることになっているそうで、撮影カメラが3台あり、おまけにステージ前をカメラ搭載クレーンがしょっちゅう8の字状の動きをして、目障りなのがちょっと残念でした。
 レイ・レ・ローズのバラ園は高台にあり、そこからパリの町並みが見下ろせるのですが、そういう香り高い郊外都市の公立文化会館という趣きのホールでのコンサートで、土地の音楽好きの中高年が主な客層で、みんな良いクッションの座席に大人しく坐って、というタイプのコンサートですから、ニューモーニングでのようなファンキーでアルコールつきでほとんどがみんな立って踊って、というようなコンサートとはかなり様相が違いましたね。それでもこの客層はセヴンティーズを体験した本当のコルテックスファンかもしれない、とも見えないこともなく...。
 (↓ CORTEXのカルト的名盤"TROUPEAU BLEU"のレパートリー "La rue")

2009年11月24日火曜日

ペイジの技もなく、プラントの声もなく、しかし!



 THEM CROOKED VULTURES "THEM CROOKED VULTURES"
 ゼム・クルックト・ヴァルチャーズ 『ゼム・クルックト・ヴァルチャーズ』


 わが窓から見える対岸の夏ロックフェス「ロック・アン・セーヌ」で、この夏爺がぶっ飛んだバンドの初アルバムが届きました。クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・ネイジ(QOTSA)のジョシュア・オム、ニルヴァーナ〜ザ・フー・ファイターズのデイヴ・グロール、レッド・ゼッペリンのジョン・ポール・ジョーンズが集まったバンド、ゼム・クルックト・ヴァルチャーズです。私は門外漢で、普段ほとんどロックを聞かないのですが、その門外漢があのステージを見てしまったために、かなりの興奮度で待ちわびていたアルバムです。本当に久しぶりのことです。全ジャンルを通してアルバムを待ち望むこと自体、本当に久しぶりのことなのです。
 良いオーディオで聞きたい、そう思いました。結局人に遠慮することなく大音量で聞けるカーステが理想の環境ですし、しかもパリを外周する環状自動車道(ペリフェリック)を混雑のない夜10時以降に運転しながら聴くというのが、私の貧乏臭い恍惚の瞬間を持続的につくってくれたのでした。
 重戦車の地響きのようなものに快感を覚えるのではありまっせん。はっきりと聴こえてくるのは激しく連打するドラムスの音であり、うねりまくる重低音のベースの音です。オールドスクールの重いロックビートです。私はツェッペリンはわずかに編集盤4枚組CD(ロングボックス)1セットを持っています(日本で若い時分に持っていたLPは今頃どこで朽ち果てていることやら)。ディヴ・グロール関連ではニルヴァーナはLPを持っていますが、フー・ファイターズは何も持っていません。ジョシュア・オムに関してはQOTSAもイーグルス・オブ・デス・メタルも何も持っていないどころか、聞いたこともありません。こういう私ですからここで講釈できるようなものは何もないのです。
 アートワークがわかりやすい。鳥の頭をした男が3人。だから鳥男(トリオ)。
 なぜにこんなに強烈に揺さぶられるのか。その揺さぶられがどうしてこんなに心身の奥底を刺激するのか。これは説明のしようがないのですが、私たち中高年には最初に太古の記憶のような意識下の懐かしさなのかもしれません。幼年期に私は、自分が乗ったバスや車がバックする時、不快に近い、息がつまりそうなセンセーションを覚えたものでした。それがいつの間にか何ともなくなったのですが、子供の頃それがとても嫌だったという記憶はある。このバンドを夏にロック・アン・セーヌで初めて見た時、こういう音に揺られると、その不快に近かったセンセーションを思い出してしまったような気がしたのです。そしてその不快はバランスが崩れる恐怖だったのかもしれないけれど、グラっと揺れることが快感に近いものに変わっていく体験をあなたはしていませんか? 最初の煙草や最初のアルコールは誰にとっても不快なものであったはずです。それがグラっと揺れるときに違うセンセーションを覚えた時にあなたはそれをやめることが難しくなったのではありませんか? 遊園地で目の回る遊びをたくさんした記憶みたいなものじゃないですか?
 話が音楽から外れましたら、もとに戻すと、このバンドでこの揺れを作っている真犯人はデイヴ・グロールのドラムスでしょう。力まかせとシンコペーション、この二つの武器でゴッホの絵のように大気にさまざまな渦巻きを次々に描いてしまっているようなドラミングです。
 揺さぶりの13トラック66分。薬品もアルコールもなく陶酔できる人たちの幸福。デイヴ・グロールとJP・ジョーンズが決め手を握っている曲では、そこにペイジのヴィルツオーゾがなくても、プラントの恍惚ヴォーカルがなくても、それはそれで中高年を狂喜乱舞させるリズムの魔があります。だから、私はあまりメロディーやギターが気になりません。もう一度ナマで体験してみたいです。

<<< トラックリスト >>>
1. "No One Loves Me & Neither Do I"
2. "Mind Eraser, No Chaser"
3. "New Fang"
4. "Dead End Friends"
5. "Elephants"
6. "Scumbag Blues"
7. "Bandoliers"
8. "Reptiles"
9. "Interlude With Ludes"
10. "Warsaw Or The First Breath You Take After You Give Up"
11. "Caligulove"
12. "Gunman"
13. "Spinning In Daffodils"

THEM CROOKED VULTURES "THEM CROOKED VULTURES"
CD SONY MUSIC 88697619362
フランスでのリリース 2009年11月13日


(↓2009年レディング・フェスでのゼム・クルックト・ヴァルチャーズ。もろ「移民の歌」ノリの"Spinning in Daffodiles")

2009年11月19日木曜日

Juste quelqu'un de bien 単純にいいヤツ




11月19日パリ、ラ・シガールでケントのコンサートでした。
 ケントは1957年リヨン生れのシンガーソングライター/BD作家ですが,1977年にリヨンのパンクバンド,スターシューターのリードヴォーカリストとしてデビューしています。あの当時フランスのリセの子たちが「ロック」として夢中になっていたのは,テレフォヌ,ビジュー,リリ・ドロップ,トラスト,スターシューターだったんですが,リリ・ドロップのベーシストだったのがエンゾ・エンゾです。
 ケントもエンゾ・エンゾもバンド解散後,シャンソン・ポップのソロアーチストになります。それぞれメジャーシーンに出て来るのが90年代前半で,十数年間「中堅アーチスト」としてそこそこの活躍をしますが,音楽産業大会社は「そこそこ」とは契約更新しない時代になりました。ま,インディーから出直せばよろしいわけですが,ベテランの生きにくいご時世ですわね。
 エンゾ・エンゾに1995年度のヴィクトワール賞(最優秀女性アーチスト賞)を獲得させるきっかけとなったのが,ケント作詞作曲の"JUSTE QUELQU'UN DE BIEN"です。ケントはケントでそれなりのヒットアルバムやヒット曲があるんですけど,それでもケントの一番の代表曲となると,この曲になるきらいがあります。群を抜いていい曲ですもの。98年から99年にかけて,ケントとエンゾ・エンゾはデュエットで1年間のツアーを行っています。このあたりが二人の絶好調期でしょうか。

 ケントがインディーに移っての初のアルバムがこの『パノラマ』で,ギタリストのフレッド・パレムとケントの2台のギターを屋台骨にして,スターシューター時代から今日までのケントのレパートリーを文字通りパノラマ的に読み直してみよう,というプロジェクトです。きのうケントがステージ上のMCでも言ってましたが「最良のものは Best of ではない」という考え方で,人様にとってのヒット曲をセレクトするのではなく,自分にとって重要だったものをピックアップするという選曲方針です。そのためあまり知られていない曲も入っています。
 ギターが良く鳴っています。ギターをかき鳴らすというのは,この人のルーツであるオーソドックスなメインストリーム・ロックがよく見えてきます。激しいストロークを繰り返す時は往年のハードロックよろしく獅子舞首振りをしてしまいますし,エンディングにはネックを振り上げて開脚ジャンプしますし。
 普段の生活ではメガネをかけているのに,ステージでは首振りが激しすぎてとてもかけてられない,と言ってました。スポーツ選手のようにメガネにストライプをつければ,とすすめられるが,「それはセクシーではない」という理由でステージではメガネを拒否しています。おかげでギターのチューニング器や曲順表が見えなくて難儀しているそうです。歳だなあ。
 当夜の場所ラ・シガールはほぼ全席「着席」でした。ロックンロールじゃない感じでした。ステージ左側にギターを抱いたケントが立ち,右側でフレッド・パレムがさまざまなギターを持ち替えての伴奏です。ボディーがすんなりしているし,動きもしなやかなので,私などにはとてもうらやましい万年青年の図。その割に客席側は熟年女性の多さが目につきます。ステージングはそういう客層にも関わらず,ノスタルジー・モードの「合唱」強要が一切なく,歌い,語り,ギターをかき鳴らすという淡々とした進行でした(良い良い)。
 アルバム『パノラマ』の性格上,オリジナル曲発表当時の思い出などが語られたりするのですが,私にはナツメロではないので,全然大丈夫。ゲストで,アルバムにもデュエットで参加しているアニェス・ジャウイ,バルバラ・カルロッティ,アルチュール・H等が出ましたが,みんな待っていたのはスザンヌ・ヴェガでしょうかね。
 初めて見たケントだったのに,なにか懐かしい友人に再会したような親密さ,これが私たち年寄りが陥りやすいワナですな。ある種のセミ中高年層を魅惑するオーラに溢れている感じですね。気持ちいいんだから,しかたない。


(↓昨夜のライヴで,ケントとアニエス・ジャウイのデュエット "Parole d'homme")


(↓Youtubeで公開されているスザンヌ・ヴェガとのデュエット "Juste quelqu'un de bien")

2009年11月18日水曜日

ジャンゴ100 オン・ステージ



 11月17日昼、クリニャンクールのみの市(日本人はこう言うんですが、実は土地の人々は「サン・トゥーアンのみの市」と言う)のど真ん中、マヌーシュ・ギターの聖地ショップ・デ・ピュスで、アルバム『ジャンゴ100』の発表記念パーティーでした。
 ショップ・デ・ピュスは外から見るとただのビストロ・バーですが、奥にりっぱなステージ付きのレストラン・ホールがあり、ステージのホリゾンにはジャンゴ・レナールのお姿が。店内にはジャンゴが使ったいろいろなギターが陳列されていたりして、ファンにはたまらないでしょうね。
 りっぱな場所です。普段に来たら、レストランも結構高そうです。この上の階にはロマーヌも教師をしている新設の私立音楽学校があり、マヌーシュ・ギターを中心に後進の教育につとめています。昨日はその学校もロマーヌの案内で見ることができました。
 場所の持主はマルセル・カンピオンという人で、「旅の民」界ではたいへんな大物で、年末年始の風物詩となったコンコルド広場の大観覧車もこの人の持ち物で、移動遊園地やサーカス界で勢力のある人で、ジタン/ジプシー/マヌーシュ/ロムの地位向上やその文化を一般市民に理解してもらうために尽力する市民運動家でもあります。
 「ジャンゴ100」の企画者/プロデューサーのJMS(ジャン=マリー・サラニ)があいさつ。今日に生きるギタリストたる者,誰でもジャンゴ・レナールに負うところがあるはず。来年の生誕100周年に,そんなギタリストたちの「ありがとうジャンゴ」の気持ちを伝えたい。これはビレリ・ラグレーヌからのジャンゴ・トリビュートでも,ロマーヌからのジャンゴ・トリビュートでもない。有名無名を含めたギタリスト集合体からのジャンゴありがとうなのである--- というようなことを強調していました。いいですね。
 ビュッフェで美味しく食べ,美味しく飲み,そのあと「ジャンゴ100」のショータイムです。マトロの息子ふたり,エリオス&ブールー・フェレ,そしてロマーヌの姿は,この催しの最初の頃から見えていましたが,アンジェロ・ドバールの姿が見えません。「来ないんじゃないの?」と言う声が隣から(私に同行したハタノ君です)。あにはからんや,遅れに遅れてやってきました。ジャン=マリー・サラニがすかさずマイクを握って「メダム・ゼ・メッシュー,アンジェロ・ドバール!」とアナウンスしますと,大喝采が起こりました。このメンツではやはり一番のスターでしょうかね。
 というわけで,初冬の昼時,美味しい食事とワインの後,私たちは(そうそう見られるものではない)ロマーヌ,エリオス・フェレ,ブールー・フェレ,アンジェロ・ドバールの四重奏という極上の音楽を楽しむことができたのでした。ありがたや,ありがたや。

(お写真撮影はハタノ君でした)

2009年11月11日水曜日

Elaeudanla Téïtéïa エル・ア・ウ・ダン・ラ・テイテイア



 2010年1月20日公開のジョアン・スファール監督映画『ゲンズブール:その英雄的生涯』の予告編がおとといからインターネット(公式サイト)で見れるようになりました。
 エリック・エルモスニノ(ゲンズブール)、ルーシー・ゴードン(ジェーン・B)、レティシア・カスタ(ブリジット・B)、フィリップ・カトリーヌ(ボリズ・ヴィアン)、サラ・フォレスティエ(フランス・ギャル)、ヨランダ・モロー(フレエル)、ゴンザレス(ピアノバーのピアノ弾きだったゲンズブールの演奏シーンでの両手で登場)...。監督がもともと劇画家だったということなのか、極端に顔にこだわったキャスティングに見えますね。
 エリック・エルモスニノはインタヴューで「俺はローラン・ジェラ(フランスで最も人気のある声帯/形態模写アーチスト)じゃない」と言い張ってましたが、この予告篇見たら、やっぱり完璧コピーを目指しているような演技に見えます。イッセー尾形演じる昭和天皇を思い出しました。
 たった2分の予告編ですが、圧倒的に私の目を引いたのはレティシア・カスタのブリジット・バルドーでした。バルドーは最近のインタヴューでこのそのカスタ起用について「驚異的な美しさ。私の代わりになる人にこれ以上のものを望めないわ」とむしろ光栄のようなコメントをしています。先週まで苦しみながらバルドーの原稿を書いていた私はそのDVDや写真集をオーヴァードーズ気味に見ておりました。しかし、この予告編のわずか数秒登場のカスタ/バルドーを見て、私はコピーはオリジナルを凌駕してしまうこともある、と思ってしまいました。
 予告編の前半で歌われる「エル・ア・ウ・ダン・ラ・テイテイア」は、L AE T I T I Aレティシアという名前のスペリングを歌にしたものです。なにか、ゲンズブールがレティシア・カスタの出現を予期していたような歌にも聞こえてきます。

