2022年12月28日水曜日

2022年のアルバム 昨日は過去だ 今日こそが真実だ

Arno "Opex"
アルノー『オペックス』

ルギーの人。フランス語、英語、フランドル語で歌う訥弁のロッカー。2022年4月23日、72歳膵臓ガンで命を落とした。ウィキペディアによると、膵臓ガンと診断されたのは2019年11月。コロナ禍もぶつかって、コンサートが難しい時期だったが、それでも体調理由の連続キャンセルののち、2020年、2021年と何度かステージに立った。2021年5月、リール出身の(SCHなどラップアーチストとの共演共作で近年破竹の勢いで目立っている)ピアニスト、ソフィアン・パマールとの「ピアノ&ヴォーカル」アルバム"Vivre"(アルノー自身の40年のレパートリーから14曲を選びピアノ&ヴォーカルでカヴァー)をリリース(アルバム『オペックス』の9曲めソフィアン・パマールとの共演”Court-circuit dans mon esprit"はその時の録音)。そしてこの『オペックス』は、2021年秋から2022年春にかけての制作とされている。いよいよ死が迫っていて「声」が失われつつあるとの自覚から、スタジオでは極力話すことを控えて「声」を温存し、ヴォーカルトラックをすべてワンテイクで録った。
 アルバム第1曲めの"La Vérité (真実)"で、プログラマー/共同作曲者として初めて息子のフェリックスが録音に加わった。長年の相棒のベーシスト、ミルコ・バノヴィッチ(Mirko Banovic、本アルバムのプロデューサーでもある)が、ベルギーのインターネットメディア "7 sur 7"に語ったところによると、アルノーは息子フェリックスと仕事したくて何年も前から頼んでいたのに、フェリックスは親父の音楽を全く評価しておらず、ずっと果たせずにいた。反逆(rebel レブル)の父親から生まれた子供もまた反逆だったというわけだが、最後の録音についにつきあってくれた。アルノーは録りのあと一番最初にフェリックスに意見を求め、フェリックスがOKを出せば、制作スタッフに出来上がりを聞かせるという、自慢の息子との(最初で最後の)仕事にいたく満足だったそうだ。(家族ではフェリックスの他に、弟のピーターがサックスで参加している。)


俺は風と結婚するんだ
太陽を愛人にして
雲と一緒にフレンチ・カンカンを踊るんだ
でも金曜日にはタンゴを踊るんだ、タンゴ・サンバさ
昨日は過去だ、今日こそが真実だ
昨日は過去だ、今日こそが真実だ
過去にキスしてやろう、もうそれは存在しないんだから
今日生きてることがもっと大切なんだ
昨日は過去だ、今日こそが真実だ
昨日は過去だ、今日こそが真実だ
過去にキスしてやろう、もうそれは存在しないんだから
昨日は過去だ、今日こそが真実だ
昨日は過去だ、今日こそが真実だ
昨日は過去だ、今日こそが真実だ
昨日は過去だ、今日こそが真実だ

わおっ。最初から何という歌なのだ。昨日は過去だ、今日こそが真実だ。生きている今日がもっと大切なんだ。 ー 真実すぎて、胸が苦しくなる。アルノーはそうやって生きて、そうやって死んだのか。昨日は過去だ。
 アルバムタイトルの「オペックス」とは、アルノーが生まれた北海のリゾート地オステンドの東側にある街区の名前で、アルノーの両親もそこで育ち、母方の祖父が労働者階級の常連たちに愛され親しまれたカフェ「ルル亭」を営んでいた。その祖父の隠された愛人のことを歌ったメランコリックなバラードが6曲め”Mon grand-père"(俺の祖父)である。

彼にはもうひとりの女がいて
ミケランジェロの彫刻にもないような美しさで
ミス・アメリカよりももっときれいなんだ

あの女は身ぎれいで
イエス・キリストの母親のような佇まいだった

俺は祖父の愛人の娘と出会ったようなんだ
俺は祖父の愛人の娘と出会ったと思う

あの女は俺のことをチンケな客のように
あしらったことなど一度もない
それにあの女が濡れている時は
いつも真実を語ってくれたんだ

俺は祖父の愛人の娘と出会ったようなんだ
俺は祖父の愛人の娘と出会ったと思う

そして人生はもともとタダで始まったんだ
残りの人生を生きるために
そしてそれぞれの人生にはそれぞれの物語がある
他人に語られる分には

その肉体の美しさで
あの女は世界中どこでも
大地震を起こさせることができるさ

俺は祖父の愛人の娘と出会ったようなんだ
俺は祖父の愛人の娘と出会ったと思う

2分17秒めから、アルノーのブルースハープが鳴る。切なくも慈愛を感じる音色だ。美しい女はたとえ人目を忍ぶ出会いでも、人生のようにいつくしむ理由がある。旧時代の男の勝手なリクツと言わば言え。愛することに言い訳はいらない。C'est comme ça。

