2011年2月21日月曜日

細工はリューリュー(ゲンズブール)



 2月5日のリベラシオン紙別冊NEXTに独占記事でセルジュ・ゲンズブールの末子,リュリュことリュシアン・ゲンズブールのインタヴューが載ってました。
 もう25歳ですか...。亡き父の20回忌が3月2日ですが,この時5歳で,実際の話,父親の記憶はあまりないようで,周りの人からの話や残っている画像や映像の資料で父親のことを知っていくような少年期だったようです。母バンブー(本名キャロリーヌ・フォン・パウルス)は,リュリュが6歳になる前に息子を連れてマルチニック島に移住します。子供と自分をパパラッツィから守るためだったのですが,二人はそこでゆったり5年間暮らし,リュリュは褐色に日焼けしてクレオール語を話すようになります。
 父が生きていた時にリュリュは父の教育方針でコンセルヴァトワールでピアノを習い始めたのですが,音楽の勉強はずっと続けていてパリからロンドン,そして19歳でボストン,バークリー音楽院に入学します。2年間みっちりピアノを修練した後,専攻としてジャズと映画音楽を選択しますが,ジャズはハードワークすぎて("trop de boulot" と言っている)断念,映画音楽科で「ソングライティング」と「フィルムスコアリング」を学び,自分で作詞(英語で)と作曲ができるようになります。(ボビー・マクファーリンやクインシー・ジョーンズのマスタークラスを受けた,なんてことをうれしそうに語るんですね,この青年は)。
 稀にしか会わないけれど,義姉シャルロットとは信頼の絆で結ばれているようです。この記事を書いたフランソワーズ=マリー・サントゥッチは,いつかこの二人が共同で音楽を作る日のことを想像したりします。まあ,私はシャルロットが才能ある音楽アーチストだとは全く思っていないので,あまり夢見ておりませんが。しかし父親の才に至らない2人の子供が、お互いに引き継いだものを出し合えば、なにか面白いものができるかも、というジャーナリスト、サントゥッチの楽観論というのは...ちょっと呆れますけどね。
 リュリュに親しい人たちの中で,ちょっとびっくりなのはジョニー・デップで,父親絡みでヴァネッサ・パラディとは家族づきあいがあったのですが、ジョニー・デップは「僕の兄であり、手本である」と断言してます。アメリカでどうやって「XXXの子」として生きるべきかを教えてくれたのはデップらしいです。幼くしてショービジネスと私生活をどう分けて生きるべきかを知ったデップが、リュリュに手本を示しているのだそうです。2人は容貌も似てきます。その上リュリュは(日常生活では)デップと同じブランドの鼈甲メガネフレーム(Moscot社製)にデップと同じスモーク・ブルーのレンズをつけたメガネをかけているので、よくデップの弟と間違われる - これがリュリュの自慢なんですが - そうです。
 あとニュー・ヨークでは80年代に父親のミュージシャンだったトニー・”サンダー”・スミス(ドラマー)が、リュリュのニューヨークの音楽的「父親代わり」になっていて、同地での音楽的人脈はトニー・スミスを通して拡がっているようです。
 芸能人の子は芸能人、と言いますか、幼くして親はそういう準備をしていて、シャルロットが映画の子役からその世界に入っていったように、リュリュも幼くしてバンジャマン・ビオレーのCDに母バンブーと共に声の出演をしたり、2001年の映画Bande du Drugsore(フランソワ・アルマネ監督)にシャンゼリゼの「ドラッグストア」のマスコット役で登場しています。音楽家としてはマルク・ラヴォワーヌのアルバム"Volume 10"(2009年)に初めてコンポーザーとしてクレジットされています。
 こういう風にフランスで「アーチスト」として、端役ではなく正式にデビューする機会を窺っているような状態ですが、義姉シャルロットとは違ってメディアの興奮度が今ひとつという感は否めません。

 
Je suis just l'enfant de Gainsbourg qui commence peut-être à devinir quelqu'un (僕は何者かになり始めているかもしれないゲンズブールの子供)


