2020年6月30日火曜日

彼のカーレーサー


バンジャマン・ビオレー『グランプリ』
Benjamin Biolay "Grand Prix"


後の火ダルマの男で、やはり1975年ピンク・フロイド『ウィッシュ・ユー・ワー・ヒア』のジャケ(ヒプノシス)を想う人多いでしょうね。置いてあるフォーミュラ・カーの形も60/70年代風ですし。パイロットのガールフレンド風な女性が左にいますね。1966年ジョン・フランケンハイマー監督映画『グランプリ』(主演ジェームズ・ガーナー、イヴ・モンタン)ではそんなガールフレンド役でフランソワーズ・アルディが出演していた。その映画と無関係であるわけがないバンジャマン・ビオレーの10枚目のアルバム『グランプリ』は、メカニックで命知らずでメランコリックで疾走するのに疲れた男の"情”を描くコンセプトアルバムのように聞くことができる。非常にポップに装われた曲がほとんどで、9曲めのインストルメンタルナンバー「バーチャル・セーフティー・カー」を除けば、全曲シングルで切れるのではないだろうか。もっともこの「シングルを切る」というのはもはや前時代の習慣でしょうけど、時間かければラジオのプレイリストには全曲載せられるはず。だいたいが快感ビート、疾走型、アタックの効いたジャコネリのギター(みんないい音)、後半盛り上がり展開、ピコピコ打ち込みシンセの雨あられ、そしてビオレーがロックスターの貫禄で歌い込んでる。こんなビオレー聞いたことない、という必殺技の数々。
 リリース前からテレラマ(表紙)、レ・ザンロキュプティーブル(表紙+編集長)だけでなく、日刊経済紙レ・ゼコー、保守系日刊紙ル・フィガロにまで高く評価され、満場一致の絶賛の中発表されたバンジャマン・ビオレー(現在47歳)のアルバム『グランプリ』には、私も褒め言葉しかない。この人は”映画俳優”としては今ひとつ説得力に欠けるものがあると思うが、音楽家としては文句のつけようがない。音楽に関して、この男は何でもひとりでできる。強力な協力者を必要としない。その世界はほとんど彼ひとりで構築できる。プリンスに近いタイプ。だから新アルバム毎に"変わる”のが大変なのだ。
 ゴシップねたには興味がないが、ビオレーの歌はかなり正直にその恋多き男に"寄り添って”くれた女性たちへの想いが投影されている。そう、このアルバムは正直だ。難しいところがない。若い頃にやってみたかったこと(例えば、F1レーサーになること、スターロックバンドのヴォーカリストとして歌うこと)を臆面もなく、ミドル(47歳)になってやってみているのだ。”カッコよさ”の追求。もちろん照れ笑いつき。
 このアルバムは(サウンドそのものは全く違うものの)ダフト・パンク『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)に"文法上”とても似ているものがあると思った。ポップロックの修辞法ではこのベース(土台)にあれとこれとそれを積みあげたら、周りにあの音、次にこの音があれば快感がやってくる、というお決まりに、一味も二味も足したり引いたりで4分間の楽曲が構成される。電気の武者ダフト・パンクは驚異的に正しい修辞法の集積として隙間ない音楽快感空間を作り上げる。人間じゃねえっ!と言いたくなるような。ビオレーはそういう音楽に近い快感空間を構成しながら、その声と詞で、快感に「メランコリー」「アンニュイ」を加えられるのだよ。デビュー当時、その声質とボソボソの歌唱で、ヴォーカリストとしてはどんなもんだろうか、と思われていたビオレーは、その黒々とした表現力を琢磨し、ビオレーにしかできない”太い抑揚の”メランコリー歌唱をものにした。古い日本の芸能用語では「マダム・キラー」な憂愁さ。
 アルバムの先行のシングルとして発表された1曲め"Comment est ta peine ?(きみの苦しみはどんな感じかい?)は、別れた男女のその後の悲しみ/苦しみくらべみたいな、どっちかというと「男の勝手なリクツ」系の哀愁ソング。俺はこんなふうに苦しんでいるけれど、きみは今どんな感じで苦しんでいるの?俺の苦しみは現れたり消えたり、でもこの苦しみと共に生きなければならない、みたいな展開。同じほどに苦しんでほしいという身勝手さが見える。「二人の共通の友だちだった人たちのうち、何人をきみの友だちとして残したかい?」なんて"あるある"のすごい歌詞が出てくる。
 2つめの先行シングルは、アントニオーニ映画の常連女優モニカ・ヴィッティの2篇の映画の断片をモンタージュしたアンニュイあふれる美しいヴィデオ・クリップで飾られた曲"Vendredi 12(12日の金曜日)"。これは理由もわからず捨てられた男の嘆き節。13日の金曜日という不吉な日でもない、12日の金曜日に女に捨てられた男。
ただの12日の金曜日なのに
おまえは静かに逃げていった
バミューダ・トライアングルの彼方へ
南半球のどこかへ
ただの12日の金曜日なのに
俺は黒海で溺れ死にそうになった
おまえはこの金曜日の夜
どこに行ったのか
 そして作者が予期もしなかったこのコロナウイルス時代の到来、もうそれ以前の世界へは戻れないけれども世界(この場合"車輪”)は回り続けるという、すぐれて状況的な歌が11曲目"La roue tourne (車輪は回る)"である。このコロナ時代的"諸行無常"感はただものではない。
私はますます考えるということをしなくなっている
私はもう何もわからなくなっている
年月が経つにつれて
真実はどんどん少なくなっていく
私は叫ぶことがほとんどなくなった
それは何の役にも立たないから
私はお祈りをする回数が増えている
隠れてひとりで祈っている

価値のない者であることを自覚しよう
ほとんど何の役にも立たないということを
運河の上の三つの綿ごみ、
敷石の上の雪
コード番号を知らなければ
最初から負け
それに過度に従えば
チャンスなどひとつもない
そう、おまえはよく知っているはず

車輪はまわる、車輪はまわる
車輪はちゃんとまわっているし
車輪は止まることなくまわっている
どんな道の上でも、どんな車両でも
車輪はまわり、私たちの向きを変えさせる
往々にして私たちを良い方向に向かわせる
車輪はまわり、年齢は増していく
それに従って私たちは知っていく、何も知らないということを知っていく
ほとんど何も知らないことを
車輪は早すぎる速度で回るが、ちゃんと回っている
絵で説明する必要なないよね

他人たちは多くなればなるほど
稀で誠実な人たちは少なくなる
犬をなでるきみの両手のように
きみはどんどん小さくなる
きみにとって都合がいいかもしれない
たくさんの人工衛星に気をつけろ
それらはまわり、まわり、虚しくまわる

私がどんどんものわかりが悪くなっていることを自覚しよう
きのうの夜よりもものを知らなくなっていることを
腰の運動を3回したら
もうダンシングピストには誰もいなくなり真っ暗だ
きまりごとに従わなければ
最初から負け
だがそれに全部従っても
チャンスはひとつもない

車輪はまわる、車輪はまわる
車輪はちゃんとまわっているし
車輪は止まることなくまわっている
どんな道の上でも、どんな車両でも
車輪はまわり、私たちの向きを変えさせる
往々にして私たちを良い方向に向かわせる
車輪はまわり、年齢は増していく
それに従って私たちは知っていく、何も知らないということを知っていく
ほとんど何も知らないことを
車輪は早すぎる速度で回るが、ちゃんと回っている
絵で説明する必要なないよね
でも歌だったらいいじゃないか、おお おお おお おお おお

車輪はまわる、車輪はまわる
車輪はちゃんとまわっているし
車輪はまわり、私たちの向きを変えさせる
往々にして私たちを良い方向に向かわせる

ナ ナ ナ ...   (キアラ・マストロヤンニのヴォカリーズ)
ナ ナ ナ ...
ナ ナ ナ ...
ナ ナ ナ ...


 まさに正直にビオレーの" 心根”を吐露して "うぉ うぉ うぉ うぉ”とヴォカリーズしてしまったこのアルバムの白眉の一曲だろう。ここで寄り添ってしまうキアラ・マストロヤンニ(2曲めとこの曲)のエモーショナルな声の他に、このアルバムではケレン・アン・ゼイデル(12曲め)、アナイス・ドムースティエ(1曲めと7曲め)というビオレーの過去の女性たちがヴォーカルで(本当にいい感じで)支えている。こいつ、本当にいい奴なんじゃないかな、と思わせるものがある。

<<< トラックリスト >>>
1. Comment est ta peine ?
2. Visage pâle
3. Idéogrammes
4. Comme une voiture volée
5. Vendredi 12
6. Grand Prix
7. Papillon Noir
8. Ma route
9. Virtual Safety Car (instrumental)
10. Où est passée la tendresse ?
11. La roue tourne
12. Souviens-toi l'été dernier
13. Interlagos (Saudade)

Benjamin Biolay "Grand Prix"
Polydor/Universal CD/LP/Digital
フランスでのリリース:2020年6月26日

カストール爺の採点:★★★★★ 2020年のアルバム

(↓)国営テレビFrance 2の音楽短信番組Basique でのアルバム『グランプリ』紹介


2020年6月28日日曜日

珊瑚で切った足の傷



Elisabeth Anaïs "Une écorchure, une entaille"
エリザベート・アナイス
『すり傷、切り傷』




詞:エリザベート・アナイス 曲:ミッシェル・アンセレム (2004年アルバム "Les Heures Claires"より)

日前、パン切り包丁で左手人差し指の先端を5ミリほどの長さで深く切った。指の付け根をゴムで巻いて止血したが、なかなか止まらず、しかもズキズキした痛みは数時間続いた。指先であってもこの状態では左手全体が使えず、コ禍対策のアルコール消毒や手洗いが難しいのはもちろん、洗顔・髭剃り、スマホ操作、キーボード打ちにも難儀している。長く続く痛み。今も痛い。そういう傷の痛さを歌った歌です。

