2010年8月30日月曜日

ああ!(モールス信号ではアーケード通行,アーケード通行)



 8月29日,今年も妻子を連れて川向こうのロックフェスRock en Seineに行ってきました。4年前初めて娘をこの巨大野外フェスに連れて行った時は,娘はまだ小さくて,大轟音と行儀の悪い若い衆たちに巻き込まれるのはどうしたものか,と心配したものですが,この写真(←)のように,こんなに大きくなってしまったので,来年はもうおとやんおかやんとは一緒に行かない,ダチたちと一緒に行く,と言い出す始末。なぜならおとやんとおかやんは折り畳み椅子持ってきて,ステージから遠いところで「座って見よう」という年寄りな態度ですが,娘は最前列に行ってガシガシ飛び跳ねたいというロックな少女になってしまったからなんですね(既に去年からサン・ジェルマン島のM6ライヴなどで,コピーヌたちと最前列でもみくちゃになることを体験済み)。娘の成長に目を細める一瞬です。
 天気予報では空模様は変わりやすく,宵には雨とのことでしたが,気温は最高でも20度前後までしか昇らないと言い,私たちもかなりの重装備で行きました。この写真は午後5時15分から組まれていたウェイン・ベックフォードのショーの時に撮ったものですが,こんな風に灰色の空で,周りの人たちもこんな風な厚着で。寒々。
 実は私と娘はそれぞれデジカメを持っていったのですが,現地に着いて,その二つとも「電池残量がありません」の表示が出て来ることを知ったのでした。昔の観光地みたいにフィルムと乾電池を売ってる売店などあるわけもなし。私も娘もほとんどお写真することができなかったのでした。かろうじて娘のケータイでちょっとだけ。

 当日最初のライヴは2時半から始まってましたが,私らの現地到着は午後4時頃で,右図マップの(A) GRANDE SCENEに急行,イールズを。これがイールズか。急遽プログラム変更でZZトップが代替え出演したのかと思いましたよ。うぁあオールドスクール。3曲めでラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティー」なんて気持ち良さそうにカヴァーしちゃうもんだから,当日の天候に不調和はなはだし。折り畳み椅子を畳んで,右図マップを左端から右端まで急いで移動して,(C) SCENE DE L'INDUSTRIEアイアム・アン・シアン!!へ。
なんて美しいジャンプをする子なのだ,ダヴィッドは!キメがいちいちバシバシに決まる轟音エレクトロ・ロックで,こういう大ステージでなければ決まらない,アクロバティックなジャンプを連発大サービスで,この煽動に大揺れの人並み。小さいクラブだったらどうするんだろうか。こういう惜しみないエネルギーとサービス精神というのは野外でこそ,と思いましたね。いやあ,爺の奥様も首大振りしてましたからね。
 次いで隣の(B)SCENE DE LA CASCADEウェイン・ベックフォードを。ジャマイカ・オリジンの米ソウルマンで,ブラック・アイド・ピーズやアウトキャストに曲書いてた人。何でもできる人でR&B,レゲエ,スカ,サッカースタジアムでおなじみ「セヴン・ネイション・アーミー」や,キンクス「ユー・リアリー・ガット・ミー」までやっちゃって,すごいエンターテイナーなのに,器用なカラオケ歌手と変わんないじゃん,という気にも。
 6時から(A) GRANDE SCENEベイルートを,と移動しかけたところで,女性軍からトイレストップのリクエストあり。これが野外フェスの最大の難点ですよね。男どもは(みんなやってるから)そこらへんいたるところで立ちションで,周囲の林はフェス3日めともなるとかなり嫌な臭い。女性たちは長蛇の列でトイレ待ちしますが,30分待ちなんてザラですから。このロスタイムで,6時台のショーはすべてあきらめて,食事休憩にして,娘と爺はオーヴェルニュ地方名産のアリゴ(ポテト・ピューレにチーズを溶かし込んだ,つきたて餅状の食べ物)とオーヴェルニュの焼きソーセージを,爺の奥様はテックスメックス屋でファジタスを買って,野外テーブルで食べましたが...今年はどれもこれも全然美味しくなかったのでした。
 雲ゆきはさらにおかしく,特に風が強くなってきた8時頃,(A) GRANDE SCENEで,娘の最大のお目当てのザ・ティング・ティングスを。 (↑)人様の撮った動画(from YouTube)ですが,いやあ....こんな大ステージを二人だけで(曲によってはホーン隊がつけましたけど)。ポップの鑑ですね。この動画で見えますか?この時かなり強い砂混じりの風が吹いてて,ケイティー嬢はかなりつらそうだったんですよ。
 8時45分から(B)SCENE DE LA CASCADEロクシー・ミュージックだったんですが,爺たちは9時過ぎてからの到着で,前半見逃しました。私はもっとこじんまりした編成を期待してましたが,コーラス嬢4人を含む十数人編成で,水増しピンク・フロイドみたいな感じも。特にフィル・マンザネラのギターソロと女性コーラスがからむインスト部分では,デイヴ・ギルモアのフロイドショーみたいになっちゃいますね。アンディー・マッケイ(サックス)は来ましたが,予告メンバーのポール・トンプソン(ドラムス)は来なくて,アンディー・ニューマークが叩いてました。ブライアン・フェリー65歳はフランス語しゃべるし,ショーマンだし,私の周りの中年たちはかなり盛り上がってて,"Love is the drug"とか"Let's stick together"とか大唱和してました。いいねえ,年寄り向きのロックフェス。ラストナンバーは「ジェラス・ガイ」でした。ブライアン・フェリーは口笛音痴(↓ これも人様の撮った YouTubeです)。


 最後の最後,大トリ。午後10時ぴったりに始まった(A) GRANDE SCENEアーケイド・ファイア。爺は出たばかりのサードアルバムしか持っていないのだけれど,すごく深く重いCDに聞こえました。こういうのが米チャートと英チャートで1位になるんですね。門外漢なので,こういうCD聞く人たちって暗めなんじゃないか,と思ってましたら,自分の周りを見回したら娘と変わらないような子たちばかりで...。すごい人の数。かなり密度が濃くって,去年同じ場所で見たMGMTの時を上回る感じ。重層な音楽なのにステージ上の7人が右左に動き回って,さまざまな楽器を持って奮闘してるんですね。「動的なメランコリー」そんな言葉が頭に浮かんだりして。その動的な部分でオーディエンスは大揺れになるんですね。ファンとミュージシャンたちが一緒になって大オーケストラを構成している感じで,それをウィン・バトラーが指揮しているような。ウィンのパートナーのレジーヌはハイチの血が流れる女性で,フランス語でコミュニケートします。そして,40分後頃でしょうか,にっくき雨が,これまで我慢していたみたいな勢いで激しく降ってきます。その上風向きが悪く,その激しい雨はステージを直撃し,ミュージシャンもステージも楽器も水浸しになります。コンサートは中断,雨が弱くなったらまた演るから,とウィンが言うのですが,雨はどんどん激しくなるばかり。しばらくしてレジーヌがマイクを取り,フランス語で「ごめんなさい,雨で電子機器に障害が出ちゃったの,でも私たちは続けたいのよ」と言いました。
 ここで爺たちは雨具を身にまとい,多くの周りの人たちと同じように,激しい雨の中を出口に向かって移動し始めたのです。最後に雨だったけど,すごくいいコンサートだったね,などなどとみんな口にしながら,不満の声など全く聞こえなかったのです。妻子にも,ああ,これで夏が終わっちゃったね,来年もまた来ようね,なんてオセンチなこと言いながら,爺たちは川を渡って自宅に帰ったのでした....。
 ところが,家に帰ってパソコンつけたら,Twitterで「まだやってる」なんて書き込む人たちがいて...。後で知った,われわれ帰宅後に演奏されたアーケイド・ファイアの豪雨の中での"Wake up"のアコースティック・ヴァージョンが Dailymotionに載りました。

Arcade Fire - Wake Up (Rock en Seine)

 爺たちはこのエモーションを共有できなかったのです。悔しい。ああ!

