2024年1月27日土曜日

モアメド・ンブーガール・サール、新移民法を斬る

<< Loi Immigration, la centrale du tri(移民法は巨大選別センター) >>
モアメド・ンブーガール・サール


2023年12月19日、内務大臣ジェラルド・ダルマナン発案による新移民法案が国会で可決された。議会で絶対多数を持たない政権与党(Renaissance + Modem + Horizons...)は、この法案を通すため、保守野党である共和党(LR)の抱き込みを図り、ダルマナン法案をLR党との協議で大幅に右寄りに書き換える。その書き換え案は、これまでの外国人居住者の(フランス人と同等の)権利を多く削り、とりわけ医療や福祉の点での露骨な差別を明文化した。これは極右政党が主眼とする「フランス人第一主義」をそのまま導入したものと、極右RN党もその主旨に賛同し、賛成票を投じることとなった。これまで敵対していた政権党の提出法案にも関わらず、RN党はこの法案可決を(極右)「イデオロギーの勝利」として高く評価し、極右政権誕生が現実味を帯びたと自画自賛した。2024年1月25日、法律の「憲法適合性」を判断する立法の最高機関である憲法評議会(Conseil Constitutionnel)は、国会可決した同移民法の条項のうち、その約三分の一にあたる32項を違憲として検閲削除した。法案に反対した左派&エコロジスト政党はこの憲法評議会の決定を評価したが、移民/外国人への制限・締め付けの性格は変わっていない。

 この憲法評議会決定の発表の日、1月25日に、2021年のゴンクール賞作家でセネガル人のモアメド・ンブーガール・サール(1990年生れ、現在33歳。→写真)が、ウェブ版ニュースメディアである Mediapart(メディアパート)に、同移民法に抗議するトリビューンを投稿している。当然憲法評議会決定の前に書かれたものなので、そこは理解いただきたい。モアメド・ンブーガール・サールはフランスで最も権威ある文学賞を受賞したが、フランス国籍は取得していない。私と同じように誇り高い”異邦人”のままである。その立場からこの移民法が、外国人/移民をその中で振り分け選別するだけでなく、フランス国籍者たちまでの振り分け選別を遠からず実現してしまうことを見据えた法律であると喝破している。以下、その全文を(メディアパートさんごめんなさい)無断で翻訳して転載します。

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『移民法は巨大選別センター』

が高等教育を受けるためにフランスに来たのは2009年のことだった。人はよく私にどうして人生を続ける上で他の道を選ばずにこの国を選んだのかと問うてきた。私はそのさまざまな理由を挙げたのだが、その中には大文字で書くべき重々しくりっぱな言葉があった。すなわち:文学、人文学、哲学、共和国、知性、人権、平等。この地球に生まれ育った者として、フランスがこれらのりっぱなお題目と原則の名において行った残忍な行為の数々が歴史に深い傷を残してきたことを私は知らないわけではない。しかし私は私を迎え私を育成しようというこの国のすべてを判定することを望まず、その野蛮で犯罪的な過去を割り引いて考えていた。

こうして私はコンピエーニュにやってきた。そしてフランスの政治が私にものを教えたりイライラさせたりするのをやめるのにものの3ヶ月もかからなかった。私はバルザックに傾倒していたが、その代表作の『幻滅』を私のものとして味わせる有毒な機会がやってきた。その頃、UMP党(国民運動連合、2002年ニコラ・サルコジが創立した保守政党、2015年にLR = 共和党と改名して現在に至る)の元気な連中の衝動に端を発した「国民アイデンティティー identité nationale」論争が席巻していた。

正直に言えば、私は国民アイデンティティー論争自体はその基本においてはとても興味深いことだと思っていた。ひとつの国がその文化を築いたもの、どのような美徳がその信条に意味を与えるのか、どのような価値から、どのような歴史から、過去・現在・未来を見つめるどのような視点からその国が国民と社会を成してきたのかを論議することはそれ自体として悪いことでないと私には思えた。それは私がその考察の問題の立て方が最初から誤りであり、それが議論なのではなく、ひとつの裁判なのだということに気がつく前のことだったのだ。それも嫌な匂いを放つ弾劾裁判である、と。

