2023年5月5日金曜日

It's a boy, I'm the boy

Aki Shimazaki "Niré"
アキ・シマザキ『楡』


アキ・シマザキの第4のパンタロジー(五連作)は、『スズラン』(2020年)、『セミ』(2021年)、『野のユリ』(2022年)と続いてきたが、この『ニレ』はその第4話。シマザキの通算で19作目の小説にあたる。次作で完結するこのパンタロジーは、前作『野のユリ』まで五連作総題がついていなかったが、本作から”Une clochette sans battant"と名づけられている。直訳すると”打ち舌(ぜつ)のない小さな鐘”ということになるが、形状から判断してスズランの花のことと理解できる。この第4パンタロジー”Une clochette sans battant"の前3話については爺ブログで全部紹介しているので未読の方は(↑)の青いリンクから参照してください。
 時代は「令和」期、場所は山陰地方鳥取県米子市、中流家庭「楡(にれ)家」の物語である。まもなく結婚50年(金婚)を迎えようとする老夫婦(テツオとフジコ)は既に住み慣れた家を離れて老人施設で暮らしている。妻フジコはアルツハイマー性認知症がかなり進行している。二女一男の子供がいたが、長女キョーコ(派手好き、男好き、都会好き、国際社会で活躍するキャリアウーマン)は初の子供スズコを出産したのち癌で死んだ。スズコの父親でキョーコのフィアンセだったユージと恋に落ち、フジコを養子に迎えてユージと再婚したのがキョーコの妹で名のある陶芸家となっているアンズ(バツイチで前夫との間の男児トールを育てていた)。ユージが東北大震災で両親ほか身内を失っていたので、アンズとユージは婚後「楡姓」を名乗っている。楡家の末っ子にしてただ一人の男児がノブキ(=今回の小説の話者)、職業は土木技師だがセミプロ級のクラシック・ギタリストで、妻のアヤコはクラシック・ピアニスト/ピアノ教師である。この夫婦にはすでに二人の娘がいて、小説はアヤコが三人目の子供を懐妊するところから始まる。
 ノブキは波乱に富み浮き沈みの激しかった二人の姉(キョーコとアンズ)と対照的に、波風の少ない”まともな”生き方でここまで来ていて、まともな職業(土木技師)で固い収入を得ながら、気の合うピアニストと恋愛結婚をし、二人の子供をもうけ、家屋を購入し、今三人目の子の誕生を待っている。ところがシマザキの小説であるから、この平凡な生き方にも日本風土の問題が黙ってはいない。それはフツーの家のフツーの長男たる者のアプリオリな責務であり、家督を継ぎ、両親と同居し、その老後の世話をして最後まで看取ってやる、ということである。それはまさに両親テツオとフジコが切望していたことであったが、ノブキはアヤコとの結婚の時に両親との同居を拒否していて、テツオとフジコはその長男夫婦の決断におおいに落胆している。2020年代の日本において、男系家父長制の世襲の問題とそれに連繫する親の介護問題、これをシマザキは非日本語系読者たちに強調しておきたかったのだろう。ノブキはそこから逃げたわけではない。フジコのアルツハイマー系認知症が深刻になった時点で、両親が実家で日常生活を営むことは困難と判断し、夫婦での上級の老人施設入りを手配したのはノブキだった。これだって”長男の仕事”ではないか。
 ところがフジコの認知症が日に日に悪化していき、身内ではテツオしか認識できなくなってしまい、そのテツオも今のフジコの頭では”自分との結婚前のフィアンセ”の優しい人でしかない(この状況はこのパンタロジーの第二話『セミ』に描かれている)。そして断片的に戻ってくる記憶をもとに、ノブキが「僕はあなたの息子のノブキですよ」と自己紹介すると、フジコは「私には二人の娘しかいない、男の子はいない」と言ったのである。これにはノブキは大きな衝撃を受け、悲嘆するのだった。
 このパンタロジーの前3話まで読んだ読者には、すでにノブキがテツオを父とする子供ではないということを知ってしまっているので、この第4話に何のサスペンスもない。にもかわかわらずシマザキはこの第4話を、ノブキ自身による”出生の秘密”発見のストーリーに仕立てたのである。だから先が見えている興醒め感と共に読み進むことになるのだが、シマザキはこの秘密発見ストーリーの最重要の小道具として、フジコの日記を登場させる。自分にアルツハイマー系認知症が始まっているという自覚があり、自分の記憶が確かなうちに書き残しておかなければならないことがある、という使命感からフジコはノートのページを字で埋めていく。そしてそのノートは実家にあったノブキが小さい頃に使っていた勉強机の引き出しに隠してあったのだが、いつしか湿気でその引き出しが開かなくなり、フジコの認知症も進み日記の存在も忘れ去られ...という設定。かなり無理がある。アルツハイマーの自覚、記憶を失っているという自覚、誰に残すつもりで書いているのか判然としない”遺書”的性格の日記、それに何を食べたとか何を買ったとか日常記録の記述が多くを占める日記...。それを発見したノブキも一気に読めない量ではないだろうに、何ヶ月もかけてゆっくり読み進めていく、という...。とまれ、ノブキはその日記を通して、自分からは見ることができなかった母フジコの実像を発見していくのである。
 唐突に諸姉諸兄に問いたい:日記とはアプリオリに真実が書かれてあるものなのか?日記に虚偽の記述はないのか? - 人は日記にウソや自分に都合が良いように曲げた記述をするものだと思いますよ(少なくとも私のはそうですよ)。だから、こういう”日記の中に真実が隠されている”式の小説の組み立て方というのは、浅薄だと思うのですよ。とりわけ心の病を進行させている人物が、時間や場所や真偽の区別などが曖昧になって、名前がごっちゃになったり、てにをはが怪しくなったり、さまざまな交錯したエクリチュールがあって当然だと思うのだけど。この小説が無条件に(整然と記述された)フジコ日記を土台にして展開するのは、どうしたものなんでしょうね。ま、それはそれ。
 ノブキが発見するフジコとは、家族と義父義母の世話に忙殺する自分を顧みることがなく隠れて浮気までしていた夫テツオへの不信の時期があったこと、夫が改心したかのように家庭を大事にするようになったのはノブキの誕生がきっかけであったが、その出生の秘密を夫は知らない、しかし義父義母はノブキが3歳の頃にその秘密に気付いたのかフジコに強烈なハラスメントをかけ始める.... そういったことを誰にも言えずひとり耐えていた母/ひとりの女性の姿であった。
 義父母から受けたハラスメントとは、ノブキに楡家の家督は継がさせない、というものだった。ノブキの生物学的父親がテツオではない、という理由からのことであるが、この義父母はそのことを公にすることは絶対にしない。それはそのまま楡家の大醜聞となって楡家全体が不幸になるから。これをフジコは「過ち、事故 accident」として、義父母にずっと詫び続けるが、ノブキを”孫”として認めて欲しいという嘆願も義父母が亡くなるまで続けなければならなかったのである。
 この小説の核心は、この男系家父長制度と血縁絶対主義の21世紀的日本での重さ、ということになるかもしれない。当時事情を何も知らなかったテツオと違い、義父母の死後、ノブキ夫婦との同居/実家継続をテツオよりも強く希望したのはフジコだった。フツーに独立志向が強く、親(or 義父母)との同居/面倒見など御免蒙りたい”モダン”なアヤコとノブキはそれを頑なに断り続けた。フジコの頭の中では、ノブキ夫婦が実家に”入城”することこそ、義父母から受けたハラスメントからの解放であったのかもしれない。しかし。
 小説は同時に日本的な親と子の”身分差”が消えていく過程の物語でもある。これをシマザキは、「おとうさん」「ノブキ」と呼び合っていた関係がある日から「オヤジ」「セガレ」と呼び方が変わる過程として表現している。「オヤジ」と「セガレ」は男と男として同等の関係の成立を象徴している、と。調子に乗ってノブキはフジコを「オフクロ」と呼んでみたいわけだが、今のフジコにとってノブキは名も知らぬ「親切なムッシュー」でしかない。
 この「セガレ/オヤジ」関係のクライマックスは、最終盤にフジコ日記その他で自らの出征の秘密を知ったノブキが、テツオにそれを告げようとした時、テツオはそれを遮り「どうやってそれを知った?」と問い、ノブキは「母の日記を読んだ」と答える。テツオは「おまえが真実を知ったということが重要なことだ」と言い、
Rien ne changera jamais entre nous.
俺たちの間は未来永劫何も変わらない
と。そこでノブキは「オヤジ...」と声を震わせる。チョーンと木が入ってハッピーエンド。

 この大団円のクレッシェンドはアヤコ(ノブキの妻)の第三子出産という劇的瞬間に向かって同時展開されるのである。ノブキ/アヤコ夫婦は、テツオ/フジコ夫婦と全く同じように、二女に続いて第三子はギャルソン。この子は自分と同じように楡家にとって運命的な存在になる、という男系家父長制度の封建思想がノブキに芽生えたかもしれない。この子は楡家の家督を継ぐ者 --- おおいやだいやだ。だが流れはそうなってしまっている。ノブキはこの子に「楽斗(ガクト)」という名をつける。音楽の上戸(じょうご)。学の音(ね)を汲み取る柄杓。音楽が縁で知り合った音楽を愛する夫婦の子供。上等じゃないですか。これにはもう一つのいわくがあり、このフジコ日記その他で知った母の生涯の中で、母が女学生時代に最初に想いを寄せていた上級生ピアニストの愛称が「ガクちゃん」であり、母のクラシック音楽愛の発端となった人物であった。ノブキはわが息子を「ガクちゃん」と呼ぼうと決めた。このガクちゃんという呼び名が、失われたフジコの記憶の奥すみから蘇ってくれれば、という願いを込めて。そしてフジコはテツオに付き添われて、「親切なムッシュー」の生まれたての赤ちゃんを見に来る。ノブキは、フジコにこの子はガクちゃんだよ、と。その名を聞いて、急にフジコは表情を変え、固まってしまう。しばらくじっとガクちゃんの顔を見つめ、こわばった表情がおだやかになり、こうつぶやいた。
C'est mon fils, Nobuki....
これはノブキ、私の息子...

ね?エモーショナルでしょう? なんだかんだ言いながらも、私がシマザキを読み続けるのはこういうシーンがあるからなのだよ。文句が吹っ飛んでしまう。で、このパンタロジーの次作、つまり第5話完結編であるが、私はこの「ガクちゃん」と呼ばれたピアニストが主人公になるであろう、と確信的な予言をして、このレヴューを閉じることにする。

Aki Shimazaki "Niré"
Actes Sud刊 2023年5月3日 140ページ 16ユーロ


カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)"It's a boy" (The Who's Tommy、1975年ケン・ラッセル映画)


(↓)"I'm the boy" (セルジュ・ゲンズブール、1986年ゼニット・ライヴ)


(↓)"Le Garçon" (ヴァンサン・ドレルム 2016年)

0 件のコメント: