2007年10月30日火曜日

今朝の爺の窓



 おとといから「冬時間」になったので,朝明るくなってから出勤できるようになりました。
 これは今朝8時のわが窓です。手前のヒマラヤ杉の大木は,入居した13年前には7階のわが窓の下にあったのに,今やてっぺんは9階の高さにあります。その次がプラタナス並木でまだ緑が残っていますが,もうすぐ茶色くなります。
 セーヌ川のこちら側の河岸はポプラ並木で,もうすっかり黄色です。今朝はおだやかな色をしたセーヌの流れです。その向こう側の河岸にラ・デファンスとイッシー・レ・ムーリノーを結ぶトラムウェイ電車が走っています。この電車はずっと川岸を走っていくので,ブーローニュの森を対岸に見る車窓は,見応えのある絵画的風景です。
 その向こうはマリー・アントワネットの居城があったサン・クルー城趾で,栗色に色づいている木々はマロニエの大木です。1999年暮れの大嵐の時にこの森の一割の本数の木が倒れてしまいました。あの時はまるでゴジラが通ったあとのようだ,と思ったものでした。その森の手前に緑の芝地がちょっと見えますが,この芝地はかなり広大で,ここで毎年夏にはロックフェスティヴァル ROCK EN SEINEが開かれ,今年の夏はビヨークさんもここに来てました。
 この景色は四季折々に色を変え,毎冬一度くらいは雪で真っ白になったりもします。夏の夕方はこの城跡の後ろ側に金色の太陽が沈み,ベランダでそれを見ながらタカコバー・ママと私は冷えたビールを飲み,おつまみの地中海オリーブを食べてはそのタネを口からペッと7階から外に噴き出す,なんていう行儀の悪いことをします。
 わが家で自慢できるものは何ひとつありませんが,この景色だけは宝物です。宝物と言っても,これは私たちが所有するものではありません。しかしこれは私たちの地球の一部なのです。爺の窓を日々愛するように,地球のことも考えてあげなければなりませんね。

2007年10月29日月曜日

父たちは「移民の歌」を歌っていた




 オリジンヌ・コントロレ (feat. ムース&ハキム)『アルジェリア移民の歌』
 ORIGINES CONTROLEES "CHANSONS DE L'IMMIGRATION ALGERIENNE"


 フランスのワインや地方名産品についている「AOC」(appellation origine controlee)表示は,その産物が確かにその土地で作られていることを証明することによって,その品質を保証するものです。シャンパーニュ地方で作られていないスパークリング・ワインをシャンパーニュと称することや,ノルマンディー地方で作られていないチーズなのにカマンベールと名乗ることを妨げるためです。この「オリジンヌ・コントロレ」という耳慣れた地方物産表示は,直訳的には「コントロールされたオリジン」となり,聞きようによっては気に触る表現です。トゥールーズのゼブダ周辺の市民団体であるタクティコレクティフはこれを移民問題と関連づけて,外国人居住者への不当な差別に反対し,学校でも病院でも(未成年者でも病人でも)容赦なく不正滞在者を狩り出して強制送還させる(非人道的なること甚だしい)移民政策に抗議する音楽フェスティヴァル「オリジンヌ・コントロレ」をトゥールーズで開きました。サルコジの選挙公約であった「選択/選別された移民政策」を直接的にあてこするものですが,移民流出国(具体的にはアフリカ諸国)と条約を結び,フランスが必要な職能とその人数のみにそのビザを発給するというものです。つまり外国人労働者の出身地(オリジン)で既に選択/選別というコントロールをしてしまおうという考え方です。新しいタイプの奴隷売買に見えませんか?
 アルジェリア移民は,産業革命期のヨーロッパ移民(特にイタリアと東欧)に続いて,20世紀に多くフランスに流入しましたが,フランス人に都合がいいことにヨーロッパ人たちよりも賃金が安く,原則的に短期(ほとんど季節労働)で帰っていってくれるはずだった彼らは,やがて経済成長に欠かせない社会構成エレメントとなってフランスに同化していきます。なぜならアルジェリア人は外国人ではなく独立前までフランス人だったのですから。そして彼らは兵士としてフランスのために戦場で戦ったのですから。
 ゼブダのアモクラン兄弟,ムースとハキムは,このアルジェリア移民の第二世代としてフランスで生まれましたが,今日保守系フランス人たちが目の色を変えて大問題にしているこの移民というものが,ムースとハキムの親の時代にはどうだったのか,ということを当時の歌によって検証/追体験をしているのがこのアルバムです。親たちの時代ももちろんバラ色のものではありませんでした。しかし,彼らはその共同体の中で音楽を愛し,歌を歌い,日頃の憂さを晴らし,望郷の念を分かち合いました。ここに収められた多くの歌は,バルベスやベルヴィルといった当時のパリ市内のマグレブ町でのヒット曲であり,親たちはバルベスやベルヴィルのアラブ・カフェでこれらの歌を聞き,歌っていたはずなのです。
 一番古いもので1930年代,ほとんどが50-60年代に「ヒット」したこれらの歌は,アラブとカビールの違いを越えて,フランスで生きるアルジェリアの悲喜こもごもの記録でもあります。このアルバムのシングルとして,今国営ラジオのFIPやコミュニティー系のラジオでよくオンエアされている「アデュー・ラ・フランス」(さらばフランス)という歌があります。

 Adieu la France, Bonjour l'Algerie (さらばフランス,こんにちはアルジェリア)
 Quand j't'ai quitte combien j'ai pleure (おまえと別れた時俺はどれだけ泣いたことか)
 Fini souffrance fini l'indifference (もう苦しみもつれないそぶりもおしまいだ)
 Bientot je s'rai avec toi ma cherie  (俺はもうすぐおまえのもとに帰るから)

 リフレインだけがフランス語です。このフランス語リフレインに移民のどれだけの思いが込められていたでしょうか。何度フランスにアデューと言いたかったことがあったでしょうか。
 アルバムはアイト・メンゲレット,マトゥーブ・ルーネスなどの曲を含む11曲で,ムース&ハキムは「レ・モティヴェ」や「100%コレーグ」などのアルバムと同じようにアコースティック・バンドで,この歌の数々をまさにカフェで友人たちと唱和しながら演奏するようなスタイルでレコーディングしています。アコーディオン,ギター,マンドーラ,ネイ,ダルブーカなど,総勢10人のメンバーでプレイされ,私のダチのセルジュ・ロペス君もギターで参加していて,サウンド・エンジニアリングとプロデュースにゼブダのレミ・サンチェスの名前も見えます。
 ラシッド・タハ『ディワン』2作にも通じる,彼らの父たちへのリスペクトです。ホームシック・ブルースは湿るよりも,みんなでわいわい歌った方がいいに決まっているのですが,この哀感はいつか笑顔に変えたいですね,変えられるものなら。

<<< トラックリスト >>>
1. AZGAR (Slimane Azem)
2. Into ADIEU LA FRANCE
3. ADIEU LA FRANCE (Mohamed Mazouni/Ahmed Soulimane)
4. TELT IYYAM (Ait Menguellet)
5. Maison Blanche (Cheikh el Hanaoui)
6. Intro LA CARTE DE RESIDENCE
7. LA CARTE DE RESIDENCE (Slimane Azem)
8. GATLATO (Djamel Allam)
9. BAHDJA BEIDHA (Dahmane el Harrachi)
10. CHEHILET LAAYANI (Abdelhakim Gourami - populaire chaabi)
11. ABRID (Matoub Lounes)
12. INTAS MA DYAS (Cheikh el Hanaoui)
13. ANFASS (Cheikh Arab Bouyazgaren / traditionnel)

CD ATMOSPHERIQUES/TACTIKOLLECTIF
フランスでのリリース:2007年10月22日

2007年10月26日金曜日

リュックス・Bの不在



 今夜はエリゼ・モンマルトルでマッシリア・サウンド・システムのライヴでした。
 このライヴは日本の雑誌から原稿依頼が来たので、真剣に見ましたが、3年前にバタクランで見た時との大きな違いは「ワールド風味」がごっそり抜けてしまった感じで、ダンスホール・スタイル(サウンドシステム)の基本に還ったような、MCはノセノセにすること(「ワイ」をぶちまけること)に専念する見事な展開でした。タトゥーとジャリは年寄りなので、交替で休んでいた感じでしたが、ガリはひとりで出っぱなしでワイをぶちまけていました。
 終わり近くになってからガリが「ワイスターの俺の兄弟、リュックス・B」のために「アイオリ〜〜〜!!!」と会場全部を大合唱させたので、そう言えばマッシリアの4人のMCのひとりリュックス・Bがいないことに気がついたのでした。リュックス・Bはアルバム『ワイと自由』の録音にも参加していません。ガリの説明によると、リュックスは喉の病気にかかってこの6月に手術したのだそうです。それでアルバムにも今度のツアーにも参加していないのだそうです。
 さあこの週末はこの原稿書きですね。

2007年10月25日木曜日

ミュラの声にはアプサント効果が...



 ジャン=ルイ・ミュラ『シャルルとレオ - 悪の華』
 Jean-Louis Murat "CHARLES ET LEO - LES FLEURS DU MAL"


 シャルル・ボードレール(1821-1867)の詩集『悪の華』に,レオ・フェレ(1916-1993)が曲をつけたものを,ジャン=ルイ・ミュラ(1952- )が新しい編曲で歌った12曲のスタジオ録音CDと,ドニ・クラヴェゾルのピアノとミュラのヴォーカルのデュオによる14曲(ボードレール詩/フェラ曲)のライヴDVDのセットです。
 聞く前に構えてしまいますよね。高踏で衒学的な文芸シャンソンが展開されるのではないか,と。それはボードレールですからポップソングとはまるで違ったもので構わないのですが,突き放されるのを覚悟して聞くとCDの第一音が始まるやいなや,ふ〜っと緊張が抜けて,いつものミュラの声の詩を愛撫するような歌い込みに引き寄せられ,酔い心地が始まっていきます。
 これは酔いのアルバムです。文学の人たちじゃなくても,この酔いは絶対に共有できます。聞き始めたらアルバムはあっと言う間に終わっています。もう一回初めから,と思うに違いありません。この酔いは曲と曲の違いをわからなくしてしまいますから。

<<< TRACK LIST CD >>>
1. SEPULTURE (BAUDELAIRE/FERRE)
2. AVEC SES VETEMENTS ONDOYANTS ET NACRES (BAUDELAIRE/FERRE)
3. LA FONTAIRE DE SANG (BAUDELAIRE/FERRE)
4. L'HEAUTONTIMOROUMENOS (BAUDELAIRE/FERRE)
5. L'HORLOGE (BAUDELAIRE/FERRE)
6. LE GUIGNON (BAUDELAIRE/FERRE)
7. MADRIGAL TRISTE (BAUDELAIRE/FERRE)
8. LA CLOCHE FELEE (BAUDELAIRE/FERRE)
9. L'EXAMEN DE MINUIT (BAUDELAIRE/FERRE)
10. BIEN LOIN D'ICI (BAUDELAIRE/FERRE)
11. JE N'AI PAS OUBLIE, VOISINE DE LA VILLE (BAUDELAIRE/FERRE)
12. A UNE MENDIANTE ROUSSE (BAUDELAIRE/FERRE)

