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2015年10月24日土曜日

Your Love is King

『モン・ロワ』
"Mon Roi"

2014年フランス映画
監督:マイウェン
主演:ヴァンサン・カセル、エマニュエル・ベルコ(2015年カンヌ映画祭・主演女優賞)、ルイ・ギャレル
フランス公開:2015年10月21日

 ずタイトルである「王(roi)」ということを考えてみました。フランスは王がいない国になって150年近くになります。最後の王は第二帝政のナポレオン三世で1871年の第三共和制の成立によって失座しています。それ以来フランス人は王を知らないのです。隣国ベルギー、スペイン、英国、オランダ、ルクセンブルク、モナコ... などと事情が違う。たとえ立憲王制で、議会が国政を司っていても、平民じゃない人をその上に座らせておいている。この得体の知れない存在が王です。それが隣国諸王国では具体的な身体を持った存在です。フランスはそれをもう150年近くも知らないのです。王というのはフランス人にとってもう何ら具体性のない、おとぎ話なのです。絵本の世界なのです。話を日本のことにしますと、2015年の今日、大変な問題であるかの悪法が国会で成立する前に、一部の人々は、常々平和主義的な慈悲深いお言葉を垂れる平成天皇がこの悪法に関してひとこと言えば事態はおおいに変わるはずだ、と天皇発言を真剣に待望していたはずです。権力はなくても「ひとクラス上」のなにかを発揮できるものという漠然とした期待があったのではないでしょうか。
 得体の知れないひとクラス上、今先進国中の王国(日本も含めて)の王はそういうものです。ところがそれを忘れて久しいフランスでは、この「ひとクラス上」の感覚も忘れてしまっているような気がします。人権宣言の国ですから。人間はみんな平等ですから。

 さて前作『ポリス』(2011年)を大絶賛した(拙ブログ記事『警察は一体何をしているんだ』)私ですから、本当に待ちかねていたマイウェンの新作(長編映画第4作め)です。残酷で凄絶な恋愛映画です。2時間胸がキリキリ痛む映画です。
 これは2015年のカンヌ映画祭で初上映され、エマニュエル・ベルコが主演女優賞を受けました。そのベルコは同じ映画祭で監督として『こうべを高く(LA TETE HAUTE)』(拙ブログ記事『こうべを高く』)をオープニング作品として上映していて、2015年カンヌはベルコが目立った年として記憶されそうです。

 世に少ない数でしょうが、イイ男はいます。見栄えも良く、金もあり、ある分野で才能があり、インテリで、ソフトで話術が巧みで、必殺の魅惑視線、そして性が強い。こういう条件が揃えば当然ナルシスティックな男です。みずから「ひとクラス上」感覚が身についちゃっています。この絵に描いたような優男がヴァンサン・カセル演じるところのジョルジオです。風流人で、グルメ通・ワイン通・遊び通(個人プレー/団体プレー両方いけます)です。その上友人たちから信望も厚く、女性たちからはもちろん...。それに対して、トニー(男名前の愛称ですが、女性です。エマニュエル・ベルコ演)はどう見てもフツーっぽいのです。弁護士というハイクラスな仕事をする「できる女」でありながら、どこか花がない。控えめな30代女性として登場します。目立つプレイボーイのジョルジオのことは前から知っていたけれど、ジョルジオがわたしのことを覚えているわけがない、という先入観。ところが覚えているんですよ。「忘れるわけないさ、トニーなんていう名前の女」ー うまいなぁ。このシーンのためにマイウェンはこの名前考えついたのかもしれないですね。
 トニーの弟のソラル(ルイ・ギャレル)とそのフィアンセのベベット(イスリッド・ル・ベスコ = マイウェンの妹)と3人で来ていたナイトクラブでジョルジオと出会った(正確には再会した)その早朝、ジョルジオは3人を自宅に朝食に招待します。ジャガーを乗り回し、100平米のフラットにひとりで住むこの男は、広々としたキッチンで本グルメのプチ・デジュネを用意して出すのです。クール!
 ジョルジオの誘惑の手は早くてスマート。トニーに「また会えるかい?」と誘うやいなや、連絡方法はこれ使ってくれと自分の携帯電話(時代設定が10年前だからスマホではなくて、手のひらにすっぽり入るサイズのずんぐりむっくりケータイ)をポーンと投げ出す。それをトニーは見事にナイスキャッチ。あたかも相手のハートをキャッチしてしまったかのように。 ー マイウェン映画はこれがいかにカッコいいことかを証明するように、その場にいた弟ソラルに同じことをさせるのですが、ソラルがバベットに投げたケータイはキャッチに失敗して地面に落ちてグジャっと壊れてしまうのです。ソラルは自問します「なんであいつにはできて、俺にはできないんだ?」ー それがひとクラス上ということなのです。
 しかしトニーには不安とコンプレックスがあります。このイイ男は私には不釣り合いである。なぜ私のようなフツーの女に接近してくるのか。これは真剣なことではない。しかしあれよあれよと言う間に二人は惹き合い惹かれ合い、初めてベッドを共にすることになります。情熱的な行為のあと(マイウェン映画ならではの直接的でハードコアなダイアローグです)、トニーはこう聞きます「私のあそこガバガバでしょ?」ー これは世の男の「俺のものは小さい」と同じものでしょう。これは象徴的かつ具体的なコンプレックスで、自分は人より良くないんじゃないか、うまくできないんじゃないか、ひとクラス下なのではないか、ということなのです。ジョルジオは「一体誰がそんなこと言ったんだ?」と執拗に問いつめ、トニーが前の男だと告白すると、ジョルジオはその男の極小チンコを笑いものにし、そいつは connard (コナール:スタンダード仏和辞典の訳ではばか者、まぬけ)だと言うのです。

