2008年4月23日水曜日

子供たち,20世紀は終わったんだよ



アニー・エルノー『歳々』
Annie Ernaux "LES ANNEES"


 分の親を見て,どうして自分は親とはこんなに違ってしまったのだろう,と思うのと同じように,自分の子を見て,どうして子は自分とはこんなに違ってしまったのだろう,と愕然となります。長く連れ合って生きている男と女(夫婦であるなしに関わらず)であれ,熱情の頂点の頃から見れば,どうしてこんなに心の距離ができてしまったのだろう,と寒々しい気持ちになることがあるでしょう。We are all alone。私たちは歳を重ねるにつれて,この寂寥の度合いを増していきます。
 どうしてこんな遠いところまで来てしまったのだろう。それは自分の歳も考えずに,若い頃のつもりで海水浴の遠泳に出て,ふと陸地を振り返ると,この距離では絶対に岸まで泳いで帰れそうにない,という真っ暗な不安に似ています。こういう老いに伴う孤独な取り残され感覚は,逆説的なことに真に孤独なものではなく,同じような感じ方をしている人たちが同年代に多くいるということで,言わば「共有された孤独感」であるわけです。それは人生を通して何らかの方法で自己表現できるアーチストや著述家といった限られた人たちの強い自我を持つことができなかった,世間に埋没した人たち,無名の人たち,つまりあなたや私が共有する孤独感です。
 こういう共有感覚で使うフランス語の主語が "On" です。"Je"(私)でも "Nous"(私たち)でもない,自分がなんとなく所属しているらしい集合体の非主体的で無記名的で曖昧な一人称が "On"です。"On"は「私」が含まれていて「私」ひとりではないのだけれど,「私たち」として限定的にその実体を表わせるものではなく,なんとなくその場にいる「みんな」のようなものです。
 アニー・エルノーのこの小説は,1940年代から今日に至るまで,フランスに生きたある女性とその世代のクロノロジーです。その女性は文中に記される名前もなく,主語は三人称の "Elle"(彼女)と "On"(みんな)が使われます。時代と社会に埋没した名もない女性たちのひとりによる無記名の自伝であり,同時にこれは集合的自伝(autobiographie collective)としてあなたや私のような無名の人々が共有する,私たちの歴史でもあります。そしてその無名の人々はもの言わぬ蒼茫ではなく,時代に体を張って生き,ものとぶつかり,感情と意見を持ち,それなりの行動もしてきたわけです。この小説はインテリゲンツィアや時代の傍観者の視点はなく,渦中にあった当事者としての"On"の視線が語っていきます。だから,それは中立的だったり客観的だったりするはずはなく,俯瞰的に眺め下ろすものではありえず,1メートル50センチの目の高さからの物言いになります。
 小説は壁に張られた写真や,アルバムの中の写真などの描写が多く登場します。絵や写真を文章で表現するということは私自身が不得意で,日本語でもそういうことができずに困ってしまう人間なので,人がそれを描写する文章を読んでも全然ピンと来ないのです。アニー・エルノーもあまりそれが上手とは言えないところがありますが,小説冒頭部は何枚もの写真を登場させて,断章的にそれを描いていきます。それはぼんやりしていて,こちらの想像力が貧困なのか,作者が筆不足なのか,イメージが結像しない状態のスライドショーが延々と続きます。読むのがめげそうになります。
 第二次大戦末期の激戦地ノルマンディー地方にもやっと戦争の終りが訪れ,破壊された町からドイツ兵が潰走していき,それに向かって土地の女性がお尻を高く上げて大きな屁を吹っかけます。食べ物がなく,穀類を手にするために服を売ったりという,私が子供の頃に聞かされた日本の戦後とほとんど差がない,フランスの戦災地の戦後があります。どさくさにまぎれて財を成す奴とか,米軍の悪いのとつるむ奴とか,いずこも同じという戦後です。ノミ,シラミを駆除するために頭からDDTの白い粉をかけられた子供たちが,この小説の世代です。初めての身体検査,初めてのツベルクリン反応。男女共学。公立学校に通うのが平民で,金持ち子弟は私立に行きます。普段はボロボロでも,日曜日の朝は一家でよそゆきを着て教会に行く。この日曜日が一週間着続けた下着を変える日でした。学校では体罰(定規で指を打つ)が当たり前であったし,自慰行為は唖(おし)になるからしてはいけない,と教えられていました。ついでに自慰について言えば,ラルース事典には「重大な疾患の原因となる可能性がある」と明言されていたのです。オナニズムは当時の常識では病気だったのですが,それでも手を突っ込んだズボンのポケットにはみんな穴があいていたのです。同じように同性愛は病気扱いであるだけでなく,禁止する法律までありました(この法律が廃止されたのは81年のミッテラン当選後のことです)。
 彼女たちには首都パリなど遠い遠い町でした。それでも地方都市は膨張を続け,そこに流入する労働人口を受け入れるために周辺に「郊外」が建設され,近代的なコンクリート町は早くも旧フランスとは全く違った様相で多種の文化を受け入れるようになったのです。旧フランスはまだ植民地の利権を追い,インドシナやアルジェリアでは戦争が続きました。電気冷蔵庫,ジャズ,ロックンロール,トランジスターラジオ,原付自転車,ルノー4。学校に来なくなる少女たちと学校を続ける少数派の少女たち。マリリン・モンロー,ブリジット・バルドー。ロマンティックなるものを願っていても,初めての性体験は大体が幻滅するもの。そして彼女たちの第一の恐怖は妊娠することでした。妊娠しない方法はこの世代には「オギノ式」しかなかったのです。シモーヌ・ド・ボーヴォワールを読むことは避妊の解決にはならなかったのです。
 秩序や道徳や植民地にしがみついている旧フランスを,68年5月の学生たちは徹底的に壊そうとします。彼女たちより少し下の世代です。女性解放運動,中絶禁止法の廃止,社会保険負担による経口避妊薬...。家庭の真ん中にテレビがありました。売り子とのやり取りが存在しないスーパー/ハイパーでの買い物,地中海クラブでのヴァカンス,女性の管理職,時代はこんな風に彼女たちの周りで急激に変化していきます。
 この中で作者はこの無名の女性が何を見て,何を考えていたのかを,報道の語り口とは全く違った,個人的で生理感覚的な文章で綴っていきます。それは社会的/政治的事件に大きく影響されます。私たちはこの世界に生きているのですから。1945年フランス解放,1968年5月革命,1981年ミッテラン大統領選出,1991年第一次湾岸戦争,2001年9月11日...。この女性は見たままに,このような事件に翻弄される私たちの感覚にとても近い動揺とエモーションを表現します。心情的にとても左翼に近いものを持ちながら,幻滅を繰り返す多くの人たちのそれです。彼女は81年のミッテラン当選を歓迎しながら,その10年後に湾岸戦争にフランスを参戦させたミッテランに絶望します。
 2人の息子を産んで成人させ,一人でパリ郊外の新都市(とは言っても80年代にできた新都市ですが)セルジー・ポントワーズに暮らす彼女は,25歳年下の男と恋人関係を持ちますが,やがて破局します。この70歳になろうとする女性は,40年代から今日まで時代に取り残されることなく,好き嫌いに関わらず常にその中に全的に関わりを持ちながら生きています。携帯電話やインターネットのテクノロジーにお手上げ状態の人ではなく,それを受け止めてそれを使って生きています。しかし,この長大な70年のクロノロジーの末に,私たちが読んでしまうのは,一体どうしてこんなところまで来てしまったのか,という茫然自失です。自分が生きた時間の長さにも関わらず,世界は何一つ良くなっていない(むしろ悪くなっている),という苦々しさもあります。そして年に数度,家族そろって食事を共にする度に,なぜ息子たちはこんなに自分と違ってしまったのだろうという距離を大きくしていくのです。
 小説は,このように孤独でありながら実は同じような孤独を共有してきた同世代人たちの,共通の記憶(メモワール・コレクティヴ)を記述する小説を書く,という女性の止むに止まれぬ欲求を記して終わります。プルーストの『失われた時を求めて』と同じように,小説を書く,という結論のための長大な序章です。それは共通の体験を個人的に記録するということを集結させた,個的であると同時に集合的で複眼的な"On"(みんな,われわれ)の自伝であるわけです。そこに登場し,そこで歴史的事件と立ち会っているのは,あなたや私のような市井の人間なのですが,その果てに取り残されてしまう感覚で終わってしまうのも,あなたや私であるのです。わかりますか,子供たち?