(↓『ゲンズブール:その英雄的生涯』の予告編)



PS : 11月18日。
オフィシャルサイトに公開されているヴィデオの一つに,映画の音楽シーンのMAKING OF があります。ディオニゾス、ゴンザレス,カトリーヌなどは知っておりましたが、マヌーシュ・ギターを弾いているのが,アンジェロ・ドバールと知った時は仰天しました。


PS 2 : 11月24日
昨日からオフィシャルサイトで「メーキング・オブ」ヴィデオの第3弾"Les Femmes(女たち)"が公開されています。「そして神はレティシア・カスタを創った」という感じですね。ありがたや、ありがたや。

2009年11月9日月曜日

今夜はプリミティフでした。



 11月8日、パリ10区ニューモーニングで、レ・プリミティフ・デュ・フュチュールのコンサートでした。日曜日の夜って、つらいですよね。勤め人泣かせですよ。どうしても引きます。そういう大衆心理を察してか、今回のステージはいつもに増してゲスト多数の大サーヴィス。舞台が狭い狭い。それと今夜は本格的にカメラ3台を使ってのヴィデオ撮りがありました。だから本当は満員の観客の熱気みたいなものも欲しかったんでしょうが、客の入りは八分かなあ、私も含めて年寄りが多いのと、椅子席がちゃんと用意されていて、みんなしっかり坐って大人しく聴いてました。手拍子する人もワルツを踊る人もなく。
 ゲストの中にラウール・バルボーサがいました。本当に久しぶりに見ました。新アルバムが出たそうです。 "Invierno en Paris"というタイトルで、クラシック系のZig-Zag Territoiresというレーベルから出てまして、11月10-11-12-13日とパリ11区のル・ゼーブルでお披露目コンサートです。今夜もいつもながらのダイナミックな蛇腹さばきで、ラウールが弾くととなりのダニエル・コランさんのアコーディオンが全然聞こえなくなってしまいます。ギターで例えて言えばクラシックギタリストのとなりでチャヴォロ・シュミットが弾いているような、音量の桁違いがあります。
 お箏のみやざきみえこ(この方はこうやってひらがなでアーチスト名なのですね)も終盤2曲で登場。やっぱりプリミティフに華を添えますねえ。お着物も美しいですし。フェイ・ロヴスキーのテルミンとの掛け合いなんですけど、才ある女性二人の目配せの応酬が美しかったりして。
 そして、今や髪の毛ふさふさで、道ですれ違っても誰か分からないような変身をとげたアラン・ルプレストが登場して、かの闘病中にプリミティフのアルバム"Tribal Musette"に彼がヴォーカルを入れた「カナル・サン・マルタン(サン・マルタン運河)」を披露。アコーディオンはフランシス・ヴァリスでした。(↓にちょっとだけヴィデオ)。

2009年11月7日土曜日

(あまの)ジャクノ



 ジャクノ(本名:ドニ・キニャール)が11月6日ガンで亡くなりました。52歳。
 ジャクノは1976年にエリ・メデロスらとザ・スティンキー・トイズを結成して、フランスのパンクシーンのパイオニアだったのですが、伝説では「安全ピン・ファッション」の元祖と言われています。そのあとエリと二人になってエリ&ジャクノとして3枚のアルバム(そのうちの1枚がエリック・ローメールの映画『満月の夜』のサントラ)を発表しています。
 このスティンキー・トイズからエリ&ジャクノに移行するまでの間に、ジャクノは1979年に1枚のソロアルバムをセルロイド・レーベルから出してます。これが後年フランスのシンセ・ポップのカルトアルバムとなるんですが、そこからのシングルで出たインスト曲「レクタングル」が当時まだ非合法だったフランスの自由FM放送局(言わば海賊放送ですね)でヒットして、さらにスイスのインスタントコーヒー屋(今や多国籍巨大食品コングロマリット)だったネスレに注目されて同社のインスタントショコラ「ネスクイック Nesquik」のテレビコマーシャルスポットの音楽に使われます。このおかげでジャクノのフトコロは大変潤ったと言われています。
 このジャクノ独特のピコピコサウンドは、当時18歳だったポルトガル人少女歌手リオのデビューアルバム(1980年)でも威力を発揮して"Amoureux solitaires"というヒット曲も生んでいます。そして81年にはエチエンヌ・ダオの(不遇の)ファーストアルバム"Mythomane"をプロデュースして、その結果としてダオのセカンドアルバム"La Notte la notte"(1984年)から急激に盛り上がる80年代ポップ・フランセーズ(ダオ、リオ、レ・リタ・ミツコ...)の影の大物のように見られるようになります。
 エリ&ジャクノ解消後、2006年まで6枚のソロアルバムを発表していますが、そのありようはひとことで形容すれば「ダンディー・ポップ」でしたね。

(↓ ジャクノ「レクタングル」)


(↓ジャクノ「レクタングル」をCMテーマにしたNesquikのスポット)

1980 - nesquick
envoyé par fifitou. -

2009年11月4日水曜日

愛情まじわりの場所

 最近聞いた、めちゃくちゃお気に入りの笑い話です。

 テレビの街頭インタヴューです。夫婦の方に別々にセックスに関する同じ質問をします。カップルでそれぞれ同じ答えが出れば夫婦円満の証拠ですが、違う答えが出ればどちらかが不倫をしていることになります。正直に答えてください。

 質問:最後にセックスをしたのはいつですか?
 夫:昨夜です。
 質問:相手はどなたでしたか?
 夫:妻です。
 質問:それはどこでしましたか?
 夫:(恥ずかしそうに)実はちょっと変なところなのです。
 質問:どこなのですか?正直に答えてください。
 夫:台所のテーブルの上でしました。

 質問:最後にセックスをしたのはいつですか?
 妻:昨夜です。
 質問:相手はどなたでしたか?
 妻:夫です。
 質問:それはどこでしましたか?
 妻:(恥ずかしそうに)実はちょっと変なところなのです。
 質問:どこなのですか?正直に答えてください。
 妻:... お尻でしました...。


 

2009年10月27日火曜日

ジャンゴ100年



Angelo Debarre + Boulou Ferré + Elios Ferré + Romane "DJANGO 100"
アンジェロ・ドバール+ブールー・フェレ+エリオス・フェレ+ロマーヌ 『ジャンゴ100』


 来年1月がジャンゴ・ラインハルトの生誕100周年にあたり、イヴェントや記念盤が目白押しです。ジャン=マリー・サラニ(JMS社。レーベル、音楽出版社、興行エージェント)は、こういうすごいメンツのギター四重奏団を組織して、ジャンゴ・トリビュートのスペクタクル(1時間45分)を立ち上げ、この11月から全国ツアーを開始しますが、このCDはそのスペクタクルのエッセンスを集めた12曲入りです。
 スペクタクルは4人で始まり、やがて5人目のギタリスト(ダヴィッド・ラインハルト)が加わり、次いで6人目のギタリスト(シュトケロ・ローゼンバーグ)が入り、また7人目のギタリスト(ノエ・ラインハルト)が登壇し...という感じでどんどんギタリストを増やしていき、フィナーレには100人のギタリストがステージに登って「マイナー・スウィング」を大合奏するという、大見せ場が待っています。このCDにはその100人版の「マイナー・スウィング」が、ヴィデオトラックとして収められています。
 ブールーとエリオスのフェレ兄弟は、ジャンゴの影武者的なギタリストだったジャン・"マトロ”・フェレの二人の息子です。そのマトロ・フェレも、バロ・フェレ、サラン・フェレと「フェレ3兄弟」としてフランスのジャズギターの黄金期を築きました。「ラインハルト」と「フェレ」はギタリストの屋号としては金看板ですね。とは言ってもお家芸を継いでいるだけではなく、オリヴィエ・メシアンに師事したり、フランク・ザッパと交流したり、というのが70-80年代にマヌーシュ・ギターを刷新する役目を負った第二世代のえらいところだったと思います。ラファエル・ファイス、ビレリ・ラグレーヌ、みんな火の出るようなギタリストだったですね。
 ロマーヌはトマ・デュトロンの師匠ですが、ショーマン的で先生的で、憎めないキャラのヴィルツオーゾです。それにひきかえアンジェロ・ドバールは電撃的で破天荒なイメージがありますね。この4人が四重奏団。まとめ役はロマーヌのような気がします。このCDでは曲目リストに、主題リードの順番、ソロパートの順番が名前で明記してあるのがいいですね。おお、ここからブールーのソロか、お、次ぎはアンジェロか、なんてわくわくしながら聞くことができます。
 基本的に私のマヌーシュ・ギターの聞き方は、早い、きれい、が決め手です。それだけで十分に楽しめ、うっとりでき、膝ががくがくになりますから。まあ、この4人のは文句なしですね。2曲めのフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」(ジャンゴが1946年に "Echoes of France"という題で録音して、スウィング版ラ・マルセイエーズで人気を博しました)なんか美しすぎて思わず拍手しましたね。今時「イダンティテ・ナシオナル(identité nationale国民としてのアンデンティティー、国民的資質)」を論議しようとしているネオ・コン派&サルコジ派は、こういうの聞いたらフェイクと思うのでしょうかね。

<<< トラックリスト >>>
1. Appel indirect
2. La Marseillaise
3. Artillerie Lourde
4. Anouman
5. Place de Brouckere
6. Nuage (feat. David Reinhardt)
7. Babik (feat. David Reinhardt, Stochelo Rosenberg)
8. Douce Ambiance (feat. Stochelo Rosenberg)
9. Manoir de mes reves (feat. Noë Reinhardt, Chriss Campion)
10. Djangology (feat. Chriss Campion, Noë Reinhardt)
11. Nuits de Saint-Germain-des-Près
12. Minor Swing (with 100 guitarists)
+ Bonus video track "Minor Swing" (with 100 guitarists)

Angelo Debarre + Boulou Ferré + Elios Ferré + Romane "DJANGO 100"
CD JMS JMS098-2
フランスでのリリース:2009年11月9日


(↓100人のギタリストによる『マイナー・スウィング』!)

2009年10月25日日曜日

今朝の爺の窓 (2009年10月)



 10月25日。今日から冬時間で、睡眠が1時間得したことになってますが、年2回のこの時間切り替えの日の微妙な時差ぼけ感覚は、歳とるにつれて辛くなっています。ましてや病人やお年寄りの方たちは、かなり体に負担がかかるのではないか、と思います。
 対岸のサン・クルーは、今年マロニエの大木の並木をばっさり伐ってしまったので、ずいぶん景色が変わりました。こちら岸の路上のポプラ並木も伐ったのですが、川岸土手に残っている数本の高いポプラの木が、この季節、またいい感じの黄色の葉になりました。これらの木はずっと伐らないでいてほしいです。
 ああ、今年もあと2ヶ月ちょっとになってしまいました...。

2009年10月24日土曜日

オック語擁護を訴えるカルカッソンヌ大行進



 10月24日、ラングドック=ルーシヨン地方オード県カルカッソンヌ(世にも美しい城壁の町)、警察側発表1万2千人、主催者側発表2万人、オック語教育の普及と公共放送によるオック語放送局の開設を求める大行進が挙行されました。フランス南部の30に及ぶ県と、イタリアのピエモンテ地方、スペインのアラン峡谷におよぶ「オック語圏」から多くの参加者がやってきて、地方言語の擁護を定めるヨーロッパ憲章に従った地方語立法を怠っているフランス政府を批判し、オック語学校の増設とオック語公共テレビ放送を求める行進には、カルカッソンヌ市長/国会議員(PS)のジャン=クロード・ペレーズや、農民同盟の指導者のひとりで欧州議会議員のジョゼ・ボヴェの姿も見えました。
 「地方語」と「方言」は別のものです。方言はひとつの言語(中央語)の地方的ヴァリエーションであり、地方語は中央語と異なる体系を持ったひとつの別の言語です。オック語を指す時、「南仏方言」「プロヴァンス方言」という解釈をされる場合がありますが、それは違います。フランスにはオック語の他にブルトン語、バスク語、コルシカ語、アルザス語といった地方語があります。これは文化遺産という観点からだけでなく、言語として日常的に使ってこその文化継承でしょうし、生きた言葉として新語/新表現を加えていく生成呼吸機能を持つかたちで育て守っていくべきでしょう。私たちが支持するオクシタニア音楽は、世界に開かれて、多様な文化と混ざり合いながら展開されているからこそ面白いのだと思います。中央が求めるカタチにとらわれないからこそ、でもあります。
 爺はこの歳からオック語を習得するのはかなり難しいような気がしているのですが、いつかやってみたいという意気だけはあるのです。