CD+DVD V2 MUSIC VVR1048802
フランスでのリリース: 2007年10月

2007年10月21日日曜日

欧州深部のクィンシー・ジョーンズ

エミー・ドラゴイ&ジャズ・ホット・クラブ・ルーマニア『エトゥノ・フォニア』
Emy Dragoï & Jazz Hot Club Romania "Etno-Fonia"
麻雀用語にしたいような名前ですね。エミー・ドラゴイは1976年生まれですから、31歳の若造です。ルーマニアのツィガーヌの音楽一家に生まれ、アコーディオンはガキの時分から父親からみっちり仕込まれています。1996年20歳でフランスに移住して,パリでジャズ・ピアノを学ぶ一方,アコーディオニストとしてロシア東欧系の楽団,ジャズバンド,マヌーシュ・スウィングバンドなどでプレイして,その世界最速級のテクが注目されていきます。マルセル・アゾラ,ダニエル・コラン,ジャン・コルティなどの仏アコーディオンの巨匠たちや,チャヴォロ・シュミット,ドゥードゥー・キュイユリエ,フローラン・ニクレスクなどのマヌーシュ・スウィングの達人らと共演して,その技が磨かれていきます。CDは既に2枚リーダーアルバムを出していますが,マヌーシュ・スウィングのバンド「ラッチョ・ドローム」のアコーディオニストでもあります。 そしてシャンゼリゼのロシア・キャバレーとして名高い「ラスプーチン」で2年間バンドマスターとしてステージをつとめています。私の見方では,何よりもこの「ラスプーチン」体験がドラゴイ君の客サービス精神を培ったのではないか,と思っています。「ラスプーチン」はずいぶん前に一度行ったことがありますが,シャンゼリゼという場所柄,諸外国の観光客や地方のお登りさんやロシア&東欧のディアスポラといった客層で,ノリの悪いお客さんたちを乗せるにはいろいろと苦労がありましょう。高級ぶったり,お芸術っぽくしたら客はそっぽ向きますから。客サービスを常に考え,通俗的であることに徹しないといけません。その苦労はいつかは報われませんとね。
 このCDはジャンゴ・ラインハルトゆかりの「ホット・クラブ」を名乗っているので,アコーディオンによるオーソドックスなマヌーシュ・スウィングを予想される方が多いでしょう。はずれです。また,レーベルが「ルーマニア・トラッドをベースにしたヴィルツオーゾによるアコーディオン・ジャズ」のように宣伝しているので,そのつもりで聞く人たちもいるでしょう。はずれです。
 この品格ありそうで折り目正しそうなモノクロ写真のジャケにも関わらず,このアルバムは通俗性に徹し,サービス精神あふれる,超カラフルな東欧キャバレー・アルバムです。エミール・クストリッツァ監督がボリウッド映画をつくったようなおもむきです。世界最速級(具体的にどの程度かと言うと,リムスキー・コルサコフ『熊ん蜂の飛行』が倍速から4倍速で演奏できるテクです)のアコ奏者とツィンバロム奏者とキーボディストとギタリストが集まって,あれもできる,これもできる,という芸を客席に向かってにっこり微笑みながら披露する,というけれんみとはったりの連続ショーを想像していただければいいでしょう。しかもシンフォニックにストリングスや女声コーラスも混じり,ミッシェル・ルグランのミュージカル音楽顔負けの盛り上がりの山と谷を展開したり,アストル・ピアソラのドラマティカルなハーモニー使いを援用したり,カスケード・ストリングスとティンパニーなどを重厚に重ねたウォール・オブ・サウンドでボレロをしてみたり。パヴァロッティ風なベルカントのヴォカリーズが出て来たり,エコーを利かせたバグパイプで風景をケルト北海ものに変えてみたり,沖縄スタイルレゲエが出たり,東欧マライア・キャリーのこぶしソウルヴォーカルがあったり,ジャコ・パストリウス風のボンボン鳴るベースが来たり...。高級な耳の人たちには嫌われてもしかたのない,チープな電子キーボードの音や,ムード音楽展開のストリングスや,お涙ちょうだい型の東欧叙情のピアノ・インプロはありますが,こういう通俗性が私などにはびしびし来るものがあります。次々に出てくるアコーディオンとツィンバロムの世界最速プレイだけでも,おひねりをばんばん投げたい気持ちになります。
 ルーマニアのクラシック作曲家グリゴラシュ・ディニク(1889-1948)の作品に幕をあけ,リムスキー・コルサコフの「熊ん蜂の飛行」で終わる11曲。タラフ・ド・ハイドゥークスが最新作でやはりルーマニアのクラシック作品を取り上げていますが,たぶんドラゴイ君の方がハチャメチャだと思います。ドラゴイ君のオリジナル曲が3曲で,残り6曲はルーマニア民謡が原曲です。これをけれん&はったり&サービス精神のいっぱい詰まった編曲で,大仕掛けでシンフォニックな通俗キャバレー風ボヘミアン・ラプソディーに変えてしまったドラゴイ君のアートは,欧州深部のクィンシー・ジョーンズとでも称したい快挙です。
<<< トラックリスト >>>
1. HORA MASRISORULUI (G DINNICU)
2. ETNO FONIA (EMY DRAGOI)
3. BARBU LAUTARU (TRAD arr. EMY DRAGOI)
4. MOCIRITA (TRAD arr. EMY DRAGOI)
5. BOHEMIAN SWING (EMY DRAGOI)
6. BLESTEMAT SA FI DE STELE (TRAD arr. EMY DRAGOI)
7. FOIE VERDE TREI SMICELE (TRAD arr. EMY DRAGOI)
8. PE DEAL PE LA CORNATEL (TRAD arr. EMY DRAGOI)
9. NOSTALGI GYTAN (EMY DRAGOI)
10. SANIE CU ZURGALAI (TRAD arr. EMY DRAGOI)
11. ZBORUL CARABUSULUI 熊ん蜂の飛行(R KORSAKOV)- CIOCARLIA (TRAD arr. EMY DRAGOI)


CD FREMEAUX & ASSOCIES / LA LICHERE LLL324
フランスでのリリース:2007年10月29日


(↓)Etno Fonia


 

2007年10月15日月曜日

獄入り意味多い



 ノワール・デジールのヴォーカリスト,ベルトラン・カンタが明日釈放されます。
 2003年7月リトアニアで当時の恋人マリー・トランティニャンと口論の末,カンタの殴打によって転倒したトランティニャンが脳を打ち,それが直接の原因で死亡した事件で有罪となり,リトアニアで8年の懲役の判決,まずリトアニアで服役したのち2004年9月から南西フランスのミュレ(トゥールーズ近郊)監獄に移送されて刑務をつとめていました。刑期8年のうち,半分を終えた時点で,服役者はその刑務態度などを判事に判断してもらい,条件付き出獄を申請することができます。カンタの担当判事はこれを受理し,晴れて明日10月16日,シャバの空気を吸うことができるようになりました。
 マリーの母親ナディーヌ・トランティニャンは,この条件付き出獄にはじめから反対の態度を示し,「女性に対しての死に至らしめた暴力」の重大さを再考して仮出獄申請を拒否するように,という手紙を大統領ニコラ・サルコジに書き送っていました。
 インターネット版のリベラシオン(10月15日)に載ったカンタの弁護士オリヴィエ・メツネールの言によると「彼が音楽活動を再開するかは定かではない」としています。
 獄入り意味多い。歌はともかくとして,とりあえず獄中日記のような本がとても読みたいです。ベルトラン・カンタが何を黙考していたか,とても知りたいです。

