2022年5月13日金曜日

No - no - Future

Aki Shimazaki "No - no - yuri"
アキ・シマザキ『野のユリ』

ナダ/モンレアル在住の日本出身フランス語作家アキ・シマザキの、これがなんと18作目の作品で、まだ名前のついていない第4のパンタロジー(五連作)の第3話。第1話の『スズラン』(2020年)と第2話の『セミ』(2021年)は当ブログで紹介しているので、(リンクから飛んで)参照していただきたい。このパンタロジーは"フクシマ”以降の21世紀日本を舞台とし、鳥取県米子市の中流家庭「ニレ家」(北杜夫『楡家の人びと』にインスパイアされたかどうかは定かではない)の隠居老夫婦とその二人の娘と一人の息子を中心とした展開。第1話『スズラン』は性向の全く違う姉妹(派手好き男好き金好き都会好きの姉キョーコ、地味で離婚歴ありの陶芸家の妹アンズ)の愛着と確執を妹アンズの視点で描いている。第2話『セミ』では年代的には第1話から数年後、実家を去って老人施設入りした父テツオと母フジコ(アルツハイマー性認知症がだいぶ進行している)の双方の知らないそれぞれの過去のアヴァンチュールを再発見していった末に、テツオの知らぬうちに崩壊寸前だった夫婦に幸福な「和解」の幻想へ導くエモーショナルな秀作(テレラマ、リベラシオン紙等が初めてシマザキ作品を絶賛)。
 さてこの第3話『野のユリ』は、時系列では『スズラン』より前に位置する。稀なる美貌の持ち主で、情夫を何人も取替えながら、東京でキャリアウーマンとしてアクティヴに生きるニレ家の長女キョーコが本作の話者。シマザキのパンタロジー連作のひとつの弱点と言えると思うが、『スズラン』を読んだ者はキョーコがこのあとガンで病死するということを予め知ってしまっていて、終盤かなり興味を殺がれるように思う。終盤に現れる電撃フィアンセのヨージのことも『スズラン』で知ってしまっているし。ま、それはそれ。
 キョーコはこの時35歳。アンダーソンという名の米国系化粧品大手の日本支社で支社長秘書として働いている。英語堪能、仕事もできる。そして(すごいのは)仕事が大好きだときている。この会社におけるキョーコの満足は、自分のビジネススキルが100%発揮でき、支社長および米国本社の信頼があつく、高給であり、支社長同行の国外出張が多く、世界中のハイレベルのビジネスコンタクトと渡り合え、それに相応しい高級ブランドのファッションで身を包み...。こんな暮らしをしていれば、両親が望んでいるように郷里の米子に戻って暮らしたり、古い日本の考え方のように男と所帯を持って"落ち着い”たり、などという考え方などキョーコには全くできない。(シマザキ文学にあって毎回気になるのだが、非常にパーソナリティーが単純化されている。その中でもキョーコの場合は際立っていると思う)
 その美貌で幾多の男を情夫としてものにし次々に捨ててきた経緯は『スズラン』でも詳説されていたが、本作ではキョーコは既婚者の男しか相手にしないという性向が明らかになっている。それは結婚をせがむような男を避けるためだが、既婚者情夫でも「離婚するから結婚してくれ」という段階になったら自動的に捨てられることになる。結婚・家庭を牢獄的束縛としか見なさない傾向が十数年も持続している、これが本作の終盤で変わるという進行。
