2022年5月7日土曜日

どこか幼くていい男

Annie Ernaux "Le Jeune Homme"
アニー・エルノー『若い男』

2021年、アニー・エルノー関連の(重要な)映画が2作も公開された。日本公開もされた『シンプルな情熱(Passion simple)』(監督ダニエル・アルビド)の原作は1992年発表の(ソ連崩壊前)”東の国”の外交官との狂熱不倫を描いたベストセラー(スキャンダル)小説。そしてもうひとつ、78回ヴェネツィア映画祭で金獅子賞を獲得した『出来事(L'Evénement)』(監督オードレー・ディワン)の方は、2000年発表の同名小説が原作で、1963年ルーアン大学の学生だった頃の主人公が当時非合法だった妊娠中絶を敢行したいきさつを描くもの。オートフィクションと呼ばれるようになった”自伝的小説”の先駆的作家であるゆえ、この2作が"人間”アニー・エルノーの生涯においてどれほど重要な事件のことであったかを、読者は知っている。彼女の読者になることは、”人間”アニー・エルノーの生きざまと立ち会うことを自ら許すことなのだから。で、このうすい40ページ足らずの短編『若い男』を手にした時、エルノーの読者はこれはちょうど『シンプルな情熱』(1992年)と『出来事』(2000年)の間に起こったことなのだ、ということを理解してしまう。
 『若い男』は1990年代後半の話であり、1940年生まれの作家も50代後半の時期である。30歳年下の学生が1年間も手紙を送り続け、作家にどうしても会いたいと。こうして一夜の縁があり、それから男は毎日電話するようになり、いつしか二人は毎週末会うようになっている。男はノルマンディーの古都、ルーアン大学の貧乏学生。そのキャンパスに話者・作家もその30年前に籍を置いていた。事情を知らないムキに一応紹介しておくと、アニー・エルノーは1940年、ノルマンディー、セーヌ・マリティーム県(首邑ルーアン)の村リルボンヌの労働者家庭に生まれ、両親が小さな雑貨店兼カフェを開店した同県イヴトの村で少女時代を過ごした典型的な"田舎娘”であった。大学に進んだ地ルーアンは彼女にとって初めての"都会"であり、良くも悪くも”世界”に目を見開かされた最初の場所であった。この記憶は否応なしに23歳の時の妊娠→(非合法)妊娠中絶という事件に直結するもの。おそらくこの「若い男」が出現しなければ、ルーアンという都市はしげしげと再訪するのが難しく、両親の墓参りの際に通過するだけの町にとどまっていただろう。
 「若い男」は単なるアヴァンチュールに始まり、やがて"物語(histoire)"に昇格していく。
 「若い男」は30年前の自分のコピーであった。一間アパルトマンに床直置きのマットレスの寝床、温度調節のできない電熱調理器、野菜が凍ってしまう冷蔵庫、冬の湿気と寒さに対抗できない暖房(日中も3枚セーターを重ね着するしかない)... そして貧乏だった頃の(忘れかけていた)仕草「早く溶けるように角砂糖をコーヒーの中で揺り動かすこと、スパゲッティーを短く切ること、リンゴを細かく分割してからナイフで突き刺して食べること」(p21)をこの若者が同じクセとして持っていることに当惑する。
 そしてそのアパルトマンの窓からは、”オテル・デュー・ド・ルーアン(Hôtel-Dieu de Rouen)"が見える。この小説の時期(1990年代)に大改装工事中で未来の県庁とフローベール博物館(ギュスタヴ・フローベールの生家)と医学史博物館になる予定のところであったが、もともとは12世紀からの歴史を持つ大病院であった。作者はこの病院に1963年1月、(非合法)ヤミの妊娠中絶手術後の異常出血で緊急入院させられている。こうして、「若い男」の出会いに伴う偶然の符合の数々によって、作者の30年前の記憶の扉が大きく開いていくのである。(そこから件の中絶を題材にした小説『出来事』への執筆が始まっていく、という本作の結末になるのであるが)
 この「若い男」との恋愛関係はフェアーではない。50代女と20代男の関係がフェアーであるわけがない。男は女にフィジカルな悦楽を与え、女は男に旅行(ヴェネツィア、ナポリ、マドリード...)とレストランの機会を与える。二人の間のルールは女が決める。「若い男」は女を熱愛していて、それまであのせまいアパルトマンで同居していた娘と別れてくれ、女はそれを"勝利”として自慢しさえもする。しかしこの交際中にもセルジー・ポントワーズの作家の一人住まいには、彼女の複数の情夫(セフレと言うべきか)が訪れていて、「若い男」は便所の便座が上がっているのを見つけ、猛烈に嫉妬し、この女の”不貞”をなじるのだった。作家はこの本の冒頭でも、自分が男との情交が必要なことの言い訳をしている。その快楽の果ての”疲れ”が、文学を創造する歓びに勝るものは何もないのだ、ということを自分に再確認させるためだ、と。なんというリクツであろうか。だがこのリクツが人間アニー・エルノーなのだよ。
 世間は男が50代で女が20代のカップルならば、それは”あり”とするのであるが、逆の場合、すなわち女が50代で男が20代であれば、かなり異常に見るだろう。25歳の差があるブリジット/エマニュエル・マクロンのカップルの存在がまだ誰も知らなかった頃である。その世間の白眼視に挑むように、話者と「若い男」のカップルは公に露出していく。場所によってはホモセクシュアルのカップルよりも敵意ある視線を浴びる。そしておおかたの人が想像しているのは母と息子の近親相姦であることも感じとる。世にはばかる。このセンセーションは、彼女がノルマンディーの田舎娘だった頃ボディーラインにぴったりした服を着て歩いた時の、周囲のとがめるような視線、そして母親の恥と怒りの声を想い起こさせるのである。私は30数年後に再びスキャンダラスな娘に立ち戻った、と。 
 「若い男」はナイーヴでありフツーの(貧乏)若者である。選挙に行かず、ロトくじを買い、音楽はFMのEurope 2(ポップ/ロック主流、2008年から局名がVirgin Radio)で聞く。そして「未来」のことも考えたりする。「私」との間に子供が欲しいと飛んでもないことを言ったりするが、現代医学ではそれは不可能なことではない。だが「私」の30年前のコピーである「若い男」が"現在"とすれば、「私」は過去でしかない。そしてこんなことまで言ってしまうのだ:
Je voudrais être à l'intérieur de toi et sortir de toi pour te resembler.
僕はあんたに似るために、あんたの内側に入ってそれからあんたから抜け出したいんだ。
(p34)