2007年10月13日土曜日

空の上でダイヤモンドを持っているルーキ



 パトリック・モディアノ著:『失われた青春のカフェ』
 Patrick Modiano "DANS LE CAFE DE LA JEUNESSE PERDUE"


 リという都市の区々の顔がもっともっとはっきり違っていた時代の小説です。舞台となっている60年代にはセーヌ右岸と左岸という大きな違いだけではなく、例えばモンマルトルの丘の上と下で人々の言葉使いも服装も違っていた、というようなことです。だからその街区から出て違う街区に移動するということが、国境を渡るようなドラマでもあったりします。一歩その境を踏み越えただけで、ずいぶん遠いところに来たようなセンセーションがあります。その一方で特徴的な街区と別の特徴的な街区に挟まれた、あまり性格のはっきりしない中間地帯もあります。作中人物のひとりがこれをニュートラル・ゾーンと呼んで、宇宙のブラックホールに例えています。なぜならこの中途半端で個性のない地帯は時間と共に徐々に増大していって、やがては街区や町全体を呑み込んでしまう、つまり町全体が性格のないニュートラルなものになってしまいつつあるからです。
 60年代の初め、パリ6区オデオン界隈にあったカフェ「ル・コンデ」には明日のことなど考えない文学/芸術系の若者たち(アズナヴールの歌ではないですが)いわゆるボエームたちがたむろしていました。カフェの女主人が後年「迷い犬のような」と回想する若者たちですが、議論とアルコールと前衛の空気を求めていつしかそのカフェの常連になってしまいます。彼らは偽名で呼び合い、住所や職業や学校名はたぶん偽りのもので通していますが、それはこのカフェが実生活と離れた別空間であり、彼らが別人物を演ずる舞台のように思っているからです。(現在、人々はそれをインターネット上でヴァーチャルに"カフェ"化した空間で行っていますが、60年代にはカフェが本当のカフェだったわけです)。その中にある日、ひとりの美しく若い女性が入ってきます。最初場違いのような印象を与えたこの女性はしだいにその空間に慣れていき、ある日常連のひとりがみんなの前で高らかに「きみの名前はルーキだ、きみはこれから自分をルーキと名乗るのだ」と命名します。こうして新常連ルーキはこのカフェの風景を構成するジグソーパズルの一片となったのです。
 小説はこのルーキと呼ばれた22歳の女性の記憶を、4人の話者が綴っていく構成で展開します。4人の証言はすべて一人称体の文で書かれ、読むものに最初誰が「私」なのかを戸惑わせることになります。最初の話者は、ル・コンデの常連の学生で、ルーキに密かな思いを寄せながら、ずっとカフェで彼女を観察していた、4人の中ではもっとも客観的でニュートラルな視点の語り口で、このカフェに集まる群像の描写を交えながら、自分の未来はこの場所にはないと悩みながらの文体は「失われた青春のカフェ」という題に最もふさわしい回想録です。
 二人めの話者は、ルーキと呼ばれた女性の実人生での姿であるジャクリーヌ・シューロー(婚前名ジャクリーヌ・ドランク)の夫から、妻ジャクリーヌの失踪について調査を依頼された私立探偵ケスレーで、美術出版者を偽称してル・コンデに探りに入ります。このケスレーの証言によってルーキがどのような過去を持った女性なのかがはっきりしてきます。モンマルトルの丘の下に、キャバレー・ムーラン・ルージュの従業員として働く母と一緒に暮らしていた少女ジャクリーヌは、14歳で既に20歳以上に見られる大人っぽさがあり、2度「未成年者彷徨」で警察に補導されていました。母の死後、秘書として働いていた職場の共同経営者のひとりで倍ほども歳の違うジャン=ピエール・シューローと結婚しますが、1年後にパリ西郊外の高級住宅街ヌイイにあるシューローの家から姿を消しています。ホテルを住処として、何度かホテルを移り、やがてルーキはル・コンデに辿りつきます。
 三人めの話者はルーキ自身、つまりジャクリーヌ・ドランク自身です。父不明の私生児として生まれたジャクリーヌは、夜から未明までムーラン・ルージュで働く母の不在をよいことに、少女の頃から隠れて夜の町を徘徊する癖がついていました。そしてジャクリーヌはモンマルトルの上と下のすべてを知り、そこから境界を抜けて西へ西へと行こうとします。その名状しがたい越境願望が、二度にわたって補導事件を起したわけです。モンマルトルには母に言えなかった交友関係もあり、カフェの裏側の不透明な人々との抜けられない関係からも彼女は逃避を企てます。彼女の人生はすべて逃避です。母から逃げ、モンマルトルの暗部から逃げ、夫から逃げ、そしてル・コンデに逃げ込むのですが、そこからも逃げ出さなければならない日が来るのです。
 四人めの話者はルーキと同い年の男で、その当時はロランと呼ばれていたボエームで、モディアノの前作『ある血統 Un pedigree』で自伝的に描かれていた、小説を書く前の複雑な父母関係に翻弄されていた頃の作家と同一人物と見ることができるでしょう。ロランもやはり育った家(セーヌ河岸の大アパルトマン)を逃れて、ホテルを転々として生きる青年で、ある書店で紹介された隠遁知識人ギ・ド・ヴェールのプライヴェート読書会に参加したことでルーキと知り合っています。過去から逃げようとしている同じような二人は、お互いに同じ波長を感じ、同じホテルの同じ部屋に住むようになり、ホテルを転々とするようになるのです。パリはこの二人にはさまざまな境界線があり、それを一人ずつで越境してきたのですが、似た者二人はそれを一緒にするようになるわけです。二人はパリ中を徒歩で横切って行きます。この道行きを描くモディアノの筆は、区々が持つさまざまなミステリーと暗く曖昧な輪郭をなぞっていく、墨絵のような美しさです。毎度のことながらモディアノの描くパリは、ドワノーの写真を暗室で見るような思いがします。
 何におびえて、何から逃げているのか。ルーキのそれは結局誰にもわからないのです。越境しても越境しても、その次に越えるべき境界線が見えてきます。それを越えるために、ある日ルーキはホテルの窓から身を投げてしまいます。

