2024年2月1日木曜日

ホンキー・シャトーの伝説

2024年1月19日、国営テレビFrance 5が放映した1時間ドキュメンタリー「エルーヴィル城 - フランスのロックの狂気(Le Château d'Hérouville - La Folie Rock Française)」(クリストフ・コント監修)は、この伝説の城館録音スタジオの全容をよくまとめた優れものであり、これに刺激されて爺ブログは1976年にこの城で録音されたイギー・ポップの「チャイナ・ガール」に関する記事を書いた。
 エルーヴィル城に関しては(↓)に再録する2016年のラティーナ誌の記事のために、ずいぶん資料を読んだつもりだったが、上述のドキュメンタリーの内容は(「チャイナ・ガール」のエピソードを含めて)私が知らなかったことが多く、恐れ入った。このドキュメンタリー番組は国営放送FRANCE TELEVISIONSのウェブページで、2024年5月まで公開されているが、残念ながら放映権の関係で日本からの視聴はできない(フランスおよび欧州にいる人たちには見えます)。1972年にピンク・フロイドが『雲の影』をエルーヴィル城で録音しているのだが、当時のインタヴューで、どうしてここで録音することにしたのか、という質問にデイヴ・ギルモアが正直に「税金対策だよ」と答えている。そう、この時期に英国の大物たち(ボウイ、ストーンズ、T レックス、エルトン・ジョン...)がフランスで録音していたのは、おおかたが税金逃れのためだった。
(↓)の記事にも出てくるが、1971年6月、エルーヴィルの隣町オーヴェール・シュル・オワーズ(画家ゴッホの終生の地として有名)のロック・フェスティヴァルのためにフランスにやってきたグレートフル・デッドが、そのフェスが嵐で中止になり、避難してきたバンドにエルーヴィル城が緊急宿舎として使われ、その丁重なもてなしに感激したジェリー・ガルシアがお礼にこの城の庭園で無料コンサートを開いた。招待されたエルーヴィル村の住人や近くにいたファンたち約200人を前に徹夜の熱演。この模様はフランス国営テレビで中継されたようだ。件のドキュメンタリーで、グレートフル・デッドがLSDを持ち込んでいて、それを秘密裏に招待客に出す飲み物(シャンペン、ワイン...)に少量混入させていたということが証言されていて、(↓)記事で私が書いたことをはるかに上回る”ハイ”な光景が展開されたそうなのである。ロック・クリエイションの理想郷のような1970年代のエルーヴィル城の伝説は、その他にもさまざまある。
 その第一期黄金時代(1971〜73)のサウンド・エンジニアだったのがドミニク・ブラン=フランカール(1944 - )で、2016年ラティーナ誌8月号で私はこのフランス随一のサウンドクリエーターのことを書くつもりで書き始めたのだが、半分以上がエルーヴィル城スタジオの話になってしまった。以下に(若干修正して)全文再録します。

★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2016年8月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


サウンドエンジニア一代記
ドミニク・ブラン=フランカールとエルーヴィル城の日々

 ミニク・ブラン=フランカール(略称DBF)は1944年生れ(現在72歳)のサウンド・エンジニアである。裏方とは言え、この分野では当地の第一人者であり、フランスのレコードCDのクレジットで実に頻繁に見る名前である。この6月、そのキャリア50周年を記念して、彼が録音・編曲・制作をすべてを担当した企画盤『イッツ・ア・ティーンネイジャー・ドリーム』(フランソワーズ・アルディ、バンジャマン・ビオレー、アダモ、カルラ・ブルーニなど彼と重要な仕事をしてきたアーチストたちをヴォーカルに招いて2年がかりで作ったシクスティーズ・カヴァー集15曲)と、そのサウンド・エンジニアとしての仕事を網羅的に回想録にした300ページ強の厚い著作『イッツ・ア・ティーンネイジャー・ドリーム』を同時に発表した。また自ら音楽アーチストとして唯一発表した1972年作のプログレッシヴ・ロックアルバム『アイユール(外へ)』もLPで仏ユニバーサルから復刻され、この6月DBF氏は露出度が高くなっている。

