2019年10月30日水曜日

どれだけ泣かせるトレダノ&ナカッシュ

『規格はずれ』
"Hors Normes"

2019年フランス映画
監督:エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ
主演:ヴァンサン・カセル、レダ・カテブ
フランスでの公開:2019年10月23日

上映は2019年5月のカンヌ映画祭の閉幕上映で、その時から大反響を呼んでました。私たち家族は一般上映よりも1ヶ月半前の9月3日にわが町のパテ・ブーローニュ座でプレミア特別上映(両監督との懇談会つき)を観ることができ、満席の観客と共にエンドロールでの大喝采に参加し、両監督の登壇をスタンディングオベーションで迎えたのでした。
これは勇気ある映画です。これ、笑っていいんですか? ー という戸惑いはトレダノ&ナカッシュ映画には無用。"Hors Normes"(規格はずれ)とはこの映画ではダブル、トリプル、クアドループル...  ミーニングであり、規格にそった世の中を正常とするならば、それから外れたものを異常として排除しようとする「正常」側の圧力を跳ね返すには、並外れた、言わば規格はずれのパワーを要するわけです。この映画のヒーローふたりは基準に従っていたら絶対にやれっこないことをしているがゆえの「普通人」ヒーローであるのです。
 対象は "autisme"(オティスム、自閉症)と言われる障害を持った子供たちです。この障害は軽度から重度までいろいろのレベルがあります。普通の学校でも受け入れられる程度、専門施設でケアできる程度、いろいろです。しかし、どの公共施設でも受け入れてもらえない"基準外”のケースも多くあり、その場合に(人道的にあとに引けない)民間のNGOが面倒みることになります。普通は公の機関がやるべきことと思うのですが、病人が病院で収容しきれないケースと同じ現象がここにあります。ブルーノ(演ヴァンサン・カセル)は、そういう民間NGOでしかも一般の住宅建物の中に設けられた収容施設を切り盛りする代表者で、彼のスマホはひっきりなしに入所可能かどうかの問い合わせで鳴りっぱなし。いろんなところで断られ、なんとかなりませんか、という悲痛な願いばかり。それに対してブルーノは、こっちもいっぱいいっぱいです、と断りたい気持ちは山々なのに、断れない性分。すべてが"特殊なケース"であり、おのおのの障害に合わせた特殊なケアが必要なのに、その特殊さに合わせてひとりの子供の場所を作ってやり、施設の一員としてひとり、またひとりと加えていくのです。問題や事故は常に一触即発。映画の冒頭は、通りに脱兎の如く逃げていく少女、それを何人も手分けして全速力で追いかけ、地面に倒して取り押さえる、というシーン。周りにいる一般市民は、一体何事か、少女に対する虐待か暴行か、という厳しい視線と反応、それに対して「いえいえ、何でもないんです、えへへへ...」とごまかして、少女をなだめすかしてその場を立ち去るブルーノたち。映画を観る者は、これはフツー人にはなかなか理解されない、という現場を最初から具体的に見せつけられるわけです。
 ところが、この規格に収まらない子供たちの世界をも、規格の縛りの中に閉じ込めようとする権力があります。このようなNGOも国からの援助金がなければ機能しない。その援助金を得るためには、建物の広さやその環境、衛生管理、ケアヘルパーの数やその資格などさまざまな条件をクリアーしていなければなりません。ブルーノのセンターは何度か役所の抜き打ち検査を受け、改善を命令されていることばかり。そしてこの映画では、検査官が最終通告(つまりNGOの認可を取り下げる)も辞さない態度で追求してきます。予算がない、収容人員オーバー、ケアヘルパーに給料が払えない、それでもブルーノはひっきりなしにかかってくる電話に、いやと言えないのです。