 10曲中、最も話題になり、奇異にも思われたトラックが、5曲めのミレイユ・マチューとのデュエット「ラ・パロマ (La paloma adieu)」である。原曲は1863年にスペイン(バスク)人セバスチアン・イラディエルが作曲したハバネラ曲で20世紀に地球規模のスタンダードとなって親しまれるようになった。仏語版ウィキペディアによると、ギネス記録として世界で最も録音された回数の多い曲が「イエスタデイ」(ビートルズ)の1600回となっているものの、「ラ・パロマ」は知られているものだけでも2000回を超えるとされている。ミレイユ・マチューによる録音"La paloma adieu"は1973年に発表され、フランス国内で40万枚を売り、すでに国際的スターであったマチューはドイツ語とスペイン語と英語でもレコード化している。長年のミレイユ・マチューのファンだったというアルノーが、初めてこの曲をカヴァーしたのは1991年のアルバム "Charles et les Lulus"の13曲め"La Paloma"だった。1997年のライヴ盤”En concert (A la française)"でも歌っている。
 2022年9月のインタヴューでマチューはこの録音についてこう回想している。

アルノーは私のことが大好きだと言っていた。私への恭しい称賛の言葉は私の胸を打つものがあった。彼は私とデュエットしたがっていたけれど、私は忙しくツアーに出回っていた。彼にOKの返事を出したら、今度はコロナ禍になり、私たちは出会う機会を失った。(その頃アルノーの病気はかなり進行していた) 私たちは一度だけ電話で話し合うことができて、彼の状態を知らされたけど、とても悲しかった。
423日、コロナ禍外出制限以来、長いこと足を踏み入れていなかったアヴィニョン郊外の録音スタジオに彼女は入り、アルノーが既に彼のパートを録音していた”La Paloma Adieu“のバックトラックの上に歌入れを行った)
その日はとても強い雨が降っていたのを覚えているわ。私は歌い終わり、アルノーのスタッフたちと一緒にそのテイクを聞いた。その時に知らせが入ったの。彼が亡くなったって。私は大泣きしたわ。スタッフがそのことを言わないでくれていたことが幸い。もしもそれを知っていたら私は絶対に歌うことなどできなかったはず。その日はお天気まで動転していたのね。


リフレインの歌詞にあり:
La paloma adieu, adieu c'est toi que j'aime
ラ・パロマさらば、さらば愛するきみ
Ma vie s'en va, mais n'aie pas trop de peine
私の命は尽きるけど、あまり悲しまないで
Oh mon amour adieu !
おお恋人よさらば!
私の命は尽きるけど、あまり悲しまないで。 ー このメッセージをこの声で聞く私たちのエモーションはただものではない。

ガラス越しに暗い北海を見つめるアルノー。背中を向けたジャケ写。しみじみいたわしい。

<<< トラックリスト >>>
1. La vérité
2. Take me back
3. I can't dance
4. Honnête
5. La paloma adieu (with Mireille Mathieu)
6. Mon grand-père
7. Boulettes
8. One night with you
9. Court-circuit dans mon esprit (with Sofiane Pamart)
10. I'm not gonna whistle

Arno "Opex"
LP/CD/Digital PIAS/LE LABEL
フランスでのリリース:2022年9月25日

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)ベルギー公共仏語TV(RTBF)のドキュメンタリー"DANS LES YEUX D'ARNO"の抜粋、アルノー最後のインタヴュー。最もインスピレーションを与えてくれたのは「北海」だと語っている。最後に一言、J'ai eu une belle vie, quoi. 美しい人生だった、と。