2009年10月20日火曜日

サム・カルピエニアとアペロを共にする



 先週のスチュディオ・ド・レルミタージュのコンサートに続いて、今週も国営ラジオの番組の収録のためにパリにやってきたサム・カルピエニアと、メニルモンタンのカフェでアペリティフを一緒に飲みました。ちゃんと話したのはこれが初めてですが、私は構えてインタヴューのつもりで来たわけではないので、雑談の域での会話でした。とは言っても引合いに出される書名や人名が知らない人が多く,それ誰ですか?と聞き返さなければならないことしきりで,結構肩がこりましたが,インテリっぽく突き放すのではなく,ちゃんと説明してくれるから(それでも理解できない爺の聞き下手)助かりました。
 私から「パリのコンサートでは誰も踊ってなかったけれど,気にならなかったか?」という一種の愚問。一瞬サムが口をゆがめます。オーディエンスの反応は土地土地で異なるけれど,サムはステージの上から「みんな踊れ」と煽ることなどないし,マルセイユでだって会場がダンスフロア化することなどめったにないそうです。そう,これは私のマルセイユに対する偏見。最近収録したラジオ番組でも,番組主の女性(イザベル・ドルダン)が開口一番「やあ,マルセイユは燃えちゃってるかな?」みたいな,マルセイユだとみんな狂って踊るのが普通というステロタイプ化があって,マルセイユでスピリチュアルな音楽やったら悪いんか?と突っ込みたくなったそう。誰もがマッシリアと同じことをしているわけではありません。そりゃそうでしょう。サムの音楽をCDで聞けば,体がびくびく動くこともあれば,椅子に釘付けになって動かなくなる瞬間もあります。
 私は「ダンソ、ダンソ(踊ろ,踊ろ)」ではないオクシタニア音楽というのを,ジョアン・フランセス・ティスネで体験していて,そのコンサートはみんな椅子に座って静粛に聞いてましたし。そのティスネも実験音楽出身なのでした。サム・カルピエニアは若い頃はロックバンドをやっていたのですが,ある日,英米ポップ音楽の影響を一切絶った実験音楽に没入していきます。ジョン・ケージ,スティーヴ・ライヒ...。一分未満の音楽ばかり作っていたそうです。それはオック語との出会いの時でもあって,オック語を習得することによって思考や価値観の精神革命をしていたわけですね。
 「俺は無神論者ではないし,精神的なものを崇拝している。時には俺はブッディストでもムスリムでもある」なんて言ってましたが,コーラン読んだことあるの?と聞いたら,それはないし,豚だって食べるよ,と言います。すべてはメンタルな世界なんだなあ,サム君は。
 神秘なるもの,聖なるものに惹かれる性向があり,日本の音楽では雅楽と声明をよく聞くと言います。「これは聖なる音楽だろ? 宮廷で演ぜられる音楽だろ?」と聞いてきて,その背後にある仏教/神道の思想について尋ねられたのですが,爺はわかりませんから答えません。
 「トルバドールだって宮廷の音楽だったんだ」と,その世界に入って行きます。一般に大衆歌謡のように思われているようなところがあるが,トルバドールの最高位は宮廷の聖なる詩と音楽であった,と。サムが興味あるのはこの言わば「上級の」トルバドールの世界で,オクシタニアだけではなく当時の欧州各地の王宮でこの音楽が人気を博した原因の第一は「アムール・クルトワ(献身の愛)」であるという話になります。
 「トルバドールにとって最も崇高で聖なるものは何かしっているかい? - それは女性なんだ。これは当時の政治権力からも宗教権力からも非常に都合の悪いものだったんだ」と続きます。トルバドール,オック語,カタリ派が歴史から消されていく課程で,その禁止の第一理由が「女性崇拝」であるというサム君の説,好きですねえ。女性が崇拝賛美されていた12世紀のオクシタニアは,たぶん夢のような国であったから滅ぼされたのですねえ。女性が神よりも崇められていた,これは危険思想になってしまったんですね。私は今も奥様を神よりも崇めているから,警察から目をつけられるのですね。
 サム・カルピエニアはオクシタニアの生まれではありません。ノルマンディー生まれです。オクシタニア文化に傾倒する人はオクシタニア生れでない人がかなりいます。マッシリアのタトゥーもパリ圏生れですし,ル・クワール・デ・ラ・プラーノのマニュ・テロンも北フランス出身ですし,ラ・タルヴェーロのダニエル・ロッドーはイタリア/サルデーニャ島系ですし...。オクシタニアは人種でも血のつながりでもありません。
 「シークエンサーとの出会いがデュパン結成のきっかけだった」と言います。とりたててトラッドをやろうというつもりなどまるでなくて,フォス・シュル・メールの巨大製鉄所の,インダストリアルでプロレタリアでプロヴァンサルなアトモスフィアを表現したら"L'Usina"(2000年)というアルバムになった,と淡々と語ります。ヴィエル・ア・ルー(ハーディー・ガーディー)も,シークエンサーがなければ使わなかったろう,と。エレクトロ・エクペリメンタルから出て来た人だもの。そしてそれをやっていく課程で,すなわちムーヴメント(運動)のさなかで,いろいろと変わっていくのですよ。自分は常に生成過程にある,ということです。
 ぼそっと「デュパンは "L'Usina"がすべてだった」と言いました。2枚目/3枚目ありましたが,デュパンはファーストアルバムを越えられなかったんだと思います。この点にはあまり後悔していないようでした。
 イランのパーカッショニスト,ビージャン・シェラミニとのデュオのプロジェクトが進行中で,ひょっとするとマニュ・テロンとガシャ・エンペガをもう一度組むかもしれないし,ひとつところに留まることが嫌いなサムは,同時進行で八面六臂の活動をするのが好きなのだそうです。欲張りな38歳でした。

2009年10月17日土曜日

ようやってクレオール



 10月16日、女性2人(妻と娘ですが)を連れ立って、パリ10区ニュー・モーニングでオルラーヌ Orlaneのライヴを。
 オルラーヌはレユニオン島生まれのクレオール女性で、ある日、ある事情で、マルチニック島に移住します。それからずっとマルチニックを第二の故郷としてアーチスト活動をしていますが、19歳でプロデビュー(この世界では実力のある人はみんなコーラス/バックヴォーカリストとしてデビューします)し、トゥーレ・クンダなどとも活動を共にしたことがあります。
 今日びでは珍しいことではなくなりましたが、めちゃくちゃにすぐれた歌唱力があって、美貌とセクシー度を伴って、なおかつ作詞作曲ができる、という90年代ズークの世界では稀な女性アーチストでした。
 そして島のせまい了見のいがみあい、というのがまだありまして、マルチニック島、グアドループ島、ギュイアンヌというカリブ圏の3つのフランス海外県で、人々が出身地の違いで牽制しあうミニ・ナショナリズムがあります。その中に、このレユニオン島出身の女性が入っていって、カリブ大衆音楽ズークを歌う、という音楽活動には、いろいろ障害があったのではないか、と察します。「レユニオン娘のズークは本物じゃない」みたいなレッテル論ですね。それをこの女性は軽々とクリアーできる、類い稀なる歌唱力と、溢れ出るチャームで、島のシーンをとりこにしてしまいます。
 ズーク退潮? とんでもない。確かに90年代、島の若い衆はヒップホップ/R&B/ダンスホールサウンドシステムに大挙して流れていったのでした。ズークは熟し、根をはった老若男女のダンスミュージックとなったのでした。
 オルラーヌがステージでこんなことを言いました「よその国ではディスコやクラブで、みんなひとりひとりで踊っている。この時代に男女二人が組になって踊っているのは、私たちアンティル人だけよ。ズーク・ラヴを発案した人たちは偉い。私たちはそれを誇りに思わなければならない。そして私たちはず〜っとズーク・ラヴの火を絶やさないでいきましょう!」。
 男女密着ダンス「コレ・セレ(くっついて、しめつけて)」は、カッサヴ/ジョスリーヌ・ベロアールの大ヒット曲で、ランバーダに先立つこと5年。以来ズーク・ラヴは、カリブのエロいダンスとして、アンティル(とフランスのアンティル・コミュニティー)のダンスホールを席巻してきました。この火を絶やさないでいきまっしょう!とオルラーヌは、時流もへったくれもなく、百年一日のような、ベタな、もはやレトロな趣きもある、ズーク・ラヴを正攻法で展開するのです。これが、すごくいいのですよ、お立ち会い。
 キャリアすでに十数年、4枚のアルバムを発表しているオルラーヌは、島では押しも押されもしない大スター。しかし、なんと、これが初めてのフランス本土、パリでのステージなのでした。MCは最初から最後までフランス語でした。クレオール語ではないのですよ。これが内輪受けのショーにならず、きちんとしたエンターテインメント性を際立たせる演出になっていたと思います。そして話上手。乗せ方も上手。挑発も上手。貫禄も十分で、バックバンド(キーボードx2、ギター、ベース、ドラムス、パーカッション、バックコーラスx3)に睨みをきかせながら、見事な統率力でひっぱる女座長のたたずまいです。バンドもうまいです。いつもながらマルチニックの演奏水準の高さ(本土と比べると)に感服します。
 オルラーヌがステージで強調していたのは「クレオール性」で、レユニオン、マダガスカル、ハイチ、マルチニック、グアドループ、ギュイアンヌなどにまたがった汎クレオール文化が彼女のアイデンティティーのよりどころとなっているわけで、海を隔てていても兄弟姉妹的な親密性を感じているのです。それは翻って、ブラックネスとはちょっと違うメティス性、混血性、多文化を吸収するハイブリット性みたいなもので、そのことがバラク・オバマに対しても胸を熱くさせる親近感を抱いてしまうのですね。オバマの大統領就任の初演説の時に、生中継テレビを見ながら、演説をしくじるんじゃないかとハラハラしていた、なんて話してました。
 現時点での(局地的ではありますが)大ヒット曲「ショコラ」は、この肌の色のことでもあり、アフリカネスよりはクレオールネスに近く、彼女たちクレオールが持っている官能的で扇情的な愛情表現をズーク・ラヴで歌い上げるものです。クレオール女性万歳。チョトレート・イズ・ビューティフル。

↓オルラーヌ「ショコラ」のヴィデオ・クリップ


↓オルラーヌ「ショコラ」ライヴ。10月16日パリ、ニュー・モーニング

2009年10月16日金曜日

怒れる農民たち



 10月16日,朝7時半,イル・ド・フランスの穀物農民が大挙してシャンゼリゼ通りに登場し,工事用防護柵で通行を封鎖し,その中に干し草の藁輪などを散らし,タイヤを焼いて黒煙を出し,シャンゼリゼのランドマーク,レストラン「フーケッツ」(2007年5月,サルコジ大統領当選の夜,ここでパーティーが開かれました)の前で「フランス農業は滅亡の危機にある」と叫び,穀類の生産者買上価格の値上げを訴えました。「14サンチーム(約18円)の金をかけて作った1キロの麦を,今日われわれは9サンチーム(約11円)で売っている」と。
 この農民の抗議行動は,パリ圏だけでなく,フランス全土で同時多発的に展開され,高速道路での牛歩戦術(この日本語,とても農業的な含みがありますね)などで,全国要所の交通をマヒさせています。この9月には牛乳生産者が,同じように生産原価を下回って牛乳を売らざるをえない現状への抗議行動を行っています。
 このような光景は,数年前からテレビでよく見ます。大手ハイパーマーケットで,輸入の野菜や果物が生産者価格よりも安い値段で売られているのに抗議して,農民団体がその店の前にダンプカーでやってきて,ダンプいっぱいのイチゴやトマトやジャガイモを店の入口に落として,店をふさいでしまうという図です。地球のあちこちで食糧不足で人々が苦しんでいることを考えると大変ショッキングな映像です。
 これらの抗議行動はフランスの農業組合の多数派であるFNSEA(フランス農業団体連合会)の指揮の下に行われています。歴史的に農業大国であるフランスでは,たいへんな勢力を持った団体で,言わば農業の「経団連」的な存在です。
 どうしてフランスの農民が窮地に追い込まれているのでしょう? それはフランスにヨーロッパ諸国からフランス産より安い農作物や農産食品原料が大量に入ってきて,値段で太刀打ちができないからなのです。ヨーロッパが自由流通市場として拡大された時,隣国の安いものが自国の産品を駆逐してしまうというケースは予測できたわけで,農業に関してはその対策としてPAC(Politique Agricole Commune 共同農業政策。英語表示では CAP)という価格統制政策をとりました。それは安い国のものを高く売り,高い国のものを安く売ることで価格の平均化を保ち,フランスのように生産費の高いものを欧州のために安く売らざるをえない農家に対して欧州が補助金を払って収入の落ち込みを防ぐというものでした。
 欧州がまだ隣の国の顔が見えていた頃,このPACでフランスの農家は一時的に大変な潤いを得ました。FNSEAはこれに乗じて農業のオートメーション化と集約化を推進して,機械と農薬と化学飼料を大々的に導入したインダストリアル農家が続々登場します。その結果,作りすぎ,値崩れ,環境破壊,狂牛病などが次々に現われたのです。そして農業のグローバリゼーションは,欧州のPACなどで管理ができるようなものではなくなり,農産物の価格はアナーキーで,ハイパーなどの大規模販売網はフランス優先/欧州優先という考えはもうありませんし,ネスレーなどの巨大食品会社は原材料の出どころは価格優先で決めているでしょう。
 この農民たちは損をするために働いている,と言います。自腹を切って自分の農作物を買ってもらっている状態です。これはなんとかしてほしいもの,と同情します。それが国の農業政策の失敗で,農業が壊滅的な打撃を受けているのだから,国に補助金を出せ,という要求に変わる時,どうしてなんだろうか,と首をかしげてしまいます。集約第一主義で,あえて環境汚染までして,農業のインダストリー化を進めていったFNSEAの責任はどうなるのか,と。
 もう何年も前からブルターニュの海岸に大量発生している緑色の海藻は,非常に毒性が高く,この夏それから発するガスで馬が死に,そのあと人間も同じガスで死んだ疑いが持たれています。この海藻は,大量の豚や牛を少ないスペースで飼育して,短期間で肥大化させるための飼料を食べた動物の排泄物が捨てられ,川から海に流れ出るところで繁殖しています。美しいブルターニュの海岸がこの海藻のために,ヴァカンス客を失っています。
 私はこういう農業に疑問を抱きます。安全な食べ物を作ってこその農業ではないか,と。グローバリゼーションに勝ち抜くためには,何が何でも競争力をつけなければならない,それを国は援助する義務がある,という考え方がこの人たちにあったりしたら,とても困るのです。
 

2009年10月15日木曜日

ルーラル・ステレオフォニック



La Talvera "Sopac e Patac"
ラ・タルヴェーロ『ソパック・エ・パタック』


 いいジャケですね。微妙な明暗つきの青色に,束になった複数の白線があちらからこちらから。これ,北斎からのインスピレーションなんですよ。富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」です。これはフランスでも"La vague hokusai(ラ・ヴァーグ・オクサイ=北斎の波)"と呼ばれて超名画あつかいの人気があります。

 新しいアルバムのタイトルは『ソパック・エ・パタック』。疾風怒濤シュトルム・ウント・ドランクみたいなもんで,直訳すると「浮沈と戦い」のような意味です。なんとこれが通算13枚目のアルバムで,この冬から来年にかけてラ・タルヴェーロは結成30周年の記念イヴェントを行います。そのひとつで11月にはブラジルに行って,このアルバムにも参加しているノルデスチのアーチスト,シルヴェリオ・ペッソアとコンサートを行いましたし,来年にはシルヴェリオ等と本格的なオクシタニア/ノルデスチ・アルバムのプロジェクトがあります。そして12月18日から20日の3日間,討論会やエキスポを含むラ・ラルヴェーロ祭りがあり,コンサートの部ではルー・クワール・デ・ラ・プラーノ,ムスー・T&レイ・ジューヴェン,ランブルスケラ(ベアルン地方の8声ポリフォニー・グループ),レ・フレール・コルニック(ブルターニュのビニューとボンバルドの二重奏兄弟),マルク・ミネリ(元ロック・ギタリスト)等が出演します。
 30年の節目に,気合いの入ったアルバム,という印象が強いです。このアルバムに関して,南西フランスの大手地方日刊紙ラ・デペッシュ・デュ・ミディ10月29日号にダニエル・ロッドーにインタヴューが掲載されています。