 エリザベート・アナイスは1959年カンヌ生まれ。歌手、女優の肩書きもあるが、作詞家が一番知名度が高いと思う。歌手としては1983年に初シングルを出していて、アルバムは2枚(1991年 "LES FILLES COMPLIQUEES" 、2004年 "LES HEURES CLAIRES")出ているが、大きな話題になったことはない。80年代に私がアゲソー通りのアパルトマンから密かに発信していたカセット・マガジン BTHで、そのセカンドシングル "Intimidité(アンティミディテ、 "intimidé = おどおどした" + "intimité = 内密" +  "timidité = 臆病”からなるアナイス自身の造語)(1984年)はすごく高く評価していたし、日本のごく一部では記憶に残っているかもしれない。作曲者がマグマの初代(1969 - 1971)ギタリストのクロード・アンジェルだった。クロードは弟のセルマール・アンジェル(スタジオの魔術師)と二人(兄弟なので、当時私は"マルクス兄弟”をもじって "エンゲル(ス)兄弟”と呼んだんだが、いまひとつ諧謔が通じなかったみたい)で、80年代CM音楽の鬼才リシャール・ゴテネールのサウンド(すべて珠玉のシンセポップ)を作っていた。この"Intimidité"もエリザベート・アナイスの弱々しいヴォーカルを支えて余りある極上の編曲でエレポップ・バラードに仕上げていたのだが、まあ、知る人は知っていたのではないだろうか。それはそれ。
 2004年のセカンドアルバムであるが、その前にエリザベート・アナイスは民放M6の新人歌手発掘番組「ポップスター」第2期(2002年)の4人の審査員のひとりになっていて、高視聴率の時もあった(最高で22%)この番組のおかげである程度知名度は上がるのだった。作詞家としてヒット曲もあり、連れ合いがマニュ・ギオ(Manu Guiot)という世界的に名の通った録音エンジニア(ユーリズミックス、ミック・ジャガー、シャルル・トレネ...)ということもあり、長い間音楽界内部にいる"姐御”(当時40代)と思われたのだろうね。審査員として口うるさいこともかなり言ってたし。で、その「ポップスター2期」の優勝バンドWhatForが、テレビ局とレコード会社(AZ、ユニバーサル系)の大予算キャンペーンにも関わらず、シングルもアルバムも全く売れず、一度もコンサートを開けずにポシャってしまう。そうなると、この審査員の面目もまるつぶれではないか。だから、このアルバムもお店で「面出し」してもらっても、「ああ、あのおばさんかぁ」反応だったのではないかな。アルバムの作曲家陣に前述のクロード・アンジェル、既に映画音楽の巨匠ガブリエル・ヤレド、そしてフランスよりも日本で人気の高いジャズ・ピアニストのドミニク・フィヨン(現在汚職裁判進行中の元首相フランソワ・フィヨンの弟)が4曲提供している。また共作詞家としてダヴィッド・マクニールの名も。50人の管弦楽団 Les Archets de Paris も録音に参加している。結構予算が張ったアルバムのはず。こうやって豪華に作られたから、クオリティーが高い、ってもんじゃないのでして。
 さてアルバムで最も美しい歌 "Une écorchure, une entaille"は、蒸発、不在、消えてほしい痛みが消えない、そんなメランコリー。うまい。

彼女はいつも言っていた「彼は旅に出ているの」
たくさんの景色の中のひとつの影みたいなもの
スンダ列島の沖合のきれいな海水に消えていく舟...
私は暗闇の中で
金塊探しやダイヤモンド商人を想像していた
でもその二人のストーリーで私が知っているのは
二人にはたくさんの子供はできなかったということ

それはすり傷、切り傷
長びく痛み
すり傷、切り傷
珊瑚で切った足の傷
ただのすり傷、切り傷だけど
長引く痛み
すり傷、切り傷

私はよく海岸線に沿って歩いた
カモメ、帆のついた舟
海の上を行く飛行機

でも水平線には父親らしい影はひとつもなかった
私には不要なものがなかったのよ
子供時代を形成するあのどうでもいいものが
幾千もの時差があって
私はもうその歳さえもわからなくなっている 

それはすり傷、切り傷
長びく痛み
すり傷、切り傷
珊瑚で切った足の傷
ただのすり傷、切り傷だけど
長引く痛み
すり傷、切り傷

私に呑気なところが全然ないのは
私が好きな男たちをあまり信用しなくなったのは
それはまさに不在のせいなのよ
それはすり傷、切り傷
長びく痛み
すり傷、切り傷
珊瑚で切った足の傷
ただのすり傷、切り傷だけど
長引く痛み
すり傷、切り傷

(↓)"Une écorchure, une entaille" アルバムヴァージョン(オーディオ)


(↓)"Une écorchure, une entaille" Radio Mix (オーディオ)

2020年6月24日水曜日

ヴェルノン・シュビュテックス III



この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2017年7月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ヴェルノン・シュビュテックス三部作完結
ドラッグ不要の音楽による救済と共同体の夢の果て

(in ラティーナ誌2017年7月号)


Virginie Despentes "Vernon Subutex III"
ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス  III』
(Grasset刊 I 2017年5月)



2015
10月号の本連載で紹介したヴィルジニー・デパントの大長編小説『ヴェルノン・シュビュテックス』(以下"VS”と略)の第3巻が2017年5月24日に刊行され、同小説は完結した。各巻400ページ、総計1200ページ。読み終わりのため息の大きさはただものではない。ふあァァァ....

 第1巻の発売日が20151月7日。歴史的な偶然で、かのシャルリー・エブド襲撃テロ事件が起こった日であり、またその同じ日にミッシェル・ウーエルベックの問題作『服従』も刊行され、近未来のフランスにイスラム政権誕生を予言する内容に関する当地の大論争は日本でも大きく紹介された。同年の書店ベストセラー1位になったウーエルベック『服従』に劣らぬ話題の書となったデパント『VS』は、同年7月に第2巻『VSII』の登場を見、さらに翌年(2016年)5月に完結編の第3巻を予告して、熱狂的読者たちをおおいに期待させた。

 しかし『VSIII』は予告を裏切った。デパントは大幅な書き直しの必要性を切に感じたのだ。週刊文化誌レ・ザンロキュプティーブル2017524日号(写真)のインタヴューでデパントは、この第3巻執筆に直面した難しさについて、『VSI』刊行から2年の間に激変してしまったフランスの状況に打ちのめされ、特に『VSII』発表後に起こった20151113日のバタクラン乱射テロ事件は、彼女を長い期間一行も書けない状態に陥らせたと語っている。 「終焉しかけていたと思われていたテロリズムが誰も予想できなかった凶暴さで一挙に噴き出し」、「地中海で夥しい死者数を出しながら押し寄せてくる難民に人々は"慣れてしまい、その難民たちをトルコに送り返すという信じがたい過ちを犯し」、「(マリーヌ・ル・ペンに票を投じるという)国民がその自らの国を崩壊させるための投票をする」のを見たのだから。
 『VS』は絶望の小説ではない。ウーエルベックのようなシニリズムやペシミズムがものを言う作品でもない。むしろ21世紀的に分断化されたさまざまな個人が、イデオロギーや宗教や貧富やジェンダーの違いの確執を乗り越えて、危うく儚い夢の共同体を築いていく、不可能に近い希望のストーリーである。執筆中に起こってしまった現実世界の事件の数々は、不可避的に作者の筆を止めてしまい、このストーリーの不可能性を倍加させたが、作者はそれらの事件を作中に流し込み、作中人物たちを対峙させて答えを引き出そうとしている。この点において『VSIII』の力強さは前2巻を上回っていると言える。
 前2巻までの展開をざっと振り返ると、パリ11区レピュブリック広場の近くにあったレコードショップが、21世紀初頭のインターネット音楽配信の隆盛に勝てずに倒産し、店主の五十男ヴェルノンはホームレスに転落し、かつての店の常連客などのつてを頼りに転々と場所を変え生き延びてきた。ヴェルノンの生活費を援助していたマブだちにして弟分の(スーパースター)ロックアーチスト、アレックス・ブリーチが謎の死を遂げ、死の直前に自撮りインタヴューした動画データがヴェルノンに残される。私立探偵やジャーナリストなど複数の人間たちがそのヴィデオデータを入手すべくヴェルノンを追跡する。その中にはアレックスの未発表作品、さまざまな証言(芸能界大物プロデューサーによるアレックスの元恋人の殺人事件の真相など)が含まれているらしい。ヴェルノンはその大遁走劇の途中で、年齢も階層も性的傾向も異なるさまざまな男女と出会うのだが、なぜというはっきりとした理由もなく彼らはヴェルノンに惹かれていく。生死の境まで追い詰められて、虫の息でたどり着いたビュット・ショーモン公園(パリ19区)の林の奥で、ヴェルノンは仙人化する。 
 公園の丘の上のカフェ「ローザ・ボヌール」はいつしかヴェルノンをグールー(教祖)とする人々の集会場と化し、ヴェルノンはスマホを使って音楽をミックスし、それをカフェのオーディオ装置に接続して流す。説教など垂れない。この聖者は既存の音楽をある波長に乗せて流すだけで人々を魅了し、陶酔させ、踊らせてトランス状態に至らしめるのだ。人々はこの体験の幸福を忘れられず、ヴェルノンの極上快楽のミックスの噂はじわじわと拡がっていく。
 『VSII』では死んだアレックス・ブリーチの自撮り動画データで証言されていたブリーチの元恋人(ポルノ女優)の死をめぐって、その真犯人と名指されていた芸能プロデューサーでその世界の大物であるローラン・ドバレが、イスラム教条を厳格に尊守する女優の娘と、彼女と意気投合したタトゥー(刺青)アーチストの少女の二人によって、残忍なまでの復讐(背中全体に一生消えない"強姦魔の文字を刺青される)を受けるというエピソードがある。ドバレは恥辱のどん底に叩き落とされながらも、憤怒の激情をたぎらせ必ずやこの二人の少女に報復するという執念をいよいよ燃え上がらせていく。かたや少女二人はヴェルノンの仲間たちの手引きで別々にヨーロッパの安全な場所に隠れて生きている。
 この大長編小説は大きな二つの軸があり、ひとつはヴェルノンとその自然発生的な共同体の成り立ちと浮き沈みの記録であり、もうひとつはドバレに代表される現代ネオ・リベラル経済社会の勝ち組システムとの容赦のない闘いのストーリーである。
 『VSIII』は前2巻よりも年月が経過した設定で、ヴェルノンと仲間たちの集会は公には秘密が原則で、地名も明らかにされない野営地で開かれるようになっている。権力は往々にしてこのような集団を弾圧したがるものであるが、それを前もって防ぐために参加資格は招待者のみ、タブレットやスマホなどの持ち込みとインターネット接続の禁止、公営交通で某地点まで集合させ、そこから先はオーガナイザーの用意した数台の自家用車でピストン移送して会場まで。だからオーガナイザーを除いて誰も現在位置がわからない。1990年代レイヴパーティーのようでもあるが、 規模は数十人程度にとどまりキャンプで数夜を共にする。この集会を彼らは"コンヴェルジャンス(convergeance、集中、結束)"と呼んだ。
 そこでアルコールとドラッグの使用は禁止されていない。しかしそれまで麻薬や化学ドラッグなしには到底トランス状態に到達できないと思われていたその種のパーティーとは全く異なり、ヴェルノンが流す音楽はドラッグ効果を必要とせずに聴いた者の精神と身体を解放し、一晩中朝までの集団トランスダンスを実現してしまうのだ。ドラッグの最悪なことは効果の切れる時にやってくるあの不快極まりない転落感であり、人工楽園から墜ちる苦しみである。ところがヴェルノンのパーティーには(ドラッグが不要だから)その悲劇的な落下がない。夢の一夜の後の目覚めは爽快なのである。コンヴェルジャンスはその幸福を共有する限られた人々の隠れた共同体だったが、集会の度に少しずつ参加者は増えていった。
 コンヴェルジャンスにはあまり参加していなかったが、ヴェルノンの一団の長老格で、ヴェルノンがビュット・ショーモンに乞食同然でたどり着いた時、ホームレスとして生き抜く方法などを伝授した恩人だったシャルルが死んだ。生前シャルルは同棲相手のヴェロにも秘密にしていたことで、ロトくじで当てた2百万ユーロの隠し財産があった。ほとんど手つかずのこの大金をシャルルは遺言書でヴェロに半分、そして残り半分はヴェルノンの仲間たちへ、と。兄のように慕っていた亡きシャルルの遺志をヴェルノンはグループの中枢メンバーたちに伝えるのだが...
 小説の主人公であり、中心人物であることには変わりないのだが、この長い物語中一貫してヴェルノンはリーダーシップを取らない。彼は意見を言わないし、決定もしない。彼は至福の音楽を鳴らすDJとして人々に敬われて教祖のような座にいるだけだ。世間でよくある話のように、大金が絡むやいなや共同体は亀裂が生じ、その使い道に仲間たちは大論争となり、ヴェルノンはそれを統率する気などない。かくして夢の共同体はもろくも空中分解し、カリスマ性を失ったヴェルノンはしがない流しのDJとなって野に落ち、ヨーロッパを放浪する。
 その間に屈辱の大物プロデューサー、ローラン・ドバレはヴェルノン一派の事情をほぼ全面的に把握している元アレックス・ブリーチのマネージャーだったマックスと手を組み、あの憎き二人の少女のひとりセレストの居場所(バルセロナ)を嗅ぎつけ、報復戦に打って出る。罠にはまって囚われ、酷い大暴行を受けながらも存命しているセレストのために、ヴェルノンの仲間たちは結集して救出作戦を敢行する。この部分の数々のヴァイオレンスの描写はかなりゴア。
 かつての結束を取り戻した共同体メンバーはセレスト奪還に成功し、ヴェルノンは放浪をやめ、再び仲間たちとコンヴェルジャンスを開催しようとするのだが...
 結末は強烈すぎるので、ここで詳しく書くことは控えるが、少しだけ。再開第1回のコンヴェルジャンスの会場として借りた田舎家の大納屋で、ヴェルノンと仲間たちは何者かによって手榴弾とカラシニコフ銃乱射でひとり残らず殺害される。ひとり残らず、と新聞メディアでは報道されたが、実は誰にも見つかることなくひとり助かっている...
  当初は反社会的な秘密セクトの事件のようにメディアは報道したが、後日かの大プロデューサーのドバレは(自分が当事者として入手している)詳細きわまりない資料をもとにしてヴェルノンとその一団の最初から最後までの歴史をフィクション(テレビ連続ドラマ)化して、世界的に大ヒットさせるのである。あたかも最後に笑うのはネオリベラル資本主義システムである、と証明するかのように。ところがヴェルノン信仰はそれをはるかに超えていくのである...

