Diane Tell "Souvent, longtemps, énormément"
ディアンヌ・テル「頻繁に、長く、激烈に」
(1982年)
詞曲:ディアンヌ・テル
編曲:カール・マーシュ
フランスの1982年、それは社会党大統領フランソワ・ミッテラン(1981年初当選)第1期の2年目、死刑が廃止され、 刑法上の同性愛禁止条項が削除され、FM電波が解放され、「音楽の日 Fête de la musique」が制定されるなど、ミッテランの(短かった)”恩寵の時代”の真っ盛りの時期であった。FM解放はフランスの音楽風景を一変させたし、この国の音楽がにわかに面白くなり始めた頃だった。
私はフランス滞在4年目だったがとても難しい時期だった。当時夫婦関係にあった女性は結婚3年目(フランス生活3年目)に心身ともに消耗しきって、日本の自分の実家に戻り、私は彼女をそこまで送り届けてから単身フランスに戻り、ひとり暮らしを始めた。なぜその女性とうまく行かなかったのかは、まず第一に私の性悪さに愛想がつきたのだと確信している。その他に大きなファクターとして”貧乏”だったということがある。日系中小企業のサラリーマンだったが、ひとりの給料では本当に厳しかった。私は20代の後半で「パリにいるというだけで多少の苦労は平気」とナイーヴな考え方だったが、1年経っても2年経っても"貧乏”は苦しいものだった。どれほどのストレスであったか、と思う。1982年、私はひとりになり、それから40年以上も暮らすことになるブーローニュ・ビヤンクールに小さなアパルトマンを借り、フランスのカーゴ会社に再就職してロワッシー空港で働くようになった。
自分勝手なもので、ひとり暮らしだと”貧乏”はさほど苦にならなくなって、30歳前の遅い”青春”を謳歌するように、夜のパリ(特にレ・アール地区)でいろんなところに出入りするようになった。そして東京で大学生していた時以来持っていなかったオーディオ・コンポを買って、大きな音で音楽を聞くようになった。その時買った山水(Sansui)のアンプ、今も現役。そして冒頭で述べたように、FM解放以来フランスの音楽はにわかに面白くなり、私は多量のレコードを買うようになった。給料のほとんどがレコードに消えていった感じ。こうして私はひとかどの「音楽愛好者」としての第一歩を切ったのだと思う。自由FMと雑誌(Rock & Folk、Actuel)とレ・アールのFNACが重要な情報ソース。難しい時期だったけど、ひとりで十分楽しくやっていたのですね。若かっただけかな。
それはそれ。
本稿の主役ディアンヌ・テルに関しては、向風三郎の『ポップ・フランセーズの40年』で1981年のヒット曲”Si j'étais un homme(もしも私が男だったら)”を取り上げていて、こんなふうに紹介している。
ディアンヌ・テル「頻繁に、長く、激烈に」
(1982年)
詞曲:ディアンヌ・テル
編曲:カール・マーシュ
フランスの1982年、それは社会党大統領フランソワ・ミッテラン(1981年初当選)第1期の2年目、死刑が廃止され、 刑法上の同性愛禁止条項が削除され、FM電波が解放され、「音楽の日 Fête de la musique」が制定されるなど、ミッテランの(短かった)”恩寵の時代”の真っ盛りの時期であった。FM解放はフランスの音楽風景を一変させたし、この国の音楽がにわかに面白くなり始めた頃だった。
私はフランス滞在4年目だったがとても難しい時期だった。当時夫婦関係にあった女性は結婚3年目(フランス生活3年目)に心身ともに消耗しきって、日本の自分の実家に戻り、私は彼女をそこまで送り届けてから単身フランスに戻り、ひとり暮らしを始めた。なぜその女性とうまく行かなかったのかは、まず第一に私の性悪さに愛想がつきたのだと確信している。その他に大きなファクターとして”貧乏”だったということがある。日系中小企業のサラリーマンだったが、ひとりの給料では本当に厳しかった。私は20代の後半で「パリにいるというだけで多少の苦労は平気」とナイーヴな考え方だったが、1年経っても2年経っても"貧乏”は苦しいものだった。どれほどのストレスであったか、と思う。1982年、私はひとりになり、それから40年以上も暮らすことになるブーローニュ・ビヤンクールに小さなアパルトマンを借り、フランスのカーゴ会社に再就職してロワッシー空港で働くようになった。
