2014年8月19日火曜日

La Reine Christine

クリスティーヌ & ザ・クイーンズ『ぬくもり』
Christine & The Queens "Chaleur Humaine"

 2013年はストロマエの『平方根』 があったので、ほとんどそれ1枚で1年が過ごせたのでした。そういう水準のアルバムなどなかなかあるものではないのです。2014年春、私はクロ・ペルガグにかなり入れ込んでいました。それから夏にかけてはこのクリスティーヌ&ザ・クイーンズ(以下 CATQ)でした。リリースが6月でしたから、やや遅れての紹介ですけど、彼女はこのアルバムデビュー以前からずいぶんと騒がれていた人で、3月にはストロマエのジュネーヴのコンサートのオープニングアクトをつとめて、ストロマエと全く違うアプローチとは言え、ベルギーのマエストロと同じようにヴィデオとダンス・パフォーマンスを多用するエレ・ポップ・ショーでストロマエのオーディエンスを魅了したのでした。
このダンス・パフォーマンスというのがクセもので、自他共に認めるマイケル・ジャクソンの盲目的なファンで、自然とそういう動きになってしまうのです。私はこれは見ていて決まり悪くなってしまうものがありますね。
 それからこのステージネームCATQです。バンドのように「クリスティーヌ&ザ・クイーンズ」を名乗るのですが、実はひとりの女性であり、その名はクリスティーヌではなく、エロイーズ・ルティシエと言います。このひとりバンドのプロジェクトは2010年のある夜、ロンドンのとあるクラブで、ドラァグクィーンたちに取り囲まれて、突然ひらめいたのだそう。
「あの頃私は自分が誰なのかも自分が何をしたいのかもわからなかった。そしてさまよいのためにロンドンに行ったのだけど、私はそこで自分を見いだしたの。 この女装男たちは、アルモドバール映画のキャラクターたちよりもジギー・スターダスト時代のボウイーによく似ていて、強烈に私を魅了した。彼らが私を私自身と和解させてくれたのよ」(テレラマ誌2014年4月25日)
  端的に言えば、両性具有的アイデンティティーを自分の中に再発見してしまったということなのでしょう。彼女は「クリスティーヌ」というキャラクターを創造し、エロイーズのリビドー的衝動をその創造物によって解放するのです。ドラァグクイーンたちに囲まれた女王クリスティーヌという図でしょうか。「女王クリスティーヌ」というのも、私たちの世代にはひとつのリファレンスであって、どうしてもグレタ・ガルボ主演映画『クリスチナ女王』(1933年制作。17世紀のスエーデンの女王クリスティーナを描いた伝記映画)を想起せざるをえないのですね。(↓)男装の女王クリスティーナ(グレタ・ガルボ)が、侍女エヴァとリップ・キッスをするシーン。


 1988年ナント生れのエロイーズは、リヨンのエコール・ノルマル・シューペリウールで演劇を学んだのち、2010年からこのCATQ プロジェクトに専心し、2011年にマルク・ランブローゾのRemark Recordsから初EPを発表。2012年にブールジュの春フェスティヴァルに参加、その「発見」賞を獲得。同じ年ラ・ロッシェルのフランコフォリーフェスティヴァルに参加、その「最初のフランコ」賞を獲得。つまりフランスの2大ポップフェスティヴァルの最優秀新人賞2冠となったわけですね。そしてまだファーストアルバムも出ていない2014年2月、フランスで最も栄誉ある音楽賞であるヴィクトワール賞に、「Groupe ou artiste révélation scène」(ライヴステージにおいて最も注目された新人アーチストまたはバンド)部門にノミネートされ(落選ですけど)、この歌 "Nuit 17 à 52"(↓)を歌ったのです。


