2010年12月28日火曜日

ポロさんの甥っ子の熱いカリビアン・ジャズ



GILLES ROSINE "MADIN'EXTENSION"
ジル・ロジーヌ『マディン・エクスタンシオン』


 1970年マルチニック生まれのピアニスト,ジル・ロジーヌは、マラヴォワのリーダー/ピアニストだった故ポロ・ロジーヌ(1948-1993)の甥です。8歳でピアノを始め、90年代初めにパリの音楽師範学校およびパリ第4大学(ソルボンヌ)で音楽を学び,そのパリ滞在中にシューヴァル・ブワのデデ・サン・プリ、コンパのジャン=ミッシェル・カブリモル(&マフィア)などのツアーにピアニストとして参加、1994年にはパリのクラブ、プティ・トポルタンで開かれた第一回めの「ビギン・ジャズ・フェスティヴァル」にジルが結成したカリビアン・ジャズ・トリオで出場し、アラン・ジャン=マリーやマリオ・カノンジュと看板を分けたのでした。
 95年にマルチニックに帰島。フォール・ド・フランスのサン・ジェイムス・クラブを根城に、ドラムスのジョゼ・ゼビナ、ベースのジャン=マルク・アルビシー(マラヴォワのベーシスト)、コントラバス/パーカッションのアレックス・ベルナール(ファル・フレットのベルナール三兄弟のひとり)等と組んだコンボで、本格的なカリビアン・ジャズ・アーチストとして名を成していきます。
 2003年に自主プロデュースでファーストアルバム『ペイ・メレ(Pays Mêlés)』(「混ざった国」という象徴的な名前ですが、これはジルが生まれ育ったラマンタン町の地区の名前だそう)を発表。これは20人ほどのミュージシャンとの共演で作ったビギン・アルバムで、アレックス・ベルナール、クリスチアン・ド・ネグリとマノ・セゼール(共にマラヴォワのヴァイオリン奏者)、ラルフ・タマールとトニー・シャスール(マラヴォワの歴代のヴォーカリスト)が参加し、2004年に同島の著作権協会(SACEM)レコード賞の新人賞を受けています。
 2006年、イビスキュス・レコードとの共同プロデュースでセカンドアルバム『シマン・トラセ(Chimin Tracé)』(「道筋」「道の跡」)を発表。これも前作同様、同島の多くのミュージシャンの参加で制作され、新らたにエリック・ボヌール(ギター)、ニコル・ベルナール(ヴァイブラフォン)、ダニエル・ルネ=コライユ(ヴォーカル)などの参加も得て、ビギンだけでなく、ベレール、シューヴァル・ブワ、マズルカ、カドリルなどマルチニックの伝統音楽全体にレンジを拡げ、ジルの新しい解釈によるマルチニック音楽の新ハーモニー構築が試みられています。おそらく伯父ポロさんのマラヴォワでの試みを継ぐようなかたちで。
 その伯父へのオマージュは2007年、トニー・シャスールがその機会に結成したビッグバンドを、ジル・ロジーヌが編曲指揮するというかたちで催されたマルチニック島とグアドループ島でそれぞれ1回ずつ開かれたポロ・ロジーヌ15周忌記念コンサートと、そのライヴアルバム『15 ANS DEJA - GILLES ET TONY RENDENT HOMMAGE A PAULO ROSINE』となって、往年のポロさんのファンたちを喜ばせました。
 
 さて2010年のアルバムです。歌なし。『マディン・エクスタンシオン(Madin' Extension)』と題されています。マディニナ(Madinina)、マディアナ(Madiana)、イル・オ・フルール(花の島)などとも別称された島マルチニックの音楽を拡張(エクスタンシオン)して広範囲な視野から見るとどうなるか。答えは「カリビアン・ジャズ」です。ベルナール父子(アレックス = コントラバス、ギヨーム = ドラムス)、ジャン=マルク・アルビシー(ベース)、ジョゼ・ゼビナ(ドラムス)、ミッキー・テレフ(パーカッション)を中核メンバーとした、ピアノ・トリオ、またはピアノ・トリオ+ワン(パーカッション)の演奏を軸に、3曲では金管3本(トランペット、トロンボーン、サックス)を加えた厚いアンサンブルで、おおむねかなりホットなプレイを展開します。私たちがとかく思いがちな、ビギン・ジャズのクールさとエレガントさとはかなり事情が違っています。これは非常に熱いジャズです。パーカッシヴで、超絶ベースがブイブイうなり、ジルのピアノも時おり南海の荒波のように吠えます。そして伯父さんのようによく「歌う」ピアノの抒情性も。疾風怒濤のロマンティスムとも聞こえます。
 11曲のうち9曲がジルの作曲。2曲が伯父ポロ・ロジーヌの曲で、2曲ともジルのソロ・ピアノ録音でそのリスペクトがじっくりと伝わってきます。
 アラン・ジャン=マリー、マリノ・カノンジュという大先輩のビギン・ピアノ・ジャズのルートから、全く新しい方向に大きく踏み出したマルチニック・ジャズのアルバムでしょう。その作曲家としての才能を、カリビアン・ジャズのピアノの魔術師ゴンサロ・ルバルカバが、このアルバムのブックレット中の跋文で絶賛しています。風の吹く島マディニナの風雲児ピアニストの登場です。

<<< トラックリスト >>>
1. BELYA POU DEMEN (Gilles Rosine)
2. LALOU (Gilles Rosine)
3. YON' A LOT (Gilles Rosine)
4. ARC-EN-CIEL (Gilles Rosine)
5. CONTRETEMPS (Paulo Rosine)
6. SWEET BIGUINE (Gilles Rosine)
7. EXTENSION (Gilles Rosine)
8. ROMANZA (Gilles Rosine)
9. WA TIRE'Y (Gilles Rosine)
10. MATINIK JODI (Gilles Rosine)
11. ANTOINISE (Paulo Rosine)

GILLES ROSINE "MADIN' EXTENSION"
CD GILLES ROSINE/POKER PRODUCTION 001009
フランスでのリリース:2011年1月24日


(↓)テレビARTE JAZZ LIVEで放映された、マルチニック・ジャズ・フェスティヴァルでのジル・ロジーヌ。曲目"ROMANZA"
ジル・ロジーヌ(ピアノ)、アレックス・ベルナール(コントラバス)、ギヨーム・ベルナール(ドラムス)、ミッキー・テレフ(パーカッション)

2010年12月22日水曜日

余は如何にしてムスリムとなりし乎

  Abd Al Malik "LA GUERRE DES BANLIEUES N'AURA PAS LIEU" アブダル・マリック『郊外戦争は起こらない』 Abd Al Malik "QU'ALLAH BENISSE LA FRANCE !" アブダル・マリック『フランスに神(アラー)の祝福あれ』  エドガール・フォール(1908-1988)は政治家で第四共和制に2期内閣首班をつとめた重要人物であったが、中道左翼から出て次第に保守権力派に移り、常に勝ち組の中にある風見鶏と見られていました。フランス学士院のメンバーでもある文筆家(随筆家)で、音楽家でもありました。その孫にあたる哲学者ロドルフ・オッペンハイマーが中心となって、2007年からエドガール・フォールの名を冠する文学賞が創設されました。その特色は「政治文学」に限定され、その年最も優れた政治に関する刊行書に与えられるもので、その第4回めの2010年のエドガール・フォール賞が、アブダル・マリックの『郊外戦争は起こらない』に与えられたのです。この賞がどのような権威と価値があるのか、私には判断がつかないものですが、歴代の受賞者に現政府の農業大臣ブルーノ・ル・メール(2008年)(政治的には大統領党UMP内の反主流ヴィルパン派)や,ネオ・リベラリスムの論客マチュー・レーヌ(2009年)がいたりして、それらの本は一般には大きな話題になっていません。審査員の顔ぶれを見ると、保守と左翼の元と現役の政治家が多く、その左右のバランスは取れているとは言えこの人たちは文学よりは政治に関するオーソリティーたちであり、この賞は「文学賞」と言うよりも「政治エッセイ賞」のように見えます。ですから、アブダル・マリックがこれを受賞したということでつく「ハク」は、その文学性への評価ではなく、高度の政治プロの仲間入りをしたということになるように思うのです。  ところが、この『郊外戦争は起こらない』は「文学であろう」という意図がはっきりと見てとれるのです。彼は政治プロの仲間入りなど望んでいるわけはないものの、この小説はこれまでラップ/スラムで展開してきたライム/物語/言説を文学(ひいては小説)という領域に拡張しようという試みであったはずです。  ソロアルバム第2弾『ジブラルタル』(2007年)の成功で注目される前、2004年にアブダル・マリックは、自叙伝的エッセー『フランスに神(アラー)の祝福あれ』を発表しています。これはジェラール・ジュアネスト&ジュリエット・グレコ夫妻と出会う前の本です。つまり熱心にNAP(ニュー・アフリカン・ポエツ。アブダル・マリックをメンバーとするストラズブールのラップバンド)を聞いていた人たち以外には、まったく無名だった頃で、29歳だったアブダル・マリックの生まれてからの軌跡が綴られています。それはアフリカ人の子としてフランスに生まれ(生まれた時の名前はレジス)、母親の手ひとつで6人の兄弟姉妹のひとりとしてストラズブールの郊外(バンリュー)のシテ(低家賃高層集合住宅)で育てられ、貧困ながらも学業成績優秀という「表の顔」と、そのシテ的環境から簡単に金稼ぎできる方法を覚え、中学生で既に窃盗や麻薬密売などの腕利きになっていくという「裏の顔」も持つ、少年の二重生活が描かれます。  シテの地下倉庫では彼と同じくらいの年端も行かぬ子たちがジャンキーとなり、廃人と化していくのを彼は現場で見ていて、オーヴァードーズ、エイズ、尋常ならぬ交通事故、自殺、暗殺などで命を落していった子供たち20人の名が記され(P.50)、その冥福が祈られています。  しかし、彼は他の子とは違う何かがあるのです。それは多分父親が与えてくれたものです。コンゴ共和国(ブラザヴィル・コンゴ)で、フランスのグランゼコール(エコール・ポリテクニック)卒業のエリートであった父は、その高官の地位を捨てて「ローリング・ストーン」になります(政府の主流派の出身部族が代わったために、その地位に居づらくなったようです)。その日から一家の貧困は始まり、父は家を出て、母親ひとりが生活保護で子供たちを育てるようになります。それでも彼は父を全く恨んでいないのです。そのインテリジェンスの多くは父が与えてくれたものでしょう。少年レジスは学業成績では常にトップクラスにあり、学校の模範生であるだけでなく、父の残した本棚の本や図書館の書物を読み漁るという知識欲の旺盛な子でした。周りのバンリューの子たちと一線を画する「哲学性」を早くから身につけていたことが、廃人にならず、命を落すことにならなかったという理由のひとつだったのかもしれません。またこの本で強調されているのは、レジスがヘヴィー・ドラッグやアルコールには一切手を出さなかった、ということです。その第一の理由はドラッグが「仕事」(窃盗や麻薬密売)の手を狂わせる、ということを明晰に見抜いていたからだ、というのです。  表向きの(貧乏)優等生は、裏で非行の天才として裕福に暮らしている、これを母親には絶対に気づかれてはならない、というところは、長身でエレガントで女性にもてた父親とも共有する後ろめたさです。彼は母親も父親も愛してやまないのです。  その明晰な哲学性は、ある日レジスをイスラムに改宗させ、レジスというキリスト教洗礼名を捨て、少年はアブダル・マリックとなります。この日から彼の果てしない求道が始まります。なぜイスラムなのか? − この答えを彼はこの本と、それに続く『郊外戦争は起こらない』で長々と展開するのですが、私にはそのエモーションはよく伝わってくるものの、「なぜ」のところはよく理解できていません。おそらくそれが理解できたら私もきっとイスラム者になるでしょう。お断りしておかなければならないのは、この2冊は全くイスラムのプロパガンダ(布教と言うべきか)的な性格を帯びたものではない、ということです。魂の道程の記録として読まれるものでしょう。  アメリカ同様、フランスのラップの世界でも重要なアーチストがイスラムに改宗するケースが増えていて、ディアムス、アイアムのアケナトンなどがその代表です。私はアブダル・マリックとアケナトンとディアムスが同じテーブルについて、それぞれのイスラムを語り合う、という機会があれば、かなり面白いことが聞けるのではないか、と想像したりします。  19歳の頃、アブダル・マリックはモスクの中に集まり祈るだけでなく、モスクの外のバンリューで飢えたり、絶望したり、廃人になったりしている兄弟/姉妹たちをどうして救済しようとしないのか、と目覚め、積極的にバンリューで布教活動する(街頭で辻説法をする)イスラム行動派グループの一員となります。集会や合宿キャンプに参加し、小グループで全国を布教行脚し、イスラムの新思想リーダーとして台頭する(賛否両論ある)エジプト系スイス人大学教授タリック・ラマダンとも交流しています。  兄のビラル等と結成されるラップのグループNAP(ニュー・アフリカン・ポエツ)は、バンリュー的ライムにイスラムの考え方を融合させる(当時は)珍しいバンドとしてスタートし、94年の自主制作マキシCDでレコードデビュー、96年にフルアルバム(配給が、私も在籍したことのあるナイト&デイで、私の恩人にして同社ディレクター、今から1年前に亡くなったパトリック・コレオニがNAPの発掘者であったと言えます)、98年からメジャーのBMGと契約して、全国的な知名度を得ていきます。しかしこの頃アブダル・マリックはまだはっきりと「非行」(窃盗犯罪等)と決別していないのです。  この後にやってくるのがスーフィズム(イスラム神秘主義)との出会いです。優等生〜在野の知識人/非行の天才〜プロの犯罪者/イスラム行動隊メンバー/ラップアーチストという多面の顔を持っていたアブダル・マリックは、ここで初めてその相反する自分の断面をひとつに統合して、ひとりのイスラム求道者として普遍(L'universalité)への道を踏み出すわけです。神は分割/対立するものがなく、統合である、という前で、自分の内外の分割/対立をどう乗り越えて統合するか、というのが求道者アブダル・マリックの問いです。  スーフィー手引書の著者に始まり、さまざまな人物と出会い、彼はこの問いを発します。モロッコに赴き、(現代スーフィー界最高僧のひとり)シディ・ハムザ師に教えを乞います。この度重なる出会いの中で、パリ16区のブルジョワ家庭に育ったフランス人白人ファビアン(イスラム改宗して名前はバドル)という28歳の若者の話が出てきますが、この人物は次作の『郊外戦争は起こらない』の中でトマ(イスラム改宗後の名前はシディ・アキル)という名になり、バンリュー/シテの中で医院を持つ若き白人医師として、小説のキーパーソンのひとりで再登場します。  内なるイスラムに開眼したアブダル・マリックは外に向かって歩み、ユダヤ者、キリスト者たちと同行してアウシュヴィッツへの旅を敢行し、人類のドラマに宗教の境などないことを悟る、という感動的な終結部を持ってきます。しかし、そこで警察パトカーのサイレンが鳴り、弟のステファヌが逮捕/連行される、というシテ的現実に戻されて、このアブダル・マリックの最初の本は閉じられます。  2010年、アブダル・マリック35歳は、既にポジティヴなラッパー/スラマーとして評価が定着しています。そのポジティヴさは彼自身の劇的な転身(移民の子、荒れたバンリュー、非行犯罪、イスラム〜スーフィズムとの出会い、シャンソン/ジャズを融合させた愛と求道のラップ/スラムの成功、排外主義と原理主義に対抗する論客...)によるものですが、それに喝采する者もいれば、そのお説教色に背を向けるバンリューの若者たちもいます。特にメディアでの彼の露出があまりに「文化人」然とする時、シテの現場はついていけなくなるのは無理もありません。多分彼はその辺を悩んだのかもしれません。  『郊外戦争は起こらない』は小説です。フィクションです。小説は前述のモロッコのスーフィー高僧シディ・ハムザに捧げられ、プロローグとしてジュリエット・グレコの短い序文が来ます「(...) 神を信じる力のあるおまえを羨む。私は愛する子に接吻するようにおまえに接吻を捧げる。おまえが存在することに感謝する」。そして最初の端書きにこんな文も:「この本の音楽はサム・クック A Change Is Gonna Come 」。小説の発表は2010年2月。文中でも「よその国では、今や黒人の大統領が世界に挑戦をいどむ時が来たのだ」とオバマ大統領誕生のポジティヴな興奮の余韻をまだ残している頃でした。それがその数ヶ月後にポジティヴさが無惨に色褪せてしまうことなど、誰が予想したでしょうか。私がこの小説を読んだのが2010年12月で、このオバマ評価がアブダル・マリックのポジティヴさにある種大きな意味があったことと、時代の空気が急変したことは、やや残酷なものがあります。  それはそれ。文学であろう、シテの言葉で綴ろう、セリーヌやジュネの赤裸々な表現であろう、という意図が見えるこの小説は、ペギーという奇妙な女名前をつけられた非行少年が、監獄暮らしを終えて出てきて、イスラム改宗してスーレイマンという名前になり、シテの中でポジティヴに人生を変えていくストーリーです。言わば実体験をベースにしたアブダル・マリックのフィクション化です。この中で話者はシテ(彼のベルラン語では「ラ・テス = La Tess」)の現実をこう喩えます:  
ラ・テス、それは巨大な原子力発電所のようなものだ。分別をもってそれを操作している時には、それは国全体を明るく照らせるほどの力がある。しかし、現実のように、それを放棄してしまったら、それは核爆弾となってしまうのだ。(p36)
   この核貯蔵庫のようなバンリューのシテで、そこに住んでいるというだけでなぜわれわれはすべてを閉ざされているのか、と自問します。次いであらゆる人たちにこの疑問をなげかけます。「俺の弁護士、牢屋の同室者たち、俺の母、俺の兄弟、シテの男たち、評判のよい女たち、評判の悪い女たち、教育者たち、地区選出議員たち、聖職者たち、神父たち、牧師たち、エホヴァの証人たち、説教師たち、イスラム導師たち...」(p38)。その末に信じがたい出会いを果たすのです。それはシテの中の「半月」(demi lune)と呼ばれる建物に、長年医院を営んでいた内科医が定年で退き、代わりに新しくその医院にやってきた若い白人医師トマ・ミニアールです。これがどれほど変種かというと、白人医師の分際でわざわざ悪評高いストラズブール郊外のシテで医院を営むという危険に自ら飛び込んだだけでなく、イスラム改宗者でもあったのです。  作者はトマ(改宗後の名前はシディ・アキル)の尋常ならぬ改宗の軌跡も、小説内小説として展開します。ストラズブール市内の何不自由ない教職員夫婦から生まれた二人の男児の次男坊であるトマは、少年時代に市内最強の少年サッカーチームのストライカーとして、地方選手権の決勝で4点のシュートを決め、チームのヒーローとなります。その決勝後、負けたチームの選手たちがトマを待ち伏せし、殴る蹴るの暴行を加え、その相手の少年たちの顔を見たトマはその日からレイシストとなって、黒人とアラブ人への復讐を誓い、サッカーを捨ててキックボクシングジムに通うようになるのです。  レイシズム(ラシスム racisme)とは何か? − 小説は辞書の形体をとって、アブダル・マリック版の用語定義をします。「ラシスム。男性名詞。1. 人間のグループ(あるいは「人種」)の間に階層順位=ヒエラルキーが存在するという確信から派生するイデオロギー、およびそのイデオロギーに鼓舞された行動/態度」(p61)。同様に作者は重要語として「シテ」とは何か、「イスラム」とは何か、も定義解説をしています。スーレイマンの野卑な口語表現の文章に混じって、明晰な定義が必要というところでは、がっちり固めてしまおう、という努力があります。そして人名解説も登場して、イスラム史を解説してしまわなければならない、という学術努力に至っては、どうしてこうやってセリーヌ/ジュネ的な小説の文体をぶちこわしにしてしまうのだろう、と残念に思うところがあります。  話がそれました。レイシストとなったトマに加えて、その兄ピエールがイスラムに改宗したと宣言して、教育者夫婦は大混乱してしまいます。ピエールは極端な遍歴があり、外人部隊に志願したかと思うと、インドに行ってヒンドゥー思想を学び、さらにフリー・メイソンに入団したのちに、こうしてイスラムに改宗したのですが、今度ばかりは志が長続きしている。つまりやっと掴んだ本物、ということなのでしょう。そのピエールにトマが感化されて、ついにトマもイスラム改宗となります。こうやって書くと、浮ついたブルジョワ家庭の「ババ・クール」志向のイスラム体験のように思われましょうが、このトマ「シディ・アキル」の魂遍歴がどうしてスーレイマンに大きなショックとなるのかを、小説はトマのミスティックな体験で説明しようとします。私にはよくわかりません。しかし生まれも育ちも極端に違う二人が、イスラム(ひいてはスーフィズム)を通じて魂の交感が可能だった、ということだけは伝わってきます。  神への道を進むことは、あいつにもできる、俺にもできる、だから「俺たち」にもできる、イエス・ウィ・キャン、という簡単な構図でこの小説をくくるわけにはいきません。しかしこの小説は、こうやって行けば、郊外(バンリュー)が俺たちの内側が変わっていくことによって、郊外戦争など起こるはずはないのだ、というひとつの確信に私たちを導こうとしているのは、とてもよくわかるのです。  トマとの出会いはいかに大きなショックであっても、この小説の終部では、そのトマともいつか疎遠になってしまったことも吐露されています。文学としてこの小説が中途半端なのは、私のような読者には、史的根拠や教条的な言説ではなく、もっとエモーショナルな伝え方があるのではないか、というフラストレーションを持たせてしまうことです。  逆のことを言うと、私たちはCDを通してアブダル・マリックの声とそのディクションを良く知っているがゆえに、これほど作者の肉声が聞こえてくるような小説もないのです。知らずとも、文字はアブダル・マリックの声で読まれている音を私の頭脳は聞いてしまっていて、それは強烈に響くのです。読んでしまったあとで、ああ、おまえの言うことはよくわからなくても、おまえとはとことん話しあった、というような親近感が救いです。 (↓2010年5月、アルザス地方のネットTVで「小説を書く」という行為を説明するアブダル・マリック)
Abd Al Malik : Du Slam à la littérature ...
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2010年12月4日土曜日