 この小説でおおいにものを言っているのが"企業小説”的ファクターである。はっきり言ってシマザキは得意ではないと思う。いつの時代の大企業かとあきれる部分あり。まず若き日のキョーコがどうしても"外資系”で働きたがったのは、日本式経営の擬大家族主義とミリタリズムと上下左右関係の粘着性を忌み嫌ってのことで、欧米系企業は実力主義・能力主義でスマートに割り切れるという神話に依っている。キョーコのいる米大手の日本支社にも「コピーとり/お茶くみ」という"女の仕事”は存在する。アンダーソン日本支社は前任支社長のスミスの手腕で業績を伸ばし、とりわけ日本市場向けに現法たるアンダーソン日本が開発商品化した製品の売上が好調で、スミスはその分野をさらに伸ばすべく日本での研究所/工場を増やす方向で本社と交渉していたが、道半ばで夫人の難病悪化で退職し、アメリカに帰国する。スミスの有能・完璧・自慢の支社長秘書だったキョーコは、これによって秘書職を解かれる危機にあった。
 支社長秘書という会社の情報が集中する心臓部で働く緊張あふれる重要なポジション(まあ、一種の"働き甲斐”とも言える)とその高給と派手な海外出張がキョーコを活き活きと生きさせるすべてであった。これを失ったら...。
 ところが、後任となったのは日本支社内で営業統括者だった若手のやり手で、本社派遣の米人やさ男グレン(いつも緑系のウェアで身を包んでいるので、社員たちから"グリーン”とあだ名されている →シマザキのこういうマンガっぽいペルソナージュづくり、どうもいただけない)で、日本語ベラベラかつ日本文化贔屓(朝食から白米と味噌汁)。プライベートでは離婚後のひとり者で、元妻は韓国人でソウルでグレンの子供と暮らしている。プレイボーイとの噂もあり、グレンの現日本人秘書(愛人とされる)を昇格後そのまま支社長秘書にするというのが社内情報通の話だった。ところがところが、グレンは大胆にもキョーコを誘惑するのである。この誘惑ドラマ(バーでかなり飲む→気がつくとグレンの自宅で目がさめる→暴行の形跡などなく丁重に看護されている→味噌汁朝食など出されて魅惑の米人に好意を抱いてしまう)には小説の後半で明らかになるが、”レイプドラッグ”使用疑惑が浮かび上がる。
 グレンはその味噌汁の朝、キョーコへの愛を告白し、未来の支社長秘書のポジションを差し出し、プライベートでは隠密に愛人関係を結ぼうと申し出、キョーコは願ってもないことのようにこの魅惑の米人に身も心も預けてしまうのである。ここまで86ページ。ちょうど小説の真ん中。(ついてきてください、まだ続きます)
 新支社長と美貌の有能秘書の社内でのパートナーシップは正常に機能し、土曜日になるとキョーコがグレン宅にお忍びで通い濃厚な交情をするという二重生活は誰にも気づかれずにしばらく続く。しかし今度のシマザキは"企業小説”に重点があるので、このカップルの変調は会社の業績不振とシンクロするのである。前支社長の現法日本製品の拡張路線に異を唱える本社は、グレンに本社製品(つまりアメリカからの輸入化粧品)の日本での販売拡充を命じる。高級&高価のイメージのある本社ブランド商品を日本で大衆化させるには大規模な広告キャンペーンを打たねばと、グレンは巨額の広告予算を使い、派手なキャンペーンを繰り返すのだが、売上は一向に伸びない。グレンは焦り、アルコールの量も多くなる。なんとか別のことで手柄を立てて、本社に認めてもらわねば。そんな時に某国から超大口顧客になる可能性を持った人間が家族旅行で日本にやってくる。グレンの懸命の接待で客の心がアンダーソン社との契約になびきかけたところを見計らって、グレンはキョーコにその客の東京案内を依頼し、要求があれば夜のおつきあいもアクセプトするように、と。”エスコートガール”役をさせられそうになったキョーコは激怒し、グレンと破局することになる。
 そこからグレンのさまざまな不正の発覚による失脚劇があり、キョーコがもはや”外資系大企業高給秘書”に固執しなくなり、人生のやり直しに「合コン婚活」するという唐突な展開に入っていく...。そして初めての、たった一回の合コンで、運命の男と出会ってしまうという...。