 この「若い男」が起爆剤となって大きく扉を開けてしまった30年前の記憶は、この作家に”そのこと”を書くことへの道筋をつけることになってしまった。書くこと、それこそがこの作家のレゾン・デートルであり、そのことで彼女は生きていられる。これをアニー・エルノーはこの短い本の冒頭本文前の3行の序句で、はっきりとこう書いてしまっている。
Si je ne les écris pas. les choses ne sont pas allées jusqu'à leur terme, elles ont été seulement vécues.
もしも私がそのことがらを書かなければ、それらは結末を迎えることがなく、単に体験されたことにとどまってしまう。
(p9)

すべてはここに凝縮されている。書かなければ落とし前はつけられない。最後の結語を与えてことを終わりにする。"les choses = ことがら、もの"とは、ずいぶん突き放した表現に思われるが、この作家にとっては、体験であり、見たものであり、男たちであり、この本の場合「若い男」なのだ。アニー・エルノーにあって文学はこうして生まれるのであるよ。

Annie Ernaux "Le Jeune Homme"
Gallimard刊 2022年5月4日、40ページ 8ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2021年、テレビARTEが制作した「アニー・エルノーのノルマンディー」という動画。生まれ育ったリルボンヌとイヴトの町から、大学に通ったルーアンなど。


(↓)記事タイトルに引用させてもらったダリダ「18歳の彼」

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