 2010年12月、リュリュは彼のスタッフと共にニューヨークでスカーレット・ヨハンソン(そうです、『ロスト・イン・トランスレーション』の女優さんです)と録音スタジオ入りしています。録音は概ね順調とは言え、リュリュはどうしても満足せず、何度もセッションを繰り返します。そこに居合わせたトニー・”サンダー”・スミスは「おまえはセルジュを思い出させる。おまえは優しいが、自分が望むものが得られるまで、絶対に手を抜こうとしないという暴君の面を持っている」と評したそうです。
 音楽アーチスト、リュリュ・ゲンズブールのデビュー・アルバムは、まだタイトルも決まっていませんが、セルジュ・ゲンズブール作品集になります。自分のオリジナルアルバムというのは時期向早と多分親族・近親者・スタッフが判断したのでしょう。親父様の七光りで「土台」を作ってから、という手堅い戦略なのかもしれまっせん。多くの人たちに支えられて「大人」にしてもらうような戦略って、どういうものかな、と思ってしまいますけど。
 そのアルバムは編曲とインストルメンタルの一部(ピアノ)と歌はリュリュが担当しますが、歌のデュエット相手として前述のスカーレット・ヨハンセン("Bonnie & Clyde")、-M-ことマチュー・シェディド("Requiem pour un con")、インストルメンタルナンバーとして"Poinçonneur des Lilas"が予定されていて、リュリュのピアノの相方がマヌーシュ・ギターのアンジェロ・ドバールだそうです。その他、このリュリュ版のセルジュ・ゲンズブール・トリビュートへの共演予定者(承前)としてこんな名前が:ジョニー・デップ&ヴァネッサ・パラディ、ノラ・ジョーンズ、ボビー・マクファーリン、ハービー・ハンコック、レイディオ・ヘッド、ジェイ・ジー、ミカ...。春までに録音が終わって、6月には初シングル、夏はアメリカツアー、9月にアルバムリリース、秋から冬にフランス・ツアー、次いで世界ツアー....。
 それが成功したら、改めてリュリュ・ゲンズブールのオリジナルアルバムを制作するのだそうです。夢見るのは自由ですがね、こういうお膳立てがあっても、成功するとは限りませんし、アジア系の顔をした「XXXの息子」ということではショーン・レノンのような例もありますし...。

(↓2010年8月28日、アングーレームの映画祭の一環として催されたリュリュ・ゲンズブールの初のコンサートを報じる国営テレビFRANCE 3)



 
 

2011年2月19日土曜日

ル・クレジオ、サルコジの傲慢さに憤激する



 2月18日、ノーベル賞作家J.M.G.ル・クレジオが、メキシコの日刊紙ミレニオのインタヴューで「サルコジとその政府のメキシコ司法制度に対する傲慢と侮蔑に憤りを覚える」と表明しました。あのル・クレジオが怒るのですから、ただごとではありまっせん。ル・クレジオが何に対して憤っているのかを説明していきましょう。
 「フローランス・カッセーズ事件」というのがあります。1974年北フランス生まれのこの女性は2003年に弟のいるメキシコに渡ります。2004年彼女は弟の紹介でイスラエル・バジャルタ・シスネロスと知り合い、恋仲になります。このシスネロスは「ロス・ゾディアコス」という誘拐・人身売買集団の頭目で、10件の誘拐事件と1件の殺人事件の犯人です。2005年4月カッセーズはシスネロスと破局して一旦フランスに帰るのですが、9月にはメキシコに再渡航し、シスネロスの家で12月まで暮らしていました。
 2005年12月8日、メキシコシティーから50キロ離れた高速道路上で、フローランス・カッセーズとイスラエル・シスネロスがメキシコ警察に逮捕されます。その逮捕劇をメキシコのテレビ局2社がダイレクト中継します。それは3人の子供を誘拐したシスネロス一味をメキシコ警察が追いつめ、無事子供を救助し、犯人を現行犯で逮捕するというものでした。カッセーズはシスネロスの共犯者として逮捕されます。
 2006年2月11日、メキシコのテレビ生放送番組に獄中から出演したカッセーズは、この逮捕劇が警察とテレビ局による演出であったことを糾弾し、同じ放送に出演していた当時連邦捜査局の長官であったヘナーロ・ガルシア・ルーナは即答でそのでっち上げを認め、詫びの言葉まで述べたのでした。
 ここでカッセーズ側はもうこの事件は終わった、無罪放免は勝ち得たも同然、と思ったのですが、「私はそこにいただけ、シスネロスの犯罪には関与していない」というカッセーズの主張は退けられ(彼女を共犯者とする証言がいろいろ出てきたのです)、長い年月をかけた裁判の末、2008年4月25日、禁錮96年(誘拐罪20年x4件、武器不法所持4年、銃弾不法所持4年などの合計の量刑)の有罪判決が下ります。
 フランスのカッセーズの両親がフローランス救済を大統領ニコラ・サルコジに直訴。フランスのメディアはこの頃から「無実のフランス人女性を救え」風な報道キャンペーンになります。サルコジはフランス司法による事件の追跡調査を弁護士フランク・ベルトンに命じます。
 2009年3月、二審判決でカッセーズの刑は60年に減刑されます。しかしフランスが要求した受刑者の母国移動(国際協定で認められた刑務を母国で遂行する権利)はメキシコ政府に拒否されます。
 フランク・ベルトンはかのヘナーロ・ガルシア・ルーナに嫌疑をかけます。事件当時連邦捜査局長であったルーナはその後昇進して国家公安委員長になっており、一旦は冤罪と認めたものの、その冤罪が確定すると自分の地位はないと判断して、保身のためにカッセーズを何が何でも有罪にしなければならないと画策している、と言うのです。
 こういう発言は国際問題/外交問題になります。メキシコ市民の神経を逆撫でします。なにしろメキシコでの組織犯罪や誘拐・人身売買事件は国の最大の問題で、主犯者であろうが共犯者であろうがフローランス・カッセーズを絶対に許せない人々(誘拐事件被害者の会のような多くの市民団体)は、それを国の力でバックアップしようとするフランスに大きな反感を抱いてきます。メキシコ大統領フェリペ・カルデロン・ヒノホサはフランスが要求する刑務者移送(身柄引き渡し)に関して、フローランス・カッセーズがフランスで60年の刑務を最後まで履行するという保証がなければ移送は受諾しないと明言しています。
 その間、フランスの国会議員団がカッセ釈放要求の声明を出したり、国営テレビでカッセーズ事件のドキュメンタリーを放映したり、カッセーズの手記が出版されたり、カッセーズ弁護団がフランスにメキシコ国をハーグ国際司法裁判所に提訴するよう嘆願したり...。

