2021年4月30日金曜日

Born to be WILDER

ジョナサン・コー『ビリー・ワイルダーと私』
Jonathan Coe "Billy Wilder et moi"(原題"Mr Wilder and me")

ランスで非常に人気が高くそのほとんどが仏語訳されている英国作家ジョナサン・コー(1961 - )の最新作(長編小説では第12作め)で英国では2020年に刊行されたもの。題名が示すように、シネフィルで知られるコーがとりわけ偏愛するハリウッドの名匠ビリー・ワイルダー(1906 - 2002)をめぐる詳細な資料に根差したフィクション作。ワイルダーはオーストリア生まれのユダヤ人、映画の道(脚本家)でやっていけるメドがついた頃にナチス台頭があり、1933年にフランスに移住、さらに1934年に英語が全くできない状態で米国へ。父は既に死去していたが、オーストリアに残った母とその近親者たちはすべてアウシュヴィッツで命を失ったことになっている。このことへの「落とし前」というのがこの小説の重要なテーマのひとつである。
 小説が中心的に取り上げている時期は1977年と78年である。21世紀的現在に夫と二人の娘と共にロンドンに住み、仕事がほとんど来なくなった映画音楽作曲家となっているカリスタという名の中年女性が「話者=私」として書かれる、現在と回想が混じり合った構成の小説である。カリスタはギリシャのアテネに生まれ育ち、少女期に軍事政権統治を体験し、外国の文化が制限されていたこともあり、広い世界を知りたい願望が強く、大学の最終学年の夏(1977年)、バックパッキングでアメリカ旅行に出発し、グレイハウンド長距離バスで東海岸から西海岸まで旅していた。途中で知り合ったイギリス娘のギルと意気投合し、ロサンゼルスまでやってくるが、そのギルが父親の知り合いから夕食の招待を受けていて、ギルとカリスタは無頓着にTシャツ&デニムホットパンツ姿でその場に行ってみると、ビバリーヒルズ有数のフレンチ・レストラン「ビストロ」であった。そして招待主としてそこにいたのが、ビリー・ワイルダー夫妻とワイルダーと20年来共同脚本家としてコンビを組んでいるイズ・ダイアモンド(1920 - 1988。『お熱いのがお好き』、『アパートの鍵貸します』、『シャーロック・ホームズの冒険』等)夫妻だった。しかし、この若いヨーロッパ女学生の二人は、名前を言われてもこの初老男性二人がどんな人物なのか全く知らなかった。おまけにこの旅行中に激しい恋に落ちてしまったギルは、食事中彼と合流したい気持ちが抑えられず、カリスタひとりを残してトンズラしてしまう。カリスタは緊張と気まずさで固まってしまうのだが、この映画の巨匠二人(+好感度この上ない女性二人)との知的に刺激ある会話と極上のワインと料理に魅せられ、果てにはアルコールの心地よさで眠りこけてしまう。最後の失態こそあれ、カリスタは人生最高の夕食の宵として記憶し、アメリカ旅行の他のことなどほとんど印象に留めず、「ビストロ」の思い出だけを抱いてギリシャに帰っていく。そして軍政直後で映画館で過去の外国映画など観れない(+ヴィデオなどまだ一般に普及していない)状態ながら、英語書籍でビリー・ワイルダーの全作品を調べ、筋や配役や映画評などを暗記するほど読み耽り、マニアックなワイルダー通になってしまう。
 さてこの70年代後半という時期は、ハリウッド黄金時代を築いたワイルダーにとっても斜陽現象がはっきりしてきていて、映画作りが難しくなっている。コッポラ、スコセッシ、スピールバーグといった若手の台頭で、客の入る映画の傾向は一転してしまい、ワイルダーは時代遅れと見做されるようになる。とりわけスピールバーグに関してはことあるごとにワイルダーの口に昇り、「あの”サメ”の野郎」と敵意をあらわにする。サメのおかげで自分たちが映画を撮れなくなったのは事実である。これらの若手の映画には(才能は認めながらも)二つの大戦を体験したわれわれの重さがないんだ、と言う。後年のエピソードであるが、ナチスに家族を奪われた映画人ワイルダーが、権利を買い取ってどうしても自分が映画化したかったのがトーマス・キニーリー原作の『シンドラーのリスト』(1982年)であった。しかしその権利は宿敵スピールバーグに取られ、1993年に映画化され世界的な大成功を収めるのは周知の通り。このスピールバーグ版を観たワイルダーは「これ以上の描き方はない」と称賛する(なんていい話なのだ)。
 話を戻そう。70年代後半ワイルダーとダイアモンドは1年のうち3ヶ月間は脚本を書き、9ヶ月間は制作会社を探して奔走するという生活になってしまう。そしてついにアメリカの映画会社から尽く断られ、次作『フェドーラ(Fedora 日本題「悲愁」)』(1978年)は、西ドイツ資本の出資(しかもこの小説によると映画とあまり関係のない西ドイツ大企業の税金対策出資)で制作されることになる。美貌の衰えを隠すべくギリシャの孤島に隠遁する世紀の大女優フェドーラの悲劇的結末を描くこの映画(主演ウィルアム・ホールデン、マルト・ケラー)はギリシャと西ドイツとフランスで撮影される。
 小説はあの出会いから1年後、もう二度と縁はあるまいと思っていたカリスタのところへ、『フェドーラ』のギリシャでの撮影に通訳スタッフとして加わってほしい、というワイルダー側からのオファーがあり、英語教師として働く予定をキャンセルして現地に飛ぶ、という段になってから「ワイルダーと私」という題通りの本筋がスタートする。初めて飛び込んだ映画制作の現場に翻弄されながら、思い通りに撮影が進行しないワイルダーとダイアモンドの苦悩ともつきあうカリスタ、加えて(この作家のちょっと過剰なエンターテインメント性のように思える)カリスタのほのかな恋の目覚めもある。そしてギリシャでのロケ中から体調を崩していたイズ・ダイアモンド(座ることができないほどの腰痛で本人は帯状ヘルペスと言っていて、カリスタがギリシャで入手が難しい処方薬を手配していた。実際は1988年ダイアモンド死去の死因となる骨髄ガンがこの時既に進行していたようだ)のケアのおかげで、親密な関係になり、この親友共同脚本家から聞くことができる話でワイルダーの別サイドの顔も見えてくる。このおかげもあって、ギリシャロケだけでお役御免になる予定だったカリスタは、イズ・ダイアモンドの個人秘書という名目でミュンヘン、さらにパリへと、ヨーロッパでの撮影が終わるまでワイルダーたちと同行することになるのである。しかし映画撮影はワイルダーもダイアモンドもなかなか納得が行かない状態で進んでいく。 
 小説のハイライトはミュンヘンにあり。ホテル・バエリッシャーホフのバンケットルームで催されたディナー。出席はワイルダー、ダイアモンドの他に主演のウィリアム・ホールデン、マルト・ケラーと彼女の当時の恋人アル・パチーノ(どんな超高級レストランでもチーズバーガーを注文する)、メインゲストとしてこの映画の音楽を担当することになる(『ベン・ハー』などの映画音楽の巨匠)ミクロス・ローザ(ワイルダーとのコンビは『シャーロック・ホームズの冒険』など)、そしてドイツの出資会社からの代表数名(英語をまともに話せない者も)。宵は進み、ディジェスティフの段になって何度も訪問してミュンヘンをよく知るミクロス・ローザが、72年のオリンピックをきっかけとするミュンヘンの驚異的に豪勢な都市開発ぶりを指して、当時のドイッチュマルクのパワーの甚大さを皮肉をこめて語ると、イズ・ダイアモンドが「それはあまり近くで見ない方がいい」とシニカルに応じる。すると食事中ずっと無言だったドイツの出資会社役員が「それはどういう意味ですか?」と切り返す。さらにその若いドイツ人部下が「アメリカの最近の学術研究によると、前の戦争でドイツ軍が殺したとされるユダヤ人の実際の死者数は連合軍発表よりもずっと少ないのですよ」とネオ・ナチまがいの発言が飛び出す。ここでビリー・ワイルダーが、では私が実際に体験したことをこれからきみにお話ししよう、この話のあとできみにひとつ質問するから、答えてくれたまえ、と。
 ジョナサン・コーはこの小説の160ページめから219ページまで、つまり全部で60ページを映画脚本の形でナレーション、ダイアローグ、背景状況、カメラワーク、照明暗転などを記述している。ここに書かれているのは(素晴らしい60ページなので私がざっくり書いてどれほど伝わるかわからないが)1933年ベルリンに始まる若きオーストリア人脚本家ビリーが恋人ヘラとナチスを逃れてパリへの逃避行(パリ滞在中にミクロス・ローザとも邂逅している)、さらにヘラと惜別してロンドン経由で単身片道渡米 ー ここで11年飛び、戦争が終わり、アメリカ軍大佐の資格で連合軍の占領地における映画・演劇・音楽の統制責任者としてヨーロッパに派遣される。何十缶と本部に送られてくるアウシュヴィッツ他のナチスの強制収容所の記録フィルムをビリーは一本残らず試写する。それは編集してナチスによる大量虐殺の記録映画を作るためだが、ビリーはその一巻一巻の(生存者と死体がごちゃまぜになった)映像に(そこで死んだと伝えられている)母とその近親者たちの姿を探していたのだ。そして連合軍側の責任者として編集されたその記録映画を、ドイツ全国で上映し、すべての成人ドイツ国民に義務として見させることを厳命する。ビリーによる編集が終わったあとにも送られ続ける記録フィルムの最後の一巻に、夥しい数の死体に混じって微かに蠢いている瀕死の人間がカメラに向かって無気力な視線を向けている姿をビリーは正視できなくなる。これは母なのか。
 映画シナリオの形で作者が転載した、ミュンヘンの高級ホテルバンケットルームでのワイルダーの長い話はここで終わる。そしてあのドイツの出資会社の若い幹部社員に問う「ホロコーストがなかったと言うのなら、一体私の母はどこにいるのか?」ー