2022年12月23日金曜日

2022年のアルバム 胎児よ胎児よなぜ踊る

Mylène Farmer "L'Emprise"
ミレーヌ・ファルメール『支配』

"emprise"(アンプリーズ)とは手元のスタンダード仏和辞典では
(精神的な)支配、権威、影響力
という訳語が出てくる。観念を縛り付けるもの、強い威力で心を捉えてしまうもの、なのである。ウクライナはロシアの安全を脅かす危険勢力であり、平定せねばならぬ、という号令で戦っている兵士たちはプーチンに"emprise”されているという例でおわかりいただけるかな。非常に暴力的な意味合いを含んだアルバムタイトルである。
 ミレーヌ・ファルメール(当年61歳)の通算12枚目のアルバムであり、前作『不服従(Désobéissance)』(2018年、ソニー移籍後初アルバム)から4年後の新作である。この人の常で、アルバムは発売週にチャート1位になり、桁外れのスタジアムツアーの日程が発表になり、ほどなくして完売になる。今回のツアーは「ネヴァーモア(Nevermore)2023」(出典は言うまでもなくエドガー・ポー「大鴉」)と名付けられ、パリ・スタッド・ド・フランス2回とブリュッセル、ジュネーヴを含む9都市13回が組まれていたが、当初はサンクトペテルブルクとモスクワの予定も公表されていたのだけれどプーチンの戦争のせいで...。ロシアの地には2000年、2009年、2013年(この時はベラルーシのミンスクまで行ってる)とツアーで訪れていて、その人気の高さはものすごいらしい。寒い国に響く「イナモラメント〜」さぞ、ぞくぞくものでしょうね。
 さて新アルバムの最大の注目点はウッドキッドの起用ということになろう。ウッドキッドに関しては私も2013年にそのデビューアルバムにかなり興奮して当ブログに記事『大伽藍ポップ』を書いた。あれから世界的「大物」になったウッドキッド公は、2021年にパリ2024オリンピックの公式「プレリュード」(↓)を発表して、この並外れた「大物感」をますます見せつけているご様子。

奇態なヴィジュアルの趣味、並外れた仕掛けもの、「聖」なるものへのこだわり.... 等々、ファルメールとウッドキッドは似たもの同士であるが、年齢のこと言うたらいかんけど、二人の違いはというと’新旧世代’ということなのだよ。39歳と61歳。フェアな地位関係ではなく、マルグリット・デュラスやアニー・アルノーのように、絶対的にファルメール主導の制作現場であったと想像できるが。
 音楽的にはアルバム全12曲(+ヴァージョン違い2トラックで14トラック)中、7曲がウッドキッド作編曲。そしてヴィジュアル(→)の作者はヨアン・ルモワーヌ、すなわちウッドキッドがグラフィスト/映像作家として名乗る時の名前(本名)。これはミレーヌ・ファルメールのアバターであり、アンドロイドであり、メタル状だったり透明液状だったりする包皮に包まれた年齢のない(死を知らない)女性のお姿である。アルバムジャケットになっているのは、そのファルメール・アバターが母胎内の胎児のポーズをとっている。生も死も知らないアバターがない記憶を取り戻そうとしているような虚しさが漂っている。将来「名作ジャケ」として記憶されるであろう秀作グラフィックである。
 そしてそのグラフィック・チームが制作したアルバムのファーストシングル "A tout jamais"(アルバム2曲め、詞ファルメール/作編曲ウッドキッド)のヴィデオ・クリップ(↓)である。


すべては仮面遊戯
炭疽菌の飛末が
われらの傷口に
すばやく入り込む
熱と寒さを吹き出して
われらの命を焼き尽くす悪魔を
私以外の誰が見れるの?

そいつに言うのよ
"Fuck you too"
永遠に消え去れ、と
すべてを最初からやり直すための鎮魂歌
もう、Sorry sorry なんか通用しない
私の肉体の中に入らせない
おまえとおまえの分身、わが友よ
地獄に還るがいい

ごらん
支配は凶暴で
限りがない
心を失った恋人
すべては虚偽で
私を傷つけ苛む
そこで私は疑い、血を流す
でも大丈夫、命は教えてくれる

そいつに言うのよ
"Fuck you too"
永遠に消え去れ、と
すべてを最初からやり直すための鎮魂歌
もう、Sorry sorry なんか通用しない
私の肉体の中に入らせない
おまえとおまえの分身、わが友よ
地獄に還るがいい

世界でひとりぼっちという感情
それはあなたの心に入り込むすべを知っている
ほんの数秒ですべては倒れてしまう
私はもう怖くない
あとに嫌悪感が残るだけ

そいつに言うのよ
"Fuck you too"
永遠に消え去れ、と
すべてを最初からやり直すための鎮魂歌
もう、Sorry sorry なんか通用しない
私の肉体の中に入らせない
おまえとおまえの分身、わが友よ
地獄に還るがいい
(A tout jamais)

"A tout jamais"  ー 英語に言い換えると Nevermore。これが新しいツアーのテーマとなったわけだが、"A tout jamais"はエドガー・ポー詩級のメタファーや含蓄があるわけではない。私は「ミレーヌ・ファルメール詩集」というのが出版されたとしても、本屋の売り場で言えば、タレント本のコーナーには置かれても文学の棚には並ばないはずだと思う。その辺がパティー・スミスなどとの違いなのね。デビュー以来、それなりに重い主題ばかり(死、病気、障害、生きづらさ、愛の不毛、快楽の罪、少数派ジェンダー、政治不信、薬物ほかの依存症、逃避願望、諸行無常、老い、美への偏愛... )を歌にして、それでトップクラスのポップシンガーでいられる稀有なアーチストではある。この宗教に近い人身吸引力はどのようにしてファルメールの身に備わったのか? 意見は多々あれど、私はこれはその「音楽」でもその「声」でもその「詞(ことば)」でもないものだと思っている。人々を”emprise"するなにかが彼女にはあり、このアルバムは自覚的にその問題を自分に問うているのではないかな? そう思ってこの歌、この詞を聞くと、"emprise(支配)"をするのは自分自身であり、それに向かって "fuck you”と言い、永遠に消え去れと呪い、自分とその分身(アバターとしての音楽アーチスト)は地獄に戻れ、と最後通告をしようとしているのではないか。だけどファンたちはしっかりついてきて、莫大な金銭が流通することになるのですがね。底無しの"emprise"。

 この主題をアルバムタイトル曲「支配 L'Emprise」(アルバム4曲め、詞ファルメール/作編曲ウッドキッド)はエアリアルなメロディーでこう展開している。(ウッドキッドよ、さびメロパターンが"A tout jamais"とほぼ同じなのは、私、許しますよ。アルバムでこの曲が一等賞だと思う)。 

夜、その支配力は強大で
多量のアンフェタミン
その力はあらゆる休息を無視して
私の精神を侵す
それは狂おしい妄想よりも強い
ひとつの音波
私は人生の幾多の傷痕を数え
正気に戻る

愛は何よりも強いものでありますように
それが赤でも黒でも
愛は何よりも強いものでありますように
セックスや絶望と同じほどに
支配は聖なる祈祷師
チェックメート、降参よ

でも冒険は金色と光の混じり合った
もうひとつの支配
でも冒険は束の間のこと
この地球では時は限られている

夜、その支配力は強大で
多量のアドレナリン
その力は私の倦怠に立ち向かい
私の精神を侵す
それは狂おしい妄想よりも強い
ひとつの音波
私は魂の悪を結びつけた鎖を
断ち切る

愛は何よりも強いものでありますように
それが赤でも黒でも
愛は何よりも強いものでありますように
セックスや絶望と同じほどに
支配は聖なる祈祷師
チェックメート、降参よ

でも冒険は金色と光の混じり合った
もうひとつの支配
でも冒険は束の間のこと
この地球では時は限られている
(L'Emprise)

ここで私が同じように「支配」と訳したが、ファルメール詞はふたつの言葉を使っている。ひとつはこのアルバムのテーマであり、何度も繰り返される "emprise”という言葉、もうひとつは"régne"である。後者は「支配」だけでなく「治世」「君臨」「王国」「風潮」といった日本語も当てられる。どちらもわれわれの頭の上から覆いかぶさってくるものであるが、"emprise"はそれに”強制”のニュアンスが付加される。冒険=aventure は違う王国の支配、とファルメールは誘うわけだが、そこでは愛は何よりも強いもの、と...。これ、ファンたちにはとてつもなく説得力あるんだろうなぁ、と想像する私です。いつか私も連れてってくれないかな、と思ってしまうかもしれません。

 ウッドキッドが関わった7曲はどれも粒揃いで、このウッドキッド起用の成功を(普段はミレーヌ・ファルメールなどまるで問題にしない)リベラシオン紙やテレラマ誌が高く評価するレヴューを書いている。私もそれに騙されてアルバム買ったのだけど。
 そしてウッドキッドのほかにこのアルバムに作曲陣として参加したのが、米国のモビー(2曲。2006年以来何度か共演/共作あり)、フランスのエレクトロ・デュオ AaRONの作詞作曲&デュエット(アルバム中唯一ファルメール詞ではない)の"Rayon vert"(7曲め)、そして英国のトリップホップ/プログレッシヴ・ロックバンド、アーカイヴ(2曲。2010年ミレーヌアルバム”Bleu Noir"で3曲提供)である。アーカイヴは2011年わが家の対岸のロックフェス”ROCK EN SEINE"でのライヴを見てから大好きになったのだけど、まあよくできた”プログレ”だという印象がある。さてこのミレーヌ新作の2曲のうち、10曲めに収められた"Ne plus renaître (2度と再生しない)”(詞ファルメール/曲ダリウス・キーラー)はこのアルバムで最も異彩を放つトラックである。

一条の火花
私は生まれ変わりたい
たとえどんな苦難の道でも
休息

すべてが繰り返されるなら
マッチを取り出し
”自我”を滅し
火を点けて
自らを火刑に処す

私には見える

(リフレイン)
再生
あるいは解放
二度と生まれ変わらないこと
そして私は
空に向かって
目を見開く
レプラとはかくのごとく
哀れな人類は
バラバラに

一条の火花
私は知りたい
このように
すべてはひとつの選択しかない
ひとつの熱

(アヴェ・マリア)

一条の火花
一条の火花
一条の火花
一条の火花

再生
あるいは解放
二度と生まれ変わらないこと
そして私は
空に向かって
目を見開く
レプラとはかくのごとく
哀れな人類は
バラバラに

一条の火花
一条の火花
一条の火花
一条の火花
("Ne plus renaître")

これは音楽も詞も違うディメンションですよ。終末を見てしまったこのアーチストはそのあまりの惨状に二度と生まれ変わらないことを唱える。ネヴァーモア。もう生き返るのをやめなさい。こういうポップミュージックを、ありがたく聴いてしまう何百万というファンの人たちのことを思う。ミレーヌ・ファルメールの”愛”はなにものにも邪魔されず伝道されてしまうのですね。

<<< トラックリスト >>>

1. Invisibles
2. A tout jamais
3. Que l'aube est belle
4. L'Emprise
5. Do you know who I am
6. Rallumer les étoiles
7. Rayon vert (with AaRON)
8. Ode à l'apesanteur
9. Que je devienne
10. Ne plus renaître
11. D'un autre part
12. Bouteille à la mer
13. Rayon vert (piano/voix)
14. Invisible (piano/voix)

Mylène Farmer "L'Emprise"
2LP/CD/Digital STUFFED MONKEY
フランスでのリリース:2022年11月25日

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)アルバム"L'Emprise"の35秒プロモーションクリップ。

 


2022年12月20日火曜日

ライフ・オブ・ブライアン

Simon Liberati "Performance"
シモン・リベラティ『パフォーマンス』

2022年ルノードー

シモン・リベラティ(1960年パリ生れ、現在62歳)は、あえて 評すればダンディー無頼派オールラウンド碩学の作家で、フロール賞("Hyper Justine" 2009年 )、フェミナ賞("Jayne Mansfield 1967” 2011年)など重要な文学賞は取っても、本が売れないせいで出版社とのトラブルが絶えず、書物の記述をめぐっても訴訟沙汰が少なからず起こり、自らの本意ではなくても敵の多い追われ者的な面を持っている。本作『パフォーマンス』の話者「私」は一応71歳の老作家ということで、著者自身とは違うことを装っているが、リベラティの姿をかなり投影したものと読める。末期のルーザー作家という設定なのである。
 この老作家は先ごろ脳梗塞(AVC)で死にかけたという大事件を経たばかりで、まだその後遺症は残っていて、体はボロボロの態である。種々のトラブルのためどんどん溜まっていく請求書/督促状は開封されずに郵便受けの中にある。再び1行も書くことなく、このまま朽ちていくであろうと諦念していたところに、世界的ストリーミング配信会社のコンテンツ制作部から、初期ローリング・ストーンズの一連のスキャンダル事件(1967年キース・リチャーズ宅でのドラッグ使用現行犯逮捕から1969年ブライアン・ジョーンズのプールでの変死)の実写連続ドラマ化のシナリオ執筆を依頼される。連ドラのストリーミングとか見たこともないし、シナリオなど一本も書いたことがないのに、なぜ俺が指名されたのか、といぶかしみながらも、背に腹は替えられない台所状態でもあり、60年代のことなどヴァーチャルな知識しかない自分の子供ほどの年齢の若造である二人の担当プロデューサー(パリにオフィスあり)のシナリオガイドラインを次々と壊しながら、本腰を入れていく。
 何度か結婚と離婚を繰り返しその外でも女性関係の多かった元ダンディーの老作家は、現在はイル・ド・フランスの小さな村の一軒家に独居しているが、パリでモデル/マヌカン/女優をしているエステールという稀に見る美貌の23歳の娘と交際関係にあり、老作家はこれが最後の恋だということも、この娘が遠からず自分の元から離れていくだろうということも悟っている。この関係は71歳と23歳という年齢差だけでなく、この老作家の文学造詣の深さを敬い、娘が老人から文学講義/文献講釈を受けることを習慣としている、という特異さもある。聡明な子であり、かなり文学に精通するところまで来ていて、自分の審美眼もはっきりあり、これから始まるローリング・ストーンズドラマのシナリオについても老人は彼女の意見を必ず求めている。それでも一日の多くの時間をスマホのSNS(特にインスタグラム)チェックに費やすフツーのお嬢さんでもある。そして彼女は老作家の元妻クララとその前の夫(スイス人ブルジョワ)の間にできた娘であり、言わば老人の側から見れば「義理の娘」なのである。
 件の依頼連ドラは「サタニック・マジェスティーズ」と題され、3回完結のミニ連ドラで、ストーンズが世界で最もビッグなロックバンドとして変身していく時期、1967年から70年までにフォーカスを絞り、バンド変貌に大きな影響を与えたマリアンヌ・フェイスフルとアニタ・パレンバーグという二人の女性、そしてブライアン・ジョーンズの変調とリーダーシップの喪失、バンドからの放逐、さらにプールでの変死、ジャガー/リチャーズ体制の天下取りからオルタモントの悲劇まで、という大風呂敷なプログラム。
 小説はもちろんこのような一連の事件の真実を暴くということを主眼としていない。2022年、「ストーンズ60周年」を機に数多く発表されたバンドのドキュメンタリー出版物とは全く種類を異にするものである。老作家はストーンズ研究家でもロックライターでもない。文学の側の人間である。ここで老作家がシナリオによって最も浮き彫りにしようとしたのが、二人の破滅型の若者のドラマだった。ひとりはマリアンヌ・フェイスフル(老作家自身が1980年代に親しく交流していた過去がある)、もうひとりはブライアン・ジョーンズだった。
 1967年2月12日日曜日、夜8時を少し過ぎた頃、イングランド、サセックス州チチェスター市近郊のある田舎家に、18人の警官(うち女性警官2人)がなだれ込んだ。
 サロンの内部では、ハシシュと香の煙にひたされた9人の人物が互いに身を寄せ合っていた。8人の男とひとりの毛皮のブランケットに裸身を包んだ20歳の若い娘だった。
 男たちの名はキース・リチャーズ、ミック・ジャガー、マイケル・クーパー、ニッキー・クレイマー、デヴィッド・シュナイダーマン、クリストファー・ギブス、ロバート・フレイザー、そして毛皮を羽織ったヴィーナスがマリアンヌ・フェイスフルだった。(p7)
 これがこの小説の冒頭である。”レッドランズ(Redlands)"と呼ばれたキース・リチャーズ所有の田舎屋敷で起こった抜き打ち逮捕劇であったことから「レッドランズのガサ入れ(Redlands bust)」という事件名で後世まで伝えられている。この時ジャガーとリチャーズは23歳、フェイスフルは20歳だった。メディアに前もって通報されていた一種の仕掛け逮捕劇で、芸能界のドラッグ禍への公権力の見せしめ効果を狙ったものだったが、当初の見せしめ逮捕の対象としていたのは(ストーンズで最もドラッグに浸っていた)ブライアン・ジョーンズだったと言われている。しかし67年当時、ストーンズ(および英ポップミュージック界)での重要度はジャガー/リチャーズがジョーンズをはるかに上回ってしまっていたので、見せしめならばこちら、と捜査変更されたようだ。バンドを結成し、ローリング・ストーンズと名付け、軌道に乗せた男ブライアン・ジョーンズは落ち目であり、誰もがそう遠からぬ時期に死ぬだろうということを知っていた。
 『毛皮を着たヴィーナス』(1871年)のオーストリア人作家マゾッホを曽祖父に持つマリアンヌ・フェイスフル、というリファレンスだけで、この裸身+毛皮の逮捕シーンを脚色しようとする制作側に老作家は逆らい、違うフェイスフル像を提案しようとする。オーストリアの貴族家の血を引き、カトリック教育を受け聖歌隊で歌い、円卓の騎士伝説と神秘主義(+悪魔主義)に精通した「19世紀のデカダンス期に生きていた」娘だ、と老作家は言う。あの頃のストーンズにもたらされた重要な要素のうち、ドラッグはブライアンとアニタ・パレンバーグが、神秘主義や悪魔崇拝(加えてナチス傾倒)はマリアンヌ・フェイスフルとアニタ・パレンバーグが、「音楽」はミックとキースが主な提供者だった。ブライアン、ミック、キース、マリアンヌ、アニタ、この5人の共同体からブライアンとマリアンヌが脱落していく。ドラマ制作側はこれを「ユートピアの崩壊」として描く意図で始めたのだが、脚本家(老作家)と小説中盤から現れる韓国人監督(小説中"Le Coréen = 韓国人”とだけ呼ばれる)はもっと鮮明で破滅的で悲劇的なマリアンヌとブライアンを描き出す方向で一致していく。
プルーストに登場する若い娘たちと同じで、ローリング・ストーンズの3人の主要メンバーたるキースとブライアンとミックは真に固定された本質というものを持っておらず、常にその役目を変えることに終始していた。アニタとその悪魔主義的分身であるマリアンヌは、3人の恋人だった。この女ふたりと男3人の混成の中で、中心となるのは当然バイセクシュアル(ミック)なのだが、月並みなロックバンドを普遍的な魅惑力を持ったオブジェへと(化学的意味における)変態を遂げる道を急ぐのである。バンドを”ローリン・ストーン Rollin'Stone"(そのしばらく後に "ローリング・ストーンズ Rolling Stones"と改称)と命名した男、ブライアン・ジョーンズの死は”ストーンズ”誕生のための人身御供となり、”ストーンズ”の名こそそれに続く10年で確固たるバンド名になる。ミックとキースはマリアンヌとアニタに合流して、ピグレット(*)の嘲笑的な視線に見守られながら、象徴的にブライアンをプールの中へと突き落としたのだった。(p20-21)
(*ブライアンは『クマのプーさん』版権保持者から権利を買い取り、自宅プールの装飾物として「プー」と「ピグレット」の像を置いていた)
”ブライアンをプールに突き落とす”はメタファー表現であるが、のちに老作家が書くシナリオでは事故死説と他殺説の両方をほのめかすものとなる。
 マリアンヌの脱落は1969年夏シドニーのホテルでの自殺未遂である。ツイナールを150錠飲み込み、6日間昏睡状態に陥った(その昏睡中に、既にあの世の人となっていたブライアン・ジョーンズと長い間話し合っていた、というマリアンヌ本人の証言があるが、この小説では触れられていない)。アルコールとドラッグと自殺未遂はこの老作家の人生にもずっとつきまとっていた。たぶん向こう側に行ってしまっていて3日間の昏睡の後に自分は戻ってきたが、どこに戻ってきたのか覚えていない、と冗談めく。生き残った/生き残っているマリアンヌは自分と最も近い種類の人間と思っているようなところがある。
 老作家の愛人のエステールも若くしてジャンキーになり、現在脱依存症セラピー中であるが、いつまた”再転落”するかわからないことを老作家は恐れている。しかし何よりも恐れているのはエステールが自分のもとを去って行くことであるが、それは抗うことができない”近い将来”なのであると悟っている。自分の死とエステールとの別れ、それは同じものであるが、後者が先に来ることは耐えがたい。
 近いうちに死ぬことも、近いうちに生涯の恋人に去られることも知っていて、そして死んでしまったのがブライアン・ジョーンズである。この小説はそれが自殺なのか事故死なのか他殺なのかは全く問題にしない。これは自ら悟っていた世にも悲しい死である。

 1967年2月、キース・リチャーズは愛車ベントレー・ブルー・レナ(→写真)でフランス/スペインを経てジブラルタル海峡を渡りモロッコに到る旅行を企てる。運転手はリチャーズのお抱えで元軍人(第二次大戦)のトム・キーロック(のちにブライアンの相談役にもなる)、前部座席にキースが座り、車に備え付けのレコードプレイヤーでレコードをかけ旅のジョッキー役を買って出た。後部座席にはすでに病気がちで始終咳込んでいるブライアン・ジョーンズ、その両脇にアニタ・パレンバーグとデボラ・ディクソン(ジェームス・フォックス/ミック・ジャガー/アニタ・パレンバーグ主演映画『パフォーマンス』でニコラス・ローグと共同監督し脚本も書いたスコットランド人ドナルド・キャメルの妻でアメリカ人。当時キャメルとディクソンの夫妻はパリのモンパルナスに住んでいて、そのアパルトマンが英ロックスターたちの溜まり場になっていた → と爺ブログのこの記事に書いてある)。この旅の道程でブライアンの恋人アニタがキースに鞍替えするということになるのだ。一行はパリのホテルジョルジュ・サンクを出発して、フランスを南西方向に下って行き、第一夜をタルヌ県アルビの小さなホテルで過ごすことになるのだが、ブライアンの病状が悪化し、発熱がひどく肺炎も心配されたため、夜間アルビの町医者を叩き起こしトム・キーロックが連れて行くことになる。翌朝ブライアンはひとり、最寄りの大都市トゥールーズの病院に入院することになる。そして非情にも他の4人の旅は予定通り続いていくのだった...。
 老作家はシナリオ執筆に必須、とこの旅を検証するために、自分の住む地方の奥深くにある知る人ぞ知るのクラシックスポーツカーのガレージから(困窮する身でありながら)大枚を叩いて80年代製造のBMW(時速200キロまで出る)を買い上げ、エステールとふたりでキースのベントレーの道程をなぞってフランスを南下していく。小説はこの50年を隔てた二つの南下の旅が一番の読ませどころなのですよ。残り少ない命を悟り、最愛の恋人を失うこと悟る旅。老作家がブライアンと現在の自身をパラレルに書いていく痛々しさ、ここが「文学」体験であるわけで、連ドラシナリオが当初の企図とは全く違うディメンションを得ていく過程に読者は立ち会っているのですよ。
 BMWはやがてスペイン、アンダルシアに入っていき、人里から離れたところに建てられた「コーリアン・シティー」と呼ばれる映画/ドラマ撮影セット村にたどり着く。連ドラ「サタニック・マジェスティー」はここで撮影されていて、スタッフは老作家のシナリオの上がりを今か今かと待っている。現実はここにあり、老作家がこの旅に過度に感情移入するひまなどない。そしてこの旅の最中、現実は老作家の溜まった督促状の取り立て人が、この連ドラ制作会社からのシナリオ報酬を天引きする手続きを取る、という老作家をさらに窮地に追い込むことになっている。そして最愛の若い恋人エステールが、ひそかにスマホ通信で若い男に誘惑されかけている気配も察している。老作家はいよいよこの時が来たか、と覚悟を決めようとするのだが、その若い男とは.... この連ドラに出演するブライアン・ジョーンズ男優であると知るや...。
 撮影セット村には、ブライアン・ジョーンズ邸のプールも作られていて、そのかたわらには『クマのプーさん』のプーとピグレットの像が立っている。ピグレットに見守られながら、老作家はプールの端に腰掛け、ブライアン・ジョーンズのように死を想うのであるが...。