 一方、そのケアヘルパーたちを養成して、ブルーノの施設に送り込んだりしているのが、ソーシャルワーカーのマリック(演レダ・カテブ)。十代半ばで全く将来の希望がないルーザーとして世に投げ出される"郊外”の難しい子たちを集めて、人の身を預かる重大でヒューマンな仕事のやりがいを教える熱血教官。問題児たちが自分たちと違う問題を抱えた子供たちと触れ合っていくボディー・トゥー・ボディーの実地教育。無責任な子らがどんどん「兄貴・姉貴」分に変わっていきます。その総兄貴分がマリックというわけですが、強靭な肉体と睨みの利く目線が欠かせません。
このブルーノというお人好し+自閉症 A to Zを知り尽くしたケア魔術師と、現場の修羅場を(出来の悪い)ヘルパーたちと丸く収める行動人のマリック、このコンビが解決していくさまざまな"規格はずれ”な無理難題を描いた映画です。特にクローズアップされるのが2件のケース。ひとつは年齢が成人になったので(比較的軽度の自閉症と言っていいのだろうか)、施設を卒業して社会人デビューを試みるジョゼフ(演バンジャマン・ルシユー。現・自閉症者です。 素晴らしい演技)。何度言い聞かせても地下鉄に乗ると非常停止レバーを引いてしまう常習犯。工場の単純労働に研修で入るのですが....。
 もうひとつは"重度”の少年ヴァランタン(演マルコ・ロカテリ。これはプロの子役役者が演じてますが、実はマルコの弟がやはり重度の自閉症で、このヴァランタンのことが本当に理解できるんだ、という本人の弁でこの役に抜擢。こちらも素晴らしい演技)で、凶暴性があり、自暴自棄になると自分の頭をあたり構わず打ち付けてしまうので、24時間ヘッドギアを装着していないといけない。どこも受け入れ先のないヴァランタンを引き受けたブルーノは、とりあえず入れる個室がないので、ホテルの一室を(ホテルに内緒で)即席に閉鎖保護室に変え、マリックの教え子で問題児のディラン(演ブライアン・ミアルーンダマ。一応断っておくとアフリカ系ブラックの子です)を見張りにつけて一夜を過ごすはずでした。ところがディランがタバコを吸いに外に出たすきに、ヴァランタンは逃亡し... マリックとブルーノの配下の若者たち全員でパリ中を探し回り、ついに見つけたのが、ペリフェリック(パリをぐるりと囲む環状自動車道路)の上をヘッドギアをつけながら、車のクラクションの怒号を浴びながらとぼとぼ歩いているヴァランタン...。
 このようなスキャンダルが公になれば、ブルーノのセンターは認可を取り上げられ閉鎖させられるのは当然のこと。ブルーノとマリックの必死の奮戦はどこまで続けられるのか。
映画はこの超人的ヒューマンな二人とその仲間たち、そして障害のあるなしにかかわらず人間として生きる権利を認め合う人たち、この世で生きる自閉症者たち、そういう生命たちへのオードです。それを "規格”で推し測ろうとする人々へのおおきなバッテンです。
 ディテールですが、ブルーノは誇り高いユダヤ人でキッパーをかぶっています。その下で働く事務の女の人はヒジャブで髪を覆っています。マリックは北アフリカ系アラブ人で、教え子の郊外の子たちはブラックもアジアも"白人”もいます。さらにディテールですが、映画中の自閉症の子たちは(前述のヴァランタン役を除いて)すべて生身ですし、施設のケアヘルパーさんたちもそうです。そんなものにこだわっていたら、自閉症の子たちに笑われる、という含みかもしれません。それらもさまざまな"規格"にすぎないのです。私たちは"規格”を超えてみなければ、見えないものがたくさんあります。多くのガチガチ"規格”尊守にんげんたちに見て欲しい作品です。
 蛇足ながら、これでトレダノ&ナカッシュ映画に出演するの3回めですけど、エレーヌ・ヴァンサン(前述の成人自閉症児ジョゼフの非常に"感じやすい”優しい母親エレーヌの役で登場)毎回本当に素晴らしいです。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓) "Hors Normes"予告編


2019年10月24日木曜日

Could it be まじ(っすか?)