トニー:T'es pas un connard, toi ?(あなたはばかじゃないの?)
ジョルジオ:Non moi je suis le roi, le roi des connards (いいや、俺は王だ、ばか者どもの王様だ)
と、確信的な王様宣言をするのです。これは状況として冗談のように発言されているけれども、実は冗談ではなくなってしまうというのが、この映画の進行です。
 そしてこの最初の愛情交わりの夜に、ジョルジオはトニーに Je t'aime と言ってしまうのです。なんて早い!早すぎる!(言っときますけどね、Je t'aimeは一般に日本の人たちが想っているよりも百倍も千倍も重い言葉なのです。生死をかけて発語しなければならない言葉です。むやみやたらと使ってはいけない。とどめで必殺という機会でないといけない。その代わりそれが外れたら、自死も覚悟しなければならない、そういう言葉なのです。歌の文句のように思われたら困るんです)ー これが王のやり方だというのがだんだんわかってきます。
 二人は愛し合い、最高に幸福な瞬間瞬間があります。これはウソではない。そしてトニーが妊娠します。ジョルジオの喜びようは、茶々懐妊のしらせを受けた秀吉のよう(と言ってもフランス人にはわかるまい)。二人は結婚し、その数ヶ月後には愛し合うパパとママに祝福されてベビーが誕生することになっていた ー と見えるのですが、映画ですから、事件は起こります。ジョルジオの前の恋人だったアニエス(演クリステル・サン=ルイ・オーギュスタン)が自殺を図ります。このアニエスは第一線のマヌカンとして鳴らしたほどの美貌の持主ですが、激しい気性の持主で、4年間ジョルジオとつきあって別れたということになっています。ジョルジオは自死に至るまで心を病んでいたアニエスを放っておけないと、未遂事件後ひんぱんにアニエスを見舞うようになります。トニーは妊娠という大切な時期に、たとえ病んでいるとは言え元恋人のために出かけていくジョルジオに不信感が募って行きます。ジョルジオは「アニエスに会うのはもうこれが最後だから」というウソを連発します。
 俺は誰にも邪魔されずに仕事したい、誰にも邪魔されずに自由に遊びたい、きみも自由でいてほしい、というよくある身勝手な男の「自由尊重」理屈で別居婚を提案し、アパルトマンを用意してトニーと未来の子供を住まわせようとします。
 王国はこうやって徐々に出来上がっていくのです。王が自由に仕事し、自由に遊び、好きな時に妻と子供を愛することができる。トニーはこれを受け入れません。王のルールに従うこと、服従することを拒否してトニーは不幸になります。
 こう書くとジョルジオがマッチョな暴君に変身したように取られるかもしれませんが、映画はそんな単純な描写はしません。理屈はどうあれ、ジョルジオはイイ男であり続け、魅力的であり、トニーを(自分の理屈でという条件つきですが)真剣に愛していて、必死になって繋ぎ止めようとするのです。 この魅力は抗しがたい。だから妊娠後に二人の関係が一直線に冷え込んでいくかというとそうではない。大きな波のように上昇したり下降したりするのです。映画は臨月近い大きなお腹をしたトニー(たぶん特撮なしの生身演技。裸。)とジョルジオの幸福そうな性交シーンまで映し出します。
 ドラマは出産後にも起こります。この男児はジョルジオの発案であるかのように、ジョルジオによって「シンバッド」と命名されます。かの千夜一夜物語の船乗りの名前(日本ではシンドバッドか)です。勇壮でいい名前だろう、とジョルジオはこの名前がことの他お気に入りです。しかし後日、この名前の本当の発案者、つまり名付けの親はあのアニエスであることを知るのです。 ー 私の知らぬところで、勝手に、勝手にシンバッド!

