2008年4月23日水曜日

子供たち,20世紀は終わったんだよ



 アニー・エルノー著 『歳々』
Annie Ernaux "LES ANNEES"


 自分の親を見て,どうして自分は親とはこんなに違ってしまったのだろう,と思うのと同じように,自分の子を見て,どうして子は自分とはこんなに違ってしまったのだろう,と愕然となります。長く連れ合って生きている男と女(夫婦であるなしに関わらず)であれ,熱情の頂点の頃から見れば,どうしてこんなに心の距離ができてしまったのだろう,と寒々しい気持ちになることがあるでしょう。We are all alone。私たちは歳を重ねるにつれて,この寂寥の度合いを増していきます。
 どうしてこんな遠いところまで来てしまったのだろう。それは自分の歳も考えずに,若い頃のつもりで海水浴の遠泳に出て,ふと陸地を振り返ると,この距離では絶対に岸まで泳いで帰れそうにない,という真っ暗な不安に似ています。こういう老いに伴う孤独な取り残され感覚は,逆説的なことに真に孤独なものではなく,同じような感じ方をしている人たちが同年代に多くいるということで,言わば「共有された孤独感」であるわけです。それは人生を通して何らかの方法で自己表現できるアーチストや著述家といった限られた人たちの強い自我を持つことができなかった,世間に埋没した人たち,無名の人たち,つまりあなたや私が共有する孤独感です。
 こういう共有感覚で使うフランス語の主語が "On" です。"Je"(私)でも "Nous"(私たち)でもない,自分がなんとなく所属しているらしい集合体の非主体的で無記名的で曖昧な一人称が "On"です。"On"は「私」が含まれていて「私」ひとりではないのだけれど,「私たち」として限定的にその実体を表わせるものではなく,なんとなくその場にいる「みんな」のようなものです。
 アニー・エルノーのこの小説は,1940年代から今日に至るまで,フランスに生きたある女性とその世代のクロノロジーです。その女性は文中に記される名前もなく,主語は三人称の "Elle"(彼女)と "On"(みんな)が使われます。時代と社会に埋没した名もない女性たちのひとりによる無記名の自伝であり,同時にこれは集合的自伝(autobiographie collective)としてあなたや私のような無名の人々が共有する,私たちの歴史でもあります。そしてその無名の人々はもの言わぬ蒼茫ではなく,時代に体を張って生き,ものとぶつかり,感情と意見を持ち,それなりの行動もしてきたわけです。この小説はインテリゲンツィアや時代の傍観者の視点はなく,渦中にあった当事者としての"On"の視線が語っていきます。だから,それは中立的だったり客観的だったりするはずはなく,俯瞰的に眺め下ろすものではありえず,1メートル50センチの目の高さからの物言いになります。
 小説は壁に張られた写真や,アルバムの中の写真などの描写が多く登場します。絵や写真を文章で表現するということは私自身が不得意で,日本語でもそういうことができずに困ってしまう人間なので,人がそれを描写する文章を読んでも全然ピンと来ないのです。アニー・エルノーもあまりそれが上手とは言えないところがありますが,小説冒頭部は何枚もの写真を登場させて,断章的にそれを描いていきます。それはぼんやりしていて,こちらの想像力が貧困なのか,作者が筆不足なのか,イメージが結像しない状態のスライドショーが延々と続きます。読むのがめげそうになります。
 第二次大戦末期の激戦地ノルマンディー地方にもやっと戦争の終りが訪れ,破壊された町からドイツ兵が潰走していき,それに向かって土地の女性がお尻を高く上げて大きな屁を吹っかけます。食べ物がなく,穀類を手にするために服を売ったりという,私が子供の頃に聞かされた日本の戦後とほとんど差がない,フランスの戦災地の戦後があります。どさくさにまぎれて財を成す奴とか,米軍の悪いのとつるむ奴とか,いずこも同じという戦後です。ノミ,シラミを駆除するために頭からDDTの白い粉をかけられた子供たちが,この小説の世代です。初めての身体検査,初めてのツベルクリン反応。男女共学。公立学校に通うのが平民で,金持ち子弟は私立に行きます。普段はボロボロでも,日曜日の朝は一家でよそゆきを着て教会に行く。この日曜日が一週間着続けた下着を変える日でした。学校では体罰(定規で指を打つ)が当たり前であったし,自慰行為は唖(おし)になるからしてはいけない,と教えられていました。ついでに自慰について言えば,ラルース事典には「重大な疾患の原因となる可能性がある」と明言されていたのです。オナニズムは当時の常識では病気だったのですが,それでも手を突っ込んだズボンのポケットにはみんな穴があいていたのです。同じように同性愛は病気扱いであるだけでなく,禁止する法律までありました(この法律が廃止されたのは81年のミッテラン当選後のことです)。
