2022年5月30日月曜日

だんだん良く鳴る法華のタンブール

Bertrand Belin "Tambour Vision"
ベルトラン・ブラン『タンブール・ヴィジオン』

35歳でデビューしたベルトラン・ブランが51歳になって7枚目のアルバムを発表した。2010年の サードアルバム『イペルニュイ(Hypernuit)』の高評価以来、安定した音楽活動および作家創作活動をしていたような(外部から見た)印象があったが、最新のテレラマ誌(2022年5月11日号)インタヴューでは生活はいつも火の車で、他のミュージシャンたち同様、30年間いつも路上(オン・ザ・ロード)にいた、と。そのツアー続きの生活を突然ストップさせたのが2020年のコロナ禍であり、ベルトラン・ブランも30年ぶりの"定住”生活を余儀なくされる。2020年、フランスの第一次外出制限(3月17日〜5月11日)と第二次外出制限(10月30日〜12月15日)の間の夏、8月と9月を通して撮影されたのがラリウー兄弟(アルノーとジャン=マリー)監督のミュージカル映画『トラララ』で、ベルトラン・ブランは主役マチュー・アマルリックの弟役という準主役級の本格”俳優”出演(+音楽担当)という、楽隊稼業とはかなり異なる2ヶ月間を過ごしている。
 そうやってツアー/ライヴ活動なしの1年半のあとで新アルバム制作に入ったら、なにかが変わったようだ。これまでベルトラン・ブランと言えば"ギター”(グレッチ)だった。今回のアルバムではずいぶん後退した、と言うよりもほとんど聞こえない。ギタリストとしてこの世界に入り、35歳でシンガーソングライターとしてデビューするまでは一介のバンドマンだった。そのギターと出会ったのは、ブルターニュの漁村キブロンで不安定な少年時代を過ごしていた13歳の時だった。その出会いを前述テレラマ誌インタヴューでこう語っている。
私が知っていたのはギターが自分のためになる瞬間と時間を私に保証してくれるということだった。私の脳はどのようにメロディーと和音が機能するのかを探し求めた。そのことで私は他のことをしなくてもよくなったし、この休息の感覚によって私は自分の力で100%生きている印象をもたらした。私がそれを望んでいたんじゃない。それは発見だったんだ。私の人生にとって信じられないほどの幸運さ。すでに存在していた音楽というものが、他のミュージシャンたちと同じように私をその従者として従えたんだ。 (テレラマ2022年5月11日号)

ギター(音楽)によって救済された、という感覚で音楽に没入していった少年時代。何から救済されたかと言うと、ベルトラン・ブランの歌に時々現れるテーマであるが、「貧困」なのである。男5人女1人の兄妹、漁師の父、主婦の母。キブロンで何代も前からそうやって生きてきた家系で、周囲の村民もみんな同じようなもの。このフランス深部の貧困は、私たちは北フランスの寒村から出てきた青年作家エドゥアール・ルイの登場で知らされることになるが、苛烈に激情的に短い年月でそれを抜け出すドラマを生きたエドゥアール・ルイとは違い、ベルトラン・ブランは長い年月をかけてここまで来た。露骨にそれをテーマに歌うことはほとんどしていないが、今回のアルバムでは2曲め(つまりアルバム中最も聴かれることを前提に選曲された曲)に"Que dalle tout"というエレクトロ・ロカビリーな歌がある。

先祖代々酔っ払いの家系の出身
宴会の邪魔者
結婚式ぶちこわし野郎
バス停の脅かし屋
猛犬使い
そんな先祖たちから俺は受け継いだ
あることないことすべて

先祖代々酔っ払いの家系の出身
歯止めを食いちぎる
無制限セックス野郎
さかしま城のお殿様
複雑怪奇な肉欲
そんな先祖たちから俺は受け継いだ
くだらないことすべてを
 
