2026年7月29日水曜日

1976年の夏・Castor Tape

Castor Tape
Summer 1976
1976年夏
爺のミックステープ


前記事に続く)

1976年夏、大旱魃と猛暑の中、低ノルマンディー地方カルヴァドス県の首邑カーンの大学キャンパス内学生寮の一室で、ひとりで、あるいは部屋にドリンクやツマミを持ってやってきた友人たち(日本人および非日本人)と一緒に聞いていた(カセット)音楽、現地ラジオから流れてきた音楽...  50年後、込み上げるノスタルジー感で涙を禁じえない音楽の数々。これを読む同志たちにはエモーションを共有できることはないと思うが、年寄りのセンチメンタリズム、付き合ってくれたまへ。

鈴木慶一とムーンライダース「すかんぴん」
日本の友人が送ってくれたカセットから。アルバム『火の玉ボーイ』(1976年)の中の1曲。もうどうしようもなくアルコールにマッチする名曲。寮の部屋に冷蔵庫さえあればなぁ...と何度思ったことか。(冷蔵庫の要らない)安い赤ワインばかり飲んでいたなぁ。


James Taylor "Don't be sad 'cause your sun is down"
これも友人の送ってくれたカセットから。そのカセットにはJTの2枚のアルバム『ゴリラ』(1975年)と『イン・ザ・ポケット』(1976年)がコピーされていて、どっちも聴き込んだけど後者が好き。前記事でも引用した「シャワー・ザ・ピープル」も至福の名曲。この"Don't be sad..."はスティーヴィー・ワンダーとの共作の歌で、スティーヴィーのハーモニカも入っている。スティーヴィーが大好きだった時期だったんだなぁ。「太陽が沈んでも悲しまないで」ー 私のいた学生寮の南側の窓からは、サマータイムのフランスのいつまで経っても沈まない太陽がよく見えた。そして21時過ぎてやっと沈んでいく太陽の最後の光が消えても世間様はまだまだ明るくて。なかなか終わらない一日、その暮れ方が好きだった。歌詞の最後の But especially today I'm feeling blueもジーンと来る暮れ方だった。


Peter Frampton "Do you feel like we do"
1976年の全米No.1アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ !』は、市内の百貨店ヌーヴェル・ギャルリーのレコード売場でカセットを買った。フランスでオーディオカセット、ミュージックカセットが、"K7"(アルファベットの"K"と数字の"7=sept" 、カ・セットと読む)と表記されるようになったのは1970年代だそうである。当時私は気がつかなかったが、後年音楽業界で働くようになってから、日本の同業者に、この”K7"って何なの?とよく聞かれた。それはそれ。ダブルアルバムで所収時間が80分のロングプレイカセット、聞くのは1曲だけ、最後の14分15秒の大曲「ドゥ〜ユ〜フィ〜〜ル...」これしか聞かない。これはわが部屋に来た連中が喜ぶんだぁ。14分間おごそかに聞いているわけではない。あの当時"エア・ギター”なる言葉は存在しなかったのに、みんなやっちゃうんだね、弾き真似を!そしてあのトークボックスの音の口真似!盛り上がったなぁ、楽しかったなぁ...


Marie-Paule Belle "La Parisienne"
前記事を書いている最中に、マリー=ポール・ベルの訃報(2026年7月25日没)が飛び込んできた。80歳だった。合掌。とは言っても私もこの「ラ・パリジエンヌ」という歌しか知らない。多くのフランス人もそうだろう。”一発屋”と言うのだろうか。派手なショービズ界とは距離を置いたシャンソニエ/キャバレー/ミュージックホール出身の正系のピアノ弾き語り”シャンソン”歌手で、ヒット曲と縁がなくなってもずっとそういう小屋で歌い続けていた生涯現役人。で、私がこの歌を知ったのは、76年大学夏季講座の上級者向け一般教養クラスで、ちょっとコケットなフランス人女性教師(私、大好きだった🖤)が、当時フランスで一番受けている大衆芸能として、コリューシュのスタンダップ芸(当時はスタンダップなる言葉はなかったのでいわゆる漫談)と、マリー=ポール・ベルの「ラ・パリジエンヌ」をカセットで聞かせたのね。私はどっちもさっぱり理解できなかったのに、クラス内でゲラゲラ笑う学生たちもいて...(悔しかった)。「ラ・パリジエンヌ」は後日テレビのヴァリエテ番組で見ることができて、あ、この人、京唄子に似てる!と思った。このいかにもレトロなベル・エポックのオペレッタ風(オッフェンバック、フレンチカンカン)は、田舎から首都に出てきた娘がファムファタルになりたいのだけれど、当世風パリジエンヌのようにアルコールもドラッグも嗜まないし、何のコンプレックス(都会女性ならではの複雑な悩み)もないし、パリジエンヌでないってことは実に困ったことだ(ça me gêne, ça me gêne サムジェヌ、サムジェヌ)と歌っているのね(当時はわからなかったけど)。レズ、色情狂、精神分析医通い.... さまざまな”尖んがった”最先端女性たちの生態を列挙して、こりゃかなわんけど、ファムファタルになるためには頑張らなくちゃ、という早送りシネマのようなコミカルソングだけど、根には70年代型フェミニズム礼賛というしっかりとした思想がある(と思う)。時間をかけて好きになっていった歌。こういうシャンソンというのはもうどこにもないと思うよ。もう一度マリー=ポール・ベルの冥福を祈る🙏


Véronique Sanson "Sad Limousine"
あの夏だけではなく、私の一生涯通して最も多い回数聴いてきたアルバム『ヴァンクーヴァー』に関しては、この3月に2つの記事で詳説したので読んでみてください。そしてこの「サッド・リムジーン」という歌に関しても歌詞解題込みで「ここ」に書いてある。You drove me to the airport, in a sad sad limousine. 1976年6月29日東京、私にも出発空港まで見送ってくれた人あり。それはリムジーンではなく、羽田モノレールだったけれど。ああこの人は遠くまで行ってしまうんだ、とその人は思ったに違いない。
So bye... bye my friend goodbye (さらば わが友 さらば)
I must face the road alone (私は一人で道に向かわなければならない)
But I'll make it, I'll make it (でも私はその道を)
I'll make it on my own (自分の道にしてみせるわ)

そんなつもりで飛行機に乗ったわけではないよ、私は。 だけど私はその時「大きな別れ」をしたのだ、と50年後の今になって思う。1977年から79年という2年間のブランクというか中休みというか執行猶予期間みたいな東京(大学卒業&就職)滞在期間はあったけれど、私はその「大きな別れ」の時から体内時計も生活地盤もフランスになってしまったのだと思う。成功だったの?失敗だったの? ー 今さら何を!