 くれぐれも、”ローリング・ストーンズの隠された事実の暴露”本だと思って読まないように。そんなものは文学ではない。破滅型ダンディーの"自身”を曝け出した痛々しさこそ読まれるべきであり、全体に散りばめられた古今東西の文学や20世紀カルチャーの博識/雑学/碩学にも驚嘆されたし。キース自伝、マリアンヌ自伝はもとより、この小説に登場する史実は膨大な資料に拠っているものだが、老作家はそれが全部頭の中に入っているような書き方なのも無頼派のハッタリのようで許せる。だが、ローリング・ストーンズという(エンタメ)話題性だけで読むな、と言われても、読者は先にそれを探してしまう、というのがこの本の弱点でしょう。私は十分に魅了されましたよ。

Simon Liberati "Performance"
Grasset刊 2022年8月 250ページ 20ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)出版社グラッセ制作のプロモーションヴィデオで自作『パフォーマンス』を語るシモン・リベラティ


(↓)ブライアン・ジョーンズ : 1967年 西ドイツ映画(フォルカー・シュレンドルフ監督、アニタ・パレンバーグ主演)"Mord Und Totschlag"(英題”A degree of murder"/仏題”Vivre à tout prix")のテーマ曲。


(↓)小説に全く関係ありませんが、「葬式にかけたい音楽」アンケートで毎回上位に登場する曲、映画『ライフ・オブ・ブライアン』(1979年モンティ・パイソン)のエンディング曲 "Always look on the bright side of life"。これ(↓)はロイヤル・アルバート・ホールでの壮大なるライヴ。