 2011年2月11日、メキシコ最高裁への上告が棄却され、事実上禁錮60年の刑が確定します。
 ここからがすごいんです。フローランス・カッセーズの母がサルコジに今年開催される『フランスにおけるメキシコ年』(3月15日に開会セレモニー)を中止するように願い出ます。カッセーズの支援団体がそれだけでなくメキシコへの観光旅行のボイコット、メキシコ製品輸入のボイコットなどを訴えます。フランス政府からは外務大臣ミッシェル・アリオ・マリー(チュニジア旧独裁権力との癒着関係でスキャンダルを起こしている方です)が、"véritable déni de justice"(通常は裁判否認という意味なんですが、この場合は「正義を全的に否定すること」というような意味でしょう)という言葉を使ってメキシコの司法を非難し、自分としては「メキシコ年」の文化事業に加担したくない、と言ってしまいます。2月14日サルコジは大統領官邸でカッセーズの両親と会見したあと、こういう声明を発表します。「フランスにおけるメキシコ年は予定通り遂行するが、このメキシコ年をその国に囚われたひとりのフランス人女性、フローランス・カッセーズに捧げる」!!!!
 メキシコ政府が激怒したことは言うまでもありまっせん。フランスのメディアも半分はあきれてしまっています。「サルコジは瀬戸物屋に迷い込んだ一頭の象のようだ comme un éléphant dans un magasin de porcelaine」(ラ・レプビュリック・デ・ピレネー紙)うまいこと書きますね。メキシコとの外交関係はぶち壊し。メキシコで重罪が確定した人間に「フランスにおけるメキシコ年を捧げる」、ですよ。フランスでも司法に対して何らのリスペクトを持たぬサルコジ(最近では、刑期を終えて釈放された重犯罪者が犯した罪をめぐって、それを野放しにした司法官を罰せよと発言して、前代未聞の全国規模での司法職者ストライキを引き起こしている)が、主権を持った外国の裁判制度を全く尊重することなく(おまえの国の裁判はでたらめだと言うがごとく)、テロ組織にものを言うように「人質の身柄を引き渡せ」と迫っているのです。現在先進主要国会議G20とG8の議長国の大統領ですからね、「このG20会議をノーベル平和賞受賞者リウ・シアオ・ポーに捧げる」なんてこともできるはずのですがね。
 
