2020年3月24日火曜日

コロナが殺したマニュ

2020年3月24日、新型コロナウィルス(Covid-19)禍が荒れ狂うフランス、パリの病院でマニュ・ディバンゴが亡くなった。マニュの家族が出した声明では、新型コロナウィルスが起因する併発症が死因とされている。86歳だった。フランスのメディアはフランスでこの病禍が急死させた最初の著名人として、訃報はテレビ・ラジオ・ネットメディアなどで大きく扱われた。この国では2010年にレジオンドヌール騎士章を贈られた大偉人であるから。
 個人的には何度か夏のフェスティヴァルで見たことがあるし、わが町ブーローニュ・ビヤンクールのキャトルズ・ジュイエ(7月14日=フランス革命記念日)のステージ(花火大会の前座ショーだから、この大アーチストには失礼なことだとは思う)にも立ってくれた。よく歌う饒舌なサックスも魅力だが、私はあの慈愛の低音ヴォーカルがもっと好きだった。
 今や私が死ぬまで唯一の単行本著作になりつつある2007年の『ポップ・フランセーズ』 では、やはりマニュ・ディバンゴの世界的大ヒット「ソウル・マコッサ」について書いている。よくまとまった「ソウル・マコッサ」伝なので、以下に再録しておく。

発見はアメリカさんが先だった

 1923年、カメルーンのドゥアラで生まれたエマニュエル(通称マニュ)・ディバンゴは、若くしてパリに留学してバカロレアを取得後、ブリュッセルに移住して、ジャズ・サクソフォニストとしてデビューする。アフリカ諸国独立時代、1961年から63年にかけてキンシャサ(当時のザイール、現コンゴ民主共和国)で成功するが、その後故郷のドゥアラでクラブ経営に失敗、マニュは65年にパリに帰ってくる。そしてフランスでブラック・アフリカンとして初めて白人歌手(ディック・リヴァース、ニノ・フェレール等)の専属ミュージシャンとして登場する。この頃のニノ・フェレール(1934 - 2003)の録音は、後年ベルナール・エスタルディ(1936-2006、サウンドエンジニア、キーボディスト、編曲家)の再評価とあいまってフレンチ・グルーヴの秘宝としてDJたちによってサンプルされまくっている。
 1972年、第8回サッカー・アフリカン・カップがカメルーンの首都イヤウンデで開催され、そのテーマ曲の作曲依頼がマニュに舞い込んだ。「ソウル・マコッサ」はこうして誕生したわけだが、それはイヤウンデでもパリでも大した話題にならずに、シングル盤のB面としてその短い命を終ろうとしていた。1年後、アフリカ音楽のレコードを求めてパリにやってきたアメリカ人プロデューサー数名が、買いあさっていったレコードの山の中に、この「ソウル・マコッサ」が含まれていた。そして米国でこれをオンエアしたラジオから火がつき、アトランティック・レコードが契約するや、この曲は全米で大ヒットしてしまう。
 ママコ ママサ マカ マコッサ...。
 1973年、アメリカはマコッサを踊っていたのだ。後年にワールド音楽最先端となるのはフランスだが、73年ではアメリカがその上手を行っていた。まこと、アメリカさんにはかなわない。
 全米ツアー、そして1974年、キンシャサでの世界的ボクシングイベント、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの世界ヘヴィー級タイトルマッチでも「ソウル・マコッサ」が奏でられ、次いでヤンキースタジアムでのファニア・オールスターズとの共演でもプレイされている。2年間の世界ツアーを終え、パリ・オランピア劇場の凱旋コンサートでのフランス人たちの熱狂的歓迎は言うまでもない。
 そしてさらに1983年、マイケル・ジャクソンの史上空前のヒットアルバム『スリラー』 からのシングルカット「ワナ・ビー・スターティン・サムシン」の後半のつなぎ部分が「ソウル・マコッサ」と同じリズムで「ママシー、ママサー、マママクーサー」と歌っていたのだ。無断でのパクリは誰が聞いても明白であった。ディバンゴ側はすぐに訴訟を起こし、マイケル・ジャクソン側はこれが「ソウル・マコッサ」からの拝借であることを認め、その結果、マニュ・ディバンゴは予期せぬ大きな臨時収入を得ることになるのである。ま、そういうこっさ。
向風三郎『ポップ・フランセーズ』 2007年 p62-63)

 この本を書き終えた2007年9月、 脱稿してほっとした耳に、リアナドント・ストップ・ザ・ミュージック」が飛び込んできた。ジャクソンと同じように「ママシー、ママサー、マママクーサー」と歌っていて、これはまだ印刷前のあの「ソウル・マコッサ」項に10行ほど補足を書かねばと思ったものだが、あとの祭り。
 マニュ、いい音楽をありがとう。天国でまた会おう。

(↓)1973年フランスのTVライヴ「ソウル・マコッサ」(司会はミッシェル・フュガン)

2020年3月3日火曜日

これからは立ち上がってずらかることだ(ヴィルジニー・デパント)

2020年2月28日(金)、第45回セザール賞セレモニーにおいて、(複数の婦女暴行前歴のある)ロマン・ポランスキーが最優秀監督賞を獲得したことに抗議して、(自らも未成年女優だった頃に監督から性的暴行を受けていたことを告白/告発していた)女優アデル・エネルが席を立ち、「何たる恥!」と吐き、足早に式場から去っていった。
その夜、作家ヴィルジニー・デパントは火の出るような憤怒の一文を書き上げ、リベラシオン紙に投稿した。その全文は3月1日にリベラシオンWEB版に、そして3月2日付けの同紙印刷版に掲載された。以下無断で全文訳してみました。

(↓)リベラシオンWeb版の記事直接リンクはこちら
https://www.liberation.fr/debats/2020/03/01/cesars-desormais-on-se-leve-et-on-se-barre_1780212


Désormais on se lève et on se barre
今後は立ち上がってずらかることにする

んなふうに始めてみようか。落ち着いて読みなよ。権力者たち、ボスたち、親分たち、大物たち、ひどいことになったもんだね。そんなことはよく知ってるし、あんたたちのことはよく知っているし、あんたたちのどでかい権力をあんたたちの目の前で何十回も奪ったことがあったんだが、それはいつもひどく痛いものだったよね。この週末の間中、あんたたちのうめきやめそめそ泣きや不平を聞いていた。あんたたちの法案を通すために「憲法49条3項」(国会の投票抜きの法案可決)どうしても使わなければならない心苦しさ、あんたたちにポランスキーの受賞を心安らかに祝わわせてくれない悲しさ、あんたたちのパーティーは台無しになったんだろうが、気にすることなんかない、あんたたちのめそめそ泣きのすぐあとで、私たちにはあんたたちの大喜びの声が聞こえてくる。あんたたちが真のパトロンであり、本物の傑物であることの喜びの声が。メッセージは一語もらさず伝わった。この合意という概念は、あんたたちがこんなにうまく通るとは思っていなかった。権力者たちの閥に属するという喜びは、従属者たちの合意ということを考慮に入れてこそのことでしょう? あんたたちの見事な力づくのデモンストレーションを目の当たりにして、憤怒と無力感で泣きたくなったのは私ひとりだけではないだろうし、絶対罰せられることがないあんたたちのオージーの見世物によって身を穢されたと思ったのも私ひとりだけではないはずなのだ。