『212号室』
"Chambre 212"

2019年フランス映画
監督:クリストフ・オノレ
主演:キアラ・マストロヤンニ、ヴァンサン・ラコスト、カミーユ・コタン、バンジャマン・ビオレー
2019年カンヌ映画祭主演女優賞(キアラ・マストロヤンニ)
フランスでの公開:2019年10月9日

所はパリ14区モンパルナス界隈、地下鉄ヴァヴァン駅とエドガール・キネ駅をつなぐドランブル通り(Rue Delambre)、藤田嗣治や米ロスト・ジェネレーション作家群などのゆかりの地であり、ヴァヴァン側から見ると最初にビストロ・デュ・ドーム(Bistrot du Dôme)があって、道のず〜っと奥にモンパルナス・タワーが見える。その16番地に独立系の映画シアターとして名高い「セット・パルナシアン(Les 7 Parnassiens)」があり、その向いの15番地にヘンリー・ミラーやマン・レイが常宿にしていたホテル・ルノックス(Hôtel Lenox)がある。この16番地と通りを挟んで向かいの15番地、これを中心にした数十メートルのドランブル通り空間を、クリストフ・オノレはスタジオ内セットにしたのである。
 個人的なことで恐縮だが、1980年代の中頃、その約10年後に私の奥様になる女性がダランブル通りに2年ほど住んでいて、私はしょっちゅう通っていたのでこの界隈はとても思い出があるのです。映画館もよく行ったし、よく朝買いに行かされた5番地のパン屋も、ホテル・ルノックスの数軒先にあったインド料理屋も、映画館の隣にあった焼肉レストラン「東京」も...。それはそれ。
 さて映画はそのドランブル通りの映画館の入り口のある建物の2階(日本式には3階)のアパルトマンに住んでいる夫婦の突然の破局が発端である。歴史学の大学教授であるマリア(演キアラ・マストロヤンニ)は、出不精・非活動的・メランコリックだが貞節な夫であるリシャール(演バンジャマン・ビオレー)の知らぬところで、その旺盛なリビドーを発散させるために数多くのセフレ(大多数は教え子たち)をつくってきたが、結婚25年になった今、ある冬の雪の日(昔ながらのスタジオ内映画セットに降る雪、美しい)に、初めて妻のスマホに畳みかけて受信されるセフレからのしつこいメッセージを見てしまった夫が動揺する。「いつからこんなことになっているのか?」「あら、ずいぶん最初の頃からよ」とあっけらかんと答えるマリア。リビドーの処理にはしかたないじゃないの、そんなの愛情とは何の関係もないわ。ー お立ち会い、これは世間的にはマッチョな「男の理屈」だったわけですよ。欲望のままに生きることが許容されていた側のリクツである。この論を妻一筋に25年間貞節に生きてきた夫の前で展開するわけだから、リシャールは一体俺の25年間は何だったのか、と崩れていく。そんな男を正視できなくなったマリアも、自分の過去・現在・未来を考え直す必要がある、とその雪の夜、アパルトマンをこっそり抜け出し、向かいのホテル・ルノックスの212号室に投宿する。この212号室の窓から、ドランブル通りを挟んだ向かい側に、リシャールがひとり取り残されたアパルトマンが丸見え、というスタジオセット映画のトリック。
 ここから奇想天外ストーリーが始まり、この212号室に次々と闖入者が。まず今から20年前のリシャール(演ヴァンサン・ラコスト)登場。これが20年後の自分(アパルトマンの中に一人残され、なんともみすぼらしい部屋着姿で自暴自棄になっている)を窓越し・通り越しに見ながら、こんな結果を招いたマリアを激しくなじる。そんな若いリシャールに魅了され、逆に誘惑してしまうマリア ー 若い頃の夫に浮気することは夫への不倫にならないというロジック! ー この映画でキアラ・マストロヤンニは四六時中全裸で、生身の47歳(美しいとは言えないけれど生身の裸体)を曝け出しているのだけど、リビドー丸出しというわけでは全くなく、肉体の悲しさも出てしまっているところがクリストフ・オノレの狙いであろうな。