 ブラン=フランカール家は父ジャン=マリーが国営ラジオ/テレビの技師で、兄パトリスは音楽ジャーナリスト/ラジオとテレビのディレクター、息子二人は第一線のミュージシャン(長男ユベールはエレクトロ・デュオのカシウス、次男マチューはサンクレールの芸名を持つ人気シンガー)であり、ゲンズブール+バーキン家のような芸能ダイナスティーを思わせるものを私は先入観として持っていた。特に1980年代の後半になって、フランスにTOP 50“なるチャートが出来てからレコード会社の第一存在理由が「ヒット曲を出すこと」のような風潮が顕著になり、DBF氏は演奏者・作詞作曲者・プロデューサーの陰にいながらも「ヒットを生むサウンド・エンジニア」として、メジャーヒットに大きく関係してくる。エチエンヌ・ダオ、ゲンズブール、フランソワーズ・アルディ、ジェーン・バーキン、イザベル・アジャーニ、ジャンヌ・マス。良くも悪くもヴァリエテ(テレビ向け流行歌とでも意訳できようか)ど真ん中の人、という印象。


 ところが今回初めて耳にした復刻LP『アイユール』(←写真1972年作)は、ヴァリエテっぽさなど微塵もないサイケデリック・プログレ作品で、ドラムスを除く全楽器・作詞作曲編曲ヴォーカルと録音ミックスまでDBFが一人で仕上げた音は私の印象をガラリと変えてしまった。このアルバムは当時DBFが専任エンジニアだったパリから50キロ離れたオワーズ地方の城館スタジオ、シャトー・エルーヴィルで録音されている。自伝本ではこのエルーヴィル・スタジオで過ごした71年から73年の日々が彼にとって最も重要な時期であったように記述されている。
 
 戦中生れのドミニクの世代は、第二次大戦が終ってもインドシナ戦争があり、次いでアルジェリア戦争があり、と戦争の脅威が続いていた。少年の頃、徴兵と戦地送りの恐怖は常にあり、少年たちはどうやって徴兵を避けるかということばかり考えていた。同時に彼らはティーンネイジャーでロックンロールの到来を体験した世代である。15歳でバンドを組み、18歳でバンドはプロデビューするが、リードシンガーを兵役で取られ,インストバンド(歌手のバックバンド)として1年ほど全国をツアーして解散。  

 1962
年アルジェリアが独立し、やっと戦地送りの恐怖は去り、1963年ドミニクは兵役に出かけるも精神病と偽り(精神病院に入院)3ヶ月で除隊を許可され、同じ年、パリ左岸の小さな録音スタジオETAにエンジニアとして就職する。朝8時から夜9時(往々にしてそれで終らない)まで、セッティングと録音の一切を任される過酷な修行時代。録音技術と機材が日進月歩で刷新されていた頃、ETAのような小さいスタジオはほとんどがデモ用の録音で、例えどんなに出来が良くても本録音の仕事は最新機材を備えた大きなスタジオに持っていかれる。またその頃はロックがテープ操作などのエフェクトで、奇怪な音を沢山発明していた頃で、その音はどうやって出すのかは同業者間では教え合わない。例えばレッド・ゼッペリンの「胸いっぱいの愛を」の音が右左ぐるぐる回る効果はどうやって作るのか、といったことは自分で探し出すしかないのだが、ドミニクは夢中でそれを解明し、クライアントが「ゼッペリン風に」と注文したらそれをやってしまい、その上自分が考案したエフェクトを提案することもあり、若いサウンドエンジニアは徐々に頭角を現していく。69年9月、新たに8トラック機を備えたETAスタジオで、25歳のDBFはデヴィッド・アレン&ゴングのアルバム『マジック・ブラザー』(↑写真)を録音している。そして71年、仏プログレの金字塔的作品、カタルシス『Masq』の録音を最後にETAスタジオを去リ、エルーヴィル城に移っている。


 エルーヴィル城スタジオ(
←写真、奥にミッシェル・マーニュ、手前にDBF)の創設者ミッシェル・マーニュ1930-1984)は作曲家で、実験的現代音楽でスキャンダルを巻き起こす一方、多くの大衆的映画音楽のヒットで財を築いた。この南北両翼を持つ18世紀建立の城館はマーニュが1962年に購入し、途中北翼を火事で焼失したものの、南翼の最上階を面積100平米、天井までの高さ6メートルの録音スタジオとして改装し、合わせて20の客室、厳選された酒蔵,フレンチグルメのレストラン、テラス、庭園、テニスコート、プールを備えた滞在型のレコーディング・レジデンスとして69年に開業した。人里離れた城館スタジオというコンセプトでは、ヴァージン創業者リチャード・ブランソンが英国オクスフォードシャーに開いたザ・マナー(1971年開業。マイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』の録音で有名)が知られているが、やったのはマーニュが先。しかし最初の2年間は来るアーチストたちも少なく運営は難しかった。その好転を狙って補強した27歳の凄腕サウンド・エンジニアがDBFだったのだ。彼の城での最初の仕事がマグマのセカンドアルバム『摂氏1001度』だった。