 彼女たちには首都パリなど遠い遠い町でした。それでも地方都市は膨張を続け,そこに流入する労働人口を受け入れるために周辺に「郊外」が建設され,近代的なコンクリート町は早くも旧フランスとは全く違った様相で多種の文化を受け入れるようになったのです。旧フランスはまだ植民地の利権を追い,インドシナやアルジェリアでは戦争が続きました。電気冷蔵庫,ジャズ,ロックンロール,トランジスターラジオ,原付自転車,ルノー4。学校に来なくなる少女たちと学校を続ける少数派の少女たち。マリリン・モンロー,ブリジット・バルドー。ロマンティックなるものを願っていても,初めての性体験は大体が幻滅するもの。そして彼女たちの第一の恐怖は妊娠することでした。妊娠しない方法はこの世代には「オギノ式」しかなかったのです。シモーヌ・ド・ボーヴォワールを読むことは避妊の解決にはならなかったのです。
 秩序や道徳や植民地にしがみついている旧フランスを,68年5月の学生たちは徹底的に壊そうとします。彼女たちより少し下の世代です。女性解放運動,中絶禁止法の廃止,社会保険負担による経口避妊薬...。家庭の真ん中にテレビがありました。売り子とのやり取りが存在しないスーパー/ハイパーでの買い物,地中海クラブでのヴァカンス,女性の管理職,時代はこんな風に彼女たちの周りで急激に変化していきます。
 この中で作者はこの無名の女性が何を見て,何を考えていたのかを,報道の語り口とは全く違った,個人的で生理感覚的な文章で綴っていきます。それは社会的/政治的事件に大きく影響されます。私たちはこの世界に生きているのですから。1945年フランス解放,1968年5月革命,1981年ミッテラン大統領選出,1991年第一次湾岸戦争,2001年9月11日...。この女性は見たままに,このような事件に翻弄される私たちの感覚にとても近い動揺とエモーションを表現します。心情的にとても左翼に近いものを持ちながら,幻滅を繰り返す多くの人たちのそれです。彼女は81年のミッテラン当選を歓迎しながら,その10年後に湾岸戦争にフランスを参戦させたミッテランに絶望します。
 2人の息子を産んで成人させ,一人でパリ郊外の新都市(とは言っても80年代にできた新都市ですが)セルジー・ポントワーズに暮らす彼女は,25歳年下の男と恋人関係を持ちますが,やがて破局します。この70歳になろうとする女性は,40年代から今日まで時代に取り残されることなく,好き嫌いに関わらず常にその中に全的に関わりを持ちながら生きています。携帯電話やインターネットのテクノロジーにお手上げ状態の人ではなく,それを受け止めてそれを使って生きています。しかし,この長大な70年のクロノロジーの末に,私たちが読んでしまうのは,一体どうしてこんなところまで来てしまったのか,という茫然自失です。自分が生きた時間の長さにも関わらず,世界は何一つ良くなっていない(むしろ悪くなっている),という苦々しさもあります。そして年に数度,家族そろって食事を共にする度に,なぜ息子たちはこんなに自分と違ってしまったのだろうという距離を大きくしていくのです。
 小説は,このように孤独でありながら実は同じような孤独を共有してきた同世代人たちの,共通の記憶(メモワール・コレクティヴ)を記述する小説を書く,という女性の止むに止まれぬ欲求を記して終わります。プルーストの『失われた時を求めて』と同じように,小説を書く,という結論のための長大な序章です。それは共通の体験を個人的に記録するということを集結させた,個的であると同時に集合的で複眼的な"On"(みんな,われわれ)の自伝であるわけです。そこに登場し,そこで歴史的事件と立ち会っているのは,あなたや私のような市井の人間なのですが,その果てに取り残されてしまう感覚で終わってしまうのも,あなたや私であるのです。わかりますか,子供たち?


ANNIE ERNAUX "LES ANNEES"
(Editions Gallimard刊。2008年3月。242頁。17ユーロ) 

 

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