2010年8月24日火曜日

サン・パピエ支援コンサート



 長い間書きたいと思っていたアーチストだったので,ジャック・イジュランの原稿は楽しく書けました。10月号は音楽と関係を保ちながらも,2010年夏のフランス政府による「ロマ狩り」について書こうと思っています。ちょっとテンションが上がってしまうかもしれません。7月末,サルコジの鶴の一声で,フランスにある旅の民たちの「無許可/不法キャンプ地」300カ所を年内に強制解体し,外国籍者(ルーマニア人ロマ等)は出身国に送還することが決められ,内務大臣オルトフーの指揮下,8月だけで40カ所以上のキャンプ地が機動隊によって解体されました。野党,人権団体,国連,米国紙ニューヨーク・タイムズなどが一斉にこの非人道性を指摘し,移民および少数民族に対する弾圧を強化することによって国家の安全が保たれるというサルコジの保全第一主義を批判しました。その声を一切無視して強制執行を続行するフランス政府に,批判の声はさらも高まり,あるキリスト教聖職者は国から与えられた勲章を突き返して抗議し,キリスト教的隣人愛を伝統として持っていた国の急激な排斥主義化を嘆きました。バチカン/ローマ法王庁もベネディクト16世自身がフランス語で少数民族保護をフランス政府に訴えました。今や,サルコジ支持層内部にもこの「ロマ狩り」を懸念する声が上がり始めました。

 あれもこれも一緒にしてはいけないので,「ロマ」件は別の場所で書き続けますが,サルコジの移民政策がもたらした大きな問題のひとつが,この「サン・パピエ」(パピエのない者。すなわち滞在許可を持たぬ外国人労働者)です。簡単に「不法就労者」と決めつけてはいけません。彼らの大部分は正式の雇用契約があり,大手建設会社や公営企業(地下鉄,国鉄,空港公団等)の請け負い企業が,労働力不足で正規契約だけでは到底請け負えないので,多くをこの外国人労働者たちに頼らざるをえません。彼らは正式に給料をもらい,源泉徴収され,収入を申告してフランスで税金を払っています。しかし彼らには滞在許可(パピエ)がないために,社会保障も受けられず,警察の目を恐れながら隠れて生きています。フランスの社会はこれらの労働力を必要としているにも関わらず,彼らに滞在許可(パピエ)を与えて合法化することをせず,逆に彼らを逮捕し,出身国に強制送還するという脅迫をしながら,この非合法状態を長引かせ,隠れた奴隷状態を利用して工事費を安く上げ,大企業に貢献している部分があります。闇労働ですから,会社によっては劣悪な労働条件を強いるところもあります。それだけでなく,病気になった時に保険がないために医者に行けず,子供たちは警察の目が怖くて学校にも行けません。実際に警察が教室に押し入り,サン・パピエの子供を逮捕し,その結果呼び出した親共々,家族全員を強制送還したケースもあります。市民団体や学校教師たちがネットワークを作り,サン・パピエの子供たちに危害が及ばないよう監視していますが,油断できません。
 冗談じゃない。サン・パピエたちは立ち上がりました。自分たちが逮捕され,強制送還されるという危険を冒してでも,この状態に我慢がならなくなったのです。労働組合が役所に対して立ち上がったすべてのサン・パピエたちの滞在の特別許可(レギュラリザシオン=正常化,合法化)を申請します。担当大臣(ベッソン移民相)はグローバルな大量許可は絶対にしないとしながらも,申請はケース・バイ・ケースで全件審査すると言いました。これが遅々として進まないのです。サン・パピエたちの中には正常化されるまで請け負い労働はしない,とストライキを敢行する者もいます。
 昨年冬から続いているサン・パピエたちの闘いは,解決を見ないまま,新聞雑誌メディアが言わなくなったために人々から忘れ去られつつあります。それではいけない,とアーチストたちが声を上げたのです。
 このコンサートは5月末に企画され,ロック,ポップ,ラップ,ヴァリエテ系のアーチストたちが集り,パリ市(パリに左翼の市長がいるのは伊達ではない,ということです)が後援して,9月18日にベルシー総合室内運動場(8000人収容)で開かれます。アブダル・マリック,カリ,ジャンヌ・シェラル,クラリカ,テット・レッド,ヴァンパス,アニェス・ジャウイ...今月の原稿で書いたジャック・イジュランもいます。そして,最新ニュースでは,ジェーン・バーキンが「ラ・ジャヴァネーズ」をアカペラで歌うことになったそうです。