 2008年にノーベル文学賞を受賞したジャン=マリー=ギュスタヴ・ル・クレジオは、1967年から68年にかけてメキシコで生活して、メキシコ大学でマヤ語とナワトル語を学んでいます。それが始まりでユカタン半島のマヤ文明の探求や、パナマでも原住民との共同生活などを通して『悪魔払い』や『砂漠』のような小説を生んでいったのですね。また昨年メキシコ政府はル・クレジオに、外国人にとって最も栄誉ある「アズテクの鷲」の称号を与えています。サルコジのメキシコに対する傲慢さに激怒しながらも、ル・クレジオはメキシコ政府に対して、カッセーズの家族へ惻穏の情を持つべし、と促しています。メキシコにとっての文化VIPの言葉として、メキシコは受け取ってくれるでしょうか。

(↓2月14日 TF1ニュース。「メキシコ年をフローランス・カッセーズに捧げる」と発表するフランス大統領ニコラ・サルコジ)


 
★追記 2011年3月9日
3月8日,「フランスにおけるメキシコ年」の中止が正式に決まりました。これで2月から予定されていた360のイヴェントはすべて中止となりました。ル・ポワン雑誌のネット記事によると、これにかけていた数千万ユーロという両国の文化予算が無駄になったとされています。サルコジの一言のせいです。
 

2011年2月16日水曜日

東欧には限りがない,とヨム公は言った。



YOM & THE WONDER RABBIS "WITH LOVE"
ヨム & ザ・ワンダー・ラバイス『愛を込めて』


 ザ・ニュー・キング・オブ・クレズマー・クラリネット,クレズマー・クラリネットの新王を僭称するヨム公に,2月18日(これを書いている時点で明後日)インタヴューすることになりました。その下調べをしているうちに,以下のプレス用資料に掲載されたインタヴューを見つけました。たいへん面白いので,(ラフですが)和訳してみました。

一種の門戸開放という観点からこの『愛を込めて』のプロジェクトは生まれた。これまでクレズマーはその進化のために常に新しい国を必要としていたが,われらがクラリネット奏者はそれを東ヨーロッパに求めたのだった。

 僕はこのアルバムを僕の東ヨーロッパ音楽観を音楽で地図化したもののように考えている。僕にとってこのアルバムは「クレズマー外音楽」探求が大きな軸になっていて,それはバルカン,トルコ,ルーマニアの方向に向かわせている。僕はこれまでよりもさらにクラリネットの修練を行ったが,そのやり方はこれまでと全く異なっている。いつまでも同じクレズマーの主題や音階に固執する代わりに,僕はあえてルーマニアやトルコやブルガリアの演奏スタイルを取ることにした...。僕は音質と装飾音とメロディーラインの探求に極力時間を費やし,その結果自分の和声に対する考え方を根本的に改めた。そして僕の仕事の課題というのは際限なく拡大し,東ヨーロッパはユダヤ的であるかないかに関わらず無限であると悟ったのである。

 その青春時代からヨムの音楽的無意識領域を最も親密なものとして支配していたものと,この新たに加わった国々の文化は,今日まで宴の音楽として混じることを許されずにブツブツ音を立てていたのだった。それに加えて,彼はモグワイ,クラフトワーク,イーノ,ブリストルのトリップ・ホップについて夢中になって語るのである。

 僕はモグワイとドゥー・メイク・セイ・シンクのポストロックが大好きだし,クラフトワークは全アルバムを持っている。ブライアン・イーノは天才だ!それからマッシヴ・アタック,トリッキー,ポーティスヘッドも !!!  レイディオヘッドとシガー・ロスの名前も出すべきだ。まさしくこれらの影響がすべてこのアルバムにある。人はその影響を多少なりともはっきりした形で見てとるだろうが,しかしながら僕はいかなる時でも決められた方向を見失うことはなかったし,いかなる時でも広い意味での東欧音楽への僕の愛情がないがしろにされることはなかった。それは僕のすべての音楽の土台であり,極めて多様な影響によって補われているのだ。