ここに
17から22まで私たちはいた
あなたは冷たい装身具を解いて、身を横たえていた

私は
私に似つかわしくない怒りの中で
50の夜、私は血と誓いを強いた

「開いて欲しい、それを切って開いて、あなたがそこからそれを見ることができるように。」
私は今レース網のよう
私は今レース網のように雨を通してしまうの

私は
数字は忘却と戦うものだと信じている
私はもう
53の悲しい夜を憎んでいる

52の夜
あなたはとても怯えていて
吹き去ってしまった風を追い求めていた

30
その完璧な暗闇があなたの復讐だった
夜明けには地平線が傾いていた

あなたがそれを開けてほしいなら
私がそれを切って開けてやる
切り開いて、あなたが私を通してものが見えるように
私は今レース網のように雨を通してしまうの

私は
数字は忘却と戦うものだと信じている
私はもう
53の悲しい夜を憎んでいる
  ("Nuit 17 à 52")

  私はテレビを見ながら、震えが来ましたね。
 2014年6月、CAQTのファーストアルバム『Chaleur Humaine』 発表。Chaleur humaine は人のぬくもり、人間体温の暖かさのことですが、アーチストはジャケットに綴られた文章で "La chaleur humaine c'est l'adolescence"と宣言しています。若さ、青春、アドレッサンス、これが chaleur humaineであると。愛への貪欲な渇望のことであり、立ち行かぬ世界への怒りであり、煮えたぎるような手の熱さです。これをアーチストは chaleur humaine と名付けたのです。

私は貞節であるものに反対する
博愛など窮屈なばかり
燃えてもいいものにかかる氷の雨
良心の呵責によって押しとどまった噛みつき攻撃
 (... )
この少年は
私にすべてを示してくれる
指差して
裸であることの醜さを
そして微笑みながら私に Chaleur Humaineを教えてくれる
("Chaleur Humaine")

 26歳(失礼!)のアーチストは、青春の熱さ(chaleur)を追・再発見しているのでしょう。ドラァグクイーンたちと出会った時のように。アルバムは11曲。サウンドは繊細に練り上げられたエレ・ポップで、弦楽器の音色に近いエロイーズ、おっと失礼、クリスティーヌの声質によく溶け合っています。1曲だけカヴァー(それも自由翻案のカヴァー)でクリストフの「失楽園」をとりあげていますが、これも元歌の「いつか私と一緒に失楽園を探しに行きたくないか」というリフレインを削って、こういう英語詞を入れ替えています。
 Heartless, how could you be so heartless...
("Paradis Perdus")
これではまるで違う曲です。たいした根性と言いましょうか、ダンディーの美学に挑むような異種の抒情の介入です。私は好きです。
 そしてシングルになり、YouTube 100万ビューの「サン・クロード」という曲です。

とぎれとぎれの息
ご覧の通り、すべては今決まるのよ
チョークで化粧したように
すべてが調子はずれだけど、みんな好きよ、両手は真っ青よ
片一方の手首だけタットゥーがあるけど
袖で隠れてライオンの顔が変形
私の孤独のせいで
ライオンが半分しか笑っていないみたい
あなたの顔全体はもう見えないわね
あなたがよそを見ているうちに
私はあなたの横顔を齧り取って持ち去るわよ
辛い運命とくっついてるのね

Here's my station
But if you say just one word I'll stay with you

りっぱな態度
確信のような焦燥、3本紐の首飾り
あなたはきっと
カッとなったら即座に暴力、というあなたのやり方を変えないでしょうね

普通すぎてこの町は何ももたらしてくれない
ある種のきつい臭いを除いてはね
そして私はこの町が死んでるってことをよく知ってる
あなたひとりだけが野心を持っていた
あなたはそれを持って遠くに行かなければいけない
他の連中はみんな断念したのに
私は地獄をふたつばかり下っていくわよ
嵐がやってくるようにね

Here's my station
But if you say just one word I'll stay with you  ("Saint Claude")

