2010年9月13日月曜日
(プタン!)デ・カンソン,デ・カンソンで半年暮らす〜
MOUSSU T e LEI JOVENTS "PUTAN DE CANÇON"
ムッスー・テー エ レイ・ジューヴェン 『プタン・デ・カンソン』
もっと掘り下げる時間が必要だと思いますよ。次から次に生まれて来る曲を,止むに止まれぬ表現への欲求で,次から次にCDにしてしまうタトゥー。この多産家ぶりは,ひところのジャン=ルイ・ミュラのようでもあり,また女流作家アメリー・ノトンブのようでもあります。
ムッスー・テー・エ・レイ・ジューヴェン名義の4枚目のアルバムです。木版画か砂絵のような,造船所とクレーンと工場煙突の煙と暗い顔をした労働者の群れ,空には暴虐の雲(それはないか),レンガ色のモノトーンなジャケットデザインです。発売元の「シャン・デュ・モンド」は,かつてフランスの労農系やソヴィエトのプロパガンダレコードや,南米の革命フォルクローレを出してた会社なので,そういう見方をされてもしかたないかもしれません。デュパンのファーストアルバム『L'Unisa (リュジナ)』(2000年)は,マルセイユの隣接工業地帯フォス・シュル・メールの製鉄工場の黒煙と赤い火の粉がフィーチャーされたインダストリアル・オクシタン・アルバムでしたが,タトゥーの場合は汗流して働くイメージとはほど遠いキャラクターです。ちょっとミスマッチのジャケットアートに見えますが、しかし,土台にはやっぱり抵抗の精神と、闘志肌の兄さん,タトゥーの心意気が見える図柄です。
ファーストアルバム『マドモワゼル・マルセイユ』は,マルセイユとその1930年代,アフリカもジャズも近かったエキゾなアコースティック・ブルースという方法で,マッシリア・サウンド・システムとは全く違ったことをするんだ,という気概みたいなものがありましたが,アルバムを追うに従って,自然体のタトゥーを出せばレイ・ジューヴェンになるという,タトゥー印のシャンソン・マルセイエーズ連作になってしまいました。
全国ネットの国営の音楽FM局FIPがファーストアルバムから毎回強力にバックアップするものだから,パペーJ・ジャリやガリ・グレウのワイスターよりは数段上の全国的知名度を獲得したムッスー・T&レイ・ジューヴェンは,おそらく「マッシリア後」唯一延命できるバンドでしょう。(ワイスターが解消した,という話を9月あたまにおきよしさんから聞きました。)
今バンドはヴォーカル+マシーンのタトゥー,バンジョー/ギターのブルー,パーカッションのジャミルソンに加えて,ドラムスにフレッド・ゼルビノ,パーカッションにデリ・カという布陣。つまりカナメはブルーとタトゥーが作っているということですね。マッシリアの『ワイと自由』も、ワイスターの前作『ルールドへ行け』も、カナメはブルーだったようなところがあり、ギターが牽引車となっている傾向を強く感じます。ブルーはもはや縁の下の力持ちではなく、屋台骨です。ギターが制するとバンドはピンク・フロイドになる、という論もあります。それと今度のアルバムではブルーのヴォーカルがしっかり聞こえ、(8)La Marraineでは半分リードヴォーカルを取っています。ブルーの勢力拡大はどこまで続くでしょうか。
作詞も作曲も全13曲フランソワ・リダル(タトゥーの本名)/ステファヌ・アタール(ブルーの本名)の連名になっていて,レノン=マッカートニーよりもジャガー=リチャーズの趣きがあります。ブルーの伸張の証し。歌詞がプロヴァンサル語(オック語)になっているのは5曲(1-3-6-11-12),5曲め「波の町 Ciutat de l'ersa」は歌詞はフランス語(オイル語と言うべきか)でリフレイン部だけがプロヴァンサル語,残り7曲(2-4-7-8-9-10-13)はフランス語ですが,当然マルセイユ訛りのフランス語です。
1曲め"Putan de Cançon"(この忌々しき「歌」なるもの)は、長い間道連れとしている「歌」への愛憎を歌います。「この忌々しき歌は、常に閉じこもり、カビ臭く、信心深く、貧困や虐殺や血を好み、しょっちゅう墓場に出入りし、暴君たちと踊る」と歌う時、この歌とは「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)のことではないか、と勘ぐってしまいます。「この歌は昼も夜も地球上を駆け巡り、どこかで戦争があると、必ずこの歌が聞こえてくる」と歌詞は言います。「ラ・マルセイエーズ」は「君が代」ではありません。この歌は武器を取って祖国と同胞家族を襲う敵と闘え、と市民を鼓舞する戦闘歌です。この歌は国粋主義者にも革命家にも同じように歌われる、不思議な歌です。この疑問については本人(タトゥー)に聞いてみたいです。
