2023年5月20日土曜日

Nico ta mère (追悼アリ・ブーローニュ)

2023年5月20日、パリ15区の自宅アパルトマンでアリ・ブーローニュ(本名クリスチアン・アーロン・ブーローニュ、出生時の名はクリスチアン・アーロン・ペフゲン)が死体(かなり腐敗が進んでいて死後数日後と想定される)で発見された。60歳だった。
 発見者はその伴侶とおぼしき女性(58歳)で、地方への旅行から戻って来てこの状態だったので警察に通報した、と。ただ、アリは既に健康を害していて、最近にジョルジュ・ポンピドゥー病院に緊急収容されたこともあり、半身不随状態で車椅子で生活していたようで、ひとりで自宅にこもれる状態ではなかったとされ、この女性を「危険状態にある人間への補助義務を怠った(non-assistance à personne en danger = フランスでは刑法の規定にある犯罪)」嫌疑で逮捕して事情聴取している。
 母親はドイツ人のトップマヌカン、女優、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌手だったニコ(1938 - 1988、本名クリスタ・ペフゲン)、父親は認知されていないがフランス人俳優アラン・ドロンとアリは主張しており、アリの一生はほぼこのドロンの”父認知”を勝ち取るための法廷闘争に費やされている。ドロンは一貫して否定している。
 母親ニコから遺伝と自ら認めている幼少時からの麻薬常習者であり、職業は写真家であるが、喰えてはいない。2001年に母親ニコとアラン・ドロンのことと自分の半生を綴った『愛は決して忘れない L'amour n'oublie jamaisが 』(Pauvert社刊)という本を発表して、大ベストセラーとなっている。この本を当時私が主宰していたインターネットサイト『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)が2001年5月の「今月の一冊」として紹介している。アリ・ブーローニュへの追悼の意を込めて、以下に再録します。

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これはウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2001年5月に掲載された記事の加筆修正再録です。

Ari "L'amour n'oublie jamais"
アリ『愛は決して忘れない』
(Pauvert刊 2001年3月)

 この本の著者はただ Ari とだけ署名している。日常生活では「アリ・ブーローニュ Ari Boulogne」という名前であり、俳優アラン・ドロンの母親のエディット・ブーローニュの戸籍に養子として入籍してその姓を得ており、国籍はフランス人である。ところが著者はそれを認めたくない。母親はクリスタ・ペフゲンという名のドイツ人。ニコという芸名で世界的に知られていた人。1938年ケルンで生まれ、1988年イビサ島で自転車で転倒し、脳震盪を起こしこの世を去っている。アリは出生時の「アリ・ペフゲン」という名に固執しているのではない。母親がクリスタ・ペフゲンと名乗らずに姓なしのニコという名で生き通したことを自分に近づける意味で、姓なしのアリと署名したのである。
 本作はドキュメンタリーでも自伝でもない。題名の下に「レシ récit」(物語)と断られている。物語は実名で事実を記述してもいい。著者は自分が書き続けてきた日記と創作ノート(アリは詩人でもある)をベースに自分の物語を綴っている。そしてヘロイン常習者であるからというだけの理由ではなく、十代の時から精神疾患の自覚症状を持つ彼の記述は、ところどころ不安定で混乱した箇所も出てくるが、それは創作によるものであるかもしれない。
  この作品の大きな目的のひとつは、母ニコの名誉回復である。世界の幾多の「ロック人名事典」のようなものを紐解いて見れば、そのどれもがニコに関して「元トップ・ファッションモデル、アンディー・ウォーホルに見い出され、映画女優そしてヴェルヴェット・アンダーグラウンドと活動を共にする歌手となる。しかし注目された時期は短く、その後は麻薬中毒のために...」ということしか書かれていないだろう。70年代後半以降のニコのイメージは極端に悪い。麻薬の地獄に堕ちてボロボロになった元美人歌手というネガティヴなイメージが支配的である。これを著者はニコというアーチストの同行者として、そのクリエーター/パフォーマーとしてのクオリティーは80年代にもいささかも衰えることはなかった、ということを証言するのである。
 この本と同じ出版社 Pauvertから本書と同時期にニコの詩と散文を集めた”Cible mouvente(動く標的)”と題された本(←写真)が発表された。監修と編集はアリが担当している。知られざる「文字化された」ニコの作品を世に出すことによって、この不当に低く評価されたアンダーグラウンドの詩人/ミューズの再評価のきっかけとしようというわけである。

