2024年2月27日火曜日

善悪宇宙帝国ウォーズ in パ・ド・カレー

"L'Empire"
『帝国』

2023年フランス映画
監督:ブルーノ・デュモン
主演:ブランダン・ヴリエーグ、ファブリス・ルキーニ、カミーユ・コタン、アナマリア・ヴァルトロメイ、リナ・クードリ
フランス公開:2024年2月21日

2024年ベルリン映画祭・銀熊賞(審査員賞)


またのブロックバスター映画は善と悪との戦いで善が勝利するものと決まっている。大衆娯楽性はその逆は絶対に求めていない。そういう世界では悪が破れ、ハッピーエンドが待っているのだが、映画館を出ると目の前はそういうわけではない。ブロックバスターの嘘はみんな知っているのだが、それが人々を惹きつけるのは善の勝利という要素よりも、戦いに勝つ快感ではないか。勝つ戦争が好きなのだね。ひいては戦争が好きなのかもしれない。
 ブルーノ・デュモンの最新長編映画(13作め)は”スター・ウォーズもどき”である。北フランス、パ・ド・カレー県、オパール海岸(Côte d'Opaleご)の砂丘と漁村住宅街を舞台としていて、この北フランスの一帯の砂丘はブルーノ・デュモン映画のほとんどに背景として登場するが、デュモンの映画で映されるとなんとも言えず美しい。こういう局地的と言うべき地球の片隅で、善 vs 悪の宇宙戦争が展開されるのである。日本のテレビ特撮シリーズ(スーパー戦隊もの)をも想わせるスケールの小ささもあるが、CG大仕掛けを使った擬似ブロックバスターこけおどしもある。"女王 La Reine"と呼ばれる善の宇宙帝国の元首(演カミーユ・コタン) が居城としているのがゴティック・フランボワイヤン様式の大伽藍(の宇宙船)で、悪の宇宙帝国の皇帝であるベルゼビュート(演ファブリス・ルキーニ)が住む宇宙宮殿がヴェルサイユのかたちをしているというのも、スペースオペラのわかりやすい”フランス化”のようで微笑ましい。
 このオパール海岸の小さな町が両帝国の地球侵略の最前線であり、両陣営が人間の形をした(たぶん帝国人と人間のミュータント)実行部隊を送り込んでいて、善の女王側にはジェーン(演アナマリア・ヴァルトロメイ、ほぼララ・クロフトのパロディー)とその部下のリュディ(演ジュリアン・マニエ←ノンプロ俳優、ほぼ’猿の惑星’あるいはチューバッカのパロディー)、悪のベルゼビュート側にはジョニー(演ブランドン・ヴリエーグ←ノンプロ俳優、人間生活での職業は半農業/半漁業の労働者)と映画の冒頭でジョニーの念力で部下にさせられたリン(演リナ・クードリ、私の大好きな女優なのだがこの映画では目立った役ではない)。
 悪の地上隊長ジョニーにはフレディーという名の赤ん坊がいるが、その子が悪の帝国から次代の悪神の使者と名指され、この子によって地球は悪が支配する星になるはずだった。地上での両陣営の衝突はこの子の争奪戦であり、ジェーンとリュディはジョニーのもとから赤ん坊を誘拐する。ジェーンとリュディの武器がスターウォーズゆずりのライトセーバーであることもこの映画の”本気”を窺わせる。善の兵士たるジェーンとリュディのやり方は善とは名ばかりのかなり手荒なやり方で、フレディーの母(ジョニーの妻ということになるのかな?定かではない)がフレディーをベビーシートに乗せて運転する車に横転事故を起こさせ、その女をライトセーバーで斬首したり...。この猿の惑星型戦士リュディはおつむが弱い上に凶暴。それに立ち向かう悪の戦士たちがジョニーを隊長とする十数人の白馬の騎兵隊(と言っていいのかな?農作業着の馬乗りたち←全部ノンプロ俳優たち)で、武器は持っていないように見えた。まあ、地上ではそういう不条理なシーンが多いが、ブルーノ・デュモンの映画なので...。
 その善悪宇宙帝国戦争をやっているという事情を知らないフランス、パ・ド・カレー県の警察(正確には憲兵 gendarme)は、自動車事故事件や女性斬首殺害事件を捜査するのだが、担当の二人の警官(←ノンプロ俳優)はブルーノ・デュモンの2014年のTV連ドラ"P"tit Quinquin"(2シーズン/全8回)でかなり有名なおとぼけ警官コンビだそう(私は知らなかった)。このダメ警官を、悪の帝国の代理人ジョニーは徹底的にバカにしている。これはひいては人間総体をバカにしていることなのだが、善の帝国の女王カミーユ・コタンは(↑写真)「人間たちは魅力的だ、だから私は征服したいのよ」と立場の違いを明白に。この善の女王が人間の姿で町にいる時はこの町の町長であり、露天市で町民たちの困りごとを聞いてやっている、というのも可笑しい。
 さて、スターウォーズが十分に形而上学的側面を持っているように、この映画も上辺の奇想天外さの下にかなり哲学的含蓄を孕んでいる。そもそも、と言い出したくなる、善と悪の問題である。宇宙の彼方にかなりピュアーな状態で善と悪というのがあって、それは電極のプラスとマイナス、二進法のゼロと1(これは映画の中で登場する概念)のように明白な相反する二つの要素としてあったものが、地球の人類にたどり着いた時にその明白さが欠き曖昧になってしまう。人間界には純然たる善人も純然たる悪人もいない。良さそうな悪人、悪そうな善人、人間は曖昧で不透明である。この映画で善の女王の手先となっているジェーンとリュディは暴力的であり殺しもする。悪の帝王ベルゼビュートの手先ジョニーは家庭を愛し、子供フレディーを命かけて守ろうとする。これが”人間的”ということで、善悪の杓子定規からおおいに逸脱する。
 この善悪がおおいに混乱するのは、ジェーンとジョニーが恋に落ちてしまう、ということ。おまけのようにジョニーの部下になったセクシー・バンプのリン(←写真 この映画での女優リナ・クードリの存在感はここだけ)は真剣にこの恋に嫉妬してしまう。なんと人間的な!善悪を飛び越えてしまうのは愛なのであるよ、お立ち会い。
 しかし人類の未来は愛を選ばずに戦争を選ぶ。悪の帝王ベルゼビュートは最終戦争を宣言し、人類にアポカリプスの到来を高らかに告げる。善悪両陣営の軍帥たるジョニーとジェーンは双方の宇宙砦に戻り、それぞれ幾万の宇宙戦闘挺を従えて、銀河の関ヶ原へと進軍していく....。ブロックバスター映画的見せ場はここからになるであるが、それ風なCG映像はやはり観るものをわくわくさせてしまうのだよ。さて、善宇宙軍と悪宇宙軍、どちらが勝つのか?

 私は熱心にブルーノ・デュモン映画追っかけをしてこなかったが、『マ・ルート(Ma Loute)』(2016年)、『ジャンヌ』(2018年、爺ブログ紹介記事あり)、『フランス(France)』(2021年)、そしてこの『帝国』と続けて観て、その奇才(鬼才)ぶりとフランス映画界における特異なポジションはわかったような気がする。出身地である北フランス(パ・ド・カレー)にすべてが凝縮されているという宇宙観は一貫していて、これは「中央」から見る見方に慣れた私たちには刺激的だ。そして積極的なノンプロ俳優たちの起用は、その言葉が聞き取れなかったり、動作の意味がよくわからなかったり、というごつごつざわざわした手触りに戸惑ったりもした。映画監督になる前は哲学教師だったというデュモンの映画が投げかける問いかけは、やはりちょっと難しさがあるよ、私には。この『帝国』はブロックバスターのパロディーのような表向きをしながら、”善”と”悪”とその二つが吸い込まれて消えていくブラックホールという大団円は、驚きこそすれ笑うことはできない。映画をつくる側は、さぞ楽しかったろうな、と想像はできるのだけど。

 最後にこの映画の最初のキャスティングで主役(ジェーン役)と決まっていたアデル・エネルが途中で自分から降りてしまった件。(仏Huffpost 2月23日付けに記事あり)。2020年2月のセザール賞セレモニーで、ロマン・ポランスキー受賞に抗議して退場した事件以来、アデル・エネルは映画と訣別して左翼系フェミニスト活動家となっている。アデル・エネルによると最初この役を受諾したが、シナリオを読んで登場人物に有色人種がひとりもいない「白人だけ」の(レイシスト的性格の)映画であることについてブルーノ・デュモンに抗議し、シナリオの修正を要求した。その間にコロナ禍で制作が中断し、1年後に、ブルーノ・デュモンがアデル・エネルに修正シナリオを送った。しかしアデル・エネルの目には一切(レイシスト的性格の)修正がなされておらず、出演の辞退を決定した、と。わからないでもない話ではあるけれど...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『帝国』予告編  (予告編の方がずっとエンターテインメント性があると思う)

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