ANNIE ERNAUX "LES ANNEES"
(Editions Gallimard刊。2008年3月。242頁。17ユーロ) 

 

2008年4月22日火曜日

鈴木正治さんが亡くなった



 ピエール・バルーのレーベルSARAVAHのロゴ画になっている「誕生」を描いたのが,青森の彫刻家の鈴木正治さんでした。おととしの暮に青森に行った時,青森に行ったら必ず行くことにしている和菓子屋「おきな屋」佃店の中の鈴木作品を陳列してある「ぎゃらりー・ま」で,鈴木さんが重い病気で入院していることを知ったのでした。たまたまその後,成田空港でピエール・バルーとばったり会って,私は青森で鈴木さんが重病だと聞いたと言ったら,ピエールは「知っている。とても心を痛めているんだ」と答えた。それで2007年9月には,ピエールと娘のマイアなどのサラヴァ一座が「鈴木の町」青森で最後のコンサートを行っています。
 4月19日,鈴木さんが亡くなりました。死因は胆管ガンとありました。88歳でした。
 自然体,童心,ナイーヴ,プリミティブ,玩具愛....鈴木さんの作風はいろいろな言葉で評されていますが,やっぱり珍しいですよね。丸太の木を四方から鑿で彫っていって,木の中に球体を彫りだすのだけれど,その球の周りに彫り残された丸木外周が4本の支柱となって,球体は木から分離しているのに,四面の開いた窓から出られない囚われの状態になります。作品は「出られず」という題がつけられます。笑っちゃいますよね。すごいですよね。
 鈴木さんの作品はわが家では水墨画を持ってたりするんですが,おととし幼なじみのれいこちゃんのご主人から,鈴木さんの高さ10センチほどの木彫り習作(なんでも彼らの長男君が赤ちゃんの時に,おもちゃにして遊んでいて,長男君のよだれをいっぱい吸っているらしい)をもらったので,今は家宝にしています。
 おととしの青森郷土館での展覧会の時は,入口のところにゴザを敷いて,鑿で木彫りの仕事を続けている鈴木さんの姿を見ました。白く長い山羊ヒゲの鈴木さんは,本当にどこにでもいるただのおじいさんの佇まいで,展覧会を見終わった人が「先生はいろいろいっぱい作ったんだねえ」などとシンプルな言葉をかけると,にこにこ笑って会釈する,という姿がありました。私もなにかお話できたらよかったなあ。後の祭り。



← これがサラヴァのロゴ画ですが,爺は初めてこれを見た時「サタデー・ナイト・フィーヴァー」だと思いました。鈴木さんがあの映画を?? 案外見てたりするんですよ,そんな気がします。

2008年4月14日月曜日

インド人もクラヴィック!