その被告席に置かれたのは誰か?答えは簡単だ、いつもと同じ顔ぶれ、ユージュアル・サスペクツ、すなわち、異邦人、外国人、野蛮人、イスラム教徒、黒人、アラブ人、ロマ、南方からの移民、私。私たちがそこに座るのになにがしかの犯罪など犯す必要はない。その兆候を疑われるだけで十分なのだ。Ab initio(アブ・イニチオ=最初から)そして a priori(ア・プリオリ=証明の必要なく)に、私たちは嫌疑をかけられる者なのだ。私はここで「推定有罪」と過失なき罪というものが存在するということを知った。それは国民アイデンティティーというものを考えることでは全くなく、その国民性の規範を反動的で暴力的で差別的な「型」にはめ、すでに社会的に弱いカテゴリーへと配列していくことだったのだ。

しかしながら私はこの国に留まって生活していった。この国のさまざまなアスペクトが好きであるし、ここに住む多くの人々が私に大きな感銘を与えている。私はここでひとりの人間になり、作家になった。しかし私は決して忘れていない。私がどこにいようと、たとえ私が最も権威ある名誉に包まれていようと、私は異邦人であり、移民であり、事実として(そしてますます当然のものとして)私は来るべき脅威に属する人間なのである。その脅威とはどんな些細な問題でも人々が大騒ぎし、右であろうが左であろうが傾向はどうあれさまざまな政権において政治的利益に値しないものとして扱われ、人々はそれを犯罪者扱いすることに何のためらいも覚えないのだ。

何が私にそれを思い出させるのか?往々にしてそれは道ゆく人であり、定期的に変わる法律でもあるが、常日頃この国の呪われて言葉少ない外国人たちが構成する家族の面々の顔を見るたびにそれは蘇ってくる。私はそれらの顔を見つめる。怯えていたり、勇ましかったり、絶望的だったり、戦闘的だったり、激昂していたり、歓喜にあふれていたり、打ちひしがれていたり、勝ち誇っていたり、怒り狂っていたり、人懐っこかったり。しかしながらこれらすべての顔ははっきりとした意識を持っているという点でみなよく似ている。彼らはどこに自分たちがいるのかを知っている。国民アイデンティティーの問題は、この国の外国人たちにこそ問いかけるべきたったのだ。彼らは恥によってその国民アイデンティティーを知っている。つまり彼らこそ最適なのだ。彼らはフランスの影の部分を知っている。その輝かしい伝説の黒い裏側、その卑劣さ、その虚偽、その歴史的かつ今日も続く暴力、彼らはこの点に関するフランスの修辞的言い換えや書き換えに騙されることはない、この国による悲惨な受難劇を彼ら以上にうまく描ける者はない、その受難劇の過去、現在、そして未来に関しても。


UMP
党の猛者たちによる国民アイデンティティー喜劇からすでに15年ほどの月日が経った。しかしながらこの2023年暮れの出来事からすれば、このUMP党のバロンたちなど人畜無害の呑気者に見えるだろう。天下の法治国家にとって憲法上の天変地異のような状況の中で、フランス政府(誰がその中心的推進者だったのか?エマニュエル・マクロン?内務大臣ジェラルド・ダルマナン?あれ以来下船させられた首相エリザベート・ボルヌ?)が、移民法を議会で可決成立させたのだ。その新法における移民に対する冷酷さと不公正さはフランスの極右政党の主張と全くひけをとらぬもので、その極右政党自体がこの政府決定に極右の「イデオロギー的勝利」を見てとり、その可決を祝福したのだった。