青春の、Chaleur humaine の惜別でしょう。なんかめちゃくちゃ美しいですねぇ。
 ちょっとカミーユ(ダルメ)とヴァレリー・ルメルシエに似た容姿をしているこの26歳のアーチストは、男装をしなくてもアンドロギュノス的な佇まいがするし、よく比較される(比較してほしくない)不世出のアンドロギュノス、マイケル・ジャクソンのエッセンスはあるのでしょう。上に引いたテレラマ誌のインタヴューでは、ゲイ・カルチャーのイコンになることなど怖くない、と言っています。
 2014年夏、私が一番聴いたアルバムでした。

<<< トラックリスト >>>
1.IT
2. Saint Claude
3. Christine
4. Science Fiction
5. Paradis Perdus
6. Half Ladies
7. Chaleur Humaine
8. Narcissus is back
9. Ugly - Pretty
10. Nuit 17 à 52
11. Here

CHRISTINE & THE QUEENS "CHALEUR HUMAINE"
CD BECAUSE MUSIC BEC5161841
フランスでのリリース : 2014年6月

カストール爺の採点 : ★★★★

(↓)2014年5月30日、国営ラジオ FRANCE INTERでアルバム全曲を披露したライヴ映像。

Christine and the Queens - "Chaleur humaine... 投稿者 franceinter


 
 

2014年8月18日月曜日

フランスに捧げるサンバ

デルフィーヌ・クーラン『フランスに捧げるサンバ』
Delphine Coulin "Samba pour la France"