 ヴィルジニー・デパントは『VSIII』の400ページの中に、バタクラン劇場乱射テロ、レミー・キルミスター(モーターヘッド)とデヴィッド・ボウイの死、ノートルダム・デ・ランド空港建設反対運動、フロリダ州オーランドのゲイナイトクラブ乱射事件、パリ・レピュブリック広場占拠ニュイ・ドブー運動(20166月号の本連載で紹介)など多くのリアル世界での事件を挿入していて、このリアルな状況の中でのわれわれ、という現実的緊張感を伴うジェネレーション文学に仕上げている。あの時読者がどこかでヴェルノンと仲間たちとすれ違っていたような感覚。リーダーのいないさまざまな市民運動の結束(コンヴェルジャンス)として広場を占拠したニュイ・ドブー運動の混沌とした自由は、カリスマ性はあってもリーダーではなかったヴェルノンの仲間たちと似ているものだ。
 仙人然としていても寡黙で教条も解決策も持ち合わせていないグールー、ヴェルノンはただの元レコード屋のオヤジであり、音楽クリエーターですらない単なる選曲ミックスDJである。この状況でこの繋がりのこの音楽が鳴れば甚大な効果ありということを熟知した職人耳を持った男にすぎない。デパントはここに音楽(特にロック・ミュージック)の持つミスティック(神秘的、秘儀的)なパワーの可能性を文章化しようとするのだ。ヴェルノンが伝授された秘儀というのは、アレックス・ブリーチの遺言自撮り動画データに遺されていたブリーチ未発表曲の音の中にあり、ヴェルノンのミックスに込められたその周波数が聴く者に天上的な陶酔をもたらす。ここに新約聖書的な、バプテスマのヨハネ=アレックス・ブリーチ"イエス・キリスト=ヴェルノン・シュビュテックスという関係も寓意されている。そして小説の大部分が"聖者ヴェルノン"の描写よりもその使徒たちの行状の記録となっているのも聖書的だ。裏切りもヴァイオレンスもおおいに含みながら。

 音楽とダンスによって人類は救済されるか。われわれが失って久しい共同体の夢はいつか蘇るのか。このヴィルジニー・デパントの壮大な小説のテーマの数々は、そのかすかな可能性に加担するように、と読者を誘っている。コンサート会場の熱狂には、サッカー試合のスタジアムに時折現れてしまう怒りや憎しみがない、とデパントは言う。可能性はスポーツではない、音楽なのである。

                  (2017年6月 向風三郎)

(↓)2017年5月、国営テレビFrance 5の図書番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ヴェルノン・シュブテックス・3』 について語るヴィルジニー・デパント


『ヴェルノン・シュビュテックス I & II』紹介記事リンク

元レコードショップ店主のホームレス男ヴェルノンが人類を救済するまで(in ラティーナ誌2015年10月号) 
 

2020年6月22日月曜日

ヴェルノン・シュビュテックス I & II



この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2015年10月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

元レコードショップ店主のホームレス男ヴェルノンが人類を救済するまで
(in ラティーナ誌2015年10月号)


Virginie Despentes "Vernon Subutex I & II"
ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス I & II』
(Grasset刊 I 2015年1月、II 同年7月)




2015年1月7日、パリで風刺週刊誌シャルリー・エブドの編集部がイスラム過激派に襲撃され12人が惨殺された日、二篇の小説がフランスで刊行された。ひとつはミッシェル・ウーエルベック服従』(2022年のフランスにイスラム政権が誕生するという近未来フィクション。日本語訳本は2015年9月17日発売)と、ヴィルジニー・デパントの『ヴェルノン・シュビュテックス・I』である。前者はその衝撃的な予言性とテロ事件とのタイミングの一致によって、メディアでの轟々の騒がれ方を受けて即座にメガベストセラーとなったが、後者はその影にありながらも書店ベストセラーの2位を長く保ち、アナイス・ニン賞ほか3つの大きな文学賞を獲得して、確かな評価をものにしていった。

  インターネット時代の到来によって倒産したパリのレコードショップのオヤジ(50歳)が、手元に取っておいたわずかなコレクター盤を小出しにネットオークションに出して生活の糧を得ていたが、その蓄えもなくなり、家賃も払えなくなりホームレスに転落する。小説の始まりはこんな感じ。破産レコード屋のおやじ、これがこの小説のヒーローである。『ヴェルノン・シュビュテックス・I』と題しているように、これには第2部が続き、第3部で完結する予定の大長編小説(総ページ数1200)である。最初に紹介したように第1部は1月に、そして第2部はこの7月に発売され、完結編第3部は来春刊行の予定で現在執筆されているという。私事であるが、私は7月に腹腔内出血で緊急入院/手術という突発時があり、7月後半から8月前半まで静養を余儀なくされたので、その間に第1部と第2部の計800ページをじっくりと読み通すことができた。安易な感情移入と言われるかもしれないが、私はこの小説の時代と業種の環境の当事者のひとりであり、ヴェルノンのようにレコードショップを持っていたわけではないが、同じ業界の物流・卸の会社をやっていて、インターネット配信時代の到来で大打撃を受け、このヒーローのように倒産→失業→ホームレスの道を辿っても何の不思議もない場所にいた。幸にして私は家族に救済されてまだ首をつないでいるが、この業界は21世紀に入ってから多くのわが同業の仲間たちを葬り去った。われわれはこの世界のルーザーである。