 次いで登場するのが、リシャールが少年の頃から恋い憧れていたピアノ教師イレーヌ(演カミーユ・コタン、素ン晴らしい!)で、リシャールが出会った頃の年齢で現れた彼女は、少年→青年→成人までリシャールの心を奪い誘惑し、性のイロハまで教えた過去を持ち出し、マリアという結婚相手の登場によって「禁じられた年上の女」は姿を消すことになったが、あの時姿を消さなかったら、リシャールの人生は全く違うものになっていたという仮説をヴィジュアル化してリシャールを再誘惑する。その再誘惑の矛先は若リシャール(ヴァンサン・ラコスト)に始まって、次いで通りの向かい側のアパルトマンにいる現リシャール(バンジャマン・ビオレー)に魔手を伸ばしていく。これを必死になって止めようとするマリアだったが、イレーヌはここで(あの頃のあのままで進んで行っていれば)生まれていたはずの赤ん坊まで登場させて(あなたの子よぉっ!)、違う人生の道へと強引に誘うのである。
キアラ・マストロヤンニはこの映画の文字通りの体当たり演技でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞したが、私はこの映画はカミーユ・コタンの怪演の功績の方が上だと思っている。クーガー/ルーザーの逆襲、しかもマリアよりも一枚も二枚も役者が上の悪魔のような誘惑者。このカミーユ・コタンという言わば「遅れてきた女優」は、30代後半でテレビ(カナル・プリュス)の2分寸劇「コナス Connasse」(どうしようもない高慢軽薄パリ娘役)で出てきた人。こんな強烈な高慢軽薄イメージのついてしまった芸人が、どう脱皮できるのかと心配だったが、え?の女優変身に成功。このブログでもひと月前に紹介したセドリック・クラピッシュの『ふたりの自分 Deux Moi』でも、主人公アナの気難しくも的を得た心理カウンセラー役で、え?の怪演。たしかな個性派女優の地位にたどり着いたコタン、祝福してやりたいです。
 さて映画は、マリアとリシャールの過去と現在が交錯して、マリアのリシャールのそれぞれの違う人生の仮説/可能性を、マリア+過去リシャール+現リシャール+過去イレーヌの4つのパーソナリティーの絡み合いで可視化していき、その他にマリアの母と祖母の亡霊まで出てきてその男グセの悪い血筋をばらしたり、賢者の化身で「意志 la volonté」と名乗るシャルル・アズナヴールの歌ばかり引用するステージ衣装男が登場したり、それに加えてマリアがハントしたあらゆる人種の十数人の若いセフレたちも212号室に押し寄せてきて...。この大混乱の上に、しんしんと雪は降ってくる。美しい。
 イレーヌは結局リシャールの心を取り戻すことができない。打ちひしがれたイレーヌにマリアはシンパシーまで感じるようになり、一緒にイレーヌが25年前にパリを捨てて隠居したピカルディー地方ソム湾の海辺の家へ行ってみると、そこには過去とすっぱり切れてサバサバと達観して生きる老女イレーヌ(演キャロル・ブーケ!)がいて、過去イレーヌ(カミーヌ・コタン)の未練をカラカラ笑うのだよ。
 こんな奇想天外だが、アラン・レネやベルトラン・ブリエといったフランス映画の先人たちがやってきたシュールでファンタジーなコメディー仕立ての映画。音楽は前述したようにシャルル・アズナヴールが多用されている。これはクリストフ・オノレのアズナヴールへのオマージュであろう。
 そして終盤の大団円と呼べるシーンは、ドランブル通り11番地のバー「ローズバッド」にかのセフレ連中を含んだ全員がそれぞれのテーブルについてドリンクを。元ピアノ教師イレーヌがバーのピアノで、ポロン、ポロンとショパンのプレリュード20番を弾き、そこから自然の流れのように(それが原曲なので当たり前か)"Spirit move me, every time I'm near you..."とイレーヌが歌い出し、バリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"になってしまう。歌詞どおり、ここがこの映画のマジックの瞬間なのだ。大混乱はこの美しいメロディーで和解と収拾に昇華していき、4人(マリア、過去リシャール、現リシャール、過去イレーヌ)がチークダンスを踊るのだよ。踊りの輪はバー全体に広がり、メロディーはバーのレコードプレイヤーに取って代られバリー・マニロウのそれがほぼフルコーラス(6分)聞かされることになるだが、なんというしあわせ。この大団円、すべて許せる。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『212号室』 予告編