→がコンサート「ロック・サン・パピエ」のロゴマークです。工事中の人間を蹴飛ばして,飛行機で強制送還するという図です。
  このコンサートに2週間先立つ9月4日,ジェーン・バーキン,アニェス・ジャウイ,クラリカ,ジャンヌ・シャラル等の女性アーチストたちだけが集り,移民省建物の前で,ゲンズブール作の歌「レ・プチ・パピエ (les p'tits papier)」を歌います。この歌は1965年にゲンズブールがレジーヌのために書いた歌ですが,当のレジーヌもこのアーチストたちに混じって歌います。「小さな紙切れ」という歌が,人間がこの地で自由に生きていくためにどれだけ意味があるか,という抗議の歌に変わったのは,1999年に小さなNGO団体GISTI(移民支援情報グループ)が開いたコンサートと支援CD録音のために集ったノワール・デジール,ジャンヌ・バリバール,ファムーズ・T,ロドルフ・ビュルジェ,KDD,フランス・カルティニー等が歌った「レ・プチ・パピエ」以来なんですね。↓はその時のクリップです。これがもう今から10年前とは...。


< PS : 9月4日 >
In Jane B, we trust. ジェーン・バーキン、レジーヌ、アニエス・ジャウイ、ジャンヌ・シェラル等が、9月4日、移民担当省の建物の下でゲンズブール作「レ・プチ・パピエ」を歌いました。この曲のオリジナルを歌ったレジーヌは、ニコラ・サルコジと親しい交友関係にあった人で、2007年の大統領選にも積極的にサルコジを支持する側におりました。しかし、この夏の「ロマ狩り」が始まるや、サルコジの移民政策に賛同できなくなり、こうしてバーキン等の反対派と共に歌うことになったのです。これは象徴的な事件です。

2010年8月20日金曜日

Rentrée littéraire



Michel Houellebecq "La Carte et le Territoire"
ミッシェル・ウーエルベック『地図と領土』

 フランスでの書店売り開始が9月8日です。
 必ずここで紹介しますから、9月15日頃、のぞきに来てください。

2010年8月15日日曜日

「La Peau(皮膚)」制作委員会



アソシアシオン・プール・ラ・ポー
「La Peau(皮膚)」制作委員会

●設立目的:皮膚ガン研究の援助

●団体概要:皮膚ガン研究と患者看護を援助するための非営利団体
●具体的活動:ミュージシャン,アクター,作詞作曲家などのアーチストたちを結集して、「皮膚」をテーマにしたアルバムを制作すること。アルバムのタイトルは「La Peau(皮膚)」。


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 皆さん,こんにちわ。

 私の名前はマチュー・バレーと言います。

 皆さんの中には、コンサートの会場や録音スタジオなどで私と出会う機会があって,私のことを知っている人たちがいるかもしれません。
 私のことを知らない人たちのために自己紹介しますと,私はミュージシャン,編曲家,プロデューサーです。80年代にはオルタナティヴ系のさまざまなロックバンドで演奏し、ウイ・ウイ(Oui Oui)のメンバーでした。次いで私はミオセック,トマ・フェルセン,バシュング,メルジン,アレクシ・アシュカ,フィリップ・デクーフレといった様々な人たちと仕事しました。そして私が今日もその仕事を続けているのは言うまでもありません。

 今日,私は私を見舞ったひとつの問題について皆さんにお話ししたいのです。それはあなたたちにも関係したことなのですが,多くの人たちがごく普通に耳にする機会があるにも関わらず,実際はまだまだよく知られていないことなのです。

 ガンはひとつの病禍であり,この病禍の増幅はとどまることを知りません。確かにその治療法は日々改善されていますし、それに罹ったからと言って必然的に死ぬということはなくなりましたし、医学の進歩は確実によい結果を残しています。しかしそれにも関わらず,ガンの件数増大は止まらず,より多くの人々を襲い,より若い人たちを襲い,医学はその治療と研究のための方策が著しく不足しているのが現状です。

 私は皮膚ガンに冒されています。それにはいくつかの種類がありますが、転移質の黒色腫が最も悪質なガン腫です。このガンには化学療法や放射線療法は通用せず、治療法はガン腫の摘出手術のみです。免疫療法は再発を予防出来るのですが,それでもガンは再発し,増幅し、他の器官に転移する可能性があります。

 私はその手術を受け,顔の一部を切去しました。あらゆる闘病者にとってそれは同じことかも知れませんが,私にとってもそれは堪えていかなければならない試練でしたし,極めて過酷な段階でもありました...。それを経て、戦いたい、生き続けたい、という渇望が私に再び沸き上がってきました。そして「何かをしたい」それも有益な何かをしたいという望みも。例えばこの病気について語ること、それを抑止しようと必死になって戦っている人たちのことを語ること...。それは私ひとりのためだけにするのではだめだ。それは私ひとりでするのではだめだ。