 ヴェルノンはパリ11区レピュブリック広場の近くに「リヴォルヴァー」という名のレコード店を持っていた。80年代から90年代、パンク、オルタナティヴ、ヒップホップ、エレクトロ.... レコード屋は音楽を求める若者たちのアリババ巣窟であり、店主のアニキはその良きガイドであった。「それを聞いて気に入ったのなら、次はこれだな」という盤をすっと差し出し聞かせてくれる。批評する、討論する、笑い合う、黙って聞く、レコード屋に通い詰めるようになる。金に頓着しないコレクター、買う金がなくてもレコードを聞きに来る耳肥えのリスナー、万引きするとわかっているのに店主が大目に見てしまう常連、ミュージシャン、DJ、ライター、ジャンキー....。ヴェルノンの店は解放区だった。レコードがCDに代わろうが、大型店(Fnac、ヴァージンメガ)が進出してこようが、ヴェルノンの店は平気だったのだが、インターネットには勝てなかった。秘蔵ストックのコレクター盤をネットオークションで売って生き延びてきたが、遂にそれも尽き、自宅家賃が払えないところまで困窮していく。
 フランスで人気の頂点にあった美しい黒人のポップロックアーチスト、アレックス・ブリーチは、売れる前から「リヴォルヴァー」の常連で、ヴェルノンを兄のように慕い、店が潰れて家賃も払えなくなったヴェルノンにその家賃2年分に相当する金額を援助していた。しかしこの麻薬ジャンキーのポップスターは、その絶頂時に死体で発見され、死因はオーヴァードーズと判定された(他殺説もあり)。アレックスの死によって家賃援助の源を絶たれたヴェルノンは、強制的にアパルトマンを追われ、路上の人となる。
 この窮状を人にさとられることなく人の家に転々と居候できるように、ヴェルノンは自分のフェイスブックページに「カナダから一時帰国中、一時宿泊先を求む」と告知を出す。すると男女問わず「リヴォルヴァー」の元常連客たちが次々と名乗りを上げてくる。伝説のレコード屋オヤジは(かつて濃厚な関係にあった女たちを含めた)旧友たちの住処に身を寄せて、そのおのおのの個人たちがかつてユートピアのようなレコードショップに集っていた時代から現在に至るまでどのような変遷をとげたかを目の当たりにするのである。元ロックバンドの女ベーシスト、夫と子供を捨てて自由になった中産家庭ジャンキー女、将来を嘱望された新鋭映画監督から売れないシナリオライターに転落した男、根っこのところでは気は優しいのに激昂しやすく暴力を自制できずDVで家庭を崩壊させた男、行動的左翼から行動的極右に転じた男、亡き母への反抗からイスラム過激派に接近した少女、ヘテロからレズに転じた女、レズからトランス(男)に転じた女....。この小説は、2015年的現代のパリに生きる多種多彩な傾向の個人群像が網羅的に描写されていて、このことを大手日刊新聞パリジアン紙は19世紀の大文豪オノレ・ド・バルザックの全作品の総称として名付けられた「人間喜劇」を引き合いに出して、「生きていたらバルザックがおおいに楽しむに違いない現代版人間喜劇」と称賛した。

 事件はスーパーポップスター、アレックス・ブリーチが死の直前に、極度の酩酊状態で自撮りのオートインタヴューを録画していて、その録画現場で酔いつぶれて眠っていたヴェルノンがその内容を知らないままこの録画ディスクを託されていた、ということに始まる。アレックスが死に、自分は宿無しとなったヴェルノンは、このスーパースターの自撮りインタヴューがその筋のメディアに売り込めばかなりの金になるはずだと皮算用して、こういうヴィデオを持っているちおうことを居候先のシナリオライターに漏らす。この情報が漏れるや、このヴィデオを何とか誰よりも先に手に入れようとする人間が複数現れてくる。ブリーチをずっと追いかけていた女音楽ジャーナリスト、ブリーチの暴露によって自分の地位が吹っ飛ぶと確信している映画テレビ界の大物プロデューサー、そしてそのプロデューサーに雇われた元私立探偵の女通称ラ・イエーヌ(ハイエナ)....。ヴェルノンに大なり小なり関係する多数の人間たちを巻き込んで、このヴェルノン追跡・録画ディスク争奪合戦が(ヴァイオレンスを含んで)激しく展開される。 わけもわからず遁走するヴェルノンはいよいよ正真正銘のホームレスに転落し、電話もインターネット環境とも縁がなくなってしまうが、ヴェルノンのフェイスブックページは本人関係なく一人歩きを始め、ヴェルノンを見かけたという情報や、ヴェルノンを擁護する/糾弾するの論争書き込みで、日に日に膨れ上がっていく。 問題のヴィデオにはアレックスの死の真相だけでなく、アレックスのガールフレンドのひとりだった絶世のポルノ女優ヴォトカ・サナタの謎の死の鍵を握る証言が含まれている。それはフランス芸能界の暗黒部を暴き、その背後の国際資本まで戦慄させる秘密かもしれない、というスケールの大きなミステリーワールドに突入していく。

 渦中の人ヴェルノンは満身創痍でパリ19区の丘の上にあるビュット・ショーモン公園の 人目から隠された奥地に逃げ込み、ホームレス仲間たちに助けられて原始的環境に順応してもはや壁に囲まれた空間で眠ることができないほど"野の人”となり、しだいに仙人と化していく。ヴィデオ争奪の騒ぎから始まったヴェルノンを追う人々の数は雪だるま式に増大して、それらすべての人々がソーシャルネットワークで飛び交う情報をあてにして大挙してビュット・ショーモン公園に集まってくる。
 そして遂にヴェルノンは姿を現す。すべての追手たちが見守る中、丘からふらふらと降りてくるその眼光するどい痩せこけた男、彼らはその姿に聖者を見てしまうのである。ヴェルノンを追ってきた多種多様な人間たちが、利害や思想や立場の違いを超えて、この男の磁力によってここまで引き寄せられてきたことを悟る。そしてその周りには知らない間にホームレスから金満ブルジョワまでを含むひとつのコミューンが出来上がっていたのである。
 
ビュット・ショーモンの丘の上にある(実在する)カフェテラス「ローザ・ボヌール」(右写真)が、このコミューンの溜まり場となり、それはまるでヴェルノン教信者の集会場のようであり、この信者たちは日を決めてパーティーを開くようになる。この聖者は説教を垂れるわけではない。言葉少なく、重要なことなど何一つ言わないが、ヴェルノンはミックスした音楽を聞かせるだけなのである。ターンテーブルなど使わず、スマホひとつとUSB接続のできるオーディオ装置があれば、ヴェルノンは極上の音楽を流すことができる。この聖者はDJなのだ。そして彼のミックスした音楽はどんな人間でも踊り出さずにはいられない。ハメルンの笛吹き寓話のようなものだ。ハッピーにさせ、陶酔させ、涙を流させる。こういう音楽の魔力がこの小説では何度か現れる。
 作者ヴィルジニー・デパントは出自はパンクロックであるが、ジャーナリストとしてロック誌に書いていた過去もあり、ロック&ポップミュージックに深い造詣がある。この小説の中でヴェルノンがミックスする曲名だけでなく、さまざまな場面で流れる音楽の曲名がすべて明記されている。この小説の成功で現れたカルト的なファンたちによって、インターネット上では「ヴェルノン・シュビュテックス・ミックステープページ」が作られ、その全曲を聴くことができる。すなわちこれは壮大な音楽小説でもあるのだ。

 小説は第2部まで刊行され、ストーリーはアレックス・ブリーチの自撮りヴィデオの中で、ブリーチのガールフレンドであった有名ポルノ女優変死事件の真犯人が仏芸能界超大物プロデューサーであると証言してあったため、(イスラム過激派に改宗した)女優の娘がプロデューサーに復讐するという波乱のエピソードをはさんで、ヴェルノンと仲間(信者)たちがビュット・ショーモンを離れて、コルシカ島でインターネットもスマホもない状態のコミューン生活を始める、というところまで至っている。来年刊行予定の第3部完結編では、この元レコード屋オヤジは人類を救済してしまうのではないか、と容易に予想できる。われわれ音楽人に距離が近い21世紀寓話である。

 作者ヴィルジニー・デパント(1969年生れ)は1993年の第1作小説『ベーズ・モワ(Baise-moi)』(『バカなやつらは皆殺し』という題で日本語訳されている)で、女性の書き手によるセックスとヴァイオレンスのハードコア文体で話題となり、2010年の作品『アポカリプス・ベベ』で仏二大文学賞のひとつルノードー賞を獲得している(因みにこの年のゴンクール賞はミッシェル・ウーエルベックの『地図と領土』であった)。映画監督として2作長編映画があり、2011年の『バイバイ・ブロンディー』(日本上映題『嫉妬』)はLGBT映画の金字塔と評価されている。
 『ヴェルノン・シュビュテックス』はデパントの8作目の小説で、大失業時代のフランスの世相、貧困、音楽/芸能界の裏側、極右とイスラム過激派の台頭、ドラッグ、LGBTの事情などを野卑で露骨な語彙/表現を用いながら、今日のパリの現場の現実を描く大作である。この小説で音楽は最重要の役割を担っていて、たぶん救済はここにある。あらゆるレコード屋のオヤジは世界を救うパワーを秘めているに違いない。日本語訳本の登場を切望する。

                                                  (2015年8月 向風三郎

(↓)2015年春『ヴェルノン・シュビュテックス・I』の頃のヴィルジニー・デパントのインタヴュー



『ヴェルノン・シュビュテックス III』紹介記事リンク

ヴェルノン・シュビュテックス三部作完結ドラッグ不要の音楽による救済と共同体の夢の果て(in ラティーナ誌2017年7月号)

2020年6月15日月曜日

ロックよ永遠に - 追悼マルク・ゼルマティ

 

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2008年11月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

 

2020年6月12日から13日の夜半、パンク・ロック開祖者にして音楽プロデューサーのマルク・ゼルマティが心不全で他界した。75歳だった。90年代から2000年代、私がYTTという会社を運営していた頃、よくきつい口調で説教された恩人である。その思い出として、この記事を再録します。安らかに。合掌。




伝説の"オープン・マーケット"
パンクの祖マルク・ゼルマティに聞く
(in ラティーナ誌2008年11月号)