今朝の爺の窓 2010年12月4日



 5日前に同じような画像で紹介したばかりですが、今朝は雪です。午前の早い時間は細かい粉雪だったのに、11時頃からは湿り気の多いボタン雪に変わってきました。午後には雨になる予報で、気温がやや上昇してきた証拠です。ずっと零下の気温だった1週間でしたが、この週末から月曜日までは寒さが少し緩むとのことですが、火曜日からまた厳寒に逆戻りということです。
 雪を見ながら、何シーズンもスキーに行っていないなあ、などと雪山を恋しがったり。そんなことよりも原稿を早く終わらせないと...。

 ↓「今朝の爺の窓」動画篇。



PS 12月9日。
朝日を浴びるとこんな色。

2010年12月3日金曜日

ヨムの国 不思議な旅



 11月30日(火)、パリのカフェ・ド・ラ・ダンスで、「クレズマー・クラリネットの新王」ヨム君とその新しいバンド、ザ・ワンダー・ラバイス(The Wonder Rabbis 不思議のラビ導師たち)のコンサートでした。
 このバンドのアルバム"WITH LOVE"はこんな風なジャケで、クラリネットを持ったスーパーヒーローとなったヨム君が、黒い円筒形のラビ帽をかぶった3人の黒筋肉ファイターを連れて、日夜正義のために戦う、という図です。ただ、アルバムはまだ制作中で、来年の2月にリリース予定ですが、録音は済んだものの、まだ曲名も決まっていないものばかり、とヨム君が曲間のしゃべりで言ってました。
 これまでヨム君は2008年に『ニュー・キング・オブ・クレズマー・クラリネット』、2009年に『ウヌエ(はじめに)』という2枚のアルバムを発表していて、そのケレン味たっぷりの超絶技巧と、目立ち好きのショーマンシップと、他流試合好きな新奇趣味で,僭称した「新王」の地位を確固とした王位に近づけつつあります。チューバと打楽器とピアノとクラリネットという編成だった2008年から、イブラヒム・マルーフ(トランペット)、ワン・リ(口琴)、ビージャン・シェミラニ(ザルブ)などと一対一の二重奏(アルバム『ウヌエ』)を経て,2010年型のヨム君はフェンダー・ローズ(エレピ)、5弦エレキベース,ドラムス,という3人を従えて、ヨム流「サイケデリック・クレズマー」を展開します。
 ジャズ色はぐっと後退し(なにしろヨムのクラリネットを除いては誰もソロ・アドリブを取らない)、プログレッシヴ・ロック的にそのアトモスフィアを創りだすことに専念する3人、ザ・ワンダー・ラバイス。なぜこのバンド名がついたか、というヨム君の説明がふるっています。「3人に共通したものは何か? それは黒縁四角フレームの眼鏡!」。たしかにこの眼鏡だけで怪しげなジューイッシュ(別の言い方では「不思議なラビ」)ということに何の説明も必要ないでしょうに。コンセプトはヨム王と不思議なラビの3人が、孫悟空/猪八戒/沙悟浄を供に従えた三蔵法師の「西遊記」よろしく、中欧/東欧を探訪する「東遊記」というマジカル・ミステリー冒険絵巻なのです。いろんなキノコを食べながら道を進むので、おのずとサイケデリックになるわけですね。
 ヨム君のステージを見るのはこれが3回目ですが、見る度にこの人は本当はギタリストになりたかったのだ、ということが確信できるようになります。何を間違ってクラリネット奏者になったのか、という自問自答の果てに、華麗なるロックギターヒーローと見まがうケレン味を身につけたのでしょう。海老反りのクラリネットと70年代サイケデリック〜80年代ニューウエイブとも共通するエレクトリックなサポート隊。ディーヴォっぽかったり,キュアーっぽかったり、クリムゾンっぽかったり...。コンセルヴァトワールでクラリネットを勉強しながら,影でこんな音楽聞いていたのですね。
 アルバムが本当に楽しみです。わくわくです。


(↓まだ曲名もついていない曲を披露するヨム君)

2010年11月30日火曜日

こんな寒い日にノワール・デジールが解散した


 
 2010年11月29日,ギタリストのセルジュ・テッソ=ゲーが脱退表明。ヴォーカリスト,ベルトラン・カンタとの「情動的、人間的、音楽的な不一致 désaccords émotionnels, humains et musicaux」が原因と言いました。それに加えてセルジュはこの数年間にバンドの中に存在した「ある種の露骨な感情 un sentiment d'indécence」という言葉も使っています。おそらく獄中および出獄後のベルトランの挙動に、もう理解不能のものを見ていたのだ,と解釈できます。
 この時点でメディア(ラジオ,新聞雑誌のインターネット速報サイト等)は、もうノワール・デジールの最後を予告していました。単にギタリストの脱退ではなく、バンドがもう立ち行かないことは明白だったようです。
 翌日11月30日,ドラマーのドニ・バルトが、他の二人(ベルトラン・カンタとベーシストのジャン=ポール・ロワ)の意向をも代弁する形で、3人からの正式発表として開口一番「Noir Désir, c'est terminé ノワール・デジールは終わった」と告げたのでした。「明白でない理由のために、人工心肺を使ってノワール・デジールを延命させることは不可能だ」と。
 
 まだまだ冬は始まったばかりで,おまけにフランスが11月としては記録的な寒さに襲われている2010年11月末,こんな日にノワール・デジールが解散しました。
 今から1週間ほど前に発売されたラティーナ12月号に、私は、ベルトラン・カンタはやっとこさ再始動したが,ノワール・デジールは復活できるのか、という記事を書きました。ノワール・デジールは2年前から「新アルバム準備中」という、言わばネットでよく見る「under construction」看板のような状態がずっと続いていました。曲はできているのに、詞が書けない。ベルトラン・カンタはまだ作詞できる状態に戻っていない(これは一生戻らないかもしれない)。この事情は拙稿上で長々と書きましたが、トランティニャン家のプレッションや内的な精神葛藤で、自分の根っこに関わることを語ったり,詞として表現することを封印してしまったのなら、バンドは何を歌うのか、何を表現するのか。みんな考えたでしょうけど、バンドとしてやることはもうないと決めたのですね。
 こういう時にも(今日現在までの時点ですが)、ベルトラン・カンタが一言もコメントできない、というのが痛々しいです。

(↓11月30日、BFM TVで流れたノワール・デジール解散のニュース)

La fin du groupe de rock Noir Désir
envoyé par BFMTV. - L'actualité du moment en vidéo.



PS1 : 12月1日。今朝のリベラシオン紙の第一面。見出しは「崩れさるノワール・デジール Noir Désir sombre 」。

2010年11月29日月曜日

今朝の爺の窓 2010年11月29日



 平年気温より7度低い数日間で、朝は零下,昼の最高気温でも2度〜4度というのが先週から続いていて,それが今週一杯続くという予報です。私は雪国育ちの分際で寒さにからきし弱く(実は暑さにはもっと弱い)、こういう天気の時は、ヴィヴァルディ『四季』の「冬」を聞きながらこたつで丸くなる、というのが常です。最近,日本茶の茶請けに「ダット」(干しナツメ。北アフリカ系のエピシエで良く売っている)がよく合うというのを発見して、渋茶とダットが午後4時頃の習慣になりました。
 昨日の日曜日は午後いっぱいかけて,ゼラニウムやあじさいやラベンダーなどのベランダの鉢植えに越冬用の覆いをかけてやりました。この覆いをかけてやっても、ゼラニウムは翌春まで延命したためしがないのですが、3季節がんばって咲いててくれたんだから、愛情だけはかけてあげませんと。
 マルセル・カンピオンがラジオのコマーシャル・スポットで、今年も大観覧車,クリスマス市,氷の彫像館「アイスマジック」があるから,シャンゼリゼにおいで、と宣伝しています。シャンゼリゼは電飾ライトアップがかねてから世界的に有名ですけど、このカンピオンの「クリスマス村 Village de Noel」企画が始まって以来,わしら西洋かぶれだった東北田舎のガキどもが夢見た,まさにそのままの「ウィンターワンダーランド」が現出してしまったのです。
 そう言えば,わが家の向かいのドメーヌ・ド・サン・クルーの(冬に何度か雪化粧する)白い森も、ガキの私が夢見ていた「ウィンターワンダーランド」に似ているでしょうね。たぶん雪の精が棲んでたりするんですよね。

2010年11月26日金曜日

(マルセイ)遊星老年パペー

PAPET J vs RIT "PAPET J POINT RIT" パペー・ジ vs リ『パペー・ジ ポワン・リ』  まずニュースから。  マッシリア・サウンドシステムのライヴアルバムが2011年4月4日に出ます。CD+DVDのセットで、CDは1996年の未発表ライヴ、DVDは2008年7月のカルパントラでのライヴ映像。  タトゥー(ムッスー・T)と共にマッシリアの双頭リーダーでMCのジャリ(パペー・J。本名ルネ・マッザリーノ)の、サイド・プロジェクトで「パペー・J & ソレイ FX」に続くアルバムです。ソレイ FXと言っても実体はバンドはないのでほとんどソロ・プロジェクト(機械じかけのラガ)であった前作に対して,今回はマルセイユ1974年生れの若きマルチ・インストルメンタリスト,Rit(リ)とのデュオです。アルバムのタイトル字の大きさや,ジャケの顔写真の大きさから判断しても、リ君の方が同格以上の目立ち方です。  リ君の経歴を見ますと、ブルース/ロックをベースにしながら、ベナンのバンドと共にベナン,ギネア,アルジェリアなどを回ったこともあり、楽器テクとスタジオワークに長けた「ひとりオーケストラ」的なミュージシャンで,ギター使いやオーケストレーションで"-M-”(マチュー・シェディド)に近いものを感じさせます。  アルバムは10曲めの"PAUVRE DE NOUS"(マッシリアの2001年アルバム"3968CR13"の中の1曲でジャリ/タトゥーの作品)のリプリーズを除いて,全曲パペー・J/リの共作ということになっています。タトゥー/ブルー組(ムッスー・T&レイ・ジューヴェン)に触発されたのでしょうか、ギターが良く鳴るブルース・ロックが3曲あります。(私の先入観では、ジャリの守備範囲とはちょっと違うような気がします)。  マッシリア流儀に近い「港町シャンソン」系の9曲め「カバノン」(マルセイユ海浜地区の小別荘というよりむしろ小屋住宅)が美しいし、これもマッシリア流儀である世相批判の曲が3曲(3. "PRESSEIONS/REPRESSION", 4. "HUMANITY", 7. "A QUOI BON")。そして前述の"PAUVRE DE NOUS"(10曲め)あたりが、怒れる「マッシリアのジャリ」をモロに感じさせてくれます。  しかしその他は、リ君と全く新しい冒険に挑んでいるような、新しいサウンドに遊ぶジャリの顔です。そりゃあマシーンだらけのラガ仕立てだった「ソレイFX」に比べたら,たいへん多種多様な音楽で、ひとえにリ君の力なんでしょうが、そのヴァラエティーにおいてはムッスー・T&レイ・ジューヴェンとレヴェル的に近いように思えます。願わくば,パペー・ジャリがもっとはっきりした主導権を発揮してくれないと、リ君のサウンド遊びにジャリのキャラクターが希薄化されることになりかねません。  終盤4曲(9-10-11-12)すべて好きです。 <<< トラックリスト >>> 1. RUELLES 2. FIN DE SEMAINE 3. PRESSION / REPRESSION 4. HUMANITY 5. SUR CETTE TERRE 6. JE REVE 7. A QUOI BON 8. VOODOO CHILD'S 9. CABANON 10. PAUVRE DE NOUS / POURQUOI? (VERSION 2010) 11. HEY GUS 12. JE M'ESCAPE PAPET J vs RIT "PAPET J POINT RIT" CD ROKER PROMOCION RP1003 フランスでのリリース 2010年10月18日 (↓)『パペー・ジ・ポワン・リ』のオフィシャル・ヴィデオクリップ "FIN DE SEMAINE"
Fin de semaine - PapetJ.Rit | Clip officiel
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2010年11月20日土曜日