 この音楽宇宙は多くをザ・ワンダー・ラバイスにも負っている。リーダーであるヨムの溢れ出るエネルギーを中央にもってきて,うまく引き出す役目を果たしているのだから。

 マニュエル・ペスキン(キーボード)とシルヴァン・ダニエル(ベース)は,以前から最も僕が共同で仕事したいと思っていたミュージシャンたちだった。マニュエルは膨大な音楽知識があり,完璧な耳を持っている。シルヴァンはポップ,ロック,ソウルといった音楽に関する知恵の井戸であるだけでなく,サウンドとプロデュースに関しても造詣が深い。セバスチアン・レテは超テクのドラマーであり,ワールドミュージックの博識者だ。コンサートではエミリアノ・チュリがドラムスを担当するが,彼はよりロック的なドラミングを展開する。これらの素晴らしい仲間のおかげで,僕は真にバンドの音を追求することができたし,あらゆる影響を組み合わせてそれらを超越することができたんだ。

 この爆発性のカクテルは必ずや安っぽい純血主義者たちを苛立たせるだろうが,ヨムは純血性と関係するすべてのものを嫌悪しているから気にすることはない。歴史は彼が正しいことを証明するだろう。クレズマー音楽を背負い込んだ歴史的バックグラウンドはここでも忘れられておらず,イラストレーターのピエール・ヴァン・オーヴ描くCDのジャケットアートでも既に明らかだろう。

 アメリカン・コミックスに造詣の深いピエールは,このジャケット制作にうってつけの人物だった。これのジャケットはこのアルバムの意図に近いポップな面を強調する。僕は長い間第二次大戦中にユダヤ人を救済した人を指す「ジュスト(正義の人)」という意味について考えていた。歴史上の混乱した時期に,人間の善意に従ってちょっとした単純なことをした人が,突然にしてスーパーヒーローになってしまう。この理由において,僕はクラリネットを使って愛を世界にばらまく正義の使者を構想したのだ。このことは同時に「スーパーマン」のユダヤ人作者たちへの目配せであり,「スーパーマン」は最初ヒトラーを打ち負かすために構想されたのだった。その上言わせてもらえば,世界がこのように全面的に落ち込んでしまっている時に,誰がスーパーヒーローになることを夢見ずにいられるだろうか?!

 これらすべての賢明な弁明が証明するように,たとえこの新アルバムでヨムがコミックを演じていようが,彼はますますもって重大で謹厳なアーチストとして評価されるはずである。

(インタヴュー:セバスチアン・モージュ。2010年12月26日)


 どうです,面白いでしょう? 私としてはこれより面白いことを聞かないといけない,というプレッシャーを感じておりますが,正義の人への向風インタヴューは「ラティーナ」4月号に掲載予定です。乞うご期待。

<<< トラックリスト >>>
1.  チェルノブイリ・ピクニック
2. コンスタンティノープル高速道路
3. ランドスケープ 1
4. ザ・ワンダー・ラバイス
5. 世界を救うなんて朝飯前
6. 赤きドナウのほとり
7. キリング・ア・ジプシー
8. ランドスケープ 2
9. ジ・アライヴァル
10. スーパーマンへのカディッシュ(追悼祈)
11. 愛を込めて
12. ワンス・アポン・ナ・タイム

YOM & THE WONDER RABBAIS "WITH LOVE"
BUDA MUSIC CD 860206
フランスでのリリース : 2011年3月18日


(↓2011年1月20日,パリ,リュック・デ・ロンバールでのヨム&ザ・ワンダー・ラバイスのライヴ)

2011年2月5日土曜日

アー・ユー・エクスペリエンスト?



The Serge Gainsbourg Experience "The Serge Gainsbourg Experience"
ザ・セルジュ・ゲンズブール・エクスペリエンス『ザ・セルジュ・ゲンズブール・エクスペリエンス』


 没後20周年ですから。
 ブラッド・スコットはアルチュール・Hのバシブーズーク・バンドのコントラバス奏者だった人です。私はこの人が初期アルチュール・Hのステージ(90年代初期ですね)で、ひとり浪々とレオ・フェレの「セ・テクストラ」を歌ったのを鮮烈に記憶しています。1960年生まれのイギリス人で、クラシック教育を受けたあとで、グラムロックに染まり、次いでパンクになり、どういうわけか1985年に英国を後にしてフランスにやってきます。この「どういうわけか」はとても知りたいところです。ルノー、ビュジー、バシュング、ジャック・イジュランなどのベーシストを経て、アルチュール・Hのバシブーズーク・バンドに辿り着きます。
 シャンソン大丈夫、アコーディオン大丈夫、マヌーシュ・スウィング大丈夫、ジャズ大丈夫、ワールド大丈夫...というフランス寄りのオールラウンド・プレイヤーになっていきますが、それの評価は「最もフレンチな英国人ミュージシャン」を通り越して「最もブリティッシュなフレンチ・ミュージシャン」の域に達しているようなところがあります(RFI Musiqueのクロニック)。
 ブラッド・スコットはゲンズブールの晩年期(とは言っても60歳前後)にテレビ番組収録の楽屋裏で遭遇しており、伝説では2人は熱く音楽を語り合ったということになっています。英国はゲンズブールにとって(バーキンさんを筆頭に)濃厚な縁のある文化であり、ゲンズブールは英国で(死後の異常な再評価を考慮に入れなくても)真正にリスペクトされた数少ないフレンチ・アーチストのひとりでした。
 