 ドミニク・クラヴィック&レ・プリミティフ・デュ・フュチュール
 『むぜっ!と威張る虎』
Dominique Cravic & Les Primitifs du Futur "TRIBAL MUSETTE"


 レ・プリミティフ・デュ・フュチュールの7年ぶり4枚目のアルバムです。その間にリーダーのドミニク・クラヴィックはウクレレ・クラブ・ド・パリのアルバムを作ったり,ダニエル・コランとデュエットで「パリ・ミュゼット楽団」として日本に2度も行ったり,故アンリ・サルヴァドールの楽団のギタリストとして翁のサヨナラ公演ツアーに同行したり,ピエール・バルーの新アルバム「ダルトニアン」に参加したり...。八面六臂の大活躍でありましたが,その合間を縫って,よくもまあこんなすごいアルバムを作ったものです。
 レ・プリミティフは今から四半世紀前に,ミュゼットの巨人ジョー・プリヴァのギタリストだったディディエ・ルーサン(故人)と,ブルース・ギタリストだったドミニク・クラヴィックが中心になって結成された,パリ的オールドファッションド・ミュージック(ミュゼット,戦前シャンソン,マヌーシュ・ジャズ...)にこだわったジャグバンドで,アメリカ人の分際で(!)その種の音楽の大ファンだった漫画家ロバート・クラム(『フリッツ・ザ・キャット』で知られるニューヨーク・アンダーグラウンド・コミックの最重要作家)がバンジョーとカヴァーアートを担当していたことでも話題になりました。ファースト10インチアルバムの"Cocktail d'amour"は,クラムのファンたちが騒いだこともあって,今やそのアナログ盤はコレクター市場で大変な高値だそうです。
 時は移り,新アルバムは中核メンバーのドミニク・クラヴィック(ギター),ダニエル・コラン(アコーディオン),ダニエル・ユック(サックス,スキャット),ジャン=フィリップ・ヴィレ(コントラバス),ジャン=ミッシェル・ダヴィ(シロフォン),フェイ・ロフスキ(ミュージカル・ソー,テレミン),ベルトラン・オージェ(サックス)等に加えて,ゲストが全部で52人。オリヴィア・ルイーズ,クリストフ,サンセヴリノ,アラン・ルプレスト,マルセル・アゾラ,ピエール・バルー,ジャン=ジャック・ミルトー(この人創立メンバーでした),ラウール・バルボーサ,フラーコ・ヒメネス,クレール・エルジエール...。制作費のこと考えたら気が遠くなりますが,今回の4枚めは初めてメジャー会社(Universal)による制作ですから,お金のことは気にならなかったのでしょう。贅沢。豪奢。
 それよりも,ドミニク・クラヴィックという男が持つカリスマ的吸引力の方が,このメンツを大結集させた第一の理由でしょう。自らフランス屈指のレコードコレクターであり,ブルース,シャンソン,ミュゼット,ラテン音楽(特にブラジル)の研究家でもあるクラヴィックは,戦前パリが世界中の多くの芸術家たちを引き寄せたような,パリ的吸引力が大衆音楽に及ぼした過去を未来に向けて再び描こうとします。「未来の原始人たち = レ・プリミティフ・デュ・フュチュール」とはそういうトライブであり,日々アメーバ的に拡散していて,オリヴィア・ルイーズのような若いアーチストからピエール・バルー翁に至るまで,18歳から80歳までの52人がクラヴィックの呼びかけに応えて,一緒に旅を楽しむように,この多彩な16曲を録音してくれました。
 エキゾティックなミュゼット「ヒンドゥー・ワルツ」に始まり,チャップリン「モダン・タイムス」のテーマ "Titine"のアラブ的展開,アラン・ルプレストの絞り出しヴォーカルが描く映画「北ホテル」の舞台サン・マルタン運河,チャマメ王ラウール・バルボーサの酒酔い気分"Ivresses",和琴で奏でられるジョルジュ・ヴァン・パリスの映画音楽 "Nous sommes seuls"(これはマルク・ペロンヌの十八番レパートリーのひとつですね),ピエール・バルー翁が語る「ジャンゴ・ラインハルトの死」,テックス・メックスのアコ弾きフラーコ・ヒメネスの国境なきバラード"San Antonio's Bells"...。
 スラヴ風もアラブ風もラテン風もマヌーシュ風もシャンソン風も,「ワールド」系の強引なミクスチャーとは無縁の,パリ的抱擁力で自然に溶け合ってしまった感じの16曲です。若い人たちにはちょっとスムーズ過ぎますかな?
 4月21日にドミニク・クラヴィックに会えることになりました。この大労作についていろいろ聞いてみましょう。


<<< トラックリスト >>>
1. La valse Hindoue
2. Sur le toit 〜 Romana (feat. OLIVIA RUIZ & CHRISTOPHE)
3. Dalinette (feat. MARCEL AZZOLA)
4. Titine
5. Ton manteau gris (feat. CLAIRE ELZIERE)
6. La grande truanderie (feat. SANSEVERINO)
7. Canal Saint Martin (feat. ALLAIN LEPREST)
8. Syldave ou Bordure ?
9. Ivresses (feat. RAUL BARBOZA)
10. Nous sommes seules
11. Mon Idéal (feat. JEAN-JACQUES MILTEAU)
12. Ménage à trois (feat. SANSEVERINO)
13. Mingus Viseur
14. Syldave et Bordure !
15. La derniere rumba de Django (feat. PIERRE BAROUH)
16. San Antonio's Bells (feat. FLACO JIMENEZ)

DOMINIC CRAVIC & LES PRIMITIFS DU FUTUR "TRIBAL MUSETTE"
CD UNIVERSAL MUSIC JAZZ FRANCE 5305916
フランスでのリリース:2008年4月14日


 
PS 1
レ・プリミティフの マイスペースです。"Titine"が試聴できます。

2008年4月13日日曜日

探したら出てきました。



 増田恵子 『サンプル・コンフィダンス』
Keiko Masuda "SIMPLES CONFIDENCES"