ピガールのど真ん中で



 カウンターの下にオレンジ色の電光看板みたいについている、お月様と猫がケンカしている図。これがこの「オ・ノクタンビュール Aux Noctambules」という店のシンボルマークです。ノクタンビュールとは、スタンダード仏和辞典では「1.夜遊びの好きな人、夜出歩く人。2.[古]夢遊病者(=somnanbule)」と訳されています。
 月と猫が騒々しいから、眠れない人々、当たっているイメージではないでしょうか。パリでそういう人たちが出かける場所というのは、19世紀後半から「ピガール」と決まっていたわけです。
 モンマルトルの丘の南の麓を横切る一本の大通り(一本でも名前は西半分がクリシー大通り、東半分がロッシュシュアール大通り)とそこから枝葉して広がるたくさんの小道に、セックスシアター、セックスショップ、キャバレー、バー、ショー小屋、風俗バーなどが軒を並べています。いわゆる歓楽街ですが、これを仏語では 「Quartier chaud カルチエ・ショー」(熱い街区)と言います。
 トゥールーズ・ロートレックの絵に描かれ、近代シャンソンの開祖と言われたアリスティッド・ブリュアンが出演していたことで知られるキャバレー「黒猫亭」(Le Chat Noir) が開店したのが1881年のこと。そしてブランシュ広場の名物となる「赤い風車」(Le Moulin Rouge)」の開店1889年。シャンソンと演し物で人を呼ぶ店が次から次に出来て、夜の世界のギャングたちが町を牛耳るようになり、売春窟も林立します。1918年に酒類と電力を制限する法律が通り、21時以降の営業は遊郭だけが許可されるようになり、ピガールの一角とそれを握る暗黒街の男たちだけが莫大な利益を手に入れることになります。遊郭は20年代にはピガールだけで177軒あり、娼婦の数は2000人と言われました。戦後になって遊郭/赤線/売春窟は法律で禁止されますが、その法の網をくぐっての売春はなくならず、80年代までフランス最大の「色街」として栄えます。しかし、90年代からエイズ禍の波はピガールを直撃し、セックス産業は急激に衰え、町の灯が消えかけたところに、オルタナティヴ・ロックやヌーヴェル・セーヌ・シャンソンがこの町を支え、腹の突き出た観光客たちよりも、音楽好きな若者たちがピガールに還ってきます。エリゼ・モンマルトル、ラ・シガール、ロコモティヴ、ブール・ノワール、ディヴァン・デュ・モンド、トロワ・ボーデ...。ピガールは変わりました。しかし、アリスティッド・ブリュアンや「ル・シャ・ノワール」の頃のピガールがまた還ってきた、とも言えるでしょう。
 「カフ・コンス(Caf'conc')」は、カフェ・コンセール(café concert)を約めた愛称ですが、19世紀からパリの飲食店で開かれていたシャンソンやダンス音楽の小コンサートのことを意味していました。それが19世紀末から20世紀にかけて、大きなレヴュー・ショー興行のホールに変わったのが、英語由来の「ミュージッコール Music Hall」と呼ばれる劇場です。シャンソンの最前線はこのカフ・コンスからミュージッコールに移行し、カフ・コンスは1910年代には廃れて、町から姿を消していきます。
 「オ・ノクタンビュール」はその1910年代に開業し、2010年の今日、いまだに「カフ・コンス」を名乗る、パリでも超稀れなカフェ・バーであり、今日でも21時を過ぎると、カフェ奥のサロンにあるステージにシャンソン歌手が出て、ノスタルジックなシャンソン・ショーを開いています。この由緒ある場所は、この2010年1月にエイズで逝ったアーチスト、マノ・ソロ(1963-2010)の歌に歌われ、レコード・デビューする前のレ・ネグレス・ヴェルトが根城にしていた、ということでも知られています。
 そのカフ・コンスの「デビュー・ド・ソワレ」(宵の口)、夕のアペリティフ時間、昨今のフランスのカフェ・バーでは英語をそのまま使って「ハッピー・アワー Happy Hour」と称して、ドリンク値段を安くした時間帯にしてますが、17時から21時まで、われらが友、マヌーシュ・ギタリストの波多野君がこの秋から毎晩演奏しています。
 お客様は様々で、観光客もいれば、地元の酔漢もいれば、モンマルトルを愛する画家などのアーチストもいれば、エリゼ・モンマルトルやラ・シガールでのコンサートの前に一杯飲みに来る音楽ファンもいれば、という感じです。われわれが冷やかしに行った11月19日(金曜日)の夜には、波多野君とサイドギタリストのマニュのコンビのファンというロシアの画家が、二人に自作の絵をプレゼントする、という感動的な場面もありました。
 このピガールのど真ん中で、アーチストとしてピガール色に染まって土地に根を張っていく波多野君、とてもいい感じです。まぶしいです。うらやましいです。

(↓ジョルジュ・ブラッサンスの代表曲のひとつ「レ・コパン・ダボール(友だちが最優先)」を弾く波多野君とマニュ君)

2010年11月16日火曜日

愛するハーモニー



FAMILY OF THE YEAR "OUR SONGBOOK"
ファミリー・オブ・ザ・イヤー『アワ・ソングブック』


 タイトルの出典は1971年のコカ・コーラ社のキャンペーンソング"I'd Like To Teach The World To Sing (In Perfect Harmony)"の日本語題で、ザ・ニュー・シーカーズ等が歌っておりました。今聞くと虫酸が走りますが。
 ファミリー・オブ・ザ・イヤーは加州のバンドです。中心人物のジョセフとセバスチャンのキーフ(Keefe)兄弟はウェールズ系らしいです。この「キーフ」という名前に、フランスの某音楽雑誌は(こじつけで)反応して、現代フランスの若い衆言葉である「Kif」(キフ = 好き,愛する)と同じ語幹を見取って,新しい時代の「ラヴ&ピース」にふさわしい名前である,なんて言うんですね。
 第一音を聞いた時から,けばいフラワー・ペインティングを施したVWミニバスで行く、陽光あふれる加州で出会うインド綿チュニック着た長髪族男女が,半分眠ったような目で微笑みかけてきて、花をめしませ、めしませ花を、なんていう世界へトリップさせる音楽です。スティーヴン・タイラー(エアロスミス)は、このバンドを称して「アシッドをやっているママス&パパス」とたとえました。まさに。この男性4人+女性2人のアコースティック・バンドの第一の武器は混声コーラスハーモニーです。ママス&パパス,ビーチ・ボーイズ,(転向後の)フリートウッド・マック、(転向後の)ジェファーソン・スターシップ,すなわち加州のポリフォニー。
 2009年に加州のWashashore Recordsというインディーレーベルから出た4曲入りEP"Through the Trees"とフルアルバム"Songbook"からセレクトした14曲を、フランスのインディーレーベルVOLVOXが新しいジャケットアートで包んで2010年11月にリリースしたのが,この『アワ・ソングブック』というアルバム。
 この2〜3年,MGMTやアーケイド・ファイアの台頭をうれしい思いで見ていた爺のような愛サイケの人たちが飛びついたアルバムです。これは決してザ・ニュー・シーカーズあたりにノスタルジー持っている人たちが買ったアルバムではありません。RADIO NOVAは夏頃からエレクトロ・サイケな "PSYCHE OR LIKE SCOPE"をヘヴィー・ローテーションで、このバンドをいち早くフランスで紹介しました。もろビーチ・ボーイズな"SUMMER GIRL"も夏の終わりに聞いたら涙ものでしょう。来年夏,ROCK EN SEINEに来てくれたらなあ、と密かに期待しております。

<<< トラックリスト >>>
1. LET'S GO DOWN
2. INTERVENTION (STAPLE JEANS)
3. STUPIDLAND
4. PSYCHE OR LIKE SCOPE
5. FEEL GOOD TRACK OF ROSEMEAD
6. SUMMER GIRL
7. THE PRINCESS & THE PEA
8. CASTOFF
9. TREEHOUSE
10. SURPRISE
11. CHUGJUG
12. THE BARN
13. NO GOOD AT NOTHING
14. HERO

FAMILY OF THE YEAR "OUR SONGBOOK"
CD VOLVOX VOL1008
フランスでのリリース:2010年11月


(↓ "STUPIDLAND" オフィシャル・ヴィデオクリップ)


PS : 2011年1月10日。
Radio Novaで昨秋おおいに流行った「サイケ・オア・ライク・スコープ」のオフィシャル・クリップが完成。往年のニュー・エイジっぽさが...。マジなんでしょうか。

Family of the Year: Psyche or Like Scope
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2010年11月14日日曜日

もうすぐ再始動するゼブダを垣間みる

 11月13日、パリのヴィレットにある常設テントシアター「キャバレー・ソヴァージュ」で、ムース&ハキムの「キャルト・ブランシュ」(白紙。すなわち彼らにおまかせ。好き放題。自由企画。多くの場合はゲスト呼び放題という感じです。)コンサートでした。夏にこのプログラムが発表された時は、11月11,12,13日の3日間の予定で、毎日日替わりゲストが出るとの豪華版の触れ込みだったのですが、どういう事情なのか、11,12日がキャンセルになってしまいました。その代わりに、13日にはゲスト陣の中にマジッド・シェルフィがいて、ゼブダのフロントメン3人のそろい踏みが見れるというので、大変な前評判になっていました。ただし、一般のチケット売りはなく、ラジオ2社と新聞雑誌社2社の応募抽選インヴィテーションと、トゥールーズの市民団体タクティコレクティフのインヴィテーション(私の場合はこれです)のみが入場できるという、ちょっと「セレクト」なコンサートでした。  前座はレダ・カテブ(俳優、詩人。あとで調べたら、この人はアルジェリアの詩人ヤシーヌ・カテブの甥の息子にあたり、アマジーグ・カテブとは遠い親戚関係にある。DJがバックトラックにアマジーグの音楽を使っていた)とDJブーラワンによるスラムのショー。  次いでムース&ハキムのショーは「オリジンヌ・コントロレ」パートと「モティヴェ」パートの2部構成で、ゲストはもっぱら「オリジンヌ・コントロレ」編で登場。カビリアのベテラン歌手、アイト・メンゲレットは2曲。来日経験ありのジャヴァ・ロックバンド、レ・ゾーグル・ド・バルバックのヴォーカリスト、フレドは1曲。ラップのMAP(ミニステール・デ・ザフェール・ポピュレール)(ジャヴァ系でアコなどをバックにラップする、北仏リールのグループ。初めて見た。ムース&ハキムとヴァイブレーションもコンビネーションもバッチリ。波長が一緒。ちょっとびっくり。気に入りました)は2曲。  そして千両役者マジッド・シェルフィの登場でした。もともと重そうな人でしたが、ますますヘヴィー級になってました。小さくて軽量級のアモクラン兄弟の激しい動きの真ん中で、どすこい、どすこい、と動いている感じ。ステージを離れて長いもんだから、床に置いた歌詞プレートを読みながら、というのも...。2曲めに、待ってましたのゼブダ・レパートリー、"MA RUE"(1995年アルバム"LE BRUIT ET L'ODEUR"の中の1曲)をやりました。私は大満足。  しかし、かの20周年ダブルライヴアルバム『VINGT D'HONNEUR』でも立証されたように、回を追うごとにこのムース&ハキム「オリジンヌ・コントロレ」バンドがすごく良いバンドに成長してしまって、復活後のゼブダがこのバンドを越えるには、たいへんな努力が必要なような気がしますが。 (↓たったの50秒ほどですが、"MA RUE")

2010年11月13日土曜日

ピアノ怪獣にさらわれた少女の物語



Babet "Piano Monstre"
 バベット『ピアノ怪獣』


 早いものです。バベットのソロアルバム『Drôle d'Oiseau奇妙な鳥』は3年前(2007年)のことだったのですね。その年最も印象に残ったアルバムの1枚なのに、ブログに紹介されていなかったのは、このブログ開設前に出ていたアルバムだったからでした。
 ディオニゾスのヴァイオリン奏者。最初はなぜこんなノイジーなバンドに、普通の娘っぽい佇まいのヴァイオリニストがいるのか、とても不思議でした。超強烈な個性とエゴと才能の持ち主マチアス・マルジウ(ディオニゾスのリーダー)の影で,10年も一緒にやっているのはよっぽどのことだと思いますよ。その間にマルジウはオリヴィア・ルイーズの公私とものパートナーになってしまいましたし。オリヴィア・ルイーズの才能の開花というのはマルジウに超ラジカルに触発されてのこと,というのは疑いの余地がありません。私はオリヴィア&マルジウのカップルは、今フランスで最も輝いているように見ています。
 そう言えばマチアス・マルジウの小説『時計じかけの心臓』が,リュック・ベッソンのプロデュースで3Dアニメーション映画化が進行していて、2012年公開だそうです。亡くなったバシュングを除いて、CDアルバムに出演した人たち(オリヴィア・ルイーズ,マチアス・マルジウ,グラン・コール・マラード,エミリー・ロワゾー、ロッシー・デ・パロマ,ジャン・ロッシュフォール...もちろんバベットも)が全部そのまま声優となって出るようです。その映画サントラの音楽の一部をバベットも担当するのだそうです。(リュック・ベッソンという偏見を捨てて)この映画非常に楽しみです。
 さてバベットは、そういうマルジウ路線とはっきりと一線を画する,さわやかなフォーク・アルバムをソロ第一作として発表したのですが、2010年のこのセカンドアルバム『ピアノ怪獣』は、ポップで物語性があり、なにか『時計じかけの心臓』にも近いものを感じさせるアルバムになっています。近いもの、と言うよりは、マチアスには『時計じかけの心臓』みたいな大作ができたけれど、私には鼻歌でこんなのができちゃったのよぉ、というお茶目な対抗意識みたいなものが感じられます。
 13曲中6曲がデュエット曲(12曲め"TES YEUX DANS CE BAR"では、マチアス・マルジウとアンディー・メストルとバベットの掛け合いなのでトリオ曲ですね)という構成では、どうしてもソロアルバムというより,ミュージカル仕立て/昔のジャック・ドミー映画風な雰囲気がまさります。前作のような生ギター主導のフォーク風な音が後退して、ピアノ(まあ一種の主役ですから)やストリングスが小アンサンブルとなってバックを固め,その上に少女の物語がモノローグやダイアローグになって歌われる,という作りです。ディヴァイン・コメディー(ニール・ハノン)みたいでもあり、小劇場のオペレッタみたいな雰囲気もあります。
 ピアノ弾きの少女はたった一度の弾き間違いのために、ピアノ怪獣に囚われてしまいます。アルバムはこう始まります。こういう始まりですと、少女がさまざまな知恵を働かせて,いろいろな人たちの助けを借りて,このピアノ怪獣から逃げ出す冒険物語のようなものを期待するじゃないですか。ところが進行していく歌の歌詞を追っていくと、そういう筋書きのはっきりしたストーリーではなくて、夢の中の話のように、いろんなところに飛んでしまうので、絵本的結末などなく、拡散してしまうのです。あるいは、このアルバムは来るべき大作『ピアノ怪獣』物語の断片的挿入歌集なのかもしれません。
 共演するメンツはヒュー・コルトマン(英国のフォーク・アーチスト,元THE HOAX)、アンディー・メストル(モンペリエのバンド,フーディーニのリーダー)、男優エドゥアール・ベール,アルチュール・アッシュ,そしてディオニゾスのマチアス・マルジウ。
 ベース(ステファン・ベルトリオ)とドラムス(エリック・セラ=トジオ)はディオニゾスのメンバー。そしてこのアルバムのバベットに次ぐ準主役とでも言うべきピアニスト氏はシルヴァン・グリオット(クラシック/コンテンポラリー/エクスペリメンタル系のピアニスト/作曲家のようです)。プロデューサー(フランス語で言うところのréalisateur)は超売れっ子のジャン・ラモート(バシュング,ラファエル,ノワール・デジール,ヴァネッサ・パラディ,サリフ・ケイタ....)。
 マルジウの『時計じかけの心臓』に比べてはいけないのでしょうが、物語という点では全然弱いものの、不思議の国のアリスみたいな飛び方はバベットの個性とよくマッチしていると思います。この個性的な鼻歌ヴォーカルと、マルジウより豊かであろう楽識がしっかり裏打ちしたようなメロディーが、バベットという不思議なキャラクターを作っています。
ベストトラックはエドゥアール・ベールとのデュエット『Le Miroir』(7曲め)。11-12-13曲は3つともとても好きな曲ですが、もっと工夫があってほしい(もっとドラマティックであってほしい)。ひょっとしてバベットはソングライター/コンポーザーとしての方が資質がもっとはっきり発揮できるかもしれない、とも思いました。これは前々からケレン・アン・ゼイデルに対して思っていたことでもあります。