自分勝手なもので、ひとり暮らしだと”貧乏”はさほど苦にならなくなって、30歳前の遅い”青春”を謳歌するように、夜のパリ(特にレ・アール地区)でいろんなところに出入りするようになった。そして東京で大学生していた時以来持っていなかったオーディオ・コンポを買って、大きな音で音楽を聞くようになった。その時買った山水(Sansui)のアンプ、今も現役。そして冒頭で述べたように、FM解放以来フランスの音楽はにわかに面白くなり、私は多量のレコードを買うようになった。給料のほとんどがレコードに消えていった感じ。こうして私はひとかどの「音楽愛好者」としての第一歩を切ったのだと思う。自由FMと雑誌(Rock & Folk、Actuel)とレ・アールのFNACが重要な情報ソース。難しい時期だったけど、ひとりで十分楽しくやっていたのですね。若かっただけかな。
それはそれ。
本稿の主役ディアンヌ・テルに関しては、向風三郎の『ポップ・フランセーズの40年』で1981年のヒット曲”Si j'étais un homme(もしも私が男だったら)”を取り上げていて、こんなふうに紹介している。
ディアンヌ・テル(1959 - )はカナダ、ケベック出身のシンガーソングライターで、1982年まで北米で4枚のアルバムを発表し、ケベックで最も栄誉ある音楽賞であるフェリックス賞を7部門で受賞するという大変な評価を受けながらも、1983年からフランスに移住してフランス中心に活動している。この「私が男だったら」はディアンヌのフランスでの最初の大ヒット曲であった。このランタイム4分44秒の曲は、それまでのラジオ局では絶対にオンエアされない長すぎる曲であった。1981年のFM電波の自由化はその常識を覆し、曲の長さは全く問題にならなくなり、多くのフランス人はアイアン・バタフライ「ガダダヴィダ」(1968年)やレア・アース「ゲット・レディ」(1969年)といった長大曲の全容を81年FM自由化によって初めて知ることになったのである(実は私もそうだった)。そして自由FMのダントツ人気ステーションNRJはこのケベック女性のスローバラードにぞっこん惚れ込み、ヘヴィーローテーションで支援し、このようにしてフランス最初のFMヒットは生まれたのである。
もしも私が男だったら、船長になって愛する女性を世界一周の旅に連れて行くだろう、だけど私は女だから、そういうことを言ってはいけないのね、と歌うこの歌は1980年代的風潮とは大きくかけ離れた内容であった。それは強くロマンティックで女性に全てを捧げる男に、女性が身も心も預けるという恋愛が、どうして今日では不可能になってしまったのかと嘆くものであった。当時のフェミニストたちがこの歌をボイコットしたのは至極自然なことであった。しかしディアンヌ・テルは後年にこの歌に関して、”男権復古待望”などでは全くなかったと語っている。自分がアーチストとしてなんとか成功した時に、交際する男性たちの中には余裕のない人たちがいて、そんな時に自分がレストランや旅行に男性を招待すると、彼らは一様に否定的に反応したのだった。女なそういうことをするべきではない、という保守的で封建的な考え方は男性の側にこそ強かったのだ。この歌はそれを嘆いた歌なのだ、と。
なお、この歌を聞いた日本人は、とりわけフィナーレ部の山場で聞かれる、往年の都はるみに極似したウナリ歌唱に驚愕したはずである。
これは歴史的な一曲だと思いますよ。今聞いても鳥肌ものですね。
さてその次のシングルヒットがこの”Souvent, longtemps, énormément"(1982年)ということになるのだが、当時は(↑の"Si j'étais un homme"は歌詞力唱ばかり気になっていたのに)歌詞なんかどうでもよくて、シャーデー(1984年『ダイヤモンド・ライフ』)と張り合えるようなスムーズ/ジャジー・ボッサなサウンドにばかり魅了されていたのだった。詞曲はディアンヌだが、オーケストレーション/アレンジはカール・マーシュ(Carl Marsh)というアート・ガーファンクルやマンハッタン・トランスファーと仕事していた米人。ず〜っと後年になって、この詞が女性の深い寂寥を歌っていることに気がついた。シチュエーションは若い時分からの女同士親友の会話なのだけど、1番から2番、そして3番と年代が大きく進行していく。リフレインは相手の女性の口癖/決まり文句で
Moi, j'ai aimé très souvent
私はしょっちゅう恋愛ばかりしてたのよAimé longtemps puis énormément
長く愛して、激烈に愛したこともあったEt je les ai tous perdus
でもそんな恋、全部失っちゃったCar, comment aimer, je ne l'ai jamais su
私は人をどうやって愛するかなんて全然知らなかったのよ
この女性は理想像とはほど遠い男と結婚して、二人の子供を産んで、子供たちだけが自分の人生になってしまって... という生き方をしてしまったのだけど、いまだに独り者でい