Q : 新アルバムの特徴は何ですか?
ダニエル・ロッドー : 13枚目というのは縁起のいい番号で,このアルバムではレパートリーがより拡大して,かつより多様化したんだ,しかもオクシタニアを離れることなくね。ここに収められた16曲には,ロックギタリストのマルク・ミネリや,有名なブラジルのシンガーシルヴェリオ・ペッソア,新しく女性ヴォーカリストとして加入した22歳のエディット・ブイーグ,それからブルターニュのミュージシャンなども参加している。昨今私たちはよくブルターニュで演奏するので,友だちができたんだ。
Q:収録された歌はいつもに増して状況にコミットしたものが多いですね。これはどういう意味なのですか?
DL : これらの曲はまずダンスさせるための音楽なんだ。しかしその歌詞は明確な政治的意思表示でもあるんだ。3曲めの「バラーダ」はすべての「政治囚」のために作られ,とりわけコルシカのエリニャック地方長官殺害の廉で有罪となったイヴァン・コロナに捧げられているが,私はコロナが有罪ではないと信じている。加えてジュリアン・クーパ(註:TGVの架線切断妨害を組織したとして「テロリスト」として逮捕されたタルナックの青年)にも言及していているが,彼は全く無実だ。たくさんのタルナックの住人たちがコルドに私たちに合いに来て,私たちは多くの友人たちをつくった。別の歌で10曲めの「サルキーリャの寓話」というのがあるが,これは「サルコの寓話」と直訳してもいい。この歌の結論は,私たちが幾万人にもなって街頭で叫んだら,しまいには彼を追い出すことができるだろうと歌ってる。
Q : 9曲め「ペンヌの鬼」で描かれている人物は誰ですか?
DL:これは19世紀末の伝説的人物。ジャン・ジョレスと同時代人,もともとは幾何学者で,ジョレスに対抗して国会議員選挙に立候補したが,のちにジョレスのために出馬辞退をしている。「ペンヌの鬼」は狂信的夢想家で,軍隊の解体を説き,貧富の溝をなくすことを望んでいた。彼は1立方メートルもある巨大な角灯を持っていて,世の中に正義の光を当てようとしたんだが,それをパリの国会議事堂前でかざしたおかげで,サン・タンヌ精神病院に収容されるはめになる。私たちの歌は,もしも彼が今日この世に帰ってきたら,愚行と虚栄のために暗くなった世界を照らし出すには100立方メートルのランプが必要だろう,と歌ってる。

 30周年おめでとう。またコルドに遊びに行きます。
 ラ・タルヴェーロ:ダニエル・ロッドー(ヴォーカル,ディアトニック・アコーディオン,クラバ,バンジョー,カヴァッキーニョ,口琴,パーカッション....),セリーヌ・リカール(ヴォーカル,フィフル,フルート...),セルジュ・カボー(デルブカ,ボンゴ,パーカッション...),ポール・ゴワヨ(グンブリ,ベリンバウ,カルカヴァ,ネイ...),ファブリス・ルージエ(クラリネット,バリトンサックス...),エディット・ブイーグ(ヴォーカル),トニー・カントン(ヴァイオリン)。

<<< トラックリスト >>>
1. Se venes pas a La Talvera (きみがラ・タルヴェーロの方に来ないのなら,ラ・タルヴェーロがきみの方に行くよ)
2. Al bal de La Talvera (ラ・タルヴェーロのバル)
3. Balada (バラード)
4.Escrivans (著述家たち)
5. Abojo do Sertao (セルタンの呼び声)
6. Canti canta cantem (私は歌い,彼は歌う,みんなで歌おう)
7. Sénher Francés (フランス人さま)
8. Se jeu vali pas gaire (私に何の価値もないのなら)
9. Lo Terrible de Pena (ペンヌの鬼)
10. La fauta de Sarquilha (サルキーリャの寓話)
11. Filhas que setz a maridar (嫁ぎ行く娘たちへ)
12. Passa aici. Passa alai (こちらを通って,あちらを通って)
13. Il a occis Tanie (彼はタニーを殺した。イラオクシタニー)
14. L'engarçaire (ペテン師)
15. Sardenha (サルデーニャ)
16. E ro la la (エ・ロ・ラ・ラ)
17. Tornam un cop de mai (私たちはもう一度帰ってくる)
18. Las linhas de tas mans (きみの手相)

LA TALVERA "SOPAC E PATAC"
CD CORDAE/LA TALVERA TAL15
フランスでのリリース:2009年11月2日


2009年10月14日水曜日

サム、もう一度弾いてくれ

10月12日、スチュディオ・ド・レルミタージュ(パリ20区、メニルモンタン)、サム・カルピエニアのコンサートでした。
2台のマンドーラから、どうしてこんなにたくさんの音が聞こえてくるのでしょうか。
デュパンにいた時からサムの音楽は、晴れた地中海の空という感じがしなくて、曇天あるいはフォス・シュル・メールの製鉄工場の排煙に覆われたような地中海を想わせるのですが、それを切り裂いて天を突くようなサムの声が祈りや予言や呪詛のように迫ります。とてもミスティックな瞬間があります。

2009年10月6日火曜日

In Jane B. we trust... bis



 10月6日(火)夜10時から12時まで,ジェーン・Bの呼びかけでパリ市役所前でアウン・サン・スー・チー解放要求集会が開かれます。とは言っても演説やら音楽アーチストのライヴがあるわけではなく,"Veillée Silencieuse en soutien au prix Nobel de la paix Aung San Suu Kyi"(ノーベル平和賞受賞者アウン・サン・スー・チーを支援する静粛な宵)と題されていて,「参加者はローソク持参のこと」と協力をお願いされています。
 7月にスー・チー即時解放要求の声明に賛同署名した多くのアーチストたちが,この宵に参加することを表明しています:カトリーヌ・ドヌーヴ,シャーロット・ランプリング,ミッシェル・ピコリ,マリオン・コティヤール,アニエス・ジャウイ,アリエル・ドンバル,アルチュール・H,ジャック・イジュラン,ヴァンサン・ドレルム,ザジー,ベルナール・ラヴィリエ...。
 今朝国営ラジオのフランス・アンテール,パスカル・クラークの番組に出演したジェーン・Bは,全世界で同じような,静粛ながら強い抗議のローソクの炎が灯りますように,と語っていて,先月日本に行った時日本の国会議員たちの前で私はスー・チーさん支援を訴えたが,たいへんポジティヴな印象だった,とも言いました。日本の国会議員たちの「うなづき」は一体何を意味するのでしょうか。責任持ったうなづきをしていただきたいものです。
 番組主パスカル・クラークは突っ込んで「7月の解放要求署名者の中にカルラ・ブルーニがいたでしょう。カルラ・ブルーニは今晩来ないんですか?」と聞きました。ジェーン・Bは失礼のないように「私は彼女のスケジュールを知らないので...」と逃げました。カルラ・ブルーニ・サルコジは昨日10月5日に公式(つまり公人として,大統領夫人としての)ウェブサイト,www.carlabrunisarkozy.org をオープンしましたが,さまざまなバグが発生していて,それを直すのに手がかかりっきりなのかもしれまっせん。


PS 1 10月7日
昨夜の写真が Elle.fr で公開されてました。
マリオン・コティヤール + ジェーン・B +カトリーヌ・ドヌーヴ

2009年9月30日水曜日

I don't know OAI?




OAI STAR "MANIFESTA"
ワイスター『マニフェスタ』


 同志たち,マッシリア・サウンド・システムの別働隊ワイスターの新譜が届きました。マッシリアのMCガリ・グレウとリュックス・ボテを中心に結成された「ロックバンド」でしたが,2008年7月にリュックスが病死し,バンドの存続が危ぶまれていたところ,ガリの不屈の心意気で新フォーメーションでバンドを立て直し,2009年からライヴ活動も再開しました。
 マッシリアが3つに分かれ,タトゥー/ムッスーTがシャンソン・マルセイエーズ,ジャリ/パペーJがエレクトロ・ラガの方向に進んだのに対して,ワイスターは最初からロックと決めていました。それはリュックスの持っていたパンク性と,クラッシュからレゲエに入ったガリのロック回帰願望によるものでした。中高年化してワビサビ趣味となったタトゥーとジャリの反対方向へ,轟音ギターとタテ乗りビートへと進んで行ったのですね。とりわけ若いというわけではないガリとリュックスのリファレンスからすると,ラモーンズとビースティー・ボーイズだったのです。
 前作『ルールドへ行け』が2006年。その後にサルコジが大統領になり,マッシリアの再結成アルバム『ワイと自由』とツアーがあり,リュックスが病死し,という事件がありました。リュックスとガリの掛け合い/チャーチュがバンドの核であったわけですから,ガリは当然の帰結としてワイスターの消滅を考えました。そこに現われたのがダブムード(DUBMOOD)という若造で,CHIP MUSICチップ・ミュージックの達人でした。これはコンピュータ・チップによるプログラミング・ミュージックで,ゲームボーイやアタリのゲーム発振音を使います。ちょっとマニュ・チャオが使っているゲーム音みたいなもんですね。これをガリはワイスターの轟音ロックンロールと合わせることによって,リュックスのパンク性に代わるインパクトとなって縦横無尽にポゴダンスへと若い衆を誘う強力な武器になるのではないか,と考えたのです。
 ワイスターの新フォーメーションは
 DJ カヤリック(from マッシリア。ターンテーブル係)
 ダブムード(ゲームボーイ,アタリ)
 ブズブズ(ギター)
 ガリ(MC)

で,マッシリアのギタリスト,ブルーはタトゥーのバンド「レイ・ジューヴェン」とマッシリアのみの掛け持ちになって,ワイスターには参加していません。
 
 唐突ですが,なぜ私がオクシタニアの連中に強烈な魅力を感じたのかを思い起こしてみると,その一番の要因は「訛りのある音楽」だったからです。歌詞だけではなく出て来る音楽そのものに強烈な訛りがある。それはフランスの中央で(ひいてはテレビやラジオで)聞かされる音楽とは全く違う,訛りと地方の町の臭いがしみついた音楽でした。マッシリアやファビュルス・トロバドールは中央で受けることなど眼中に入れていないかのように,地方の若い衆を地方訛りのまんまで煽って乗せまくっているように見えました。土地にあるなにか,訛りの中にあるなにかに強烈にヴァイブすることによって,若い衆をぐんぐん引きずり込んでいったようなところがあります。ボルドー,トゥールーズ,マルセイユ,ニース...それぞれの訛りがうなりをあげてダンスの輪になっていくようなシーンに見えたのです。
 マッシリア・サウンド・システムというバンドはアイオリ(大蒜マヨネーズ),パスティス酒,ペタンク球戯,OM(プロサッカーチーム:オランピック・ド・マルセイユ)といった土地のフォークロアをレゲエ・ビートにシンクロさせることによって,マッシリア独自の訛りのある音楽を作ったのです。その強烈な訛りでもって4人のMCがマイクを握って若い衆(ミノ)を煽っていたわけです。このマルセイユ訛りということに限って言えば,あえて4人に順番をつけるとすると,私には 1.リュックス・B,2.ジャリ,3.タトゥー,4.ガリという順位になります。死んだリュックス・Bが,ステージでの「ワイ」のぶちまけ方にしても,言動にしても,飲酒量にしても,4人で最もマルセイユ的だったのではないか,と私は思うのです。
 マッシリアもそうですが,ワイスターはこの過激なマルセイユ人キャラクターを失ったのです。これはかけがえのないもので,誰もリュックスの代役はできません。
 で,酷なことを言いますと,ガリはこの訛りの重さがまだわかっていないのではないか,と思ってしまったのです。リュックスの穴埋めに,この機械音(アタリ,ゲームボーイ)はないんではないの? 
 ちがう問題を出します。機械音は訛りを持てるか? - これはできると思います。私たちが80年代に初めてアルジェリアのライを聞いた時,この人たちのシンセサイザーの音は全然違うと思ったものですが,これも訛りでしょう。リズムボックスだって訛る。ターンテーブルも訛ると思います。
 新生ワイスターはこの訛りを軽んじたようなところが,とてもとても残念です。轟音ギターとピコピコ音とターンテーブルに訛りがないんです。ディストーションにも訛りがない。MCのガリひとりの心意気だけはこのマルセイユ音楽は成立しないのです。ビールのがぶ飲みの音楽には聞こえても,パスティス酒の酔い心地はない,というわけです。
 3曲め「バレティ・アトミコ」は,ご機嫌なエレクトロ・ロックンロールだけど,バレティ(オクシタン・ダンス・パーティー)という言葉だけをさし挟むだけではバレティにならないんじゃないのかしら。
 7曲め「アー・ユー・フロム・マース?」は,ありえない(例にするのも恥ずかしい)マルセイユでのマドンナとの出会いを物語るトーキングものですが,同じような話をするんでも,この話者がリュックスだったら全然違う出来になりそうな気がします。
 10曲め「シェリー」はクロード・シクル(ファビュルス・トロバドール)作の,男女の家事分担をテーマにした日常茶飯事ウンチク歌です。なんか浮いてますけどいい歌です。その他2曲をクロード・シクルが書いています。
 タトゥーとジャリも1曲ずつ詞を提供してます。

 マッシリアの『ワイと自由』では,ガリが二人の間に入ってまとめ役になっているような,今やバンドのイニシアティヴを握っているのはガリのような,そんな大きな大きなガリに見えたのでした。去年見たエリゼ・モンマルトルでのライヴでも,タトゥーとジャリは時々ステージを降りてしまうんですが,ガリはずっと出ずっぱりでしたし。マッシリアはガリの時代だなあと頼もしく見ていたのですが。
 まあ,マッシリアのガリとワイスターのガリは同じことをしてはいけない,という変な使命感もありましょうね。新生ワイスターはちょっとがっかりだけど,この機械音がいつかは訛りを持つに至るかもしれませんし。新しい,全くオクシタニアに拘らないファンを掴むかもしれませんし。

<<< トラックリスト >>>
1. SEME TON CHANVRE PAYSAN
2. JE VEUX FAIRE BRULER LA MER
3. BALETI ATOMICO
4. FEIGNANT & GOURMAND
5. SATURE NIGHTS PART 1
6. FIRE
7. ARE YOU FROM MARS?
8. LA VIE QU'ON MENE
9. ANTIFESTIF
10. CHERI(E)
11. FONKY PLOMBERIE
12. LA BOITE ET LES CLOUS
13. CANADER LOVE
14. SATURE NIGHTS PART 2

OAI STAR "MANIFESTA"
CD WAGRAM 3207812
フランスでのリリース:2009年9月21日


(↓"CHERI(E)"のヴィデオクリップ)

 
(↓おまけ。9月30日パリ,グラザールでのライヴ。"FONKY PLOMBERIE")

2009年9月29日火曜日

He's a rainbow.