<<< トラックリスト >>>
1. PIANO MONSTRE
2. LES AMOURATIQUES (feat. HUGH COLTMAN)
3. LA COULEUR DE LA NUIT
4. JE PENSE A NOUS
5. CIEL DE SOIE (feat. ARTHUR H)
6. LA CHAMBRE DES TOUJOURS
7. LE MIROIR (feat. EDOUARD BAER)
8. MEXICO (feat. ANDY MAISTRE)
9. LAIKA (feat. ARTHUR H)
10. LONDON INEDITE
11. LE BEL ETE
12. TES YEUX DANS CE BAR (feat. MATHIAS MALZIEU, ANDY MAISTRE)
13. UNDERWATER SONG

BABET "PIANO MONSTRE"
CD V2 / UNIVERSAL MUSIC FRANCE 2749783
フランスでのリリース 2010年9月27日


(↓『ピアノ怪獣』からのファーストシングル"JE PENSE A NOUS"のクリップ)

2010年11月12日金曜日

赤い城(シャトー・ルージュ)をハカイしろ

Abd Al Malik "CHATEAU ROUGE" アブダル・マリック『シャトー・ルージュ』  2007年の大統領選挙で社会党セゴレーヌ・ロワイヤル候補が負けた時に、敗因のひとつに彼女の「声」があった,という説がありました。ロワイヤルの声に魅力が乏しい。仮に全く同じ演説を,サルコジの声で聞くのとロワイヤルの声で聞くのでは、サルコジの声の方がはるかに人を説得させるものがあるだろう、という説でした。たしかにそういうものがあると思います。しかし,その説に触れて,元TVジャーナリストでベルナール・クーシュネール現外相の夫人,クリスティーヌ・オックランは「声は訓練で直すことができる」と言ったのです。すなわちセゴレーヌ・ロワイヤルはその訓練を怠って,声を修正しないまま選挙に臨んで負けた,と。  アブダル・マリックがラップでもスラムでもなく、「歌」を歌う時,私はあの声はどこに行ったのだ?と戸惑ったのです。スラムでビロードの声が出せても、歌うとそれが出ない。非常に奇妙な感じがしたのです。これではMCソラールではないか,と。  そしてこれには賛否両論が出るであろう,ということは前もってアブダル・マリック自身が知っていました。テレラマ誌のシャンソン欄ジャーナリスト,ヴァレリー・ルウーのインタヴューに答えて,アブダル・マリックは自身の大転換を「初めてエレクトリック・ギターを持ったボブ・ディラン」になぞらえたのです。おいおいおい!  前2作のアルバムに比べれば,確かにラジカルな変化です。しかし彼が「歌う」ことは、ボブ・ディランがエレキを持つことではないでしょうに。そして,もっと「歌う声」を形成してからの方がよかったのではないか、という気がします。  不満はあれど、新しい方向に踏み出たアブダル・マリックはやっぱり面白いのです。彼にとっての「ヒップホップ」は、あらゆるものが溶け込んでもいい音楽であり、彼がジャズやポエトリー・リーディング(スラム)やシャンソン(グレコ,ブレル)をその中に溶け込ませたように、また哲学やヒューマニズム全体への考察をライムに溶け込ませたように、今度は「歌」(ポップ〜ヴァリエテ)とエレクトロとダンスビートを大胆に溶け込ませたのです。  共犯者としてプロデューサーにチリー・ゴンザレス。効果的かつ小気味よいポップに仕上げるには、今日ゴンザレスほどの適任者はいないかもしれません。それがアブダル・マリックの持ち味とうまく調和するか,というのが問題ですが、私はすべてが成功したとは思えません。  英語を混ぜるのは、やはりこの人の本領ではないのではないか、と思います。モリエールの言語だけでやってほしいなあ。  14曲のアルバムで,新奇のグルーヴや、異種交配実験や,歌うエレポップみたいなもの中で,祖父の死でルーツ回帰してしまう「ヴァランタン」(1曲め)、ガキの頃の自転車競争で事故った思い出「ディナモ」(6曲め。自転車なのでどことなくクラフトワーク"Tour de France"みたいなバックトラックが妙におセンチで)などスラムものが私にはやはり一番しっくりくるようです。そしてアルバムタイトル曲の14曲め「シャトー・ルージュ」は、ジェラール・ジュアネスト(ジャック・ブレルのピアニスト,ジュリエット・グレコの夫)との再会で,ジュアネストのピアノ(作曲はジュアネスト自身)を伴奏にした12分の散文詩(叙事詩)リーディングです。雨の音やドアのしまる音や往来の音,想像したら簡単に絵が見えてしまうラジオドラマのような、懐かしくも情感も語彙も豊かな詩人の世界。絶対これが本領でしょうに、と納得させるための曲でしょうか。それとも「俺は何も変わっていない」という証拠を残したかったんでしょうか。 <<< トラックリスト >>> 1. VALENTIN (Abd Al Malik / Bilal) 2. MA JOLIE (Abd Al Malik / Wallen) 3. MISS AMERICA (Abd Al Malik / Bilal) 4. MON AMOUR feat. Wallen (Abd Al Malik / Wallen) 5. LE MEILLEUR DES MONDES / BRAVE NEW WORLD feat. Primary 1 (Abd Al Malik, Primary 1 / Bilal) 6. DYNAMO feat. Ezra Koenig (Abd Al Malik, Ezra Koenig / Wallen) 7. CENTRE VILLE (Abd Al Malik / Wallen) 8. GOODBYE GUANTANAMO (Abd Al Malik / Bilal) 9. NEON feat Mattéo Falkone (Abd Al Malik, Mattéo Falkone / Bilal) 10. WE ARE STILL KINGS (Abd Al Malik / Wallen) 11. ROCK THE PLANET feat. Cocknbullkid (Abd Al Malik, Cocknbullkid / Wallen) 12. SYNDI SKA LISTE (Abd Al Malik / Wallen) 13. GROUND ZERO (ODE TO LOVE) feat. Papa Wemba (Abd Al Malik, Papa Wemba / Wallen) 14. CHATEAU ROUGE (Abd Al Malik / Gérard Jouannest) Abd Al Malik "CHATEAU ROUGE" BARCLAY / UNIVERSAL FRANCE CD 2753875 フランスでのリリース:2010年11月8日 (↓アルバム『シャトー・ルージュ』のティーザー) PS : 12月4日 2010年11月9日、パリ・ゼニットでのアブダル・マリック "Ma Jolie"。アコースティック・ギターにテテ。

2010年11月10日水曜日

月月に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月

VERONIQUE SANSON "PLUSIEURS LUNES"
ヴェロニク・サンソン『月がとっても多いから』
 

が複数に見えるのは、酩酊状態のことでしょう。私はそう解釈しました。アルコール(またはその他)なしで酩酊は可能か、というと、それは可能でしょう。5年前のアルバム『ロング・ディスタンス』の頃,ヴェロさんは重度のアルコール中毒から抜け出すために、非常に苦しんでいました。当時のインタヴューでそれを救ってくれたのは、息子のクリストファー・スティルスだったということを何度も言ってました。  
 『ロング・ディスタンス』はそういう時期(おまけに、現代医学では手のほどこしようがない血液の病気を宣告された時期でもありました)の、たくさんの人たちに支えられたアルバムでした。詞も曲も半分は人に書いてもらっていて、ヴェロさんの曲よりもジャン=ノエル・シャレアの曲の方が「ヴェロニク・サンソン風」だったり、という不満もややありました。  
 そのたいへんな時期から5年を経て,ずいぶん変わったでしょう。今年ヴェロさんは61歳になりました。その間に2010年春のヒット映画『輝くものはすべて』(TOUT CE QUI BRILLE)の中でヒロイン二人に歌われたヴェロさん1973年の曲"Une drole de vie"が若い人たちの間でヒットして、(後年はどうでも)1972-73年頃のヴェロニク・サンソンというのはメロディーとリズムがふんだんに溢れ出ていたすごい才能だったのだ,ということを人々に再認識させたのでした。  
 そうなんですよ。多くのヴェロニク・サンソンのファンたちと同様に、私も72-73年頃のヴェロさんが最高だと思ってますし、あの頃のヴェロさんというのはもう帰ってこない、というのを悔やんでいるのです。    
 アルコールなし。それでも酩酊しているヴェロニク・サンソン。新アルバムはそんな意味だと思います。  制作の経緯を見ますと、最初に2009年夏からトリエル・シュル・セーヌの自宅にミュージシャンを招集して、真ん中にピアノを置き,バジル・ルルー(ギター)、ドミニク・ベルタム(ベース)、ロイック・ポンチュー(ドラムス)、メーディ・ベンジェルーン(キーボード,コーラスアレンジメント)などが見守る中で、1曲1曲ダイレクトに作詞作曲していったそうです。籠るのではなく,友人たちに囲まれた状態で曲作りをしたわけです。一人でなくて,チームでやろう、という姿勢が,アルバムの統一感に大きな効果があったようです。  コンピューターなどの手を借りずに、昔ながらの方法でひとつひとつ曲を仕上げたわけです。みんなでわいわい話しながら。  
 『ロング・ディスタンス』に比べたら,たくさん曲を書いてます。14曲中,自分が作詞作曲に関わっていない曲は3曲しかありません。姉ヴィオレーヌ・サンソン=トリカールの曲「私を許して QU'ON ME PARDONNE」(4曲め)は、ヴィオレーヌがジョニー・アリデイのために書いた曲ですが、ジョニーから拒否されたのだそうです。なにか人生の終わりを感じさせる歌です。10曲め「すべてはそれ次第 TOUT DEPEND D'ELLE」も、この"それ(ELLE)"は、"死神(LA MORT)"なのです。死と隣合わせに今日を生きているヴェロさんの胸の内でしょう。  そういう歌は少数派で,1曲めのサルサ仕立ての「夜には待ってもらって LA NUIT SE FAIT ATTENDRE」から、なにかあの頃のメロディーの宝箱だったヴェロさんが帰ってきたかのようなうれしさです。あの「うなり歌唱」だけはなんとかならないものか、と思うムキも多いでしょうけど、5曲ぐらいで登場しますが大目に見てください。あれがなければヴェロさんじゃなくなっちゃいますし。もう高音域の声は出ませんが,音符数の多い歌ばかりです。デビュー当時はガーシュウィンと比較されたメロディストでしたから。  
 13曲め「地平線奪い VOLS D'HORIZONS」は、1989年の「アッラー」に続いて,イスラム原理主義へのプロテスト・ソングです。やる気あるなあ。  そりゃあ72-73年のヴェロさんではありません。しかし『ロング・ディスタンス』よりは格段に「ヴェロニク・サンソン風」になっています。酩酊,陶酔は、来年2月のオランピアの時にヴェロさんと共にしたいと思ってます。私は一生ヴェロさんのファンですから。

<<< トラックリスト >>>
1. LA NUIT SE FAIT ATTENDRE (V.SANSON)
2. JE VEUX ETRE UN HOMME (V.SANSON / M. BENJELLOUN)
3. PAS BO PAS BIEN (V.SANSON, M. BENJELLOUN, D. BERTHAM / V.SANSON)
4. QU'ON ME PARDONNE (VIOLAINE SANSON-TRICARD)
5. CLIQUES CLAQUES (V. SANSON)
6. JUSTE POUR TOI (V.SANSON / M. BENJELLOUN)
7. SALE P'TITE MELODIE (V. SANSON)
8. SI TOUTES LES SAISON (V. SANSON)
9. SAY MY LAST GOODBYE (duet with CHRISTOPHER STILLS) (C.STILLS)
10. JE ME FOUS DE TOUT (V. SANSON / C. STILLS)
11. YAYABO (aka YAYAVO) (A SANCHEZ REYES)
12. TOUT DEPEND D'ELLE (V. SANSON)
13. VOLS D'HORIZONS (V.SANSON / V.SANSON, M.BENJELLOUN)
14. AAH... ENFIN ! (instrumental) (V.SANSON)


VERONIQUE SANSON "PLUSIEURS LUNES"
WARNER MUSIC FRANCE CD 2564678504
フランスでのリリース 2010年10月25日


(↓1曲め"LA NUIT SE FAIT ATTENDRE")


PS: 国営TVフランス2のCDプロモ番組"CD'AUJOURD'HUI"(10月27日)の画像がYOUTUBEに公開されていて,そのヴェロさんの説明では、アメリカンインディアンの表現では「月」(MOON)は「月」(MONTH)と同じで,(これは日本語でも同じだ!)、この空に浮かぶ月と、30日の月が同じ言葉というのをポエティックと思ったらしいのです。アルバムを何ヶ月も何十ヶ月も作らずにいたということを「たくさんのお月様」と言ってみた、というわけです。この説明,つまんないですね。


2010年11月8日月曜日

最後に愛は勝つ

ARESKI BELKACEM "LE TRIOMPHE DE L'AMOUR"
アレスキー・ベルカセム 『愛の勝利』
 

(これから12月末までのカテゴリー<<新譜を聞く>>はすべて今年のベストアルバムですから)  

リジット・フォンテーヌの伴侶にして「共犯者」のアレスキー・ベルカセム(70歳)の40年ぶりのソロアルバムです。40年に2枚のアルバムを作る。どうして急に? という質問には,それまで作ろうという気がなかっただけで,なんとなく楽しそうだから,作る気になった,というような,この朴訥で「なんとなく」な人柄をよく伝える理由をぼそっと言ったりします。  この人,ヴェルサイユで生まれてるんです。信じられないでしょ? 単にこの「生地」のことだけでも,アレスキーという謎めいた人の意外性を浮き出させますよね。どこで生まれたの? - 「ヴェルサイユ。」 - ええぇっ!? となりますよね。  この人,ちゃんとコンセルヴァトワールで音楽を学んでいて,ミュージシャンとしてデビューしているんですね。これも意外ですよね。なんとなく学ばなくても生まれた時からのほほんとした音楽を身につけていたような感じがするのです。  すごい偏見ですかね。ブリジット・フォンテーヌは少女の頃から岸田今日子みたいだったはず,という偏見と同じですね。  優しい前衛,人肌の温度の前衛,アレスキー/フォンテーヌの持つヒューマンなイメージって一体何だったんだろうか,という問いへの答がこの70歳アレスキーのアルバムにわかりやすく展開されているように聞きました。  だって,このアルバムを聞かなければ,ブリジット・フォンテーヌのレパートリーの多くがシャービを土台にしていた,なんてこと気がつきませんでしたよ。これはもうシャービなんて言葉じゃなくても,70年代からこの人たちとつきあっているうちに染み込んでしまったわれらが内なるオリエント/アラブ・アンダルーズなんだなあ,と思いました。  夫唱婦随,ブリジットと同じような抑揚で,同じような声で,同じようなエモーションで歌うアレスキー・ベルカセム。実はリーダーシップはこっちだったんだなあ,と納得する11曲。ほとんどスタジオライヴ状態で録音された,とライナーに書かれていますが,演っている人たちが実に良い音を出してます。マルセル・ロフルールのアコーディオン/バンドネオン,ヴァンサン・セガル(ブンチェロ)のチェロ,ディディエ・マレルブ(ゴング)の笛,ハキム・ハマドゥーシュのマンドリュート,ヤン・ペシャンのディストーション・ギター...みんなアレスキー節を演るためにミュージシャンになったような感じの音ばかり出すんですよ。すごいなあ。老成した音楽ばかり。アレスキーが磁場を作っているのですねえ。10曲めの幻覚トリップの詩"CE SOIR-LA"のサウンドデザインをジャン=フィリップ・リキエルがしてるんですが,なんともサイケデリック。ああ,われらがセヴンティーズという感じがします。  そして最終曲のフォンテーヌ作詞の「愛の勝利」。勝利しちゃってますよぉぉぉ。

<<< トラックリスト >>>
1. MAGICIEN MAGICIENNE
2. L'AIR DE RIEN
3. LES FRAISES
4. LE ROCKER
5. SALOME
6. LA SEINE
7. LES BABOUCHES
8. LE BILLET
9. ON N'A QU'A DIRE COMME CA
10. CE SOIR-LA
11. LE TRIOMPHE DE L'AMOUR