Banzaï et les Clodettes "Viva America"
これはその秋からカーン市内で私と同じ下宿に住むことになる、仙台から来たブミ君が大好きだったのね。クロード・フランソワのバックダンサーチーム、レ・クロデット(Les Clodettes)のために親分クロード・フランソワがでっち上げたデタラメなラテン・ディスコもの。「嘆きのビンボー」(1974年)、「ブラジリア・カルナバル」(1975年)と同パターンの3匹目のドジョウだけど。ブミ君はあの頃日本人海外旅行者がみんな持ってた手帳サイズの「実用5カ国旅行会話集」をいつも持っていて、そのスペイン語のところから引いて、「Tengo fiebre ! (熱があります)」とか「¡Lléveme al hospital, por favor! (病院へ連れて行ってください)」とかデタラメにスペイン語をがなり立てて、「ああ ビバ・アメリカ! ああ ビバ・アメリカ!」と歌いつなげて、寮から学食までの道々、くりかえしくりかえし「ビバ・アメリカ!」を歌い、(スペイン語を)がなり、踊りながら行進するという芸当でウケていた。今思い出しても笑ってしまう。
- Ven ? conmigo a cantar "Viva America"
- Ah aïe !
- Venga ! Venga ! Ah aïe !
- Asi ! ven cantado ! ven cantado!
- Ah ah !
- Aïe! Un, dos ! Un, dos ! Un dos ! Un dos, un dos ! pero, que tanto !
- Ah ah ! Ahora ! Ahora ! Ah !
Ah Viva America !
- Viva America !
Ah Viva America !
Ah Viva America !


Boz Scaggs "Harbor lights"
ボズ・スキャッグスの大ヒットアルバム『シルク・ディグリーズ』もサンソン『ヴァンクーヴァー』と競るほどたくさん聴いた。カーンの位置はノルマンディー海岸まで18キロの距離がある内陸である。一番近い大きな港はウィストレアムで英仏海峡フェリー船も発着するが、ウィストレアムからカーンまで運河が通っていて、カーンの町にも内港があってクルーザーやヨットが停泊している。その内港の岸にはシーフード・レストランや釣具店やバーが並んでいて、ちょっとしたヨットハーバーの風情がある。その内港のある運河(バッサン・サン=ピエール)の岸の広場(クルトンヌ広場)に毎日曜日、大きな市が立つ。いろんなものが売ってあって、その中に古本屋もあったのだ。私はそこでなんと”和英辞典”を見つけて(この町は昔から日本人学生が多かったのだなぁ)、値段は忘れたがとても安価で買ったのを覚えている。 ー パソコンもスマホもなかった時代、人が読み書きするのを最も助けてくれるのは辞書だった。仏和と和仏の辞書がなければそこで生きていけないと思ったほどだ。その夏、私はたくさんものを書いていたのだ(ボールペンで)。自分用に、勉強用に、他人用に。フランス語、日本語。手紙もたくさん書いていた。で、漢字がわからなくて書けなくなって、ああ、何で国語辞典を持って来なかったんだろう、と悔やんだ。ー 恋と言えるのだろうか、その夏、オーストラリアから来た娘に猛烈に恋慕していて、夏期講座のセッションを終えて、彼女はカーンを後にした。22歳の私は真剣に彼女の後を追って行こうと考えたり...。フランス語の下手な彼女は私とは英語でコミュニケーションしようとしていた。ところが私も英語は苦手だったのだよ。スマホもケータイもなかった時代、私と彼女の交信は”手紙”だけになった。運河沿いの市の古本屋で買った古い和英辞典がどれだけ役に立ったか。『シルク・ディグリーズ』は彼女も好きで、何度も一緒に聴いた。"Harbor lights"の出だしの "Son of a Tokyo Rose" (東京ローズの息子)って、あなたのことみたい、と言われた。日本人だから?そうじゃない。What does it mean ?  ー 東京ローズというのは第二次大戦中、米軍が日本国民にプロパガンダ放送を流すために雇った女性日本語アナウンサー、複数いたが全員”東京ローズ”を名乗っていた。転じて匿名の女という意味になったらしい。名も知らぬ母から生まれた名も知らぬ子は、風来坊・流謫の身に甘んじるのが運命、ロンサムトラヴェラー、あなたもそうやって日本から流れて来たんだわ ー みたいな説明をされたと思う。英語だから理解できたんだかどうかもわからない。東京ローズの息子、結構じゃないの。素敵じゃないか。 .......  という思い出。たくさん手紙は書いたけど、返事はほとんどなかった。That brings me back to you my love, to you my love, to you my love...

Alain Souchon "Bidon"
1976年夏、フランスのラジオから最も頻繁に流れていた歌は3曲あって、ひとつ目はボブ・ディラン「ハリケーン」(! しかし全曲かからず、いつも半分で切られる)、二番目はイングランド人マレー・ヘッドの"Say it ain't so, Joe"(これはフランスで日本の時計メーカーSEIKO提供の民放ラジオの時報の音楽に使われ、フランスで局地的な大ヒットに)、そして三番目がアラン・スーションの「ビドン」。アルミ缶やポリ缶などの容器のことだが、転じて見かけだけで中身のないもの(あるいは人)という意味。2007年に向風三郎がその著『ポップ・フランセーズの40年』で、「自転車乗り用のズボンばさみ」と題してこの歌を取り上げていて、すごくうまいこと書いてる。老いた私にはもうこんな機知と含蓄と諧謔に富んだ文章は書けっこないので、全文そのまま引用する。
フランスでも自転車はロードレースのためだけにあるのではなく、生活上の移動手段としても使われている。1970年代中頃は裾広の(ラッパ、ベルボトム)ズボンを着用したりするから、自転車を漕ぎながらズボンの裾がチェーンに絡まったりする。その防止のために、フランスでは自転車乗り用のズボン裾クリップがあり、これを "pince à vélo"(パンサヴェロ)と言う。しかしこれはどう見ても格好悪いものなのだ。
アラン・スーション(1944 - )は自らの歌でしばしば告白されているように、環境順応の難しい子供だった。学校の成績は悪く、バカロレアは3回うけてことごとく失敗している。英国に18ヶ月暮らしている間に作詞作曲を始め、帰仏してレコード会社パテ・マルコーニと契約して3枚のシングル盤を発表するがどれも不発。その間に結婚して子持ちになっている。1973年、移籍したレコード会社RCAのディレクター、ボブ・ソッケに注目され、翌年ソッケの紹介でローラン・ヴールズィ(1948 - )と出会う。当時のスーションの弱点であった作曲をヴールズィが補うというソッケのアイディアはまんまと図に当たって、スーション+ヴールズィはフランスの大衆音楽を大きく変えてしまうソングライター/コンポーザー/シンガーのペアチームになっていくのである。1974年スーション+ヴールズィは歌手スーションの最初のヒット曲となる”J'ai dix ans(僕は10歳)”を世に送り出す。
不安定でなよなよした男の叙情を皮肉とユーモアで綴るスーションの詞と、ビートルズ(マッカートニー)フリークのポップなメロディーセンスのヴールズィの曲。このコンビは、格好悪さとポップさを武器にして新しい世代の共感を得ていく。来るべき21世紀のベナバールやヴァンサン・ドレルムといったシャンソン新世代の30年前の手本がここにあった。
スーション+ヴールズィによるスーション2枚目のアルバム『ビドン(Bidon)』(1976年)は二人の才能と人気を決定づけた作品で、タイトル曲「ビドン」は、見かけだけの中身のない男が、映画スターやレーサーや人気歌手を気取っても、女の前ですぐにメッキが剥がれて、自転車乗りのズボン裾クリップをつけてすごすごと去って行く、という内容が歌われている。キーワードはこのズボンクリップ(パンサヴェロ)で、男の格好悪さが強烈にこの一点に集中する自虐ユーモアが、多くの婦女子の皆さんの母性本能的シンパシーを得てしまうのである。弱い男、女々しい男、おセンチな男、見かけだけの男たちが、歌の世界でも映画の世界でも大きく露出度を増して市民権を獲得していった1970年代であった。アラン・スーションはこのポジションで変わらず今日まで生き続ける愛すべきヤワ男である。