 胸が締め付けられる小説です。最後は目の前が白くなりました。「モディアノ・タッチ」のたちこめるうす闇の文体はこの小説では四者四様で、ひとつのテーマの4つのヴァリエーションとなりながら、全体像は絶対にはっきりとは見えないのです。この中に入ったら誰も抜けられないような魔力です。
 なぜ逃げるのか、何から逃げるのか、ということをある種の青春の病いと見る人もいるかもしれません。自覚症状のある人は、自分はいつから逃げなくなったのか、いつから逃げるべき対象を失ったのかを思い出してみましょう。

 Patrick Modiano "Dans le cafe de la jeunesse perdue" (Gallimard刊 2007年10月4日 150頁  14.50ユーロ)

2007年10月12日金曜日

俺のDNAに手を出すな(Touche pas a mon ADN)





 サルコジが選挙公約としていた移民対策専用の省庁が5月に創設され,その初代担当大臣となったブリス・オルトフーによる新しい移民法案が出され,そこにヴォークルーズ県選出の保守UMP党議員ティエリー・マリアニが修正案として,移民労働者の家族呼び寄せの不正(家族と称して他人を呼び寄せる)を防止するために親子関係を証明するために家族呼び寄せ申請者にDNAテストを義務づける,という条項を追加します。下院上院とも絶対多数議席を持つUMP党はこれを両院で通過させようとしますが,UMP党内にもこのマリアニ修正案に疑問を抱く議員があり,特に上院ではこの修正案が何カ所も項目を削られたものの,DNAテストは残りました。下院→上院→下院と戻ってきたこの修正案はこのまま可決されそうな情勢ではあります。しかし,私たち移民/外国人居住者たちだけではなく,多くのフランス人たちもこのDNAテスト法案に反対しています。
 週刊紙シャルリー・エブド,日刊紙リベラシオン,市民団体SOSラシスムが共同で10月3日からこの法案に反対する署名運動を始めました。http://www.touchepasamonadn.com スローガンは "TOUCHE PAS A MON ADN"(私のDNAに手を出すな)。1週間で12万人の署名が集まり,私たち家族も昨日署名しました。
 なぜ私たちがこのDNAテスト法案に反対するのかという理由はたくさんあります。まず外国人の居住権をDNAで決定するということ自体が問題だと思います。住む権利とDNAに因果関係はあってはならないと思います。次に外国人の親子関係をDNAで決定するという考え方です。フランス人の親子関係はDNAテストで証明されるものではありません。出生を役所に届け出を出し,その母欄と父欄に名前を登録した者がその子の父母です。その際DNAテストは要求されません。それがどうして外国人にだけ要求されるのですか?
 DNA検査の結果,遺伝子縁が認められなかった子供はその父母の子供ではないのですか?それは基本的な個人の自由の範疇に属する問題ではないのですか? 養子や連れ子やその他複雑な事情のある親子関係というのは外国人にはあってはならないという考え方ですか?
 これまで犯罪捜査に使うことは許されていたこのDNA鑑定が,外国人の,しかも合法居住者(!)の家族呼び寄せ申請の審査に使われるということの裏には,外国人を最初から疑っている差別意識と排外意識がはっきりと見えるではないですか。
 そしてこれは外国人だけでなくフランス人にとっても重要な問題です。この法案は国家行政による住民管理に初めてDNAという管理方法を導入したものだからです。これが認められれば,次々にDNAによる国民管理が出てくるでしょう。サルコジは将来的な凶悪犯罪者を未然に防ぐために,幼児期にDNA鑑定をして凶悪犯罪者の遺伝子胤のある者を発見してしまおう,という考えを大統領選挙キャンペーン中に公言しています。幼稚園入学時のDNAテストや,公務員(特に警察と軍隊)採用時のDNAテストといったものも出てくるでしょう。
 私はこの法案にひとりの外国人居住者として反対します。反対署名者は野党議員や市民団体や左翼系知識人や移民出身アーチストたちだけではなく,前首相(保守UMP党)ドミニク・ド・ヴィルパン,元大臣(中道保守UDF党)フランソワ・レオタール,詩人エーメ・セゼール,ベルギー人作家アメリー・ノトンブ等の名前が見えます。音楽アーチストではアケナトン(I AM),ベナバール,カリ,ジャンヌ・シェラル,ティケン・ジャー・ファコリー,トマ・フェルセン,マニュ・ディバンゴ,マリアンヌ・ジェイムス,ルノーなど,映画演劇人では女優イザベル・アジャーニ,ジャンヌ・モロー,ミッシェル・ピコリ,先日このブログに書いたフェラーグなども署名しています。
 10月14日(日曜日)18時から,パリのゼニットでマリアニ修正案撤回要求の集会が開かれます。出演者としてレ・テット・レッド,ティケン・ジャー・ファコリー,ベナバール,ルノー,イザベル・アジャーニ等の名前が上がっています。私は社会党第一書記フランソワ・オランドと哲学者ベルナール・アンリ・レヴィーの話を聞きたくないので,行かないと思います。それでも,多くの人たちが集まって大きな反対の声になるよう願っています。がんばろう!
 