すべてすべて
くだらないことばかりを

0と1で長々と続いた家系の出身
血の気の多いおセンチ野郎
ヘビ使い
土地の顔役
そんな先祖たちから俺は受け継いだ
くだらないことすべてを

すべてすべて
くだらないことばかりを

"Que dalle"(クダル)を"くだらない”と訳したのはバイリンガルな爺ならでは(自画自賛)。それはそれとして、この歌は明らかにキブロンの少年時代を投射したものである。貧困とアルコールと奇癖のある代々の住人たち。変わらない深部の人々。
 ベルトラン・ブランはゆっくりと時間をかけてその世界から離れようとしていた。ギターはその道を拓いてくれ、音楽は彼の生活となった。17歳で最初の自作曲を書いたが、人に発表するようになったのは35歳の時だ。その道をひたすらに歩んできたのだが、2020年、コロナ禍はミュージシャンたちの歩みを止めてしまったのだ。強いられた休息。その風景をベルトランは止まってしまった行進のように見ていた。1曲め「カルナヴァル」と3曲め「タンブール(太鼓)」はそのふたつのスケッチである。
カルナヴァル
俺は人間の
裏側を見た
カルナヴァル
俺は俺の頭の
尻を見た
勝利を叫び
敗北を叫んだ
カルナヴァル
征服者の顔
栄光の時
野獣たちの時
カルナヴァル
俺はもう歩けない
俺はもう歩けない
カルナヴァル
俺はくちばしまで
油でどろどろだ
カルナヴァル
俺はもう歩けない

この歩みの止まってしまった行進のイメージは、勝利だろうが敗北だろうが、人間の裏側や公にされた自分の恥部を見てしまった者には耐えがたいものだ。戦争と一兵卒の関係、奇しくもこのアルバムと同じ日に刊行されたルイ=フェルディナン・セリーヌの未発表小説『戦争』(1944年執筆)をも想ってしまう兵士の恨み節のようにも聞こえる。その戦争進軍のリズムを奏でるのが鼓隊であり、3曲め「タンブール(太鼓)」は(クラフトヴェルク風シンドラムで奏でられる)太鼓に引っ張られてしまう兵士や小市民の性(さが)の歌である。