こんなこと書いていたのか。ま、そんなに間違いはないか。あれから50年、アラン・スーションはよく老い、スタイリッシュな好々爺の現役(大御所)音楽アーティストである。実によく老いた。熟成した。ああ、こんな風に老いることができてたらなぁ...。


吉田美奈子「ラムはお好き?」
これも日本からの友人カセットに入っていた。吉田のアルバム『フラッパー』(1976年、大瀧詠一作「夢で逢えたら」など良い曲とそうでもない曲が半々という印象)から。これは一番上に上げたムーンライダース『火の玉ボーイ』の中の鈴木慶一作「午後のレディ」と並べてよく聴いた。どちらもレトロでハイソサエティーな誘惑ゲームの佳曲。作曲した細野晴臣のトロピカル趣味全開で、細野のガットギターソロもめちゃくちゃ素敵に聞こえた。1976年大旱魃の夏、学生寮の部屋の昼はいつも30+α度を越えていて、涼を求めてラジカセに乾電池入れてキャンパスのポプラの木陰に行って寝転がるんだけど、so nice, it's so nice... とのんびりする時間もほどなく電池がなくなってしまうんだなぁ。
One more coca cola ?  ー コカ・コーラは日本と全然味が違ってた。カフェでもコーラのグラスに氷を入れてくれるところなんかなくて、なんとなく微温い飲み物だった。そしてフランスでは日本や米国のように「コーク(Coke)」と呼ばずに、「コカ(Coca)」と呼ぶ飲み物だった。Un coca s'il vous plaît !(アン・コカ・シルヴィプレ!)。知ったかぶりのフランス人が、これ、柔道(審判)用語と一緒だよ、「コカ(効果!)」と笑ってたのを覚えている。今調べたら柔道の「有効/効果」という判定は2008年に廃止されていたのね。それはそれ。
あの夏、カフェで学内売店で食料品店で初めて知ったドリンクの数々:Gini(ジニ)、Orangina(オランジナ)、Cacolac(カコラック)、Oasis(オアジス)、Perrier(ペリエ)、パナシェディアボロマントディアボロルージュ、シードル、カルヴァドス、パスティス..... それはそれ。
50年後の2026年、フランスの国営音楽FIPからは昨今の「シティポップ」人気で、吉田の(当時の)歌もよくオンエアされる。50年前、日本の最良のポップ音楽が育ちつつあったのだね。


Rolling Stones "Memory Motel"
メモリーという言葉。私たちが若かった頃とどんどんかけ離れた意味に変容していった。情報工学用語が一般化していって、メモリーはある量的単位の意味ばかりが日常に定着した。メモリー容量、メモリー不足、メモリー共有、外付けメモリー...。メモリーは数値で表すことができるのだ。私たちが若かった頃、メモリーはそんなものではなかった。ロボットだったダフト・パンクがその最後に『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)というタイトルの彼らの最も”人間的”なアルバムを発表したが、ここでの”メモリーズ”は半導体メモリーのことではなく、人間のメモリーだったのだよ、だからエモーショナルな最後だったわけじゃないか。ダフト・パンクは(昭和天皇のように)人間宣言をして、活動に終止符を打ったのだよ。メモリーを人間の手(心)に取り戻したかのように。
私たちが若かった頃、メモリーは心の中にあったのだよ。Do you remember ? メモリーは時々動き出して、心をちくちく責める。情報工学のメモリーと違って、消去することができないものなのだよ。人間のメモリーは切ない。
1976年ザ・ローリング・ストーンズは5人だった(ミック・テイラーが去り、ロン・ウッドが加入した)。アルバム『ブラック&ブルー』のカセットは夏の終わり(夏期講座は終わっていて、寮を追い出されて、市中の一般家庭の貸し部屋に入った頃)にヌーヴェル・ギャルリーで買った。それこそ夏のメモリーで心がグジャグジャになっていた頃だった。家主はいいご夫婦だったけれど、大きな音が嫌いで、私のラジカセは何度も苦情を受け(たぶん家主の音楽趣味とはかなり異なっていたんだろう)、挙句にイヤホン(ヘッドホンじゃないよ、昔ながらのイヤホン↑写真)で聞くことを強制された。これにも相当ムッと来たんだな。象徴的に夏の終わりを思わせる出来事だった。
『ブラック&ブルー』はもっぱら2曲しか聴いていない。「Fool to cry(愚か者の涙)」とこの「メモリー・モーテル」だけ。どっちもジャガーの涙まみれバラードである。つい数日前までみんないたのに、夏が終わり、みんなカーンを去って行った。早々とこの夏はメモリーになってしまったのだよ。センチメンタルでメランコリックな季節の始まり。夏の間中、私は夢を見ていたのか。それはとりもなおさず夏に出会った一人の娘のメモリーのことなのだけど。歌の中でハナという名の女性が”俺”のギターを取って歌い出す:
She took my guitar and she began to play
She sang a song to me
Stuck right in my brain
You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー)
That used to be(いつもと同じ)
You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー)
That used to mean so much to me(いつもだけどそれはとっても意味あるのよ)
するとすかさずキース・リチャーズが茶々を入れる
She got a mind of her own(あれは芯のしっかりした娘だ)
And she use it well(それでうまく立ち回っている)
1976年夏の終わり、私がいつまでもぐじぐじと未練たらしく塞いでいると、「あの娘はキミと違って一人で上手くやってるよ」と言ってくれたダチはいたかな? ー いなかった。あんたはただの愛のメモリー。彼女は私にとって just a 愛のメモリー、だけどそれは mean so much to me。こんな曲をなんで7分の長さで続けてくれるんだよ?なんてセンチメンタルなメモリーなんだ。このメモリーはこの歌と共に絶対消去できないものなのよ。
Sha la laa la
Sha la laa la
Sha la laa la
Sha la laa la