 1972年、パリ1区。かつてエミール・ゾラが小説『パリの胃袋』(1873年)に描いた巨大な中央市場レ・アールはその3年前1969年に南郊外ランジスに引越し、その跡にぽっかり空いた穴は都市再開発工事現場に変わってしまった。公園、地下ショッピング街フォローム、美術館ジョルジュ・ポンピドゥー・センターなどができるのは1977年以降のことである。昼から街娼たちが舗道の上に立ち並び、セックスショップが軒を連ねるサン・ドニ通り、精肉問屋や生地問屋や縫製工房などがかたまってある、およそファッションやカルチャーとは無縁であったこの地区に、マルク・ゼルマティはフランスで最初のアンダーグラウンドショップを開店した。その名は「オープン・マーケット」。
 1972年のフランスは日本と似ている。かの1968年5月革命が鎮静化し、運動に固執して続けるグループは極左化して地下に潜り、それに反してしらけた若者たちは急速に政治から離れたが、68年から衰えることなく「性の解放」だけは広く一般化し、この部分でのカトリック的旧モラルはやっと崩れたのである。ケルーアックやバロウズを読み、米西海岸のサイケデリック・ロックを聴き、(過度に政治化しない程度に)ベトナム戦争に反対し、ヒッピー風俗を生活様式に取り入れ、なにを置いてもとにかくたくさんセックスをした時代である。
 ゼルマティのオープン・マーケットはその名の通り最初はただのオープンスペースで、蚤の市のような陳列台を並べた複数の店子が、レコード(主に輸入ブートレグ盤)、インド産の衣類やアクセサリー、Tシャツ、ポスター、ファンジン、地下出版物などを売っていたのだが、パリで唯一のアンダーグラウンド/カウンターカルチャーショップとして知られるようになるや、他の店子を追い出してゼルマティだけの店になる。コアなヒッピー・グッズ、シチュアショニスト系の発禁ポスター、そしてレコードはニューヨーク・ドールズ、ラモーンズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、イギー・ポップ&ストゥージズ、MC5などであった。これらのバンド名はその当時の欧州では全く知られていなかった。
 ゼルマティは1972年に独立レーベル「スカイドッグ」も発足させている。既に二人とも故人であったジミ・ヘンドリックスとジム・モリソンのジャムセッションアルバム『スカイ・ハイ』を皮切りに、フレーミング・グルーヴィーズのミニLP『グリース』、キム・フォーリー、MC5などに続いて、1976年にはイギー・ポップとストゥージズ『メタリック・KO』を世に出して10万枚を売った。それと並行して1974年に独立レコード配給会社ビザール・レコーズを設立、既存の大手配給会社にはビジネスが難しいと見なされたガレージロック系のレコードを一手に引き受け、ロンドン、アムステルダム、パリ、バルセロナをつなぐ欧州のロック・シンジケートを築いていく。
 さらにプロモーターとして、ニューヨーク・ドールズ、ドクター・フィールグッド、ダックス・デラックスなどを世界規模でツアーさせ、オーガナイザーとして1976年と77年南西フランスのモン・ド・マルサンで「フレンチ・パンクロック・フェスティヴァル」(76年はザ・ダムド、エディー&ザ・ホットロッズなどをメインにして600〜700人の観客動員であったが、77年はザ・クラッシュ、ザ・ポリスなどを加えて集客は4000人を超えている)を成功させた。
 これがマルク・ゼルマティを伝説の人にした72年から77年にかけての仕事である。そしてレ・アールの店オープン・マーケットは、奇しくも後の世が「パンク元年」と呼んだ1977年に閉店している。
 私がマルクを知ったのは90年代初めの頃で、彼のレーベルであるスカイドッグと時々仕事するようになったためであるが、その強烈な口の悪さのため、最初私は本当に苦手だった。一度ならず「おまえはロックを全くわかっていない」とこき下ろされた。また世相の話になると「俺はフランスに絶望している」、「フランスの滅亡は近い」という苦言が繰り返される。「日本人のおまえが何を好き好んでこんなフランスに住んでいるのか」と不思議がられた。 80年代からプロモーターとして何度も日本に行っていて、ギター・ウルフやミッシェル・ガン・エレファントなどの日本のバンドをヨーロッパでツアーさせていた彼は、無条件の日本贔屓ではないが、日本を良く知り、日本に人脈もあり、日本をリスペクトしている。最低の国フランスに比べたら、日本の方がなんぼ良かろうというようなことも言う。その理由は、今回マルクに二度のインタヴュー(のべ4時間)で語ってもらって、だいぶ明白になってきた。

  マルク・ゼルマティは1945年、まだフランス領であった頃のアルジェリアのアルジェで生まれている。父母ともフランス人だが、父親はユダヤ教徒の医師で、母親はカトリック信者だった。いわゆる"ピエ・ノワール"(フランス人の北アフリカ入植者)の子である。ゼルマティ家は元々はスペインのユダヤ人富豪で、1492年スペインのユダヤ人追放令の時にヨーロッパ諸国に離散したセフェラード(追放ユダヤ人)のうちフランスにたどり着いた家系がマルクの直接の先祖だという。代々富豪の家柄で、芸術全般に通じて美術品の蒐集も豊富にあった。そのDNAがマルクを最初の職業=画商につかせることになるのだが、若くしてマックス・エルンストと深い交流があり、シュールレアリスム作品の売買でかなりの成功を収める。「俺は金には興味がない」と彼は何度も繰り返して言った。金のために仕事するというのは、彼のような大富豪血筋では恥ずべきことなのだ、と。実際彼は大金を得たのち大金を失うということを繰り返しているが、金には執着していない。金のことを先に言う人間を軽蔑する、とも言った。
 アルジェリア独立戦争ですべてを失い、1962年にゼルマティ家はフランスに逃れてきて、おまけに両親は離婚。父親はニースで開業医としてやり直し、マルクはパリ圏に移り住んだ母親のもとで暮らす。しばらくして画商として自活するのだが、その頃パリで「ドラッグストア族(La bande du Drugstore)」 と呼ばれる若者の一団が、シャンゼリゼ大通りに開店した24時間営業のマルチストア(薬品、食品、書籍、レコード、カフェ、レストラン...)のドラッグストアにたむろしていて、スタイリッシュなゼルマティはその重要メンバーのひとりになる。これは主にパリ16区や7区の金持ちの子女たちで、最新流行のファッションをオーダーメイドで調達でき、フランスのラジオでは追いつけない最新の音楽(英国のモッズ系ロックと米スタックス系のリズム&ブルース)を輸入盤で聴き、性解放時代に先んじてフリーセックスに興じ、それまで先進的と言われていたパリ左岸派(サン・ジェルマン・デ・プレ、実存主義、ビバップ・ジャズ...)とは全く異種の高級不良集団であった。
 マルクはこの不良たちにおけるセックスという点を強調する。この60年代前半(68年5月革命はまだ遠い)、多くの国においてそうだったようにフランスでも性はまだまだタブーで、カトリック的道徳観が支配的だった土壌で、金持ちと言えども少年たちはセックスに対して怖気づいていた。ところが金持ちの娘たちはそうではない。ドラッグストア族はパリブルジョワの娘たちと、"非フランス純血”男子(ピエ・ノワールの子、東欧没落貴族の子孫、アフリカ新興国指導者の子...)たちが中核メンバーになっていく。フランス良家の男子たちはそういうわけにはいかないが、例えばアルジェリアで育った俺たちはみんな13歳ぐらいから性体験があって性に長けている、それが重要なのだ、と言うのである。
 なお、2002年にこのパリ60年代の先端高級不良の一団を描いた映画『La Bande Du Drugstore(日本公開題『好きと言えるまでの恋愛猶予』) が作られたが、内容は実在したドラッグストア族とはかけ離れているので、参考にはしないように。
 ゼルマティはその後テーラード・スーツを脱ぎ捨て、髪を伸ばして髭をたくわえ、ヒッピー・ムーヴメントに身を投じている。エスタブリッシュメントと物質社会を否定し、精神の解放を説くカウンター・カルチャーをいち早くフランスに持ち込んだ彼は、アメリカのこのムーヴメントの先駆者たちと同じように自らLSD体験を繰り返した。この幻覚剤やほかの薬物の常用がのちのち二度の刑務所入りという苦い体験をもたらすのだが、彼はその精神的および芸術的効果においてこれらの薬物が果たした革命的な役割を全的に肯定している。後年に彼は「パンク・シチュアショニスト」と自称したことがあるのだが、シチュアショニスムとの関連についてマルクは
俺はギイ・ドボールとは一度も会ったことはない。だが俺たちの生き方がシチュアショニストたちと似ているとはよく言われた。彼らと俺たちの違いがあるとすれば、彼らはアルコールによる酩酊を用いて "無為の時間なしに生きることそして制約なしに快楽を得ること"(66年シチュアショニストの政治ビラの結語)を実現しようとし、俺たちは同じ目的でドラッグを使用したということさ。
と言った。
オープン・マーケットを開店する以前にマルクはイヴ・アドリアンと邂逅している。まだ十代だったアドリアンは、既にスキゾフレニア(統合失調症)的傾向があったが、ゼルマティの探してくるアンダーグラウンドなロック音楽に魅了され、すぐさま固い師弟(兄弟)関係が出来上がる。二人は同居して薬物体験を共有する。オープン・マーケットの店ではアドリアンが時々売り子として立った。当時のニューヨークの粗暴で電気衝撃みなぎるロックシーン(ニューヨーク・ドールズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、ラモーンズ...)に心酔していたアドリアンは、既にファンジン「パラプリュイ」でその鋭利な叙情を閃光のような筆致で描くライターとして注目されていたが、メジャーロック誌 ”ロック&フォーク”の1973年1月号に歴史的なマニフェスト「僕は電気のロックを歌う(Je chante le rock éléctrique)」を発表する。
パンク、それは電気的オーガズムであり、ダーティな悟りである。
PUNK, c'est l'orgasme éléctrique, le satori dirty.
セックス・ピストルズのデビューの5年前にパンクロック宣言をしてしまったのである。予言的で霊感的でダンディーでスノッブな文体は、全く新しいロック・クリティックの誕生と評価された。アドリアンはロックからパンク、パンクからアフターパンク(1978年ノヴォヴィジョン)へと、そのパースペクティブを展開していき、詩とも小説とも読まれるスタイリッシュで閃きに満ちたそのエクリチュールをゼルマティは「アントナン・アルトーの再来」と褒めちぎっている。
 アドリアンと同じ時期に登場したもうひとりのロック・クリティックがアラン・パカディス(1949 - 1986)で、ギリシャ人移民の子で若くして両親を失い、ゲイ解放運動団体を経てアンダーグラウンド界に出入りし、1973年にオープン・マーケットでアドリアンとゼルバティに出会っている。当時のパカディスから見れば二人は師匠的先達だった。パカディスは1975年11月からリベラシオン紙で連載「ホワイト・フラッシュ」を開始し、情緒の欠落した文体でアヴァンギャルド・ロックシーンやナイトクラビングについて日記風に綴っていたが、その文中に決まり文句のように「今日オープン・マーケットで見たんだが」というフレーズを入れていた。
 ゼルマティ+アドリアン+パカディスのトリオは完璧に機能し、パンク革命は「ゼルマティがバンドを発見し、アドリアンが理論化し、パカディスが世俗化する」(批評ウェブジン Fluctuat,netの評)というプロセスで進行していった。
 世界で最も品数が少なく、世界で最も良質なレコードショップであったオープン・マーケットには、ストゥージズやフレーミン・グルーヴィーズの他はレコード陳列ケースがほとんど空っぽで、事情を知らずに入ってきた客があれもないのかこれもないのかとケチをつけると、マルクから罵声が飛び、殴り合いの喧嘩になることも少なくなかった。また金を持っていない若者が一日中店内でとぐろを巻いていてもマルクは放っておいた。近所にネオナチ極右結社「オルドル・ヌーヴォー(新秩序)」の事務所があったため、店に来るロック好きの若者たちと極右党員たちとの衝突がしょっちゅうあり、乱闘が店の中まで拡散してくることもあった。店のレジカウンター奥には野球バットが常備してあった。ロックレコードショップは喧嘩にも強くなければやっていけない時代だった。
 その客と品揃えと音楽傾向が通常のレコード店とはかなり異なっていたがゆえに、オープン・マーケットはパリ随一のアンダーグラウンド・ブティックとして噂が広がり、ニューヨーク、ロンドン、アムステルダムなどからも定期的に来訪者があった。その常連のひとりにマルコム・マクラーレン(1946 - 2010)もいて、口の悪い連中はマクラーレンがレ・アールをコピーすることでロンドンにパンク・ムーヴメントが始まったと言ったりするが、ゼルマティはそうは思っていない。マルクは誰が始めたかということで議論することには興味がないと言う。しかしマクラーレンが音楽出身ではなくファッションの人間だったということが、ロンドンでのマーケティング絡みのパンクブームの成功の原因であり、逆にニューヨーク・ドールズを紅衛兵ファッションでつぶしてしまった原因でもある、とマルクは分析する。端的に言えば、やつはロックを知らなかった、ということだ、と。
 レ・アール発行のファンジン「ロック・ニュース」(ミッシェル・エステバンとリズィー・メルシエ・デクルー編集のミニコミ)では1976年春の号の表紙がセックス・ピストルズだったが、ピストルズのデビューシングルがリリースされたのはその6ヶ月後のことだった。

1976年夏、ゼルマティは南西フランスのモン・ド・マルサンの円形闘技場で第1回パンク・フェスティヴァルを開くが、そのために彼はセックス・ピストルズと出演交渉をしている。表向きはバンド側が出演を拒否したことになっているが、実際にはゼルマティがこのバンドの状態を見て、とても数曲を演奏できるような技量には至っていないと判断したからだ。セックス・ピストルズをもってパンク革命の始まりとすることが是か否かは議論の価値がない。金儲けのためにパンクを利用しようとする連中だけがそんな議論を煽っているにすぎないから。
 1977年、第2回めのモン・ド・マルサンパンク・フェスティヴァルは数千人を集客する盛況となるが、 その成功にも関わらずゼルマティは破産状態に陥る。モン・ド・マルサンの現地協賛者が入場チケットを偽造して、売上金の大半を持ち去ったせいだと言う。その影響でオープン・マーケットも店じまいしてしまう。
 レ・アールはその1977年に現代美術の巨大モニュメントたるポンピドゥー・センターが開館し、コンテンポラリー・アートが似合う街に変貌し、ストリートファッションのブティックも多く軒を並べ、以前のような庶民的な猥雑さは影をひそめていった。マクラーレンとピストルズでロンドン発のパンクが世界の注目を集めていくが、それはマルクにとってはどうでもいいことだ。俺は金儲けのためにオープン・マーケットやパンク・フェスティヴァルを開いたわけではない。金には興味がない。俺はロックという叛逆の音楽の普遍性を信じているからこの仕事をしている。1972年から77年、ロックの最前衛を求めて、世界中のファンたちがパリの俺の店めがけてやってきたんだ。日本からもね。だが、そのあとを見てみろよ、パリがアンダーグラウンド・カルチャーの中心だったことなど、1977年以降一度もないんだ。
フランスでは6ヶ月に一度「ロックは死んだ」とメディアが言うんだ。半年ごとにロックは何度も何度も死んでいる。これはフランスだけの現象のようだ。ところがどうだい、この2、3年、ロックは大挙して復活してしまっているではないか、音楽においてもファッションにおいても。
伝説のオープン・マーケットを記録する写真は一枚も残っていない。私はマルクにしつこく確認したが、彼の友人関係を探しても誰も写真を撮っていないのだった。その店は実際に見た人の記憶の中にしか残っていない。伝説が伝説を生むゆえんである。
 伝説のオープン・マーケットをもう一度。マルク・ゼルマティはこの12月から1ヶ月にわたってパリのモンマルトル地区のギャラリーを使って、オープン・マーケット時代に売っていたオリジナルポスターやグッズなどのエクスポジションを開催する。題して「ロック・イズ・マイ・ライフ!」。マルク・ゼルマティは死ぬまでロックするはずである。

                      2008年9月、向風三郎

(↓)2008年12月、エキジビジョン「ロック・イズ・マイ・ライフ」の展示物を解説するマルク・ゼルマティ。


(↓)1976 & 1977 モン・ド・マルサンのパンク・フェスティヴァルの回顧ルポルタージュ(2018年 ARTE。残念ながらゼルマティの姿も名前もない)

 
 

2020年6月7日日曜日

ヴィルジニー・デパント:白人たちへの手紙

何が問題なのかわかっていないわが白人の友たちへの手紙

5月25日ミネアポリスの警官によるジョージ・フロイド殺害事件に触発された地球規模での黒人差別/人種差別/警察暴力反対運動、それに呼応してそのフランス版とも言える未だ未解決の2016年7月19日の憲兵によるアダマ・トラオレ殺害事件の大抗議集会(6月2日、パリ司法局前、8万人動員)に参加した作家ヴィルジニー・デパント(『ヴェルノン・シュビュテックス』)が、国営ラジオFrance Interに投稿した『何が問題なのかわかっていないわが白人の友たちへの手紙』。6月4日朝France Interの番組でオーギュスタン・トラプナールによって朗読・紹介された。以下、全文の日本語訳です。

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何が問題なのかわかっていないわが白人の友たちへの手紙  
フランスにおいて私たちはレイシストではないが、私の記憶では黒人の大臣というのを一度も見たことがないと思う。しかし私は50歳であり、歴代の政府の中でそういう大臣がいたのは見たはずである。フランスという国にあって私たちはレイシストではないと言いながら、監獄収容者における人口比率では黒人とアラブ人が大きく上回っている。フランスという国にあって私たちはレイシストではないと言いながら、私が本を発表し始めた25年前から一度として黒人のジャーナリストのインタヴューを受けたことがない。私は一度だけアルジェリア系の女性に写真を撮られたことがある。フランスという国にあって私たちはレイシストではないと言いながら、ついこの間だって私はカフェテラスで飲み物を出すことを拒否された、アラブ人と一緒だったから。ついこの間だって私は身分証明証の提示を求められた、アラブ人と一緒だったから。ついこの間だって私と待ち合わせしていた女性が電車に乗り遅れそうになった、駅で警察のコントロールにつかまって、彼女は黒人だったから。フランスという国にあって私たちはレイシストではないが、(コロナウィルス禍)外出禁止令の時、庶民街で、自分で書く特例外出証明の紙を持っていなかったという理由で特定の人種の主婦たちはスタンガン(電気ショック銃)で撃たれるということさえあった。その一方で白人女性たちはジョギングをしたり、7区の市場で買い物をしたり。フランスという国にあって私たちはレイシストではないと言いながら、セーヌ・サン・ドニ県(93)の死亡率が国の平均よりも60倍高いと発表された時、あまり気にもならなかっただけでなく、仲間うちでは「(93県の)連中は外出禁止令をほとんど守らなかったからだ」とさえ言われもした。

私には既に御用ツィッター発言者たちの轟々のどよめきが聞こえる。公式プロパガンダに呼応しないなにごとかが発言される度に彼らは不快になって怒り、いつもこう言い返すのだ「恐ろしい!どうしてここまで凶暴なのだ?」 


あたかも2016719日(註:アダマ・トラオレ事件。24歳の黒人青年が身分証明検査から逃げたという理由で憲兵二人に暴力的に捕獲され憲兵署内で死亡した)に起きたことは暴力ではなかったかのように。アッサ・トラオレ(右写真。註:同日憲兵に逮捕されたバギとアダマ・トラオレ兄弟の妹)の兄二人が投獄させられたことは暴力ではなかったかのように。この火曜日(註:2020年6月2日)、私は生まれて初めて、非白人の団体が組織した8万人を超える人々を動員した政治集会に参加した。この群衆はなんら暴力的ではない。この日、2020年6月2日、私にとってアッサ・トラオレはアンチゴネーだった。しかしこのアンチゴネーは、敢えて否と言ったがために生きたまま埋葬させられるようなことにはならない。このアンチゴネーはひとりではない。彼女はひとつの部隊を取り集めることができた。群衆は叫ぶ:アダマのために正義を! この若者たちは、おまえが黒人かアラブだったら警察はおまえの恐怖であるということをわかっている。この若者たちは真実を言っている。彼らは真実を言い、正義を求めている。アッサ・トラオレはマイクを握り、集めってくれた人々にこう言った「あなたたちの名前は歴史に残る」と。群衆が喝采したのは、彼女がカリスマ性があるからでも写真映えするからでもない。群衆が彼女に喝采したのはその理由が正当であるからだ。アダマのために正義を!白人でない人々にも同じような正義を。私たち白人はこの同じスローガンを叫ぶ。そして私たちが2020年の今日、これを叫ばなければならないことに恥辱を感じなかったら、不面目の極みであることをわかっている。恥辱、それは私たちが持つべき最低限のことである。
 

私は白人である。私は毎日外出する時、身分証明証など持たない。私のような者が家に忘れてあわてて取りに帰るのはクレジットカードである。この町は私に語りかける、おまえはここの人間だしここは自分の町だ。私のような白人女性は(パンデミックの時以外)警官がどこにいるかなど全く気に留めずこの町を行き来している。警官が三人私の背後にやってきて、私が彼らのお決まりの身分証検査から逃れようとしたというたったそれだけの理由で窒息するほど威圧しようとしたら、たいへんな事件になるに違いないことを私はわかっている。私は白人女に生まれた、他の人たちが男に生まれたように。問題は「私は人殺しなど絶対にしない」と強く主張できることではない。男たちが「俺は強姦などしない」と主張するように。ここにおける特権とは、それを考えることも考えないことも選択できるとということだ。私は自分が女であることは忘れることができない。だが自分が白人女であることを忘れることができる。白人女であるとはそういうことなのだ。それを考慮することも考慮しないことも気分しだいで選べる。フランスという国にあって私たちはレイシストではないと言いながら、私はこの選択ができるという黒人もアラブ人も一人として知らない。


ヴィルジニー・デパント

(↓)2020年6月4日国営ラジオFrance Interで朗読されたヴィルジニー・デパントの「白人たちへの手紙」(朗読:オーギュスタン・トラプナール)


(↓)2020年6月2日、パリ、ポルト・ド・クリシーの司法局/パリ最高裁前に8万人を動員したアダマ・トラオレ殺害事件への抗議デモ。

2020年6月2日火曜日

鍵屋がとりもつ縁かいな

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2007年5月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Tonino Benacquista + Jacques Tardi "Le Serrurier Volant"
トニノ・ベナクイスタ(文)+ ジャック・タルディ(画)『流しの鍵屋』