 その後、同じミュンヘンで記者会見があり、ドイツ人女性ジャーナリストがドイツ語でこう質問する「ワイルダーさん、あなたは二つの世界大戦に挟まれた何年間をベルリンで暮らしていました。あなたの新作映画を撮影するためにあなたを再びドイツに来させることになったのはどんな理由からなのですか?」。これに対してワイルダーは全く冗談めかさず、真顔でこう答える:
ご存知でしょうが、この映画のためにアメリカで制作資金を集めることはたいへん難しかったのです。私はドイツの友人たちと同業者たちが力を貸してくれたことが本当にうれしかったのです。そして今、私自身ある意味でこの状況は私にとってどう転んでも勝ち目のあることがと思っているのですよ。
ー それはどういう意味ですか?
つまり私はこの映画で絶対に損をしないのです。もしもこの作品が大ヒットしたら、それは私のハリウッドへの復讐となり、もしも大コケしたら、それは私のアウシュヴィッツへの復讐となるのですよ。

ぷあぁぁっ!この一言がこの小説の心臓部であり、ワイルダーのこの映画の制作の難しさのすべてを語っているのですよ。(完成後、この映画はアメリカで大コケし、結果的にはワイルダーの言うアウシュヴィッツへの復讐とはなったのだが。)
 
 小説はミュンヘンに続いて、最後の撮影地のフランスへと移っていく。ワイルダーとダイアモンドはさまざまな難航にも関わらず、長年の映画職人の根性のようなもので乗り越え、ようやく最終の撮影をパリから60キロ東のモールセール(セーヌ・エ・マルヌ県)の国鉄駅で行うところまでこぎつける。カリスタはギリシャで生まれた淡い恋がパリで燃え上がり、その最初の一夜のあと幻滅で失ってしまう、という失恋の翌日の失意の状態でこの撮影に立ち会うことになるのだが、パリから撮影地へビリー・ワイルダーの専用車に同乗するという幸運を得る。二人は車中で長かった撮影道中(ギリシャ、ドイツ、イギリス、フランス)を振り返りながら、年齢の離れた親友のように話し始める。そしてここがフランス! 運転手が自分の親戚がこの地方の名産の極上のチーズを作っているから、寄り道して食べて行ってほしい、と。時間的にあまり余裕はないのだが、美食家のワイルダーとしては外せない申し出。車は主要道を降りて、土埃を上げて走る田舎道へ。そして大きな農家にたどり着き、主人から3種類のマルヌ地方名産チーズのブリー、加えてそれとこの上なく調和するピノ・ノワールの赤ワインを差し出される。もう、この部分の描写の素晴らしさよ。大難産の映画の最後にたどり着いた名映画監督と、それと付き合い通したあげく恋を失った娘は、馥郁とした香りの極上ブリーにすべてを忘れたかのような幸福を共有するのである。たまらん。撮影開始時間を忘れ、ブリー3種類を平らげピノ・ノワール2本を空けてしまった二人...。

 前述のように、この『フェドーラ』という映画は商業的には大失敗だったが、ビリー・ワイルダー的には「白鳥の歌」と称される作品になった。ワイルダー+ダイアモンドではその後もう一本『バディー・バディー(Buddy Buddy)』(1981年)という本当の最後の作品があるが、この小説でも「語るに値しない」作品のように書かれている。しかし世評にも関わらず、ジョナサン・コーにとっては『フェドーラ』が特別に重要な作品となっていることがよく了解できる。架空の人物ではあるが、ギリシャ娘カリスタはワイルダー(とダイアモンド)によって映画愛に目覚め、のちに映画に音楽家として関わっていく生き方は魅力的だ。77年の夏と78年の夏、ふたつの夏で人生が変わってしまった女性の姿だ。そして今、長年構想している(映画が存在していない)映画音楽を少しずつ完成に近づけている。その(存在しない)映画の名は『ビリー』、その脚本の一部がコーが転載したミュンヘンでのワイルダーの長い回想、という仕掛け。出来すぎた小説の構成に目がくらくらする。

