ミッシェル・ウーエルベック『服従』
Michel Houellebecq "Soumission"
2015年1月7日、奇しくもテロリストたちによるシャルリー・エブド襲撃事件が起こった日に発売された小説です。その日のシャルリー・エブドの表紙はリューズによるウーエルベックの風刺画(→)で「占師ウーエルベックの予言:2015年に俺は歯を失い、2022年に俺はラマダンを始める」と吹き出しに書かれています。
この事件前でもこの小説の発売1ヶ月前ほどから、既にプレスはこの小説を喧しく騒ぎ立てていました。このフィクションは2022年にフランスにイスラム政権誕生という筋で書かれているからです。2001年に「イスラムは最も愚かな宗教 (la religion la plus con, c'est quand même l'islam)」(Lire誌 2001年9月号のインタヴュー)と発言していた男が、今や来るべきイスラムの政権奪取を語り、自ら(主人公フランソワ)のイスラム改宗の可能性まで語っているのです。そりゃあ騒ぎますわね。小説は発売4日にして15万部を売ったという記事が出ました。すごい勢いのベストセラーです。しかし、いいですか、お立ち会い、ウーエルベックですからね、それ(近未来政治フクション)だけであるはずないじゃないですか。風聞に惑わされず、きちんと全部が読まれるべき作品です。結論から先に言いましょう。これは一級のエンターテインメント本です。シナリオもさることながら、ウーエルベック一流の細部の凝り方で、雑学的知的刺激に富んでいて、読んだあとものすごく物知りになった気分になります。この点でまずシャポーです。
さてこの小説の舞台は大学です。巻末の謝辞のところでウーエルベックは大学で研究をしたことなどないということ、この大学という機関に関する情報はすべてパリ第10大学(ナンテール校)の女性講師から得た、と記されています。全く知らない世界をよくもここまで。場所はフランス文学研究の最高峰パリ・ソルボンヌです。そこには学長、学部長のような言わば会社的なハイアラーキーがあり、この小説の話者であるフランソワは19世紀文学専門の講師として決められた時間に講義をしたり、博士コースの学生たちに論文指導したり...。フランソワは40代半ば、独身、女子学生たちとつきあうことはするが、特定の恋人と長続きすることはありませんでした。その中で例外的だったミリアムという名の22歳の娘とも、ほとんど恋愛と言えるレベル(加えてその性的興奮度+満足度の高さ)なのに、彼女とも破局しかけています。おそらくこれが最後かもしれない、という漠然としたペシミズムが最初から漂っています。
同僚にスティーヴという一般企業社員のような、才能も知識もないのに講師業の世渡りだけがうまい男がいますが、それに引き替えフランソワは研究者としては極めて有能で、学会誌の論文の評価も非常に高く、大学上層部や学会からも一目置かれています。このフランソワが十数年研究して、そのエキスパートとなっている対象が、ジョリス=カルル・ユイスマンス (1848-1907)という19世紀の作家です。日本ではとりわけ澁澤龍彦訳の『さかしま』によって知られている世紀末退廃文学のチャンピオンみたいな人です。ユイスマンスは公務員をしながら、自然主義の文豪エミール・ゾラの影響で社会悪をするどく追求していく社会派小説に始まり、この現世に嫌気がさして厭世的で耽美的な方向に向かい、審美的で官能的で退廃的な人口楽園を創造していくわけですが、オカルト、悪魔主義なども交わり、いよいよデカダンスの極みか、と思いきや、晩年はカトリックに改宗して、神をよりどころとする神秘主義作品を発表するようになります。この退廃文学者の変遷をフランソワは研究しているわけですが、その結論を急ぐと、最後になぜ「神」に近づいてしまうのか、という問いがこの小説に書かれていることすべての行き先なのです。