2026年7月26日日曜日

1976年の夏

50年前の夏、私は22歳だった。

2026年6月下旬から(小休止の2日間を挟んでも)20日間以上に渡ってフランスは観測史上記録破りの熱波酷暑に襲われ、パリでも最高気温40度を超す日が続いた。過去にひと夏で15000人の(熱波が原因とされる)死者を出した2003年の酷暑よりも気温は上回り、熱死者数はそれを超えるのではないかと危ぶまれたが、それは大したことがなかったようだ。その代わり遊泳中の事故、溺死者数は3桁に達し、過去に例を見ない。遊泳禁止だったパリのサン・マルタン運河や、(3カ所の遊泳区画の)川開き前のセーヌ川でも多くの若者たちが飛び込む光景がニュースになった。
 2003年と2026年の酷暑は"Canicule(カニキュール)"(熱波)という言葉で表現されたが、今から50年前、同じほど暑かった1976年の夏は、”Sécheresse(セシュレス)”(干魃)だった。雨の降らない日々はその年の3月に始まっていて、それは200日も続くことになる。大干魃(la grande sécheresse ラ・グランド・セシュレス)だった。
 1976年3月、四谷の大学の仏文科生だった私は学科に休学届を出した。私はあの大学と肌が合わず、興味もなく、友人もほとんどなく、フラストレーションばかり溜めていた時期だった。大学の3年間で肝心のフランス語が”中級”止まりだったのは自分のせいか。大学だけではない。私は東京にほんとうに辟易していた。18歳で東北の片隅から出てきた若造であったが、思えば、その辺の無知な田舎の小僧のように、私は東京に過度な幻想を持っていたに違いない。そう、東京に出ればなんとかなる、と思っていたドリーマーだった。父母家族と極端に悪い関係だったわけではないが、十代後半は家を出ることばかり考えていて、この環境から抜け出さなければ自己実現はありえないと思っていた。青臭さを誇りに思っていた頃。一人で何もできないくせに。東京に出ればなんでも可能なはずだった。一応(象徴的な意味での)その"droit de cité"(「市民権」ー 自由に住み通行し法に守られて生きる権利)を得たいと願い、東京に幾度もぶつかって行ったつもりだったが、その奮闘は虚しいものだった。悲しいね。3年間蠢いてみたけれど私には居場所がなかった。
 アルバイトで金を貯めたわけではない。アルバイトはほとんどしなかった(2度家庭教師をして、2度とも受験に失敗させた実績あり)。むしろ生活を切り詰めて親からの仕送り金の残りを貯めていったら3年で往復航空券代くらいは捻出できた。加えて東京での生活費と同じ額の仕送りを両親に出してもらうということで、私はフランス渡航を決めた。フランスの大学に留学手続きを取り、初めてパスポートを取得し、初めてフランス政府(正しくは在日フランス領事館)に就学ビザ(右写真→)を申請し、外貨(フランスフラン)を買い、住んでいたアパートを引き払い(あの時持っていた本やレコードはどこに行ったのか記憶がない)、あとは出発を待つばかりだった頃、この1976年フランス大干魃のニュースが耳に入ってきた。当時、四谷の仏文科の一学年上の先輩連中でフランスに留学滞在していた数人が情報ネットワークとなっていて、私のような渡仏を控えた後輩に現地の情報を共有させていた。今思えば、何を情報交換のツールにしていたのだろう?航空郵便?国際電話? ー その中でフランスは旱魃で春から全く雨が降らず、極端な水不足で、給水制限のためシャワーが使えなくなっている、というすごい話が...。
 1976年6月29日、羽田発(成田空港開港は2年後の1978年)北回りアンカレッジ経由パリCDG行きのエールフランス便に乗り込んだ。18時間ほどの所要時間だったと記憶している。翌日6月30日早朝にパリCDG空港(2年前の1974年開港、現在のCDG1)に到着。四谷の大学のフランス留学生ネットワークで、1年先輩のSさんが空港で迎えてくれて、何から何まで先輩に助けられて、空港からパリ市内ポルト・マイヨまで(エールフランスのリムジンバス)、そこからメトロで国鉄SNCFサン・ラザール駅、そして駅の窓口でカーン行きの片道切符を買うところまで、全部Sさんのヘルプで全く問題なく...。すごいなぁ、1年足らずの滞在で現地に溶け込んだ市民のように振舞えるようになるものなのか。私はと言えば、早朝からこんな至れり尽くせりのヘルプをしていただいたのに、日本からの手土産も持っておらず(!)、ただただ無言で言われた通り先輩の後をついて国鉄駅まで辿り着け...。おまけに電車の待ち時間に、駅カフェのカウンターで生ビールを奢ってもらった。25cc(ハーフパイント)の生ビールのことを”demi (ドミ)"と呼ぶのはその時初めて知った。その日(その頃)は真夏のように暑かった。これが大旱魃の夏か。その時私は初めての外国旅行に恥ずかしくないようにと(背抜きの夏物だったが)スーツ&ネクタイ姿のお上りさんであった。暑い中の移動で汗だらけで辿り着いた駅で、いただいた冷たい生ビール。午前中だったはず。うまい。その暑かった夏、私は多量のビールを消費することになる。
 「ここからはきみひとりだから」ー Sさんと別れて、急に心細くなった私はサン・ラザール駅のホームから電車に乗り込んだが、乗ったのは”電車”ではなかった!サン・ラザール駅からのノルマンディー長距離線はまだ”電化”されておらず(完全電化は1996年!)、ディーゼル&ガスタービンエンジンで動くTurbotrain(チュルボトラン)という高速鉄道車両(4両編成)だった。時速160キロまで出て、パリ/カーン間を2時間ほどで繋ぐもので、1981年にTGVが開業するまで、フランスを代表する高速列車だった。
 羽田から乗ったエールフランス機もそうだったが、この時代国鉄車両も全席喫煙可だった。どこもかしこも煙モクモクだった。そして当時のフランス人スモーカーのほとんどが、いわゆる "cigarette brune(褐色タバコ = ジターヌ、ゴーロワーズ等)”で、アメリカ系の"cigarette blonde(金髪色タバコ = マールボロ、ウィンストン等)”は前者に比べて高価であることもあり少数派だった。この褐色タバコの匂いが乗り合わせた客車の中に充満していたのが、私のフランス最初のセンセーションだった。この私の身にまで染み込みそうな強烈な香りが、私にとって”フランスなるもの”の最初だった。この褐色タバコ臭、私は嫌いではなかった。これに包まれるのがフランスにいることの実感とも思えた。
 18歳の時からスモーカーだった私は、さっそく褐色タバコ吸いになった。ゴーロワーズ・カポラル、ゴーロワーズ・ヴェルト、ディスク・ブルー、セルティック、ジターヌ、ジターヌ・マイス... それぞれのフィルター付き/フィルターなし、なんとたくさんの種類を試したことか(しかし結局何週間かして、結局アメリカ系のシガレット・ブロンドに戻っていくのだけど)。あの頃着ていたものにはすべてこの褐色タバコの匂いが染み付いていたに違いない。この”第一のフランスの香り”という印象は、その後帰国(大学卒業→就職)してから再び社会人として再渡仏した1979年に降り着いたパリで、同じ褐色タバコの匂いが圧倒的に鼻に襲ってきた時に、「ああ、フランスに帰ってきた」と全身で感じられたものだった。そしてこの匂いは80年代90年代にはフランスからも消え去っていったのだった。褐色タバコだけでなくタバコ総体が社会悪としてどんどん世の中から排除されていったのはご存知の通り。私は娘が生まれた1994年にスモーカーをやめた(やめられた)。今褐色タバコを吸いたいとは全く思わないが、この煙の匂いが流れてきたら強烈なノスタルジー感に陥ることは間違いない。