太鼓よ
おまえは良い太鼓か
これらの白骨死体は誰なのか
太鼓よ
この辺を飛び回る
ハゲタカは何をしているのか
太鼓よ
おまえは憎んで欲しいのか
それとも愛して欲しいのか
おまえは俺の音楽を奏で
おまえは俺を美しいと言う
太鼓よ
それはもうすぐ起こるとおまえは言う
太鼓よ
おまえは良い太鼓か
これらの白骨死体は誰なのか
太鼓よ
この辺を飛び回る
ハゲタカは何をしているのか
太鼓よ
おまえは憎んで欲しいのか
それとも愛して欲しいのか
待ってくれ
おまえに追いつくから
太鼓よ
おまえの言うとおりだ
太鼓よ
おまえは良い太鼓だ
さあおまえに追いついた
太鼓よ
俺はここにいる
 極めて政治的な歌にも聞こえる。たしかに2020年以降、私たちは国家主導の「コロナ感染対策」に全面的に従わざるをえなかった。統制に従順な私たちがそこにあった。秩序は保たれ、マスクはすべての人の顔を覆い、休息せよと言われれば休息し、辛抱はしかたないと我慢し、おかげで長時間かかりながら「感染」は押さえ込まれようとしている。こんな号令太鼓もあれば、文字通りの進軍太鼓でロシアは隣国に兵士たちを送り攻め入った。
 『太鼓の視点 ー Tambour Vision』、どうしてこんなアルバムタイトルにしたのだろうか。国家行事や軍隊や祝祭の進行をリードしてしまう鼓手のヴィジョンとは? 鼓手が刻むリズム、あるいは誰か(あるいは国家)が鼓手に刻ませるリズムは私たちを鼓舞させるためか。これにベルトラン・ブランは不安になっているのだ。良い太鼓か悪い太鼓か。私たちは、それが大概は悪い太鼓だと思うようにしたい。
 8曲めに「ナシオナル」というタイトルが来る。「国の」「国家的な」という意味の形容詞であるが、かのナシオナリスト政党だけでなく、ナシオンに固執する人々や出来事は私たちを不安にさせる。「フェット・ナシオナル」(国民祝日)、「アンテレ・ナシオナル」(国益)、「デファンス・ナシオナル」(国防)など十数語のナシオナルとつく言葉を羅列しただけの歌詞。結語に
Autour du soleil 太陽の周りでは
C'est la vie du monde des pays これが国家群でできた世界のあり方
C'est la vie du monde これが世界のあり方
ともってくる。私たちはこれをどうしようもないことだとは思わないが、重い。2015年のベルトラン・ブランのアルバム『ウォーラー岬(Cap Waller)』の新ヴァージョン追加曲に「ラ・ナシオン(国家)」という反軍歌があるが、それと対をなす曲であろう。
 上に既に書いたことだが、このアルバムのバックトラックはギターをはじめ”楽器”が大きく後退して、ミニマルなシンセ音で構成されている。あたかもコロナ禍で楽隊メンバーが休息を余儀なくされているのを象徴するように。メロトロン、プロフィット5、シンドラム...。長年の相棒ティボー・フリゾニとブランの二人だけで作っている。どんなシンセの音かと言うと、70-80年代的な、もろにマリアンヌ・フェイスフル「ルーシー・ジョーダンのバラード」(1979年)の音で、改めてあの頃のシンセは”味があった”と再認識。しかしブラン/フリゾニのバックトラックは、そんな”味”よりも、もともと俳句的に装飾を削りに削り取った表現を好んでいたブランに、ますます”音数”を少なくさせるためのものだったようだ。高踏的な韻文詩人ブランはこういう表現で、国家や権力に反目する視点(ヴィジオン)を展開するのである。
 体言止め、名詞羅列を多用するベルトラン・ブランの詞は易しいものではない。何度か繰り返して聞くことを要求されるが、あのなんとも言えぬトーンで聴かせるビロード低音ヴォイスがその意味の味わいを聴くごとに深化させてくれる。ベルトラン・ブランに惹かれる人は最初から”声”でイチコロなのだと思う。
 今回のミニマルインスト・バックトラックのアルバムで、声と詞が否応なしに深められるのだが、その中で例外的に一番”歌って”いる曲が10曲めの"La Comédie(喜劇)”という歌である。

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
カルナヴァル
町はマチネーの回に並ぶ
斜めの人影でいっぱいだ
俺もその中にいる
英雄的なトロイ戦争の風
俺はこの音楽を知っているが
俺は好きじゃない

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
獣たちは交配のために一緒に繋がれても
もう興奮もしない
この分野で
俺は今ここにいることの
ものごとの成り行きを
軽く見すぎていたのか
尻もちをついてしまった

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
俺は水たまりの窪地で
あるいは水泳の最中に
眠ってしまったのか
この計算では
どうして俺は物に生まれなかったのか
この計算では
俺はバラ色の人生を送ったかもしれないのに

喜劇(あるいは悲劇)は
もう一度その旗を掲げられるだろう
一切宗教儀式なし
一切の名前もなし
一切の星もなし
一切宗教儀式なし
一切の名前もなし
一切の星もなし

お立ち会い、字面見たら、難解でしょう。しかし歌聴いたら、エモーショナルにジ〜ンとなるでしょう。これはハイブロー叙情派の文学体験だと私は思うのですよ。これがベルトラン・ベルトランの名人芸なのですよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Carnaval 
2. Que dalle tout
3. Tambour
4. T'as vu sa figure
5. Alléluia
6. Marguerite
7. Lavé de tes doutes
8. National
9. Pipe
10. La Comédie
11. Maître du luth

Bertrand Belin "Tambour Vision"
CD/LP/Digital CINQ7/WAGRAM MUSIC 3414272
フランスでのリリース:2022年5月5日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ベルトラン・ブラン『タンブール・ヴィジオン』ティーザー


(↓)2022年7月12日発表のヴィデオ・クリップ "Alléluia"(5曲め)

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