 2011年発表の小説で、今では「新刊」とは呼べないかもしれません。読む動機となったのは、2014年10月公開予定の映画で、エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ監督の最新作『サンバ』(主演:オマール・スィ、シャルロット・ゲンズブール)の原作であるということでした。トレダノ&ナカッシュ監督の作品は当ブログでは2008年の『テルマン・プロッシュ』と2011年の『アントゥーシャブル』について取り上げていて、地球規模で大ヒットした後者も全面的に支持していました。こういう作品を創ってしまったからには、世の人々の次作への期待は並大抵のものではないでしょう。
 そういうコンテクストでこの小説を読み始めたわけですが、読み始めからこれは何か違うのではないかと当惑してしまいます。これをトレダノ&ナカッシュがどうやって「コメディー映画」にするのか、という戸惑いです。これまでトレダノ&ナカッシュは、(社会階層的な理由、文化的な理由、世代的な理由などで)出会えそうにない異種の人間たちの邂逅と衝突と和解というストーリーを極上のコメディーとして作り上げるということをしてきたわけです。この小説を原作としてそれが可能か、という予めの疑問が読み進めるうちにどんどん深まっていきます。この時点で言っておきます。おそらくトレダノ&ナカッシュ映画『サンバ』は笑いが少なめの作品になるはずである、と。
 小説はアフリカからフランスにやってきたアフリカ人青年サンバの物語です。マリ出身のこの男は、命がけの密航を繰り返し、数度の失敗でその地獄を見ながらも、希望を失わず地中海を渡ってヨーロッパ大陸にやってきます。 パリに住む叔父のラムーナのところに身を寄せ、老朽アパルトマンの地下一階のラムーナの住居に、できるだけ目立たぬように生きています。最初の仮滞在許可証から数えて10年の日々が経ちます。「10年連続的にフランスに居住することを証明できる外国人は10年有効の居住者カード(carte de résident)を取得することができる」 ー フランスで大統領と内務大臣が代わるたびにころころ変わる移民法にあっても、この条項は手つかずだったはず。サンバは意気揚々と10年カードの申請手続きをすませたのですが、待っても待っても役所からその返事が来ない。しびれを切らして担当警察署まで出向いていったサンバは、書類不備などないのにその申請を拒否され、即座に強制送還処分を喰らい、ヴァンセンヌの不法滞在者収容センターに収監されてしまいます。
 状況背景の説明が必要です。ニコラ・サルコジ(2005年〜2007年内務大臣、2007年〜2012年大統領)は選択的移民政策(つまり職種などを限定して必要な移民だけ選んで導入する)を打ち出し、不必要な移民(特にサン・パピエと呼ばれる「不法滞在者」)の出身国への強制送還の件数を目標数字(2005年には2万、年々増えて、サルコジ大統領在位最終年の2012年には4万)を示して遂行するということになりました。普通の企業のように、サルコジ下の警察は何が何でも目標達成という仕事を余儀なくされ(達成しなければ降格・左遷なのですから)、この不法移民強制送還の数字達成は、往々にして(もの言わぬ)移民という弱い立場を強引かつ理不尽に悪用してしか実現不可能なのでした。このサンバの例も、珍しいことではなく、理由なく国外追放される外国人がたくさんいました。
 このような不当な「移民狩り」に抗議し、移民たちの人権を守るために活動している市民団体のひとつが CIMADE(シマド Comité Inter Mouvements Auprès des Evacués避難民擁護運動連絡委員会)で、この小説の話者「私」はこのシマドのボランティアとして活動していて、そのサン・パピエ支援活動の中で「私」はヴァンセンヌ収容センターでサンバに出会っています(冒頭で述べたトレダノ+ナカッシュ映画『サンバ』では、このボランティア女性アリスの役をシャルロット・ゲンズブールが演じています)。
 枝葉末節ですが、そのイントロで彼女は交際していた男性と破局していて、それが彼が2007年大統領選挙でサルコジに投票するという言葉を聞いたから、ということになっています。2007年頃というのは、それまで信じられていた人道的な価値観というのが、サルコジという政治アニマルの天下取りで説得力を失ってしまい、「移民=社会悪」というロジックが多数派に通用するようになった時期です。当然サン・パピエ支援活動など、ごく少数派の運動と見なされるようになっていたのです。
 小説はその前史のようにサンバがマリを出発して、砂漠を北上してアルジェリアに入り、モロッコからスペインという欧州共同体(EU)の入口にたどり着くまでの、たくさんの死にゆく同行者たちを見ながらの極端に悲惨な密航のディテールが記述されていますが、フランスにたどり着いたことがすべてを解決してくれるわけではない。むしろその前史よりも不条理で不可解で過酷なことがフランスで始まってしまうのです。上に述べた「10年カード申請」が移民減らしのためのワナになっていることや、収容センターでの人権ゼロの拘置状態など、小説では多くの行数を割いてリアルに描写されています。たとえば収容センターで強制送還を拒否するトルコ人が最後の抵抗でカミソリを飲み込むシーンなど。
 人権宣言の発祥国にありながら、移民たちの人権ははげしく踏みにじられているわけですが、それを暴露・告発するだけでは文学作品になりません。デルフィーヌ・クーランはその罠にはまることなく、サンバという30代のアフリカ青年がどういう奮闘をして、希望を常に失わないでいられるか、という試練・苦行・求道のようなストーリーを持ってきます。
 なんとか収容センターから釈放されたサンバですが、それからは文字通りのサン・パピエ(滞在許可証を持たぬ者)となって隠れて生きなければなりません。隠れるとは警察による身分証明コントロールを逃れるということに他なりませんが、叔父ラムーナは身なりや生活素行によって社会に溶け込みカムフラージュするテクニックを伝授します。いかに目立たなく生きるか、ということです。町の風景の一部として透明になっていく。しかもアクティヴであり続けながら。なぜならサンバは金を稼いて叔父ラムーナとシェアする家賃を払わなければならないし、自分の生活費を出しマリの家族への仕送りもしなければならない。ここでサンバはモグリ労働(フランス語では travail au noir = 闇労働)をするわけではありません。他人の身分証明書(滞在・労働許可書)を持っていき、その人間になりすまして「正規労働」をするわけです。建築工事、選別ゴミ処理場の選別係、高層ビルのガラス拭き、低賃金で危険で人が嫌がる仕事はいくらでもあり、サンバはそこに自分の身分を偽って職を得て、ボロボロになって働いてわずかな賃金を得ます。
 叔父が教えてくれた目立たずに生きるという処世術の延長のように、サンバは他人の身分を働くことで、自分のアイデンティティーをどんどん希薄にしていきます。叔父ラムーナの身分証明書を使い、次いで建築現場の監督(黒人)の身分証明書を盗み出して使い、最後には酔った末の口論の挙げ句冬の運河に落ちて死んだ親友ジョナスの身分証明書を身につけて生き続けるのです。そんなふうにサンバはサンバでなくなっても、生きていかなくてはいけないのか。
 登場する人物たちはどれも複雑ですが、人間的な濃さがあります。叔父のラムーナは貧乏でこそあれダンディーであり、食通であり、哲学が薫ります。高層ビルのガラス拭きでペアを組むようになって親友となった南米(コロンビア)人ウィルソンは、ここがダメなら別のところへ、というノマド的楽天主義があります。アフリカからの密航の時にサンバと生死を共にしたジョナスは、理想が高いのかここでの生活に不満が絶えず、我慢強く穏健なサンバとやがて対立するようになります。その対立の大きな原因でもあるジョナスの(元)恋人グラシューズは、バルベス(パリ18区)で美容院を営みながら、サン・パピエのために無償の食事をふるまう力強い天使型の女性。サンバは親友の恋人と知りながら、この女性に恋い焦がれてしまいます。そして最も魅力的な人物はジョルジェットと名乗るフランス人老女で、彼女はスーパーマーケットのゴミ箱から賞味期限切れの食品を集めてきて、ベルヴィル(パリ20区)の路上市で市価の半値で売っていますが、特に生活に困っているわけではなく、少ない受給年金の足しに、と趣味でやっているのです。この小銭稼ぎの方法をサンバはこの老女から教わり、下町気質で乱暴な言葉使いのジョルジェットと奇妙な友情を培っていきます。読む者はこの女性に(今ななき)古いフランスの人情とレジスタンス魂のようなものを感じるはずです。
 このパリ下町に隠れて生きるサン・パピエ群像を作者はすばらしい筆致で描き出します。そしてデルフィーヌ・クーランは、空飛ぶ渡り鳥の視点からこの現象を表現する文をインターリュードとして挿入します。空を渡る鳥、海を渡る蝶、食べ物を求めて季節に追われて大移動する動物たち、これらを自然は止めることができないのです。人間たちはその自然の一部なのです。大きな自然の流れに従って、私たちも動いているのです。
 