 1976年6月30日午後、ノルマンディー地方カルヴァドス県カーン市の駅に降り着いた。右も左もわからない。自分のフランス語は通じるかどうかわからない。とりあえずその夜の宿を確保しなければならない。日本から持ってきた地図を開いてもホテル情報などなく、地図上で"hôtel"という文字があるのは "Hôtel de Ville"と"Hôtel d'Escoville"(オテル・デスコヴィル)という2か所だけ。前者は私の仏語知識でも”市役所”という意味であることは知っていたが、後者は知らないが、ホテルっぽいではないか。それが駅から近いのか遠いのかもわからず、重いスーツケースも持っていたし、タクシーで行くことに。おそらく私のフランスでの最初のフランス語会話というのはタクシー運転手とのやりとりだったのだな。「オテル・デスコヴィル、シルヴプレ ー ウイ、ムッシュー」。着いたところにホテルらしいものは影も形もなかった。これは後日知ることになるのだが、16世紀に建造された当時の大富豪の子爵の居城を歴史的建造物として保存していた”名所旧跡”館であったのだ。まずい。重いスーツケースを持って、暑い中を歩いて探さなければならない。運よく市の中心部に近いところだったので、"Hôtel"と書いた看板が目に止まり、渡りに船で「部屋ありますか Avez-vous des chambres pour ce soir ?」と飛び込んでいった。分別など何もなかったが、入ったホテルは三ツ星(!)だった。カーン大学に前もって予約していた学生寮に入室できる日まで、2泊ぐらいしたんだな。制服のドアマン/ポーターがいた格式ある古めのユーロピアンホテル。場違い、身分不相応はすぐに自覚したが、どうしようもない。部屋に通されて、そのあとは食事も何もせず、ただただ爆睡していたはず。時差/ジェットラグの初体験。昼なのか夜なのか。
 そしていつまでたっても日没しない長い長い昼 ー 1976年フランスは(春に時計を1時間進め、秋に1時間遅らせる)「夏時間(サマータイム)」をその3月27日に初実施したばかりだった。初めてのサマータイムの夏は大旱魃の夏になった。夜10時になっても昼の明るさが残っている。1973年オイルショックのせいでラジカルなエネルギー節約が急務となって採用したこの夏時間、エネルギー危機を脱したら元に戻すと言われていたのに、今年2026年で50年も続いているのだ。不評よりも好評が大きく上回っているからだ。さまざまな弊害(新生児と高齢者の体内時差による変調など)が言われていたのに。長い長い昼、遅い遅い夕暮れ、いつまでも野外に居れる自由、たぶん私はサマータイムの至福を知った最初の日本人の一人だったのだろう。その上、その夏フランスは雨がまったく降らなかったのだ。1972年、わが最愛のヴェロニク・サンソンはそのデビューアルバムの中の「バイーア」でこう歌っていたのだ。
Les jours de pluie ça n'existe pas  雨の日なんてありえない
Les jours de pluie ne reviendront pas 雨の日は二度とやってこない
( .... )
Les jours de pluie, qu'est-ce que ça veut dire ? 雨の日って何のことなの?
Les jours de pluie, ça me fait bien rire 雨の日なんて笑わせるわ
笑ってるバイーア。私もこの歌を口ずさみながら、大旱魃の夏を笑っていた。農業従事者の方々には申し訳ないが。猛烈な湿気の梅雨時期の日本から暑く乾いたフランスにやってきた私は、皮膚感覚としてこの乾燥が心地よかった。幸いにして水道蛇口からは水が出ていたし、シャワーからはふんだんにお湯が出ていた。
 低ノルマンディー(Basse Normandie)地方の首邑カーンは、第二次大戦の連合国によるノルマンディー上陸作戦とそれに続く地上戦の大激戦地となり、市街地は聖堂と病院を除いて壊滅的に破壊され、現在の市街は1960年代までかかって再建されたものである。だからほぼ箱型の建物が区画正しく並び、市道は広く、どことなくソ連(&共産圏)的な第一印象だった。15世紀に創立されたというカーン(総合)大学の建物も大戦で破壊され、私が入ったのは1957年に再建されたキャンパスだった。市街地の北にある11世紀にイングランドの王座につく征服王ウィリアム(ギヨーム)の居城跡の城壁を抜けた北側に大学キャンパスはあり、大学のシンボルは不死鳥(フェニックス)で、その彫像モニュメント(↑写真)が立っている。大戦で焼け落ちた大学だもの。それだけでなく町は大戦からの再建・再出発ということを誇示するモニュメントが多くあり、重い「終わらない戦後」感が漂っていた。フェニックス ー それにかこつけてこんなことを書くとナルシストの誹りを免れないかもしれないが、50年後の今にして思えば、私はこの時が私の「再生」「再誕生」だったように思っている。私はこの地で何も知らなかった。人とどう話していいのかも、パン屋でどうやってパンを買うのかもパンの名前も知らなかった。ナイフとフォークをどう使って食べるのかさえ知らなかった。私は赤ん坊のようにすべてを再学習しなければならなかった。同時に私は東京で、および日本で、何も知らずに生きていたのだ、ということを知らされた。私は一から(正しくはゼロから)やり直さなければならなかった。Bonjour la France !
 11世紀に建てられたというカーン城の城跡を残す城壁内の公園に登り、そこからキャンパスに向かう小径の両側の緑地は大旱魃で真っ茶色に変わっていた。夏休みで人の少ないキャンパスに、外国人向け夏季講座を受講する外国人たち(学生だけではない、子供もいい歳の大人も)が集まってくる。日本人もたくさんいた(30人ほどか)。フランス語テストがあって、クラス分けされ、私は一応”中級”クラスに編入されることに。トラック競技のできる大きなグラウンドを挟んで4棟立っている学生寮のうち、夏の間空室になっている2棟が宿舎としてこれら”夏季学生”たちを収容し、私は最上階(4階)の角部屋が割り当てられた。南側の窓からは初めて見るヨーロッパ大陸の地平線が望める絶景。La terre de France ! ポプラ並木。窓下の南方に4面のテニスコートがあって、サマータイムのおかげで夜11時頃まで(照明なしで)プレイしている音が聞こえる。部屋にはベッドと机とクロゼットと洗面台(水&湯)しかなく、トイレとシャワーは共同。食事はグラウンドと大学キャンパスの間にある大きな学食(キャパ数百人)で。前菜、主菜、チーズ(ノルマンディーでこれを外せるわけがない)、デザート。私にはすべて美味であった。食べ放題のパン(スライスされたバゲット)は部屋に持ち帰っておやつがわりに食べた。バゲットも美味。これらに関してはフランス新座者の私には本当に恵まれていたと思う。
 部屋が決まったあと、市の中心街のヌーヴェル・ギャルリー(ギャルリー・ラファイエット傘下の地方百貨店チェーン)まで行って、日本のマーク(National)のラジカセとムーリネックス(仏家電メーカー)のフィルター式カフェティエール(コーヒーメーカー)を買った。かの三ツ星ホテルのすぐ近くに焙煎コーヒー豆屋さんを見つけて、挽いたコーヒー豆を買った。東京で”アメリカンコーヒー”ばかり飲んでいた身にはまだエスプレッソ(フランス式にはエクスプレス)が苦手だったのだ。ー 眺めのいい最上階の部屋で、香りの良いコーヒーとラジカセから流れる音楽 ー Coffee & Music、すぐさま私のせまい部屋は同じ階の日本人学生たちが集まる(タダでコーヒーが飲める)サロンになってしまった。カセットは日本の友人がまめにいろいろ(しかも頻繁に)送ってくれたので、夏の間だけでかなりの量になったが、その夏のヘヴィーローテーションアルバムは3枚。
ー ヴェロニク・サンソン『ヴァンクーヴァー
ー 鈴木慶一とムーンライダース『火の玉ボーイ
ー ボズ・スキャッグス『シルク・ディグリーズ
奇しくも3枚とも2026年に「50周年記念盤」が出るほど名盤になってしまったのだね。

 こうして私の最初のフランスの日々は始まった。夏季講座の教室も喫煙可で、帆立貝の殻が灰皿がわりに置かれていたが、私は褐色タバコを吸って嫌煙者たちから睨まれて教室喫煙を断念した。30人ほどのクラスは多彩な国籍の学生たちで埋まり、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、南欧、オセアニア...  We are the world。シエラ・レオーネという名前も知らなかった西アフリカの国の外交官予備軍のエリート、パーラビ国王時代のイラン(ホメイニのイスラム革命は3年後の1979年)から来ていた親ホメイニ派の学生、ピノチェットによるクーデター(1973年)で軍政化したチリに戻れなくなってフランスに留まっていたチリの学生、国土を失い抵抗するパレスティナからの留学生... こんな小さな教室でも世界情勢のど真ん中にいるように思うことがあった。みんなあまり上手でないフランス語で主張するから、私の下手なフランス語も通じているようだった。外国人同士のフランス語は一所懸命だから、通じると一挙に上達したような錯覚に陥る。ところがこれはフランス人には全然通じないのだ。夏の間、外国人相手にフランス語力がついたと思っていた自信は、秋以降の本学期にガタガタと音を立てて崩れ落ちるのだが、それはまた別の話。しかし私は一所懸命だった。東京にいた時に比べたらめちゃくちゃたくさん喋っていたと思う。たぶん私はこの時点でずいぶん変わったはずだ。
 だが私を変えたのは主にそういう教室での行状だったわけではない。大旱魃の夏は心も熱くさせたし、野外で大いに遊びもしたし、宵になれば毎晩誰かの部屋で飲み会があったし、夜にキャンパスの芝生の上で(禁止はされていても)キャンプファイアーを焚いて、飲んで踊って騒いで夜を明かすこともあった。アルコールだけでなくジョイントも回ってくるし。草上で愛し合っている子たちもいたし。1976年夏、私は何度恋に落ちただろうか。その夏ナイーヴな私はどれだけ泣いただろうか。
 その8月の4週目だったと記憶している。大旱魃で200日間降らなかった待望の雨が、やっと到来した。午後、激しい雷が鳴り、一挙に降り出した激しい夕立に、みんな学生寮からほぼ裸の状態で外に出て天から降り注ぐ雨を浴びた。大旱魃の終わり。みんなが何かに優勝したような大歓声を上げて激しい雨を受けていた。Shower the people !  (←これも1976年の歌だ)ー これがわが1976年夏の最も美しい瞬間だった。 

 私がノルマンディーのキャンパスでほぼパラダイス的な時間を過ごしていたこの1976年夏でも、地球は回っていて、世界ではさまざまなことが起こっていた。7月2日、南北に分かれていたヴェトナムが統一。7月4日、米合衆国独立200年。7月17日、カナダ・モントリールでオリンピックが開催され、体操でルーマニアのナディア・コマネチが10点満点を。7月27日、日本の前首相・田中角栄がロッキード事件で逮捕された。8月26日、フランスの首相ジャック・シラクが辞任、即日レイモン・バールが後任首相に。9月9日、中国毛沢東主席死去。ー 世界は動いていた。Et pourtant elle tourne !

(↓)1976年夏 モントリオール・オリンピック閉会式のテーマ "Je t'aime" 歌エステル・サント=クロワ 


 1976年夏は私を映画に開眼させてくれた日々でもあった。高校の時も東京で大学生だった時も映画館にほとんど足を運んだことがなかった。特に実家にいた時は両親が映画を不道徳なるものと決めつけていて、私が映画館に行くことを極端に嫌っていたという事情があり、私の映画歴は非常に貧しかったのだ。東京では一度も映画館に入ったことがなかったと思う。
 学生寮からはバスを使っていかなければならない距離にあったが、市の南側に「シネマ・リュックス(Cinéma Lux)」というアートシアター系の上映館があり、日替わり/時間替わりで多種の映画をかけてくれるシネフィル向けプログラムが売りだった。その演目をチェックして、私はかなり足繁くこの映画館に通った。最初に観た映画のことはまだしっかり憶えている。アラン・パーカーの『バグジー・マローン(邦題ダウンタウン物語)』(この時ジョディー・フォスター14歳)。この映画を一緒に観に行った日本人女性と、私は1979年に結婚(1982年に離婚)することになるのだが、「シネマ・リュックス」が取り持つ縁だったのだ。スコセッシ『タクシー・ドライヴァー』(その年のカンヌ映画祭パルム・ドール賞)、トリュフォー『アデルの恋の物語』(アジャーニ)、ベルトルッチ『ノヴェチェント(1900年)』(5時間映画!1部と2部)、テシネ『バロッコ』(アジャーニ&ドパルデュー)、クロード・ジディ『手羽先とモモ(L'aile ou la cuisse)』(ルイ・ド・フュネス&コリューシュ)、ジョゼフ・ロージー『クラン氏(Monsieur Klein)』(アラン・ドロン).... その年わが大学寮の日本(男子)学生たちの間だけで話題になっていたのが大島渚『愛のコリーダ』(その年のカンヌ映画祭で初上映)は、”有志”たちと一緒にパリまで遠征して観たと記憶している。しかしこの1976年、(観たのは秋だが)、シネマ・リュックスが私に見せてくれた最良の映画はカルロス・サウラ監督の『クリア・クエルボス(邦題カラスの飼育)』(9歳のアナ・トレント)だった。カラスを飼い育てる者は目を抉られる(スペインの諺)。イマジナティヴであり残酷でもあり、亡き母の真実を想像の世界で感得する少女のイノセンス。フランコ独裁の終焉(1975年)がもたらした自由創造の最初の傑作のように観た。主題歌のジャネットが歌う「ポルケ・テ・バス」は、聞くたびに私の夢の1976年を甦らせてくれる「プルーストのマドレーヌ」ソングとなってしまった。
(↓)ジャネット「ポルケ・テ・バス」 in カルロス・サウラ映画『クリア・クエルボス』


 1976年夏、私はノートにボールペンでたくさん絵を描いていた。詩ともうわ言ともつかぬ言葉もたくさん書いていた。映画メモを書いていた。頻繁に手紙を書いていた。これらの絵やたくさんの言葉はどこにも残っていない。渡仏前にミノルタの一眼レフを買って、たくさん写真を、と思っていたのだが、滞在中カメラの登場する場面は本当に少なかったし、その時の写真は今一枚もない。何にも形として残っていないから、それらはすべて私の夢になった。1976年夏の私の夢から、50年経っても私は抜け出せないでいるのだ。私は抜け出せずに、今もフランスに居て夢見続けている。1976年のもう一つの歌、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」はこう終わる: But you can never leave ! そう、私は決して抜け出せないのだよ。


(↓)1976年に聴いた最も美しい一曲だったかもしれない。多分聴いたのは夏ではなく秋に入ってから。アル・スチュアート「イヤー・オブ・ザ・キャット」。
中国十二支に「猫の年」はない。1976年は私にとって暦にはない夢幻の年だったのかもしれない。

2026年7月10日金曜日

Vamos a la playa

”La Chaleur"
『灼熱』


2026年フランス+イタリア映画
監督:ステファヌ・ドムースティエ
主演:アドリアン・ユッセン(マルワン)、マルティナ・ラ・マンナ(ジウリア)、トリスタン・リシャール(ノエ)
音楽:ピエルパオロ・サッコマンディ
原作:ヴィクトール・ジェスタン
小説灼熱』(2019年フラマリオン刊)
フランス公開:2026年7月8日

2026年、ヨーロッパは体験したことのない熱波酷暑の波状攻撃を受けており、第一波は5月、第二波の6月はパリでも40度を超す極暑が12日間続き、そしてこれを書いている今(7月8日)は第三波の真っ只中にある。エアコンのない市民たちにとって冷房の効いた映画館はにわかに”避難場所”となっていて、老人たちを中心に利用者は急増している。そんな状況で今日(7月8日)封切されたこの映画、日中最も温度が上昇する時間帯の14時の回にわが町のランドフスキー座で観たが、多くの老人たちで席が埋まっていた。2026年の夏にあって、”La Chaleur(熱)"という映画題は腰が引けるものであろうが、老人たちが望むように館内は涼しい。
 映画の舞台はフランス大西洋岸南部のランド地方である。南北に長い砂浜の海岸線、砂丘、ランドの森(松林)、ビーチは高い波が立つのでサーファーに人気があるが、この地方特有の"Les baïnes(バイーヌ)”と呼ばれる急激な引き潮(離岸流)が頻繁に発生して海に飲まれる海難事故が起こりやすい。それでも夏のヴァカンス地として人気は年々上昇していて、近年ヴァカンスのデスティネーションを何でも法外に高い地中海(とりわけコート・ダジュール)から大西洋岸に切り替える傾向を象徴する地方のひとつである。映画はランド地方の「キャンピング」と呼ばれる集合ヴァカンス滞在施設(キャンピングカー、キャンプテント、モービルホームなどの駐車&野営滞在区画貸しに加えて、巨大プール、遊戯施設、レストラン/バー/クラブ、各種イヴェント.... を備えている)で展開する。この従来のキャンプ場とレジャー+ヘルス施設が合体したような村のような「キャンピング」は、滞在費がホテルやレジデンスクラブ(例えば”地中海クラブ”)などより格安なので、2000年代から急激に人気を集め、この現象は映画TV連ドラ化されて大ヒットしている。なぜこんなに長々と説明しているかと言うと、この「キャンピング」という環境は非常に庶民的・大衆的・享楽的な俗世界であるということを前以て理解してもらいたいからなの。常連・新座者を問わず、この環境ではみんな”村人”になってしまって即席の”共同体”が現出してしまったかのような、総チュトワマン(おまえ俺の仲)の融和作用が機能している。私は恐ろしくてそんな中に入れないと思うし、逆にその融和世界で仲間外れにされたり疎外されたりということを想像して萎縮してしまう。
 主人公の17歳のマルワン(演アドリアン・ユッセン)は、たまたまキャンピングに逗留している同年代の少年少女たちがみんな気軽に自分を仲間のように一緒にヴァカンスを満喫しようとさまざまなレジャー(海水浴、プール、バーやディスコ...)に誘ってきて、ダチのひとりとしてつき合おうとするのだが、みんなと同一行動をしていても馴染めず心が開けない。それを象徴するように、少年少女たちが四六時中海パン/水着のほぼ裸状態なのに、マルワンだけはいつも白いTシャツを着用している。← だから映画画面ではひとりだけTシャツで否応なしに目立って見える。
 マルワンは家族(父、母、弟、妹、犬)と一緒にキャンピングカーで来ていて、自炊食事は家族と一緒、寝場所は一人用テント。ヴァカンスだから、親は子たちの日中の行動に何の頓着もせず、勝手にさせている。17歳くんは楽しくもないヴァカンスをいたずらに過ぎていく時間のようにやり過ごしているが、そのアンニュイでメランコリックな佇まいは、実存的苦悩をもそこはかとなく匂わせて...。リセ最高学年、バカロレア試験の後は、音楽学(ミュジコロジー)の学科に進みたい。なんとマルワンはワーグナーの世界に心酔していた。ちょっと変わった子と思われても仕方ない。このヴァカンス村でマルワンの一番のダチがノエ(演トリスタン・リシャール)という肥満体のソフトな少年だが、ノエはこの夏にどんな少女が相手でもいいから”童貞を捨てない”、そのことで頭がいっぱいでスマホのマッチングアプリを頼りにセフレ探しに余念がない。その一部始終をノエはマルワンに話しまくり、マルワンは優しくもその相手をしてやる。少女たちのいるところにノエは突進していき、マルワンはそれに付き合ったりもする。そういうことに興味がないわけではないが、マルワンは自分から行動しようとはしない。そんな冷めたところが、少女たちにはちょっと気になったりもするのだが...。単純に陰気な子ではない何かを秘めたフンイキが醸し出されるズブの新人男優アドリアン・ユッセンというわけ。
 一方マルワンとは対照的に、行動的でエゴイストでガールハンターでワルっぽさもいっぱしなオスカール(演ノエ・ウサール)という少年がいる。毎晩の恒例で少年少女たちは深夜にビーチに繰り出し、"bains de minuit(バン・ド・ミニュイ = 真夜中の海水浴)に興じることになっている。ー("bains de minuit"はところや年代にもよろうが、”たいがいは”全裸で、というのがフランスの習わしではあるが、この映画ではそういうふうに映っていない、ま、いか)ー その夜マルワンはしぶしぶその少年少女たちの真夜中のビーチへと向かおうとしていたのだが、その途中でオスカールに絡まれる。タバコ一本恵んでくれ、という話から、だんだんややこしくなる。マルワンはタバコはないが電子タバコはある、と一服させてやるのだが、相手はこちらが下手に出てると見るや、その電子タバコを放り投げるなどの挑発行為に出る。オスカールはほぼ泥酔している。ー これは映画の後半でわかるのだが、その夜オスカールは女に振られてムカムカしている。その女というのが... という話はあとでします。ー ムカつきの憂さ晴らしにオスカールのマルワンへの挑発イヤガラセはエスカレートして、掴み合いになり、放せ/放すもんかの殺陣まわりの末、オスカールがバランスを崩して、プール滑り台施設から転落して即死。パニックになったマルワンはこの事故を隠してしまおうという考えが先行し、オスカールの死体を引き摺って砂浜まで移動させ、旧ナチス・ドイツ軍のトーチカ廃墟(現在もなおその廃墟がフランスの北海から大西洋までの海岸線上に数多く放置されている↑上写真)の横の砂浜を掘って死体を埋める。
 この映画は2020年代的現代が舞台なので、この時代を象徴的に代表してしまうアイテムが非常に重要なファクターとなってしまう。それはスマホである。スマホは人格の一部であるかのように個人に入り組んでしまった関係にある。翌日に気づくのだが、マルワンはオスカールの死体を埋める際に、オスカールのスマホと自分のスマホを取り違えていたのだ。つまり、今手元にあるのはオスカールのスマホであり、マルワンのスマホはオスカールの死体と共に砂浜に埋められてしまったのだ。監督のステファヌ・ドムースティエのインタヴューによると、このスマホ取り違えは原作ヴィクトール・ジェスタン小説にはなく、ドムースティエの創案だそうだが、これが映画のサスペンス効果にどれだけ貢献していることか。スマホは怖い。あらゆる犯罪に完璧な”アシ”がついてしまう。この件から逃げ通したいマルワンはこの二つのスマホをいかにしてこの世から消滅させられるかに腐心することになる。手元にあったオスカールのスマホはかろうじてガラスゴミ収集トラックの中に捨てることができたが、自分のスマホはオスカールの死体と共に地中に残されたまま。GPSで位置特定可能。マルワンは自分のスマホはバッテリーが切れて受信できない、あるいは、失ってしまった、と人々の(交信不能)不信を誤魔化そうとするのだが...。
 翌日まで(昨夜宿に帰ってこなかった)オスカールをあまり心配していなかったオスカールの母クレール(設定としては息子ひとりとヴァカンスに来たシングルマザーのようだ。気が強い。演サラ・ル・ピカール、シロート俳優がほとんどのこの映画の中で稀なちゃんとした女優)が遂に捜索願いを出し、警察憲兵隊・海難救助隊・ヘリコプターなどを動員した本格的な捜査が始まり、少年少女たちも”聞き取り”で捜索本部に呼び出される。マルワンは人に気づかれまいとするが、落ち着きのなさは隠せない。あと2日でこのヴァカンスは終わり、一家はキャンピングを後にしてパリ圏に帰っていく。早くヴァカンスが終わって欲しい。
 そんな中で現れるのが、肥満体のダチのノエ(シロート芸だがいいキャラクター、この映画の重苦しさを救っている)の紹介で知り合ったイタリア娘のジウリア(←写真 演マルティナ・ラ・マンナ)、ボローニャのブルジョワ家庭の娘で、近くにあるプール付きの大別荘に家族は滞在しているのに、この娘だけキャンピング敷地内にテントを張って野営している。家族には”フランス語習得”のためだと言ってある。確かにチャーミングなイタリア訛りのフランス語を話す。ビーチに来ても、Tシャツを脱ごうとしない、海水に入ろうともしない、皆と行動を共にしないマルワンという少年にジウリアは惹かれるものがある。マルワンが音楽科に進学したがっていることを知ったジウリアは、砂浜の上で何もしないで甲羅干ししている状態で、この状況にマッチする音楽を選んでみてと。するとマルワンはリヒャルト・ワーグナー歌劇『ローエングリン』序曲がいい、と。スマホ(何でもスマホでできるんですね)で見つけてイヤホンで聴き始めるジウリア。初めて聴くこの静謐荘厳な弦楽ストリームに感動するジウリア。マルワンにこの音楽はどんなものなの?と問うと、マルワンは途端に饒舌になってワーグナーについて語り始める。「ワーグナーを語ると目が輝くのね」と、おそらく誰も見たことがないマルワンの熱い目と口調をジウリアは引き出したのである。この映画で一番美しいシーン。これがおぼろげながら恋のプレリュードであった。
 行方不明のオスカールは見つからない。捜索の聞き込みはジウリアにも及ぶ。その証言によるとジウリアはオスカールと刹那的火遊び関係にあったが、オスカールが執拗に”恋愛関係”を求めてくるのに対してはっきりと拒絶し、関係を絶った、と。つまり事件のあった夜、オスカールを泥酔させるほど失恋の痛手を被らせたのはジウリアであったのだ。間接的にこの少女は事件と繋がっている。一方マルワンにも聞き込みが行われるが、一貫してマルワンはその夜のオスカールとの接触を否定している。俺はオスカールのダチじゃないし、彼のことは良く知らない。俺は無名の目立たない少年少女たちのひとりにすぎず、みんなと群れて遊んでいるだけだ。捜査官はスマホの交信記録を見たいので提出せよ、と。バッテリーが切れてて、今手元にない、と逃げようとするが、必ず提出せよと捜査官に念を押される...。
 マルワンのハラハラドキドキを意ともせず、予定されていたヴァカンス終了(キャンピングからの出発)は両親の気変わりで二度延期される。マルワンはこの”永遠に終わらないヴァカンス”の重圧で心が破裂しそうになる。二度延期のあとこれ以上延期がないとすれば、マルワンのキャンピングヴァカンスの最後の夜、恒例の少年少女たちの真夜中の海水浴パーティー(bains de minuit)、青春の最後の日のように少年少女たちは狂ったように盛り上がるのであるが、海から雷光が走り雷鳴が轟き、嵐がやってくる。豪雨で砂浜に濁流が流れ、かのトーチカ横の死体を埋めた場所にも...。嵐がすべてを流し、すべてを明るみに曝け出すだろう。マルワンはすべての終わりを悟り、例のTシャツ姿のまま嵐の海に進み出て、入水自殺を図る...。激しい波に足を取られ、海に倒れたまま波に流されているマルワンを見つけ、ジウリアが救い出す!
 激しくなる嵐の中、ジウリアとマルワンは(夜には空き家になっている)遊泳監視ガードの詰所小屋に避難して、嵐の止むのを待って一夜を明かす。命も心も救済されてしまったマルワンは、ジウリアの誘いであの象徴的なTシャツを脱ぎ、裸になる...。
 明けて晴天が戻り、マルワンの家族の出発の日になる。ジウリアとの別れの時、夏が終わればイタリアに戻り大学入学を準備するという少女にマルワンはまた会いたいと関係の続行を請うのだが、ジウリアは(たぶんオスカールに答えたと同じように)その時の思い出だけにしておきましょう、と訣別の意図を伝える。マルワンはどうすることもできない。17歳の夏の終わり。わ、いいなぁ。センチメンタルな青春の終わり。
 結末は、マルワン一家の夏の思い出一切合切を積んだキャンピングカーがキャンピング場を出発してオン・ザ・ロード・アゲインとなるのだが、その帰路のしばらく進んだところでマルワンは両親に「忘れ物をしたから引き返してくれ」と頼む。両親は何も聞かずにその頼みを受け入れ、Uターンしてキャンピング場へ。そしてマルワンはオスカール捜索本部に出頭し...。

 2026年酷暑の夏に観た "熱い夏”の青春映画。故意のない事故でありながら殺人犯のドラマを(自ら)演じる羽目になった少年の心理サスペンス。ランド地方の美しい松林と砂丘、高く波打つ海、美しい少年少女たち、暑い夏。少年が殻としてまとっていたTシャツを脱ぎ捨て、大人になる物語でもある。ほとんど映画初出演のシロートキャストで固めた映画だが、その作為なさが”青春もの”加減を際立たせて、鮮度が高い。加えて、上述のようにワーグナーも登場したが、この寄せる大西洋の大波のように繰り返される夢幻的なピエルパオロ・サッコマンディの音楽が素晴らしい。
 監督のステファヌ・ドムースティエは、私の最も評価する女優の一人アナイス・ドムースティエの10歳うえの兄で、日本では2025年の監督作品だが奇しくも今夏(2026年7月17日)公開になる『新凱旋門物語(L'inconnu de la Grande Arche)』を撮った人である。注目したい映画作家。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『灼熱 La Chaleur』予告編


(↓)オリジナルサントラ:ピエルパオロ・サッコマンディ作曲 ”La Chaleur”テーマ