FRANCOIS & THE ATLAS MOUNTAINS "PLAINE INONDABLE"
フランソワ & ジ・アトラス・マウンテンズ『洪水に襲われやすい平原』


 フランソワ・マリーは2003年からイングランド西部の港町ブリストルに住んでいて,その地の音楽シーンに溶け込んで活動しているフレンチーです。出身地はフランス西部の港町ラ・ロッシェルに近いサントで,ブリストルの前はラ・ロッシェルに住んでいました。この緯度を北に移しただけのような,フランス西海岸からイングランド西海岸への移住はどんな意味があったのでしょうか? 9月25日のレ・ザンロキュプティーブル誌のウェブ版のinrocks.comに,フランソワの紹介記事があり,それは「トリップホップの揺籃ブリストル」という言葉から始まります。なにしろマッシヴ・アタックとポーティスヘッドの町ですから。90年代からロンドンとは全く違った音楽的アイデンティティーを持つに至った新しいメロマヌ(音楽狂)の町,というイメージです。実験的で,何にでも手を出したがる,不定形な音楽志向を持った独習のマルチインストルメンタリスト,フランソワ君はこの町にすぐに馴染んでしまったのですね。
 それに対してラ・ロッシェル(有名はフランコフォリー・フェスティヴァルがある,これまたりっぱなメロマヌの町のはず)は,フランソワ君にはそのアンビエントに親近性を持つことができなかったのです。レ・ザンロックのインタヴューによると当時のラ・ロッシェルの音楽傾向は「シャンソン」か「ファンク」かだったそうです。早くから室内実験のようだった彼の音楽は,それに合う環境を求めて北に向かったというわけですね。
 2003年以来自主制作で何枚かCD作品を出していたようですが,このボルドーの小さなレーベル TALITRES RECORDSからこの9月に出た本作『プレーヌ・イノンダブル』が,フランス国営の音楽FM局FIPなどに注目され,多くの人に知られるようになりました。
 フランソワの音楽は,そのヴィデオ・クリップやジャケットアートなどで見えるように,たいへん水彩画的です。透明度が高く,浮遊感があり,流動的です。その水が多めのパレットで色彩豊かに描かれる音楽です。ギターやピアノや管楽器や弦楽器と,さまざまな効果音(ドアの音,マッチ箱,ウォータードラム...),そして人間の音声も,すべてが水で薄められた水彩絵の具のように画用紙の上に流し出されるような感じです。雨が降ればすべて流れてしまいそうです。この固定されない儚さがフランソワの音楽の魅力だと思います。
 このフランス語と英語で歌われるメランコリックでノスタルジックな音楽は,そのインタヴューによるとある種「ふるさとは遠きにありて思ふもの」というファクターもあります。音楽的に自分に合った環境に身をおいて,サティー的なフランスと印象派絵画的なフランスに想いを馳せているような望郷感ですね。それはヒップホップを哀愁の領域に引っ張り込んでしまったブリストルでなければ得られなかった感覚かもしれません。
 アマンダ・リアーのようなアンドロギュノス的なヴォーカルが憂愁を際立てます。スペインのアルベルト・プラ,米国のマーキュリー・レヴ,アイスランドのシガー・ロスなどを初めて聞いた時の感覚が蘇ります。


<<< トラックリスト >>>
1. FRIENDS
2. BE WATER (JE SUIS DE L'EAU)
3. WONDER
4. MOITIEE
5. REMIND
6. DO YOU DO
7. OTAGES
8. NIGHTS DAYS
9. YEARS OF RAIN
10. PIC-NIC

FRANCOIS & THE ATLAS MOUNTAINS "PLAINE INONDABLE"
CD TALIRES RECORDS CDTAL-049
フランスでのリリース 2009年9月14日


↓ "BE WATER (JE SUIS DE L'EAU")のヴィデオクリップ



 

2009年9月23日水曜日

この人は終わってしまったのだ



 10月号原稿を送った時に(ほとんど思いつきで)「来月号はジェーン・バーキンについて書きますから」とラティーナ編集長にメールしたのです。日本にも行ってましたし。実は映画も音楽もそんなに熱心に見たり聞いたりしたことがありません。本人には一度も会ったことがありません。ライヴはゲンズブール死後にカジノ・ド・パリで一度だけ見ました。芸能ショー的わざとらしさの度が過ぎるような印象でした。ジェーン・Bは何をやってもわざとらしいように見えます。おお,私は悪口を書いてしまいそうだ。ちゃんと資料を集めねば...。
 と思ってピエール・ミカイロフ(元レ・デゼクセのギタリスト。ジャーナリスト。フランソワーズ・アルディ評伝を書いていて,この春は大変参考にさせてもらった。その他ノワール・デジール,バシュングなど著書多し。ほとんど3ヶ月に1冊の割で本が出ているみたいです)のバーキン評伝『シチズン・ジェーン』をフナックのネット通販で注文したら,2週間待ったあとで「品切れのため発送出来ません」の知らせ。そんな...。実際のところ,この本はどこの本屋でも見たことがないし,フナックの通販サイトでは2009年6月に出たことになっているけれど,他の通販サイトでは売っていないのです。
 唐突ですがフェイスブックって使い道ありますね。私はアルディ評伝を読んですぐにミカイロフにフェイスブック友だちの申し込みをしたのですが,即OKでした。で,ミカイロフがそこでフェイスブックで何を言っているのかも注目していましたし,時々ミカイロフの「壁」にちょっかいを入れたりもしてました。だから,この『シチズン・ジェーン』の件は,直接著者にフェイスブックのメールボックス宛に問合せをしたのです。すぐに答えが来て「来年1月刊行予定で準備中」だそうです。
 そこから2往復ぐらいのメールの交信があり,ミカイロフはそのタイトルにも関わらず「市民ジェーン」にはあまり興味がないと書いてきました。私は今「市民ジェーン」にのみ興味があるので,ちょっとがっかりでしたが,彼の興味というのはミケランジェロ・アントニオーニの『ブロウアップ』に現われた衝撃的な少女なんですね。そうかあ,私も『太陽が知っている(LA PISCINE)』(1968)では,アラン・ドロンやロミー・シュナイダーよりは少女ペネロープ(ジェーン・バーキン)ばかり見ていたような気がします。う〜む。ミカイロフの本が楽しみです。(今ミカイロフのバシュング評伝を読んでます。これ,後日ここで紹介します)

 というわけでジェーン・バーキン原稿を無期延期にしたのです。
 ではその代わりに何を書くかというと,カルラ・ブルーニ・サルコジなのです。感情的にならないように自制しないと...。個人的な恨みなどありません。なにしろ個人的には知らないのですから。フランスの少なからぬ人たちが持っているのは,アーチストとしてこの人を支持して「損をした」という市民感情であり,私はそれを共有する者です。この市民感情を敵に回して,この人はアーチストとして続けられるわけがない,と思うのです。極端なことを言えば,「カルラ・ブルーニはエヴァ・ブラウンである」というようなことを私は書こうとしているのです。それもあんまりだなあ....。
 

2009年9月16日水曜日

ステファヌ・ドリックに絵葉書を



 STEPHANE DELICQ "DOUCE"
 ステファヌ・ドリック『優しい女』


 9月のあたまにレーベルから新譜案内でステファヌ・ドリックの2006年録音のライヴ盤が出ることを知りました。さっそく見本盤を取り寄せて聞きました。何か違うな、という妙なひっかかりがあり、それが何なのかわからないまま、形ばかりの「業者向け新譜インフォ」を作って流し、1週間ほど放っておきました。ものにもよりますがライヴ盤だと往々にして売るのが難しいのです。それから日本の人は「ジャケ」でものを決める場合が多いので、このアートワークではちょっときついのではないか、とも思いました。雨傘をさした女性の横顔写真です。それの上に漫画的な雨降り模様の点線が人為的に上刷りしてあります。タイトルの"DOUCE"のフォントも浮き袋状の丸文字で、その上にも雨の点線が加えられています。とても素人っぽい感じがしました。それよりも何よりも(明らかにプロのモデルではない)この女性の顔が不安げな表情で飾らずに露出されているのが気になります。お世辞にも褒められた出来のジャケットアートではないでしょう。なぜライヴ盤で、なぜこのジャケなのか。私には不満の方が先に来てしまったのです。
 数日してドリックの調べものをしてインターネットをうろうろしていましたら、こういうマイスペース・ブログにぶつかりました。
 
Des Cartes Postales pour soutenir Stéphane Delicq (ステファヌ・ドリックを励ますための絵葉書を)

 日付は2008年4月12日になっています。今からおよそ1年半前です。それはドリックの友人でベルギーでダンス教室を営んでいるカップル(ミシュリンヌとステファン)が,その友だちで女性ダンサーのエステル(このブログの主です)に送った手紙から始まります。- 彼の健康状態は日に日に悪化している。白血病と闘っている彼の気力はどんどん低下している。そこでミシュリンヌたちは考えた。ドリックを知る世界中のフォークの仲間たちがステファヌに絵葉書を送ったらどうか。世界の町の絵のついた励ましの絵葉書が届いたら,ステファヌの気力は少しでも向上するのではないか。それで奇跡が起こらないとは,誰が言えようか。- それをブログ主が転写して,世界中のフォークの仲間に訴えているのです。次の頁にはその全文のイタリア語翻訳がついています。(ディアトニック・アコーディオンのファンはイタリアに多いのです)。
 私は驚いてすぐにレコード会社に電話しました。ロートル・ディトリビューシオンのリュック・ジェヌテーは長々と彼の知っている限りの事情を話してくれました。ステファヌ・ドリックはまだ生きています。しかし闘病生活はもう2年を越していて,かなり重いシミオテラピー(化学療法/抗がん剤治療)をしているそうですが,だいぶ衰弱しているようです。
 このライヴ録音(2006年4月)は発病前のものだそうです。これをアルバムとして発表する準備をしている途中で闘病生活が始まります。準備作業はとぎれとぎれになり,遅々として進みません。そのうちにステファヌは,おそらくこれが自分の「白鳥の歌」になると覚悟していったそうです。
 ジャケットのアートワークは彼が考案したそうです。この女性はステファヌの伴侶のドミニクです。『DOUCE - 優しい女』はドミニクに捧げられています。やつれて不安そうな表情で雨の中にいる女性です。リュック・ジェヌテーは最初にこのアートワークを見せられた時,「どうしようもない」と思って拒否しようとも考えたそうですが,われわれはここではドリックの意志を尊重してやるしかないでしょうに。

 こうなると,このCDの聞かれ方は大きく変わってしまうではないですか。
 私はつくづく情動に流されやすい質ですね。既に数回同じような経験をしていて,死と闘っている音楽アーチストのことを涙まみれの文章で長々と書き綴りました。難病(嚢包性繊維症)で体の自由がきかなくなってしまったマルク・ペロンヌ,脳腫瘍で死を覚悟していたアラン・ルプレスト,「ロックト・イン・シンドローム」で意識はあるのにしゃべることも手足を動かすこともできない状態が続いているギタリストのパトリック・ソーソワ...。

 ステファヌ・ドリックはディアトニック・アコーディオン奏者ですが,リカルド・テジやノルベール・ピニョルのような革新的なヴィルツオーゾではありませんし,マルク・ペロンヌのようにシャンソンや映画音楽で活躍するわけでもありません。目立たず,学究肌で(クラシックピアノ出身です),音楽教室やバル・フォークが彼のメインの仕事場です。アルバムはこれまで自主制作で3枚発表していて,1990年の『アクアレル(水彩画)』,1997年の『天使の一座(ラ・コンパニー・デ・ザンジュ)』,2001年の『ひかえめな女(ラ・ディスクレット)』があり,2002年に『天使の一座』がメタ・カンパニーから日本発売されました。実際この3枚では『天使の一座』が群を抜いて良く,和声を重視した弦と木管とのアンサンブルで,稀代のメロディストとしてのドリックの叙情的な旋律が際立つという1枚で,日本ではアコ愛好者だけでなく,サティーやドビュッシーを叙情的に聞いてしまう人たちにかなりアピールしたと思います。
 ステファヌ・ドリックとはその頃一度だけ電話で短く話したことがあります。それは日本から手紙が良く来るのでびっくりしている,という話でした。自主制作盤なので,裏ジャケにドリックの自宅住所が書いてあり,それで日本の人たちが手紙を送れたんでしょう。日本にいるフランス人からも,東京のCD店でこんなCDを見つけられてうれしくてしかたなかった,というような手紙が来たそうです。
 Googleに日本語で『天使の一座』と入力してごらんなさい。発売から7年も経っているのに,個人ブログにこのアルバムのことを書いている人があちらこちらに見ることができます。細く長くこの人気は続いているようです。
 フランスではディアトニック・アコーディオンのワークショップなどでドリックが教えたり,ドリックの作品が取り上げられたりしていますが,その中で最も知られている曲がこの『天使の一座』の冒頭に収められている「生きる(vivre)」という5拍子ワルツ曲です。ドリックに特徴的な和音弾きでメロディーが展開される美しい曲です。YouTubeを見ると,いろんな国のアマチュアディアト奏者がこの曲を演奏しているヴィデオが数編公開されています。つまりこの曲はもうディアトの世界では「スタンダード」となっているのでしょう。

 話を新しいライヴアルバム『優しい女』に戻しましょう。2006年4月,南仏ラングドック・ルーシヨン地方ロゼール県の人口121人の小さな村サン・フルール・ド・メルコワールのテアトルでのライヴ録音です。人口から考えると,一体何人の人がこのコンサートを見ていたのか,不安になりますが,拍手の鳴り具合は悪くありません。共演はジャズ・インプロ(とトラッド)界の腕達者3人です。
 *フランソワ・ミショー(ヴァイオリン/ヴィオラ。MAMというバンドで4枚アルバムあり)
 *カトリーヌ・ドローネー(クラリネット。フリージャズもすれば,マルク・ペロンヌと共演したりもする。ドリック『ひかえめな女』に参加)
 *ナタナエル・マルヌーリ(コントラバス。ジャン=リュック・ポンティーの娘でピアニストのクララ・ポンティーのジャズトリオのコントラバシスト)
 これにドリックのディアトが加わるわけですが,この4者を『天使の一座』のような編集された室内楽アンサンブルにまとめることは,このライヴではしていません。主旋律/主題を引っ張る楽器としてディアトニック・アコーディオンはやや押され気味です。アコとクラリネットとヴァイオリンで作られる和声はうっとりするほど美しいのですが,ソロインプロに入るとミショーのヴァイオリンもドローネーのクラリネットもディアトとは音数も高低のレンジもまるで違うので,ややうるさい時がないではありません。やはりドリックの本領というのは,美しいメロディーをシンプルに湿度高めに聞かせることなのだなあと思いました。
 6曲め「レ・ノヴィス〜ラ・トワノン」という二部形式の曲の後半は,ドリックのディアトの独奏です。ここでやっと,これまでスタジオ盤では聞けなかったドリックのテクニックのヴァリエーションがよくわかります。リカルド・テジと比較して聞くのも面白いかもしれません。
 4曲め「クレダンス-マリルー-クレダンス」はクレズマー風な早めの2拍子ブーレで,ドリックのメロディーに他の3人が縦横無尽の装飾和声部で切りかかりますが,それが茶目っ気たっぷりな上にスリリングです。
 5曲め「優しい女」は何度も同じことを話しかけていくような繰り返し主題が切ない,マイナーの5拍子ワルツです。このコンテクストでは涙が出そうになります。
 そして8曲めにドリックは,前述の『天使の一座』の名曲「生きる(vivre)」を再演します。和音ばかりで展開する主題,山も谷もあり,晴れも雨もあり,鼓動音のようなコントラバス...いくらでも深読みできる6分45秒。このライヴの時はそうでなかったかもしれません。今,これを聞いたら,「生きる(vivre)」,これはほとんど叫びではないですか。

<<< トラックリスト >>>
1. LES PETITES SOEURS (Valse à 8 temps)
2. ELOQUENCES (Mazurka-Valse à 5 temps)
3. ALDEBARAN (Valse à 5 temps)
4. CREDANSES-MARILOU-CREDANSES (Bourrées à 2 temps)
5. DOUCE (Valse à 5 temps)
6. LES NOVIS (Mazurka) - LA TOINON (Valse)
7. P'TIT GOUT D'HORIZON (Valse)
8. VIVIRE (Valse à 5 temps)
9. L'ARENTELLE (Valse)

STEPHANE DELICQ "DOUCE"
CD L'AUTRE DISTRIBUTION AD1518C
フランスでのリリース:2009年10月12日



PS :
「ステファヌ・ドリックに絵葉書を」と訴えていたブログに書かれていたステファヌ・ドリックの郵便住所を以下に記します。

Stéphane Delicq :
CLINIQUE MEDICALE DU MAS DE ROCHET
563, chemin du Mas de Rochet - B.P. 59
34172 Castelnau-le-Lez FRANCE

この住所はまだ有効です。ドリックの『天使の一座』を愛された日本の方たちから絵葉書が来たら,どんなにうれしいでしょうか。


PS 2
まだステファヌ・ドリックを聞いたことのない人は、 メタ・カンパニーの通販サイトで『天使の一座』を試聴してください。(『天使の一座』日本語詳細)


PS 3
ステファヌ・ドリック公式サイトにも 試聴できるページがあります。
『天使の一座』に収められた「生きる(vivre)」のMP3フルヴァージョン。

PS 4
10月25日
『優しい女』の日本配給用ライナーノーツを執筆中、いろいろな新事実がわかり、このエントリーの本文も一部訂正しました。

2009年9月15日火曜日

ル・ブーケ・フィナル




 このおそばは日本のものです。夏に日本に行っていた妻子が旅行中メールで私に見せびらかすために撮ったものです。ネギとナメコだけのシンプルなものですが,私には十分なティージングで悔し涙が出ました。
 8月22日から「疑似ラマダン」をしていました。私の友人で回教徒でないジル・フリュショー(ブダ・ミュージック)が,毎年欠かさずラマダンをしていて,年に一度の毒抜きはいいもんだぞ,と勧めてくれたのがきっかけでした。日の出から日没まで何も飲食しないということは,この時期だと私の習慣では朝食も昼食も食べられないことになってしまいました。私の場合なぜ「疑似」なのかと言うと,初心者ゆえ,やはり水分は取らないと苦しいので,日中の茶だけは飲むようにしていて,茶菓子代わりに角砂糖をひとかけふたかけ食べていたのでした。角砂糖を食べる図はなんとなくカフェにいる犬になったような気分でした。
 スタートはとても辛いものでした。自分を鼓舞するつもりでフェイスブックにその日の気分を書き綴ったりしましたが,本当に辛かった。その間にロック・アン・セーヌの3日間(私たちは2日しか行ってませんが)があったりして,夜にはフードスタンドでものを買って食べるものの,最後までコンサートを見る体力なんてほとんどありませんでした。1日めのメインのオアシスが例のドタキャンをした時は,実は内心は「ほっ,救われた」と思ったものです。3日のメインのザ・プロディジーも見ずに,娘に「MGMT見たんだから,もういいよね」と頼んでさっさと退散しました。
 かなりマゾな体験でした。特に土日は目の前で妻子がものを食べている図とぶつかりますし。事務所に行ってぼ〜っとしているのが一番なんですが,土日はオーシャンやカルフールに買い出しに行ったり,娘の家具の組み立てをしてやったりとか,ラマダンにも関わらずこき使われるのです。
 週日は週日でつらいものがあり,私の場合水曜と木曜には肉体労働(集荷や梱包)があるので体力が必要なのです。一番の敵は眠気でした。日中に眠いのはもちろん,夜にものを食べたらすぐに眠くなってしまうのです。おそらく毎晩10時間は眠っていたと思いますが,それでも日中に眠くて,仕事に手がつかなくなってしまいます。あと,人と話すのがいやになります。電話でも用件だけですぐに切りたくなります。なるべく人と会わないようにはしていましたが,それでも会うと相手が何を言っているのかわからなかったり,自分でも何を言っているのかわからなかったり...。
 日曜日が3回過ぎた9月7日,私は事務所で1日中ほとんど仕事をしていないことを悟りました。この疑似ラマダンの目的のひとつでもあった「体重減らし」に至っては,摂取する水分が多すぎるのか,まったく効果がないのがわかりました。一体私は何をしていたのでしょうか?
 9月10日昼まで事務所にいたタカコバー・ママが,もう見てられないから食抜きをやめて一緒にベルヴィルで中華を食べよう,と誘うのに私は抗することができず,疑似ラマダンは20日めでストップしました。がんばったわりに何の見返りもなく,体重が減らないだけでなく,体の調子はおかしくなるし,頭の回転は冬眠しているように鈍くなるし,妻子からは「アホ」のように見られるし...。ほとんど何もしていないのに溜ってしまった疲労はものすごく重く,もとに戻すのに4日間はかかりました。泣きっ面にハチでした。頭と口が重く十分な睡眠を取っても眠い状態はやっと昨日ぐらいから抜けつつあるようです。アホな話です。いつまでも若いと思っていたら大間違いですよ,同志たち。
 泣きっ面にハチという表現をフランス語では "C'EST LE BOUQUET"(セ・ル・ブーケ)と言います。

 同志たち,これが9月12日 LE GRAND FEU de SAINT CLOUD のル・ブーケ・フィナル(最後の乱れ打ち)です。↓はYoutubeからの拝借したものです。間に聞こえる打楽器の音は,ジャズ・ドラマー,ベルトラン・ルノーダンのイムプロヴィゼーションです。


 そして↓は娘がわが家のベランダから同じものを撮影したもので,言わば"Yutube"です。力の入らない歓声を上げているのは爺です。

2009年9月10日木曜日

ゼブダはヴィデオで帰ってきた



 私の住むブーローニュ・ビヤンクールにも中心街通りのひとつに「ジャン・ジョレス大通り」があり,その道の地下にあるメトロ駅の名前は「ブーローニュ・ジャン・ジョレス」になっています。保守のめちゃくちゃ強い地盤なのに,この「ジャン・ジョレス」という名前の目立ち方はやや意外とも思われますが,保守でも大丈夫な偉人の地位を獲得した人なのでしょう。サルコジでさえ,リファレンスとしてジョレスの名前を出したことがありますから。
 Jean Jaurès ジャン・ジョレス(1859-1914)は,南西フランス,タルン県カストルで1859年9月3日に生まれていて,今年は生誕150周年にあたり,いろいろ記念行事が行われているところもあります。社会主義者です。1902年フランス社会党の創立メンバーのひとりです。1904年日刊紙ユマニテ(後にフランス共産党機関紙)の創刊編集長です。1914年バルカン半島の緊張にも関わらず不戦平和を訴えて,参戦派極右に暗殺されます。54歳で命を落としています。この死によって,不戦派の勢力が弱まり,フランスは第一次世界大戦に参戦してしまうのです。
 その暗殺された場所が,パリ2区モンマルトル通り146番地の「ル・クロワッサン」というカフェで,そんなことも知らず,かつてタカコバー・ママが仕事していた界隈にあったので時々行ってましたが,ある日突然パトロンが「あんたたちジャン・ジョレスを知っているか?」と話しかけてきて,無学な日本人に歴史の講釈をしてくれたのを,よく覚えています。

 さてジャン・ジョレスはトゥールーズで学び,土地の新聞デペッシュ・デュ・ミディで論陣を張り,1892年タルン県カルモーの鉱山で不当解雇に端を発した労働争議に全面的にコミットしてその大ストライキを支持します。こうして労働者の権利を擁護する社会主義者として人望を集め,国会議員に当選して中央政界に出ていくわけです。
 最新の地方選挙でトゥールーズが,長かった保守市政から抜け出して,左翼市政に代わったのですが,その地方選挙の統一左翼リストにゼブダのマジッド・シェルフィの名前があったことはこのブログでも書きました。で,トゥールーズ市がこの土地の大偉人のひとりジャン・ジョレスの生誕150周年記念に,ゼブダの協力を要請したのです。
 ゼブダは何度か再結成の動きがあったものの,今日まで5年間活動休止状態が続いていましたが,この話に乗ってしまったんですね。ただし新曲を録音したわけではありません。1998年に,ジャック・ブレル没後20周年のトリビュートアルバム(バシュング,フォーデル,ケント,ノワール・デジール,テット・レッド,-M-,アルチュール・Hなど12組が参加)のために,ゼブダはブレル作の「ジョレス」という曲を録音しています。トゥールーズ訛り丸出しのゼブダならではの「ジョレス」です。

Pourquoi ont-ils tué Jaurès ? やつらはなぜジョレスを殺した?
Pourquoi ont-ils tué Jaurès ? やつらはなぜジョレスを殺した?


この録音を再利用して,このジョレス生誕150周年記念に使うことにしたのです。しかしこれだとあまりにも手抜きなので,ゼブダはヴィデオ・クリップを新たに制作したのです。マジッド,ムスタファ,ハキムなどが,1892年カルモー鉱山での労働者となってヴィデオ出演しています。このヴィデオはトゥールーズをはじめ,ミディ・ピレネー県の全部の公立小中学校で教材として使われることになっています。

 ゼブダ,ちゃんと帰って来い。

2009年9月2日水曜日

今朝のフランス語「ラ・ビーズ」



 フランスのファーウェスト,ブルターニュのフィニステール半島の先っちょにある漁港の町ル・ギルヴィネックは,2007年秋に,欧州連合の決めた漁獲量割当のために漁に出られなくなった漁民たちが抗議運動を起こし,漁船団で港湾封鎖するなどの実力行使をして,漁民たちの救済を訴えました。その11月6日,大統領サルコジはわざわざル・ギルヴィネックまで出かけて行って実情視察をしようとするのですが,漁港で大勢の漁民たちから激しい怒号/罵声/ヤジ/卑語を浴びてしまいます。この模様はデイリーモーションなどインターネット上で大々的に伝播され,一躍このル・ギルヴィネックという町はアンチ・サルコの象徴のようになってしまったんですね。
 さて,そのル・ギルヴィネックがまたニュースねたになっています。女性市長エレーヌ・タンギー(保守/大統領多数派/UMP党)が通達を出し,A型インフルエンザ予防対策として,市役所職員間の「過剰な抱擁による挨拶 embrassades superféctoires」を自粛するように命じたのです。すでに市役所内では,こういう挨拶ができなくなっていて,この通達は新学期の始まった幼稚園や小学校まで適用されることになっています。
 この難しい表現の embrassades superféctoires とは何かと言いますと,町言葉では「ラ・ビーズ la bise 」なんです。つまり,頬と頬をくっつけて口でチュッ,チュッと接吻音を出す(あるいは頬に接吻してしまってもいいんですが),同性異性関係なく,ごく親しかろうがそんなに親しくなかろうが,どんな相手でも普通にする,肌と肌のコンタクト挨拶です。
 これをこの市長さんは,石鹸による手洗いの励行や,一回使ったティッシュペーパーで2度鼻をかまないこと,とか,そのティッシュを捨てるための密封型ゴミ箱を設置すること,などと同じように重要なこととして,「ラ・ビーズ自粛」に市民の理解を求めます。既に幼稚園では,卓抜なるアイディアを持った先生がいて,紙製のピンク色のハートをいっぱい籠に入れておいて,子供が好きな子供に愛情を表現したい時は,ラ・ビーズの代わりにこのハートをあげるようにする,というのです。そんなもので愛情が伝わるのでしょうか。幼稚園の子供からスキンシップを取り上げるのって,考えものですが,それよりも衛生第一。
 そう,衛生第一。公共の保健が最優先される2009年秋・冬です。公道での唾はき,啖はきはもともと禁止されているのですが,プロ・サッカーの試合をテレビで見ると選手がしょっちゅう唾はきをしているので,これを禁止させよ,という動きもあります。唾はきにイエローカードが出るようになるかもしれません。
 ラ・ビーズ禁止令,抱擁禁止令,接吻禁止令,いろいろ出てくるでしょうね。親しい者同士に接触することを市長令で禁止するところまで,A型インフルエンザによる異状事態は進行しているのでしょうね。
 未来の子供たちは「フランスには2009年まで『ラ・ビーズ』という不潔極まりない習慣があった」と歴史教科書に読むことなるかもしれません。

 ←カルラ・ブルーニ=サルコジに「ラ・ビーズ」をするバラク・オバマ

2009年8月30日日曜日

1年6組の子も、2年6組の子も、3年6組の子も... Rock me!



 重低音に揺さぶられながら、ああ、この夏もまた終わってしまうのですね。
 8月30日。Rock en Seine最終日。今日の最大の驚きは、ゼム・クルッキード・ヴァルチャーズ(Them Crooked Vultures)。このバンドはプログラムに載っていません。匿名バンド「レ・プチ・ポワ」(日本語ではグリーンピースか。親子丼に乗ってる豆ですね)として登録されていて、「超大物」という思わせぶりな紹介文つきで、正体は明かされていませんでした。まあ、よくあるプロモーションの手口なんでしょうが、インターネット上でその正体をつきとめたという情報がフェスティヴァル開催の1週間前くらいから、あちこちで噂の焚き付けをしまして、まだCDも出ていないのに、Tシャツだけがやたら売れている某バンドということがわかるんですね。私はこの轟音ロックの世界は全然門外漢なので、何が大物で、何がすごいのかは、プレス評などを見ても、へえ、そんなもんですかねえ、としか思わなかったんですが。
 クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジというメタルのバンドをやりながら(ここではギタリスト/ヴォーカリスト)、そのサブプロジェクトのイーグルズ・オブ・デス・メタルというバンド(ここではドラマー)もかなり売れているらしく、またプロデューサーとしても名を成しているジョッシュ・オムという人が、ニルヴァーナ〜フー・ファイターズのドラマー、ディヴ・グロールと、レッド・ツェッペリンのベーシスト/キーボディストのジョン・ポール・ジョーンズと組んで始めたバンドが、このゼム・クルッキード・ヴァルチャーズです。
 今回のステージではクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのギタリストのアラン・ジョハネスが加わって、ツィン・リード・ギターのクアルテットで登場したゼム・クルッキード・ヴァルチャーズですが、いやはや、最初の第一音からぶっ飛びの、ヘヴィー・ヴィルツオーゾのアンサンブルで、私は心臓がバクバク言うのを感じましたね。重い重い。曲後半に必ず見せ場をつくるデイヴ・クロールのシンコペーションの重いこと、重いこと。若い3人に囲まれて、ジョン・ポール・ジョーンズがベースにキーボードにはしゃぎ回っているのがとても意外。この人ツェッペリンではこんなふうに前面に出て目立ったことはないですよね。2009年のロック・アン・セーヌのベストは、私には断然これです。
(↓ Them Crooked Vultures)


 その日、サン・テチエンヌ出身の20歳の男性アーチスト、スリーミー君も見ました。プリンスの風貌でミカ風なエレ・ポップをするスリーミー君は、アメリカでのデビューも決まったし、ヨーロッパもツアーすることになってます。娘は大好きみたいなんだけど、まあ、がんばってね。
 ソウルのメイシー・グレイもすごく良かった。まあ、良くて当り前のような貫禄のアーチストですが、午後4時台ではなくもうちょっと暗くなってから見たかったような、大人の音楽でした。午後3時に組まれていたセネガルのバーバ・マールは私たちが会場に着くのが遅くて、見ることができず。夏の陽気の日曜日の午後3時は、ちょっと辛いですねえ。
 その夜は、娘と私が最も楽しみにしていたMGMTでした。サイケデリック! 顔に炭を塗った若い子たちがたくさん踊ってました。ははは。キノコを食べている気分。
 こうやって、この夏も終わってしまったんですね。

(↓ MGMT)

2009年8月29日土曜日

パパ・ノエルは来なかった



 2009年8月28日。わが家の向かい、セーヌ対岸のサン・クルー公園の晩夏の恒例行事 Rock En Seine に家族で行くようになってから、これで3回目。私たちが行くようになってから、一度も雨が降ってません。これが7回目ですけど、1回めと2回めの時は雨が降っていて、わが家の前を泥だらけになった若い衆がぞろぞろ歩いているのも見て、ああ、ウッドストックっぽいなあ、と思っていたものです。そう言えば今年はウッドストック40周年で、40年かかって「ラヴ&ピースの3日間」はわが家の前までやってきてくれたんだなあ、なんて感慨にふけったりして。入口のゲートをくぐると、私たち中高年夫婦と十代娘の3人連れとわかっていても、おねえさんがスポンサーマーク入りのコンドームをいっぱい手渡してくれるし...。これもラヴですかね。
 昨日も晴れでした。おととしジャーヴィス・コッカーが "Saint CloudにはCloudがない"と英仏語バイリンガルのジョークで受けてましたが、昨日はちょっと雲と風がありました。しかし上々の天気。まず私たちは4時半頃から始まったキーン(from England)を最初から最後まで見ました。ロマンティック&ポエティック。こんなはっきりしたメロディーのポップロックを生で見るのはこれが初めてかもしれません。爺でさえ "Everybody's changing"を唱和できましたから。妻子も大満足で、今年は初めから良いのに当たって、先が楽しみだあ、と期待に胸膨らませておりました。
 場内には今年もいろいろなEXPOがあって、400本のペイントスプレーの缶を400人のアーチストがオブジェにした"400ml"と題されたものがとても面白くて、しばしゆっくり鑑賞してました。食べ物屋もかなり多彩で、おなじみのケバブ屋さん、タルティフィレット屋さん、テックスメックス屋さんに加えて、タイのヴェジェタリアン料理屋や、アンティルのクレオール料理屋さんも。またラマダン期にあたるので、ドライフルーツと砂糖菓子を出すミント・ティー屋さんもありました。
 いろんなところをうろうろして、5時半の回のヤー・ヤー・ヤーズ(from New York)を遠目に見ながら、移動してグランド・セーヌ(メインステージ)の6時半のエミー・マクドナルド(from Scotland)を、持参したパイプ椅子に坐りながら鑑賞。娘お目当ての"This is the life"が終わったところで、移動して奥様お目当てのマッドネスへ。
 いやあ、良かったですねえ、マッドネスは。私たち中高年だけではなく、若い人たちも大変な盛り上がりようで、驚きでした。しかし(往年の、とは言え)ヒット曲の数多いですよね、この人たち。ああ、これもマッドネスだったんだあ、と思い出した曲が次々と。まあ百戦錬磨のショーマンたちですね。脱帽しました。
 というところで、8時になったので、みんな思うことは同じで、どこの料理屋台も夕食を求める人たちの長蛇の列で、私たちは30分待ちくらいでやっとクレオール料理にありつけました。長い間待って食べれば、何食べても皆おいしい、ということでしょうか。まあまあ、いけてました。
 9時を回って、私たちは移動してグランド・セーヌへ。10時に予定されているオアシスを見るための場所取り。ステージをかなり上手の方から見ることになるんですが、サン・クルーの森側にちょっと坂になった芝生があって、そこにパイプ椅子3脚で陣取りました。10時が近い頃にはこの特等席から見るとものすごい数の人たちが集まってきているのがわかりました。今朝のリベラシオン紙の報道では3万人と書いてありました。スタジアム一個分でしょうかね。
 持参した双眼鏡でステージを見ますと、10時を過ぎたというのに、ステージの用意が全然できていないのがわかりました。ローディーたちは立っているだけで、全然作業していない。照明の位置をやり変えたり、マイクスタンドを持って右に行ったり左に行ったり...。10時15分を過ぎても状態は変わらず、これはコンサートができそうにないんじゃないの、と娘と話してましたら...。
 10時25分、オアシスのスポークスマンがステージに出てきてマイクを取り、フランス語と英語で「楽屋でギャラガー兄弟が大げんかをして、今夜オアシスはステージに立てない。詳細はノエルが公式サイトで説明する。バンドはもう存在しない。今夜だけでなく、今後のヨーロッパツアーはすべてキャンセルされる」とスピーチしました。ステージ横のモニター画面には文字で「オアシスのコンサート中止。チケットを捨てないでください。賠償の詳細はフェスティヴァルの公式サイトに」と書かれています。
 笑っちゃいますよね。私たちこれで3度目です。一昨年と去年はエミイ・ワインハウスのどたキャン、今年はオアシス。「このフェスティヴァルは呪われている」と今朝のリベラシオン紙は書いてました。
 さてオアシスに何があったのか、というと、現時点でニュース等で知る限りでは、28日の午後にはサン・クルーの楽屋にちゃんと入っていたそうです。その後、どういう理由でかははっきりしないが、ノエル・ギャラガーとリアム・ギャラガーが激しい喧嘩になってしまい、一説ではギターが炸裂したとも言われています。そしてノエルが楽屋を出てしまい、そのまま帰ってこなくなりました。
 「今夜俺はオアシスを脱退した」とノエルは公式サイトに声明を書き込みました。
 まあ、こういうことはこの兄弟はこれが初めてではないので、と重要視しない論調もあるようです。
 というわけで、この季節なので「パパ・ノエルは来なかった」と嘆いても、それほど悲しくないできごとと、私たち家族は苦笑いしています。

 Rock en Seine 2009には明日30日も行きます。

(↓ワン・ステップ・ビヨ〜〜〜〜ンド!)

2009年8月21日金曜日

シルヴァン・ヴァノ(忠太郎)



Silvain Vanot "Bethesda"
シルヴァン・ヴァノ『ベテスダ』


 かつて「ノルマンディーのニール・ヤング」と呼ばれた人です。1963年生れ。中学教師をしながら作ったデモテープがジャン=ルイ・ミュラに認められて,ミュラの後押しで1993年にLABELS(Virgin)からアルバムデビュー。ほんと,まんまニール・ヤング(クレージー・ホース時代)でした。それからだんだんに丸くなっていって,シャンソンや映画音楽に接近したりして,ミュラとよく比較されるオーガニックなシンガーソングライターになっていきました。アルバムはLabelsから5枚出ました。最後の2002年のアルバム"Il fait soleil"は,以前運営していたインターネットサイトで私は大絶賛していたはずです。鈴木惣一郎も参加してましたね。
 あれからもう7年。同世代の90年代フランス・インディーシーンの立役者たち(ドミニク・ア,ミオセック,カトリーヌ,イニアテュス,オトゥール・ド・リュシー,リトル・ラビッツ...)などと同じように,レーベルとの契約を切られたり,お呼びがかからなかったりで,鳴りをひそめざるをえなかった時期が長かったですが,シルヴァン・ヴァノはちゃんと帰還して新アルバムを作ってくれました。
 英国は北ウェールズのブリン・ダーウェン録音で,寒々とした草原と農場を思わせるカンタベリー的環境です。で,元ヘンリー・カウのジョン・グリーヴスが,ベース,ハーモニウム,オルガン,ピアノなどで重要な働きをしています。それからシャック(マイケル・ヘッド)のドラマーのイエイン・テンプルマンが参加しています。ペダルスティール・ギターの名手B.J.コールが甘く切ない音色で入ってくると,ニール・ヤング/ストレーゲイターズのベン・キースがまぶたに浮かびます。それからエルヴィス・コステロやチチ・ロバンのバンドでバス・クラリネットを弾いているルノー・ガブリエル・ピオンもいます。
 アルバムタイトルの『ベテスダ』は,聖書(ヨハネ書)に出て来るエルサレムの池の名前で,主の使いがその水を動かせば,その水を最初に受けた者はいかなる病気でも治ってしまうと伝えられています。全体的に癒しの雰囲気があるアルバムですが,枯れてさらに丸くなったシルヴァン・ヴァノの慈愛みたいなものも,ふつふつと。
ビート・ジェネレーションの聖歌みたいなエデン・アーベ作「ネイチャー・ボーイ」の仏語カヴァー「エトランジュ・ギャルソン」が唯一の例外で,あとは全曲ヴァノのオリジナル曲です。
 
    河よ おお 河よ
    私はおまえがどこで眠っているのか知っている
    だがおまえが起きて出ていく時どこに行くのかは知らない
    河よ おお 河よ
    私が知らないことは
    私には苦にならない,少なくとも今のところは
               (河 - Rivière)

 なにか竹林の七賢人みたいな,中国の仙人が自然と問答しているような歌詞ではありませんか。山や河や野に向かって,日がな一日語ったりしているのでしょうね,このヴァノは。アルバム終曲の「花 - Les Fleurs」に至っては,このヴァノの賢人ぶりが際立って,私は恐れ入りましたと深々とお辞儀しましたね。

    花は他の花の上には生えない
    それはあらゆる匂いを自分にふりかけるが
    最良の匂いもあり最悪の匂いもある
    (中略)
    花は水と泥を吸って生き,そして死ぬ
    花の命は長くはない
    それは1年よりは短いが,1時間よりは長い

    人は花を美しい少女たちに与えるし
    みんなが泣いている時に死んだ者たちにも与える
    花ってそういうものさ

 その(ヴァノ)場の気分と言いますか,飾らず,気取らず,ありのまま,無農薬...。眠くなったらお茶を飲みましょう。おいしいお茶を!

<<< トラックリスト >>>
1. O MON TOUR
2. UN PIED DERRIERE
3. LES CLOCHES DE L'AMOUR
4. HAWAII
5. RIVIERE
6. LE MOUTON A TROIS TETES
7. NATURE BOY (ETRANGE GARCON)
8. BAMBI BLANC / FORET NOIRE
9. BOIS FLOTTANT
10. IMPLACABLE
11. LES FLEURS

Silvain Vanot "BETHESDA"
CD MEGAPHONE MUSIC CDMEGA20
フランスでのリリース:2009年9月28日


(↓アルバム4曲め「ハワイ」のライヴヴィデオ)

Silvain Vanot - Hawaï (2007) from Jean-Philippe Pelletti on Vimeo.