 ニコをことさらにネガティヴに思っていたのは、アラン・ドロンの母エディット・ブーローニュ(→写真少年アリとエディット・ブーローニュ)であった。エディットにとってニコは養育能力が皆無の母親であり、ブーローニュ家の平和を掻き乱す女でもあった。ドロンの母はアリが2歳の時に”孫”の存在を知った。当時アリはニコの母親のもとでイビサ島に住んでいたが、既にその女性は健康を欠いており、ニコはエディットとコンタクトを取り、アリの養育を依頼したのである。パリの西郊外ヌイイにあるニコの友人の写真家ウィリー・メイワルドの家で、エディットは初めてアリと会う。一目見てエディットはこの幼児が自分の孫、つまりアラン・ドロンを父とする子供であることを確信する。
 エディットはこのことをドロンに何度も手紙で知らせるのであるが、ドロンはそれに返答しないばかりか、弁護士を通じて絶対にこの子と関わりを持たないように、と通告してきた。フランスのトップ男優はその後も一貫してアリを息子として認めていない。しかしわが子ドロンの意志に逆らって、エディットはアリをパリの南郊外ブール・ラ・レンヌの自宅に迎え入れ、2歳から18歳までわが子同様に育てるのである。このことによってアラン・ドロンとエディットの関係はきわめて険悪なものになっていく。
 この母子の確執は非常に根が深く、エディットはアランにとっては悪い母親であったに違いない。書かれる前のドロン伝記本を訴訟によって発禁処分にするほど、アラン・ドロンは知られたくない過去を多く持った人間であるうが、相当に荒廃していたと言われる少年時代は、母親の責任もおおいにあっただろうことは想像に難くない。そして兵士アラン・ドロンがインドシナ戦線から帰ってきた時に、母親は駅のプラットフォームで待っていなかった。そういったことをエディットは深く後悔していたからこそ、アランにしてやれなかったことをアリに、という愛情の注ぎ方をしていたようだ。それがまたアランには面白くなかったのであろう。
 そしてアリが6歳だった1968年に、かのマルコヴィッチ殺害事件が持ち上がる。これはアラン・ドロンのボディガードが暗殺され、ドロン自身の関与の可能性で捜査が進められ、ドロンと暗黒街との関係が大きくクローズアップされた事件である。エディットとその近縁の者たちは、この事件の延長として、アリが誘拐される、あるいは暗殺される、という可能性を非常に真剣に恐れていた。そこでエディットはアリを隠すように地方のカトリック系の寄宿学校に送り込んでしまう。この(体罰も日常茶飯事である)極端に厳格な男子寄宿学校でアリは9年間を過ごすことになる。

 学校の休暇や週末などをアリはニコのもとで過ごしていたので、彼は幼少の時からエディット・ブーローニュ家の”普通人”の世界と、母ニコが属するエキセントリックなアーチストの世界の間を行き来する、二つの相反するカルチャーを育んでいった子供であった。ヴェルベット・アンダーグラウンドのマスコット・ボーイのように扱われたり(→写真左すみにニコとアリ)、後にニコが生活を共にするようになる映画監督フィリップ・ガレルの映画作品に子役として出演したり、子供ながらに60-70年代の前衛アートのど真ん中に身を置いていたのだ。これがエディットにとっては、アルコール、ドラッグ、性風俗など、"普通人"として育ててきたアリを破壊する悪影響ばかりをもたらすものであった。
 アリのこの本を読む限りでは、この少年期は曲がりなりにも両世界のバランスが取れていて、おおむね幸せな時代だったのではないか、と想像できる。物質金銭的に比較的に豊かだったブーローニュ家側と、派手だがかなり貧しかったニコ側という違いこそあれ、並みの少年ならおよそ体験できるわけのない、羨まれても不思議のない両世界を股にかけた青少年期である。その平衡を捨てて、ブーローニュ家を去って、ニコと完全に生活行動を共にするようになってから、アリの”地獄の季節”が始まるのだが、アリはその選択を全く後悔していない。地獄の描写はかなりリアルであり、後半はちょっと読むのを投げ出したくなるようなパッセージの連続である。

 この本の主題からやや離れるが、観点を少し変えてみよう。この物語の中では、あらゆる地獄渡りの局面で、必ず助け舟を出す人間が現れる。なぜか。私はそれは造形的に異論の余地のない美貌のおかげだと断言できる。どこにいようが、人を振り向かせずにはおかない美貌を持った人間は、それを持たない人間とは人生の密度がまるで違うものである。美しい少年は、それ自体が詩である。実際アリはベルナール・シャスという詩人に熱愛され、多くの詩を捧げられている。またアリを診た精神分析医もアリに恋い焦がれて苦悩していた。女性たちもしかり。この美しい創造物のために援助を惜しまない女性が次から次に現れる。どんな地獄の底でもこの美貌は彼を救ったに違いない。アリは十分それに自覚的であったはずだ。生半可なナルシストというレベルではない。その美貌は多くが父の血からさずかったものと言えよう。世界中の映画ファンが称賛しているあの美男俳優の顔が、毎朝鏡の中に映し出されるのである。アリは息子として認知されないことでドロンを恨んではいるが、自分を救っている美貌という授かりものには感謝しているに違いない。

 読まれ方は千差万別あろうが、宿命的にこの本はアラン・ドロンに絡む芸能暴露本として話題になることは避けられない。そうでないとこの本は誰からも注目されないだろう。売れる本として世に出したい出版社としてはドロンねたは多ければ多いほどいい。だがアリの文章はそれをできるだけ制御したい配慮はしてある。この本の悲劇はここなのだ。レ・ザンロキュプティーブル誌のインタヴューでアリは「人の興味は自分にあるのではなく、自分の父と母にだけ集中する」と言っているが、まさにその通り。
 ニコが1988年に死んだ時、アリは25歳だった。今、アリは38歳になった。エディット・ブーローニュも今や故人となった。発表の機会のほとんどない写真家、作家、詩人として、アリは今貧しくパリで生きている。この本を書くきっかけとなったのは、長男シャルルの誕生である。自身の父ドロンとは対局であるように、自分の半生を包み隠さず子供に聞かせるように、アリは緊急にこの本を書き、過去に落とし前をつけようとしたのだ。それはドロンへの復讐心と父の愛の渇望がごっちゃになったものである。
 このベストセラー本の印税は少しはアリの生活を楽にするかもしれない。しかし、その美貌と彼を取り巻く”セレブリティー”たちの行状の記述以外、アリという若きルーザーの記録に、彼自身の文章表現の魅力と彼自身の生きざまの魅力を、私をはじめ多くの人たちは読み取ることができないように思う。この痛々しさは印象に長く残らない。
 おそらくこの本の最大の山場として読まれるだろうパッセージは、アラン・ドロンの運転する車の中でのこのドロンのセリフである。
アラン・ドロンは片手でハンドルを持ち、片手を私の肩に置いて、こう語り出した;「おまえは俺のダチだ、わかるか? おまえは俺のダチ。だがこれだけは言っておく。おまえは俺と同じ目をしていない。おまれは俺と同じ髪質ではない。だからおまえは俺の息子じゃないし、未来においても俺の息子になることなどありえないんだ。俺はおまえの母親と一度しか寝ていない。おまえの父親、それは”ポレオン”さ」
(p229)

ポレオンなるどうでもいい口からでまかせの名前を出して、ドロンは父と子の縁を全否定する。この本の核心的な部分はこの箇所ではない。だが、この映画的な図を誰もが鮮明に想像できるこのシーンは、この大役者によって演じられたら、アリは絶対的に不利である。この冷酷な拒否を突きつけられたアリの深い悲しみは、大名優ドロンの演技の前で完全に軽くなってしまうのだ。別の表現をすれば、この残酷なシーンの大いなる悲しみをアリの文章表現は伝えられないのである。この本とアリという存在のコンプレックスはまさにここなのである。

(↓)2001年4月、ティエリー・アルディッソンのトークショー番組"Tout le monde en parle"(国営テレビFrance 2)で、自著『愛は決して忘れない(L'amour n'oublie jamais)』を語るアリ・ブーローニュ


(↓)2002年公開のレティシア・マッソン監督映画『La repentie(更生した女)』(主演イザベル・アジャーニ、サミ・フレイ)に出演したアリ。モロッコ・レストランでのシーン。

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