 ブラッド・スコットとその仲間、総勢6人のザ・サージ・ゲインズバーグ・イクスピェリエンス(...と米語読みは無理)、もとい、ザ・セルジュ・ゲンズブール・エクスペリエンスは、非常にソリッドでシャープな中年ロックコンボです。ひとくせもふたくせもある人たちによるゲンズブール・カヴァーは、数あるトリビュート盤よりもずっと至近距離を感じさせる、パブ・ロック風にアーティザナルな仕上がりです。凝ったことよりもざっくりした塊のような手応えを重視しているようです。
 のっけからバルドーのために作った「コンタクト」次いで「コミック・ストリップ」と、われらがセルジュのクラシックが、今まで聞いたことのない切り口で迫ってきます。それはギターがギュンギュン鳴り、トム・ウェイツ〜イギー・ポップ型のヴォーカルがマイクわしづかみで震え声を上げ、タイトなロックビートがタテに揺れるというものです。曲によっては英語詞になり、それは80年代にバシュングとのコンビで知られた多国語言葉遊びの達人ボリス・ベルグマンが訳詞しています。10曲め"I just came to tell you I'm going"(オリジナル"Je suis venu te dire que je m'en vais",日本語題はしょぼく「さよならを言うために」)はジャーヴィス・コッカーの英詞ヴァージョンを採用しています。
 超定番曲("Initials BB", "Bonny and Clyde")もあれば、"Requieme pour un twister"(1962年アルバム『セルジュ・ゲンズブール No.4』 の1曲)、"SS in Urguay"(1975年アルバム『ロック・アラウンド・ザ・バンカー』の1曲)のように、あまり知られていない曲もあり、月並みに「ジャヴァネーズ」や「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」でお茶を濁すトリビュート盤とははっきりと距離を置いています。
 5曲め"Chanson de Prévert"(日本語題はこれまたしょぼく「枯葉に寄せて」)は、アコーディオンをフィーチャーしたジャヴァ・ロック仕上げで、テレラマ誌のヴァレリー・ルウーは「アルノー(註:ベルギーの訥弁ロッカー)がジャック・ブレルの『ヴズール』を歌っているような」と評しましたけど、アコの間奏が『ヴズール』のように火を吹くような勢いになり、笑っちゃいますけど、ブラッド・スコットが「ショッフ、マルセル!」とかけ声を上げてます。
 白眉はやはり『メロディー・ネルソン』からの2曲、7曲め"Valse de Melody",8曲め"La Ballade de Melody Nelson"でしょうか。リスペクトある解釈とブラッド・スコットの熟した声の表現力が際立ちます。ブリティッシュだのフレンチだの言う前に、良く咀嚼された音楽の厚みを感じます。こういう体験は貴重です。
 付け足しみたいですけど、女性ヴォーカル、セリア・スコットの声も似非バルドー/似非バーキンになることなく、ストレートど真ん中です。

<<< トラックリスト >>>
1. CONTACT
2. COMIS STRIP
3. A SONG FOR SORRY ANGEL (SORRY ANGEL)
4. INITIALS BB
5. CHANSON DE PREVERT
6. REQUIEM POUR UN TWISTER
7. VALSE DE MELODY
8. THE BALLADE MELODY NELSON (LA BALLADE DE MELODY NELSON)
9. SS IN URGUAY
10. I JUST CAME TO TELL YOU I'M GOING (JE SUIS VENU TE DIRE QUE JE M'EN VAIS)
11. BONNY AND CLYDE
12. MA LOU MARILOU

THE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCE "THE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCE"
CD LA LUNE ROUSSE LC09721
フランスでのリリース:2011年1月

 
(↓「ショッフ、マルセル!」ー ザ・セルジュ・ゲンズブール・エクスペリエンス「枯葉に寄せて」)