2024年1月30日火曜日

ベトナムから遠く離れて

Iggy Pop "China Girl"
イギー・ポップ「チャイナ・ガール」
詞曲:イギー・ポップ&デヴィッド・ボウイ
(1977年)


ギー・ポップ(1947 - )のアルバム『イディオット』(1977年)はデヴィッド・ボウイのプロデュースで制作された初のソロ名義アルバムで、その録音のほとんどが1976年6月からフランス、ヴァル・ドワーズ(95)県のエルーヴィル城スタジオで行われている。この後1976年9月からボウイが同スタジオでアルバム『ロウ』を録音しているから一夏中そこにいたのかな? 1976年夏、フランスは200日雨の降らない大旱魃の暑い夏だった。私はその夏に初めてフランスに長留学滞在したからよ〜く憶えている。それはそれ。

 さてこの1月19日にフランス国営テレビFrance 5で、(信頼できる)音楽ジャーナリストのクリストフ・コントが監修したドキュメンタリー映画『エルーヴィル城(Chateau d'Erouville)』が放映され、その伝説のシャトー録音スタジオの栄枯盛衰が1時間でまとめられていて大変興味深かったのだが、その中でこのイギー・ポップ「チャイナ・ガール」の誕生のいきさつも紹介されていた。(私もラティーナ誌2016年8月号にサウンド・エンジニアのドミニク・ブラン=フランカールの記事で、エルーヴィル城のことを長々と書いているので、いつか爺ブログに再録しようと思っているが、それはそれ)。エルーヴィル城スタジオは映画音楽家として財を成したミッシェル・マーニュ(1930 - 1984)が1962年に購入した城館を改造し、1969年から滞在レジデンス録音スタジオとしてエルトン・ジョン、T・レックス、デヴィッド・ボウイ、ピンク・フロイドなどが華々しく出入りしていた。金に糸目をつけずこのロックのクリエイション黄金郷を築いたマーニュだったが、それが過ぎて破産しエルーヴィル城スタジオは人手にわたり、1974年から元マグマローラン・ティボー(1946 - )をディレクターに迎え、第二期黄金時代に入る。それまでミッシェル・マーニュが居城として使っていた館の一翼に、新たに住人として入居したのがジャック・イジュラン(1940 - 2016)。アレスキー+ブリジット・フォンテーヌと初期サラヴァ・レーベルを支えていたイジュランだったが、70年代は表現方法をロックに移し、この城でレジデントとして4枚のロックアルバム("Irradié"1975, "Allertez les bébés!" 1976, "No man's land" 1978, "Champagne/Caviar" 1979)を制作している。この時期(シャンソン詩+ロックの大冒険)のイジュランは再評価が必要(私がやるしかないか)。 

 さて、イジュランはエルーヴィル城にひとりで入居してきたのではない。その当時の妻でヴェトナム出身のクエラン・グエン(Kuelan Nguyen 1950 - 。イジュランと結婚していたのは1970年から1995年まで)とイジュランとクエランの子ケン(1972年生れ、後の劇演出家ケン・イジュラン)と一緒に城に住んだ。かのFrance 5のドキュメンタリー映画『エルーヴィル城』の中で、クエラン・グエンがイジュランとの城入居時期のことや、アルバム『イディオット』を録音するために城に滞在していたイギー・ポップとデヴィッド・ボウイのことを証言している。まず、言い訳っぽいのだが、25年間続くジャック・イジュランとの結婚生活において、この70年代後半の時期は複雑で冷ややかでお互いの問題&事情がいろいろ浮上し、口論や諍いもままあった、と。イギーは城の広間でひとりでピアノに向かい(一本指で)自分の創作でポロンポロン弾いていて、クエランの目にはチャーミングな子(ジャックより7歳年下、自分より3歳年上)に映った。それで息子ケンのヌーヌー(ベビーシッター)のイレーヌの誕生パーティーにイギーを招待したら、ジャックはイギーを見るなりクエランに「あの外国人をもてなしてやれ」とけしかけた、と。クエランとイギーの「火遊び」はむしろイジュランが挑発したかのように。
 で、クエランはイギーの部屋に入り浸るようになるのだが、クエランへのあからさまな熱情が隠せないイギーのかたわらに孤独なデヴィッド・ボウイがいた。イギーとクエランはそんなデヴィッドを放っておけない、と毎晩何時間も3人で過ごしていたと。これをクエランはすばらしい友情の時間だったと言っているのだけれど、まあ言葉通りの意味と信じよう。
 さらにここで、問題の曲「チャイナ・ガール」の録音に立ち会ったローラン・ティボーの証言が加わるのだが、ヴォーカル録りの時点で既に数杯のビールで出来上がっていたイギーはその目の前に陣取っていたクエランに抱きつきたくてたまらなくて、その度に録りを中断しなければならなかった、と。クエランはイギーを鎮めようとして、落ち着いて落ち着いてというポーズを。Sh-sh-shhhh....。これをイギーは自分に言い聞かせるように、”ジミー(イギー本名ジェームズ・オスターバーグの愛称)、黙って!” Oh Jimmy,  just baby, just you shut your mouth" と即興の歌詞で歌った...。
 ではそのドキュメンタリーの「チャイナ・ガール」エピソードの動画(↓)をご覧ください。