2曲め"Empeche-moi"(俺を押さえ込め)は、世の中がどんどん単一思考化され、万人と同じように暮らすことを強いられている流れに逆らって、「俺が俺であり続ける」ことは世に順応しないことであるが、もしもそれが悪いなら、「俺が俺であることを妨げてみろってんだ」というレジスタンスの歌。
4曲め"Mon Ouragan"は、カップルの痴話喧嘩みたいなもんで、おさまりがつかなくなると嵐(ouragan)よりもひどい状態になる恋人の前で、その鎮まりを待つしかない男の哀歌。
5曲め「波の町 Ciuta de l'ersa」は、港町マルセイユの心意気を「俺の町の人たちは重なり合い、混ざり合い、接吻し合い、口角泡飛ばしてしゃべるのが好きなんだ」と歌います。
波の町
船の町
喧嘩の花
金属製の花
砂の縞模様
築山の縞模様
船底の花
ミストラルの花
引き潮時に海底が陸になり、そこでごろごろ船底を見せてころがっている舟が花のように見える、というイメージは美しいですね。
6曲め「アルバ7 Alba 7」(フランス語式に読むとアルバセット、オック語的にはアルバセーテかな?)は、スペインの町アルバセーテを歌ったものですが、この町はスペイン戦争時に国際義勇軍の拠点となったところで、「マッシリア・ファイアヴァン(マッシリアよ進め)」と歌いながらこの町をボロ車(ルノー7)で散策するタトゥーが、町からふつふつと湧き出てくる闘士魂を感じとり、自らの闘士の心を鼓舞されるのです。
7曲め「マルセイユより愛を込めて Bons baisers de Marseille」は、雲のない青空のひと片と、ちょっとだけ風と岸辺の匂いを小包につめてきみに送れたらいいね、と遠くにいる友に書き送る歌です。マルセイユは天国ではないけれど、仲間(コレーグ)たちのいるところなのです。
きみがそこで辛い生活を送っているのは
きみのせいじゃない
土地を離れるのは、それも定めだ
もしきみがすべてを捨てられるなら
俺はきみを探しに行き
俺の仲間たちの国へきみを連れ帰るよ
8曲め「ラ・マレーヌ La Marraine」は、造船所の町ラ・シオタ(タトゥーの家とそのホーム・スタジオのある町)らしい、進水式の歌。ラ・マレーヌとは進水式を司る女性で、その役は船を命名し、シャンパーニュの瓶を投げつけること。この日ばかりは、たとえ労働争議があっても、造船所の労働者たちは「停戦」して、この進水を喜び合い、マレーヌへのリスペクトは絶対なのです。船を愛し、海を愛する人たちの聖なる祭儀なのですね。一種の誕生/分娩の瞬間ですから。
9曲め"Quand je la vois, je fonds"
(彼女を見ただけで俺は溶けてしまう)は、軽妙洒脱なラヴソング。溶けてドロドロになる、というのはだらしないけれど、その魅力にノックアウトという感じがよくわかります。逆に固まってゴチゴチになる、というと、エロっぽくなってしまいますから。「彼女がコーヒーなら、俺は砂糖。彼女がミルクなら、俺はコーンフレーク。彼女が俺の太陽なら、俺は雪の結晶」と続いて、「彼女がマルセイユ女なら、俺はその石鹸」というオチが来ます。オチ:マルセイユ石鹸はよく落ちるという含蓄もあります。
ファビュルス・トロバドールやラ・タルヴェーロの早口問答歌を想わせる10曲め「時計 L'Horloge」は,笑ったり愛し合ったりものを書いたりする時間を人々はどんどん失い,その代わりにものを所有したり欲しがったり他人のものを妬んだりして時間を無駄にしている,という世相諷刺歌です。最後の節がこう歌います:「与えたり助けたり和解のための言葉をかけたりすることに人々はもう時間をかけたりしない。その代わり,呪いの声を上げたり怒号の叫びを上げたりすることばかり。そして,変わることなんか絶対にありっこないんだ,と言い合うことで時間をつぶしている」。
11曲めのセレナーデ「俺の星が輝く夜 Dins La Nuech de Mon Astre」は,アナザー・サイド・オブ・ムッスーTで,夜の帳が降りると悦楽の魔法使いたちが宴を始め,悦楽の扉の鍵をあけ,こっちへ来〜い,こっちへ来〜いと誘惑してきます。「都会の灯りの向こう側に俺の森があり,その悦楽の主は乳色の女神」などど,タトゥーが星の光で官能マンに変身するの図ですね。こういう怪物退治にニンニクは通用するのでしょうか?
ブルーによる1分15秒のイントロ,どことなくライ・クーダーの趣きあり,12曲め「海の宵 Seradas de la mar」は,このアルバムの白眉と言えるでしょう。宵と言っても,日没後時間が経っても,バラ色の夕映えが残っていて,湾は宝石の色をして,岸辺はそれを包む指輪のよう,そこに世界が一本の指を通すのです。まるでジャン=ミッシェル・フォロンのアニメのような,ポエティックな情景が描かれます。
絵描きの太陽が
バラ色の狂乱を描く
海の宵
向かいの壁には
帆のように大きなシーツが干されている
風が強く吹いたら
それは飛んでいき
地球のさまざまな夏の光景を見にいくだろう
テーブルを囲んでいる
「トロバール」の兄弟たちに
俺の歌も仲間入りするだろう
Trobar トロバールとは発見し,創造すること。トロバールする人のことをトロバドールと言います。詩を書き,過去を記憶し,未来を予言し,リラの音に合わせて歌う人ですね。タトゥーがこういう象徴派的な詩を(オック語で)書き,ブルーのギターインストが描写的に夕暮れの海を表現していくとき,私はこれはトルバドールだと膝を叩くのです。こういう歌がこのバンドを違う方向に引っ張っていってくれるかもしれない,という期待が生まれます。
終曲13曲めの「2匹のハエ Comme 2 mouches」
は酒好きの2匹のハエが,カフェのテーブルにやってきて,酒の入ったコップにたかって,その液体をすすったら,天国の心地になる,という歌。歌詞は1番がラム(系カクテル。カイピ,ティ・ポンチ,ダイキリ...),2番がウィスキー,3番がマルセイユ名物のパスティスとなっていて,天国にどんどん近くなっていくわけですね。
しあわせのうちに13曲43分が終了します。
<<< トラックリスト >>>
1. PUTAN DE CANCON
2. EMPECHE MOI
3. LO DINTRE
4. MON OURAGAN
5. CIUTAT DE L'ERSA
6. ALBA 7
7. BONS BAISERS DE MARSEILLE
8. LA MARRAINE
9. QUAND JE LA VOIS, JE FONDS
10. L'HORLOGE
11. DINS LA NUECH DE MON ASTRE
12. SERADAS DE LA MAR
13. COMME 2 MOUCHES
MOUSSU T E LEI JOVENTS "PUTAN DE CANÇON"
MANIVETTE RECORDS / LE CHANT DU MONDE
フランスでのリリース 2010年9月23日
PS 9月29日
(↓)9月28日、パリ、アランブラでのムッスー・T&レイ・ジューヴェン。「マドモワゼル・マルセイユ」
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3 件のコメント:
ちょうど週末ホームグラウンドのla ciotatでリリース・パーティーが開かれたばかりですね。残念ながらドラムは交代してました。ほんとTatouと一緒に過ごせたなんてラッキーすぎると解説を読みながら痛感。しかもヴァカンスおよばれしたとき彼が夜な夜な一人タバコを吸いながらメモしてる常に携帯のノートを見せてもらったのですがわけわからないまま。。。こんな素敵な詩やネタとなる事柄がたくさん書きこまれてたんでしょうね。ちなみにブルーはla ciotatの青年団の親分!って感じでした。Tatou曰くモロ体育会系なんですって。
おきよしさんは、ある種このアルバムの「当事者」だよね。私はラ・シオタもまだ未体験の身だけれど、おとぼけで人情がつま先から頭のてっぺんまでみたいなタトゥーが、繊細な詩人であるのには軽いショックを覚えます。大きな人間なのですよ。
「マルセイユより愛を込めて」は、録音がそのずっと前とは言え、おきよしさんのために書かれたような歌なんだってばさ。
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