 私が考えたのは「皮膚」に関するアルバムを作ることです。
 音楽家や役者たちが皮膚について表現する。
 それはオリジナルの音楽を使う。
 それは皮膚について私たちに語りかけるオリジナルのテクストを使う。

 このアルバムのタイトルは「LA PEAU (皮膚)」となります。

 私自身が音楽制作の総合指揮を取り、音楽的/技術的な部分を統括します。そして私の協力者で、女優/舞台監督のリーズ・マレーがテクスト/台本と演出を担当します。幾人かのアーチストたちが既に私たちの闘いのために名乗りを上げています。

 このアルバムの宣伝普及と、このプロジェクトをメディア媒体で紹介するため、そして医学界に直接この効果を還元するために、私たちは様々なパートナーの協力を得るでしょう。

 私が今日、あなたたちに呼びかけているのは、あなたたちの才能とノウハウとあなたたちの持つリレーションシップでもって、私たちに合流して、このプロジェクトを一緒に成功させよう、ということです。

 もはや一切の悲しみもありません。私にはこの現在と、この活動と、ひとつの人生を、そして多くの人生をこんなふうに終わらせたくない、という望みしかありません。

(署名)マチュー・バレー (Matthieu Ballet)





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 (カストール爺記)
  友人でミュージシャンのマチュー・バレーがFacebook上で設立した Association pour la peauのマニフェストをそのまま訳しました。


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追記 8月25日

 8月25日 マチュー・バレーからの回覧
 「プロジェクトは急速に進展しています。以下の音楽アーチスト、俳優、著述家たちが既に参画の意志表示をしています : ドミニク・ア、ジャック・デュヴァル、グラン・トゥーリスム、エマニュエル・テュニー、ミオセック、ザ・マイクロノーツ、アレクシ・アシュカ、ジョゼフ・ラカイユ。ラジオ/新聞雑誌等メディアの支援者も現れています。
 もちろん私たちはもっとたくさんの人々の参加を待っていますが、私たちを支援してくれているあなたたちは、この情報をシェアし、周囲に伝えてください。
 ありがとう。  (署名:マチュー・バレー) 」
 

2010年8月14日土曜日

「Aïoli ! 」を日本に適合するあいさつにすれば...

 私は今までずっとこの Aïoliを「アイオリ」とカタカナ表記してきたのですが、日本では「アヨリ」という方が通っているかもしれません。どうも"ï"の上についたトレマ記号(上のテンテン)が気になって「イ」を強調しなければならないように思って「アイオリ」としていたのですが、発音記号通りにカタカナ表記すると「アヨーリ」が近いかもしれません。マッシリア・サウンド・システムのライヴ盤などでコールされる "Aïoli!"は「アィヨーリ!」と聞こえます。
 アヨリは南仏プロヴァンス地方の、ニンニクとオリーヴ油入りのマヨネーズで、ブイヤベースに欠かせない調味料で、そのまま生野菜スティックなどのサラダソースにも使えます。パスティス酒、ブイヤベース、アイオリはガストロノミック・マルセイユの三大名物と言えましょう。1980年代からマルセイユを拠点に活動しているレゲエ/ラガマフィン・バンドのマッシリア・サウンド・システムは、この香り高きマヨネーズをそのレゲエ世界に取り込み、ジャマイカンのポジティヴな形容詞「アイリー! Irie!」(ゴキゲン、最高、気持ち良い)をもじって、「アィヨーリ! Aïoli!」を「ハッピーかい?/ハッピーだぜ!」のあいさつ言葉/かけ声に採用し、マッシリア親衛隊(マッシリア・シュールモ)などを通してたちまちのうちにマルセイユで最高にゴキゲンのあいさつ言葉として定着したのでした。
 マルセイユ的アイデンティティーとレゲエ的ユニヴァーサリティーを見事に結びつけたこの素敵な「アィヨーリ!」は、マッシリアが行くあらゆるところでファンたちのゴキゲンなフィーリングを伝える言葉になりました。「ハッピー!」、「クール!」、「シュペール!」などとは違う、彼らの歓喜を表現する「アィヨーリ!」は他の言葉で置き換えられるものではないでしょうが、なんとか私たちでもそれに似たものができないかしら、というのが本稿の課題です。
 この夏6月からマルセイユに滞在して、マッシリア、ラ・タルヴェーロ、ジジ・デ・ニッサ、ムッスーT&レイ・ジューヴェンなどが出演した南仏各地のフェスティヴァルを精力的に見て回っているおきよしさんは、マッシリアを初め多くのアーチストとその周辺の人たちと交流されていて、その様子は彼女のFacebook を通してうかがうことができます。その中でおきよしさんは、「アィヨーリ!」を大胆に日本語化して「Nin ni ku! ニンニク!」とマルセイユ人に応答しています。「アィヨーリって日本語でどう言うの?」と聞かれたら、「ニンニク!」と答えているんでしょう。これがこの夏だけで、マルセイユのある種の人々が「Nin ni ku!」とあいさつし始めちゃってる現象もあるようです。なにしろマッシリアのムッスーT、タトゥーですら、おきよしさんの教えで「Nin ni ku!」って言っちゃってますから。