 不満だらけの男ジョナス、グラシューズとカップルであるジョナス、サンバの友情に翳りが出始めているジョナス、この男にある日(ほとんどあきらめかけていた頃に)滞在許可が出ます。仲間たちが集まって、ジョナスの祝いの席が設けられます。依然サン・パピエのままであるサンバは嫉妬の情を隠して、一緒にこの祝いの酒を飲みます。杯を重ねる毎にサンバとジョナスの間のテンションが高まっていきます。二人は夜の街をさまよい、あと一軒、もうあと一軒とアルコール度を極限まで増やしていきます。人に言えぬ過去のこと、グラシューズとのこと、ジョナスは溜まりに溜ったことを一挙にサンバにぶちまけます。冬の運河ベリ、二人の激しく興奮した口論は、警察のサイレンを呼び、ジョナスは氷点近い水温の運河に転落し...。

 ディテールはもう書きませんが、サンバはこうして生き残っていくのです。ジョナス・ビロンボという名前になって。フランスの移民政策が巻き起こした悲劇、などという次元の読み方は全くできなくなります。この結末でもアイデンティティーは完全に消滅してしまわないのです。「サンバ!」と叫べば、それは自分のことであっても、周りの人たちは「こいつはブラジルのダンスを踊りたいんだな」という程度のことしか思わないのだから。強烈な最終ページでした。

カストール爺の採点:★★★☆☆

DELPHINE COULIN "SAMBA POUR LA FRANCE"
スイユ刊 2011年 306ページ 19ユーロ 
 
(↓)デルフィーヌ・クーラン、TV5(2011年2月)で自著『フランスに捧げるサンバ』を語る。