 誰もが振り向く美貌、完璧な英語でのコミュニケーションと難度の高いビジネススキル、高級ブランドで身をまとうこと、海外の大都市へ飛び回ること、自由に男との欲望を満たすこと... そんなキャラクターをフィクション小説で創造することは、不可能ではない。極端にステロタイプ化された"ウワベ”をいろいろ積み重ねていけばいいのだが、とにかく薄いのですよ。人間の厚みがない。それが見せかけであり、見せかけに隠されたものをフランス語人読者たちは見つけられるのだろうか?
 2022年5月7日付けリベラシオン紙のヴィルジニー・ブロック=レネによる書評は、こんな褒め言葉で結ばれている。
Entre les tsukemono de radis, l'odeur du miso et les non-dits, ce roman est un bijou et un bain d'identité japonaise.
「大根の漬物と味噌の匂いと言外の含みに満ちたこの小説はひとつの宝石であり日本のアイデンティティーに浸る湯船である。」

フランス人にはそう読めるのだろうか。"les non-dits"(言われていないこと、言外の含み)はたくさんあるだろう。みんな読み取っているのでしょうね、フランス語同志たちは。

 さて小説題『野のユリ』は、はじめに小説冒頭でキョーコの当時の愛人に連れて行かれた東京の丘の上にある小洒落たガリシア料理レストランの名前で出てくる。チリ産の良質ワインのセレクション、そして生演奏ピアノによるジャズ。これがガリシアなのは聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラと関係している、とふっと気がつくのは「言外の含み」で小説文面には現れていない。次に登場するのは、退職帰米するスミス支社長の妻ヘレン(病気療養中)への贈り物として、滞日中に生け花が第一の趣味となったヘレンのために妹アンズ(陶芸家)が焼いた花器を選ぶのだが、その花器にアンズがつけた名前が「Lily of the field」。アンズがキョーコに説明したこの名の由来は、旧約聖書の雅歌のひとつ「私はシャロンのバラ、谷間のユリ」、そしてとりわけ新約聖書マタイ書の一節「なぜ着る物のことで心を悩ませるのか? 野のユリがどうやって増えていくのかよく見てごらん。働きも紡ぎもしない。だが栄華を極めたソロモンでさえこの花ほどに着飾ってはいない...」... キョーコは教養がないことで卑下していたアンズがなぜこんなことを知っているのか?と驚くのだが、それはそれ。
 三度目の登場はその花器を受け取ったボストン在住のヘレン夫人からの感謝の手紙。この「Lily of the field」という名で夫人も(キリスト教徒ゆえに)マタイ書を想い、生け花をたしなむ上での華美への戒めのこころを(言外に)見てとり、花器の美しさ共々感動する。そして自宅の庭園を日本語で「No-no-yuri(野のユリ)」と名付けるのだった。
 四度目は小説の最終部、アンダーソン社でのゴタゴタとグレン解任劇のあと、なにかを悟ったキョーコがたった一度の「合コン」で出会った運命の男ユージとの胸躍る最初のデートで連れてこられたのが、驚いたことに(ちょうど1年前、別の男と訪れた)レストラン「野のユリ」だった。予期しなかったそのレストラン再訪に戸惑うキョーコ、小説はここで終わる。
 もの心ついて以来「着る物のことで心を悩ませて」ばかりでここまで生きてきたキョーコに、「野のユリ」は言外になにか非常に重要なことを悟らせたのかどうか...。

 虚飾を愛した女キョーコが、「働きも紡ぎもしない」野のユリとして生き直す序章のような展開と読めるが、前に発表された小説『スズラン』で読者にはその行く末が知らされている。それだけでもこの『野のユリ』がたいへん弱いものになってしまう。その大部分をかなり凡庸と読める「企業小説」で埋めたところも、なんとも残念に思ってしまう。企業・セックス・聖書 : 三題噺としては興味深いテーマではあるが、「言外の含み」はリベラシオン紙文芸評論家が称賛するほどのものではありえない。ましてや味噌/漬物を想わせる日本性などどこにもない。アキ・シマザキ文学につきあってきたフランス語人たちはそれでもエキゾティックにこれを読み通せるのだろうか。私=仏日バイリンガル人にはかなりきびしかったですよ。ではまた次作で。

Aki Shimazaki "No-no-yuri"
Actes Sud刊 2022年5月4日 175ページ 16,50ユーロ


カストール爺の採点 : ★☆☆☆☆

(↓)何の関係もなくジリオラ・チンクエッティ「夢みる想い」(1964年)


(↓)何の関係もなくザ・スパイダース「No-no-boy」(1966年)

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