Jonathan Coe "Billy Wilder et moi"
Gallimard "Du monde entier"叢書、2021年4月8日刊 300ページ、22ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ガリマール社による『ビリー・ワイルダーと私』プロモーションクリップ

 

2021年4月21日水曜日

パリに住んでて、ドヌーヴと知り合いなのよ

Edouard Louis "Combats et métamorphoses d'une femme"
エドゥアール・ルイ『ある女の闘争と変身』

21歳の時『エディー・ベルグールにケリをつける』で作家デビューしたエドゥアール・ルイは28歳になった。北部フランスの地方部の(これまで誰も書くことがなかった)極端な貧困と封建的男性原理社会の中でホモセクシュアルの子として疎外と虐待を受けて育ち、いかにしてそこから抜け出したかを綴った第1作『エディー・ベルグール...』(2014年)以来、著者はその生の真実しか書いていない。自伝的オートフィクションなどというレベルではない。これはルイにとっての真実なのである。だからこれが「小説」あるいは「作品」なのか、ということは著者にとっては何ら問題ではない。彼が生身で体験した事件と環境をそのまま描いた。これが世にはばかるのである。フランス語で言うところの "qui dérange"、つまり泰平の眠りを邪魔するものなのである。それは誰も書いたことがなかったことだったのだから。最初の書『エディー・ベルグール...』の原稿を出版社数社に送ったあとで受け取った拒否の返事がみな「21世紀のフランスにこのような貧困が存在するわけがない」というものだった。この赤裸々な真実は誰も書いたことがなかったから、編集者たちは信じなかったのだ。
 自らが性暴行の被害者となった事件の一部始終を描いた『暴行譚(Histoire de la violence)』(2016年)が、多面体的にたくみに構築された「文学作品」として読めるという点でやや例外的な一冊と言えるが、続く『誰が僕の父を殺したのか(Qui a tué mon père?)』(2018年。ラティーナ誌2018年7月号に紹介記事)は『エディー・ベルグール...』で心底憎悪していた暴力的で無教養であらゆる差別の代弁者であった父親を再考し、何世代にもわたって再生産される貧困のシステムの被害者として50歳で廃人と化した父を「理解」する書であった。
 16歳で奨学金を得て、村の実家から出てピカデリー地方の中心都市アミアンのリセに通うようになって初めて得られたエディー(当時の本名)の自由、この日から著者のラジカルな変身が始まるのだが、それは最初は過去と決別することであった。数年後その決別の経緯を題材として作家となったルイは、その後唾棄するほど嫌悪していた過去に何度も立ち戻り、再発見と和解を体験する。第二作『暴行譚』では妹のクララの真の姿を、第三作では政治と構造的貧困の犠牲者としての父の姿を。そしてこの新著では母親モニックを再発見してしまう。
 発端は一枚の写真である。いつどこで手に入れたのか思い出すこともできない、本に挟まっていた母の20歳の時の写真。セルフィーなどという言葉が存在しなかった30年ほど前、おそらく安物オートフォーカスカメラで遊んでいたのだろう、自分の顔にレンズを向け、自分でシャッターを切った写真。屈託も邪気もない若い娘の顔。ルイは思う:
きっと私は忘れてしまっていたのだ、私が生まれる前、彼女は自由で幸せだったのだということを。
もちろん彼は自分が生まれたあとのことしか知らず、その母は父と同じほどに彼に冷たく高圧的だった。 そしてその子のホモセクシュアリティーを理解しようとせず、擁護する側に立たず、父親と同じようにその”性向”(女の子のような動作ふるまい)をなじった。
 北フランスで貧しく育ったモニックにも若い頃は調理師になるという夢があった。16歳で専門学校に入ったものの、好きでもない鉛管工事職人と関係ができ妊娠してしまう。なりゆき上の結婚、18歳で一児の母にして専業主婦。男は暴力的でアルコール漬けで女癖が悪い。育児が落ち着けば専門学校に戻り好きでもない男と別れて自分の道を、と考えてもいたが20歳で第二子が。モニックは二人の子供のため、と夫の嘘と暴力とアルコールに耐えてきたが、我慢が限界を超え23歳で二人の子を連れ家出し、妹の住むHLMに居候する。学歴も職歴もない女が幼子二人の面倒を見ながらどうやったら生きていけるのか。前夫のところから飛び出して数ヶ月後、たぶんこれしか生き延びる方法がなかったのだろう、彼女はひとりの工場労働者と出会い、関係を持つ。これがエディーの父親になる男であるが、彼は三人を迎え入れ、新生活が始まる。しかしこの男は前夫と同じほどに暴力的でアルコール漬けで野卑なのだった。二人の子供を養うために始まった好きでもない男との家族生活は悪化の一途を辿る。第1作『エディー・ベルグール...』でも詳しく描写されているが、夫は働いている工場で工作機械が背中に落ちてきて重症を負い、入院とリハビリの甲斐なく、再び働くことが難しくなってしまう。労災と失業手当で一家を養うのは極めて厳しい。この窮状を忘れるためのアルコールの量は倍増し、口論とDVは耐えない。一家は再婚後にできたエディーのあと、さらにモニックが双子を妊娠してしまう。経済的に養育不可能と知っていながら、夫は(封建的家父長制のおきてか、信仰もないのに頭に叩き込まれているカトリック的価値観からか)、絶対にこの双子を出産して育てよ、とモニックに厳命する。子供5人(そのうちのひとり前夫からの連れ子の長男が凶暴な不良になっていく)、仕事に出れない夫、モニックは村の老人介護のパート仕事をもらいわずかな収入を得るが、極端な貧困状態は改善されるわけがない。
 本書はこの何重もの悲惨からモニックがいかにして抜け出したか、という記録である。著者がこの母親と同居していた15年間(生まれてからアミアン転居まで)、少年エディーにとってモニックは味方ではなかった。暴君的で無教養な父親側の人間であり、父親に対するのと同じようにエディーはこの母親を恥じた。子供同士の会話で「あれはおまえのママンか?」と聞かれたら、違う、と答えていたし、学校の父兄呼び出しの時に母親が学校に来ないように手を回していた。恥ずかしいのは貧しい身なりだけではない。とりわけその言葉づかい、語彙、口の聞き方だった。だが、それが少しずつ変わっていったということにエディーは気付いていなかった。今になって記憶の中でルイはその変化を再発見していく。それは、児童のある低収入家族のための夏休み補助金を初めて公的機関に(ややこしい書類を書いて)申請して行けた初めての子供たちとのヴァカンスの幸福であり、忙殺の家事の日常から初めて解放された笑顔を子供たちに見せたことだったり、偶然知り合った(階級的にひとつ上の)不幸な女性とあたためていった友情のおかげで、それまでしたことのなかった化粧や美容院通いや女同士でカフェで談笑することや近隣都市に行ってのショッピングなど”フツーの”女性たちの真似事ができた喜びだったり...。貧困と村社会と男性原理に打ちのめされ続けてきたモニックは、少しずつ「解放されたい」「自由になりたい」「自分の人生を取り戻したい」という希望の風を肌で感じるようになっていった。それを妨げるものは暴力を振るい、人前で彼女のことを「脂肪のかたまり」と罵り、身体能力が徐々に低下して手間がかかるようになり、アルコールと悪いダチとの付き合いがひどくなっていった夫(エディーの父親)だけなのである。
 既にパリで作家となっていた著者の第二作『暴行譚』で書かれた性暴行事件の翌年、夜に電話が鳴り、開口一番「私ついにやったわよ」という母の声。
私は彼女が何のことを話しているのかすぐに理解し、私も興奮してこう言った「話して!どんなふうにしてやったの?」。彼女は一息ついて語り出した「いつものことであの男、家に戻らなかったの、あんたも知ってるでしょ。何時に出て行ったのか知らないけれど、私は食事を作ってあいつを待っていたの。でもね私自分にこう言ったの、もうおしまいだって。私はもうあの男を待たないし、この先ももう絶対待たないって。もう待つのはうんざりだって。」
(僕はあんたを誇りに思うよ、あんたにそれもう言ったっけ?)
彼女は続けた「それから私はあの男の身の回りのものすべてをゴミ袋につめて、家の前の舗道に放り出したの。こんなふうにね。私はもう自分を止められなかった。それからあの男が戻って来て家の扉を開けようとしたけど、私は全部鍵をかけておいた。そしたらあいつ壁や窓を叩いて叫び出した。私あいつのことはよく知ってるよ、私から見ればあいつは何が起こったのかよくわかったんだと思うよ。私は扉越しにあいつに言ってやった、もう二度と帰って来るなって。あの男「もう二度と?」って聞き返すから、私は繰り返した「もう二度と!」。あいつ泣き出したんだけど、私は自分に言い聞かせた、許しちゃだめだ、屈したらだめだ、って。もう許すのはおしまいよ。」
(p81 - 82)
母は50歳に手が届く頃に、構造的貧困と夫の暴力と差別に打ちのめされた無産の地方女性から自由への逃走を果たした。 それは同じ貧困と父の暴力と封建的性差別に打ちのめされたホモセクシュアルの自分と同じ闘いだった、とエドゥアール・ルイは気付き、ひとりの女性モニックと和解し、母を誇りに思う。この薄い120ページの本は、その和解を祝福する闘争のドキュメンタリーと読める。
 その後も母の革命は続き、ひとりの男性と出会い、大きくなった子供たち(問題ある子もいる)と別れ、(移住にしばらく躊躇したものの)パリのアパルトマンのコンシエルジュとして働き始めた”彼”を信じて首都に上って行き、夫婦コンシエルジュとして働いている。若返り、生気を取り戻し、息子エディーのようにパリで生きている。著者はこの闘争と変身の書の打ち上げ花火のように、最後部にモニックとカトリーヌ・ドヌーヴの出会いという美しいエピソードを紹介する。これは是枝裕和監督がパリで『真実』(2019年、主演カトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノッショ、イーサン・ホーク)を撮影していた時、その現場にエドゥアール・ルイが立ち会っていて起こった話。
 既に作家になっていた私は、ある映画撮影に招かれていてその現場に彼女もいた。ある時私の後ろにいた男が休憩を取ろうと私に言い、きみはカトリーヌ・ドヌーヴと話してみたくないかと尋ねた。私はもちろんですと答え彼のあとをついて行った。彼女と面と向かった時、私は彼女に何を話すべきかいろいろ考えてしまった。あまりシリアスなことでもだめだし無駄話でもだめだ、と。そして私は母のことを思いついた。母はドヌーヴのことが大好きだったのと同時に、これほど母と違った人生は母には不可能だったはずだから。私はドヌーヴに私の母があなたの家のすぐ近くに住んでいますよ、と軽い話題のように話した。政治や世相について通り一辺のことを話すことは避けたかったから。
 カトリーヌ・ドヌーヴは大きく目を見開いた。私は彼女が驚いたのを見てとり、彼女に母が建物のコンシエルジュとして働く伴侶を頼ってパリにやってきたことなど母の変身について語り始めた。彼女は微笑み、タバコを吸いながら、いつかあなたのお母さんに会いに行くわ、と言った。
 数日後、母が電話してきた。「たった今、誰と一緒にタバコ吸ってたと思う?カトリーヌ・ドヌーヴよ!」
 私はドヌーヴがそんなことをするとは思ってもみなかった。私は彼女が母に会いに行くと私に言ったのは礼儀からのことだけで、初対面の会話の気まずさを避けるためだけのことだと思っていた。
 母は電話でカトリーヌ・ドヌーヴが母の建物まで来て、一緒にタバコ吸いながらお話ししない?と母を誘ってきたと語った。「私は彼女と話してる間中、気づかれないように周りを見回したの。だって私はできるだけ多くの人たちに私が彼女と話しているところを見てほしかったの。私はすべての人にカトリーヌ・ドヌーヴが私に話しかけてるというのを知ってもらいたかったのよ。」
 私は母の声にこれほどまでの気の動顛を聞き取ったことはない。母が若い頃からずっと憧れていたこの女優とのやりとりが、母の変身のために母が費やしてきたすべての努力の凝縮を象徴しているかのように。目をくしゃくしゃにして母はこう要約した:「私はこれまで人生をなすがままに放ったらかしておいた。でもね、今、私はパリにいて、カトリーヌ・ドヌーヴと知り合いなのよ。」
(p101 - 103)