この点から見ると、この小説の4分の1ほどは、「私=フランソワ」の口を借りながらのウーエルベックによるユイスマンス評伝/ユイスマンス論になっています。『さかしま』『彼方』 『出発』などのユイスマンス作品論にもなっているわけですが、この時、読者はこれらの作品を読んでいないとついていけないのか、ということはありません。要は退廃の人がおしまいに神を選ぶという謎に迫ることなのです。
このフランソワはずっとアテ(無神論者)だった。アテというよりはキリスト教もイスラム教も興味がなかったということです。それは自分の両親への不信にも原因していて、大企業の重役として成功した父、それとうまく行っていなかった母、その二人と何年も交信を断っている一人息子。家庭/家族の幻想もリアリティーもないわけです。だから女性と恋仲になっても家庭や子供という発想がない。その中で最後の恋人であったミリアムだけは少し違っていたのに、それも終ろうとしていた。
それを決定的に終らせたのは2022年の政治的事件でした。この事件を読み解くには少しはフランスの政治事情に明るくないといけません。小説に書かれていないことで説明しますと、2012年に硬派保守のニコラ・サルコジを破って当選した社会党フランソワ・オランド大統領は、景気回復策も失業削減策も失敗して最低の支持率でありながらも、極右FNの大躍進を限界のところで抑えています。この小説の展開では2017年の大統領選挙もオランド(二期目)が当選していて、マニュエル・ヴァルス(2015年現在の首相、社会党)は2022年の政変までずっと首相なのです。ところが、2012年以来ずっと有効策のないオランド政権の信頼は地に落ち、また既成保守政党であるUMP党(この小説では2014年にビッグマリオン疑惑で党首を退いたジャン=フランソワ・コペが復活している)も票田を極右FNに奪われ弱体化しています。つまり第五共和制の政権を代わる代わる担ってきた社会党とドゴール派保守党(政党の名前はいろいろ変遷してきましたがこの時点ではUMP党)はもう勝ち目がないほどに衰退している(得票率で第三位、第四位)。その首位はマリーヌ・ル・ペンを党首とするFN。その政策方針はEU離脱、フランス国境の再確立、移民受け入れの停止、フランスオリジンのフランス人の優先、非キリスト教宗教の制限などです。これに対して(ここからがウーエルベックの近未来フィクションです)2017年以降に急激に支持率を増やし、国会議席第二党にまで伸張してきたのが、イスラム穏健派政党であるイスラム友愛党(fraternité musulmane フラテルニテ・ミュジュルマン)です。その党首モアメド・ベン・アベスは、2022年5月の大統領選挙の第一回投票で、1位のマリーヌ・ル・ペンに大きく水を離されながらも、僅少差で社会党マニュエル・ヴァルスを抜いて第2位得票者として、決戦第二回投票に進出します。
小説はこの2022年5月の大異変をクロノロジカルに描写します。まず若い恋人ミリアムですが、ユダヤ人である彼女は、この選挙がFNかイスラム政党かという二者で決定される ということにどちらに転ぼうがフランスは自分たちの住める場所ではなくなる、と悟っています。ミリアムの家族は既にイスラエルの移住を決めてしまいました。宗教にも家族という概念にも縁の遠いフランソワは、この別離の深いところの理由が理解しきれないのです。理不尽に悲しい別れなのです。
大統領選一次投票で脱落した既成左派政党である社会党は、極右FN政権誕生を妨げるためにイスラム友愛党候補ベン・アベスの支持を決め、当選後のイスラム友愛党政府に社会党大臣を入れるための交渉を水面下で始めます。一方の脱落政党である既成保守のUMP党は、公式にはどちらの候補に投票せよとの勧告を出さないものの、右寄りゆえに多くの支持者の票がFNに流れるはず。ここでFNマリーヌ・ル・ペン候補と、モアメド・ベン・アベス候補の予想得票率は50/50になります。