セザール賞審査委員会が2020年度の最優秀監督にロマン・ポランスキーを選ぶということは何ら驚くべきことではない。それはグロテスクで侮辱的で汚らわしいことではあるが、驚くべきことではない。ひとりの男にテレビ映画もどきの作品をつくるために25百万ユーロ(30億円)もの予算を託した時、もう言いたいことはその予算の中にある。反ユダヤ思潮の高揚への闘いがフランス映画の興味対象となるのであれば、それはおのずとわかるだろう。それに対して非抑圧者たちの苦難の歴史を物語る彼らの声というのは、あんたたちをうっとりさせたのだ。百人ほどのフェミニストたちに騒々しくいびられているひとりの映画監督の諸問題と、ドレフュスという前々世紀末の反ユダヤ思潮の被害者をうまく天秤にかけるという話を聞いたとき、あんたたちはこの話に飛びついたのだ。この対比対照に25百万ユーロ。すばらしい。出資者たちに大喝采だ。なぜならこんな予算を集めるにはあらゆる大物たちが賭けに乗ってこなければならなかったのだから。配給会社ゴーモン、国庫文化予算、フランス2、フランス3、OCS、カナルプリュス、イタリア国営放送....、ポケットに手を入れて、一度きりかもしれないが気前よく、身を寄せ合って、あんたたちの仲間を助けた。最強の権力者たちは彼らの特権を守るために協力する。それがあんたたちの優雅さの一部であり、性暴力はあんたたちの様式の基礎となっているものでもある。法律はあんたたちを保護し、法廷はあんたたちの領域であり、メディアはあんたたちが所有している。あんたたちの莫大な財産の力というのは、まさにこんな時に役立てるためにあるのだ。下級と自ら宣告した集団を管理下に置くこと。この集団は口を閉ざし、彼らの観点からの話をしない。最高の富豪たちが、この美しいメッセージを伝える時がついにやってきた。人々が彼らに払わなければならない敬意は、今後は彼らが強姦する子供たちの血や糞で汚れた彼らのイチモツにまで及ぶものとする、と。それが国会であれ、文化の領域であれ。彼らはもう身を隠すことも、遠慮するフリをすることも耐えられないのだ。あんたたちはその敬意が全的で恒常的なものであることを強要する。その敬意は性暴力についても及ぶべきだし、あんたたちの警察の権力濫用にも、セザール賞の決め方にも、年金法改革にも及ばなかればならない。被害者たちの沈黙を強要すること、それがあんたたちの政治だ。あんたたちの領地の一部であり、そのメッセージを私たちに恐怖をもって叩きこむことがあっても、あんたたちは何ら問題があることとは思わない。なによりもまずあんたたちの病的快感だ。あんたたちの周りには恭順な下僕たちしか近づけない。あんたたちがポランスキーに冠を与えたことなど、何ら驚くべきことではない。こんなセレモニーにあっては、祝福すべきものは金でしかない。映画なんて知ったこっちゃない。観客なんて知ったこっちゃない。あんたたちが重宝するあんたたち自身の壊滅的金銭力がものを言ったのだ。あんたたちが彼への支援の印として提供した巨大予算がものを言ったのであり、彼を通じて人々が敬意を表さなかればならないのはあんたたちの強権である。

このセレモニーについてのコメントにおいて、こちらの男たちとあちらの女たちを分けることなど不要だしとんちんかんなことだろう。私にはそれらの態度の違いなど一切見受けられない。大きな賞というものは排他的に男の領域のものであり続けるということが了解されている。なぜなら基本的なメッセージは、何も変えてはならないということだから。ものごとは今あるそのままの状態で至極良い。フォレスティ(註:フローランス・フォレスティ、今回のセザール賞セレモニーの司会者、コミック芸人、フェミニスト)が、「嫌悪で胸が悪くなり(écoeurée)」と言い、式典を途中で降りたことは、彼女は"女”としてしたのではない。彼女は”個人”としてその職業を敵に回すというリスクを冒してそれをしたのである。彼女は映画産業に全面的に服従しているわけではない”個人”としてそうしたのである。なぜなら彼女はあんたたちの権力が彼女のショーの客席を空にするほどのところまでは及ばないということを知っていたから。彼女はセレモニー 中、誰も口にしようとしなかったジョークをあえてしたたった一人の女だったし、他のすべての人たちはその主題を避けて通った。ポランスキーについて一言も言わないこと、アデル・エネルについて一言も言わないこと。この業界ではみんな一緒に夕食を取るし、みんな合言葉は知っている。もう何ヶ月も前からあんたたちは一部の観客たちが声を上げようとしているのに苛立っていた。もう何ヶ月も前からあんたたちはアデル・エネルが発言し、彼女の子役時代にあったことや彼女の観点について語ることに悩まされていた。