2007年10月10日水曜日

「天国の楽士」とコクトーは讃えた



 フランク・プゥルセル『フランク・プゥルセル・オリジナルズ VOL.1』
 Franck Pourcel "ORIGINALS FRANCK POURCEL VOLUME ONE"


 昨夜はサン・ジェルマン・デ・プレの寿司屋「築地」で,久しぶりにおいしいおさかな,おいしいお寿司,おいしい冷酒でした。さすがはサン・ジェルマン・デ・プレの本格寿司でありますな。お相手は名刺に「ムードミュージック・コーディネイター」と銘打ってある坂井さんでした。坂井さんとは氏がかつて目黒のレコード会社に勤めていた頃からの付き合いで,独身の身軽さをいいことに年に1〜2度,ヨーロッパ各地を回って趣味の楽団音楽のレコードを買って回るという,ムード音楽コレクターではおそらく日本でトップクラスにある方だと思います。氏がフランスで買い付けたレコードを私の会社が預かって再梱包して,日通ペリカン便で発送してやる,というのが私の友情の証しでして,それに対してパリの日本料理屋で好きなだけ飲み食いをおごってやる,というのが氏の友情の証しです。美しい関係です。
 フランク・プゥルセル(1913-2000)は生前に2000曲を越える録音をしておりますが,エキスパート坂井さんはそのオリジナル盤,編集盤,フランス盤/米盤/独盤/日本盤/その他外国盤のすべてを蒐集しつつあるプゥルセルの大ファンであります。しかし全米ヒットとなる『オンリー・ユー』(プラターズのカヴァー)の1959年前の録音というのは,なかなかお目にかかることができないものだそうで,CD化もほとんどされていないようです。
 その坂井さんに「こういうCDが出るんだぞぉぉ!」とお見せしたのがこれ。とたんにおさかなもお酒も急においしくなったのでした。「これはすごいっ!」というわけです。日本で涙を流す人たちはたくさんいる,というものらしいです。
 戦前はヴァイオリニストとしてイヴ・モンタンやリュシエンヌ・ボワイエの伴奏者であったプゥルセルは,自分のフルオーケストラを持つことが夢でしたが,その夢は1950年に実現するものの,フランスのレコード会社がどこも契約してくれず,52年にプゥルセルは40人の楽団員を連れてアメリカに移住します。そこで"フレンチ・フィドラー"とそのオーケストラは徐々に名が知られるようになり,その名を聞きつけた初レコーディングの申し出は皮肉にもフランスのプロデューサーからやってきます。アメリカの楽団と思ってパリに呼び寄せたら,フランス人だったという笑い話ですが,フランク・プゥルセルと彼の楽団は1952年秋,仏レコード会社デュクレテ・トムソンに記念すべき第一回録音を果たします。それが「ライムライト」(チャップリン作)と「ブルータンゴ」(リロイ・アンダーソン作)でした。
 このCDは,この「ライムライト」に始まるフランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの最初期の録音を1956年の「秋のコンチェルト」まで年代順に25曲収録しています。監修はフランク・プゥルセルの娘フランソワーズ・プゥルセルが行っていて,正規権利継承者のスーパーヴァイズによってやっと実現したオフィシャルなオリジナル録音リマスター復刻盤というわけで,これが「ヴォリューム・1」となっているからには「2」も「3」も出て行くということなのでしょう。
 ムード楽団指揮者ではポール・モーリア(プゥルセルと同じマルセイユ人)とレイモン・ルフェーブルがピアニストであるのに,プゥルセルはヴァイオリニストですから,その弦楽芸がとりわけものを言うわけです。それは過去においてフレンチタッチ系のDJ諸氏によってサンプルしまくられたのですが,娘フランソワーズはそのことをむしろ誇りに思っていて,今日にもなお若い人たちを刺激できるストリングスアートとなっていることを喜んでいるようです。私もそういう毒にちょっと感染したのか,このCDを聞きながら,この部分のストリングスをいただいて切り貼りしてこういう使い方をしたら....なんていうことを考えてしまった箇所がいくつかありました。いけないリスナーですね。
 「ムーラン・ルージュの歌」,「私の心はバイオリン」,「ポルトガル洗濯女の歌」(アンドレ・ポップ作),「モンマルトルの哀歌」,「枯葉」,「アンチェインド・メロディー」,「ストレンジャー・イン・パラダイス」.... それはみんな耳に親しいメロディーでも,ストリングスの甘美もあり哀愁もありの浮遊感は元祖・名人の巧によるものです。以前の本の中でエリック・セラの映画音楽「グラン・ブルー」に触れて,眠くなるのも音楽効果のひとつである,みたいなことを書きましたが,このストリングスも睡くなってしまうセラピー効果はあると思います。天国的なるものは薄目でしか見えないものでしょうに。
 「オンリー・ユー」で世界的に有名になるのは1959年のこと,かの「ミスター・ロンリー」(日本のFM番組『ジェット・ストリーム』テーマ)は1964年の録音でまだまだ先のことです。このザ・フレンチ・フィドラーのアートが,この「オリジナルズ」コレクションで愛好者の諸姉諸兄を涙させ,門外漢諸氏をうたた寝させ,若いDJ君たちにネタをたくさん提供し.... それぞれの道で愛されることになりましょう。

<<< Track list >>>
1. LIMELIGHT (CHAPLIN) 1952
2. BLUE TANGO (ANDERSON) 1952
3. MOULIN ROUGE (AURIC-LARUE) 1953
4. WONDERFUL COPENHAGEN (LOESSER) 1953
5. GRISBI BLUES (WIENER) 1953
6. MON COEUR EST UN VILON (LAPARCERIE-RICHEPIN) 1953
7. EN AVRIL A PARIS (TRENET) 1954
8. MEA CULPA (GIRAUD) 1954
9. COIN DE RUE (TRENET) 1954
10. UN JOUR TU VERRAS (VAN PARYS) 1954
11. C’EST MAGNIFIQUE (PORTER) 1955
12. AVEC CE SOLEIL (PH GERARD) 1955
13. THE PORTUGUESE WASHERWOMAN(POP) 1955
14. COMPLAINTE DE LA BUTTE (VAN PARYS) 1955
15. LE MAMBO DE MON REVE (CONDE) 1955
16. SOUS LES PONTS DE PARIS (SCOTTO) 1956
17. LA VIE EN ROSE (PIAF – LOUIGUY) 1956
18. LES FEUILLES MORTES (PREVERT – COSMA) 1956
19. MADEMOISELLE DE PARIS (CONTET-VAUDRICOURT) 1956
20. SOUS LES TOITS DE PARIS (MORETTI-NAZALLES) 1956
21. UNCHAINED MELODY (NORTH – HY) 1956
22. MERNANDO’S HIDEAWAY (ADLER-ROSS) 1956
23. STRANGER IN PARADISE (WRIGHT – FORREST) 1956
24 ARRIVEDERCI ROMA (PASCAL – GARIEI – GIOVANNINI) 1956
25. AUTUMN CONCERTO (BARGONI) 1956