笑ってしまおうではないか。拍手しようではないか。闘争は勝利し、変身は真実のものになった。エドゥアール・ルイが書くから、この真実味はただものではない。

Edouard Louis "Combats et métamorphoses d'une femme"
Seuil刊 2021年4月 120ページ 14ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)国営TVフランス2のトーク番組「On est en direct」で自著『ある女の闘争と変身』について語るエドゥアール・ルイ



2021年4月19日月曜日

エディー・ド・プレットとエドゥアール・ルイ

2021年3月から4月、本稿の二人の主役の新作が出た。現在29歳のエディー・ド・ブレットは3月26日にセカンドアルバム『A tous les bâtards (すべての雑種たちへ)』を発表し、デビューアルバムの極私的な”変わり者”の叫びからレンジを広げ、世から白眼視されるあらゆるビザールでフリークでマージナルな人々の代弁者たらんとしているようだ。デビューアルバムほどの支持を集められんことを。次いで4月1日、現在28歳のエドゥアール・ルイは第4作めの"小説(?)"『ある女の闘争と変身』を発表、4月中旬現在、書店ベストセラー1位の好評を博している。白状して比較すると申し訳ないが、前者に比して後者に何倍もの興味を持っている私である。2014年の第1作『エディー・ベルグールにケリをつける』以来、当ブログはこの作家の動向を積極的に紹介してきた。これまでエドゥアール・ルイの"文学”作品で当ブログが書いていなかったのは2018年の『誰が僕の父を殺したか(Qui a tué mon père?)』のみだったが、ここにラティーナ誌2018年7月号に発表したエディー・ド・プレットのデビュー作とルイのこの作品を紹介した記事を再録することにした。今読み返しても、非常に重要な作品だったことが了解される。
(2021年4月19日記す)

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2018年7月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ふたりのエディー
(in ラティーナ誌2018年7月号)

から5年前、2013年4月23日、同性の結婚を認める法律(発案法相の名をとって「トービラ法」と呼ばれる)が国会で可決され、フランスは世界で14番目の同性結婚が可能な国になった。その前後で同法に反対する保守系+極右系+カトリック系市民のデモは一時は百万人を動員するほど勢いがあったが、時と共に同性結婚はフランスの普通の市役所前風景(記念写真)となりつつある。成果のあまりなかったオランド政権時代(2012-2017)の、ほぼ唯一の金星と言っていい。この一歩の前進にも関わらず、フランスでの同性愛者及びLGBT全般に関する偏見・差別はまだまだ根が深く、暴力的な嫌がらせや迫害事件は絶えない。少年期に家庭でも学校でもそういう苛めを体験した音楽アーチストと作家、共に今年25歳、共にゲイゆえに受けた苦渋の体験をベースにした作品を発表し、共に名前をエディーと言う。

 2017年のブールジュの春フェスティヴァルで最高の新人と評価されて以来、エディー・ド・プレットは凄まじい勢いでその知名度を上げ、まだレコードも出ていなかったので有力レーベルが争奪合戦を繰り広げたと言う。レパートリーはすでにSNSで瞬く間に広がり、その秋には周るコンサート会場の先々でオーディエンスが全曲を声をかぎりに唱和するという現象に達した。このどこから出てきたのかわからない若者の衝撃の最初はそのルックスである。小柄(身長170センチ)な体躯に、中世フランドルの画家ヤン・ファン・エイクの肖像画から出てきたような青白く平面的な気難しい表情の顔、それは日本の俗っぽい表現では「ブサイク」な男である。そしてステージ上に現れるのは、バックトラックを詰め込んだスマホ(iPhone)、ドラムスセットを叩くドラマー、そして青白い青年(エディー)だけなのだ。この構図では観客は俺しか見ない、というしたたかな計算は、彼がリセ時代から学んだ演劇から得たものだと言う。ラップ/ヒップホップのDJによるシンプルで重みのある抒情的短調3コードのバックトラックに、驚くほど正調で明瞭な発声の歌い込みヴォーカル(クロード・ヌーガロ、ジャック・ブレルを想わせるほど)が一語一語の言葉をはっきりと聞き取らせる。約1年後の20183月にやっとリリースされた初アルバム『キュール(療養)』には歌詞ブックレットを故意につけていないのだが、その必要などない、という自信がはっきりと見える。 この子は愛や希望など歌わない。その歌は世の規格や慣いから外れて生きた私的体験からの恨み節でもあり、反抗の表現でもある。エディー・ド・プレットは1993年にパリの南の郊外新都市クレトゥイユで生まれ、そこで育ち、早くからその郊外的環境から抜け出さねばと目覚めたと言う。それはすでにラップ系のアーチストたちが繰り返して告発していた貧困・失業・人種差別・パラレル経済(犯罪、ドラッグ)の環境であり、子供の頃から閉ざされた未来を看破してしまう。7歳の時、両親が離婚し、彼は母親の新生活に拒否反応を示す。甘ったれで母の愛を渇望していたこの子は、満たされずに泣いてばかりいた。彼の教育に関してはほとんど不在だった父親は口を開けば「泣くんじゃない、外でボール蹴りをしろ、強い男になるんだ」と言うばかり。この父親の「雄々しき男たれ」という叱責は後述のエドゥアール・ルイに共通する重要な小児期トラウマであるが、エディー・ド・プレットは「キッド」という歌でこう表現している。

雄々しくなるのだ、キッドよ
体力と威圧する態度と大物の恰幅をもって輝くのだ

おまえの性は弱者たちを嘲り勝利する

目に花火を散らして歓喜するのだ

限度を知らぬ雄々しさ

限度を知らぬ雄々しさ

でも僕は女の子たちと遊ぶ

でも僕はペニス自慢などしない

でも僕はあんたの顔に皺を作らせ

あんたの説教なぞ消えてなくなれ

(「キッド」)
 自らのホモセクシュアリティーと両親の目と世の中のコードを曖昧に妥協させるために、少年は「ヘテロ・アクティング」(あるいはストレート・アクティング)という生活態度を取る。すなわち筋力を鍛え、女の子を誘惑し、男言葉だけを使う。だが、それもある日「おまえなんかおかしい」「おまえはノーマルじゃない」「おまえはフツーじゃない」という極めてアグレッシヴな言葉の前に、空中分解を起こしそうになるのである。この世界は凶暴である。子のジェンダーを理解しない親、少数派のセクシュアリティーを認めようとしない社会、ノーマルと見なされない性。

  僕は完璧にノーマルだ 

  完璧にフツーだ

  僕は完璧にノーマルだ

  愚かでかなりビョーキだ

  (「ノーマル」)

 
 この叫びは、ジェンダーを問わず、ノーマルを強いる世の中に窒息しそうだった子たちに響き、コードに順応しないこともノーマルであるという新しいマニフェストになる。表面的にエディーの歌はゲイ・コミュニティー運動闘士のメッセージのように読まれるきらいがあるが、その物語はもっと具体的で個的な体験から抜け出そうという極私的な反逆である。まだアルバムも出ていないのにヴィクトワール賞にノミネートされ、そのコンサートスケジュールは2019年までソールドアウトという異常な熱狂が彼を包んでいる。ストロマエやジャック・ブレルと比較されながら、シャンソンやヒップホップのコードを破った15トラック入り極私的アルバム『キュール』は2018年3月にリリースされるや、5月現在までチャート1位を独走している。

 もう一人のエディー、作家エドゥアール・ルイは本名エディー・ベルグールとして生まれたのだが、その生い立ちと縁を切りたいがために21歳の時に正式な法的手続きをとってエドゥアール・ルイに改名した。その経緯は2014年の衝撃のデビュー小説『エディー・ベルグールとケリをつける』(邦訳『エディに別れを告げて』2015年東京創元社)で展開されている。

 北フランス、鉄道駅まで15キロ離れた人口数千人の村、皆が皆と顔見知りで、何十年も何百年も同じ時に生きているような村社会での鉄の掟は、女は女らしく、そしてとりわけ男は男らしく。その掟が最も徹底しているのが労働者階級の環境であり、話者エディーの家庭は父親が工場就労中に事故で背中を砕かれ、療養後の再就労も再就職も難しく、最低生活保障金に頼って生きるようになる。父のアルコール依存、兄の暴力、切り盛りする母もあらゆるゴマカシなしにはやっていけない。エディー・ド・プレットの歌と同じように「雄々しく生きろ」を小さな息子に繰り返す父親。この環境の中でホモセクシュアリティーを自覚してしまった少年は、学校と家庭で徹底的に苛め抜かれるのである。
 2012年この小説の原稿を彼は複数の出版社に送りつけるのだが、読んだ編集者たちが一様にこれを拒否した理由が「地方と言えども今日のフランスにこのような旧社会があるわけがない」と描写の過度の誇張と見なしたからなのだ。パリ左岸に集中する文芸出版社各社の編集者たちには地方の現実が何も見えていなかったのだが、それはパリや大都市に住むフランス人たちが選挙の度に地方が極右政党FNに大挙して投票することが理解できないのと同じことなのだ。エドゥアール・ルイはこれはすべて真実であり、僕はフィクションを書かないし、書けないと言い張る。

 幸いにして2014年スイユ社から出版されたこの小説は初版2000部を発売日に売り切り、2ヶ月後には16万部に達する大ベストセラーになった。小説は貧困とホモ差別に打ちのめされた少年エディーが、学業が優秀であるというその一点に救いを見出し、16歳で地方の中央都市(アミアン)のリセに編入移住することで村と家から脱出するストーリーである。なお、この6月に横浜で開催されるフランス映画祭で上映予定のアンヌ・フォンテーヌ監督の映画『マーヴィン、あるいは素晴らしい教育』は、この小説を原作としている(ただし原作からかなり自由翻案されている)ので、観れる方はぜひ。

 第2作の『暴力の物語』は20161月に発表された。これも実話に基づく私小説で、第1作『エディー・ベルグール』を書き終え(まだ出版にこぎつけていない)、パリで社会学を専攻するエリート学生となっている2012年のクリスマスの夜、社会学の研究者仲間二人と共に聖夜の夕食を済ませた後、帰宅する途中の道で出会った北アフリカ(カビリア)出身の不良青年に誘惑され、フィーリングが合い自宅に引き連れ性交したのち、青年の態度が豹変して首を絞められ、絞殺寸前まで締め付けられながら強姦される、という実体験が描かれる。このあらましを複数の話者(エドゥアール自身、彼の妹のクララ、研究者仲間二人)の証言で再現するという、やや手の混んだ立体的に構築された小説世界を展開する。事件そのものの凄まじさもさることながら、第1作とは異なる文学のディメンションの大きさを思わせ、この若い作家の力量を見せつけた作品だった。

 それから2年少し経った2018年5月に発表された第3作めが『誰が僕の父を殺したのか』である。この90ページ足らずの薄い作品は小説と呼ぶべきものか、私は判断できない。「誰が殺したのか」と題するも推理ものではない。ましてや「僕の父」は殺されても死んでもいない。その父とは第1作『エディー・ベルグール』で、男らしくない息子を罵り侮蔑していた人物であり、息子が憎悪しか抱いていなかった人物である。あの村社会だけでなく、この男から逃れるために少年エディーは必死に抵抗していた。あの小説を書いてから5年後、作者は再考した。父親と同居していた十数年間、物心がついて以来父親を敬遠し、その不在を願い、その侮蔑の言葉に傷ついてばかりいた。憎悪しかないと断定していたのは、それ以外のことを知らなかっただけなのではないか。

 父親は息子だけでなく、妻にも見限られた。現在父親は妻に追い出された家から遠くない村に「新しい女性」と二人で暮らしている。しかしもうほとんど歩行もままならず、夜は酸素補給装置をつけて寝ている。まだ50歳である。この年齢でこれほどボロボロになったのは、十数年前に働いていた工場で重機が背中に落ちてきて背骨を砕いてしまったのが原因だった。リハビリで完治しない状態で工場復帰するが長続きせず、失業、最低生活保障金で一家はどん底で生き延びてきた。そしてアルコール依存。しかしサルコジ政権の時代、「就労可能なのに求職せず社会保護受給する者」への締め付けが始まり、健康上のハンディキャップも考慮されず父親は車で30分の距離にある自治体の清掃夫として再就職を余儀なくされ、そこでさらに体を痛めてしまうのである。この21世紀に文明国の人間を50歳で廃人にしてしまうものは何なのか。これが『誰が僕の父親を殺したか』の主題である。
 問いは一方的に息子のもので、父親は問いも答えもしない。作者は憎悪の対象としてしか見ようとしなかった父親の見えなかった記憶を他者や事件の記録を通して再訪する。憎しみを消すためではなく、理解するために。どうせ16歳で工場に勤めるしかないという閉ざされた展望ゆえに、少年期の父親は勉学と学校を嫌い、皆と同じようにワルで硬派だった。この村では男として生まれたらその他に選択の余地はない。だから息子も、という一本道を作者は拒んだ。父を裏切り、男らしくならずに学問の世界に進むことを選んだのだ。

 この作品の冒頭で作者はアメリカの女性知識人ルース・ギルモアの「レイシズムとはある階層の人々を早期の死の危険に晒すことである」という言葉を引用し、「この定義は男性上位、反同性愛・トランスジェンダー、階級による支配、その他あらゆる社会的政治的抑圧にも通用する」と続けている。この90ページの本は、前2作にはなかった政治的考察に満ちている。50歳にして廃人になった父親の問題は政治的なのである。再会した父親の人生を再検証したエドゥアール・ルイからは憎しみが瓦解していくものの、その50歳の惨状に激しい憤怒が立ち上ってくる。彼の第一小説を拒否した編集人たちの反応と同じで、彼が出てきた地方の労働者階級の人々(それは全国津々浦々にいるものであるが)にとって政治とは生きるか死ぬかの問題であるということを理解しない裕福階層に激しく怒っている。労働法を改悪すれば死ぬ労働者が出てくる、社会保障費を減額すれば死ぬ家族が出てくる、この現実を嘲笑するかのように歴代の政府は貧しい者たちをさらに追い込んできた。「誰が父親を殺したか」その答は政治であり、父親を殺した者たちには名前があり、シラク、サルコジ、オランド、エル・コムリ(オランド政権時の労働法改悪大臣)、マクロンと作者は名指していく。これは一体文学か、という問いには、私はこの告発と憤激の記述のエモーションは文学の力であると断言できる。

 この書物の最後に息子と父親の短い会話がある。父親は変わったし弱くなった。それまで村の周囲の大人たちと同じように極右に投票していた父親が、息子が高校の頃に左翼運動をしていたことを思い出す。