(↓)『212号室』 サウンドトラックよりバリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"


2019年10月20日日曜日

浮かび上がるインク文字(あの)

Patrick Modiano "Encre Sympathique"
パトリック・モディアノ『不可視インク』

ディアノの真骨頂である「五里霧中」感に始まり、プルースト風「見出された時」で書を閉じる137ページ体験。好きな人にはたまらないでしょうね。
たった137ページで50年の時が流れます。(会ったこともない←ここがミソですが)消えたひとりの女を追う長い年月です。初ページから109ページめまでの主人公にして話者のジャンは、1960年代にパリの興信所(私立探偵事務所)に雇われていて、所長からパリ15区で失踪したノエル・ルフェーヴルという名の女性の行方の手がかりを探す任をまかされます。渡されたファイルは薄く、名前と住所とおおよその出身地(サヴォワ地方アヌシー周辺)、そして局留め郵便の代理人受け取りを許可する委任状(輪郭識別も難しい彼女の顔写真つき)。ジャンはこの委任状を持ってパリ15区コンヴァンシオン地区の郵便局へ、彼女あての局留め郵便がないかと尋ねに行きます。住所のアパルトマンのコンシエルジュに様子を尋ね、彼女の立ち寄りそうなカフェに張り込みをしたりしますが、会ったことがないのでそこに居ても見つけられないかもしれないほどの曖昧な手がかりしかありません。
 興信所はこれを早々と脈のない&うまみのない一件としてサジを投げます。ところがジャンは執拗にこだわり、興信所を辞めたあともこの未解決の事件ファイルを持ち去り、調査を続けていきます。ある種モディアノ自伝的なモチーフですが、時系列的に作家としてデビューするずっと前でありながら、ジャンはこの事件について本を書くだろうということを直感的に知っていた、というのです。つまり、これは一編の小説の誕生・制作・完成に立ち会うストーリーでもあるわけです。しかしそれが50年もの歳月を要し、ひとつひとつ手がかりを得るために途方もない時間がかかったということにも読者はつきあうことになります。
 カフェで張り込みをしていた時期に接近してきたジェラール・ムーラードという人物、「私」がノエル・ルフェーヴルを探していると聞いて訝しげな態度で理由を尋ねます。興信所の調査と言えばすべてがご破算になる気配があり、「私」はでまかせの嘘(医者の待合室で知り合い、同じアヌシー出身ということで話が合い、勤めの後にカフェで会う仲になった)を交えて、この男を安心させ、情報を引出そうとします。すると「私」の知らなかったことが芋づる式に出てきて、駆け出しの俳優であるムーラードが取り持ってノエルがロジェという男と結婚していて、二人でヴォージュラ通りのアパルトマンに住んでいたこと、ノエルのあとロジェも失踪していたこと、ノエルはオペラ座前の高級鞄店ランセルで働いていたこと、ロジェとノエルは15区グルネル河岸のダンスホール「ラ・マリーヌ」の常連だったこと... etc etc。ムーラードはロジェのアパルトマンの合鍵を持っていて、そこへ行くというので「私」もついていき、ムーラードの見ぬ隙にまんまとロジェとノエルの寝室に侵入し、本能的直感で、そのナイトテーブルの引き出しからノエルのアジェンダ帖を盗み出します。
この行為を私は夢遊病者のように現実から遊離した状態でしたのだが、それは正確で自発的なもので、あたかも私が前もってこのナイトテーブルの引き出しには二重の底がありその中に何かが隠されていたことを知っていたかのような行動だった。ユット(註:興信所のボス)はこの職業をする上で必須の資質のひとつは "l'intuition"(直感)であると私に言っていた。この夜の私の行動を理解するために、私は辞書を開いて調べてみる。"Intuition アンチュイシオン:理性のはたらきに頼らない即座の認識のあり方”