ARESKI BELKACEM "LE TRIOMPHE DE L'AMOUR"
CD UNIVERSAL CLASSICS & JAZZ FRANCE 4764135
フランスでのリリース:2010年10月25日


(↓) "Les Fraises"(いちご)オフィシャル・クリップ


(↓)”Magicien Magicienne" (2014年ファン投稿クリップ)



(↓)"Le Triomphe de l'Amour" (愛の勝利)最後に愛は勝つ

2010年11月3日水曜日

日本人に生まれた娘



 10月の最終週に家族で日本に一時帰国してました。そのうち3日間は妻子は大阪で過ごし,その間私は東京で仕事の打合せなどをしていたのですが,娘は1日だけひとりで大阪から阪急電車に乗って京都へ。娘が赤ちゃんだった頃からわが家と親しくしている京都在の女性,理佐さんが娘を嵐山に案内してくれたのでした。
 1996年6月から主宰していたウェブサイト「おフレンチ・ミュージック・クラブ」の更新第2回目(つまり1996年7月)に,初めてブーローニュのわが家を訪れた理佐さんが,積み木で遊んでいる娘と一緒に写っている写真が掲載されたのでした。そうかぁ...。もう14年以上のつきあいかぁ...。理佐さんも,私も歳とりましたが,娘はどんどん成長し,今年は16歳になり,リセに通う青春まっ只中のマドモワゼルです。耳にはピアス,指爪にはマニキュア,顔にはメイク...。赤ん坊の時からフランスで育った娘ですから。
 日仏二つの文化を吸収して育ったとは言え,圧倒的に強いのはフランスで,日本はこうやって年に一度帰国して得られるものを「外人」のように吸収しているにすぎません。日本語は週に2時間の日本語補習校の授業だけでは,16歳の今でも小学5年の国語教科書についていくのがやっとです。コレージュ(中学)の社会の授業では,2年続けて率先して日本についての研究発表をするほど,日本への思いは強いのでしょうが,娘の思う日本はフランスがイメージしている日本に近いのかも,と思う時があります。その局面局面においては,私はフランス人が思い描くほど日本は良い国ではない,と思う時がありますし,逆にフランス人がその非を指摘するような悪い国でもない,と思う時もあります。私の目が客観的であるとは絶対に言えないのですが,娘にはフランス人の視点や評価を鵜呑みにすることがないように,また何が何でも「日本よいとこ」に帰結させようとしないように,きちんとした批判精神を備えてほしいものだと願っています。ただ,アイデンティティー的な不安定はどうするのか,ということを考えると,両文化の間に宙ぶらりんの状態の娘は,自分で解決がつけられるのか,と不安になることもありましょう。
 そういうことを日頃思っていた時に,この写真です。理佐さんのはからいで,嵐山で3時間かけて「舞妓さん」に変身した娘です。アイデンティティー問題なんかぶっ飛んでしまって,本当に「おまえは日本人の娘に生まれてよかった」と祝福したい思いです。おまえは日本人の娘として美しい,と。私がこういうこと書いてはいけないのだけれど,私の娘は美しい日本人の娘だ,と。顔からも姿からも日本の美が浮かび上がってくるではないですか。
 ほんのつかの間のことですが,娘は「日本の美」と化してしまったのです。夢のような時間だったそうです。こういう夢の機会を与えてくれた理佐さんに感謝。娘には一生忘れられない体験でしょう。
 外国人観光客たちが寄ってきて,一緒に写真撮ってもいいか,なんて聞いてくるんですね。その中にフランス人たちもいて,娘が(ネイティヴな)フランス語で受け答えするもんだから,フレンチーたちはびっくりですわね。娘の得意そうな顔を見たかったです。

(↓理佐さんが撮ってくれた『メイキング・オブ』の一部)

2010年10月22日金曜日

ワン・リの超常



Wang Li "Rêve de Sang"
ワン・リ『サンの夢』


 タイトルを見てフランス語の"sang"(血)なのかな、と思ったら,ワン・リの奥さんの名前だそうです。ワン・サン(Wang Sang)。このCDの美麗な4つ開きディジパックのアートデザインも彼女が手掛けていますから、グラフィック・デザイナーさんかな?と想像しています。
 ワン・リは1980年中国のシャンドン(山東)州に生まれています。大学卒業後,共産党員の両親が決めた進路に反抗し,2001年にひとりでフランスに移住します。数ヶ月の放浪生活の後,パリの西郊外イッシー・レ・ムーリノーのサン・シュルピス神学会にたどり着き,そこで修道生活に入ります。俗界と隔絶された世界に3年,ワン・リはそこで音楽の道を見いだしたのです。
 英語ではジューズ・ハープ(jew's harp)、フランス語ではガンバルド(guimbarde)、日本語では口琴,アイヌ語ではムックリ....。この楽器は古代より世界のさまざまな文化の中にありました。中国語では今日「口弦」(KouxianあるいはKou-huang)と呼ばれますが、古代にはHuang(フアンは竹かんむりに黄という字)と呼ばれ,紀元前5世紀に編纂された「詩経」にも登場しています。CDについている解説によると、古代中世と重要な楽器だったものの、14世紀頃から廃れ,中央ではほとんど使われなくなったものの、地方で民間伝承の楽器として細々と今日にまで伝えられてきたようです。その民間での使われ方として(アイヌのムックリと同じですが)、若い娘が好きな男の気を惹くために奏でる楽器だったことでも知られています。

 鉄製と竹製の数種のクーシャン(口弦)とフルス(葫芦絲。ひょうたん笛)を使ったワン・リのソロCDです。アルバムタイトル通り,奥さんのワン・サンの見た夢を音にしてみたのでしょう。「夢は無限の空間である」と解説に書かれています。それは海溝の深淵に限りなく吸い込まれて落ちていくイメージとなっています。そこで出会うクラゲや深海魚や見知らぬ生物の数々と対話します。光の届かない「グラン・ブルー」への旅です。このイメージはリュック・ベッソン映画「グラン・ブルー」と同じように胎内回帰であり、さらに人間個体が持っている太古の記憶の呼び起こしでもあります。太古,私たちはクラゲでもあり、プランクトンでもあったわけですから。
 ワン・リの作りだす音色は、そういう人間個体が知らずと持ってしまった懐かしさを刺激します。眠りに落ちてしまうかもしれません。水の中です。深い深い水の中です。18曲50分。聞き終わると、なにか長〜い眠りから覚めたような気になります。ふと頭に手をやると、海藻がついています(それはないか....)。

<<< トラックリスト >>>
1.REVE DE SANG (サンの夢)
2.HUMIDE - 2 (湿)
3.BAMBOU - 3
4.BAMBOU - 4 (竹林の中の風の匂いを覚えているかい?)
5.POISSON CHOUETTE (梟魚)
6.DONG TING (洞庭湖)
7.HUMIDE - 1 (漂・潜・滲)
8.LES RADIOLAIRES (放散虫)
9.AUX ABYSSES (深淵に)
10.CALMAR BIJOU (蛍イカ)
11.JASMINS AU FOND DE L'EAU (水底のジャスミン)
12.MEDUSE NOIRE (黒クラゲ)
13.VER DE POMPEI(ポンペイ・ウォーム)
14.UNE LOTTE DE MER EPINEUSE (トゲアンコウ)
15.POISSON SANS IDENTITE (正体のない魚)
16.MEDUSE BLEUE(青クラゲ)
17.MASCARET (高潮)
20.TROUBILLON (渦)

WANG LI "REVE DE SANG"
CD BUDA MUSIQUE 860197
フランスでのリリース 2010年11月8日



Wang Li - Chine
envoyé par ZamanArts. - Regardez d'autres vidéos de musique.

2010年10月21日木曜日

世界に広がるティケン思想









Tiken Jah Fakoly "African Revolution"
ティケン・ジャー・ファコリー『アフリカ革命』


   俺たちの代わりにアフリカを変えに来てくれる者など
   誰ひとりとしていやしない
   俺たちの代わりにアフリカを変えに来てくれる者など
   誰ひとりとしていやしない

   これらすべてのことを変えてしまうために
   立ち上がらなければ
   これらすべてのことを変えてしまうために
   俺たちが立ち上がらなければ

    ("Il faut se lever" 作詞マジッド・シェルフィ+ティケン・ジャー)

 ティケン・ジャー・ファコリー(本名ドゥンビア・ムーサ・ファコリー)は,フランスで5月革命があった年,1968年にコート・ディヴォワールのオディエネで生まれています。この42歳の若者は,2003年以来故国のコート・ディヴォワールにいられなくなって,マリのバマコに住んでいます。コート・ディヴォワール大統領ローラン・グバグボの側近から死の脅迫を受けているためだそうです。ティケン・ジャーはグバグボだけでなく,アフリカおよび世界の腐敗した権力を弾劾する歌を多く歌っています。アフリカの人々に「意識の目覚め」を喚起するのが彼の歌です。彼は数カ国語で歌いますが,私の場合,フランス語が一番良くわかるので,どうしても彼のフランス語曲に惹かれてしまいます。なぜならば,メチャクチャに分かりやすいからです。単に平易というのではなく,びっくりするほど明晰で,びっくりするほど正論なのです。これは(フランス語わかる人なら)誰でもすぐに膝を打ってリフレインを大唱和という感じなのです。
 私は生前ボブ・マーリーを一度も見ることができませんでした。1980年7月3日,5万人を集めたル・ブールジェのコンサートも遠くうわさに聞くのみでした。で,私はたいへんなファンというわけではなかったのですが,人がこのカリスマに夢中になるのはよく理解できました。なんと言ってもわかりやすいですし,明晰ですし。で,昨今のティケン・ジャーがやっている音楽を聞くと,彼はフランス語でミスター・ボビーに匹敵することをやっているんじゃないかと思ってしまうのです。西アフリカ,仏海外県アンティル,仏語圏ヨーロッパなどでは,おそらくこれほど明晰なメッセージを伝えられる「仏語」アーチストは他に例をみないでしょう。

   仲間でいたかったらIMFへの借金を
   最後の一銭まで払うことだな,とおまえは言う
   そうすればクラスの最優等生になれるぞ,とおまえは言う
   もう階級闘争の時代は終わったんだ,とおまえは言う

   俺のテレビから出て行け
   俺のテレビから出て行け

     ("Sors de ma télé" 作詞マジッド・シェルフィ+ティケン・ジャー)

 ティケン・ジャー・ファコリーの8枚目のアルバム『アフリカ革命』は,大上段に構えたタイトルのように見えましょうが,彼自身は何も構えていないのです。たぶん自然に革命のことを考えているでしょうし,革命は可能だという確信があるから,それを人に説く歌が歌えるのでしょう。

    Go to school my brother
    I say go to school
    You will understand very soon
    All the problems of your nation

     ("African Revolution" 作詞ジョナサン・クウォーンビ+ティケン・ジャー)

 革命の基本には教育が必要,とティケン・ジャーは説きます。文字を書き,本を読む,それが革命のイロハ。並のアーチストですと,こういうことにインテリが割って入ってイチャモンつけて,単純化を嘲笑して別の議論を展開してくるんですけど,ティケン・ジャーの場合,その歌聞けば,正論として通る並外れた説得力が感じられると私には聞こえます。
 バマコにいる間に親しんだマンダングの音と,ジャマイカ・ルーツなキングストンの音,私にはよくプロデュースされた一級のサウンドのように聞こえますが,それよりも何よりもティケン・ジャーは「俺たちでなければできないこと」を確信的にやっていることの迫力に圧倒されます。「俺たちの代わりにアフリカを変えに来てくれる者など/誰ひとりとしていやしない」のですから。
 マジッド・シェルフィ(ゼブダ)が詞で関わった2曲が群を抜いていいです。


<<< トラックリスト >>>
1. African Revolution (Jonathan Quarmby/Tiken Jah Fakoly/Thomas Naim)
2. Je dis non (Féfé)
3. Political War (feat. Asa) (Jonathan Quarmby/Tiken Jah Fakoly/Asa/Thomas Naim)
4. Marley Foly (Tiken Jah Fakoly)
5. Il faut se lever (Magyd Cherfi/Tiken Jah Fakoly)
6. Sinimory (Tiken Jah Fakoly)
7. Vieux Pere (Tiken Jah Fakoly)
8. Sors de ma télé (Magyd Cherfi/Tiken Jah Fakoly)
9. Votez (Tiken Jah Fakoly)
10. Je ne veux pas ton pouvoir (Jeanne Cherhal/Tiken Jah Faloly)
11. Initié (Tiken Jah Fakoly)
12. Laisse-moi m'exprimer (Tiken Jah Fakoly/Mr Toma)

TIKEN JAH FAKOLY "AFRICAN REVOLUTION"
CD BARCLAY/UNIVERSAL 5329306
フランスでのリリース 2010年10月4日


↓ "Il faut se lever"のヴィデオクリップ

2010年9月23日木曜日

Roll over Kétanou!(ケタヌーを蹴ったれ!)



Batignolles "Y'a pas de problème..."
バティニョール『ヤパドプロブレム』


 これは驚きました。ラ・リュー・ケタヌーの第三の男、オリヴィエ・レイトのソロ・プロジェクト「バティニョール」のファーストアルバムです。
 アコーディオンを抱え、ジャック・ブレル的なシャンソン抒情を前面に出すフローラン・ヴァントリニエ(そのバンド「タンキエット・ラザール」)、我流のフラメンコ・ギターでアラブ・アンダルシア〜北アフリカのライ/シャービまで取り込んでミニマル・ワールド・パンクを展開するムーラド・ミュッセ(そのバンド「モン・コテ・パンク」)。この2人に挟まれて、一体オリヴィエに何ができるのでしょうか?
 答えはロックでした。あなたたちが考えるようなロックではありまっせん。フランスに土着してしまったロック、つまりジャック・イジュラン〜ニノ・フェレール〜マノ・ネグラ/ピガール/ネグレズ・ヴェルト〜ゼブダ〜テット・レッド...。アコーディオンとジャヴァと曲芸とピョンピョン跳ねがギターリフと同居するロック。オリヴィエが、これほどまで(フランスの)ロック・カルチャーにドップリの人間だったとは、私は予想してませんでしたよ。一聴して、これはジャック・イジュランの再来ですよ。奇しくも2ヶ月前に「ラティーナ」原稿用に、イジュランを聞き直していたので自信持って言いますが、このアルバムと80年代イジュランとの類似性には驚くばかりです。ケタヌーの3人の中で、オリヴィエが突出して持っている演劇性が、イジュランのそれと似ているのかもしれません。
 Batignolles バティニョールとはパリ17区にある地区で、シャンソンファンにはバルバラの「ペルランパンパン」やイヴ・デュテイユの「バティニョール」で知られていて、絵画愛好家にはエドゥアール・マネ、アンリ・ファンタン=ラトゥール等のバティニョール派が頭に浮かぶでしょう。オリヴィエ・レイトは2006年までこの地区に住んでいたのですが、都会を離れ南西フランス、ミディ=ピレネー地方ロット県(フランスの地方観光地ではモン・サン・ミッシェルに次いで人気のあるロカマドゥールで有名)に移住します。言わばオクシタニアの住人となったわけです。ルーツ(ポルトガル)とパリの中間位置を探したら,ここになった,というふうな理由らしいです。ロット県の首府カオール(ワインでも有名)で、土地のマルチ・インストルメンタリスト(アコーディオン、ベース、ギター、ドラムス...)、オリヴィエ・コカトリックス(通称コカ)と出会い、何度かセッションした末に、こいつとは絶対面白いことができる、と新プロジェクト構想が浮かんだのです。そして同じカオール出身で、ジャズ/エクスペリメンタル/ヴァリエテ/クラシック/トラッド他あらゆるフィールドで百戦錬磨のアコーディオニスト、ティエリー・ロック(ソミ・デ・グラナダ)が加わります。トゥールーズ出身のアレクサンドル・ロジェがドラムス、カンタル県(ロット県の東隣)出身のロイック・ラポルトがギター/サックス/バンジョー/カヴァッキーニョ他。ロット県周辺の腕達者ばかりが集まって、がっちりしたバンドができてしまったのです。この辺が荒々しい味を売り物にするムーラドのモン・コテ・パンクとは全く違う路線なんですね。
 アルバムは2009年12月に録音されています。場所はロット県モンキュ(フランス人はこの村名を笑うんですよ。Montcuqと書くんですが,Mon culと同じ発音ですから)にある故ニノ・フェレール(1934-1998)の居城の中にあるステュディオ・バルブリーヌ(ニノの息子のアルチュール・フェラーリが管理している)です。なにかオリヴィエがミディ・ピレネー地方に非常に惚れ込んでしまって,このアルバムを土地の産物として作ろうとしていたかのようです。その証拠にアルバムの冒頭曲と最終曲は「Marché de Libos リボスの市場にて」という2台のアコーディオンがフィーチャーされたスコティッシュ曲(クンビア風でもある)で,リボスはロット県の西隣ロット・ギャロンヌ県の村です。4年間でとても土地に馴染んでしまった感じのオリヴィエです。
 4曲目「通りで Dans la rue」は,20世紀はじめのシャンソニエ,アリスティッド・ブリュアン(1851-1925)の詞にオリヴィエ・”コカ”・コカトリックスが曲をつけたものですが,これも妙にオクシタニアっぽいフォッホーで,ケタヌーでは絶対にできない類いの曲です。
 アリスティッド・ブリュアン詞に曲をつけたものがもう1曲あって,こちらはオリヴィエ・レイト作曲で,バンドのテーマ曲みたいな8曲めの「バティニョールにて A Batignolles」はごきげんなロックンロール仕立て。古い下町叙事詩を,ロックンロールに乗せて,というスタイルはフランソワ・アジ=ラザロ(ピガール,ギャルソン・ブッシェ)に共通するもので,こんなのを聞くと「ロックンロールの町,パリ」というイメージは全然陳腐じゃなくなるのです。
 ブリュアンの他に,モンマルトルの詩人/作詞家ベルナール・ディメイ(1931-1981。モンタン,アズナヴール,サルヴァドール,グレコなどの作詞家)の詞にオリヴィエ・レイトが曲をつけたものも2曲あり,3曲め「ねずみ Les Rats」と6曲め「こんなにも大きい俺の心 J'ai le coeur aussi grand」がそうですが,名調子の詞をオリヴィエは見事にロック(3曲めはミドルテンポ,6曲めはアップテンポ)にして返します。
 ノスタルジックに望郷する歌,7曲め「カザ・サラ Casa Sarah」では,モン・コテ・パンクのムーラドとファティもヴォーカル参加。
 ロイック・ラポルト,アレクサンドル・ロジェ,オリヴィエ・コカトリックス作の曲もそれぞれちゃんとアルバムに入っていて,オリヴィエ・レイトのひとりバンドではないところがいいですね。
 しかし,このアルバムでオリヴィエのヴォーカリストとしての力量が,ケタヌー内でのそれから想像できないほど抜きん出ていることがわかるのが,このアルバムの最大の収穫でしょう。アルバムタイトル曲(13曲め)「ヤパドプロブレム Y'a pas de problème」のカッコ良さは,信じられないほど。おそらくこれはオリヴィエに一生ついて回る,オリヴィエの金看板となる歌でしょう。

<<< トラックリスト >>>
1. MARCHE DE LIBOS (O LEITE/O COCATRIX)
2. C'EST QUAND QU'ON VIT (O LEITE/O LEITE - KARIM ARAB)
3. LES RATS (BERNARD DIMEY/O LEITE)
4. DANS LA RUE (ARISTIDE BRUANT/O LEITE)
5. Melle ZINZIN (O LEITE/O LEITE)
6. J'AI LE COEUR AUSSI GRAND (BERNARD DINEY/O LEITE)
7. CASA SARAH (O LEITE/O LEITE)
8. A BATIGNOLLES (ARISTIDE BRUANT/O LEITE)
9. INSOMNIE (O LEITE/O LEITE)
10. CIRQUE TROC (O LEITE/LOIC LAPORTE)
11. LE CHAMEAU (ALEXANDRE ROGER/ALEXANDRE ROGER - YANNICK PUYBARET)
12. PETIT SOFIANE (O LEITE/O LEITE)
13. Y'A PAS D'PROBLEME (O LEITE/O LEITE)
14. MARCHE DE LIBOS - INSTRUMENTAL (O COCATRIX)
+ 1 GHOST TRACK

BATIGNOLLES "Y'A PAS DE PROBLEME"
CD L'AUTRE DISTRIBUTION AD1745C
フランスでのリリース : 2010年10月11日


(↓)2010年2月イヴリーでのライヴの映像。"Y'A PAS DE PROBLEME"と"LE MARCHE DE LIBOS"

Batignolles en concert l'intégral 4e partie
envoyé par chartrestw. - Regardez d'autres vidéos de musique.

2010年9月20日月曜日

カメラに向かって地〜図

Michel Houellebecq "La carte et le territoire" 
ミッシェル・ウーエルベック『地図と領土』


 学だけではものは書けません。これは自戒の言葉でもあります。ウィキペディアに書いてあるようなことを右から左から集めてコンパイルすると原稿になってしまうことがあり,文責われにあらずが見え見えな文章を人様に見せていることが,向風三郎においてはままあります。雑な仕事をしてはいけません。
 ウーエルベックの博識は半端ではありません。この分野においては誰をも納得させ論破できる知識と持論がある,という分野を数多く持っているのです。この小説だけに限っても,コンテンポラリー・アート,建築,ツーリスム,ガストロノミー,安楽死,ゲイ事情,刑事事件捜査...これらの多岐に渡る専門分野において,読む者はいちいちそのデータと持論展開に説得させられるのです。おまけにこの小説の主人公たちは,それらの専門分野の他に,たいへんなTVウォッチャーであり,美容院や歯医者待合室に置いてある雑誌の世界にも通じていて,恋人との破局にジョー・ダッサンの歌を口ずさみながら,ほろほろと泣いてしまうのです。これを私は遠距離と近距離の両方に長けた観察眼と批評眼を持った「バリラックス作家」と名付けたいのです。それはメガネを用いずに,目つきの悪い裸眼でなされるのです。
 小説はジェド・マルタンと名乗るプラスチック・アーチストが主人公です。絵画,写真,ヴィデオなどコンテンポラリー・アートで世界的に成功していく男です。その父ジャン=ピエール・マルタンは,建築士から身を起こして,東欧や北アフリカなどにリゾート・ヴィレッジを構想し建築する会社を設立し,成功のうちにリタイアし,パリ郊外でひとりの隠居生活を送っています。ジェドの母親はジェドが物心つかない頃に謎の自殺を遂げてこの世にありません。
 この父と子の関係が小説のひとつの重要な軸となっていて、毎年のクリスマスには二人だけで夕食をするのが二人の欠かせない行事です。一種ゲンズブール父子(ジョゼフとセルジュ)をも思わせるところがあり、父子で審美眼が異なります。若い頃は持論などテーブルに持ち出すことなどなかったのに、歳取るにつれて、成功した息子に挑むように論を吹きかけてきます。息子は微妙に変化してくる父親に、二人の間にぽっかり空いた穴が徐々に小さくなるのを感じます。その穴はいつかは埋まってしまうという期待です。その穴とは、なぜ母親が自殺したのか、という真相です。父親は発病し、直腸ガンと診断され、生き延びるためには人工肛門を移植しなければなりません。父親はそんな思いをしてまで生き延びる必要はない、と死を覚悟します。その最後のクリスマスは、衆人の目が耐えられないという父親の提案で、初めてジェドのアパルトマン(暖房のコントロールが利かない)を訪れて、惣菜屋で買ったメニューで夕食します。お互いにこれが最後という思いがあったでしょう。シャンパーニュ/ワインを次から次に空にし、父親は建築論や芸術論をまくしたてます。ジェドはいよいよその時が来たと感じます。ところが父親は残酷にも「その時」はないのだ、と告げます。おまえの母親がなぜ死んだのか、俺にも全くわからないのだ、と。
 父親は息子に告げずに国境を越え、(安楽死を合法化している)スイスで命を断ち、ジェドはその安楽死クリニックを見つけるや、その怒りを抑え切れず、応対に出た女性を激しく殴打してしまいます。この父子のストーリーだけで、小説3冊分ぐらいの大いなる悲しみが襲ってきます。
 今度のウーエルベックの小説はこのように徹頭徹尾「まとも」なのです。尖った人たちではない、一般のあなたや私のような多くの名もない人たちが慣れ親しんだような「文学」にとても近いのです。ジェド・マルタンは口べたで恥ずかしがりで非社交的で、現代芸術で世界的な成功を収めながら、金に興味のない、パリで最も個性のない街区である13区のアパルトマンを引っ越そうとしない、近くのスーパーで買ってくるレトルト食品をひとりで食べる、そういうアーチストです。
 ジェドの最初の世界的成功は、ミシュラン社製の種々の地方ロードマップをカメラで写し、それを数倍に引き延ばしたものを一連の作品として発表したもので、ミシュラン社がバックアップして開かれた最初の個展はこう題されます:

  LA CARTE EST PLUS INTERESSANTE QUE LE TERRITOIRE
    地図は土地よりも興味深い

 わかりやすいでしょう? 地図は実際の土地よりも美しく、人の目を引く。写真は実像よりも魅力がある。コピーはオリジナルを凌駕する。ヴァーチャルはリアルを越える。このコンセプトの成功例は枚挙を問わないわけですが、ジェドのアートはミシュラン社のマーケティング戦略も相まってまんまと大成功してしまうのです。そのミシュラン社のマーケティングの責任者がロシア出身の絶世の美女であるオルガ。ジェドとオルガは当然のごとく恋に落ちるのですが、この関係において、それまでのウーエルベックの展開に欠かせなかった「エログロ」がこの小説にはないのです。そしてジェドはその熱愛にも関わらず、この絶世の美女が自分から去って行くことを妨げられず、別れを受け入れるのでもなく立ち尽くし、後でおいおい泣いてしまうのです。ね? 信じられないほどまともでしょう?
 ジェドはその成功に未練がないようにバッサリと写真を捨て、具象画に転向します。大なり小なりの職業人たちの肖像画を描きます。近所のパン屋職人や、一日中銀行の前に立つガードマンといった無名の人々から、自分の創った建築会社を定年で去っていくジェドの父親、さらにスティーヴ・ジョブスやビル・ゲイツのような著名人まで、仕事を持つ人々の肖像を連作します。その肖像シリーズの中に「作家ミッシェル・ウーエルベック」もあります。このジェドにとって第二回めの大きな個展のために、その個展カタログの序文を「ミッシェル・ウーエルベック」その人に依頼します。
 この小説に登場する「ウーエルベック」氏はそのパブリック・イメージ通り、神経質で厭世的で病気がちで不潔で、世捨て人のようにアイルランドの田舎に犬と一緒に住んでいますが、このジェド・マルタンとのやりとりで展開される小説作者による一種のセルフ・ポートレートは、その衰弱の度合いでは自虐的と言えそうだけれど、最終的に「いい奴」に落ち着いていて、その男は多分長いことなく死にゆく男のイメージなのです。この序文依頼をウーエルベックに受諾させるのに最も重要な条件は何か、それを(これも実名で登場する)「フレデリック・ベグベデ」が「金だよ」と教えてくれます。ジェドは大金の稿料を提示し、さらにジェド画の「作家ミッシェル・ウーエルベック」肖像をお礼として、この仕事を受けさせます。この二人には孤独者同士の淡い友情が生まれていきます。
 「ウーエルベック」序文の効果もあって、ジェドの肖像シリーズの個展は大成功し、その絵の売上合計は3千万ユーロに達します。その栄光など自分にとっては何でもないのです。前回と同じように、ジェドはこのシリーズときっぱり決別し、創作活動休止期に入ります。アイルランドからフランスの人知れぬ田舎に引っ越してきた「ウーエルベック」に約束の肖像画を届けに行きますが、この再会がおそらく最後の面会になるということを二人は知っています。
 
 小説第3部(P273〜)は、「ミッシェル・ウーエルベック猟奇殺人事件」とでも呼ぶべき、本格的な推理小説仕立てで展開します。「ウーエルベック」はフランスの田舎の一軒家の中で、バラバラ切断死体となって見つかります。「ガイシャの身元は?」ー「ミッシェル・ウーエルベック、有名な作家だそうです」ー「聞いたことないなあ...」なんていう捜査官のやりとりがあります。パリ司法警察(ケ・デ・ゾルフェーブル)のジョスランという刑事が、この謎の惨殺事件を担当しますが,このジョスランもまた何らエキセントリックなところのないフツー人として描かれます。解剖や死体を見ることが耐えられず,医学部を2年で断念して警察官になった男が、今またバラバラ死体を直視しなければならない試練を体験します。若い伴侶とは結婚せずに同棲していて、子供をもうけず,その代わりにミシューという名のビション犬を飼っています。このミシュー(一般的にはミッシェルの愛称)がまたウーエルベックの化身でもあるのですが。
 捜査線上にジェド・マルタンの名前が浮かんできます。読者はうすうすとジェドが犯人でなければ,この小説の収拾がつかないのではないか、と感じながらページを進めて行くでしょう。つまり、オルター・エゴを殺害しなければ、エゴは生き延びれない,みたいなストーリーを期待するわけです。ところが....。ジェドは下手人ではないのです。

 この派手な殺人事件と,ジェド・マルタンの華麗な成功ストーリーを除いては、未来でも過去でもない、今ある現在の今あるフランスを冷静かつ正確に捉える遠近両用視点の文章が続く430ページの長編です。大小説を読んだ気になります。これはベストセラー上位にあっても、誰もが納得するでしょう。そして、ウーエルベックの作品群にあって,初めて何らの論争のタネにもならない小説なのです。とやかく言う前に、とにかく読んでみろや、と言いたくなる一冊です。読んだら「大小説」とはどんなものかが、たやすく了解されるはずです。

MICHEL HOUELLEBECQ "LA CARTE ET LE TERRITOIRE"
FLAMMARION刊 2010年9月 430頁 22ユーロ


(↓11月8日、ミッシェル・ウーエルベック,2010年度ゴンクール賞受賞のインタヴュー。)


2010年9月13日月曜日

(プタン!)デ・カンソン,デ・カンソンで半年暮らす〜

 MOUSSU T e LEI JOVENTS "PUTAN DE CANÇON"  ムッスー・テー エ レイ・ジューヴェン 『プタン・デ・カンソン』  もっと掘り下げる時間が必要だと思いますよ。次から次に生まれて来る曲を,止むに止まれぬ表現への欲求で,次から次にCDにしてしまうタトゥー。この多産家ぶりは,ひところのジャン=ルイ・ミュラのようでもあり,また女流作家アメリー・ノトンブのようでもあります。  ムッスー・テー・エ・レイ・ジューヴェン名義の4枚目のアルバムです。木版画か砂絵のような,造船所とクレーンと工場煙突の煙と暗い顔をした労働者の群れ,空には暴虐の雲(それはないか),レンガ色のモノトーンなジャケットデザインです。発売元の「シャン・デュ・モンド」は,かつてフランスの労農系やソヴィエトのプロパガンダレコードや,南米の革命フォルクローレを出してた会社なので,そういう見方をされてもしかたないかもしれません。デュパンのファーストアルバム『L'Unisa (リュジナ)』(2000年)は,マルセイユの隣接工業地帯フォス・シュル・メールの製鉄工場の黒煙と赤い火の粉がフィーチャーされたインダストリアル・オクシタン・アルバムでしたが,タトゥーの場合は汗流して働くイメージとはほど遠いキャラクターです。ちょっとミスマッチのジャケットアートに見えますが、しかし,土台にはやっぱり抵抗の精神と、闘志肌の兄さん,タトゥーの心意気が見える図柄です。  ファーストアルバム『マドモワゼル・マルセイユ』は,マルセイユとその1930年代,アフリカもジャズも近かったエキゾなアコースティック・ブルースという方法で,マッシリア・サウンド・システムとは全く違ったことをするんだ,という気概みたいなものがありましたが,アルバムを追うに従って,自然体のタトゥーを出せばレイ・ジューヴェンになるという,タトゥー印のシャンソン・マルセイエーズ連作になってしまいました。  全国ネットの国営の音楽FM局FIPがファーストアルバムから毎回強力にバックアップするものだから,パペーJ・ジャリやガリ・グレウのワイスターよりは数段上の全国的知名度を獲得したムッスー・T&レイ・ジューヴェンは,おそらく「マッシリア後」唯一延命できるバンドでしょう。(ワイスターが解消した,という話を9月あたまにおきよしさんから聞きました。)  今バンドはヴォーカル+マシーンのタトゥー,バンジョー/ギターのブルー,パーカッションのジャミルソンに加えて,ドラムスにフレッド・ゼルビノ,パーカッションにデリ・カという布陣。つまりカナメはブルーとタトゥーが作っているということですね。マッシリアの『ワイと自由』も、ワイスターの前作『ルールドへ行け』も、カナメはブルーだったようなところがあり、ギターが牽引車となっている傾向を強く感じます。ブルーはもはや縁の下の力持ちではなく、屋台骨です。ギターが制するとバンドはピンク・フロイドになる、という論もあります。それと今度のアルバムではブルーのヴォーカルがしっかり聞こえ、(8)La Marraineでは半分リードヴォーカルを取っています。ブルーの勢力拡大はどこまで続くでしょうか。  作詞も作曲も全13曲フランソワ・リダル(タトゥーの本名)/ステファヌ・アタール(ブルーの本名)の連名になっていて,レノン=マッカートニーよりもジャガー=リチャーズの趣きがあります。ブルーの伸張の証し。歌詞がプロヴァンサル語(オック語)になっているのは5曲(1-3-6-11-12),5曲め「波の町 Ciutat de l'ersa」は歌詞はフランス語(オイル語と言うべきか)でリフレイン部だけがプロヴァンサル語,残り7曲(2-4-7-8-9-10-13)はフランス語ですが,当然マルセイユ訛りのフランス語です。  1曲め"Putan de Cançon"(この忌々しき「歌」なるもの)は、長い間道連れとしている「歌」への愛憎を歌います。「この忌々しき歌は、常に閉じこもり、カビ臭く、信心深く、貧困や虐殺や血を好み、しょっちゅう墓場に出入りし、暴君たちと踊る」と歌う時、この歌とは「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)のことではないか、と勘ぐってしまいます。「この歌は昼も夜も地球上を駆け巡り、どこかで戦争があると、必ずこの歌が聞こえてくる」と歌詞は言います。「ラ・マルセイエーズ」は「君が代」ではありません。この歌は武器を取って祖国と同胞家族を襲う敵と闘え、と市民を鼓舞する戦闘歌です。この歌は国粋主義者にも革命家にも同じように歌われる、不思議な歌です。この疑問については本人(タトゥー)に聞いてみたいです。  2曲め"Empeche-moi"(俺を押さえ込め)は、世の中がどんどん単一思考化され、万人と同じように暮らすことを強いられている流れに逆らって、「俺が俺であり続ける」ことは世に順応しないことであるが、もしもそれが悪いなら、「俺が俺であることを妨げてみろってんだ」というレジスタンスの歌。  4曲め"Mon Ouragan"は、カップルの痴話喧嘩みたいなもんで、おさまりがつかなくなると嵐(ouragan)よりもひどい状態になる恋人の前で、その鎮まりを待つしかない男の哀歌。  5曲め「波の町 Ciuta de l'ersa」は、港町マルセイユの心意気を「俺の町の人たちは重なり合い、混ざり合い、接吻し合い、口角泡飛ばしてしゃべるのが好きなんだ」と歌います。     波の町     船の町     喧嘩の花     金属製の花     砂の縞模様     築山の縞模様     船底の花     ミストラルの花  引き潮時に海底が陸になり、そこでごろごろ船底を見せてころがっている舟が花のように見える、というイメージは美しいですね。  6曲め「アルバ7 Alba 7」(フランス語式に読むとアルバセット、オック語的にはアルバセーテかな?)は、スペインの町アルバセーテを歌ったものですが、この町はスペイン戦争時に国際義勇軍の拠点となったところで、「マッシリア・ファイアヴァン(マッシリアよ進め)」と歌いながらこの町をボロ車(ルノー7)で散策するタトゥーが、町からふつふつと湧き出てくる闘士魂を感じとり、自らの闘士の心を鼓舞されるのです。 7曲め「マルセイユより愛を込めて Bons baisers de Marseille」は、雲のない青空のひと片と、ちょっとだけ風と岸辺の匂いを小包につめてきみに送れたらいいね、と遠くにいる友に書き送る歌です。マルセイユは天国ではないけれど、仲間(コレーグ)たちのいるところなのです。    きみがそこで辛い生活を送っているのは    きみのせいじゃない    土地を離れるのは、それも定めだ    もしきみがすべてを捨てられるなら    俺はきみを探しに行き    俺の仲間たちの国へきみを連れ帰るよ  8曲め「ラ・マレーヌ La Marraine」は、造船所の町ラ・シオタ(タトゥーの家とそのホーム・スタジオのある町)らしい、進水式の歌。ラ・マレーヌとは進水式を司る女性で、その役は船を命名し、シャンパーニュの瓶を投げつけること。この日ばかりは、たとえ労働争議があっても、造船所の労働者たちは「停戦」して、この進水を喜び合い、マレーヌへのリスペクトは絶対なのです。船を愛し、海を愛する人たちの聖なる祭儀なのですね。一種の誕生/分娩の瞬間ですから。  9曲め"Quand je la vois, je fonds" (彼女を見ただけで俺は溶けてしまう)は、軽妙洒脱なラヴソング。溶けてドロドロになる、というのはだらしないけれど、その魅力にノックアウトという感じがよくわかります。逆に固まってゴチゴチになる、というと、エロっぽくなってしまいますから。「彼女がコーヒーなら、俺は砂糖。彼女がミルクなら、俺はコーンフレーク。彼女が俺の太陽なら、俺は雪の結晶」と続いて、「彼女がマルセイユ女なら、俺はその石鹸」というオチが来ます。オチ:マルセイユ石鹸はよく落ちるという含蓄もあります。  ファビュルス・トロバドールやラ・タルヴェーロの早口問答歌を想わせる10曲め「時計 L'Horloge」は,笑ったり愛し合ったりものを書いたりする時間を人々はどんどん失い,その代わりにものを所有したり欲しがったり他人のものを妬んだりして時間を無駄にしている,という世相諷刺歌です。最後の節がこう歌います:「与えたり助けたり和解のための言葉をかけたりすることに人々はもう時間をかけたりしない。その代わり,呪いの声を上げたり怒号の叫びを上げたりすることばかり。そして,変わることなんか絶対にありっこないんだ,と言い合うことで時間をつぶしている」。  11曲めのセレナーデ「俺の星が輝く夜 Dins La Nuech de Mon Astre」は,アナザー・サイド・オブ・ムッスーTで,夜の帳が降りると悦楽の魔法使いたちが宴を始め,悦楽の扉の鍵をあけ,こっちへ来〜い,こっちへ来〜いと誘惑してきます。「都会の灯りの向こう側に俺の森があり,その悦楽の主は乳色の女神」などど,タトゥーが星の光で官能マンに変身するの図ですね。こういう怪物退治にニンニクは通用するのでしょうか?  ブルーによる1分15秒のイントロ,どことなくライ・クーダーの趣きあり,12曲め「海の宵 Seradas de la mar」は,このアルバムの白眉と言えるでしょう。宵と言っても,日没後時間が経っても,バラ色の夕映えが残っていて,湾は宝石の色をして,岸辺はそれを包む指輪のよう,そこに世界が一本の指を通すのです。まるでジャン=ミッシェル・フォロンのアニメのような,ポエティックな情景が描かれます。     絵描きの太陽が     バラ色の狂乱を描く     海の宵     向かいの壁には     帆のように大きなシーツが干されている     風が強く吹いたら     それは飛んでいき     地球のさまざまな夏の光景を見にいくだろう     テーブルを囲んでいる     「トロバール」の兄弟たちに     俺の歌も仲間入りするだろう Trobar トロバールとは発見し,創造すること。トロバールする人のことをトロバドールと言います。詩を書き,過去を記憶し,未来を予言し,リラの音に合わせて歌う人ですね。タトゥーがこういう象徴派的な詩を(オック語で)書き,ブルーのギターインストが描写的に夕暮れの海を表現していくとき,私はこれはトルバドールだと膝を叩くのです。こういう歌がこのバンドを違う方向に引っ張っていってくれるかもしれない,という期待が生まれます。  終曲13曲めの「2匹のハエ Comme 2 mouches」 は酒好きの2匹のハエが,カフェのテーブルにやってきて,酒の入ったコップにたかって,その液体をすすったら,天国の心地になる,という歌。歌詞は1番がラム(系カクテル。カイピ,ティ・ポンチ,ダイキリ...),2番がウィスキー,3番がマルセイユ名物のパスティスとなっていて,天国にどんどん近くなっていくわけですね。  しあわせのうちに13曲43分が終了します。 <<< トラックリスト >>> 1. PUTAN DE CANCON 2. EMPECHE MOI 3. LO DINTRE 4. MON OURAGAN 5. CIUTAT DE L'ERSA 6. ALBA 7 7. BONS BAISERS DE MARSEILLE 8. LA MARRAINE 9. QUAND JE LA VOIS, JE FONDS 10. L'HORLOGE 11. DINS LA NUECH DE MON ASTRE 12. SERADAS DE LA MAR 13. COMME 2 MOUCHES MOUSSU T E LEI JOVENTS "PUTAN DE CANÇON" MANIVETTE RECORDS / LE CHANT DU MONDE フランスでのリリース 2010年9月23日 PS 9月29日 (↓)9月28日、パリ、アランブラでのムッスー・T&レイ・ジューヴェン。「マドモワゼル・マルセイユ」

2010年8月30日月曜日

ああ!(モールス信号ではアーケード通行,アーケード通行)



 8月29日,今年も妻子を連れて川向こうのロックフェスRock en Seineに行ってきました。4年前初めて娘をこの巨大野外フェスに連れて行った時は,娘はまだ小さくて,大轟音と行儀の悪い若い衆たちに巻き込まれるのはどうしたものか,と心配したものですが,この写真(←)のように,こんなに大きくなってしまったので,来年はもうおとやんおかやんとは一緒に行かない,ダチたちと一緒に行く,と言い出す始末。なぜならおとやんとおかやんは折り畳み椅子持ってきて,ステージから遠いところで「座って見よう」という年寄りな態度ですが,娘は最前列に行ってガシガシ飛び跳ねたいというロックな少女になってしまったからなんですね(既に去年からサン・ジェルマン島のM6ライヴなどで,コピーヌたちと最前列でもみくちゃになることを体験済み)。娘の成長に目を細める一瞬です。
 天気予報では空模様は変わりやすく,宵には雨とのことでしたが,気温は最高でも20度前後までしか昇らないと言い,私たちもかなりの重装備で行きました。この写真は午後5時15分から組まれていたウェイン・ベックフォードのショーの時に撮ったものですが,こんな風に灰色の空で,周りの人たちもこんな風な厚着で。寒々。
 実は私と娘はそれぞれデジカメを持っていったのですが,現地に着いて,その二つとも「電池残量がありません」の表示が出て来ることを知ったのでした。昔の観光地みたいにフィルムと乾電池を売ってる売店などあるわけもなし。私も娘もほとんどお写真することができなかったのでした。かろうじて娘のケータイでちょっとだけ。

 当日最初のライヴは2時半から始まってましたが,私らの現地到着は午後4時頃で,右図マップの(A) GRANDE SCENEに急行,イールズを。これがイールズか。急遽プログラム変更でZZトップが代替え出演したのかと思いましたよ。うぁあオールドスクール。3曲めでラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティー」なんて気持ち良さそうにカヴァーしちゃうもんだから,当日の天候に不調和はなはだし。折り畳み椅子を畳んで,右図マップを左端から右端まで急いで移動して,(C) SCENE DE L'INDUSTRIEアイアム・アン・シアン!!へ。
なんて美しいジャンプをする子なのだ,ダヴィッドは!キメがいちいちバシバシに決まる轟音エレクトロ・ロックで,こういう大ステージでなければ決まらない,アクロバティックなジャンプを連発大サービスで,この煽動に大揺れの人並み。小さいクラブだったらどうするんだろうか。こういう惜しみないエネルギーとサービス精神というのは野外でこそ,と思いましたね。いやあ,爺の奥様も首大振りしてましたからね。
 次いで隣の(B)SCENE DE LA CASCADEウェイン・ベックフォードを。ジャマイカ・オリジンの米ソウルマンで,ブラック・アイド・ピーズやアウトキャストに曲書いてた人。何でもできる人でR&B,レゲエ,スカ,サッカースタジアムでおなじみ「セヴン・ネイション・アーミー」や,キンクス「ユー・リアリー・ガット・ミー」までやっちゃって,すごいエンターテイナーなのに,器用なカラオケ歌手と変わんないじゃん,という気にも。
 6時から(A) GRANDE SCENEベイルートを,と移動しかけたところで,女性軍からトイレストップのリクエストあり。これが野外フェスの最大の難点ですよね。男どもは(みんなやってるから)そこらへんいたるところで立ちションで,周囲の林はフェス3日めともなるとかなり嫌な臭い。女性たちは長蛇の列でトイレ待ちしますが,30分待ちなんてザラですから。このロスタイムで,6時台のショーはすべてあきらめて,食事休憩にして,娘と爺はオーヴェルニュ地方名産のアリゴ(ポテト・ピューレにチーズを溶かし込んだ,つきたて餅状の食べ物)とオーヴェルニュの焼きソーセージを,爺の奥様はテックスメックス屋でファジタスを買って,野外テーブルで食べましたが...今年はどれもこれも全然美味しくなかったのでした。
 雲ゆきはさらにおかしく,特に風が強くなってきた8時頃,(A) GRANDE SCENEで,娘の最大のお目当てのザ・ティング・ティングスを。 (↑)人様の撮った動画(from YouTube)ですが,いやあ....こんな大ステージを二人だけで(曲によってはホーン隊がつけましたけど)。ポップの鑑ですね。この動画で見えますか?この時かなり強い砂混じりの風が吹いてて,ケイティー嬢はかなりつらそうだったんですよ。
 8時45分から(B)SCENE DE LA CASCADEロクシー・ミュージックだったんですが,爺たちは9時過ぎてからの到着で,前半見逃しました。私はもっとこじんまりした編成を期待してましたが,コーラス嬢4人を含む十数人編成で,水増しピンク・フロイドみたいな感じも。特にフィル・マンザネラのギターソロと女性コーラスがからむインスト部分では,デイヴ・ギルモアのフロイドショーみたいになっちゃいますね。アンディー・マッケイ(サックス)は来ましたが,予告メンバーのポール・トンプソン(ドラムス)は来なくて,アンディー・ニューマークが叩いてました。ブライアン・フェリー65歳はフランス語しゃべるし,ショーマンだし,私の周りの中年たちはかなり盛り上がってて,"Love is the drug"とか"Let's stick together"とか大唱和してました。いいねえ,年寄り向きのロックフェス。ラストナンバーは「ジェラス・ガイ」でした。ブライアン・フェリーは口笛音痴(↓ これも人様の撮った YouTubeです)。


 最後の最後,大トリ。午後10時ぴったりに始まった(A) GRANDE SCENEアーケイド・ファイア。爺は出たばかりのサードアルバムしか持っていないのだけれど,すごく深く重いCDに聞こえました。こういうのが米チャートと英チャートで1位になるんですね。門外漢なので,こういうCD聞く人たちって暗めなんじゃないか,と思ってましたら,自分の周りを見回したら娘と変わらないような子たちばかりで...。すごい人の数。かなり密度が濃くって,去年同じ場所で見たMGMTの時を上回る感じ。重層な音楽なのにステージ上の7人が右左に動き回って,さまざまな楽器を持って奮闘してるんですね。「動的なメランコリー」そんな言葉が頭に浮かんだりして。その動的な部分でオーディエンスは大揺れになるんですね。ファンとミュージシャンたちが一緒になって大オーケストラを構成している感じで,それをウィン・バトラーが指揮しているような。ウィンのパートナーのレジーヌはハイチの血が流れる女性で,フランス語でコミュニケートします。そして,40分後頃でしょうか,にっくき雨が,これまで我慢していたみたいな勢いで激しく降ってきます。その上風向きが悪く,その激しい雨はステージを直撃し,ミュージシャンもステージも楽器も水浸しになります。コンサートは中断,雨が弱くなったらまた演るから,とウィンが言うのですが,雨はどんどん激しくなるばかり。しばらくしてレジーヌがマイクを取り,フランス語で「ごめんなさい,雨で電子機器に障害が出ちゃったの,でも私たちは続けたいのよ」と言いました。
 ここで爺たちは雨具を身にまとい,多くの周りの人たちと同じように,激しい雨の中を出口に向かって移動し始めたのです。最後に雨だったけど,すごくいいコンサートだったね,などなどとみんな口にしながら,不満の声など全く聞こえなかったのです。妻子にも,ああ,これで夏が終わっちゃったね,来年もまた来ようね,なんてオセンチなこと言いながら,爺たちは川を渡って自宅に帰ったのでした....。
 ところが,家に帰ってパソコンつけたら,Twitterで「まだやってる」なんて書き込む人たちがいて...。後で知った,われわれ帰宅後に演奏されたアーケイド・ファイアの豪雨の中での"Wake up"のアコースティック・ヴァージョンが Dailymotionに載りました。

Arcade Fire - Wake Up (Rock en Seine)

 爺たちはこのエモーションを共有できなかったのです。悔しい。ああ!

2010年8月24日火曜日

サン・パピエ支援コンサート



 長い間書きたいと思っていたアーチストだったので,ジャック・イジュランの原稿は楽しく書けました。10月号は音楽と関係を保ちながらも,2010年夏のフランス政府による「ロマ狩り」について書こうと思っています。ちょっとテンションが上がってしまうかもしれません。7月末,サルコジの鶴の一声で,フランスにある旅の民たちの「無許可/不法キャンプ地」300カ所を年内に強制解体し,外国籍者(ルーマニア人ロマ等)は出身国に送還することが決められ,内務大臣オルトフーの指揮下,8月だけで40カ所以上のキャンプ地が機動隊によって解体されました。野党,人権団体,国連,米国紙ニューヨーク・タイムズなどが一斉にこの非人道性を指摘し,移民および少数民族に対する弾圧を強化することによって国家の安全が保たれるというサルコジの保全第一主義を批判しました。その声を一切無視して強制執行を続行するフランス政府に,批判の声はさらも高まり,あるキリスト教聖職者は国から与えられた勲章を突き返して抗議し,キリスト教的隣人愛を伝統として持っていた国の急激な排斥主義化を嘆きました。バチカン/ローマ法王庁もベネディクト16世自身がフランス語で少数民族保護をフランス政府に訴えました。今や,サルコジ支持層内部にもこの「ロマ狩り」を懸念する声が上がり始めました。

 あれもこれも一緒にしてはいけないので,「ロマ」件は別の場所で書き続けますが,サルコジの移民政策がもたらした大きな問題のひとつが,この「サン・パピエ」(パピエのない者。すなわち滞在許可を持たぬ外国人労働者)です。簡単に「不法就労者」と決めつけてはいけません。彼らの大部分は正式の雇用契約があり,大手建設会社や公営企業(地下鉄,国鉄,空港公団等)の請け負い企業が,労働力不足で正規契約だけでは到底請け負えないので,多くをこの外国人労働者たちに頼らざるをえません。彼らは正式に給料をもらい,源泉徴収され,収入を申告してフランスで税金を払っています。しかし彼らには滞在許可(パピエ)がないために,社会保障も受けられず,警察の目を恐れながら隠れて生きています。フランスの社会はこれらの労働力を必要としているにも関わらず,彼らに滞在許可(パピエ)を与えて合法化することをせず,逆に彼らを逮捕し,出身国に強制送還するという脅迫をしながら,この非合法状態を長引かせ,隠れた奴隷状態を利用して工事費を安く上げ,大企業に貢献している部分があります。闇労働ですから,会社によっては劣悪な労働条件を強いるところもあります。それだけでなく,病気になった時に保険がないために医者に行けず,子供たちは警察の目が怖くて学校にも行けません。実際に警察が教室に押し入り,サン・パピエの子供を逮捕し,その結果呼び出した親共々,家族全員を強制送還したケースもあります。市民団体や学校教師たちがネットワークを作り,サン・パピエの子供たちに危害が及ばないよう監視していますが,油断できません。
 冗談じゃない。サン・パピエたちは立ち上がりました。自分たちが逮捕され,強制送還されるという危険を冒してでも,この状態に我慢がならなくなったのです。労働組合が役所に対して立ち上がったすべてのサン・パピエたちの滞在の特別許可(レギュラリザシオン=正常化,合法化)を申請します。担当大臣(ベッソン移民相)はグローバルな大量許可は絶対にしないとしながらも,申請はケース・バイ・ケースで全件審査すると言いました。これが遅々として進まないのです。サン・パピエたちの中には正常化されるまで請け負い労働はしない,とストライキを敢行する者もいます。
 昨年冬から続いているサン・パピエたちの闘いは,解決を見ないまま,新聞雑誌メディアが言わなくなったために人々から忘れ去られつつあります。それではいけない,とアーチストたちが声を上げたのです。
 このコンサートは5月末に企画され,ロック,ポップ,ラップ,ヴァリエテ系のアーチストたちが集り,パリ市(パリに左翼の市長がいるのは伊達ではない,ということです)が後援して,9月18日にベルシー総合室内運動場(8000人収容)で開かれます。アブダル・マリック,カリ,ジャンヌ・シェラル,クラリカ,テット・レッド,ヴァンパス,アニェス・ジャウイ...今月の原稿で書いたジャック・イジュランもいます。そして,最新ニュースでは,ジェーン・バーキンが「ラ・ジャヴァネーズ」をアカペラで歌うことになったそうです。

→がコンサート「ロック・サン・パピエ」のロゴマークです。工事中の人間を蹴飛ばして,飛行機で強制送還するという図です。
  このコンサートに2週間先立つ9月4日,ジェーン・バーキン,アニェス・ジャウイ,クラリカ,ジャンヌ・シャラル等の女性アーチストたちだけが集り,移民省建物の前で,ゲンズブール作の歌「レ・プチ・パピエ (les p'tits papier)」を歌います。この歌は1965年にゲンズブールがレジーヌのために書いた歌ですが,当のレジーヌもこのアーチストたちに混じって歌います。「小さな紙切れ」という歌が,人間がこの地で自由に生きていくためにどれだけ意味があるか,という抗議の歌に変わったのは,1999年に小さなNGO団体GISTI(移民支援情報グループ)が開いたコンサートと支援CD録音のために集ったノワール・デジール,ジャンヌ・バリバール,ファムーズ・T,ロドルフ・ビュルジェ,KDD,フランス・カルティニー等が歌った「レ・プチ・パピエ」以来なんですね。↓はその時のクリップです。これがもう今から10年前とは...。


< PS : 9月4日 >
In Jane B, we trust. ジェーン・バーキン、レジーヌ、アニエス・ジャウイ、ジャンヌ・シェラル等が、9月4日、移民担当省の建物の下でゲンズブール作「レ・プチ・パピエ」を歌いました。この曲のオリジナルを歌ったレジーヌは、ニコラ・サルコジと親しい交友関係にあった人で、2007年の大統領選にも積極的にサルコジを支持する側におりました。しかし、この夏の「ロマ狩り」が始まるや、サルコジの移民政策に賛同できなくなり、こうしてバーキン等の反対派と共に歌うことになったのです。これは象徴的な事件です。

2010年8月20日金曜日

Rentrée littéraire



Michel Houellebecq "La Carte et le Territoire"
ミッシェル・ウーエルベック『地図と領土』

 フランスでの書店売り開始が9月8日です。
 必ずここで紹介しますから、9月15日頃、のぞきに来てください。

2010年8月15日日曜日

「La Peau(皮膚)」制作委員会



アソシアシオン・プール・ラ・ポー
「La Peau(皮膚)」制作委員会

●設立目的:皮膚ガン研究の援助

●団体概要:皮膚ガン研究と患者看護を援助するための非営利団体
●具体的活動:ミュージシャン,アクター,作詞作曲家などのアーチストたちを結集して、「皮膚」をテーマにしたアルバムを制作すること。アルバムのタイトルは「La Peau(皮膚)」。


*** *** ***

 皆さん,こんにちわ。

 私の名前はマチュー・バレーと言います。

 皆さんの中には、コンサートの会場や録音スタジオなどで私と出会う機会があって,私のことを知っている人たちがいるかもしれません。
 私のことを知らない人たちのために自己紹介しますと,私はミュージシャン,編曲家,プロデューサーです。80年代にはオルタナティヴ系のさまざまなロックバンドで演奏し、ウイ・ウイ(Oui Oui)のメンバーでした。次いで私はミオセック,トマ・フェルセン,バシュング,メルジン,アレクシ・アシュカ,フィリップ・デクーフレといった様々な人たちと仕事しました。そして私が今日もその仕事を続けているのは言うまでもありません。

 今日,私は私を見舞ったひとつの問題について皆さんにお話ししたいのです。それはあなたたちにも関係したことなのですが,多くの人たちがごく普通に耳にする機会があるにも関わらず,実際はまだまだよく知られていないことなのです。

 ガンはひとつの病禍であり,この病禍の増幅はとどまることを知りません。確かにその治療法は日々改善されていますし、それに罹ったからと言って必然的に死ぬということはなくなりましたし、医学の進歩は確実によい結果を残しています。しかしそれにも関わらず,ガンの件数増大は止まらず,より多くの人々を襲い,より若い人たちを襲い,医学はその治療と研究のための方策が著しく不足しているのが現状です。

 私は皮膚ガンに冒されています。それにはいくつかの種類がありますが、転移質の黒色腫が最も悪質なガン腫です。このガンには化学療法や放射線療法は通用せず、治療法はガン腫の摘出手術のみです。免疫療法は再発を予防出来るのですが,それでもガンは再発し,増幅し、他の器官に転移する可能性があります。

 私はその手術を受け,顔の一部を切去しました。あらゆる闘病者にとってそれは同じことかも知れませんが,私にとってもそれは堪えていかなければならない試練でしたし,極めて過酷な段階でもありました...。それを経て、戦いたい、生き続けたい、という渇望が私に再び沸き上がってきました。そして「何かをしたい」それも有益な何かをしたいという望みも。例えばこの病気について語ること、それを抑止しようと必死になって戦っている人たちのことを語ること...。それは私ひとりのためだけにするのではだめだ。それは私ひとりでするのではだめだ。

 私が考えたのは「皮膚」に関するアルバムを作ることです。
 音楽家や役者たちが皮膚について表現する。
 それはオリジナルの音楽を使う。
 それは皮膚について私たちに語りかけるオリジナルのテクストを使う。

 このアルバムのタイトルは「LA PEAU (皮膚)」となります。

 私自身が音楽制作の総合指揮を取り、音楽的/技術的な部分を統括します。そして私の協力者で、女優/舞台監督のリーズ・マレーがテクスト/台本と演出を担当します。幾人かのアーチストたちが既に私たちの闘いのために名乗りを上げています。

 このアルバムの宣伝普及と、このプロジェクトをメディア媒体で紹介するため、そして医学界に直接この効果を還元するために、私たちは様々なパートナーの協力を得るでしょう。

 私が今日、あなたたちに呼びかけているのは、あなたたちの才能とノウハウとあなたたちの持つリレーションシップでもって、私たちに合流して、このプロジェクトを一緒に成功させよう、ということです。

 もはや一切の悲しみもありません。私にはこの現在と、この活動と、ひとつの人生を、そして多くの人生をこんなふうに終わらせたくない、という望みしかありません。

(署名)マチュー・バレー (Matthieu Ballet)





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 (カストール爺記)
  友人でミュージシャンのマチュー・バレーがFacebook上で設立した Association pour la peauのマニフェストをそのまま訳しました。


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追記 8月25日

 8月25日 マチュー・バレーからの回覧
 「プロジェクトは急速に進展しています。以下の音楽アーチスト、俳優、著述家たちが既に参画の意志表示をしています : ドミニク・ア、ジャック・デュヴァル、グラン・トゥーリスム、エマニュエル・テュニー、ミオセック、ザ・マイクロノーツ、アレクシ・アシュカ、ジョゼフ・ラカイユ。ラジオ/新聞雑誌等メディアの支援者も現れています。
 もちろん私たちはもっとたくさんの人々の参加を待っていますが、私たちを支援してくれているあなたたちは、この情報をシェアし、周囲に伝えてください。
 ありがとう。  (署名:マチュー・バレー) 」
 

2010年8月14日土曜日

「Aïoli ! 」を日本に適合するあいさつにすれば...

 私は今までずっとこの Aïoliを「アイオリ」とカタカナ表記してきたのですが、日本では「アヨリ」という方が通っているかもしれません。どうも"ï"の上についたトレマ記号(上のテンテン)が気になって「イ」を強調しなければならないように思って「アイオリ」としていたのですが、発音記号通りにカタカナ表記すると「アヨーリ」が近いかもしれません。マッシリア・サウンド・システムのライヴ盤などでコールされる "Aïoli!"は「アィヨーリ!」と聞こえます。
 アヨリは南仏プロヴァンス地方の、ニンニクとオリーヴ油入りのマヨネーズで、ブイヤベースに欠かせない調味料で、そのまま生野菜スティックなどのサラダソースにも使えます。パスティス酒、ブイヤベース、アイオリはガストロノミック・マルセイユの三大名物と言えましょう。1980年代からマルセイユを拠点に活動しているレゲエ/ラガマフィン・バンドのマッシリア・サウンド・システムは、この香り高きマヨネーズをそのレゲエ世界に取り込み、ジャマイカンのポジティヴな形容詞「アイリー! Irie!」(ゴキゲン、最高、気持ち良い)をもじって、「アィヨーリ! Aïoli!」を「ハッピーかい?/ハッピーだぜ!」のあいさつ言葉/かけ声に採用し、マッシリア親衛隊(マッシリア・シュールモ)などを通してたちまちのうちにマルセイユで最高にゴキゲンのあいさつ言葉として定着したのでした。
 マルセイユ的アイデンティティーとレゲエ的ユニヴァーサリティーを見事に結びつけたこの素敵な「アィヨーリ!」は、マッシリアが行くあらゆるところでファンたちのゴキゲンなフィーリングを伝える言葉になりました。「ハッピー!」、「クール!」、「シュペール!」などとは違う、彼らの歓喜を表現する「アィヨーリ!」は他の言葉で置き換えられるものではないでしょうが、なんとか私たちでもそれに似たものができないかしら、というのが本稿の課題です。
 この夏6月からマルセイユに滞在して、マッシリア、ラ・タルヴェーロ、ジジ・デ・ニッサ、ムッスーT&レイ・ジューヴェンなどが出演した南仏各地のフェスティヴァルを精力的に見て回っているおきよしさんは、マッシリアを初め多くのアーチストとその周辺の人たちと交流されていて、その様子は彼女のFacebook を通してうかがうことができます。その中でおきよしさんは、「アィヨーリ!」を大胆に日本語化して「Nin ni ku! ニンニク!」とマルセイユ人に応答しています。「アィヨーリって日本語でどう言うの?」と聞かれたら、「ニンニク!」と答えているんでしょう。これがこの夏だけで、マルセイユのある種の人々が「Nin ni ku!」とあいさつし始めちゃってる現象もあるようです。なにしろマッシリアのムッスーT、タトゥーですら、おきよしさんの教えで「Nin ni ku!」って言っちゃってますから。

 で、私は「アィヨーリ!」を「ニンニク!」とするのに、ちょっと躊躇しちゃったのです。もうちょっと工夫できないかな、と。「ニンニーク!」と言うと、「タ・メール!」と返ってくるんじゃないかな、と。(解説しますと、nin nique!と聞こえる可能性があり、niqueは俗語動詞 niquer = ニケ、すなわち「やる、ファックする」の命令形、すなわち関西弁表現の「やてまえ、いてこませ」に聞こえるんじゃないか、そうすると NTM で知られるかの表現 nique ta mèreニク・タ・メール にも連鎖し、非常にマザファカなニュアンスが現出してしまうのではないか、と)。
 「ニンニク」はフランス人には言いづらいと思います。直訳のフランス語は"l'ail"(ライユ。定冠詞"l'"をとると、アイユ)がニンニクに相当します。アイユとオリーヴ油が入ったマヨネーズ、これが「アイユ+オリ」=「アヨーリ」です。こういうなめらかな音感で、かつスパイシーで「南」風な雰囲気が伝えられ、日本にも通用する言葉がないか、と私は考えたのです。案は二つあります。


< 1 > Mayo !
 既に日本語として定着しているマヨネーズの短縮形「Mayo」。これを「マヨっ!」って言うんじゃなくて、「マィヨっ!」と発音する。イントネーション的には関西の「まいどっ!」と同じ抑揚をつける。「ま、いいよ」というダレた感じを避ける。短く歯切れよくに「マィヨっ!」と言い切る。そうすると、知っているムキにはフランス一周自転車レース、トゥール・ド・フランスでおなじみのレースリーダーが着る「マイヨ・ジョーヌ Maillot jaune」なんかも連想され、そこはかとないフランスっぽさが醸し出される。関西〜広島の風土で育ったお好み焼きにつきものの「マィヨっ!」、大阪の日常あいさつ「まいど」に近い「マィヨっ!」、フランス風な味覚とスポーツを連想させる「マィヨっ!」 --- これを「アィヨーリ!」の日本版として採用していただけないでしょうか? 
 弱点はややスパイシーさに欠けるところでしょうか。


< 2 > La-Yu ! 
辣油。「ラーユー!」。なんと言っても発音が"L'ail"(ライユ = にんにく)によく似ています。ニンニクは入っていなくても鷹の爪の辛さが激烈にスパイシー。中華文化としてではなく、日本の食文化として欧米世界に大人気を獲得しつつあるラーメンに伴って、これからフランスでも認知度が高まるでしょう。また2000年代以降、沖縄ラー油、石垣島ラー油、久米島ラー油など、日本に固有のラー油人気の上昇もあり、南方ジャパンのオリジナル・チリペパー・オイルという位置づけも、南方フランスと連帯するあいさつ言葉にふさわしいのではないでしょうか。「アィヨーリ!」と「ラーユー!」、どことなく発音も近いですし。
 弱点はマヨネーズともニンニクとも関係ないところでしょうか。

 やっぱり「アィヨーリ!」は日本でもそのまま「アィヨーリ!」で通すのが一番でしょうか?
 昔の日本の人はこんなことも言ってました「青はアィヨーリいでてアィヨーリ青し」。



(↓)マッシリアのガリのあいさつの最初と最後の「アィヨーリ!」を参照ください。