2021年4月21日水曜日

パリに住んでて、ドヌーヴと知り合いなのよ

Edouard Louis "Combats et métamorphoses d'une femme"
エドゥアール・ルイ『ある女の闘争と変身』

21歳の時『エディー・ベルグールにケリをつける』で作家デビューしたエドゥアール・ルイは28歳になった。北部フランスの地方部の(これまで誰も書くことがなかった)極端な貧困と封建的男性原理社会の中でホモセクシュアルの子として疎外と虐待を受けて育ち、いかにしてそこから抜け出したかを綴った第1作『エディー・ベルグール...』(2014年)以来、著者はその生の真実しか書いていない。自伝的オートフィクションなどというレベルではない。これはルイにとっての真実なのである。だからこれが「小説」あるいは「作品」なのか、ということは著者にとっては何ら問題ではない。彼が生身で体験した事件と環境をそのまま描いた。これが世にはばかるのである。フランス語で言うところの "qui dérange"、つまり泰平の眠りを邪魔するものなのである。それは誰も書いたことがなかったことだったのだから。最初の書『エディー・ベルグール...』の原稿を出版社数社に送ったあとで受け取った拒否の返事がみな「21世紀のフランスにこのような貧困が存在するわけがない」というものだった。この赤裸々な真実は誰も書いたことがなかったから、編集者たちは信じなかったのだ。
 自らが性暴行の被害者となった事件の一部始終を描いた『暴行譚(Histoire de la violence)』(2016年)が、多面体的にたくみに構築された「文学作品」として読めるという点でやや例外的な一冊と言えるが、続く『誰が僕の父を殺したのか(Qui a tué mon père?)』(2018年。ラティーナ誌2018年7月号に紹介記事)は『エディー・ベルグール...』で心底憎悪していた暴力的で無教養であらゆる差別の代弁者であった父親を再考し、何世代にもわたって再生産される貧困のシステムの被害者として50歳で廃人と化した父を「理解」する書であった。
 16歳で奨学金を得て、村の実家から出てピカデリー地方の中心都市アミアンのリセに通うようになって初めて得られたエディー(当時の本名)の自由、この日から著者のラジカルな変身が始まるのだが、それは最初は過去と決別することであった。数年後その決別の経緯を題材として作家となったルイは、その後唾棄するほど嫌悪していた過去に何度も立ち戻り、再発見と和解を体験する。第二作『暴行譚』では妹のクララの真の姿を、第三作では政治と構造的貧困の犠牲者としての父の姿を。そしてこの新著では母親モニックを再発見してしまう。
 発端は一枚の写真である。いつどこで手に入れたのか思い出すこともできない、本に挟まっていた母の20歳の時の写真。セルフィーなどという言葉が存在しなかった30年ほど前、おそらく安物オートフォーカスカメラで遊んでいたのだろう、自分の顔にレンズを向け、自分でシャッターを切った写真。屈託も邪気もない若い娘の顔。ルイは思う:
きっと私は忘れてしまっていたのだ、私が生まれる前、彼女は自由で幸せだったのだということを。
もちろん彼は自分が生まれたあとのことしか知らず、その母は父と同じほどに彼に冷たく高圧的だった。 そしてその子のホモセクシュアリティーを理解しようとせず、擁護する側に立たず、父親と同じようにその”性向”(女の子のような動作ふるまい)をなじった。
 北フランスで貧しく育ったモニックにも若い頃は調理師になるという夢があった。16歳で専門学校に入ったものの、好きでもない鉛管工事職人と関係ができ妊娠してしまう。なりゆき上の結婚、18歳で一児の母にして専業主婦。男は暴力的でアルコール漬けで女癖が悪い。育児が落ち着けば専門学校に戻り好きでもない男と別れて自分の道を、と考えてもいたが20歳で第二子が。モニックは二人の子供のため、と夫の嘘と暴力とアルコールに耐えてきたが、我慢が限界を超え23歳で二人の子を連れ家出し、妹の住むHLMに居候する。学歴も職歴もない女が幼子二人の面倒を見ながらどうやったら生きていけるのか。前夫のところから飛び出して数ヶ月後、たぶんこれしか生き延びる方法がなかったのだろう、彼女はひとりの工場労働者と出会い、関係を持つ。