この小説は、手がかりのほとんどない状態に始まり、そのパズルのピースをひとつひとつ見つけていく過程を描くのですが、遅々として進まないその作業をある時突然スピードアップされるきっかけとなるのはこの説明のしようがない「理性のはたらきに頼らない」アンチュイシオン(直感)というものです。そして最初にこの薄い事件ファイルに「私」が運命的なものを感じ取ったのもアンチュイシオンでしょう。それは出会う前から愛してしまっている恋人のようなものとも言えますが、モディアノに限ってそんな含みはないでしょうと思っていると....。
 さて最重要の手がかりであり、多くの情報を含んでいるはずだったこのノエル・ルフェーヴルのアジェンダ帖ですが、きちんとした(「私」にも似た筆跡の)文字で書かれているものの、途切れ途切れの暗号のような名前の羅列、予定、場所、金額、電話番号、ヴェルレーヌの詩断片4行
Le ciel est, par-dessus le toit,  空は 屋根のむこうに あんなにも
Si bleu, si calme ! 青く、しずかです
Un arbre, par-dessus le toit, 一本の木が 屋根のむこうに てのひらを
Berce sa palme ゆすっています (訳:橋本一明)
といったものだけで、大部分のページは何も書かれていないのでした。この極端に限定的な、ほぼ絶望的にわけのわからない情報から、「私」は長い時間をかけて、執拗な推理を進めていくのです。そしてウソから出たまことのように、ノエルと「私」の同じ出身地と言っていたアヌシー(実際は「私」は少年期数年間をかの地の全寮制寄宿学校で過ごしていた)の記憶も重要な断片として蘇ってきます。
 ”警察”と聞くと本能的に警戒してしまう不透明な人々、映画の端役や日雇い運送業といった職業的に不安定な人々、住所や"名前"を二つも三つも持つ人々、そういった人々を通して得られた情報は確かなものなのか、といったすべてが曖昧なモディアノの小説宇宙。時は経ち、建物も街並みも住んでいた人々も変わって、鍵を握っていると思われた人物たちもこの世にいなかったりします。五里霧中は果てしなく続きます。
 小説のおよそ3分の2地点にあたる91ページめに至って、「私=ジャン」は奇妙な印象に襲われる。それはすべては前もって"encre sympathique(アンクル・サンパティック)"によって書かれていたように「私」には思われたというのです。ここで話者はまた辞書を援用して "encre sympathique"を説明します。
「使用する時は無色だが、ある特定の物質の作用によって黒く変化するインク」 
”サンパティック(感じのよい、好意的な)なインク”と綴って、暗号文に用いられる不可視インク(わがスタンダード仏和辞典では "あぶり出しインク"と訳語)を意味します。なぜこの印象に至ったかというと、何度も何度も読み返したはずのかのノエル・ルフェーヴルのアジェンダ帖に、今まで一度も見たことがなかった記載が忽然と青いインク文字で現れたからなのです。一体どういう触媒によってこの文字は現れるのか、それとも長い年月が経てば現れるようになっているのか。もしも後者ならば、待っていれば多くの白紙ページに文字が浮かび上がり、重要な手がかり/情報が次々に明らかになっていくのではないか。
 お立ち会い、ここがモディアノ文学のマジックなのですよ。