「おまえ、まだ政治のことしてるか?」
「前よりももっとしているよ」
「おまえが正しい、俺も一回いい革命があったらいいと思うよ」

68年5月革命から50年めの5月、エドゥアール・ルイと父親は革命という言葉で和解した、と読めるのではないか。

(ラティーナ誌2018年7月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


Eddy de Pretto "Cure"
CD/Digital Initial Artist Services - Universal
フランスでのリリース:2018年3月2日

Edouard Louis "Qui a tué mon père"
Seuil刊 2018年5月3日 90ページ  12ユーロ

 
(↓)エディー・ド・プレット「キッド」オフィシャルクリップ。



(↓)2018年5月、国営テレビFrance 5「グランド・リブレーリー」で『誰が僕の父を殺したか』について語るエドゥアール・ルイ。


2021年4月13日火曜日

【動画】ウィンキー x ル・シャ

ベルギーのBD作家フィリップ・ゲリュック(1954 - )が1983年に創造したネコ型の太っちょおじさん"ル・シャ(Le Chat)"、今日までアルバム24巻が刊行され、フランス語圏世界(フランコフォニー)で最もポピュラーな”猫キャラ”として破格の人気を博している。
コロナ禍で美術館・博物館が閉鎖されて久しい2021年春、ゲリュックのル・シャをブロンズ像化した彫像作品20体が3月26日から6月9日までパリのシャンゼリゼ大通りの舗道に陳列されている。コロナ禍を逆手にとって、美術館から通りに飛び出したアート。しかも子供から老人まで人気の高いBDキャラ。外国人観光客もなく商店群も閉まっている(普段は人通りのほとんどなくなった)シャンゼリゼに少しだけ人々が(マスクをつけて)還ってきた。

 4月5日(土曜日)、真冬のように寒かった朝、ウィンキーがル・シャのブロンズ像たちの前でスナップショットを。その撮影風景を由芙さんがヴィデオにおさめて、今やフォロワー数500人を数えるウィンキーのインスタグラムに。ウィンキー動画シリーズの第4弾になります。調教師のような男がいろいろウィンキーに指示を出しているシーンが気になりますが、決して虐待しているわけではありません。

Winky x Le Chat (April 5, 2021)
Cameraworks and montage : Yu Tsushima

2021年4月11日日曜日

ヴェンデッタ in フロリダ

Olivier Bourdeaut "Florida"

オリヴィエ・ブールドー『フロリダ』

2016年の快著にして爺ブログでも大絶賛した『ボージャングルスを待ちながら(En attendant Bojangles)』の作者オリヴィエ・ブールドーの新作(第3作め)。『ボージャングルス』の独創的な寓話性から想像して、今回もファンタジー絡みの狂気譚か、と思いきや...。母を「皇太后(reine-mère)」、自分を「王女」、父を「執事(valet)」という役名で呼んだりするのだが、お伽噺の世界ではない。時は21世紀、ところは合衆国の富裕州フロリダ。少女の名前はエリザベス(舞台はアメリカなので"エリザベート”ではなく"エリザベス"とカナ表記しておく)、 かの女王と同じ名前であり、その母はこの少女を女王にしようという野望を持っている。絵に描いたようなデスパレートな妻(Desperate housewife)であった母は、この一人娘をお人形ごっこのように溺愛してきたのだが、それに飽きて、エリザベス7歳の誕生日にお伽噺の王女の衣装を着せ、プロの美容師に厚化粧させ、「ミニ・ミスコン」(12歳未満ミスコン)にエントリーして優勝してしまう。
 これは合衆国では地方スポンサー地方メディアがバックアップして、各地のけばいシャトーホテルのような会場でひんぱんに開催されているものらしい。ミニとは言えコンテストは高度にエンターテインメント化していて、勝てば賞金は出るし、モデルや子役のオファーも来る。しろうとの"思い出作り”でエントリーする者は少なく、"プロ化”して衣装や化粧や整形手術やショー演技のコーチなどに巨額の投資をする親たちもいる。親たち、特にこの場合は母親たちが日本語で言う「ステージママ」化し、自分が果たせなかった夢を娘に託し、権謀術数のかぎりを使って娘を優勝に導こうとする。スポーツ種目ならば、トレーニング鍛錬でその頂点に近づくことができるかもしれない。ところがミスコンは鍛錬で優勝できるものではない。また生まれついての造形美だけでも優勝できるものでもない。どれほど金をかけたかによっても優勝が決まるわけでもない。
 エリザベスの母(皇太后と文中で呼ばれているので、以下皇太后と呼ぶ)は娘の7歳のミニ・ミスコン優勝に心身ともに陶酔し、ドラッグ的にこの快楽の延長を欲し、毎週末州のどこかで開かれているミニ・ミスコンのすべてに応募するようになる。週日は学校と母によるコンテストトレーニング、週末は父(文中で執事と呼ばれているので以下執事)の運転する車に乗ってコンテスト会場(けばいシャトーホテル)へ、という月日が始まる。この3人家族は生活のすべてを娘のミニ・ミスコンに賭けており、皇太后に全く頭の上がらない執事はいとも従順にすべて容認し後方支援する。この自我の没したダメ男かげんは小説中一貫していて、皇太后への忠誠だけが生きている証のようだ。(と書いている途中で、英国エディンバラ公フィリップ・マウントバッテンが99歳で亡くなった。この小説と重なるものがあり、感慨深い。合掌)
 ところが皇太后の高ぶる熱意にも関わらず、2回目以降エリザベスはミニ・ミスコンに優勝することはない。最悪なことに常に"準ミス”(2位)という結果なのである。皇太后の入念な準備とトレーニングで無敵であるはずのエリザベスが負ける。理由はさまざま理不尽なものがあるが、例えば聴覚が不自由な候補者がそれを跳ね返す演技でエモーション票を一挙に集めエリザベスを破る、など皇太后にしてみれば果てしない悔しさをエスカレートさせるものばかり。この悔しさが次のミスコンも、また次のミスコンも、と皇太后を掻き立て、再び勝つまでやめられないこのコンペティションは5年も続くのである。当然の帰結としてエリザベスは心身共に壊れ、最後のコンペティションのステージ上で放尿し、すべては水(尿)に流れてしまう。
 失われた少女時代をかえせ。エリザベスの復讐と自己奪還の闘いは精神科医のお墨付きで得られた両親との別居/寄宿学校生活から始まる。性格が破綻してしまったためにクラスに馴染めず、真四角で頑強なチョコバー自動販売機を心の恋人にし、小遣いをすべてそこに注ぎ込んだ結果どんどん肥満していく。ミニ・ミスコン時代の完璧なロリータボディーを破壊する。ある時は糖分過剰摂取で膨れ上がり、またある時は拒食症で骨と皮になる。母親から強いられた”型”から逸脱することは肉体という牢屋から自分を解放することであった。
 復讐と自己奪回の鍛錬で少女は自分の肉体を好きなように変容させることができ、男たちを手玉に取れるようになり、ラテンアメリカ出身の成金一家のボンボンと恋仲になり、一時的に絵に描いたようなフロリダ天国ライフを満喫するが長続きしない。破綻の原因はその完璧にセクシーになった肉体であり、それは不本意ながらもボンボンの父親まで魅惑してしまうことになり...。
 成金ラティーノの家を追い出され、ホームレスとなって露頭を迷っていたエリザベスが出会ったのは、白人のラスタでジャンキーで売れない写真家で共和党支持でホモセクシュアルで筋肉マン(ボディービルダー)のアレック。言わばフロリダの戯画的キャラのすべてを背負っているような若者で、この人物の登場以来、小説はテンポが良くなり、ディメンションもフロリダのアート・カルチャー全体を背景に持つようになる。
 クールでフロリダ・アンダーグラウンドを知り尽くしている一廉の人物であるアレックは、エリザベスのそれまでのいきさつとその両親への復讐の念を理解し、屋根を提供し、バイトをあてがい、生活のやり直しを後押しする。ここでエリザベスはボディービルディングに開眼する。ミニ・ミスコンのために虐め尽くされた心体の復讐として、少女は世界一頑強な筋肉で覆われた肉体を獲得して、ミス・ボディービルコンテストに優勝して、皇太后に見せつけてやろうと考える。アレックはその閃きに同調し、世界一みすぼらしい状態で路上に落ちていた少女が世界一頑強な肉体の少女に変遷していくさまを写真に撮りつづけ、連作作品として発表する(売る)企画を出し、ギャラリーからの引きも上々である。1年間かけて誰も見たことのない筋肉ボディーを作り上げようとするエリザベス、そのメタモルフォーズを写真に記録していくアレック、二人の共闘は必ずしも調和的なことばかりではない。根っこのところで「俺が世話してやった」と思っているアレックは、ギャラのことでもフェアーではない。だいたいこの共闘はフェアーではない。なぜならつまるところこの闘いはエリザベスひとりの闘いであるのだから。極端な肉体鍛錬と極端な食餌法、それに加えて筋肉増強剤の注射...。心体を虐め尽くすことにおいては、皇太后が強いたことと変わりがない。これは自分自身のために勝利することだと少女は自分を言いくるめるのだが、肉体にはやんぬるかな限界があるのだ....。
 
 果たして19歳のエリザベスは、7年がかりの両親復讐の夢を実現し、ミス・ボディービルの覇者になることができるか、それともその前に自爆してしまうか。両親を殺害するまでの狂気に昇華してしまうか。それとも...。
 ほんわかしたお人形ごっこのように始まるこの小説、われわれがテレビ連ドラなどで親しんでしまった狂ったアメリカ(の縮図としてのフロリダ)、少女の手記のかたちで語られるこの物語の文体は残酷で凄惨でゴアなファンタジーのようなところがある。ところが、オリヴィエ・ブールドーはこれを一切合切救済してしまうすごいエンディングを用意している。肉体の牢屋から解放されたくて肉体を極限まで虐め尽くした少女が生き延びることができたのは、それをノートにずっと書き留めてきたから。エクリチュールによる生き残り、文学による救済、私たちは最後まで思ってもみなかった(稀な)文学の瞬間を味わうことになるのですよ。侮れないやつ。

Olivier Bourdeaut "Florida"
Finitude刊 2021年2月 254ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)ボルドーの書店リブレリー・モラのYouTubeチャンネルで自作『フロリダ』を語るオリヴィエ・ブールドー。

2021年4月8日木曜日

Just a rigolo

 Henri Salvador "Homme Studio 1970 - 1975"
アンリ・サルヴァドール『オム・ステュディオ 1970 - 1975』

好調のBorn Bad Records(ジャン=バチスト・ギヨー)から、アンリ・サルヴァドール(1917 – 2008)の自身の独立レーベルRIGOLOの自主録音を集めた編集盤、題して『オム・ステュディオ(Homme Studio) 1970 - 1975』。言うまでもなく"ホーム・スタジオ"との掛け言葉であるが、奥方(2番目の妻)で広い見識と采配力を発揮してサルヴァドールを列強レコード会社(バークレイ、フィリップス、ヴォーグ、パテ...)の旧体制から解放させ、自主管理(マネージメントは奥方)のレコード会社RIGOLOを設立させたジャクリーヌ(写真、1971年ジャクリーヌとアンリ↓)の功が最も光っていた頃。

 1970年ヴァンドーム広場のアパルトマンをDIYで改造したRIGOLOスタジオには、各種ギター(知らないムキはいないだろうが、サルヴァドールはたいへんなヴィルツオーゾ・ジャズ・ギタリスト)、スタインウェイ、キーボード、アナログシンセ、リズムボックスがあり、ヴォーカルとコーラスはいくらでも自身が多重録音する。弱点はベースだったと言われているが、キーボードとギターでカヴァーする。ほとんどひとりで全部やった。お立ち会い、50歳すぎたおっさんが、見よう見真似でトッド・ラングレンになってしまったのだよ。このスタジオ凝り性の極致。こういう角度でアンリ・サルヴァドール聞いたことありますか?
 この絶頂期にジャクリーヌが1976に50歳の若さで病死し、サルヴァドールのRIGOLO期は終焉するのです。それから長い暗黒時代があり、長〜〜〜いトンネルを抜けるには2000年の”Jardin d’Hiver”(ケレン・アン+バンジャマン・ビオレー)まで待たねばならなかったのだよ。

 1969
年から1978年までの録音16曲。未発表曲こそないけれど、みな驚くほど新鮮に聞こえるはず。(テープレコーダによる)サンプリング、テープ回転操作、自作効果音、ヴォイスモジュレーター(ヴォコーダー)など、フランソワ・ド・ルーベ(1939 – 1975)の同時代の実験にも通じる“エレクトロ先駆”の側面も浮かび上がる。詳細で愛情あふれる解説を書き上げたグイド・セザルスキー(ACID ARAB)にもリスペクト。サルヴァドール再発見への格好のガイド。


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トラックリスト >>>

1.Thème du bateau (1971)
2. Siffler en travaillant (1971)
3. Et des mandolines (1974)
4. L’Amour, va, ça va (1977)
5. Kissinger, le duc Tho (1973)
6. J’aime tes g’noux (1975)
7. Sex man (1972)
8. On n’est plus chez nous (1969)
9. Hello Mickey (1971)
10. Pauvre Jésus Christ (1972)
11. Le bilan (1971)
12. Marjorie (1971)
13. Le temps des cons (1975)
14. Rock star (1977)
15. Un jour mon prince viendra (1973)
16. On l’a dans l’baba (1978)

Henri Salvador "Homme Studio 1970 - 1975"
LP/CD/Digital Born Bad Records BB141

フランスでのリリース : 2021年4月2日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"Et des mandolines" (1971年)