 で、私は「アィヨーリ!」を「ニンニク!」とするのに、ちょっと躊躇しちゃったのです。もうちょっと工夫できないかな、と。「ニンニーク!」と言うと、「タ・メール!」と返ってくるんじゃないかな、と。(解説しますと、nin nique!と聞こえる可能性があり、niqueは俗語動詞 niquer = ニケ、すなわち「やる、ファックする」の命令形、すなわち関西弁表現の「やてまえ、いてこませ」に聞こえるんじゃないか、そうすると NTM で知られるかの表現 nique ta mèreニク・タ・メール にも連鎖し、非常にマザファカなニュアンスが現出してしまうのではないか、と)。
 「ニンニク」はフランス人には言いづらいと思います。直訳のフランス語は"l'ail"(ライユ。定冠詞"l'"をとると、アイユ)がニンニクに相当します。アイユとオリーヴ油が入ったマヨネーズ、これが「アイユ+オリ」=「アヨーリ」です。こういうなめらかな音感で、かつスパイシーで「南」風な雰囲気が伝えられ、日本にも通用する言葉がないか、と私は考えたのです。案は二つあります。


< 1 > Mayo !
 既に日本語として定着しているマヨネーズの短縮形「Mayo」。これを「マヨっ!」って言うんじゃなくて、「マィヨっ!」と発音する。イントネーション的には関西の「まいどっ!」と同じ抑揚をつける。「ま、いいよ」というダレた感じを避ける。短く歯切れよくに「マィヨっ!」と言い切る。そうすると、知っているムキにはフランス一周自転車レース、トゥール・ド・フランスでおなじみのレースリーダーが着る「マイヨ・ジョーヌ Maillot jaune」なんかも連想され、そこはかとないフランスっぽさが醸し出される。関西〜広島の風土で育ったお好み焼きにつきものの「マィヨっ!」、大阪の日常あいさつ「まいど」に近い「マィヨっ!」、フランス風な味覚とスポーツを連想させる「マィヨっ!」 --- これを「アィヨーリ!」の日本版として採用していただけないでしょうか? 
 弱点はややスパイシーさに欠けるところでしょうか。


< 2 > La-Yu ! 
辣油。「ラーユー!」。なんと言っても発音が"L'ail"(ライユ = にんにく)によく似ています。ニンニクは入っていなくても鷹の爪の辛さが激烈にスパイシー。中華文化としてではなく、日本の食文化として欧米世界に大人気を獲得しつつあるラーメンに伴って、これからフランスでも認知度が高まるでしょう。また2000年代以降、沖縄ラー油、石垣島ラー油、久米島ラー油など、日本に固有のラー油人気の上昇もあり、南方ジャパンのオリジナル・チリペパー・オイルという位置づけも、南方フランスと連帯するあいさつ言葉にふさわしいのではないでしょうか。「アィヨーリ!」と「ラーユー!」、どことなく発音も近いですし。
 弱点はマヨネーズともニンニクとも関係ないところでしょうか。

 やっぱり「アィヨーリ!」は日本でもそのまま「アィヨーリ!」で通すのが一番でしょうか?
 昔の日本の人はこんなことも言ってました「青はアィヨーリいでてアィヨーリ青し」。



(↓)マッシリアのガリのあいさつの最初と最後の「アィヨーリ!」を参照ください。