”Black Tea"
『ブラック・ティー』
2023年フランス+ルクセンブルク+台湾合作映画
監督:アブデラマン・シサコ
主演:ニーナ・メロ、張翰(チャン・ハン)、吳可熙(ウー・ケイ・シ)
フランス公開:2024年2月28日
セザール賞7部門(作品賞、監督賞、シナリオ賞....)を総なめにした『ティンブクトゥ』(2014年)のモーリタニア人監督アブデラマン・シサコによる10年後の新作で、舞台は中国である。設定では広東省広州市だったのだが、中国から撮影許可がもらえず、撮影は台湾で行われていて、俳優陣も台湾で固められている。まず予備知識として知っていただきたいこととして、広州市には「チョコレート・シティー」と呼ばれるアフリカからの移民が多く住む地区があり、そのアフリカ系住民の数は数十万人と言われている。
映画は西アフリカ、コートジボワール某所で行われている結婚セレモニーから始まる。りっぱな会場で列席者も多く、その列席者たちは(暑い中それぞれ携帯扇風機で涼をとりながら)みな西洋風に正装で着飾り、それなりのステイタスを感じさせる(私の偏見か?)。白のタキシード姿の新郎と白のウェディングドレスの新婦は、この席に至ってもいがみ合っている。不本意な結婚、不実な男。(ここで大上段に”アフリカにおける女性の立場”を誇張しているわけでは決してない)。式のクライマックス、司祭が「なんじ、この女を...」と男に問うと、男は「ウイ!」と勝ち誇ったように答える。そして「なんじ、この男を...」と女に問うと、なんたることか女は「ノン! 」と答え、そのまま式場から駆け出して逃げて行く。ウェデングドレスのまま、女の自由への逃走が始まる。ここで映画は、誇り高く町を駆け抜けていく女のバックに(マリの行動的歌姫)ファトゥーマタ・ジャワラの歌声で「フィーリング・グッド」(ニーナ・シモン曲カバー)をかぶせるのである。
その女アイヤ(演ニーナ・メロ、コートジボワール女性の役だがニーナ・メロはフランスの女優)の行き着いた先が、中国広東省広州市のアフリカ人居住区通称チョコレート・シティなのである。映画はここからほぼ全編中国語(マンダリン語か広東語か私には判別できないが)で展開する。唐突にここで描かれる世界に入ると、多くの観る者は驚くと思う。中国の大都市の中にアフリカ人コミュニティーが非常に調和的に溶け込んでいる(ように描かれる)。アフリカ人たちはその美容サロンや装身具店があり、女性たちはエレガントにヘアーを決め、エレガントに着飾っていて、店の中には中国人客も普通に出入りしている。「ゲットー」というイメージは微塵もない。
アイヤは完璧な中国語(とフランス語と英語)を話し、この中国社会の中に深く入っていく。大きな茶園を所有する中国茶商に雇われ、その主人チャイ(演チャン・ハン)の教育で奥深い中国茶の真髄を知っていく。映画はこの茶の育て方、扱い方、淹れ方、味わい方などにも焦点をあてるのだが、それはチャイがアイヤに(触れ合いながら)手ほどきで伝授するものであり、茶が官能の触媒のように描かれている。かくして茶のマジックがとりもったのか、二人は恋に落ちる。この映画で二人の間に愛の言葉はない。身分ある中年男と教養あるアラサー女性の寡黙な恋物語であり、激情はなく音静かにひかえめに、ひかえめに。
これがなぜひかえめなのか、というと、このリッチな茶商主人は別居中だが離婚していない妻があり、その妻が離れて行った理由には、チャイの過去の別の女性関係があり、といったことが映画の進行で徐々にわかってくる。寡黙で影のさした面影のある美男の中国人チャイは、その現在(妻子ある家主)とその過去(外国 = カボ・ヴェルデでの女性関係+その結果20歳になる隠し娘あり)ゆえに、おおっぴらにアイヤと恋愛できるポジションにはない。それをアイヤが解放してやるというシナリオを観る者は期待してしまうのだが、アイヤもまた過去において不義の男を捨ててきたという消えないわだかまりもあり...。
(アブデラマン・シサコがフランス国営ラジオFrance Interのインタヴューの中で、この映画の撮影を中国が許可しなかった理由のひとつは、このチャイという男性主役の人間的キャラクターが中国的ではない、ということだった、と証言している)
ここでチャイの妻のイン(演ウー・ケイ・シ)の微妙な立ち位置というのがあり、夫との冷めた関係はあれど、十代の息子リベン(演マイケル・チャン)は夫と自分を愛していて、この三人親子のバランスを保っていたいと願っているが...。1920年代の一夫多妻富豪を背景とした中国映画『紅夢』(チャン・イーモウ監督、1991年、ヴェネツィア映画祭銀獅子賞)をリファレンスにしているのか、映画の終盤、正妻インと”愛人”アイヤの間に和解と友情の芽生えのような関係をつくっている。← これがこの映画の救済と捉えるべきかな?
映画はチャイがカボ・ヴェルデに置き去りにして一度も再会していない(当時の愛人との)娘エヴァが20歳になったことを祝ってやりたくて、茶器を手土産にしてひとりカボ・ヴェルデに会いに行くというエピソードを挿入する。夢にまで見た娘との再会・・・だがそれは文字通りチャイが見た夢、という話で終わるのだった。こうしてこの映画の第三のロケ地、カボ・ヴェルデが登場し、しっかりチャイが現地でポルトガル語で人としゃべっている。そして挿入曲としてカボ・ヴェルデの哀歌モルナ、マイラ・アンドレーデの「レガス(Regasu)」が流れてくるのですよ。うっとりですね。
前作『ティンブクトゥ』でも音楽(この場合は砂漠のブルース)がたいへん重要なエレメントであったけれど、今作も音楽の使い方はすばらしい。テレサ・テン(1953-1995)の「莫忘今宵 」も挿入されている。それからチャイの息子リ・ベンとその若い仲間たちが、チョコレート・シティーのダンススタジオで、RDCコンゴのイノスB (Innoss'B)の「オランディ(Olandi)」(2020年コロナ禍期の世界的ダンスヒット)をアフリカ系も中国人もごっちゃになって踊るシーンは、感動的としか。
この「オランディ」のシーンが象徴するように、この映画でチョコレート・シティーでのアフリカ系移民と中国人住民との共存関係はきわめて調和的友好的に描かれている。アフリカ系移民たちがこの地に同化して(中国語でコミュニケートして)自分たちの快適な居場所を得ている、という描き方は、やっぱり相当バイアスがかかっているのではないか、と訝しげに見てしまう私である。映画の中で、唯一露骨なレイシズムが見られるのは、チャイの家を訪れた義理の両親(妻インの両親)の父親の方が食事の席でアフリカ移民排斥論をぶちまけるシーンがある。寝室に隠れていた愛人アイヤにそれは全部聞こえてしまいアイヤは胸を痛める。だが映画上、これはさほど重要な問題ではない。
国家や政治のレベルではなく、民衆のレベルとしてアフリカと中国の出会いは調和的友好的であってほしい。現実はそうではないと知りつつも、この映画の捉え方はひとつのオピニオンであろう。
ひとりのアフリカ女性アイヤはこの地で出会った文化によって開花していく契機を掴んでいる。恋愛はポジティヴであり、ネガティヴであるわけがない。そして(チャイも含めて)身勝手な男たちに道を閉ざされるわけにはいかない未来がある。
最後に、西欧人やわれわれが勝手に思い込んでいる”アフリカ移民”の偏見イメージである「貧困・悲惨から逃れて先進大国へ」は、この映画には全くない。私が日本からフランスに移住したように、「遠くに行きたい」「新しいものに出会いたい」「違うことをしたい」という理由で外国に移住することは、日本人や欧米人には出来ても、アフリカ人には出来ないと思っているフシはないですか? この映画で描かれるチョコレート・シティーのアフリカ移民たちはそうではない。だから文化と出会える。滞在したければ/仕事が欲しければこの国のやり方に100%従い、同化して、B級市民となることもやむなし、という卑屈さがない。ここがダメならばよそへ行けばいいという選択肢がある。アフリカ人だからそれができない、ということは絶対ない。そのことをこの映画ははっきりと示していると見た。
だが、恋愛映画としてはどうなんだろうか。アイヤの行く先はまだあれど、この恋愛に行先はないように見える。そこがもやもやしてしまうのだ。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『ブラック・ティー』予告編
監督:アブデラマン・シサコ
主演:ニーナ・メロ、張翰(チャン・ハン)、吳可熙(ウー・ケイ・シ)
フランス公開:2024年2月28日
セザール賞7部門(作品賞、監督賞、シナリオ賞....)を総なめにした『ティンブクトゥ』(2014年)のモーリタニア人監督アブデラマン・シサコによる10年後の新作で、舞台は中国である。設定では広東省広州市だったのだが、中国から撮影許可がもらえず、撮影は台湾で行われていて、俳優陣も台湾で固められている。まず予備知識として知っていただきたいこととして、広州市には「チョコレート・シティー」と呼ばれるアフリカからの移民が多く住む地区があり、そのアフリカ系住民の数は数十万人と言われている。
映画は西アフリカ、コートジボワール某所で行われている結婚セレモニーから始まる。りっぱな会場で列席者も多く、その列席者たちは(暑い中それぞれ携帯扇風機で涼をとりながら)みな西洋風に正装で着飾り、それなりのステイタスを感じさせる(私の偏見か?)。白のタキシード姿の新郎と白のウェディングドレスの新婦は、この席に至ってもいがみ合っている。不本意な結婚、不実な男。(ここで大上段に”アフリカにおける女性の立場”を誇張しているわけでは決してない)。式のクライマックス、司祭が「なんじ、この女を...」と男に問うと、男は「ウイ!」と勝ち誇ったように答える。そして「なんじ、この男を...」と女に問うと、なんたることか女は「ノン! 」と答え、そのまま式場から駆け出して逃げて行く。ウェデングドレスのまま、女の自由への逃走が始まる。ここで映画は、誇り高く町を駆け抜けていく女のバックに(マリの行動的歌姫)ファトゥーマタ・ジャワラの歌声で「フィーリング・グッド」(ニーナ・シモン曲カバー)をかぶせるのである。
It's a new dawn it's a new day it's a new life for meわおっ、これはマニフェスト的。女の旅立ちに幸あれ。
And I'm feeling good
その女アイヤ(演ニーナ・メロ、コートジボワール女性の役だがニーナ・メロはフランスの女優)の行き着いた先が、中国広東省広州市のアフリカ人居住区通称チョコレート・シティなのである。映画はここからほぼ全編中国語(マンダリン語か広東語か私には判別できないが)で展開する。唐突にここで描かれる世界に入ると、多くの観る者は驚くと思う。中国の大都市の中にアフリカ人コミュニティーが非常に調和的に溶け込んでいる(ように描かれる)。アフリカ人たちはその美容サロンや装身具店があり、女性たちはエレガントにヘアーを決め、エレガントに着飾っていて、店の中には中国人客も普通に出入りしている。「ゲットー」というイメージは微塵もない。
アイヤは完璧な中国語(とフランス語と英語)を話し、この中国社会の中に深く入っていく。大きな茶園を所有する中国茶商に雇われ、その主人チャイ(演チャン・ハン)の教育で奥深い中国茶の真髄を知っていく。映画はこの茶の育て方、扱い方、淹れ方、味わい方などにも焦点をあてるのだが、それはチャイがアイヤに(触れ合いながら)手ほどきで伝授するものであり、茶が官能の触媒のように描かれている。かくして茶のマジックがとりもったのか、二人は恋に落ちる。この映画で二人の間に愛の言葉はない。身分ある中年男と教養あるアラサー女性の寡黙な恋物語であり、激情はなく音静かにひかえめに、ひかえめに。
これがなぜひかえめなのか、というと、このリッチな茶商主人は別居中だが離婚していない妻があり、その妻が離れて行った理由には、チャイの過去の別の女性関係があり、といったことが映画の進行で徐々にわかってくる。寡黙で影のさした面影のある美男の中国人チャイは、その現在(妻子ある家主)とその過去(外国 = カボ・ヴェルデでの女性関係+その結果20歳になる隠し娘あり)ゆえに、おおっぴらにアイヤと恋愛できるポジションにはない。それをアイヤが解放してやるというシナリオを観る者は期待してしまうのだが、アイヤもまた過去において不義の男を捨ててきたという消えないわだかまりもあり...。
(アブデラマン・シサコがフランス国営ラジオFrance Interのインタヴューの中で、この映画の撮影を中国が許可しなかった理由のひとつは、このチャイという男性主役の人間的キャラクターが中国的ではない、ということだった、と証言している)
ここでチャイの妻のイン(演ウー・ケイ・シ)の微妙な立ち位置というのがあり、夫との冷めた関係はあれど、十代の息子リベン(演マイケル・チャン)は夫と自分を愛していて、この三人親子のバランスを保っていたいと願っているが...。1920年代の一夫多妻富豪を背景とした中国映画『紅夢』(チャン・イーモウ監督、1991年、ヴェネツィア映画祭銀獅子賞)をリファレンスにしているのか、映画の終盤、正妻インと”愛人”アイヤの間に和解と友情の芽生えのような関係をつくっている。← これがこの映画の救済と捉えるべきかな?
映画はチャイがカボ・ヴェルデに置き去りにして一度も再会していない(当時の愛人との)娘エヴァが20歳になったことを祝ってやりたくて、茶器を手土産にしてひとりカボ・ヴェルデに会いに行くというエピソードを挿入する。夢にまで見た娘との再会・・・だがそれは文字通りチャイが見た夢、という話で終わるのだった。こうしてこの映画の第三のロケ地、カボ・ヴェルデが登場し、しっかりチャイが現地でポルトガル語で人としゃべっている。そして挿入曲としてカボ・ヴェルデの哀歌モルナ、マイラ・アンドレーデの「レガス(Regasu)」が流れてくるのですよ。うっとりですね。
前作『ティンブクトゥ』でも音楽(この場合は砂漠のブルース)がたいへん重要なエレメントであったけれど、今作も音楽の使い方はすばらしい。テレサ・テン(1953-1995)の「莫忘今宵 」も挿入されている。それからチャイの息子リ・ベンとその若い仲間たちが、チョコレート・シティーのダンススタジオで、RDCコンゴのイノスB (Innoss'B)の「オランディ(Olandi)」(2020年コロナ禍期の世界的ダンスヒット)をアフリカ系も中国人もごっちゃになって踊るシーンは、感動的としか。
この「オランディ」のシーンが象徴するように、この映画でチョコレート・シティーでのアフリカ系移民と中国人住民との共存関係はきわめて調和的友好的に描かれている。アフリカ系移民たちがこの地に同化して(中国語でコミュニケートして)自分たちの快適な居場所を得ている、という描き方は、やっぱり相当バイアスがかかっているのではないか、と訝しげに見てしまう私である。映画の中で、唯一露骨なレイシズムが見られるのは、チャイの家を訪れた義理の両親(妻インの両親)の父親の方が食事の席でアフリカ移民排斥論をぶちまけるシーンがある。寝室に隠れていた愛人アイヤにそれは全部聞こえてしまいアイヤは胸を痛める。だが映画上、これはさほど重要な問題ではない。
国家や政治のレベルではなく、民衆のレベルとしてアフリカと中国の出会いは調和的友好的であってほしい。現実はそうではないと知りつつも、この映画の捉え方はひとつのオピニオンであろう。
ひとりのアフリカ女性アイヤはこの地で出会った文化によって開花していく契機を掴んでいる。恋愛はポジティヴであり、ネガティヴであるわけがない。そして(チャイも含めて)身勝手な男たちに道を閉ざされるわけにはいかない未来がある。
最後に、西欧人やわれわれが勝手に思い込んでいる”アフリカ移民”の偏見イメージである「貧困・悲惨から逃れて先進大国へ」は、この映画には全くない。私が日本からフランスに移住したように、「遠くに行きたい」「新しいものに出会いたい」「違うことをしたい」という理由で外国に移住することは、日本人や欧米人には出来ても、アフリカ人には出来ないと思っているフシはないですか? この映画で描かれるチョコレート・シティーのアフリカ移民たちはそうではない。だから文化と出会える。滞在したければ/仕事が欲しければこの国のやり方に100%従い、同化して、B級市民となることもやむなし、という卑屈さがない。ここがダメならばよそへ行けばいいという選択肢がある。アフリカ人だからそれができない、ということは絶対ない。そのことをこの映画ははっきりと示していると見た。
だが、恋愛映画としてはどうなんだろうか。アイヤの行く先はまだあれど、この恋愛に行先はないように見える。そこがもやもやしてしまうのだ。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『ブラック・ティー』予告編
(↓)ファトゥーマタ・ジャワラ「フィーリング・グッド」(ニーナ・シモン)が流れるシーン
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