CD EPM 986232
フランスでのリリース:10月15日

2007年10月7日日曜日

セシル・カストールの作品・2



 9月1日に発表した娘の創作ストーリー『リラのヴァカンス Les vacances de Lilas』の第2ヴァージョンがやっと届きました。だいぶ変更があり、その間の読書体験が効いているのか、ずいぶんとこなれてきたように思います。タイトルも変わって『リラの初めてのときめき Le premier emoi de Lilas』になりました。ときめきのストーリーですが、いろいろと無理があるところに目をつぶってお読みください。原文はフランス語です。日本語訳は爺です。

 『リラの初めてのときめき』 ー 文:セシル・カストール

 その日、母は何度も私に「コロニー(ヴァカンスの集団旅行)ではちゃんと食べるのよ」と言った。引率者が参加する子供たちの名前をアルファベット順に呼んだ。私は両親と妹にさよならを言った。私がバスに乗ると、ひとりの少女が自分の隣に坐るように私に合図していた。バスの奥に進む途中、私はひとりの可愛い男の子がいるのを見た。バス旅行中、私はそのローラという少女と知り合いになった。彼女はブロンドの髪で緑色の目をしていてとても感じがよかった。
 目的地についたら、それは巨大なシャレーだった。もちろんそれは40人もの人間を収容できるのだからあたりまえかもしれない。私とローラは同室になった。他の女の子たちは、緑色の目で栗色の髪をしたマノン、青い目でブロンドの髪をしたクロエ、黒い目で褐色の髪のマリオン、茶色の目で栗色の髪をしたシャルロットだった。部屋に入ると、そこには2台のシングルベッドと2台の二段ベッドがあった。とても広い部屋だったが、壁はゲッとなりそうなローズ・ボンボンのピンク色で塗装されていた。私は窓に近づいて行き、そこから広がる大きな森と素晴らしい山々を見た。女の引率者が入ってきて私たちに食堂に行くように言った。私とマノンが新入りなので、彼女は私たちに自己紹介をした。「こんにちわ、私の名前はセシルよ。みんなのように私のことをセセって呼んでもいいのよ」。
 夕食時間になって私は食堂へ向かって、自分たちのテーブルについた。そして私はマリオンに「あそこの男の子はなんていう名前なの?」と聞いた。彼女は「ジョスランよ」と答えた。ジョスランは私たちのテーブルに寄ってきて、私たちにあいさつをし、私のことをじっと見つめた。私は食べるのを続け、ジョスランを見ずに他のテーブルを見ていた。
 愛称をステフという男の引率員ステファヌが「さあ、子供たち、夜更かしの時間だよ」と言った。ステフは私たちにその日のイベントを言う人で、今夜は夜更かしの会で、「狼男」のゲームをして遊んだ。そして私たちは部屋に帰り寝床に入った。セセが灯りを消したあと、私たちはこそこそ話を始めた。
 次の朝は私の部屋の子たちと他の女の子の部屋の子たちでチームを作りフットボールの試合だった。私たちはステフの試合開始の合図を待っていた。「さあ時間だ、始めていいぞ」とステフが言った。午前の活動が始まり、その終了時にクロエは「勝った、勝った!」と叫び声を上げた。クロエは私たちのチームの一員だった。
 「昼食の時間だから食堂へ」とステフは2回も大声で告げた。私たちは食堂へ行ったが、ジョスランの姿が見えなかった。ジョスランの仲間たちが私たちに自己紹介をした。ポールは褐色の髪で青い目をしていて、トマは褐色の波打つ髪で黒い目をしていて、その弟のミッシェルは青い目と栗色の髪で、マチューは栗色の髪に栗色の目で、ジョルダンはブロンドの髪に青い目をしていた。こうしてみんなと知り合いになれたので、私たちはひとつのグループになり、みんな一緒に食事するようになった。
 セセが来て言った「今日の午後は男の子たちと一緒にフットボールよ」。「素敵!これでもっと良く知り合いになれるんじゃない?」とマリオンはとても満足そうに言った。と言うのは彼女はミッシェルのことを気に入っていたから。午後、セセがチーム分けをして、私は偶然にも彼と一緒だった。
 しばらくしたある日、セセが私たちに「明日はみんなの両親がここを訪問する日だから、部屋をちゃんと片付けておきなさいよ」と言った。その日の夕食にはステフが「さあ食事を召し上がれ、明日はきみたちの両親が来るっていうことを忘れないで」と言った。
 その次の日、私はとても浮き浮きして入り口のところに向かっていった。その時ジョスランが私の方に歩いてきて「家族がきみに会いに来てくれるのでうれしいのかい?」と言った。私は「ええ、とても興奮しているわ。あなたは?」と答えた。「僕の両親は今オーストラリアにいるんだ。この一日のために来るわけにはいかないよ」とジョスランは言った。私は両親の車を見つけ、満面の笑みで車に走り寄って行った。
 その1週間後、その夜はラ・ブーム(ダンス・パーティー)が予定されていた。その朝ジョスランが私の方に寄って来て「今夜、僕と一緒に踊らないかい?」と言った。「もちろん、喜んで!」と私は答えた。
 その午後、みんなで海辺へ行った。みんなでビーチ・バレーやビーチ・フットをして遊んだ。最高に楽しかった。夕方、みんなそれぞれ部屋に帰り、ラ・ブームの身支度をした。クロエとマリオンはほとんど似たような服装だった。そして夜がやってきて、私たちがホールに入って行ったら、そこには大きなビュッフェがあり、その隣にDJセットがあった。みんな最高に決まった服装をしていた。
 激しいダンスのあとスロー曲が始まり、ジョスランが私の方にやってきて、ダンシングピストに誘った。私たちは目と目で見つめ合い、彼の顔が私の顔に近づいてきた。そして彼は私に接吻した。私は信じられなかった。でも素敵だった。曲が終わり、私はローラ、マノン、マリオン、シャルロット、クロエの方に戻って行った。彼女たちは彼が私に接吻したところを見ていたのだ。ラ・ブームの間中、彼女たちはそのことばかりをしゃべっていて、私の顔はどんどん赤くなっていった。
 次の日はシャレーの滞在が終わる日、朝私は旅行カバンに荷物を詰め、時間があったのでジョスランに会いに行った。
 そしてバスが来て、この旅行の初めの時のように引率員が私たちの名前をアルファベット順に呼んだ。
 バスが帰路につき、みんなの両親の待つ場所についた時、私は妹の姿がないのに気がついた。私は両親に「妹はどこなの?」と聞いたら、母は「友だちのところに行っているのよ」と答えた。私はヴァカンス友だちの方を振り向いて「女の子たち、また会おうね、さようなら。ジョスラン、さようなら、キスを送るわ! みんなにもキスを送るわ! さようなら!」と言って別れた。そしてまた両親のところに行って「ママン、パパ、帰ってきてうれしいわ」と抱きついた。
 新学年が始まり、私を待っていたのは...。ジョスランがなんと私と同じクラスだった。なんて素敵なこと。彼は授業中ずっと私の隣にいる。いつかきっと私は彼とデートできるでしょう。