次に大学です。第二回投票前に、大学上層部は来るべき変化を見越していて、イスラム政党政権下にイスラム化される大学の人事がもう始まっています。フランソワは同僚から、何が起こるかわからないから、とりあえず自分の銀行口座をフランスの銀行から外国系の銀行に移しておけ、と進言されます。この何が起こるかわからない、という不気味な恐怖の描写がすばらしいです。1981年のミッテラン(初の社会党選出大統領)の選挙の時、当選したらソ連の戦車隊がシャンゼリゼ大通りに攻めて来るという噂が本当にありました。そしてフランソワは、第二次投票の当日、目に見えぬ脅威に背を押されるように、フォルクスワーゲン・トゥアレグ(2022年型ということでしょうねぇ)で高速道路を飛ばして、南西フランスに向かうのです。ガラガラの高速道路、カーラジオからすべてのラジオ放送の電波が消えてしまい、何者かに襲撃されて死体がゴロゴロ転がるガソリンスタンド....。 一体今フランスで何が起こっているのか...。ここのパッセージ、素晴らしい。ウーエルベックの本領発揮という感じです。
事態は翌日になってラジオとテレビの電波が戻ってきた時にフランソワにもわかります。第二次投票は、ある投票所がテロ襲撃に遭い、投票不能となったため、この日の選挙は無効になります(共和国の選挙法で決まっているのだそうです。全国で1カ所でも投票が不能になった場合、選挙は無効)。フランソワはこのテロ襲撃が多分1カ所だけではなかったはず、という推理を立てます。政府はそのパニックを最小限にとどめるために故意に電波障害を起こしたのだ、と。再投票は翌週に持ち越されました。しかしこのテロ襲撃はどこが仕掛けたのかは明らかにされないものの、選挙民の「極」(この場合極右でしょうけど)への懸念の感覚を増幅させ、「穏健」(この場合イスラム穏健派でしょうけど)におおいに有利な状況を作り出すのです。かくして、再投票の結果、モアメド・ベン・アベスはマリーヌ・ル・ペンに十分な差をつけて新大統領に就任するのです。
新政府は中道派の老政治家フランソワ・バイルー(MoDem党党首)を首相に指名しますが、これはウーエルベック一流のブラック・ユーモアで、右についたり左についたりを繰り返してきた焦点のはっきりしない小政党の主らしい信頼度の薄さが、逆にベン・アベス大統領の有能さを際立たせるという仕組み。共和主義諸政党の連立政権のように、内閣の要職は「経験の厚い」社会党大臣に任せることにしながらも、イスラム友愛党は教育省だけは独占的に自党だけで機能させます。ライシテ(非宗教化)を原則とする公立学校は大幅に予算を削られ、宗教系私立学校が教育の中心となり、産油国から巨額の運営費を寄付されたイスラム学校が全国の教育機関を牛耳るようになります。男女共学はなくなり、女子は中学を卒業後、高等教育への道を閉ざされてしまいます。
パリ・ソルボンヌ大学も、国立大学から私立パリ・イスラム・ソルボンヌ大学と改称され、サウジ・アラビアからの資金注入で超デラックスな学問の殿堂になります。しかしここで教授職をするためにはイスラム教に改宗しなければなりません。上に名前を出したスティーヴのような同僚はほいほい簡単に改宗してしまうのですが、フランソワは退職の道を選びます。そこで知るのは、自分は40代で講師職で退職するのに、60代で教授職満期まで働いたことに相当する十分な年金額が保証されているということ。さらにスティーヴのように改宗して職を続ける者にはそれまでの十倍の月給が出るということ。ペトロダラー大枚はたくことによって学術的な威光をイスラム化しようとしていたのです。
小説の後半は、退職したフランソワが、ジョリス=カルル・ユイスマンスをプレイヤード叢書版に編纂する仕事を引き受け、自分の一生の(ユイスマンスに関する)仕事がすべてそこに集約されると言ってもいい大仕事を始めます。プレイヤード版というのは、文学叢書の権威中の権威であり、古典として揺るがぬ評価のある作家の作品を収めるだけでなく、その作家のエキスパート中のエキスパートが作品の註、解説、関連資料などを添えて、その作品の理解を定本化する、という豪華本です。フランソワはそこに、ユイスマンスの作品と生涯を評伝する「序文」を書くのです。その骨子は、ずっと上に書いたように、なぜ退廃の天才は最後に「神」の救済を求めたか、ということなのです。フランソワはそれを探しに、ユイスマンスが過ごした修道院や、フランスで発禁になったであろうユイスマンスの著作を出版したベルギー/ブリュッセルまで足を伸ばします。