2009年8月19日水曜日

やせっぽちのことを日本語で「えんぴつ」という



Amélie-Les-Crayons "A l'Ouest, je te plumerai la tête"
アメリー・レ・クレヨン『ライヴ2009』


 2001年ジャン=ピエール・ジュネ映画『アメリー・プーランの華麗な運命』(邦題は題も名前も短縮して『アメリ』)以来,アメリーという名の人物は周囲の人々に惜しみなく幸福をばらまく太陽のような少女,というイメージがついてしまいました。われらがアメリー・レ・クレヨンがこの芸名でリヨンで活動を開始したのは2002年のことで、アメリー人気のご利益狙いと思われたのはしかたありません。しかし、こちらのアメリーもその演劇的で物語的なスペクタクルが噂を呼び、観る者に必ず幸せな気持ちで家路につけるマジックな少女として、フランス全土で年間90日間ステージをつとめる努力が認められて、テレビやFMと縁のない「オン・ザ・ロード」の実力派女性歌手として評価を固めていきました。この辺の事情はジュリエット・ヌーレディンヌと良く似ています。
 アメリー・レ・クレヨンの「クレヨン」は日本語のクレヨンではなく,「えんぴつ」という意味です。たくさんのえんぴつを持った少女アメリーというわけです。
 自主制作の6曲入りアルバム『ひなげしの歌 Le chant des coquelicots』(2002年)に続いて,初フルアルバム『なぜにエンピツ? Et pourquoi les crayons?』(2004年)とCDは発表していますが,このアーチストはたぶんCDを売るということにあまりこだわっていないように思えます。彼女の歌とピアノと腕達者な3人の男性ミュージシャンで構成される,4人の旅芸人一座によるスペクタクルがCDよりも重要であるようなのです。彼女の歌を聞くのはいろいろな町でそのスペクタルを見に来る人たちであって,部屋でCDプレイヤーで聞く人たちは少なくてもいい。なぜならそのスペクタクルはCDよりもずっといいからなのです。
 400人のホールで始まった『ひなげしの歌』のスペクタクルを立ち上げてから,それはやがてフランス全土に広がり,1時間半の演し物は2時間になり,ツアー中に新しい曲が追加され,観客との丁々発止のインプロヴィゼーションで毎晩その様相は変わっていき,日々成長と変容を続けて行って,3年後には毎夜ソールドアウトで公演数200回を越してしまうのです。
 その記録は既に2005年にDVD化されていて,『ひなげしの歌』の総決算的な2時間のスペクタルを収録した "LE TOUR DE LA QUESTION 2005"は,それに先立つCD『なぜにエンピツ?』では見えづらかったこの女性とその一座のサーカス的で視覚的で劇的な展開がやっと見えた感じがしました。これを目の当たりに見たなら,誰もが納得するでしょう。
 そしてそのサイクルに一旦終止符を打ち,2007年に新しいアルバム『ラ・ポルト・プリュム(羽根の扉)』を発表し,さまざまなキャラクターの登場する絵本(32ページ)の体裁をした15曲アルバムから,また新しいスペクタクルが創作されます。2007年4月から始まったスペクタクル『ラ・ポルト・プリュム』のツアーの総集編的DVDがこれです。言わなくてもいいようなことを言いますが,今回もCDよりもずっといいのです。
 本編のコンサートライヴ90分の他に,ツアードキュメンタリー風の短編映画(ロード・ムーヴィーと副題されています)"A L'OUEST JE TE PLUMERAI"(童謡「アルエット=ひばり」のもじりで,西に着いたらおまえの羽根をむしってしまうぞ,といった意味でしょうか)が収録されていて,アメリーと3人の男たちの旅路が描かれます。この短編で,彼らの旅することの意味,スペクタクルと人生の関係などが,本人たちの口から語られます。言葉少ないながらも繊細さを感じさせるアメリーは,「アメリー・レ・クレヨン」は自分のことではなく,プロジェクトの名前であり,それを共同でつくりあげている人々の集合体であることをほのめかします。ミュージシャンたちは途中で招集されたわけではなく,最初の図面引きのときから参画しています。この一座の苦労と喜びがたった30分の短編で本当によく見えてきます。リヨンから始まったツアーが,西へ西へと向かい,フランスの大西洋岸の町サーブル・ドロンヌに着いた時,彼らは波打ち際でスペクタクル最初の曲「ラ・メグルレット(やせっぽち女)」を(もちろんアンプラグドで)歌います。この時アメリーが感極まって,頬に涙がつたっていくのをカメラは捉えます。--- この人たちはこういう旅をしているのだ。だから止められないのだ。旅を肥やしにしてスペクタクルを育てている人たちなのだ。---そんなことを考えました。

Amélie-les-crayons DVD "A L'OUEST, JE TE PLUMERAI LA TETE"
★ LA PORTE PLUME (90分コンサートライヴ映像)
1. Intro
2. La Maigrelette
3. Calées sur la lune
4. Depuis
5. La derniere des filles du monde
6. Chamelet
7. Le Train Trois
8. Les Pissotieres
9. De nous non
10. Mon docteur
11. Le citronnier
12. L'Errant
13. Le linge de nos meres
14. Les manteaux
15. La garde robe d'Elisabeth
16. Marchons
17. La fève
18. Le gros costaud
19. Ta p'tite flamme
★ Road Movie "A L'OUEST" (30分ドキュメンタリー)
★ Les Maigrelettes (10分の"La Maigrelette"のアンプラグド映像集)

DVD L'autre distribution AD1546V
フランスでのリリース:2009年8月17日


Amelie-les-crayons : DVD A L'Ouest (bande annonce)

2009年8月16日日曜日

さらばスカーフ、さらばマドラス



Robert Mavounzy, Alain Jean-Marie, etc "L'album d'or de la biguine"
ロベール・マヴーンズィ、アラン・ジャン=マリー他『アルバム・ドール・ド・ラ・ビギン』


 フレモオ&アソシエ社のビギン復刻シリーズを長年監修しているジャン=ピエール・ムーニエの新しい仕事です。ものは既にビギンおよびフレンチ・ウェスト・インディーズのレコード史の中で屈指の名盤と評されていた1966年録音の『アルバム・ドール・ド・ラ・ビギン』(原盤セリニ・レコード、ポワン=タ=ピトル録音)のCD復刻です。加えて1972年セリ二・レコード録音のグアドループ島のカドリーユ・アンサンブル(ヴァイオリン:エリー・コロジェ)の4曲も収録されています。
 時期としてはアレクサンドル・ステリオなどのビギンのパイオニアたちの次の世代が、ビ・バップ・ジャズの影響のもとに伝統のリミットを越え出した頃で、クラリネッティスト/サキソフォニストのロベール・マヴーンズィがその旗手的な存在でした。後にビギン・ピアノの第一人者となるアラン・ジャン=マリーはこのセッションの時に21歳で、兵役の最中にこの録音に参加したため、録音のあと明け方に兵舎に帰ったところを上官に咎められ、数日間の営倉禁錮の罰を喰らいます。この名盤に女性歌手として参加しながら、有名になることなく、若くして消えてしまったマニュエラ・ピオッシュを、解説のジャン=ピエール・ムーニエはブルースの女帝ベッシー・スミスと比肩するとして、ビギンの女王の称号を与えるほどのオマージュを捧げています。
 このアルバムは、土地の名士にして、島の音楽に大変大きな貢献をしたロジェ・ファンファン(1900-1966)へのオマージュとして、ロベール・マヴーンズィ等がファンファンとその楽団「フェアネス・ジャズ」のレパートリーを再録音するかたちで制作されましたが、結果は先輩たちをはるかにしのぐビギンの金字塔アルバムになってしまったわけですね。
 追加で収められたエリー・コロジェのヴァイオリンを中心としたカドリーユ・アンサンブルの4曲ですが、ジャン=ピエール・ムーニエの解説がたいへん面白く、18世紀フランス宮廷で流行っていた社交ダンス音楽が、いかにしてフレンチ・カリビアンの各島で大衆ダンス化したかを説明しています。もちろん最初は仏領西インド諸島に入植した貴族入植者たちが持ち込んだわけですが、白人入植者たちにしてもこれが島での数少ない娯楽の最高のもので、家事に従事する黒人奴隷たちに才能があれば、どんどん楽器や音楽を習わせて、このダンスパーティーの習慣を消すまいとしたのです。黒人楽士たちはどんどん増え、その音楽は上流社会だけでなく、黒人たち同士の社会でも広がっていきます。
 カドリーユは18世紀ヴェルサイユで流行した、4組のカップルが四角になって踊る組ダンスで、グアドループのサトウキビ・プランテーションにうもれた村落部の野外ダンスパーティーで、これが18世紀のスタイルのまま踊られていたりするんですね。ジャン=ピエール・ムーニエはもちろんリズムやパーカッションなどがアフリカ起源のものがどんどん入っていってクレオール化することも強調しますが、これが長い間隷属されてきた人たちの、自由希求の表現となっていたことが最も重要なこと、という結論を引き出します。良い勉強になりました。

<<< トラックリスト >>>
1. Nous les cuisinieres (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
2. Guadeloupe An Nous (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
3. Moune a ou cé moune a ou (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
4. Cé biguine (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
5. Ti doudou an moin (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
6. Ninon (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
7. Mon automobile (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
8. Serpent maigre (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
9. Touloulou (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
10. Doudou Pas Pleuré (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
11. Chauffé biguine là (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
12. Adieu foulards, Adieu Madras (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
13. Pantalon (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)
14. L'été (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)
15. La poule (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)
16. Pastourelle (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)

"L'album d'or de la biguine"
CD Frémeaux & Associés FA5259
フランスでのリリース:2009年9月



 

2009年8月12日水曜日

In Jane B. we trust



 8月11日,アウン・サン・スー・チーへの判決(自宅軟禁18ヶ月)への抗議するデモはパリのビルマ大使館前。ジェーン・Bはもっとテレビやラジオに出なければダメです。私はそれを知ってたら,犬連れて参加に行きましたとも!今朝の新聞報道によると,デモ参加者「約50人」ですと。ウッソだあ...。そんなバカな...。いかにこの時期でパリに人がいないとは言え,そんなはずはないと思いますが,知らなかったとは言え,行かなかった自分を責めます。
 しかし昨夜のフランス国営TVフランス2ではこのニュース見ませんでした。
 ジェーン・Bがアムネスティ・インターナショナルと共にアウン・サン・スー・チーの解放を要求する運動を積極的に行っているのは,昨日今日のことではなく,既に数年間も続いていて,デモでは必ず先頭,テレビ/ラジオへのコメントはアムネスティ代表よりも頻繁で重要度が高いです。なにしろジェーン・Bですから。巨大石油会社トータルを敵に回しても全然平気。1985年セルジュ・ゲンズブールはトータル石油のために5分間の映画館上映用コマーシャル・フィルムを監督制作しています。1988年ビルマに軍事独裁政権が生れ,1992年トータル石油がビルマのヤダナで天然ガス採掘を始めました。「軍事独裁政権のスポンサーは中国政府とトータル石油である」とアムネスティ・インターナショナルはこの石油会社をボイコットするよう世界に訴えています。
 昨日の判決を受けて,世界の主要国が抗議の声明を発表し,米国オバマもアウン・サン・スー・チーの無条件解放を要求しました。フランスのサルコジは「早急にEU全体でビルマへの経済制裁を強化するよう働きかける」と言いました。ジェーン・Bは「ずいぶんサルコジは強いことを言ったものだ」と皮肉っぽく評価したあとで,「石油会社をボイコットすることをなぜ言えないのか」と批判。トータル石油のビルマ撤退こそ,アウン・サン・スー・チーの解放とビルマの民主化への最短の道である,とジェーン・Bは繰り返して訴えます。
 私はジェーン・Bの言うことを信用し,全面的に支持します。次のデモには必ず行きます。

 (EMI・ミュージック・ジャパンは彼女の最新アルバム『冬の子供たち』の日本盤リリースにあたって,その中に収められた曲アウン・サン・スー・チーのヴィデオクリップを日本語字幕つきにしました。この勇気に心から敬意を表します。このヴィデオの内容は...勇気が要ると思います。)

2009年8月6日木曜日

おお湖水の上に煙が立っているぞ そして空には炎が



 昨日マニュ・チャオ原稿を書き終えました。
 私が89年に入社したメディア・セット社に,ディディエ・パスキエという人がいて,彼は同社の営業マンをしながら,オルタナティヴ・レーベルALL OR NOTHINGのプロデューサーだったのです。マノ・ネグラの前身バンドであるホット・パンツや,フランソワ・アジ=ラザロとマニュ・チャオのバンドであるロス・カラヨスのレコードを制作していたレーベルです。私はその頃はヴァリエテだけしか頭になかった時期なので,ディディエから見本盤をもらっても,あまり関心を示さなかったのでした。
 マノ・ネグラはその頃アルバム『パチャンカ』の大ヒットで,ディディエや私から見ればかなり天狗になっていた時期でした。喰うや喰わずの生活をしていたパンク小僧たちが,急に金を持ったら...。そしてディディエがホットパンツの権利をめぐって,マノ・ネグラから訴訟を起こされたのです。私のうろ覚えの記憶では,ディディエがホットパンツ制作のギャラをミュージシャンに払っていない,あるいは現金払いのため払ったという証拠書面がない,という理由で,この権利をディディエから奪い取ろうとしていたような話だったと思います。貧乏プロデューサーのディディエは寝耳に水で,かわいそうに,3年前のスタジオ費やバンド飲食費の領収書のかわりになるものを一生懸命探して...。そしたらマノ・ネグラ側から「ホットパンツのレコードが東京のレコード店で見つかった。あんたたちには輸出の権利はないはずだ」というイチャモンまでついて。そのレコードを東京に送っていた張本人は私でした。
 そういう事情があって,89年当時の状況では,私はマノ・ネグラのマニュにしても,ブッシュリーのフランソワにしても,できることなら近づかないでおこう,としていたのでした。
 その後のマニュの発言にしても,たいへんひっかかるのは,レコード産業全般に対する嫌悪感ですね。レコード会社から強制されることを拒否して,創作の絶対の自由を死守し続けたマニュですから,衝突することは多かったと思います。俺は音楽を人々と分かち合いたいわけで,レコード売上げの利潤をレコード会社と分かち合いたいわけではない,なのです。前者が達成されれば,後者など必要ないのです。時々出て来る「俺はもうCDを出さない」発言は,レコード会社にとっては脅威ですが,時代の趨勢であり,マニュのような南米の山の奥まで行ってでも人々と音楽を分ち合いたいアーチストは,無料配信された方がずっと自分の目的に近いものになるのです。
 マニュは "GROS"(グロ。大物。メジャーアーチスト。メジャーな音楽)は無料(違法)ダウンロードしたってかまわない,とはっきり言っています。その中には当然自分の音楽も含まれます。ただ小さい独立のアーチストや大国でない国の音楽などは買ってあげた方がいいんじゃないの?とは思っているようですが,そのあとすぐに「CD買う金があるんだったら,恋人と映画見に行く方がずっといい」なんて言ってしまうんですね。
 というわけで,今後,マニュ・チャオの新曲の無料ダウンロード公開がどんどん増えていきそうな感じです。

 9月11日,フランス共産党機関紙ユマニテ主催の「ユマニテ祭り」にマニュ・チャオ&ラジオ・ベンバを見に行きます。11日夜はメインステージにマニュ・チャオ,同じ時間のサブステージにアラン・ルプレストというがっちゃんこですが,迷わずマニュ・チャオです。
 12日土曜日は,今朝の爺の窓 (2009年夏) で書いたように Le Grand Feu de Saint Cloud があるので行けませんが,メインはディープ・パープルです。今年のユマニテ祭りのプロモーション・ヴィデオもかわいらしく「スモーク・オン・ザ・ウォーター」づくしで,笑えます。
 13日日曜日はマチネ17時にジュジュ様です。「イ〜〜ヴァノヴィッチ」って歌うんでしょうね,やっぱり。