 映画の始まりはその10年後です。10歳になったシンバッドと母親トニーがスキーに出かけ、山の頂上からトニーは(明らかに自殺衝動で)盲目的に直滑降し、膝関節を破壊する大けがを負います。手術のあと、再び正常な歩行ができるように、海辺にある大きなリハビリセンターに入院します。映画はトニーがこのリハビリ訓練を受けながら、痛く、苦しい思いをしている最中にこの10年間を回想する、という形式で展開します。出会い、激愛、諍い〜和解〜より深い諍い〜和解〜よりより深い諍い〜和解...、出産、諍い、離婚... トニーはボロボロなのですが、それはこの王の呪縛から逃れようとすればするほど、地獄に落ちていく、という日々でした。
 ジョルジオはいい父親なのです。シンバッドにとって本当にいいパパなのです。これほど素晴らしい父親は世の中にいるだろうか、というシーンが何度かあります。シンバッドも父親を世界一だと思っているに違いありません。
 リハビリの苦痛の中で、トニーは少しずつ「生への回帰」の希望を取り戻していきます。この時にこのセンターの中で知り合った若者たち(郊外あんちゃんたち。アラブ、ブラック、メティス...)との交流が、マイウェン一流の救いある笑いのシーンとなっています。うまい挿入部です。

 映画の終わりはリハビリが終って、生活に復帰したトニーが、シンバッドの学校から両親呼び出され、担当教師たちとシンバッドのその学期の成績評価などをする面談するシーンです。先に教師たちの前に着いていたトニーと面談が始まった直後に、ジョルジオが入ってきます。改めて教師たちが、シンバッドの評価を二人の前で始めますが、前期に比べてあの点が良くなった、この点が向上した、と良いことずくめ。それを涙も流さんばかりに感動&満足して聞いているジョルジオを、トニーはじっと見つめています。そういう終り方です。

 この王は良い王に違いない。そう思わせますが、王を認めてしまったら私はどうなるのか。その地獄の繰り返しの果てに、トニーはやはりふっと柔和な視線でジョルジオを見てしまう。女性たちのご意見を聞きたいです。私はこの「ひとクラス上」は認めてはならないのだ、という意見です。魅力と権威に服従してはならない。飛躍と思われましょうが、政治的な意味においてもこれは認めてはなりません。 しかし...。しかしが残る映画です。すばらしいと思います。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『モン・ロワ』予告編


2015年5月14日木曜日

こうべを高く

『こうべを高く』
"LA TETE HAUTE"
2014年フランス映画
監督:エマニュエル・ベルコ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ロッド・パラド、ブノワ・マジメル
フランス公開:2015年5月13日