- Fin -

2007年10月6日土曜日

おゔぁりのない夜



 パリ市長ベルトラン・ドラノエの発案で始まった恒例の「ニュイ・ブランシュ」(「白い夜」直訳すると徹夜なんですが、夜通し夜明けまでパリ市内の美術館やアートギャラリーやアトリエなどで、エクスポやパフォーマンスやインストレーションやコンサートが行われる、アート的な夜明かしの一夜)が行われる今夜、ラグビーのW杯準々決勝、ウェールズのカーディフが行われたフランス対オールブラックス(ニュージーランド)戦で、勝つ確率は2割と言われていたフランスが勝ってしまいました。今、わが窓の外側ではクラクションと"On a gagne"(オンナガーニェ!)の大合奏が聞こえています。
 今晩パリの夜はお祭りです。「ニュイ・ブランシュ」イヴェントのために既に地下鉄が夜通し運転されるようになっているので、町に繰り出す人たちは多いでしょうね。今夜はわが家に娘の友だちのシャルロットが泊まりに来ていて、もうパジャマ姿で寝る体勢に入っているので、これから出かけるのは難しいでしょうね。今宵パリは甘美な夜でしょう。悔しいなあ、出て行けないなんて.....。

2007年10月2日火曜日

歌ってクレヨン



 アメリー・レ・クレヨン『ペン軸』
 AMELIE-LES-CRAYONS "LA PORTE PLUME"

 もともとフランス語が原語ですけど,フランス語の crayon は日本語で言うクレヨンのことではなく,鉛筆のこと。だからアメリーさんのことを「くれよんアメリー」と紹介したら誤解になるんですね。「えんぴつアメリー」となります。私はこの les crayonsという複数形を拡大解釈して,たくさんの鉛筆だから色鉛筆ととってもいいんじゃないか,と思います。「色えんぴつアメリー」。カラフルな女性ですから,これでだいぶイメージが近づいてきました。
 アメリー・レ・クレヨンはリヨン出身の女性シンガーソングライターで,これが2枚めのアルバムになります。2001年のジャン=ピエール・ジュネ映画『アメリー・プーラン』以来,アメリーと名のつくアーチストたちはみんなかの映画のあやかりであろう,という嫌疑をかけられるのですが,あの周りの人たちをすべて幸せにしてしまう少女アメリー・プーランのイメージは,この「色えんぴつアメリー」と無縁ではありまっせん。たぶんこの女性の歌を聞いて幸せになってしまう人たちはたくさんいるはずです。
 いろいろなものを発見して,それから想像して,絵本のようなストーリーをいくらでも歌にできてしまう,そういう女性です。永遠の少女眼をしたアーチストです。風が吹けば飛びそうなやせっぽちに少女の恋物語に始まり,洗濯したおかあさんの肌着の良い匂いの秘密を知りたがったり,幻の汽車の旅を夢見たり,自分が世界最低の女だったらと想像してみたり....。
 これは私たちが子供の頃に「NHKみんなの歌」で見ていた原風景と似ています。童話のようで,やさしく,時おり不条理で,ピリ辛があったりする少女画です。色えんぴつアメリーの曲は三拍子系が多く,ピアノやギターやアコーディオンや木管楽器の優しい伴奏で,たま〜にカミーユ風に前衛遊びが加わったりします。でもエレクトロ系はほとんど除外されています。
 30頁もあるカラーブックレットは,歌詞ひとつひとつに1頁大のイラストレーションがついた絵本仕立てです。描いているのは彼女自身ではなく,サミュエル・リベイロンというイラストレーターですが,どれも素晴らしいです。7歳から77歳までの人たちがこの絵本を読んで,この音楽を聞いたら,ふわ〜っと浮く感じがするでしょうね。ひとかけらの下品さもないけれど,決して子供向けだけのものではない味わいがあると思うんですけど,ちゃんと日本に紹介されたらいいですね。

<<< Track list >>>
1. LA MAIGRELETTE
2. LE LINGE DE NOS MERES
3. LE TRAIN TROIS
4. LA DERNIERE DES FILLES DU MONDE
5. LES MANTEAUX
6. L'ERRANT
7. LES PISSOTIERES
8. LA FEVE
9. DE NOUS NON
10. CALEES SUR LA LUNE
11. LE CITRIONNIER
12. DEPUIS
13. CHAMELET
14. MARCHONS
15. LE GROS COSTAUD

CD L'AUTRE DISTRIBUTION OP10AC2295
フランスでのリリース:2007年10月15日