その間に世の中は変わっていき、モアメド・ベン・アベスの政策は経済的にも成功し、人々の信頼は増し、やがて国際的にもイスラム穏健主義は支持率を高め、イタリアに同様の政府が誕生し、トルコ、モロッコ、チュニジアなどをヨーロッパ連合に加盟させ、ヨーロッパの中心点が南に移動したような形で、ひとつの巨大な文化圏を作っていきます。 このベン・アベスの隆盛を、ローマ帝国のアウグストゥス皇帝の偉業に匹敵すると称賛しているのが新ソルボンヌ・イスラム大学の学長(のちに大臣)であるロベール・ルディジェです。小説の後半部は、このルディジェとフランソワのやりとりが重要な軸です。ルディジェは若い頃に極右に近いムーヴァンス・イダンティテール(Mouvance Identitaire。うまい訳語見つかりません。白人ヨーロッパ主義、西欧原住民主義、ヨーロッパ右翼革命運動みたいなものだと思っています)に属していましたが、滅亡を止められない西欧文明に絶望してイスラム者となっています。ルディジェはベン・アベスのリーダーシップを称賛し、その政府の学術部門の政策指揮を取る重要人物になりました。彼はフランソワの才能を高く評価しているので、なんとかフランソワにソルボンヌに帰ってきてほしいと誘っているのです。このイスラムの誘惑の最重要ポイントが「重婚」なのです。
何人も妻をめとることができるということだけではないのです。その妻たちは夫に絶対的に「服従」(この小説の題です)するものなのです。"Soumission"は「隷属」と訳すこともできます。男たちは「神」に服従し、女たちは男に服従する。この場合、男は恋愛によって女をめとるのではなく、イスラムの結婚世話エキスパートが妻を見つけてくれるのです。フランソワの同僚の(改宗)教授たちは、こうして複数の妻たちを見つけてもらって、大学に復職するようになっている。「神」への服従の見返りに、男たちは自分に服従する女たちを手に入れる...。この辺りはどうでしょうねぇ?フィクションだからということで言い逃れできるのでしょうか? イスラムの女性たちは言ってきますよ。
フランソワの老いた父親は、アルプスの豪華シャレーで若い恋人と趣味(狩猟)と享楽のうちに死にました。ユイスマンスは神に近づきながらも、現世の享楽を秘密娼家の中に取っておきました。フランソワの世は、目に見えて変わっていき、街行く女性たちからミニスカートが消え、肌の露出が見えなくなり...。
フランソワはプレイヤード叢書版「ユイスマンス」の序文を遂に書き上げ、これで自分のやり残したことはない、と悟ります。この先どうするのか? フランソワは「神への服従」の誘惑に負けて、改宗してしまうのでしょうか.... ?
盛り沢山の小説です。ユイスマンスや19世紀フランス文学に親しい人たちは、たくさんの知的刺激を受けるでしょう。近未来小説としてのヴィジョンは、エンターテインメントとして本当に楽しいものでしょう。私はウーエルベックのイスラム観ということに関しては何も言わないことにしますが、ものを言う人たちはたくさん出てくるでしょう。一種、泥沼に大きな岩石を投げ込むのも文学ですから。文句ある人は断片だけでなく、全部読んでくださいよ、と言っておきます。
カストール爺の採点:★★★☆☆
Michel Houellebecq "Soumission"
フラマリオン刊 2015年1月 300ページ 21ユーロ
(↓2015年1月6日、フランス国営テレビ FRANCE 2 の20時ニュースに出演したウーエルベック)
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