(ベルギー Editions Estuaire刊 2006年11月)

ルギーの出版社エディシオン・エスチュエールの叢書"文学手帖 Carnets Littéraires"の第16冊め。稀代のフィクション作家(ル・モンド紙は"fictionneur フィクション職人"という新語でこの作家を評している)トニノ・ベナクイスタと、人気BD作家のジャック・タルディが組んだイラストレイテッド・ノヴェルである。
 主人公マルクはもともと閉鎖的な性格の青年であった。社交嫌いで孤独と静寂を好む、若くして老成してしまった観のある、どこにでもいるような郊外(パリ南郊ヴィトリー・シュル・セーヌ、ベナクイスタが育った町でもある)生活者であったが、ひとつだけ人と違うのは拳銃を所有していることであった。この時のマルクの職業は、警備会社の現金輸送担当で、その職業上の必要で資格試験をパスして拳銃を使えるようになった。毎日彼は3人で班をつくり、装甲現金輸送車で仕事をしていた。命を張らなければできない仕事であるのに、給料は極めて低い。そして最悪の事態は訪れるのである。
 7章の物語の第1章で、装甲現金輸送車はロケット砲と機関銃で武装したグループに襲撃され、輸送車は大破、現金ケースはすべて奪われ、2人の仕事仲間は即死、マルクも瀕死の状態で病院に担ぎ込まれた。彼が生き返ったのは奇跡であると病院は言った。しかし数ヶ月の病院生活とリハビリの末、マルクは再び社会に放り出されるが、襲撃のトラウマは極度の神経衰弱となって彼を襲い、安定剤とアルコールと煙草に依存しても自暴自棄傾向は変わらず、公園のベンチでわめき散らしたり、自己破滅的な言動でアパルトマンの隣人たちから苦情が絶えない。警察の牢屋で一夜を過ごして帰ってきた朝、マルクは自分がアパルトマンの鍵も金も身分証明証も持っていないことに気がつく。扉の前で途方に暮れていると、隣人が親切にも"SOS鍵屋”に電話してくれた。
 ここでマルクはこの”SOS鍵屋”という素晴らしい職業を知るのである。これはまさに「壁抜け男」(マルセル・エイメの小説"passe-muraille"を翻案したミュージカルの日本語題)である。鍵修繕という名目のもとに、彼らは普通の人には開けない扉をいつも簡単に開けて、都市の奥の奥の扉まで抜けていけるのだ。マルクは襲撃のショック以来もう組織の中で働くことはメンタル的に不可能になっている。この孤独にして秘密に満ちた職業に魅せられ、マルクは「流しの鍵屋 Le serrurier volant」、すなわち事務所や店舗を持たず、携帯電話とスクーターだけで24時間営業をする救急鍵トラブル解消業を営むようになる。
 俺は外側の世界に閉じ込められている。
第3章の最初の1行のマルクの独り言である。3年間この流しの鍵屋をやってきて、彼の孤独はますます色濃くなっていく。マルクはさまざまな鍵トラブルを解決してきたが、この職業は彼が一旦その扉を開けることができたらそこでお役御免で、その中には絶対入ることができないのだ。トニノ・ベナクイスタの表現はここでとても味があり、鍵屋が緊急電話を受け取り現場に直行するまでは、依頼者は鍵屋をまるで救済者のようにあがめ、決まってそのトラブルの言い訳をあれこれ話しはじめる(絶対に忘れることなどなかったはずなのに、今日に限って...)のだが、一旦開いてしまって高い請求書(出張費、技能費、修繕費...)を見たとたんに、次に泥棒に入られたらこの男を疑ってやるぞという目つきに変わってしまう、ということを書いている。確かにSOS鍵屋というのは、泥棒と同じ(あるいはそれ以上の)テクニックを持っているわけだから、普通の人はその仕事を見たら、いつこの男が一線を越えるか分かったものではないと警戒してしまうのだろう。
 ベナクイスタの小説でいつも感心するのは、さまざまな職業のプロの局面での描写ができることであり、それは国際夜行列車の寝台係であったり、私立探偵(興信所)の追跡係であったり、画廊の鑑定係であったり、彼の小説のディテールは社会の"そちら側”からの視点を読者に克明に説明してくれることである。作家になる前にいろいろな職を転々としていた経験が裏付けになっている現場の証言である。この鍵屋物語でも、妻の浮気の現場に押し入ろうとして愛人のアパルトマンの鍵を開けてくれと嘆願する男のドラマや、法務局の執行人の依頼で税金未納者の家の鍵を開ける仕事の時に見る悲劇など、この職業にまつわる波瀾万丈が見えてくる。しかし鍵屋はその中に入ることは許されない。「俺は外側の世界に閉じ込められている」。
パリ16区ラヌラグ通りという高級住宅街から依頼の電話が来る。マルクが現場に行くと高級そうな女性がいて、確かにそのアパルトマンの住人である証明書を出して鍵を失ったから開けてくれと言う。件の鍵を観察してマルクはその鍵が最近取り替えられたものであることを察知する。これを壊して新しいものと取り替えるとかなりの出費になるがそれでも良いか、とマルクが念を押す。女は自分には他の選択肢がないと言う。2時間の作業の末、鍵の取り替え仕事を終え、女に手を洗いたいから洗面所を使わせてくれと中に入ると、この高級アパルトマンには家具がほとんどない。マルクは職業的直感で、これは最近法執行人が来て家具を差押え物件として持ち出したのだと見抜いた。女は請求書の金額の小切手をマルクに手渡すが、鍵屋は「これは不渡り小切手ですね」と見破る。「一時的にお金が足りないだけよ」と女は答える。「だったらこの小切手がちゃんと現金化できるようになったら電話をください」とマルクは女に鍵屋の名刺カードを渡して、その場を立ち去る。この女からその電話は来るわけはないと知りながら。
 しかし電話は来るのである。午前2時半、疲労困憊の深い眠りから叩き起こされて電話に出ると、泣き果てたような声が聞こえるか聞こえないかの音量で「あなた、私の家に来たことがあるわね。今すぐ来てちょうだい」と電話線の向こうは言うのである。その場に行ってみるとドアに鍵はかかっていない。中に入っていくと、明かりが寝室からもれているのが見える。そしてその中にはベッドの上に腹這いで寝かされた全裸の女体があり、両手両脚が拡げられ、手首と足首はベッドの四つ端に手錠で繋がれていた。鍵屋マルクは自分の七つ道具を使ってその手錠を外してやり、解放された女をいたわってやろうとするが、女はマルクに「今すぐここを出て行ってちょうだい!」と叫ぶ。
 小説はこうして、それまで外側に閉じ込められていた男がこの女セシルによって内側の世界に入っていく、という展開で進行していく。セシルがなぜ全裸で繋がれていたか、彼女のトラブルとは何なのか、マルクの探索が始まる。それはもともと閉鎖的だった男が、現金輸送車襲撃事件のショックで人間的情緒をほとんど破壊され、その最低のところから徐々に人間らしさを取り戻そうとしている彼がぶつかっている壁をひとつひとつ壊していくという、ひとつの魂の再生の物語でもある。そしてマルクが抱いてしまう果たせぬ恋心の物語でもある。
 シナリオは現金輸送車襲撃犯人との偶然の再会(マルクの鍵屋の腕前の良さの噂を聞きつけて、四年前に奪ったまま開けられずにいる現金ケースの解錠を依頼してくる)という転機を得て、その現金ケースを奪回して、その金で秘密裏にセシルの窮状を救ってやる、というハッピーエンドに向かっていくのだが、セシルとマルクは結ばれない....。

 稀代のフィクション職人トニノ・ベナクイスタのこの作品での魅力は、"壁抜け男”が見せてくれる壁の内側の見えないパリの姿であり、マルクが合鍵ひとつでまんまとサン・トゥスタッシュ教会の天蓋に入り込み、そこでパリの夜景を見下ろしながらセシルと夕食を共にするという、えもいわれぬ美しいシーンで全開する。そうしたシーンをさらに美しくしているのが、ジャック・タルディのセピアトーンのイラストなのである。パリの下町と人間たちの複雑な表情が描かれていると、タルディはベナクイスタよりも雄弁になる時がある。挿絵がページごろに現れる、言わば一種の絵本であるこの作品は、その体裁からして"ライト"と思われてしまうだろうが、ページ紙が厚いので手に持つと重量感がある。簡単に読めるし、誰でもすぐにこのセピア色のパリの世界に入れるが、シニカルで職人的な語り口の作家と、クセのありそうな人物画の達人との出会いによって生まれたこの本は、繰り返し読む楽しみのために作られたと言っていいだろう。私は手にしてから、少なくとも5回は読み返している。

(↓)ベナクイスタ(左)とタルディ(右)

2020年6月1日月曜日

静かなるドン

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2004年7月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Tonino Benacquista "Malavita"
トニノ・ベナクイスタ『マラヴィータ』


(Gallimard刊 2004年4月)

2002年2月の『今月の一冊』でベナクイスタを紹介した時、ベナクイスタ自身に関することを何も書いていなかったので、今回は彼の略歴から紹介する。トニノ・ベナクイスタは本名である。1961年パリ郊外ショワジー・ル・ロワ生まれ。父親は技術労働者で、1954年に家族と共にイタリアから移民してきている。トニノは五人兄弟の末っ子であったが、フランスで生まれたのは彼ひとりだった。

 パリ大学サンシエ校映画科に入学するも1年で放棄し、ピザ焼き職人、国際寝台車の寝台準備係、美術館のガードマンなどの職業を転々とし、1985年処女小説『GIのロッカーに貼られたピンナップガールのように』でデビュー。風刺悪趣味雑誌「ハラキリ」のライターとなる。1989年に発表した推理小説『寝台車の不運(La Maldonne des Sleepings)』(Gallimard collection "série nore" no.2167)がヒット。1991年の小説『落ちこぼれたちのコメディア(La Commedia des Ratés)』(Gallimard collection "série noire" no.2263))で813最優秀探偵小説賞、ミステリー批評家賞、探偵小説大賞など、そのジャンルの各賞を総なめ。1992年レ・ザンロキュプティーブル誌のライターデビュー、フランス初のフリッパーゲーム(ピンボール)評論家。1997年推理小説から純文学に転向、小説『サーガ(Saga)』でエル誌読者大賞。1998年BD作家ジャック・フェルナンデスとの共同作品(シナリオ)で、肥満刑事セレナを主人公としたBD劇画『超大食家(L'Outremangeur)』(2002年にティエリー・ビニスティ監督、エリック・カントナ主演で映画化も)を発表、アングーレームBDフェスティヴァルで最優秀シナリオ賞。1999年初の書き下ろし映画シナリオ『匠の心 (Le Coeur à l'Ouvrage)』がローラン・デュッソー監督により映画化。2001年春、小説『だれか他の人間(Quelqu'un d'autre)』(2002年2月の本欄で紹介)発表、大ベストセラー。