 ノエルと名乗る女性の記録/記憶の遺物であったこの白紙だらけのアジェンダ帖、それに書かれた文字は「私」の筆跡に似ている、その白紙部分が少しずつ記録/記憶として蘇ってくるということは、実は「私」の記録/記憶と重なってきてだんだんかたちになってきたということのメタファーなんです。一度も会ったことがなかったと思われていたこの女性(実はノエルという名前ではない。この小説は重要な人物たちがどんどん名前を変えていく、という複雑さ!)は、遠い遠い過去に出会っている(そのことをまだこの91ページ段階の「私」は知らない。 読者だけが知っているという構図)、だから「私」の記録/記録を掘り下げていけば彼女のそれと合わさるはずなのです。
 パリ、アヌシー、何人もの証言(正確・不正確あり、虚偽もあり)で続いてきたジャンの調査は30年過ぎ(100ページ時点)、そして50年を過ぎた頃、110ページめから、話者は「私」ではなくなります。小説最終部に登場する男はたぶんジャンであろうし、女はたぶんノエルと呼ばれていた女でありましょうが、二人とも「三人称体」で客観的に記述されています。現象としては神の手を持ったような作家が書いているような印象です。場所はローマ。ナヴォナ広場に近いアーケード街スクローファ通りにある写真ギャラリー、店名はフランス語で「Gaspard de la nuit (夜のガスパール)」 、フランスからやってきたその男は最初ためらい、ついで「水に飛び込むような決意」で店内に入っていきます。ギャラリーの店番の女性に
「あなたはフランス人ですか?」
ー ええそうです。
ー ローマにはずっと前から住んでいますか?
ー ずっと住んでいますよ」
これが二人の最初の会話です。歳も似通った老人二人。モディアノはここで「ローマは過去を捨てる町である」と詩的なことを書きます。過去のことなどすべて捨て去ってフランス語も時々発語するのが難しくなっている女性。かつての興信所探偵だった男かもしれないこの男は柔らかく女性に近づいていき、このギャラリー主である写真家の展示作品(20世紀のローマの写真)にとても興味がある、と。その中の一枚に60年代のローマの街と3人の男が写っているものがあり、キャプションに真ん中の男の名前が「サンショ・ルフェーヴル(Sancho Lefevbre)」となっているが、彼はフランス人ですか? 彼のことをご存知ですか?、と。 ---- ここで詳しくは述べませんが、サンショ(=これも偽名)はノエルと呼ばれた女をアヌシーからパリに連れ出し、さらにローマに至らせた人物と目され、ノエルを妻として従えていた、と「私」の調査でわかってきた...  ----
ほとんどのことを忘却のかなたへ押しやっていたこの女に、フランスからやってきたひとりの男は少しずつ記憶の蘇りを誘発させます。家出をし、名前を変え、パリで素性のはっきりしない男たちと行動を共にしていたことなど。そして彼女の記憶は(かの「私=ジャン」の記憶を超越して)このフランスからやってきた男の横顔に激しく反応するのです。この横顔が喚起したもの、それはアヌシーの少女時代。いつも満員の路線バスで、寄宿学校前の停留所から乗り降りしていた少年、決まってバスの最後列の座席に二人で隣り合わせて座っていた。ローマの老女はその少年の横顔を記憶していたのです!
 小説最終の137ページめ、翌日に再会することを約束した男と女、最後の2行はこう締めるのです。
明日、最初に口を開くのは彼女だろう。彼女は彼にすべてを説明するだろう。
わおっ! モディアノでこんなエモーショナルな終わり方ありますかいな!
モヤモヤだらけで、モヤモヤが残るのがモディアノ・タッチでしたでしょうに。こんな明日は快晴、のエンディング、どうしたらいんでしょうか。

カストール爺の採点:★★★★★

Patrick Modiano "Encre Sympathique"
Gallimard刊 2019年10月 140ページ 16ユーロ
(↓)民放ラジオRTL 2019年10月、新作『不可視インク(Encre Sympathique)』について自宅インタヴューに答えるパトリック・モディアノ