これがエディーの父親になる男であるが、彼は三人を迎え入れ、新生活が始まる。しかしこの男は前夫と同じほどに暴力的でアルコール漬けで野卑なのだった。二人の子供を養うために始まった好きでもない男との家族生活は悪化の一途を辿る。第1作『エディー・ベルグール...』でも詳しく描写されているが、夫は働いている工場で工作機械が背中に落ちてきて重症を負い、入院とリハビリの甲斐なく、再び働くことが難しくなってしまう。労災と失業手当で一家を養うのは極めて厳しい。この窮状を忘れるためのアルコールの量は倍増し、口論とDVは耐えない。一家は再婚後にできたエディーのあと、さらにモニックが双子を妊娠してしまう。経済的に養育不可能と知っていながら、夫は(封建的家父長制のおきてか、信仰もないのに頭に叩き込まれているカトリック的価値観からか)、絶対にこの双子を出産して育てよ、とモニックに厳命する。子供5人(そのうちのひとり前夫からの連れ子の長男が凶暴な不良になっていく)、仕事に出れない夫、モニックは村の老人介護のパート仕事をもらいわずかな収入を得るが、極端な貧困状態は改善されるわけがない。
 本書はこの何重もの悲惨からモニックがいかにして抜け出したか、という記録である。著者がこの母親と同居していた15年間(生まれてからアミアン転居まで)、少年エディーにとってモニックは味方ではなかった。暴君的で無教養な父親側の人間であり、父親に対するのと同じようにエディーはこの母親を恥じた。子供同士の会話で「あれはおまえのママンか?」と聞かれたら、違う、と答えていたし、学校の父兄呼び出しの時に母親が学校に来ないように手を回していた。恥ずかしいのは貧しい身なりだけではない。とりわけその言葉づかい、語彙、口の聞き方だった。だが、それが少しずつ変わっていったということにエディーは気付いていなかった。今になって記憶の中でルイはその変化を再発見していく。それは、児童のある低収入家族のための夏休み補助金を初めて公的機関に(ややこしい書類を書いて)申請して行けた初めての子供たちとのヴァカンスの幸福であり、忙殺の家事の日常から初めて解放された笑顔を子供たちに見せたことだったり、偶然知り合った(階級的にひとつ上の)不幸な女性とあたためていった友情のおかげで、それまでしたことのなかった化粧や美容院通いや女同士でカフェで談笑することや近隣都市に行ってのショッピングなど”フツーの”女性たちの真似事ができた喜びだったり...。貧困と村社会と男性原理に打ちのめされ続けてきたモニックは、少しずつ「解放されたい」「自由になりたい」「自分の人生を取り戻したい」という希望の風を肌で感じるようになっていった。それを妨げるものは暴力を振るい、人前で彼女のことを「脂肪のかたまり」と罵り、身体能力が徐々に低下して手間がかかるようになり、アルコールと悪いダチとの付き合いがひどくなっていった夫(エディーの父親)だけなのである。
 既にパリで作家となっていた著者の第二作『暴行譚』で書かれた性暴行事件の翌年、夜に電話が鳴り、開口一番「私ついにやったわよ」という母の声。
私は彼女が何のことを話しているのかすぐに理解し、私も興奮してこう言った「話して!どんなふうにしてやったの?」。彼女は一息ついて語り出した「いつものことであの男、家に戻らなかったの、あんたも知ってるでしょ。何時に出て行ったのか知らないけれど、私は食事を作ってあいつを待っていたの。でもね私自分にこう言ったの、もうおしまいだって。私はもうあの男を待たないし、この先ももう絶対待たないって。もう待つのはうんざりだって。」
(僕はあんたを誇りに思うよ、あんたにそれもう言ったっけ?)
彼女は続けた「それから私はあの男の身の回りのものすべてをゴミ袋につめて、家の前の舗道に放り出したの。こんなふうにね。私はもう自分を止められなかった。それからあの男が戻って来て家の扉を開けようとしたけど、私は全部鍵をかけておいた。そしたらあいつ壁や窓を叩いて叫び出した。私あいつのことはよく知ってるよ、私から見ればあいつは何が起こったのかよくわかったんだと思うよ。私は扉越しにあいつに言ってやった、もう二度と帰って来るなって。あの男「もう二度と?」って聞き返すから、私は繰り返した「もう二度と!」。あいつ泣き出したんだけど、私は自分に言い聞かせた、許しちゃだめだ、屈したらだめだ、って。もう許すのはおしまいよ。」
(p81 - 82)
母は50歳に手が届く頃に、構造的貧困と夫の暴力と差別に打ちのめされた無産の地方女性から自由への逃走を果たした。 それは同じ貧困と父の暴力と封建的性差別に打ちのめされたホモセクシュアルの自分と同じ闘いだった、とエドゥアール・ルイは気付き、ひとりの女性モニックと和解し、母を誇りに思う。この薄い120ページの本は、その和解を祝福する闘争のドキュメンタリーと読める。
 その後も母の革命は続き、ひとりの男性と出会い、大きくなった子供たち(問題ある子もいる)と別れ、(移住にしばらく躊躇したものの)パリのアパルトマンのコンシエルジュとして働き始めた”彼”を信じて首都に上って行き、夫婦コンシエルジュとして働いている。若返り、生気を取り戻し、息子エディーのようにパリで生きている。著者はこの闘争と変身の書の打ち上げ花火のように、最後部にモニックとカトリーヌ・ドヌーヴの出会いという美しいエピソードを紹介する。これは是枝裕和監督がパリで『真実』(2019年、主演カトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノッショ、イーサン・ホーク)を撮影していた時、その現場にエドゥアール・ルイが立ち会っていて起こった話。
 既に作家になっていた私は、ある映画撮影に招かれていてその現場に彼女もいた。ある時私の後ろにいた男が休憩を取ろうと私に言い、きみはカトリーヌ・ドヌーヴと話してみたくないかと尋ねた。私はもちろんですと答え彼のあとをついて行った。彼女と面と向かった時、私は彼女に何を話すべきかいろいろ考えてしまった。あまりシリアスなことでもだめだし無駄話でもだめだ、と。そして私は母のことを思いついた。母はドヌーヴのことが大好きだったのと同時に、これほど母と違った人生は母には不可能だったはずだから。私はドヌーヴに私の母があなたの家のすぐ近くに住んでいますよ、と軽い話題のように話した。政治や世相について通り一辺のことを話すことは避けたかったから。
 カトリーヌ・ドヌーヴは大きく目を見開いた。私は彼女が驚いたのを見てとり、彼女に母が建物のコンシエルジュとして働く伴侶を頼ってパリにやってきたことなど母の変身について語り始めた。彼女は微笑み、タバコを吸いながら、いつかあなたのお母さんに会いに行くわ、と言った。
 数日後、母が電話してきた。「たった今、誰と一緒にタバコ吸ってたと思う?カトリーヌ・ドヌーヴよ!」
 私はドヌーヴがそんなことをするとは思ってもみなかった。私は彼女が母に会いに行くと私に言ったのは礼儀からのことだけで、初対面の会話の気まずさを避けるためだけのことだと思っていた。
 母は電話でカトリーヌ・ドヌーヴが母の建物まで来て、一緒にタバコ吸いながらお話ししない?と母を誘ってきたと語った。「私は彼女と話してる間中、気づかれないように周りを見回したの。だって私はできるだけ多くの人たちに私が彼女と話しているところを見てほしかったの。私はすべての人にカトリーヌ・ドヌーヴが私に話しかけてるというのを知ってもらいたかったのよ。」
 私は母の声にこれほどまでの気の動顛を聞き取ったことはない。母が若い頃からずっと憧れていたこの女優とのやりとりが、母の変身のために母が費やしてきたすべての努力の凝縮を象徴しているかのように。目をくしゃくしゃにして母はこう要約した:「私はこれまで人生をなすがままに放ったらかしておいた。でもね、今、私はパリにいて、カトリーヌ・ドヌーヴと知り合いなのよ。」
(p101 - 103)

笑ってしまおうではないか。拍手しようではないか。闘争は勝利し、変身は真実のものになった。エドゥアール・ルイが書くから、この真実味はただものではない。

Edouard Louis "Combats et métamorphoses d'une femme"
Seuil刊 2021年4月 120ページ 14ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)国営TVフランス2のトーク番組「On est en direct」で自著『ある女の闘争と変身』について語るエドゥアール・ルイ



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