 その数週間後の71年6月、城から遠くないヴァン・ゴッホ終生の地として知られるオーヴェール・シュル・オワーズで開かれる予定だった大規模なロック・フェスが豪雨のため中止になり、その目玉バンドだったグレートフル・デッドがローディーや家族たちを引き連れて城に滞在することになった。ジェリー・ガルシア(
→写真)とその一党はこの城の環境ともてなしにいたく感動して、城で働く人たちや村人たちに感謝したく、城の庭園で無料のプライヴェートコンサートを開くことになり、DBFがその音響全てを任された。約200人がこの幸福な宵を共有し、城はありったけのシャンパーニュを振る舞い、葉っぱはバンバン吸われ、コンサートは夜を徹して明け方近くまで続いた。こんな音楽今まで聞いたことがないという村人たちも乗りに乗って踊って騒いだ。村の警察は見て見ぬふりをし、村の消防隊だけがその場に出動を依頼されて、ラリっては着衣のままプールに飛び込む人たちを懸命に救出していた、という。その翌日、グレートフル・デッドとローディーたちと家族たちは総出で前夜の大狂乱で荒れ放題散らかし放題になった庭園を丁寧に掃除し、元の美しい庭園の姿に戻したのち、静かに立ち去って行った。夢のような人たちだったとDBFは回想している。


 以来デッドのメンバーたちはエルーヴィル城のことを言いふらし、それが大きなプロモーションとなって英米のトップアーチストたちが次々に城に滞在してアルバムを制作するようになる。ピンク・フロイド(『雲の影』)、T.レックス(『ザ・スライダー』)、MC。エルトン・ジョンはここで3枚のアルバムを録音しているが、その1作目の『ホンキー・シャトー』はその滞在中のエルトンのパリのショッピングをよく手伝ったというので城の秘書のカトリーヌという女性に捧げられている。かの『黄色のレンガ路』 (1973年)もこの城で録音された。

 300
ページのDBF自伝本の50ページがこのエルーヴィル城時代に割かれているが、DBFが居たのは3年にすぎない。城の赤字は続き、ミッシェル・マーニュが73年に経営権を譲ったイーヴ・シャンベルラン(パリ最高の録音スタジオ「ステュディオ・ダヴート」の創業者)はその経営を立て直すどころか、マーニュを個人破産にまで追い込み、マーニュは1984年に自殺してしまう。DBF7310月に城を去ってフリーランスとなるが、その後の城のこと(マーニュ/シャンベルランの抗争について)は自伝では触れていない。城はその後もデヴィッド・ボウイ(『ピンナップス』、『ロウ』)、フリートウッド・マック(『ミラージュ』)、ビー・ジーズ(『サタデーナイト・フィーバー』)など歴史的なアルバムを録音してきたが、遂に1985年にその門を閉ざす。

 史実として19世紀にはフレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの逢い引きの逗留先だったことから、DBFが在籍時に作った第二録音スタジオは「ショパン・スタジオ」と名付けられる。またこの自伝でも、古城にはつきものの幽霊もDBFの体験談が二つ。この城のことだけで軽々と一冊の本が書けるだろうし、この城のロック・ヒストリーにおける重要性はもっと知られてもいい。

 その後のDBF氏はフリーランスとしてフランスだけでなく英米からもお呼びがかかる売れっ子サウンドエンジニアとして活躍することになるのだが、メインストリームであり、メジャーであり、ヒットの人である。1995年にはブラン=フランカール家経営の録音スタジオ「ル・ラボマティック」を開業し、世界最新の機材を売り文句にして、息子二人を筆頭に新旧の大物アーチストたちの作品を録音して今日に至っている。この最新機材というのがまさに曲者で、サウンドエンジニアが「職人芸」であった時代からこの仕事をしているDBF氏にしてみれば、この細部の細部まで機械がやってくれる今、エンジニアの勘やセンスやエモーションの入る余地がごくごく小さくなっていると嘆く。

 71
年から73年、若きDBFは幽霊が出るような古城の中で、その場の妖力や自然環境を愛すべき影響として受け止めているアーチスト/ミュージシャン/プロデューサーたちと、勘とセンスとエモーションで一緒に音を作っていた。彼が最高の職人だった時期だろう。ロック史はこの時期のドミニク・ブラン=フランカールを決して忘れないだろう。


(ラティーナ誌2019年4月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


(
↓)グレートフル・デッド、エルーヴィル城での伝説のライヴ(1971年6月21日)フランス国営テレビAntenne 2が中継していた!

0 件のコメント: