2010年ベストセラーとなったフローランス・オブナのノンフィクション・エッセイ『ウィストレアム 埠頭』をベースにして、こちらもベストセラー作家であるエマニュエル・カレールが自由翻案でさまざまなエピソードを加えてフィクション化した映画。映画監督カレールとしては3本目の長編映画であり、2本目のフィクション映画。 しかしこの映画の制作を発端から主導していたのは、女優ジュリエット・ビノッシュだった。仏映画サイトAllocinéに記載された情報によると、原作者フローランス・オブナは『ウィストレアム埠頭』の映画化のプロポーザルを何件も受け取っているが尽く断っていた。それを既にオブナと親交があったビノッシュが何度も食事に誘い出して執拗に説得したそうなのだ。それほどこの女優はこの映画でやらねばならないことの意義を深く感じ取っていた。それは不可視な人々を可視化すること、世に存在していないかのように人目につかず過酷な条件で働き生きている人々を”カンヌの大スクリーンに"顕在化させること。オブナはビノッシュの熱意に打たれ、それを承諾するのだが、条件がふたつ:映画は映画の人たちが作ること(原作者は一切関与しない)、エマニュエル・カレールを監督とすること。
『ウィストレアム埠頭』は21世紀初頭のフランスの地方(ノルマンディー、カルヴァドス県、中心都市カーン)の底辺の労働事情について長期的に潜入体験取材したきわめてジャーナリスティックな、一種の告発書であった。フローランス・オブナがその本名を名乗って(本名を名乗っても誰も彼女が著名なリポーターだということに気づかない)、50歳の職業経験ゼロ(専業主婦だったが、離婚して働かざるをえなくなった)の女性として、職安で基礎訓練を受け、派遣の清掃婦として現場労働者デビューする。大失業時代の、極端に過酷な労働条件に文句を言えない、軍隊的な規律づくめとハラスメントの嵐の中でわずかな糧を得て生きる老若の女たちを描いたものである。エマニュエル・カレールのこのフィクション映画はその原著の持つジャーナリスティックな告発性を大部分尊重はしているが、それがメインの主題とはなっていない。この映画は潜入レポート的な報道性をむしろ控えめにしている。
文筆家マリアンヌ・ウィンクレール(演ジュリエット・ビノッシュ)は、21世紀的現在の大失業吹き荒れる地方社会における生活不安定(プレカリテ précarité)を実体験して直視し、それを本にして発表するというプロジェクトを立て、パリのメディア社会との接触を一切断った状態にしてノルマンディー地方のカーンにやってくる。元専業主婦の50歳、離婚してひとり暮らし、職業経験ゼロ(ゆえに失業手当もない無収入者)という人物像を演じて、見知らぬ町で職探しを始める。映画の冒頭、マリアンヌが職安の受付で担当職員との面談の順番待ちをしていると、列を全く無視して恐ろしい剣幕で職員に会わせろと乱入してくる若い女あり。必要書類全部間違いなく提出したのにどこからも何の連絡もなく何日も過ぎている、3人の子供抱えて文無しでどうやって生きろと言うのか。この女の名前はクリステル、これを演じるエレーヌ・ランベールはキャスティングで選ばれた非プロ女優、実生活では派遣労働者。この女性の他、ビノッシュを除いてこの映画の登場人物のほとんどがノン・プロ俳優で占められている。これは一種の”真実味”の追求ということなのだろうが、その”真実味”の追求が映画やフィクションやジャーナリズムの思い上がりの部分であり、それをこの主人公のマリアンヌがずっと懸念している、というジレンマもこの映画は描いてしまう。
『ウィストレアム埠頭』は21世紀初頭のフランスの地方(ノルマンディー、カルヴァドス県、中心都市カーン)の底辺の労働事情について長期的に潜入体験取材したきわめてジャーナリスティックな、一種の告発書であった。フローランス・オブナがその本名を名乗って(本名を名乗っても誰も彼女が著名なリポーターだということに気づかない)、50歳の職業経験ゼロ(専業主婦だったが、離婚して働かざるをえなくなった)の女性として、職安で基礎訓練を受け、派遣の清掃婦として現場労働者デビューする。大失業時代の、極端に過酷な労働条件に文句を言えない、軍隊的な規律づくめとハラスメントの嵐の中でわずかな糧を得て生きる老若の女たちを描いたものである。エマニュエル・カレールのこのフィクション映画はその原著の持つジャーナリスティックな告発性を大部分尊重はしているが、それがメインの主題とはなっていない。この映画は潜入レポート的な報道性をむしろ控えめにしている。
文筆家マリアンヌ・ウィンクレール(演ジュリエット・ビノッシュ)は、21世紀的現在の大失業吹き荒れる地方社会における生活不安定(プレカリテ précarité)を実体験して直視し、それを本にして発表するというプロジェクトを立て、パリのメディア社会との接触を一切断った状態にしてノルマンディー地方のカーンにやってくる。元専業主婦の50歳、離婚してひとり暮らし、職業経験ゼロ(ゆえに失業手当もない無収入者)という人物像を演じて、見知らぬ町で職探しを始める。映画の冒頭、マリアンヌが職安の受付で担当職員との面談の順番待ちをしていると、列を全く無視して恐ろしい剣幕で職員に会わせろと乱入してくる若い女あり。必要書類全部間違いなく提出したのにどこからも何の連絡もなく何日も過ぎている、3人の子供抱えて文無しでどうやって生きろと言うのか。この女の名前はクリステル、これを演じるエレーヌ・ランベールはキャスティングで選ばれた非プロ女優、実生活では派遣労働者。この女性の他、ビノッシュを除いてこの映画の登場人物のほとんどがノン・プロ俳優で占められている。これは一種の”真実味”の追求ということなのだろうが、その”真実味”の追求が映画やフィクションやジャーナリズムの思い上がりの部分であり、それをこの主人公のマリアンヌがずっと懸念している、というジレンマもこの映画は描いてしまう。
長期に潜入体験して、地方の底辺(女性)労働の実態を本にすること、これがマリアンヌの目的であり、生の人間と出会って、生の話を聞き出したい。そのためは文筆家という顔を隠し、同じフィールドに属する人間の顔をしたい。この嘘の顔を作り、人に偽ることは、果たして報道する(ものを書く)者の態度として正しいのか?それは許されるのか?このデオントロジーの問題が、映画を観終わってみると、この映画の最も大きなテーマであることがわかる。これはオブナの本にはないことだ。
この映画のサスペンスは、いつマリアンヌの正体がバレるのか、ということである。50歳の職業経験ゼロの女性マリアンヌを担当した職安女性職員は、早い時期にこの女が著名な著述家であることに気づき、訝しげに一体何をしようとしているのかと詰問する。「私は生身の人たちと出会って真実を書きたい」というマリアンヌの嘆願に、職安女性は折れその秘密を守る。就職・再就職訓練コースで出会うのは毎回おなじみの顔。職能と資格を持たない者たちが非正規パートを繰り返した挙げ句、最後に落ち着くのは派遣清掃の仕事。マリアンヌは実際にいくつかの職につき、ハラスメントの猛攻撃などで毎回解雇され、それでも中にはいる思いやりのある人たちのつてでなんとか続けていく。しかし、このノルマンディー地方でどこからも見放され、働く機会を奪われた無職能女性たちが、最後の最後に行くことになるのがウィストレアム埠頭なのである。
この映画のサスペンスは、いつマリアンヌの正体がバレるのか、ということである。50歳の職業経験ゼロの女性マリアンヌを担当した職安女性職員は、早い時期にこの女が著名な著述家であることに気づき、訝しげに一体何をしようとしているのかと詰問する。「私は生身の人たちと出会って真実を書きたい」というマリアンヌの嘆願に、職安女性は折れその秘密を守る。就職・再就職訓練コースで出会うのは毎回おなじみの顔。職能と資格を持たない者たちが非正規パートを繰り返した挙げ句、最後に落ち着くのは派遣清掃の仕事。マリアンヌは実際にいくつかの職につき、ハラスメントの猛攻撃などで毎回解雇され、それでも中にはいる思いやりのある人たちのつてでなんとか続けていく。しかし、このノルマンディー地方でどこからも見放され、働く機会を奪われた無職能女性たちが、最後の最後に行くことになるのがウィストレアム埠頭なのである。
それは英仏海峡(ポーツマス⇄カーン)を往復する豪華フェリーの発着港であり、夜間を含む1日数回の寄航時に、着岸から出港までの短時間(1時間半)に数百の船室を超スピードで清掃するという仕事。危険・汚い・きついの3K仕事で、健康体でも長く続けられない(足腰に変調をきたす)。労働の墓場と言われる職場。マリアンヌがカーンの職安センターで出会った(前述の)クリステル、そして十代で無学歴のマリルー(演レア・カルヌ、ノンプロ女優)も回り回ってこのウィストレアム埠頭のフェリー清掃の場でマリアンヌと再会することになる。
映画はオブナの本と同じようにその極端に過酷な労働事情を映し出すことも忘れないが、マリアンヌが現場で出会う女性たちとは友情・連帯感がポジティヴに生まれていく。著述家マリアンヌは未来の本のために、もっと深いところまで知ることができる(本のヒロイン的な)ひとりの女性が必要だと考える。その人物として彼女はクリステルを想定し、この若い三児のシングルマザーに接近していく。 ツッパリ型で気が強く口の悪いクリステルは、この人当たりのいい不思議な中年女性(季節でないのに冷たいノルマンディーの海に裸になって飛び込むシーンあり、あきれるクリステル)に少しずつ心を開いていく。あつくなっていく友情。しかしサスペンスシーン:マリアンヌが車にガソリンを入れているすきに、助手席にひとりいたクリステルはマリアンヌのハンドバッグを開け、身分証明証を盗み見ていたのだ! ー それを知ったマリアンヌは疑心暗鬼になり、自分の正体がバレたらどうなるのかと気が気ではない。しかししかし、ある日、クリステルのアパルトマンに招待されたマリアンヌは、既に仲良くなっていた三人の息子たちから大歓待され、”Joyeux anniversaire(ハッピーバースデー)"の合唱の輪の真ん中にいる。(クリステルが身分証明証を盗み見たのはその誕生日を知るためだったのだ)そして息子のひとりが選んだという四葉のクローバーのペンダントを贈られ、マリアンヌはそれを一生肌身離さずつけていようと心に決めるのである。ー このエピソードはもちろんオブナの本にはないエマニュエル・カレールの創作であるが、うまい。カレールに一本取られた感じ(シャポー)。
ウィストレアム埠頭の過酷な清掃労働班の女性たちはみなすばらしい。厳しい鬼班長のナデージュ(演エヴリーヌ・ポレ、ノンプロ女優、実際に清掃班長だったようだ)のヒューマンなオーラ。そしてそのサブとして働いていた長身の美女ジュスティーヌ(演エミリー・マドレーヌ、ノンプロ女優、この人本当に逸材)が再就職先が決まり、清掃班控室でお別れパーティーをするのだが、このシーンがこの映画で最高にしあわせになれる。フェリーに乗船する(主に男性)客たちがみんな振り返るようなこの美貌の長身女性が、なぜこんな職場にいたのかはこのパーティーの後でわかるのだが、マリアンヌはジュスティーヌが性的マイノリティー(性同一性障害)で長く社会的に受け入れられなかったことを知る。とにかくこの職場ではよき副班長で他の清掃スタッフたちの面倒見も良く、明るい花のような存在だった。去るジュスティーヌのために自作ラップを捧げる若者、鬼班長ナティーヌに催眠術をかける迫真のショーなど、このシーンは恩寵の瞬間の連続であり、最後に時間が来て清掃班全員の乗るフェリーに向かうシャトルバスが遠ざかっていくのを、セクシーなドレスで踊りながら見送るジュスティーヌの美しいことったら...。
この最高の恩寵のシーンの直後にカタストロフはやってくる。映画ですから。最高にソリッドなものになったクリステル、マリルー、マリアンヌの3人の友情、とりわけクリステルとマリアンヌのそれは、(詳細はここでは書かないでおくが)マリアンヌの正体が明らかにされたとたんに無惨にガラガラと音を立てて壊れてしまう...。
オブナの本とはかなり離れてエマニュエル・カレールはこのようなフィクション化を選んだ。オブナの本は、この社会的に不可視だった女性たちが主役であり、それを書いている自分ではない。だがこの映画は書いている著述家が主役であり、その書くことのために取った手段について自ら問い詰めることになる女性を描くことになった。取材のために自らを偽り、うそをつくことは著述家として正当なことか? 問題はエティックでありデオントロジーである。
これはエマニュエル・カレールが説明していることだが、この映画の主人公であるマリアンヌ・ウィンクラーという女性は職業を常に"著述家 ecrivain"と規定している。"ジャーナリスト"としていない。ところがフローランス・オブナは自称も他称もジャーナリストである。誇り高いジャーナリストである。マリアンヌをジャーナリストとしなかったのは、"作家 ecrivain”エマニュエル・カレールの意思であり、この映画は作家視点で書き直された映画だということをはっきりさせたかったのだろう。この映画のマリアンヌはジャーナリストとしては悩まなくていいところを作家として悩み、あのカタストロフを招いた、ということなのだろう。こうしてこの作品はカレールの映画になったのだが、それはありだと思いますよ。「本」と「映画」の別物化の成功例だと思いますよ。
ジュリエット・ビノッシュ?ますますすばらしい。自分が絶対映画化したかったという熱意がひしひしと伝わる。そしてこのすばらしいノン・プロ女優たちを、ほぼ合宿状態で率先して演技指導したのもビノッシュだった、と。”姉御”ジュリエットと仲間たちの毎晩の大笑いが想像できる、そういう映画。
カストール爺の採点:★★★★☆
映画はオブナの本と同じようにその極端に過酷な労働事情を映し出すことも忘れないが、マリアンヌが現場で出会う女性たちとは友情・連帯感がポジティヴに生まれていく。著述家マリアンヌは未来の本のために、もっと深いところまで知ることができる(本のヒロイン的な)ひとりの女性が必要だと考える。その人物として彼女はクリステルを想定し、この若い三児のシングルマザーに接近していく。 ツッパリ型で気が強く口の悪いクリステルは、この人当たりのいい不思議な中年女性(季節でないのに冷たいノルマンディーの海に裸になって飛び込むシーンあり、あきれるクリステル)に少しずつ心を開いていく。あつくなっていく友情。しかしサスペンスシーン:マリアンヌが車にガソリンを入れているすきに、助手席にひとりいたクリステルはマリアンヌのハンドバッグを開け、身分証明証を盗み見ていたのだ! ー それを知ったマリアンヌは疑心暗鬼になり、自分の正体がバレたらどうなるのかと気が気ではない。しかししかし、ある日、クリステルのアパルトマンに招待されたマリアンヌは、既に仲良くなっていた三人の息子たちから大歓待され、”Joyeux anniversaire(ハッピーバースデー)"の合唱の輪の真ん中にいる。(クリステルが身分証明証を盗み見たのはその誕生日を知るためだったのだ)そして息子のひとりが選んだという四葉のクローバーのペンダントを贈られ、マリアンヌはそれを一生肌身離さずつけていようと心に決めるのである。ー このエピソードはもちろんオブナの本にはないエマニュエル・カレールの創作であるが、うまい。カレールに一本取られた感じ(シャポー)。
ウィストレアム埠頭の過酷な清掃労働班の女性たちはみなすばらしい。厳しい鬼班長のナデージュ(演エヴリーヌ・ポレ、ノンプロ女優、実際に清掃班長だったようだ)のヒューマンなオーラ。そしてそのサブとして働いていた長身の美女ジュスティーヌ(演エミリー・マドレーヌ、ノンプロ女優、この人本当に逸材)が再就職先が決まり、清掃班控室でお別れパーティーをするのだが、このシーンがこの映画で最高にしあわせになれる。フェリーに乗船する(主に男性)客たちがみんな振り返るようなこの美貌の長身女性が、なぜこんな職場にいたのかはこのパーティーの後でわかるのだが、マリアンヌはジュスティーヌが性的マイノリティー(性同一性障害)で長く社会的に受け入れられなかったことを知る。とにかくこの職場ではよき副班長で他の清掃スタッフたちの面倒見も良く、明るい花のような存在だった。去るジュスティーヌのために自作ラップを捧げる若者、鬼班長ナティーヌに催眠術をかける迫真のショーなど、このシーンは恩寵の瞬間の連続であり、最後に時間が来て清掃班全員の乗るフェリーに向かうシャトルバスが遠ざかっていくのを、セクシーなドレスで踊りながら見送るジュスティーヌの美しいことったら...。
この最高の恩寵のシーンの直後にカタストロフはやってくる。映画ですから。最高にソリッドなものになったクリステル、マリルー、マリアンヌの3人の友情、とりわけクリステルとマリアンヌのそれは、(詳細はここでは書かないでおくが)マリアンヌの正体が明らかにされたとたんに無惨にガラガラと音を立てて壊れてしまう...。
オブナの本とはかなり離れてエマニュエル・カレールはこのようなフィクション化を選んだ。オブナの本は、この社会的に不可視だった女性たちが主役であり、それを書いている自分ではない。だがこの映画は書いている著述家が主役であり、その書くことのために取った手段について自ら問い詰めることになる女性を描くことになった。取材のために自らを偽り、うそをつくことは著述家として正当なことか? 問題はエティックでありデオントロジーである。
これはエマニュエル・カレールが説明していることだが、この映画の主人公であるマリアンヌ・ウィンクラーという女性は職業を常に"著述家 ecrivain"と規定している。"ジャーナリスト"としていない。ところがフローランス・オブナは自称も他称もジャーナリストである。誇り高いジャーナリストである。マリアンヌをジャーナリストとしなかったのは、"作家 ecrivain”エマニュエル・カレールの意思であり、この映画は作家視点で書き直された映画だということをはっきりさせたかったのだろう。この映画のマリアンヌはジャーナリストとしては悩まなくていいところを作家として悩み、あのカタストロフを招いた、ということなのだろう。こうしてこの作品はカレールの映画になったのだが、それはありだと思いますよ。「本」と「映画」の別物化の成功例だと思いますよ。
ジュリエット・ビノッシュ?ますますすばらしい。自分が絶対映画化したかったという熱意がひしひしと伝わる。そしてこのすばらしいノン・プロ女優たちを、ほぼ合宿状態で率先して演技指導したのもビノッシュだった、と。”姉御”ジュリエットと仲間たちの毎晩の大笑いが想像できる、そういう映画。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『ウィストレアム』予告編
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