この極右の勝利自賛だけでも議会多数派は恥辱に打ちのめされ困り果てることになるはずではなかったか。しかし今やそのような時代ではない。もはやいかなる憎悪も資料化されないし、卑劣な過去も存在しないし、いかなる政治的病疫も忌み嫌われなくなった。政治的空間を圧倒することなどいともたやすいことだったろう。そして今度は社会を圧倒し、その深いところから押し入り、古い堤防はすこしずつ後退りされ、ついには完全に決壊してしまう。しかしフランス政界はこの運動を容認し、それと戦うのではなく逆に火をつけ、合法性を与え、伸長を加速させ、制度として定着させた。かつての“焦げ色の狼たち”(ナチ、ファシストの喩)が今日“白い羊たち”として通るようになったのは一体どういうわけだ?この変態を許した責任は誰がとるのか?

いずれにしても現フランス政府にその責任の一端はあることは間違いなく、その汚点は永久にこの政府にまとわりつくだろう。ここ数年の移民に関連するさまざまな立法を注視している人々にとっては、そのようん法律がひとたび通ってしまえば(つまり極右政党が既に権力に就いていたかのように)まったく呆れや驚きなどなくなってしまう。すべては底辺のところで道理が通っている。私はこの法律とその措置(外国人学生に対する学費の引き上げ、アフリカの一部の国からの留学生のビザ発給の取り消しなど)の詳しい成り立ちをここで詳説するつもりはないし、この法律にまつわるすべての不幸な原因とそのおぞましい結果をここで繰り返すつもりもない。


私はこの国の外国人と移民たちを、ことさらにこの国でも成功することができる(ある者はゴンクール賞を獲得することもできる)ということを引き出して擁護することも拒否する。彼らはその分野で最も有名で栄誉ある人たちだ。ここでは彼らは問題ではないのだ。むしろ言い換えれば、彼らはこの法律で最も脅かされる人々ではない。この法律が最も暴力的なやり方で侮辱し破壊しようとしているのは彼らではない。私は、フランスに重要な貢献をした外国人として、移民出身フランス人たち(多くは故人であるが、生存している人も若干)の顔写真つき
WHO’S WHOのようなりっぱな本をパラパラめくったことがある。

その意図はまちがいなく称賛すべきものであったはずであるが、このような宣伝行為の底にあるものが姑息なやり方でこのおぞましい法律の同盟を作り上げないとはとても信じられないのだ。この法律が作り上げようとしているのは良い外国人と悪い外国人のカテゴリー分けであり、移民たちを容認でき見目よく求められる人々と、価値がなく正体が見えず存在が迷惑な人々に選別することである。

この点について間違えてはならないこと、それは外国人関連法の立法化というものが常に政治的な小手調べであり、実験であるということだ。この法律の行く手に見えてくるのは、単純に外国人住民の中から留めておいても良い人々と留めておけない人々を分別するだけでなく、フランス人住民そのもの中からも、外国起源の人たちを識別する、すなわち本物と偽物を見分けることまで視野に入っているということだ。たしかに、これはいやな匂いがする。フランス起源を主張する言説も浮上しつつある。地面の下ではもうかびがはびこっている。

では、何をするべきか? このような状況の時にいつも人々が行ってきたことすべてをやるしかないのだ。それは大そうなことではないが、それでも大きな行動なのだ:ノンと言うこと、行進すること、書くこと、抗議すること、集合すること、語ること、語り合うこと、これ以上分断化されることを拒否すること。ひとりひとりが、その可能なやり方で闘うこと。奇跡のような武器を持って、希望があろうとなかろうと。私がここで書いてきたことすべてはこの国を牛耳っている男性たち女性たち、およびそれを支持する人々には全く心に響かないことだろうと想像はできる。しかし構うものか。この醜悪な法律を前にして私たちにできることはこれだけだ:それを絶えることなく糾弾し、連帯を持って共に闘おう、最後まで。

2024年1月25日
モアメド・ンブーガール・サール

(↓) LCP(国会テレビ局)のニュース動画。1月21日、パリ・トロカデロ広場。憲法評議会(Conseil Constitutionel)の移民法の違憲決定と同法廃止を求めるデモ。

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