る「私」に、何を躊躇してるの?早く結婚しちゃいなさい、と言うのですよ。何度恋愛してもその恋を失ってしまう人生、それは「愛し方を知らないだけなのよね」と簡単に言ってしまえることなのか。その話を毎度聞かされる「私」の心に吹いてしまう寒い風、という歌なのだと思いますよ。結婚だけはしておきなさいよ、という(日本的な)寒い処世論。今から40年前。恋人をどうやって愛すればいいのか。永遠に知ることはない(je n'ai jamais su)。
Nous parlions toutes les deux
独身者同士の女ふたりLes soirs de célibat夜毎どこに行くというわけでもなく歩きながらEn marchant de longues heures
長い時間Sans aller nulle part
語り合ったものだったOn s'inventait des jeux
ふたりでゲームを考案しOn s'imaginait des gars
理想の男性を想像したりもしたElle disait "Petite soeur, attends
彼女は言った「ちょっと待ってよNe te mets pas au hasard"
偶然に身をまかせちゃだめよ」Moi, j'ai aimé très souvent
私はしょっちゅう恋ばかりしていたAimé longtemps puis énormément
長く愛して、激烈に愛したこともあったEt je les ai tous perdus
でもそんな恋、みんなダメになっちゃったCar, comment aimer, je ne l'ai jamais su
私は人をどうやって愛したらいいか、全然知らなかったのよ
J'étais près d'elle le jour
彼女が未来の夫と知り合った時Où elle connut son mari
私は彼女の近くにいたPeu après qu'elle m'ait dit
すぐその後で彼女は「婚約したいの」Vouloir se fiancer
と私に告げたIl ne ressemblait pas
彼女が自分の人生の夢としてÀ l'homme qu'elle m'avait décrit
描いていた男とはComme étant le rêve de sa vie
全然似ていなかったLe soir, elle m'avait confié
彼女は私に打ち明けた
Moi, j'ai aimé très souvent
私はしょっちゅう恋ばかりしていたAimé longtemps puis énormément
長く愛して、激烈に愛したこともあったEt je les ai tous perdus
でもそんな恋、みんなダメになっちゃったCar, comment aimer, je ne l'ai jamais su
私は人をどうやって愛したらいいか、全然知らなかったのよ
(リフレイン繰り返し)On se voit presque plus
彼女とはほとんど会わなくなってしまったElle a de beaux enfants
彼女は可愛い子供を二人産んだSébastien et Julie
セバスチアンとジュリーQu'elle appelle "toute sa vie"
”私の人生のすべて”と子供たちのことを呼んだElle ne dit rien de lui
彼については何も言わないNi de bien, ni de méchant
いいことも悪いことも何も言わないEt me demande tout le temps
そして私にはいつも同じこと言うMais qu'est-ce que t'attends
いつまで結婚するのを躊躇っているの?Pour dire "oui", elle disait
そしてこう言う
Moi, j'ai aimé très souvent
私はしょっちゅう恋ばかりしていたAimé longtemps puis énormément
長く愛して、激烈に愛したこともあったEt je les ai tous perdus
でもそんな恋、みんなダメになっちゃったCar, comment aimer, je ne l'ai jamais su
私は人をどうやって愛したらいいか、全然知らなかったのよ
(リフレイン4回繰り返し)
Diane Tell "Souvent, Longtemps, Enormément"
7インチシングル DISC AZ AZ/1-918
1982年 (Fnac の値札ステッカーに16フランとあり)
(↓)1982年カナダのテレビ番組映像。
1982年 (Fnac の値札ステッカーに16フランとあり)
(↓)1982年カナダのテレビ番組映像。
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