I could escape this feeling, with my China Girl
I'm just a reck without my little China Girl
I"d hear her heart beating, loud as thunder
I saw the stars crashing

I'm a mess without my little China Girl
Wake up morning  there's no China Girl
I"d hear her heart beating, loud as thunder
I saw the stars crashing down

I feel tragic like I'm Marlon Brando
When I look at my China Girl
I could pretend that nothing really meant too much
When I look at my China Girl

I stumble into town just like a sacred cow
Visions of swastikas in my head
Plans for everyone
It's in the whites of my eyes

My little China Girl
You shoudn't mess with me
I'll ruin everything you are
I'll give you television
I'll give you eyes of blue
I'll give you men who want to rule the world

And when I get excited
My little China Girl says
Oh Jimmy, baby, just you shut your mouth
She says... sh-sh-shhh

クエランが言っているように、クエランは”チャイナ・ガール”ではなく"ヴィエトナミーズ・ガール"である。しかし、クエランは”ヴィエトナミーズ・ガール”よりも”チャイナ・ガール”の方が語感がいいから、いいのよ、と言う。イギーは彼女がヴェトナム人と知って、最初はアメリカ人としてヴェトナム戦争への原罪を感じていたそうだ。いいですか、お立ち会い、ヴェトナム戦争の終結は1975年のこと、すなわちイギーのエルーヴィル滞在の1年前、ヴェトナム戦争の記憶はほぼ昨日のように生々しい。歌詞のここの箇所:
My little China Girl(かわいいチャイナガールよ)
You shoudn't mess with me(きみは僕と関わらない方がいい)
I'll ruin everything you are (きみのすべてを破壊してしまう)
I'll give you television (きみにテレビを与え)
I'll give you eyes of blue (きみに青い目を与え)
I'll give you men who want to rule the world(世界征服を謀る男たちを送ってしまう)

これはクエランはアメリカ人イギー・ポップの償いの気持ちから出たものだろうと考えている。

 1983年にデヴィッド・ボウイはナイル・ロジャースがプロデュースした大ヒットアルバム『レッツ・ダンス』の中でこの「チャイナ・ガール」を録音、シングルでもミリオンヒットさせたのであるが、イギーのヴァージョンと歌詞は若干変わっていて、”ヴェトナム”を感じさせる部分がほぼない”チャイナ・ガール”になっている。だがこの頃ドラッグ依存症でボロボロになっていたイギー・ポップをこのメガヒットの印税が救ったという美談になってもいる。ヴェトナムから遠く離れて、Loin du Viet-Nam...


(↓)イギー・ポップ「チャイナ・ガール」(1977年アルバム『イディオット』)


(↓)イギー・ポップ「チャイナ・ガール」(1986年パリ・オランピアでのライヴ)


(↓)デヴィッド・ボウイ「チャイナ・ガール」(1983年オフィシャルクリップ)


(↓)デヴィッド・ボウイ「チャイナ・ガール」(2002年パリ・オランピアでのライヴ)


(↓)1967年クリス・マルケル監修のオムニバスドキュメンタリー映画『ベトナムから遠く離れて Loin du Viet-Nam』のトレイラー。歌はトム・パクストン。

2024年1月27日土曜日

モアメド・ンブーガール・サール、新移民法を斬る

<< Loi Immigration, la centrale du tri(移民法は巨大選別センター) >>
モアメド・ンブーガール・サール


2023年12月19日、内務大臣ジェラルド・ダルマナン発案による新移民法案が国会で可決された。議会で絶対多数を持たない政権与党(Renaissance + Modem + Horizons...)は、この法案を通すため、保守野党である共和党(LR)の抱き込みを図り、ダルマナン法案をLR党との協議で大幅に右寄りに書き換える。その書き換え案は、これまでの外国人居住者の(フランス人と同等の)権利を多く削り、とりわけ医療や福祉の点での露骨な差別を明文化した。これは極右政党が主眼とする「フランス人第一主義」をそのまま導入したものと、極右RN党もその主旨に賛同し、賛成票を投じることとなった。これまで敵対していた政権党の提出法案にも関わらず、RN党はこの法案可決を(極右)「イデオロギーの勝利」として高く評価し、極右政権誕生が現実味を帯びたと自画自賛した。2024年1月25日、法律の「憲法適合性」を判断する立法の最高機関である憲法評議会(Conseil Constitutionnel)は、国会可決した同移民法の条項のうち、その約三分の一にあたる32項を違憲として検閲削除した。法案に反対した左派&エコロジスト政党はこの憲法評議会の決定を評価したが、移民/外国人への制限・締め付けの性格は変わっていない。

 この憲法評議会決定の発表の日、1月25日に、2021年のゴンクール賞作家でセネガル人のモアメド・ンブーガール・サール(1990年生れ、現在33歳。→写真)が、ウェブ版ニュースメディアである Mediapart(メディアパート)に、同移民法に抗議するトリビューンを投稿している。当然憲法評議会決定の前に書かれたものなので、そこは理解いただきたい。モアメド・ンブーガール・サールはフランスで最も権威ある文学賞を受賞したが、フランス国籍は取得していない。私と同じように誇り高い”異邦人”のままである。その立場からこの移民法が、外国人/移民をその中で振り分け選別するだけでなく、フランス国籍者たちまでの振り分け選別を遠からず実現してしまうことを見据えた法律であると喝破している。以下、その全文を(メディアパートさんごめんなさい)無断で翻訳して転載します。

***** ***** ***** *****

『移民法は巨大選別センター』

が高等教育を受けるためにフランスに来たのは2009年のことだった。人はよく私にどうして人生を続ける上で他の道を選ばずにこの国を選んだのかと問うてきた。私はそのさまざまな理由を挙げたのだが、その中には大文字で書くべき重々しくりっぱな言葉があった。すなわち:文学、人文学、哲学、共和国、知性、人権、平等。この地球に生まれ育った者として、フランスがこれらのりっぱなお題目と原則の名において行った残忍な行為の数々が歴史に深い傷を残してきたことを私は知らないわけではない。しかし私は私を迎え私を育成しようというこの国のすべてを判定することを望まず、その野蛮で犯罪的な過去を割り引いて考えていた。

こうして私はコンピエーニュにやってきた。そしてフランスの政治が私にものを教えたりイライラさせたりするのをやめるのにものの3ヶ月もかからなかった。私はバルザックに傾倒していたが、その代表作の『幻滅』を私のものとして味わせる有毒な機会がやってきた。その頃、UMP党(国民運動連合、2002年ニコラ・サルコジが創立した保守政党、2015年にLR = 共和党と改名して現在に至る)の元気な連中の衝動に端を発した「国民アイデンティティー identité nationale」論争が席巻していた。

正直に言えば、私は国民アイデンティティー論争自体はその基本においてはとても興味深いことだと思っていた。ひとつの国がその文化を築いたもの、どのような美徳がその信条に意味を与えるのか、どのような価値から、どのような歴史から、過去・現在・未来を見つめるどのような視点からその国が国民と社会を成してきたのかを論議することはそれ自体として悪いことでないと私には思えた。それは私がその考察の問題の立て方が最初から誤りであり、それが議論なのではなく、ひとつの裁判なのだということに気がつく前のことだったのだ。それも嫌な匂いを放つ弾劾裁判である、と。

その被告席に置かれたのは誰か?答えは簡単だ、いつもと同じ顔ぶれ、ユージュアル・サスペクツ、すなわち、異邦人、外国人、野蛮人、イスラム教徒、黒人、アラブ人、ロマ、南方からの移民、私。私たちがそこに座るのになにがしかの犯罪など犯す必要はない。その兆候を疑われるだけで十分なのだ。Ab initio(アブ・イニチオ=最初から)そして a priori(ア・プリオリ=証明の必要なく)に、私たちは嫌疑をかけられる者なのだ。私はここで「推定有罪」と過失なき罪というものが存在するということを知った。それは国民アイデンティティーというものを考えることでは全くなく、その国民性の規範を反動的で暴力的で差別的な「型」にはめ、すでに社会的に弱いカテゴリーへと配列していくことだったのだ。

しかしながら私はこの国に留まって生活していった。この国のさまざまなアスペクトが好きであるし、ここに住む多くの人々が私に大きな感銘を与えている。私はここでひとりの人間になり、作家になった。しかし私は決して忘れていない。私がどこにいようと、たとえ私が最も権威ある名誉に包まれていようと、私は異邦人であり、移民であり、事実として(そしてますます当然のものとして)私は来るべき脅威に属する人間なのである。その脅威とはどんな些細な問題でも人々が大騒ぎし、右であろうが左であろうが傾向はどうあれさまざまな政権において政治的利益に値しないものとして扱われ、人々はそれを犯罪者扱いすることに何のためらいも覚えないのだ。

何が私にそれを思い出させるのか?往々にしてそれは道ゆく人であり、定期的に変わる法律でもあるが、常日頃この国の呪われて言葉少ない外国人たちが構成する家族の面々の顔を見るたびにそれは蘇ってくる。私はそれらの顔を見つめる。怯えていたり、勇ましかったり、絶望的だったり、戦闘的だったり、激昂していたり、歓喜にあふれていたり、打ちひしがれていたり、勝ち誇っていたり、怒り狂っていたり、人懐っこかったり。しかしながらこれらすべての顔ははっきりとした意識を持っているという点でみなよく似ている。彼らはどこに自分たちがいるのかを知っている。国民アイデンティティーの問題は、この国の外国人たちにこそ問いかけるべきたったのだ。彼らは恥によってその国民アイデンティティーを知っている。つまり彼らこそ最適なのだ。彼らはフランスの影の部分を知っている。その輝かしい伝説の黒い裏側、その卑劣さ、その虚偽、その歴史的かつ今日も続く暴力、彼らはこの点に関するフランスの修辞的言い換えや書き換えに騙されることはない、この国による悲惨な受難劇を彼ら以上にうまく描ける者はない、その受難劇の過去、現在、そして未来に関しても。


UMP
党の猛者たちによる国民アイデンティティー喜劇からすでに15年ほどの月日が経った。しかしながらこの2023年暮れの出来事からすれば、このUMP党のバロンたちなど人畜無害の呑気者に見えるだろう。天下の法治国家にとって憲法上の天変地異のような状況の中で、フランス政府(誰がその中心的推進者だったのか?エマニュエル・マクロン?内務大臣ジェラルド・ダルマナン?あれ以来下船させられた首相エリザベート・ボルヌ?)が、移民法を議会で可決成立させたのだ。その新法における移民に対する冷酷さと不公正さはフランスの極右政党の主張と全くひけをとらぬもので、その極右政党自体がこの政府決定に極右の「イデオロギー的勝利」を見てとり、その可決を祝福したのだった。

この極右の勝利自賛だけでも議会多数派は恥辱に打ちのめされ困り果てることになるはずではなかったか。しかし今やそのような時代ではない。もはやいかなる憎悪も資料化されないし、卑劣な過去も存在しないし、いかなる政治的病疫も忌み嫌われなくなった。政治的空間を圧倒することなどいともたやすいことだったろう。そして今度は社会を圧倒し、その深いところから押し入り、古い堤防はすこしずつ後退りされ、ついには完全に決壊してしまう。しかしフランス政界はこの運動を容認し、それと戦うのではなく逆に火をつけ、合法性を与え、伸長を加速させ、制度として定着させた。かつての“焦げ色の狼たち”(ナチ、ファシストの喩)が今日“白い羊たち”として通るようになったのは一体どういうわけだ?この変態を許した責任は誰がとるのか?

いずれにしても現フランス政府にその責任の一端はあることは間違いなく、その汚点は永久にこの政府にまとわりつくだろう。ここ数年の移民に関連するさまざまな立法を注視している人々にとっては、そのようん法律がひとたび通ってしまえば(つまり極右政党が既に権力に就いていたかのように)まったく呆れや驚きなどなくなってしまう。すべては底辺のところで道理が通っている。私はこの法律とその措置(外国人学生に対する学費の引き上げ、アフリカの一部の国からの留学生のビザ発給の取り消しなど)の詳しい成り立ちをここで詳説するつもりはないし、この法律にまつわるすべての不幸な原因とそのおぞましい結果をここで繰り返すつもりもない。


私はこの国の外国人と移民たちを、ことさらにこの国でも成功することができる(ある者はゴンクール賞を獲得することもできる)ということを引き出して擁護することも拒否する。彼らはその分野で最も有名で栄誉ある人たちだ。ここでは彼らは問題ではないのだ。むしろ言い換えれば、彼らはこの法律で最も脅かされる人々ではない。この法律が最も暴力的なやり方で侮辱し破壊しようとしているのは彼らではない。私は、フランスに重要な貢献をした外国人として、移民出身フランス人たち(多くは故人であるが、生存している人も若干)の顔写真つき
WHO’S WHOのようなりっぱな本をパラパラめくったことがある。

その意図はまちがいなく称賛すべきものであったはずであるが、このような宣伝行為の底にあるものが姑息なやり方でこのおぞましい法律の同盟を作り上げないとはとても信じられないのだ。この法律が作り上げようとしているのは良い外国人と悪い外国人のカテゴリー分けであり、移民たちを容認でき見目よく求められる人々と、価値がなく正体が見えず存在が迷惑な人々に選別することである。

この点について間違えてはならないこと、それは外国人関連法の立法化というものが常に政治的な小手調べであり、実験であるということだ。この法律の行く手に見えてくるのは、単純に外国人住民の中から留めておいても良い人々と留めておけない人々を分別するだけでなく、フランス人住民そのもの中からも、外国起源の人たちを識別する、すなわち本物と偽物を見分けることまで視野に入っているということだ。たしかに、これはいやな匂いがする。フランス起源を主張する言説も浮上しつつある。地面の下ではもうかびがはびこっている。

では、何をするべきか? このような状況の時にいつも人々が行ってきたことすべてをやるしかないのだ。それは大そうなことではないが、それでも大きな行動なのだ:ノンと言うこと、行進すること、書くこと、抗議すること、集合すること、語ること、語り合うこと、これ以上分断化されることを拒否すること。ひとりひとりが、その可能なやり方で闘うこと。奇跡のような武器を持って、希望があろうとなかろうと。私がここで書いてきたことすべてはこの国を牛耳っている男性たち女性たち、およびそれを支持する人々には全く心に響かないことだろうと想像はできる。しかし構うものか。この醜悪な法律を前にして私たちにできることはこれだけだ:それを絶えることなく糾弾し、連帯を持って共に闘おう、最後まで。

2024年1月25日
モアメド・ンブーガール・サール

(↓) LCP(国会テレビ局)のニュース動画。1月21日、パリ・トロカデロ広場。憲法評議会(Conseil Constitutionel)の移民法の違憲決定と同法廃止を求めるデモ。

2024年1月20日土曜日

80分で人類の滅亡と再生

SLIFT "ILION"
スリフト『イリオン』


クシタニアの都トロザのパワー・トリオ(仏版ウィキペディアによるとその音楽ジャンルは acid rock, psychederic rock, space rock, stoner rocke などと書かれている)メンバーは:ジャン(ギター+ヴォーカル+マシーン)とレミィ(ベース+マシーン)のフォサット兄弟とカネック・フロレス(ドラムス)。同じ音楽学校で学んだダチ。結成は2016年。
バンド名の SLIFTは、フランスのSF作家アラン・ダマジオ(1969 - )が1999年に発表した2巻もの長編ディストピア小説"La Zone du Dehors(圏外地帯)”の登場人物の名。15万部を売り、ダマジオ初のベストセラー作品となったこの小説は2084年(すなわちオーウェルの「1984年」の100年後)の”民主主義”衛星都市セルクロンを舞台とし、全住民は義務として2年に一度全員の投票によって、各住民の”等級”をその素行、労働効率、社会貢献度などを基準に決定することになっている。”直接民主主義”を装った住民の相互監視/相互管理による全体主義統治。それに抵抗する反体制グループが組織されるが、体制側の大弾圧によって苦戦し、その頭脳格を政府側に奪われ、内閣に引き入れ反体制グループを無化しようとする。それを救い出すのが革命派の最も先鋭な活動家スリフトで、救出に成功し、さらに衛星都市”圏外”で新都市を建設していく...。という救世のヒーローの名前なのだが、それがそのままこのバンドのSF的世界論&宇宙論と結びついているようなのだ。

 2018年バンドはファーストアルバム『未開の惑星(La planète inexplorée)』を発表しているが、そのSF宇宙志向は現在に通じるものの、サウンドスタイルはガレージ・ロックだったという。それがラジカルに大洪水メタル&長尺ラウドネス超絶パワーロックというスリフト独自のスタイルを完成させたのが2020年2月リリースのアルバム"Ummon"ということになっている。これがコロナ禍にぶつかってしまい、プロモもツアーも全くできなくなってしまったが、2019年にレンヌで録画されたスタジオライヴがシアトルのKEXP-FM経由でオンライン公開されるや、スリフトの名は北米でブレイクしてしまう。そしてコロナ禍明けて2021年には北米ツアーで気を吐き、グランジ・ロックの代名詞、シアトルの独立レーベル SUB POPと契約してしまう。
 そしてこの新アルバム『イリオン』は SUB POP契約第一弾の世界規模デビュー作ということになる。"ILION(イリオン)"とはわが辞書では「古代トロイヤのギリシャ名」と出てくる。ようこそギリシャ神話の世界へ。神話で大叙事絵巻として多くの古代書で語り継がれるトロイア戦争について、その原因を日本語版ウィキペディアはこう記している:

大神ゼウスは増え過ぎた人口を調節するために、ヘーラーとは別の妻でもある、秩序の女神・テミスと試案を重ね、遂に大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固めた。
すなわちこの戦争は神々が仕組んだ人類ホロコースト策だったのである。大戦争が始まり、このロックアルバムは宇宙を舞台にしたトロイア戦記となったのである。人類撲滅の神の権謀術数に果敢に挑んでいく炎の眼をした戦士たちは星々の間に彷徨っていく....
Fury as a flame
Shining in their eyes
For now and forever
They will wander in space among the stars
Until they become a long forgotten tale
(ILION)

アルバム冒頭から11分のメタル大洪水。超ハイテンション、超アドレナリン、超ゴッドスピード。花火大会のしょっぱなから尺玉高速連発乱れ打ちが始まってしまったような。一体この途方もないテンションは最後まで持続するのか?そんなジサマの心配を嘲笑うようにトゥールーズの若造3人は、長尺ハイテンション楽曲だけで8曲、80分勝負に出る。1曲平均10分。戦争の山と谷、激情と慟哭、敗戦につぐ敗戦、後退と敗走... 人類は遂に滅亡の淵に立たされる...。
Darkness envelops the world
For every dream that has faded
A fire is lit in our hearts
We'll carry theses dreams beyond
And beg forgiveness to our mother !
Mother! Mother! Mother! Mother!
(NIMH)


 
 おかあさん、ごはんマダー!あまっちょろさのかけらも見せずに戦記は豪進するのであるが、5曲め”Weavers' weft(織り姫たちの横糸)"に至り、われわれは壮大なるメランコリアと遭遇することになる。ここで私たちは大伽藍的で大荘厳ミサ的で聖典礼プログレッシヴロック的なセンセーションに包まれ、ちょっとでも信心のある人はひれふしてしまうかもしれない。今こそわかれめ。人類の最後の生き残りひとりは、そのあるかないかもわからない未来を決めるたったひとりの果てしない孤独に打ち震えながら.... このヴィデオクリップのコンセプトがこのアルバムの白眉でしょうね。トゥールーズの3人のスケール違いの想像力の勝利と言えるんじゃないかな。


アルバムは人類再生に向かう混沌(6曲め"Uruk")へと踏み入り、人類新章というべき"THE STORY THAT HAS NEVER BEEN TOLD"(7曲め)で一風輝かしくもあるクリスタル音響の讃歌で大団円を迎える。これはイエスの『海洋地形学の物語』(1973年)の最終面の20分曲”Ritual (Nous sommes du soleil)"のなつかしいセンセーションが蘇ってくる。ちなみに『海洋地形学の物語』も80分アルバムだった。イエスはこの80分をオプティミズムで閉じるのであるが、スリフトの80分アルバム『イリオン』はオプティミズムとは言えない"ENTER THE LOOP"(8曲め)という、人類がまた同じ軌道に入っていくような、人間の性(さが)の哀しさが漂うエンディング。これは地球の人類が繰り返してきたことだもの。

 度外れた轟音超絶技巧メタルで、度外れた宇宙トロイヤ戦争絵巻叙事詩を創り上げた快挙に脱帽する。度外れた音の大きさ多さ厚さに、これ、本当にたった3人で?と頭をかしげたくなるのはもっとも。さまざまな仕掛けはあっても基本3人のみ、(↓)に貼ったKEXP-FMの2023年ライヴの映像が証明してくれる。しかし並外れたエネルギーである。このKEXPの映像の最後のインタヴューで、ジャン・フォサット(ギター/ヴォーカル)がこのアルバム『イリオン』の重要なインスピレーションのひとつが、キング・クリムゾンの『レッド』(1974年)だった、と私のような昭和ロック爺が膝打って納得するような発言をしている。『レッド』もフリップ/ウェットン/ブルーフォードのトリオ編成クリムゾンの作品だった。そう言えば『レッド』も今年2024年が50周年か。記念盤出たらば買わねばね。

<<< トラックリスト >>>
1. ILION
2. NIMH
3. THE WORDS THAT HAVE NEVER BEEN HEARD
4. CONFLUENCE
5. WEAVERS' WEFT
6. URUK
7. THE STORY THAT HAS NEVER BEEN TOLD
8. ENTER THE LOOP

SLIFT "ILION"
SUB POP LP/CD/DIGITAL SP1626
フランスでのリリース:2024年1月19日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2023年9月、KEXP-FMスタジオライヴ全編3曲:”ILION", "NIMH", "THE WORDS THAT HAVE NEVER BEEN HEARD"

2024年1月9日火曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ2023

 2023年5月23日、爺ブログ100万ビューを突破

始恒例となりました爺ブログのレトロスペクティヴ、前年多くの人たちに読まれた記事をビュー数の多い順で10点を挙げ、一年を振り返ります。2023年は4月20日に爺ブログの最重要の支援者だった土屋早苗さんが病気で亡くなるという悲しすぎる出来事がありました。その約1ヶ月後の5月23日、爺ブログが16年の歳月をかけて累計総ビュー数100万を突破しました。最大の応援者に一緒に祝って欲しかった。
それで何が変わったというわけでもないのですが、2017年から闘病が始まって以来、それとなく「100万」が目標になっていたし、正直に言えば、生きているうちに達成するのは無理と思っていた時期もあった。それがフランスの医療のおかげで思いの外”長生き”してしまって、目標100万がだんだん現実性を帯びてきて、2023年はその秒読みのような状態で年を明けた。”100万”はあっけなく突破したし、誰からもお祝いなどなかった。ああ、そんなことだったのだな、と力が抜けたが、さあ、次は、という意欲はまるでない。16年間も続けていれば、それなりの重さは増したと思うし、フランス現代史の一部の一部を確実に証言している部分もある。私の「生活と意見」は少しは耳を傾けられている、と思いますよ。だから、このままもう少し続けていくつもりです。
2022年から続いているウクライナの戦争、押し寄せる極右の波にも社会不正義にも人々の生活苦にも戦うすべを失っているエマニュエル・マクロン、年金法と移民法という2大悪法を可決してしまったフランス議会、イスラエルとハマスの戦争、ジェーン・バーキンの死、気象観測史上最も高い年間平均気温を記録した地球。2023年はヘヴィーな年でした。音楽はザオ・ド・サガザン、映画は『ある転落死の解剖分析』、文学はパトリック・モディアノ『バレリーナ』、この3つを2023年に爺ブログで紹介できたことを、われながらよくやったと自賛します。
 では2023年の爺ブログのレトロスペクティヴです。

(記事タイトルにリンクつけているので、クリックすると記事に飛べます)


1.『Nico ta mère (追悼アリ・ブーローニュ)(2023年5月20日掲載)

他の記事を大きく引き離して破格のビュー数(現在3400ビュー)を記録し、現在もなお多くの人たちに読まれ続けている。5月20日に自宅で死体で発見されたアリ・ブーローニュ(享年60歳)は、モデルで歌手のニコ(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)の息子で、父親はアラン・ドロンであると主張しているが認知されていない。追悼記事として、私がウェブ上で運営していた「おフレンチ・ミュージック・クラブ」に書いた2001年のアリの自著『愛は決して忘れない』の紹介記事を再録した。だから記事そのものは22年前に書かれたもの。アリはその一生のほとんどの時間を、アラン・ドロンに子として認知されるために費やした。なぜこんなに読まれたのだろう?日本で異常に人気の高いアラン・ドロンねた、ということだけだろうか?2024年1月、そのアラン・ドロン(現在88歳)は死期が近く、”認知された”3人の子供たちの仁義なき(遺産)抗争の真っ只中にある。

2.『追悼ジェーン・バーキン/その極私的日記(2/2)を読む(2023年7月17日掲載)

2023年7月16日、ジェーン・バーキンが76歳で亡くなった。ジェーンに関してはこのブログも既に10本以上の記事を書いていて、とても敬愛していたアーチスト+人物だったが、死の知らせが会った時私にはとっさに何かが書ける能力はもうなかった。ただその思いだけは表明すべきだと考え、また過去記事に助けを願うことにした。ラティーナ誌2018年12月号と2019年12月号に掲載されたジェーン・バーキンの日記本の上下巻の紹介記事は、私にもとても力の入った仕事だったし、この人物を深くリスペクトするきっかけともなったものだった。爺ブログに上巻(1957-1982)を先に下巻(1982-2013)をあとに1日のインターバルで再録したが、なぜか日記後編の方がビュー数が100以上多かった。つまりゲンズブールとの別離後の方が多くの人たちの興味を引いたということだろうか。東日本大震災からみの一連のジェーンの行動も日本の人たちには感銘を与えたということなのだろう。

3.『追悼ジェーン・バーキン/その極私的日記(1/2)を読む(2023年7月16日掲載)

(↑)の前日、すなわちジェーンが亡くなった日に爺ブログに掲載した”追悼過去記事再掲”の第一弾(全部で3つ再掲している)。2018年発表のバーキン日記前編(1957-1982)の紹介記事。イントロダクションで書いてあるように、ジェーン・バーキンを「ゲンズブール史の一部」として扱うことはなんとしてでも避けなければならなかった。彼女の全的人物像は「ゲンズブールの」という枕詞を必要としない、と私は言いたかった。日記前編は、英国で育った奔放だが非凡な個性がロンドンではなくパリで開花し、その最大のピグマリオンであったゲンズブールとどう対峙し、どう愛し合い、どう破局したかを当事者視線で描く。欲望や好奇心に関して言えば、ゲンズブールとバーキンはフェアーであったことがわかる。ゲンズブールの”創った”人形(ベビードール)と見たがっていた芸能メディアは、後年にバーキンの強靭でヒューマンなパーソナリティーに復讐されることになる。

4.『ミンナニデクノボートヨバレ(2023年12月2日掲載)

日本よりも3週間前にフランスで公開されたヴィム・ヴェンダース監督の”日本映画”『パーフェクト・デイズ』。フランスでも日本でもプレス評価は高く、日本でも話題になっているのだから、私のような者が何も語らずともいいではないか、と思ったのだが、かなりのネタバレも含む”悪趣味”な記事を書いてしまった。ヴェンダースが”東京”を小津流儀で(再)発見したドキュメンタリー映画『東京画』(1985年)の約40年後に、ヴェンダースが"東京”を(再)再発見する映画だと思って観たのだが、都市や企業(The Tokyo Toilet)の顔の出し方がまるで違うように思えた。日本サイドがものを言い過ぎのような点も見られた。というわけで全面的な好評価というわけにはいかなかったけれど、それでも多くのビュー数をもらったのは、賛同してくれる人たちもいるということなのかな?

5. 『シャンソン・フランセーズの未来(2023年4月11日掲載)
2023年の最も幸福な音楽的出会いはザオ・ド・サガザンとガビ・アルトマンだった。後者の紹介記事は春からずっと書きかけでいつか書き終えねばと思いながらここまで来たが、最も回数多く聴いたアルバムはガビだった。ザオは春のラ・セーヌ・ミュージカルでのライヴを体験してぶっ飛んだ。記事中にも書いたが、この人のディクシオン(発語発音術)はすばらしく明解で、歌詞力を何倍にも増幅させる。これが私には「シャンソン・フランセーズ」の真髄であると確信させるもので、かなりヴィンテージなシンセポップ風なサウンド環境にあっても、非常に”バルバラ的”シャンソンを感じさせてくれる。本日(2024年1月8日)のラジオで、ザオが1ヶ月後に発表セレモニーがある2024年度ヴィクトワール賞で4部門でノミネートされていると聞いた。大物になると予言しておく。