 トニノ・ベナクイスタはイタリア移民の子である。その上イタリアに並々ならぬ愛着を抱いている。一部日本での紹介名が「ベナキスタ」とフランス読み風カタカナ表記になっているようだが、正しくは「ベナクイスタ」。アクセントは「クイ」にかかる。イタリアなのであるから、ベナクイスタなのである。
 「イタリア」「移民」という二つの言葉を並べると、米国では即座にマフィアと連想が結びつく。イタリア移民の子ベナクイスタの最新小説はマフィアである。それも米国の大都市市長とか国家官僚とか超セレブ芸能人などとはレベルが違う、デカいマフィアである。米国東海岸の巨魁中の巨魁、ドン・ミニーモをFBIに密告して売り渡した男、かつてドン。ミニーモの右腕だった男、ジョヴァンニ・マンツォーニの物語である。マンツォーニの密告の結果、ドン・ミニーモは連邦裁判所から禁固300年の刑を喰らい、ラ・コーザ・ノストラ最高首脳は世紀の裏切り者ジョヴァンニ・マンツォーニの首に2兆ドルの懸賞金をかけた。
 悔悛者マンツォーニはラ・コーザ・ノストラの裏切り者であるから、米国に住み続けることはできない。マフィア撲滅を国家最高課題のひとつとして掲げる米合衆国は、その威信にかけてこの国家の最貴重協力者のひとりとなったマンツォーニの身を守らなければならない。マンツォーニはFBIの24時間密着警護の下に生きることになるが、それでも普通の人間として普通に生きたいという希望から、名を変え、家族共々フランスに移住して、無名の小市民(米国人移民)として生きることになった。フランスというのがミソなのは、これがイタリア(つまりラ・コーザ・ノストラの母国)であったら、マフィア勢力が強すぎてたとえFBIと言えどもコントロールの困難なテリトリーとなろうが、フランスならば大丈夫というアメリカの大いなる自信を傷つけないニュートラルな地帯と見込んだのである。ところが実際は全然大丈夫ではないのだ。旧大陸は新大陸側が考えるほど単純ではない。これはアメリカの正義が世界の正義ではないということと同じほどに明白なのである。
 ジョヴァンニ・マンツォーニはフレデリック・ブレイクと名前を変え、妻と二人の子供(娘と息子)と愛犬マラヴィータを連れて、ノルマンディー地方の小邑ショロン・シュル・アーヴルに越して来る。全く新しい生活を余儀なくされた一家であり、彼らは自分たちの過去を絶対に明かしてはならない。その秘密がどこかから漏れたら最後、マフィアはその最大の殺傷破壊力を用いてこの一家を抹殺に来るだろう。それがこれまで幾多の小説や映画で描かれてきたマフィアの歴史であり、それがそのままアメリカの現代史のページを大きく占める部分となっている。しかしアメリカはこの歴史は変わらなければならないと強く自覚している。この小説が画期的なのは、この変わるべきアメリカという歴史的使命を担わされた人間がマフィアを裏切った者であり、歴史的ヒーローとして名前を出すこと/表面に出ることを完全に禁止されたものであることなのである。
 ところがいくら隠そうとしても、フレデリック・ブレイクはジョヴァンニ・マンツォーニ的な素地がじわじわと皮膚の表面に出てきてしまう。それはフレデリックだけでなく、息子のウォーレン、娘のベル、そして妻のマギーにあっても同様であり、物静かな小市民という外殻を強制的に取り繕おうとしても到底無理で、その結果、彼らの本意ではないのだが、彼らが通った道を振り返ると人がバタバタと倒れている、というありさまなのである。
 このノルマンディーの静かな町ショロンに越してきた借家のベランダで、フレデリックは放置されていた一台のタイプライターを見つける。1964年製造ヨーロッパ文字配列のブラザー900である。それまでまともに手紙も書いたことなどなかった、ましてやタイプライターやキーボードには指も触れたことがなかった男が変身してしまう。塀越しに隣家の人間が新しく引っ越してきたアメリカ人にあいさつし、あなたは何をしている人ですか?と尋ねる。フレデリックはとっさだが確信を持った返事として「私は著述家です」と答える。こうしてフレデリックは文筆家として第二の人生を踏み出すのである。 
 さてこのブラザー900で何をタイプするのか。読者はここから小説内小説の誕生と立ち会うことになるのだが、フレデリックはマフィアとしての半生の回想録を詳細なディテールを含む生々しい表現で書き綴っていくのである。このこと自体が非常に大きな危険を孕んでいるのだが、著述家フレデリックは水を得た魚/タイプライターを得たライターのごとく、夢中で書き進めていくのだった。
 この「著述家」と自称した一言で、新座のアメリカ人はこの町である種の珍人物(文化人)としてもてはやされることになり、ある日、フレデリックは町の映画クラブに招待される。映画館のないこの町で、ましてやヴィデオやDVDが普及してしまった今日にあってもなお、町の公民館で開催されるこの定期映画上映回は、数十人の熱心なファンを動員する町の一大文化事業であった。しかし映画クラブ当日、その日上映予定だったアメリカの古い娯楽大作のフィルム缶が貸し出し元から届かず、その代わりに間違って届けられたフィルム、1990年制作のマフィア映画大作、マーティン・スコセッシ監督映画『グッドフェローズ』(原題"Goodfellas"、フランス語題"Les Affranchis"、主演レイ・リオッタ、ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ベシ)が上映されてしまう。映画が終わり(フランスの映画クラブでは上映後に感想討論会がつきもの)、映画クラブ主催者からコメントを求められたフレデリックは、立板に水のごとく饒舌になって、ニューヨーク・マフィアの世界について様々なディテールを交えて朗々と語ってしまう。このアメリカ人著述家の話の面白さは口伝えに町全体に広がってしまい、いつしか公民館ホールは黒山の人だかりとなってしまうのだ。
 この小説でもうひとり重要な人物として登場するのが、マンツォーニ/ブレイク一家を監視護衛する任務を合衆国から命じられたFBIチームのチーフ、トム・クィンティリアーニである。名前が示すようにイタリア移民系である。クィンティリアーニの指揮下で一家を24時間監視している二人の部下も共にイタリア移民系である。フレデリックの妻のマギー(改名前の本名はリヴィア。つまり彼女もイタリア移民系)が、監視の二人に時々差し入れに持っていく料理がすべて(ふるさとの味)イタリア料理で、ベネクイスタのこういうディテールが本当に心憎い。
 映画クラブでの一件のような、フレデリックの(命取りになりかねない)さまざまな踏み外しとご法度破りに神経をビリビリさせながら、クィンティリアーニは密着監視を続けれるのであるが、アメリカの権力を行使する立場にある彼が、時が経つにつれてマフィア流儀の兄弟仁義のような友情をフレデリックと築き上げていく、という重要な流れもある。
 フレデリックだけでなくブレイク一家全員の様々な踏み外し/ご法度破りのエピソードがこの小説を盛り上げている。いかにもフランス的な(われわれ在住者にはおなじみの)何も仕事しないのに出張費だけを請求する鉛管工事業者を折檻したり、ピーナツバターがどこに置いてあるのかと聞いただけでアメリカ人を侮蔑するスーパーマーケットを一部破壊してしまったり、といったちょっと乱暴な「世直し天誅」をしてしまうのである。その最大のハイライトが、ショロンの町はずれにある某多国籍化学農薬会社の工場に対する攻撃であり、この工場廃液のために地域一帯の水道が汚染されているのを知りながら何もできないでいる住民や役所に代わって、フレデリックが立ち上がるのだが、真っ当な手続きを踏んで公害汚染を追及して挫折の苦渋を味わった彼はマンツォーニとしての本性を剥き出しにして、アメリカからダイナマイト火薬のスペシャリストである自分の徒弟を呼び寄せて、最高に派手な工場大爆破作戦を敢行してしまう。
 マフィア小説であるから、クライマックスには「ドンパチ」が用意されている。マンツォーニ一家の所在をつかんだマフィアは、精鋭の殺し屋10人をショロンに送り込んでくる。イタリア系6人、アイルランド系2人、プエルトリコ系2人、この殺しのスペシャリストたちの詳細がまだ素晴らしい。時は6月21日。ショロンの町はサン・ジャン祭りで大変なにぎわい。移動遊園地やら出店やら野外ダンスパーティーやら、それはそれは絵に描いたようなディープ・フランスの平和な夏祭り。そのど真ん中に重武装のギャング10人が降り立ったのだからたまらない。この狙撃のヘヴィーマシーン10人に敢然と立ち向かうマンツォーニとクィンティリーニの二人...。

 これは超一級のエンターテインメント小説であり、フランスではこの種類の「アメリカ乗り」シネラマスコープ3D映画風な文学はこれまで書かれたことがない、と評されている。フランスの伝統ではない。イタリア系だから当たり前だということを言いたいわけではない。商業的な成功という色目を外して評すれば、これはリュック・ベッソン映画の登場の時と同じくらいの衝撃があるものなのかもしれない。さらに映画ということで言えば、クエンティン・タランティーノはベナクイスタの作品を絶対に放っておかないような気がする。
 Malavitaマラヴィータはイタリア語で「悪い生」バッド・ライフであり、シチリア島系出身者たちの訛りによって、この言葉は「マフィア」と変化した。この小説で「マラヴィータ」はまどろんだ目をした灰色のオーストラリア産ブーヴィエ犬であり、いつも家の隅で寝てばかりいるこの犬をなぜ小説のタイトルにしたか、というわけは小説の最後で明かされる。すべてのディテールがものを言う、破格の面白さを持った小説である。イタリア系アーチストの女王、マドンナことルイーズ・チコーネは80年代に"ITALIANS DO IT BETTER"と書いたTシャツで誇らしげに胸を突き出していた。確かにその通りだろう。

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<<< 2020年6月追記 >>> 
★ 2006年に文藝春秋社から『隣りのマフィア』という邦題で日本語訳出ました。
著者名は「トニーノ・ブナキスタ」だそうです。

★ 2013年リュック・ベッソン監督が映画化(主演:ロバート・デ・ニーロ、ミッシェル・ファイファー、トミー・リー・ジョーンズ)、フランス公開同年10月。(↓その予告編)