当夜このホールの席についたすべての人間たちはたったひとつの目的のために召集されたのだ。それは有力者たちの絶対的な権力を確認すること。そして権力者は強姦者を好む。両者に似たところがあるとすれば、力が強いということ。強姦のせいで彼らが嫌いなのではなく、彼らには才能があるからなのだ。彼らには才能があり、強姦者ゆえの独自性がある。だから彼らは好かれるのだ。彼らの快感の病的性質、他者を破壊せずにはいられない衝動、それは実際には彼らに接するすべてのものを破壊したい衝動であるのだが、その病性を世に要求するという勇気において彼らはお互いを愛し合っている。あんたたちの快楽は捕食の中にあり、それこそがあんたたちの理解できる唯一の独自性なのだ。あんたたちがポランスキーを擁護する時、あんたたちは自分が何をしているのかよ〜く知っている。 あんたたちは人々のあんたたちへの称賛はあんたたちの犯罪行為まで含むことを強要している。この強要によってこのセレモニーにおいてすべての人間たちは箝口令に従わされた。人々はポリティカリー・コレクトネスやソーシャル・ネットワークのせいにして、この箝口令はつい昨日始まったばかりであるかのように、悪いのはフェミニストたちだと言うが、この沈黙の掟は何十年も前から施行されていた。何十年もの間フランス映画賞の式典において、パトロンたちの神経を逆撫でするようなジョークは一度も話されたことがない。ゆえに全員が口をつぐみ、全員は微笑む。もしも小児強姦者が清掃夫だったら、間違いなく村八分にされ、警察、監獄、大言壮語の糾弾声明、被害者の全的救済、最大量刑での判決となる。しかしその強姦者が有力者なら、敬意と連帯となる。公にはキャスティング、制作準備、撮影、プロモーションの間に何が起こったかを絶対に語ってはならない。うわさにはなるが、口はつぐめ。これはみんなが知っていることだ。常にこの沈黙の掟が優先する。この掟を遵守することが雇用の際の条件となる。
みんなそんなこと何年も前から知っているというのに、本当のところ、毎回この権力のふてぶてしさには驚かされる。つまり見事であるのはこのことであり、あんたたちの汚辱はどんな時でも機能するのだ。式参加者たちが、賞を発表するためだったり賞を受け取るためだったりで、登壇して演台の前に立つのを見るのは屈辱的なことである。このハーレムに属する私のような人間でなくても、このセレモニーを見つめるいかなる人間たちも、この人たちに自分を投影し、その代理者のように屈辱感を味わう。なんという沈黙、なんという服従、なんという熱心な隷属。人は自分のことのように感じている。死にたくなってしまう。この苦行の果てに、あらゆる人間がこの大汚辱の塊の使用人であることを思い知らされるのだから。『火のついた若き娘の肖像』(註:セリーヌ・シアマ監督映画、2019年カンヌ映画祭脚本賞、主演アデル・エネルとノエミ・メルラン、二人の主演女優賞ほか10部門でセザール賞にノミネートされていた)が最後までセザール賞を一個も獲得できないのは、アデル・エネルがものをしゃべったという唯一の理由からなのだということを知っていて列席者たちすべてが沈黙しているのを見るとき、私たちはその代理者のように屈辱感を味わう。これらの人たちはみんなそれが、自らの体験を語ろうとおもっていた(性犯罪)被害者たちがその沈黙の掟を破る前によ〜く考えた方がいいんじゃないかとわからせるためのことなのだと知って口を閉ざしていたのだ。あんたたちは最優秀監督賞を発表する役目のために、あえてその賞をかつて取ったこともなく未来においても取れるわけがない二人の女流監督(註:クレール・ドニエマニュエル・ベルコ、共にフェミニストとして知られる)を選んだということにもその代理者のような屈辱を覚える。その二人が発表した最優秀監督賞とはロマン "fucking"ポランスキーその人なのだ。Himself ! 私たちの顔のど真ん中へのパンチだ。あんたたちは全くもって恥というものを一切知らない。25百万ユーロ(註:30億円)!すなわち『レ・ミゼラブル』(註:ラドジ・リ監督映画、2019年カンヌ映画祭審査員賞、この2020年度セザール賞で最優秀映画賞受賞)の14倍以上の制作予算であり、その監督野郎はその作品を年間観客動員数のベスト5にも入れることができなかったのだ。あんたたちはそれでもこれに褒美を与える。あんたたちは自分たちがそこで何をしているのかよ〜く知っている。そのメッセージをよく理解した聴衆の大部分が受けた屈辱は、その次に受けた賞、すなわち『レ・ミゼラブル』(註:最優秀映画賞)にまで拡張していて、式場にいた最も立場の弱い人間たちをあんたたちは壇上に上がるようにしむけ、それらはほんのささいな警察による身元検査で身が危険となる人たちであり、その中に女性たちが少ないのは彼らが賢明である証拠であると示すことである。そして当夜祝福された強姦者が罰せられないことと、彼らが住む地区の状況はどれほど密接な関係にあるのかをよ〜く知っているのである。あんたたちの超越した免罪性に賞を手渡した二人の女流監督と、あんたたちの卑劣で穢された賞を得た(男性)監督たちは全く同じ戦いを強いられたのだ。どちらも映画産業に従事する者として、明日も仕事を続けたいなら、口をつぐむことだということをよくわきまえている。ひとつの笑い話もジョークもない。それがセザール賞のスペクタクルだ。そして日付の偶然で、このメッセージはあらゆる分野で通用するようになった。私たちが望まない年金法改革に反対しての3ヶ月におよぶストライキ、あんたたちはこれを力づくで突破しようとしている。これはあんたたちと同じ階層から発せられた私たち民草へのメッセージである:「黙れ、口をつぐめ、おまえの合意などおまえのケツ穴の中にでもしまっておけ、俺とすれ違う時には微笑め、俺は有力者で、俺には資金があり、おまえのボスは俺なんだから。」

アデル・エネルが立ち上がった時、それはまさに歩く冒涜者であった。再犯する雇われ女であり、公衆の面前で彼女に水をかけても彼女は微笑む努力をしない、彼女自身への辱めのスペクタクルに拍手する努力もしない。アデルは以前立ち上がった時と同じように立ち上がった。立ち上がり、あんたたちのその監督と未成年女優に起こった事件について彼女がどう思っているか、彼女自身があの事件をどう生きたか、彼女が今それをどう引きずっているか、彼女の皮膚にどう刻印されているかを話した時と同じように立ち上がった。あんたたちはあらゆる方法をつかって私たちを屈服させることができる。例えばあんたたちの言う人間と芸術家を区別するという論法 ー 芸術家による強姦の被害者たちは、強姦された肉体と創造のための肉体の間に奇跡のような区別など存在しないということを知っている。自分が持っている肉体で生きている、それだけだ。私の書き仕事を始める前に、事務所の扉の前で少女が強姦されてるのを見過ごすには一体どういう態度で振る舞ったらいいのか、あんたたち、ここに来て説明してくれよ、道化師連中よ。

アデルは立ち上がり、ずらかった。この2月28日の夜、美しきフランスの映画産業について私たちが知らずにいたことを新たに発見したということはほとんどない。それでもイヴニングドレスというものがどんな風に着られているのか、ということは初めて知った。それは戦闘服のように着られる。高いヒールの靴で歩くのだから。建物全体を解体しに行くように、背筋を伸ばし、怒りで首を硬化させ、肩で風を切って。45年間のセザール賞セレモニーで最も美しいイメージ、それはアデル・エネルが階段を降りて出口に向い、あんたたちに拍手を送ったことだ。これで今後どうしたら最も効果があるかがわかったのだ。その場をずらかり、あんたたちに「メルド」と言うことだ。私はこのイメージは、私のフェミニスト書棚の蔵書の80%に匹敵するものだと評価する。この教訓に。アデル、私はおまえを"男好き”しているのか"女好き”しているのかわからないが、おまえを"ラヴ好き”して(註:この部分の翻訳には自信がない。原文は"Je sais pas si je te male gaze ou si je te female gaze mais je te love gaze...")、私のスマホでおまえの退場あのイメージを何度も繰り返し見ている。おまえのボディー、おまえの目、おまえの背中、おまえの声、おまえのジェスチャー、すべてがこう言っていたのだ : そうよ、私たちはコナス(バカ女)よ、私たちは辱めに汚れた者、そうよ、私たちは口をつぐんで、あんたたちの出す御馳走を食べていればよかった、あんたたちはボスであり、あんたたちには権力があり、それに見合った鷹揚さもある。でも私たちはもう何も言わずに座り続けるのはやめるわ。私たちはもうあんたたちをリスペクトしない。出ていくわ。あんたたちのバカ騒ぎは仲間うちだけでやっておいて。祝福し合いなさい、お互いに侮辱もしなさい、殺しなさい、強姦しなさい、搾取しなさい、クスリ漬けにしなさい、あんたたちの手元にやってくるすべての人たちを! 私たちは立ち上がり、ずらかるわ。これはこれからの未来を暗示するイメージとなろう。ここには男と女の違いなどない。あるのは被抑圧者と抑圧者の違い。言論を奪いその決定を強要しようとする者たちと、立ち上がって怒りの声を上げてずらかる者たちの違い。これがあんたたちの政治に対する唯一の答えなのだ。ことが立ち行かないとき、ことが行き過ぎるとき、人々は立ち上がり、その場を去り、そしてあんたたちを侮辱する。たとえ私たちが底辺の者であっても、たとえ私たちがあんたたちの糞権力の被害をまともに被る者であっても、私たちはあんたたちを軽蔑し、へどを吐きかける。あんたたちの威厳を競うマスカラードになど、私たちは一切敬意を払わない。あんたたちの世界はデゴラス(不潔極まりない)だ。あんたたちの最強者への愛は病気そのものだ。あんたたちの権力は陰険そのものだ。あんたたちは致命的な愚者の徒党だ。あんたたちがゲスのようにその上で支配するために作った世界はもはや呼吸困難だ。私たちは立ち上がり、ずらかる。もうおしまいだ。私たちは立ち上がる。私たちはずらかる。私たちは大声で叫ぶ。私たちはあんたたちを無視する。

ヴィルジニー・デパント(小説家)

(↓)2月28日、ポランスキーの監督賞受賞のアナウンスに、席から立ち上がり、退場するアデル・エネル


(↓)2020年3月2日にYouTubeにアップされた BRUT によるアデル・エネルのポートレイト。


2020年3月1日日曜日

レイラ・スリマニ、スプリンゴラ『合意』について語る

イラ・スリマニの第3作めの小説にして、20-21世紀にまたがる故国モロッコにおける自らの家族史と民衆史を土台とした大河小説三部作の第1巻になる『他人の国(Le Pays des Autres)』が3月5日に発表になる。
向風三郎はこの文学的事件をラティーナ誌連載「それでもセーヌは流れる」の最終回(2020年5月号)で紹介する予定にしている。この『他人の国』に関しては発売前週の2月最終週のプレスメディア(レ・ザンロキュブティーブル、テレラマ、パリ・マッチ...)が大々的に取り上げていて、その中でロプス誌 2月27日号は10ページにわたって「レイラ・スリマニ:"植民地主義の膿みを絞り出せ”」と題して特集している。
ちなみにこのロプス(L'Obs。旧称 Le Nouvel Observateur)は1964年に創刊された古参の左派系週刊誌であり、その創立者がジャーナリストのジャン・ダニエル(1920 - 2020)で、この2月19日に99歳で亡くなったばかり。レイラ・スリマニの特集記事掲載号は、このジャン・ダニエルへの追悼号(48ページのオマージュ)で、この訃報がなければレイラ・スリマニが表紙を飾ることになっていた。それはそれ。
 8ページのインタヴュー記事は、その新作小説の内容に関することが中心を占めるが、マクロン大統領から2018年に(私的任命による)「フランス語世界担当官」(つまり政府側の重要職)という立場にありながらも、歯に衣着せぬマクロン権力への批判も登場する。またフェミニストとして積極的な論客でもあるスリマニは、昨今の時事問題(今年のフランス映画界最も権威あるセザール賞において、複数の性犯罪で告発されているロマン・ポランスキー監督が11部門でノミネートされた件、2020年1月文学界の最大の事件であるヴァネッサ・スプリンゴラ著『合意』がペドフィル作家ガブリエル・マツネフを30数年後に告発した件など)についても、明解なコメントを披露している。以下、ポランスキー事件(インタヴューの時点では「セザール賞監督賞」のポランスキー受賞は決まっていない、ノミネートのみ)とスプリンゴラ/マツネフ事件に関するスリマニの見解が現れるインタヴュー箇所を日本語訳してみます。

(L'Obs) :「シャルル」誌上でのアラン・ドロンとミッシェル・ウーエルベックへの再評価称賛をあなたは歓迎していましたね。セザール賞におけるロマン・ポランスキーのノミネートに関してあなたはどう考えますか?
レイラ・スリマニ : 私は芸術家と人間をはっきりと分けて考えている。芸術家はその芸術的観点の基準によって判定され、人間は法廷で判定が決まる。何人も法の上に立つことはできない。しかし偉大な芸術作品はそれ自身の価値で認められる。たとえそれが怪物によって書かれたものであっても。『夜の果てへの旅』 (註:ルイ=フェルディナン・セリーヌ作 1932年発表)はとてつもなく大きな作品である。ウーエルベックやドロンの考え方に私は嫌悪感を覚える。二人のことを私はレイシストでミソジニーだと思っているが、彼らの言動は法律の許容範囲を超えるものではない。そのことが偉大な作家であることや偉大な俳優であることを妨げるものではない。この先20年後も『テナント/恐怖を借りた男』(1976年)や『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)のようなポランスキー作品は世に残るだろう。これらの制作時期において、彼は世間とメディアを騒がせていたわけで、何件もの暴行事件で糾弾されている人間が映画館では喝采を浴びていたということに、人は呆れ果てなかったことだろうか。事件は時効になり、推定無罪の原則もあるが、私は人々の不快な困惑感を全面的にに理解できる。
L'Obs) : ガブリエル・マツネフ事件についてはどんなふうに見ていますか?
レイラ・スリマニ : それまで私は(マツネフのことを)聞いたこともなかった。それで読んでみた。私には彼は非常に凡庸な作家でしかなく、正直に言って、世間が彼の小児性愛犯罪について寛大であったことに仰天してしまった。それを自慢げに披歴する汚らわしいやり方はぞっとするほどだ。ヴァネッサ・スプリンゴラの書はおおいなる尊厳さに満ちている。彼女は憎しみの中にもパトスの中にも閉じこもらない。このことを前面に出さなければならない。告発すること、憤激すること、被害者であることを堂々と披露すること、そのすべてに自らが体験したことに対する非常に複雑な考察と視点を持つことが肝要である。これは非常に重要な著書である。
(L'Obs) :あなたの出版社主アントワーヌ・ガリマールは、ガブリエル・マツネフの全著作を書店から引き上げました。その判断は正しいと思いますか?
レイラ・スリマニ : 私は彼のしたことが理解できる。彼はヴァネッサ・スプリンゴラの本に突き動かされたのだ。マツネフの本が読者の手に届かなくなるということには、私は個人的にはさほどのショックを受けない。しかしある種のメディア的大衆的な圧力(その圧力はどこから生まれたのかわからない)に屈しなければならないということには疑問がある。もしも近い将来、アンドレ・ジッドの『日記』ポール・ボウルズの小説、ジャン・ジュネの戯曲が本屋から消えるとしたら? 用心深く注視していなければならない。
(L'Obs 2020年2月27日号 p30-31)



(↓)L'Obs のインタヴュー動画。レイラ・スリマニ、感銘を受けた植民地問題に関する映画3篇について語る。(2020年2月末掲載のYouTube)