6. 『追悼ジェーン・バーキン/モワ・ノン・プリュ(2023年7月20日掲載)
ジェーン・バーキン追悼の3連続過去記事再掲の3番目で、ラティーナ 2019年4月号に書いた『「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」の50年』の再録。この歌をジェーン・バーキンの”代表曲”と言わせないこと、私はこれがジェーンのポスト・ゲンズブール期の戦いだったと思うのだ。その地球規模のヒットとスキャンダルは一体何だったのか?50年経っても色あせないのは策士ゲンズブールの天才であり、世界を変えてしまった1曲と言ってもいいのだが、ジェーン・バーキンは長い時間かけてそれから脱皮していった。記事がそのニュアンスで書かれていないのは心残りである。書き直す必要があると、今、思っている。

7. 『枯れ葉の秋(カウリスマキ)(2023年9月21日掲載)
アキ・カウリスマキのプロレタリア・ロマンス映画『枯れ葉』は、2023年のカンヌ映画祭で審査員賞を取り、フランスでは9月に公開されたが、3ヶ月後の12月に日本でも公開され好調のようである。爺ブログの紹介記事も(ヴェンダース『パーフェクト・デイズ』同様に)日本公開が始まってから急激にビュー数が伸びた。(↓8位)のフランソワ・オゾン『Mon Crime』も11月の日本公開以来急激にビジターが増えた。爺ブログは日本の映画紹介記事とは趣向が違うので、読んで参考にしてくれるのはとてもうれしいが、フィードバックが皆無なのは寂しい。同じ映画で語り合えるようなきっかけになってほしい。映画公開の距離感はだいぶ少なくなっているような気がするのだが、どうかな?カウリスマキ、ヴェンダース、オゾンは日本人好きのする映画作家だということだけかな?

8. 『名声と金と女性の権利をわれらに(2023年3月13日掲載)
日本上映題『私がやりました』、フランソワ・オゾンの”テアトル・ド・ブールヴァール(大通り演劇)"映画『Mon Crime』は、大通り演劇の醍醐味たるセリフ回し/ダイアローグの名人芸が全編で小気味よく展開される快作。これは「字幕」ではわからないのではないかなぁ?と思いながら書いた記事。フランス公開3月、日本公開11月、これも11月に急激にビュー数が伸びたけど、私の言いたいことは日本の画面で納得していただけただろうか?1930年代という男性原理社会的環境に、#MeToo世代的なニュアンスで起用されたであろう二人の主演女優(ナディア・テレスキエヴィッツとレベッカ・マルデール)の画面上のはばかり方、これがこの映画を今日的にシンクロさせる。こういううまさはオゾンならではか。多作家オゾンを見逃せない理由はいろいろある。

9. 『ライフ・オブ・ブライアン(2022年12月20日掲載)
今回のレトロスペクティヴで唯一ランキングされた文学紹介記事。2023年もたくさん優れた文学作品を紹介してきたつもりだが、ビュー数はすべて低調だった。同志たち、もっと本を読んでください。さてこれは2022年のルノードー賞受賞作品、シモン・リベラティ作『パフォーマンス』である。71歳の文無しダンディー作家のところに飛び込んできた大手ストリーミング配給会社のシナリオ仕事、初期ローリング・ストーンズの盟友共同体(ブライアン・ジョーンズ、ミック・ジャガー、キース・リチャード、マリアンヌ・フェイスフル、アニタ・パレンバーグ)の崩壊、より具体的にはブライアンとマリアンヌの脱落、もっと端的にはブライアンの死、というストーリーでの連続ドラマ化。小説はクセの強い老作家のヴィジョンと制作会社側の葛藤を通じて、往時のストーンズの真実に迫る構成。読ませる小説なのだが、発表から1年半経つ今も日本語化の兆しはない。

10. 『映画と訣別したアデル・エネルは闘士になった(2023年5月16日掲載)
とても長い記事。2020年2月セザール賞セレモニーでロマン・ポランスキーの受賞に抗議して激昂の退場をして以来、映画界から姿を消してしまった女優アデル・エネルのその後を、2023年5月10日号が追跡調査、演劇界で女優を続ける一方、左翼系フェミニスト運動の闘士として行動している。テレラマ同号はエネルが同誌に宛てた書簡(ほぼアジテーション文)を紹介している。その一部を翻訳して紹介した私の記事に加えて、エネルが映画と訣別したかのセザール賞セレモニーのことを書いた過去記事(ラティーナ 2020年4月号掲載)『2020年セザール映画賞に何が起こったか』を再録している。これでアデル・エネルの全貌を知ってもらおうとしたのだが、硬派の記事内容にかかわらず、250に迫るビュー数があった。同志たちの関心の深さに、ブログ続けてきてよかったな、と思う瞬間でもあった。