 よく持ってたなあ、という感じです。1989年だそうです。CDも出ていたんでしょうが、爺はLPで持ってました。大体CDプレイヤーを買ったのが89年で、あの頃はCDとLPで値段差があったので、新譜でもまだLPで買ってましたし。そして89年は爺が某レコード配給会社に入社した年でもあり、このLPは見本でもらったもののような記憶があります。JUST'IN(ジュスティーヌと読む)という2〜3年ほどで消えてしまったレコード会社から出てました。
 爺はピンクレディーというのはよく知らなかったんです。76年に「ペッパー警部」でデビューした時、学生だった私は8ヶ月間のフランス留学をしていて、翌77年に帰ってきた時は大変な人気になっていましたが、私はテレビを持っていなかったので、その熱狂には疎かったのです。テレビがなければ、ピンクレディーなどなにものでもない、と思っていました。日本もフランスも「テレビがなければなにものでもない」歌手がゴロゴロいたのです。フランスではこのテレビ歌手は「ジスカール・デスタン期」に量産されます。これを Variétés ヴァリエテと呼ぶのです。
 で、増田恵子がソロ歌手としてフランスでアルバムを出しました。裏ジャケにはエグゼキュティブ・プロデューサーとして日本のIVS Musicという名前があります。今もあるテレビ制作会社IVSですね。ここがお金を出してフランスで制作されたということなんでしょうね。
 プロデュース/作曲編曲がクリスチアン・オル Christian Holl という人です。フランスではあまり聞かない名前です。この人のオフィシャルHPがあるので行ってみました。www.christian-holl.com 今は自然音や民俗音楽を録ったり「細工」したりしている人のようですね。映画音楽やテレビでのサウンドスケープなんかですね。で、この人のバイオグラフィーを見ると、「1985年、小林麻美のアルバム"Le monde à l'envers"を作曲」、「1985年、フランス代表歌手として東京音楽祭にエントリー、"Femme dans ma vie"で最優秀作曲家賞を受賞」、「1989年、増田恵子のアルバムを作曲、JASRACから最優秀外国人作曲家トロフィーを受ける」....なんていう記述があります。日本で活躍した人なんですね。小林麻美をウィキペディアで調べたら、たしかに85年のアルバム『ANTHURIUM~媚薬』で10曲中5曲がこのクリスチアン・オルの曲になってました。
 たぶん日本からは「大物視」されていたのかもしれませんね。増田恵子のアルバムはフランス語6曲、英語4曲の10曲入りで、全曲このクリスチアン・オルの曲です。全曲とても80年代(イタリア寄り)Jポップ風で、このオルという人は日本市場の「ノリ」を知っていたんでしょうね。だけど、これって...。
 増田恵子はなぜフランス?だったのでしょうか。小さなレーベル、小さなレコード配給会社から出たので、フランスではちゃんとしたプロモーションはしていなかったように記憶しています。テレビに出たりしたのかな? なんかすべてがB級なんですよね。曲も歌唱も。もちろんフランス語も英語も。ロマノ・ムスマラ(初期ジャンヌ・マスの数々の大ヒット曲、ステファニー・ド・モナコ、エルザ「哀しみのアダージョ」なんかを書いたイタリア人ヒットメーカー)がしくじったような曲ばかり。仮想ライヴァルはジャンヌ・マスだったのかもしれません。影でジャンヌ・増田みたいな芸名が用意されてあったりして。ヴァリエテの罠ですね。
 と言いながら、さっきから3回もA/B面ひっくり返して聞きました。なんとか良いところを探そうとしているんですけど、「二人のオデッセイ」「恋はうそつき」「あやうい美貌」みたいな日本プロ作詞家が書くようなフランス語詞って、本当にどうしようもないですね。英語詞の歌の方がいいです(って、爺が英語聞き取れないだけの話か)。2曲め "Don't make up your mind", 10曲め "Some kinda guy"、ケイちゃんのハイトーン・ヴォイス、ケイト・ブッシュみたいによく通っていて魅力的です(ちょっと無理があるか)。

<<< トラックリスト >>>
A面
1. SIMPLES CONFIDENCES
2. DON'T MAKE UP YOUR MIND
3. ODYSSEE A DEUX
4. AMOUR MENTEUR
5. AVEC LE FEU
B面
1. BEAUTE FRAGILE
2. I DANCE WITH FIRE
3. COMME LES HOMMES
4. SING THE OLD SONGS
5. SOME KINDA GUY

LP KEIKO MASUDA "SIMPLES CONFIDENCES" (MAZERES DISQUES/JUST'IN JD360253)

2008年4月10日木曜日

フランス語の番人? Je sais, je sais, je sais...



 ジャン=ルー・ダバディー(シナリオ作家、劇作家、作家、コント作家、作詞家....)(1938 - )(69歳)が、アカデミー・フランセーズ(フランス学士院の一部門でフランス語審議会。言わば「フランス語の番人」。定員40人)の会員に選出されました。こんな堅いところにダバディーが、と意外に思う人が多いですね。テレビ受けのいい、いつもにこやかな紳士で、ギ・ブドスやミュリエル・ロバンにコントを提供していただけあって、軽妙で博識な語り口が魅力でした。明らかに女性(と男性)にもてそうな感じ。ダンディー。
 父親が既にフレール・ジャックやモーリス・シュヴァリエの作詞家という家で育ったジャン=ルーは、15歳で大学資格を取った早熟児で、19歳に初小説を刊行しています。この19歳の頃に、フィリップ・ソレルスとジャン=エドラン・アリエと共に前衛文芸誌「テルケル」の創立メンバーになっています。兵役の時に書いていたコント・シナリオの多くがのちにギ・ブドスの舞台で炸裂し、セルジュ・レジアニに書いた詞によって作詞家業も始めます。
 しかしその筆は、一連のクロード・ソーテ監督の映画作品"Les choses de la vie"(邦題『すぎさりし日の』1970),"César et Rosalie"(邦題『夕なぎ』1972),"Vincent, François, Paul et les autres"(邦題『友情』1974)やトリュフォーの『私のように美しい女』(1972)で知られるようになり,シナリオ作家、とりわけダイアローグの名手としての定評を勝ち得ていきます。
マルチなライターで,テレビ,演劇,寄席芸などにも進出していきますが,私たちにはなんと言っても作詞家の仕事が印象的です。ジュリアン・クレールでは,"Jaloux", "Partir", "Ma préférence", "Femmes... Je vous aime"などのヒット曲だけではなく,かのドラマティックな死刑廃止論の歌 "L'Assassin assassiné"(1981)もダバディー筆でした。ポルナレフでは「愛の休日 Holidays」,「悲しみの終わる時 Ca n'arrive qu'aux autres」,「愛の物語 Nos mots d'amour」など美しいメロディーに載った美しい詞が多いんですが,なんと言ってもとどめは「フランスへの手紙 Lettre à France」(1977)ですね。
 それに加えて私にとってのジャン=ルー・ダバディーは最重要な2曲があって,まず1974年ジャン・ギャバンの"Maintenant Je sais"ですね。この歳になったから身にしみるのかもしれませんが,いくら歳を取ったってどうして地球は回っているのか,なんてわからないのですよ。私は何も知らないということを知っている。こういう柔軟な人が,アカデミー・フランセーズというフランス語の最高権威の学会員になるというのは素晴らしいですね。文学者,作家,詩人,哲学者などがこの学会の大部分なわけですが,映画界から選ばれた人は,1981年ルネ・クレール監督(『巴里祭』1932)が亡くなってからひとりもいなかったのだそうです。またシャンソン界からアカデミー入りするかもしれないと話題になったシャルル・トレネは,1983年の選考で結局落とされてしまっていて,これまで誰もいなかったのです。ということで,ダバディーのアカデミー・フランセーズ入りは,映画/テレビ/演劇/シャンソンの大衆的な部分からの初選出という意味があるわけですね。
 もう1曲は1971年クロード・ソーテ映画『すぎりし日の Les choses de la vie』のために作られた,ロミー・シュナイダーとミッシェル・ピコリの『エレーヌの歌 Chanson d'Helene』ですね。これはこの映画のシナリオをダバディーが書いているんですが,映画の結末とは別の歌を作ってしまっている(映画は事故的死に別れ,歌は観念的別離),というのがダバディーのナニでしょうね。
 なにはともあれ,ジャン=ルー・ダバディーのアカデミー入りを心から祝福しましょう。

(↓)ロミー・シュナイダー&ミッシェル・ピコリ「エレーヌの歌」(1971年)

2008年4月7日月曜日

今朝の爺の窓(春の雪)



 昨日1日寒い寒いと思っていたら、夜に少し雪が降りました。
 向かいもうっすらと雪景色です。丘の上の方の木々は雪の花が咲いたようです。
 もう少し降雪量があると、そり遊びもできるんですが。

2008年4月6日日曜日

港町 今日も暮れて 恋が一つ

"Disco”
『ディスコ』


2008年フランス映画
監督:ファビアン・オンテニエント監督
主演:フランク・デュボスク、エマニュエル・ベアール、ジェラール・ドパルデュー、アニー・コルディー、リオネル・アベランスキー



 ル・アーヴルはかつて北大西洋航路(Transatlantique トランスアトランティック、通称 Transat トランザット)の港町として、欧州と合衆国を結ぶ豪華客船の出帰航地でたいへん栄えておりました。また欧州海運の拠点としてフランスではマルセイユに次ぐ陸揚げ量を誇っていました。第二次大戦時にノルマンディー上陸作戦で壊滅的な打撃を受けたのち、戦後オーギュスト・ペレの設計によって再建された20世紀建築の町並みは、2005年にユネスコ世界遺産として登録されましたが、これには賛否両論があり、この直線的でコンクリートな町風景は、ソヴィエト・ロシアをも想わせるものがあります。私には美しいもののようには見えません。
 同じフランスの港町なのに、マルセイユとル・アーヴルではどうしてこんなに違うのか。日照量の多さの違いは圧倒的です。ノルマンディーはいつ行っても雨が降っています。あちらは対岸が北アフリカであるのに、こちらは対岸が大ブリテン島です。マルセイユはフランス人にとって強烈なイメージのある唯一無二の個性ある町ですが、ル・アーヴルなど一生に一度もその名前を聞かずとも済んでしまうでしょう。フットボールのチーム(HAC)も弱いですし。
 ジャック・ドミーは港町を舞台にした映画が3本あります。シェルブール(の雨傘)、ロッシュフォール(の恋人たち)、ナント(都会のひと部屋)です。この『ディスコ』という映画はこのドミー映画にたくさんのリファレンスを持っている作品です。雨降る町シェルブール→ル・アーヴル(同じノルマンディーですから当り前か)、クラシック・バレエ教室(ロッシュフォールではドヌーヴ先生。こちらはベアール先生)、港祭(ロッシュフォール)→海浜野外ステージ(ディスコダンスコンテスト)、造船所ストライキ(都会のひと部屋)→港湾ストライキ(ディスコ)...。リスペクト! そして映画の出だしなんか、ル・アーヴルの町の全景が海からと空からのパノラマ画像で、「ウェストサイド物語」も想わせたりします。
 『アステリックス(のオリンピック)』、『シュティ(北の人々)』の爆発的ヒットに続いて、またもや(低俗)フランス喜劇映画かいな、と多くの映画評論家たちは嘆きました。おまけにこれに便乗するディスコ・ミュージック再評価の商戦(CD/DVD/テレビ特番、ナイトクラブ、ヴァカンスクラブ...)もありまして、識者たちはかなり冷ややかなコメントをあちらでも、こちらでも...。

 70年代末から80年代前半、爺たちはディスコに行っていました。その名が示すように "Discothèque"はフランス語起源です。レコード庫です。生バンドではなくレコードをかけて音楽を楽しむところに始まり、それで踊れるスペースができちゃったわけです。言葉だけではなく、ディスコ黎明期は米国ブラック・ミュージックの中でそれと知られずにフランスが大きく幅を利かせていた時期でもあります。ヴィレッジ・ピープル、セローヌ、パトリック・エルナンデス...。フランスでは地方でもすごかったのです。地方ですごいことができるというのは、バンドでなくてレコードだからなのです。レコードといいスピーカーとミラーボールがあればよかったのです。この雰囲気を既に1994年に懐古的に表現したヒット曲が I AM (アイアム)の "Je danse le Mia"でした。ディスコダンス・コンテストが毎週開かれて、景品にアメリカ煙草1カートンなんていう時代でありました。
 ル・アーヴルの町で、あの時代に大繁盛していたディスコ「ジン・フィズ」が、2008年再開店します。オーナーは地方ショービズ界のドン、ジャン=フランソワ・ジャクソン(いい名前だなあ。ここではマルタン・シルキュスMartin Circus の元ドラマーということになってます。演ジェラール・ドパルデュー)で、開店の打ち上げ花火として「ジンフィズ・アカデミー」と称するダンス・コンテストを催し、優勝者の景品はオーストラリア旅行です。ディディエ・グランドルジュ(フランク・デュボスク)は40歳の失業者で、別れたイギリス人女性との間にひとりの息子がいます。イギリスに住む息子は毎年ヴァカンスにはディディエと過ごすことにしているのに、息子の母親は文無しの状態であるディディエに息子は任せられないとヴァカンス中止が宣告されます。息子恋しさに奮起したディディエは、かつて地方のディスコダンスコンテストを総なめにしていた3人のダンスチーム「ビーキングス Bee Kings」を再結成し、「ジンフィズ・アカデミー」で優勝して、息子と二人でオーストラリアへ、と企てます。ディディエ・グランドルジュは、かつてのステージネーム、ディディエ・トラヴォルタを再襲名し、40歳でなまった体を鍛え直すべく、クラシック・バレエ学校の門を叩きます。そのコーチとなるのが、大富豪の娘でダンス教師、3年前に恋人を海で失った美貌の女性、フランス・ナヴァール(これもものすごく可笑しい名前。France Navarre。理由は爺が書いたフランスとナヴァールを見よ。演エマニュエル・ベアール)なのです。大規模家電販売店Dartyの販売員と、ストライキ中のル・アーヴル港湾労働者組合の委員長と、失業者ディディエの3人チーム「ビーキングス」は果たして「ジンフィズ・アカデミー」に優勝できるでしょうか....。

 これねえ、爺は楽しみましたねえ。まず、ル・アーヴルという個性がない上に雨の降る町ね、おまけにこの映画ではほとんど若者が登場しないのです。中高年と老人と労働者しかいないような町。それで、若者たちを全く無視したような音楽、ディスコですよ。若い人にはわかりっこないギャグ。例えば「俺はボニー・Mのドラマーが死んだ時に、もう踊るのはやめようと決めたんだ」...って、ボニー・Mにドラマーなんかいないっちゅうに。爺はほとんど感動しましたねえ。
 浜辺のディスコダンス・コンテストの時に、司会が実名出演のダニエル・ジルベール(70年代ジスカール・デスタン時代にテレビ界で最も人気のあった女性司会者で、81年ミッテラン大統領誕生以来テレビから姿を消していて、"ジスカールのテレビ”を象徴する人物です)で、数十年前のテレビタレントが田舎で司会業をまだ続けているという自虐パロディーみたいな図でした。それからこれも実名出演の70年代の長髪ナルシスト歌手フランシス・ラランヌが出てきて、ディスコ大会の特別ゲストに呼ばれようとしたところ、ドパルデューに「こいつはあんまりディスコじゃない」と言われて、「そうとも僕はあんまりディスコじゃないんだ、でもきみたちに会えてよかった。ありがとう」とナルシスティックに歌いながらル・アーヴルの倉庫街を去って行くシーンなんか、可笑しすぎて死ぬ思いでした。
 驚いたことにディディエ・トラヴォルタとフランス・ナヴァールは純愛で、ちゃんとした接吻すらもしないで、結局「階級の違い」で結ばれずに別れていくんですね。これ、この種のコメディ映画ではほとんど不条理ですよ。この予定調和なし、というのもディスコっぽい感じがします。(何を言おうとしてるんですか?)
 この「階級の違い」の現実にショックを受けたディディエが、家電量販店DARTYの小型バンのハンドルを握って、涙ながらにノルマンディー大橋を疾走するシーンの美しさよ、あの橋の風景は本当に美しい、これはフランス地方映画の醍醐味ですね。
 おバカな映画に違いありません。爺が覚えている頃のディスコって、みんなおバカな踊りで、アース・ウィンド&ファイア、クール&ザ・ギャング、シャラマール、シック...みんな素敵なビート音楽で、自然に体が120BPMになったもんでした。若い人たちの間に「ディスコ復活」はして欲しくないですね。ずっと爺たちのものにしてとっておきたい、そんな「文化」ですね。「サタデーナイトって金曜日の夜のことじゃないの?」と不思議がる若い人たちだっていますでしょうに。

(↓)映画『ディスコ』予告編


★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

PS 1:


某ファンサイト管理人さんがコメント欄でおっしゃってた『港町シャンソン』のジャケです。(←写真をクリックすると拡大します)。
日本コロムビアのDENONレーベルから1970年にリリースされました。グループ名は「原田信夫とザ・キャラクターズ」。おそらく一番左が原田信夫さんでしょう。女性の人は宝塚出身だそうで,そういう目鼻立ちをしていますよね。歌の横文字題にご注目ください。"CHANSON DU PORT"とあります。阿久悠さんじきじきの仏語訳でしょうか?『港の歌』となると戦前の国民唱歌の「空も港も夜は晴れて,月に数増す舟の影,はしけの通いにぎやかに,寄せ来る波も黄金なり」という,港が昼夜関係なく繁盛していた大海運貿易時代を思わせる歌がありました。ル・アーヴル,マルセイユ,ヨコハマ,コーベ...みんな同じだったのでしょう。
ついでに伴奏楽団名にもご注目ください。シャルル・オンブル楽団 CHARLES OMBRE ET SON ORCHESTREとなっています。これを見た当時の人たちは,ま,おフランスのオーケストラ!と思ったかもしれまっせん。シャルル・オンブルという楽団指揮者は一体どんな人なんでしょう? インターネットで一通り検索してみましたが,答はありまっせん。日本コロムビアから出ているアーチストのバックや,ヒット曲インストカヴァー,イージーリスニングの再カヴァーなどのレコードがシャルル・オンブル楽団名義で出ています。おそらく,日本コロムビアの専属スタジオ楽団なんだと思うんですが,「日本コロムビアオーケストラ」という正規楽団の影に隠れた覆面楽団なのではないか,つまり,固定した楽団メンバーなどなくて,そのセッションの日の都合で日雇いで集まってくる凄腕スタジオ・ミュージシャンの集まりではないか,などと勝手に予想したりしています。因みに「オンブル OMBRE」というのは「影」を意味するフランス語ですから。影の楽団,ザ・シャドウズ,みたいなもんじゃないか,と。


2008年4月5日土曜日

今朝の爺の窓(2008年4月)



 曇り空なのではっきりした色が出てなくて残念。一番若々しい緑色になっているのがマロニエです。もう少ししたら白い花をつけます。マロニエと館の間に1本だけ桜の大木があって、およそ20メートルほどの樹高でしょうか、今、真っ白に花をつけていて、満開の頃この大木の下に行くと、花びらが大雪のようなさまで散ってきます。川のこちら岸のポプラ並木も若葉です。この茶黄色があと1ヶ月もしないうちに真緑の葉に変わります。そうなるとわが窓からセーヌ川が隠れてほとんど見えなくなってしまうんですね。

 さて、この対岸のサン・クルー緑地で毎夏開かれるロック・フェスティヴァル ROCK EN SEINEの今年のメインアーチスト2組が発表になりました。REMとエミー・ワインハウスです。

  ROCK EN SEINE オフィシャルHP 

 これまでずっと3日間だったのに、今年は8月28日と29日の2日間だけになってしまったようです。その他の参加アーチストたちやプログラムはまだ発表になっていません。まあ地の利がありますから、今年は2日間行きましょう。このフェスティヴァルを去年ドタキャンした酒屋のエミちゃんは、こんなに大スターになってメインイヴェンターになって招かれることになるなんて、去年の時点では誰も予想できなかったでしょう。

2008年4月2日水曜日

ある日突然,トワ・エ・モワ....

ヴェロニク・サンソン『ゼニット 93』
Véronique Sanson "ZENITH 93"


 さきほど「ラティーナ」編集部と電話で話したところ,5月号の表紙がヴェロさんになるという話が進んでいるそうです。爺のような新座者の記事のために表紙まで飾ってくれるなんて,と感激しましたが,同誌の表紙を描いている偉大なブラジル人造形アーチスト,エリファス・アンドレアート氏(シコ・ブアルキやトッキーニョなどのジャケットイラストレーションもしている方なんですね)は....ヴェロニク・サンソンを知らないのだそうです。結構ショックでありましたね。やはりフランス語圏世界でないと,ヴェロさんはまるで知られていないというのが現実かもしれません。
 あのインタヴューの日から約1ヶ月が過ぎました。書きたいことは山ほどあったのに,字数との闘いで思いだけは盛り上がっていたのに,何もせずに果ててしまった(なんかヤらしいな,この表現)ような欲求不満の残る原稿を送ってしまいました。いつか雪辱戦しますよ。いつか必ずヴェロさんの本を書きますよ。誰も読んでくれないでしょうかね。テーマは「ヴェロニク・サンソンは歌うマルグリット・デュラスである」みたいな...。本気で考えています。

 ヴェロさんの最新の3枚組ベスト"PETITS MOMONT IMPORTANTS" をこのブログで紹介した時,この中の3枚目のライヴ集を聞くまで"Toi et moi"という素晴らしい曲の存在に気がつかなかったと書きました。私はヴェロさんのCDのほとんどを持っていますし,"Toi et moi"が収められているこの93年ライヴも発売時に買っていました。たぶん2.3回しか聞いていなかったんですね。もともとライヴ盤というのを軽視する傾向がありまして...。

 原稿書きながら,一番良く聞いたのがこのライヴCDでした。93年。ヴェロさん44歳ですね。前年にアルバム"Sans Regrets"(後悔なし。ある意味でヴェロさんの,noooon, rien de rien, noooon je ne regrette rien...みたいな悟りのアルバムでもあります。このアルバムから"Rien que de l'eau"というNO.1ヒットシングルも出ています)が成功をおさめていて,それを受けてのツアーなんですが,アメリカからミュージシャンをたくさん連れてきています。ゼニットにふさわしい凄腕ばかりの大所帯バンドで,ヴェロさんとは長いつきあいのベーシスト,リーランド・スクラーももちろんいます。そしてこの前年の92年の夏に,ミッシェル・ベルジェが急死しています。
 なぜ93年当時,このアルバムを2.3回聞いてやめてしまったか,という理由を思い出しました。9曲めに入っている「バイーア」という曲があって,これはヴェロさんの72年のファーストアルバムに収められていた短い曲で,初期ヴェロさんの最も美しいメロディーのひとつです。インタヴューで,この歌のことも聞いたんですが,この曲は想像の産物なのです。18歳頃のヴェロさんが未だ見ぬブラジルの町を想って作ったんですが,「バイーアに行きたいの,そこは雨の日なんかないの,雨の日という言葉は意味を持たないの」と歌っていたんですね。この美しい曲が,この93年ライヴでは残念なことに安直な打ち込みビートのエレポップ仕上げになっていて,私はおおいにがっかりしたのでした。たぶんこのせいで聞かなくなったんだと思います。
 
 聞き直してみるといろいろなことがわかってきました。"Rien que de l'eau"(一時深い関係になったギタリスト,ベルナール・スウェルの曲)は,曲を書けなくなったヴェロさんの始まりでした。この曲以来,自分で作詞作曲しない曲がアルバムにどんどん入るようになります。70年代初めのヴェロさんは体じゅうにメロディーが詰まっているような,豊穣なメロディー・メイカーだったのですが,その20年後にある種の井戸涸れになってしまうのです。しかし引き出しの中に未発表曲をたくさん持っている彼女は,この頃から十代や二十代に作った曲を新作アルバムに入れていくようになります。11曲めの"Panne de coeur"もアルバム"Sans Regrets"(1992)で録音されているものの,68年の姉ヴィオレーヌ+フランソワ・ベルナイムとのトリオ,レ・ロッシュ・マルタンのためにヴェロニクが作った曲です。
 この93年ライヴの時期,ヴェロさんは70年代の自分のレパートリーの読み直しをしていたようです。ファーストアルバム(72年)からの曲が"L'Irréparable"(2曲め),"Mariavah"(7曲め),"Tout est cassé tout est mort"(8曲め),"Bahia"(9曲め)そしてセカンドアルバム(72年)からは"Toute seule"(4曲め)。いずれもオリジナルヴァージョンとはかなり編曲を変えています。たぶん爺が一番聞いたアルバム"Hollywood"(1977)はアメリカでソウル系のミュージシャンだけで作られたヴェロさんのブラック・ミュージックアルバムですが,その中からも"Y'a pas de doute"(1曲め),"les délices d'Hollywood"(10曲め),"Bernard's song"(12曲め)と3曲入れています。大ヒット曲"Vancouver"(1976)(15曲め),エレクトリック・ギターに持ち替えての十八番 "On m'attend la-bas"(1973)(14曲め)も加えて,このライヴに支配的なのはヴェロさんの豊穣な70年代回顧なのです。
 そして,あとでわかるのですが,この70年代レパートリーはそのメロディーの最高音部がとても高いところで作られているので,この頃から徐々に歌えなくなってしまいます。2曲め"L'Irréparable"はオリジナルの最高音階がもう出ないために編曲を変えてあります。これを例外とすれば,この93年ライヴは,ヴェロさんが70年代レパートリーをオリジナルのトーンで歌えた,おそらく最後のライヴと言えるでしょう。
 アルバム中最もしっとりと歌われる(まあ,この事情ではあたりまえか)ミッシェル・ベルジェ作の"Seras-tu là"(6曲め)は,サンソンの弁では「自分に捧げられた歌」なんですが,それを死の1年後にお返ししてやる,という満場涙ただ涙,というシークエンスだと思います。こういうの苦手です。
 
 さてスタジオ盤に録音されていない,このアルバムにしか入っていない"Toi et Moi"(3曲め)です。アダルトでメロウなボッサです。これでも十代の時の作曲だそうです。すごいですね。この「カッ!カッ!」という喉声パフォーマンスは,別のレパートリーで「アリア・スーザ」を歌う時もやるんですが,ブラジル的なんでしょうね。インタヴューの時聞いたら,こういう曲まだまだ引き出しの中に残っているって言うんですよ。

 「ボサノヴァだけでアルバム作りませんか?」と思いきって聞いてみたのです。そうしたらヴェロさんはボサノヴァだけだと飽きると言うのです。サルサやカリプソなども混ぜて,「ラテン」(ラテン・ビッグバンドを使ったダイレクト録音)のアルバムを作る予定はあるのよ,たぶん3年以内に実現するわ,と言ってました。ちょっとアンリ・サルヴァドールみたいなところがありますね。

<<< トラックリスト >>>
1. Y'A PAS DE DOUTE
2. L'IRREPARABLE
3. TOI ET MOI
4. TOUTE SEULE
5. LE TEMPS EST ASSASSIN
6. SERAS-TU LA
7. MARIAVAH
8. TOUT EST CASSE, TOUT EST MORT
9. BAHIA
10. LES DELICES D'HOLLYWOOD
11. PANNE DE COEUR
12. BERNARD'S SONG
13. RIEN QUE DE L'EAU
14. ON M'ATTEND LA-BAS
15. VANCOUVER


Véronique Sanson "SANSON ZENITH 93"
WARNER MUSIC FRANCE CD 4509940882
フランスでのリリース:1993年





PS  :
何日か前にシラクのことを書きましたが,関連したことを蛇足的に書くと,ヴェロさんは2000年6月21日,フェット・ド・ラ・ミュージック(音楽の日)に,エリゼ宮(大統領官邸)中庭で,シラク夫妻の招待客1600人の前で,ピアノ弾語りのコンサートを開いています。
レジスタンスの英雄であり,戦後ド・ゴール派政治家として国会議員でもあった父ルネ・サンソンの影響もあり,ヴェロさんは保守ド・ゴール派にシンパシーがありました。68年5月革命の時には,学生/労働者の運動に反対する,ド・ゴール派のデモ行進に19歳のヴェロさんも参加しています。左翼に近い傾向のあったミッシェル・ベルジェとは,政治的には全く違う考え方をしていたようです。(その反面,フランソワ・ミッテランに対してはその深い敬意を一度ならず表明しています)。
そのド・ゴール派の正統後継者であるシラクが大統領になって,そのエリゼ宮の「プライヴェート・コンサート」ですから,まあヴェロさんにしてみれば栄誉なことだったんでしょう。
また,件の『銀行口座』本によると,シラクが初めて日本を訪れたのは,70年大阪万博の時だったとされています。あ,これ,まずいですよね。大阪万博フランス・パビリオンの館長がルネ・サンソンで,この時期ヴェロさんも数ヶ月日本に滞在しています。シラクとヴェロさんの初対面は大阪だったりする可能性もあるわけですね。そうするとヴェロさんは(その後をフランスを変えてしまうことになる)「何か」を知っているかもしれません...。