 2015年5月13日に開幕したカンヌ映画祭のオープニング作品で、同日発行の風刺週刊誌シャルリー・エブドの表紙にカトリーヌ・ドヌーヴが登場、見出しに「クロワゼット大通りに不審な置物が!」とあり、映画祭報道陣が器材を捨てて避難したあと、吹き出しに「警報解除!あれはカトリーヌ・ドヌーヴだ」と。
 箱型冷蔵庫のような体型のドヌーヴという茶化しですが、私はですね、容姿を笑いものにすることは認めませんよ。シャルリーだけでなくフランスの多くの戯画家や漫談家が、サルコジの背の低さを笑いのタネに使ってきましたが、私は反サルコジの考えを持っているとは言え、この笑いだけは絶対に認めませんよ。
 かつての絶世の美女は今は貫禄のある老女です。その貫禄を初めて引き出したのが、エマニュエル・ベルコの前作『Elle s'en va』(2013年)であると言っていいでしょう。当ブログは2013年9月13日記事で絶賛しています。 今回のドヌーヴは未成年担当の女性裁判官です。書記官を横に置き、どでかいデスクの上に担当事件の書類を山積みにし、その前に引き出される問題児やその親(未成年ですから責任は親にあります)に対して、法の番人としてその子の処置を最終的に下すという極めて重責な立場にあります。威厳が要求されます。ところが、この女性裁判官の前に現れるのは、凶暴で無責任などうしようもない子供たちとどうしようもない親たちばかりなのです。判事・弁護士・裁判官に対して卑語・罵詈雑言・恫喝を繰り返し、隙あらば暴力沙汰になりかねない。だから問題の子が入室する前に、机の上のハサミやペーパーナイフの類いの凶器になり得るものは隠しておかなければならない。おそらくそういう修羅場は何度も経験している、ということを思わせる貫禄がこの役どころには必要なわけで、その顔、その言葉、その堂々とした容姿に、カトリーヌ・ドヌーヴは完璧にその「絵」となったのです。
 映画はその極端に凶暴で情緒の欠落した少年マロニー(演:ロッド・パラド)の6歳から17歳までのクロノロジーです。問題を起こし、母親セヴリーヌ(サラ・フォレスティエ、怪演!)とまだ乳飲み子だった弟と共にダンケルク地方裁判所の児童担当裁判官の前に出廷させられますが、その裁判所決定を先読みしたかのように、母親は逆ギレし、もうこんな手に負えない子供と一緒にいるのはウンザリ、と少年の身の回り品を詰めた布バッグと少年を残して、裁判所から逃げ出して行きます。ここからマロニーの施設での生活が始まります。
 1年前、2014年のカンヌ映画祭で、今日の映画界のアンファン・テリブルと評させるカナダのグザヴィエ・ドーラン(当時25歳)が一大センセーションを起こして同映画祭の審査員と区別賞を獲得した映画『マミー』(爺ブログのここに記事あり)は、同じように凶暴な(ADHD = 注意欠陥・多動性障害と診断された)少年の物語でした。いくつかのメディアはこの二つの映画の類似性を指摘します。しかし、決定的な違いは、『マミー』では少年は社会に見捨てられ母親によって救済され、『こうべを高く』では少年は母親に見捨てられ社会によって救済されるのです。救済という言葉は強すぎるかもしれません。少なくとも一条の光は与えられるのです。
 派手なドーランの映画に比べて、このベルコの映画の地味さもただものではありません。前者に登場する少年スティーヴの極端にネガティヴになったり極端にポジティヴになったりという情緒の浮き沈みが、後者に登場するマロニーにはなく常に極端にネガティヴでアグレッシブなのです。これを隔離された集団生活の中で修正していく目的の施設の中でマロニーは育ちます。その担当教育員ヤン(ブノワ・マジメル)は、マロニーの野卑ですべてに否定的な言語に負けない、強靭で威圧的で教唆的な言語を用いますが、そこにはアニキ分的な慈愛のスパイスを利かせる必要があります。この映画の中でブノワ・マジメルはロバート・デニーロに良く似ている、と何度も思いました。しかし、抑制の取れていたはずのヤンも映画後半で我慢の限界を越え、暴力的にマロニーを押さえ込んでしまいます。このことでマロニーへの非暴力の教えは無に帰してしまうのです。
 マロニーを更生の道へ導くことは非常に長い時間がかかります。この映画の長さ(2時間)はその一進一退のリズムでもあります。そしてそのヒーロー&ヒロインたちは、女裁判長とひとりの教育員ヤンだけではなく、施設や未成年監獄で働くすべての人たちなのです。映画はこの問題ある少年たちと文字通り体当たりで向き合っている人たちひとりひとりにも多くのシーンを割いています。まず圧倒されるのはこの人たちの言語です。暴力的で論理も情操のかけらもない少年たちのめちゃくちゃな物言いに対して、それに打ち勝てるボキャブラリーとロジックを持っていなければならないのです。辛抱強さ・自制心・論理性の極限のような言葉で少年たちを最終的に従わせるのです。このような人たちこそ、容易な美談でなどありえないこの映画の土台となっているのです。
 あれあれ?似たような映画あったな、と思い出すのは、2011年のマイウェン監督の『ポリス』 (2011年カンヌ映画祭審査員賞)で、パリ警察の未成年保護部隊を描いたものですが、これも体当たりで未成年犯罪に立ち向かう人たちがヒーロー&ヒロインです。この映画、エマニュエル・ベルコがマイウェンと共同でシナリオを書いていて、ベルコ自身も警官役のひとりで出演していたのです。
 今週号(2015年5月13日号)のテレラマ誌のインタヴューでベルコが『こうべを高く』のインスピレーションについて次のように語っています。
もともとはわたしの子供時代の想い出なの。8歳の時ブルターニュの祖父母のもとでヴァカンスを過ごしていた。そこから遠くないところで、教育員である叔父が、非行少年たちのためのキャンプを主催していた。ある日、わたしはそこに行って、わたしの知らない世界を発見したの。カオス的な遍歴を経た若者たちは「野性の子供」のような側面があり、今日の非行少年たちとはかなり違っていた。可愛がられて保護されて良い教育を受けていた少女だったわたしは、この日の体験のショックをよく記憶している。すべての子供たちがわたしのような幸運があるわけではないということを初めて実感したのよ。それはお金のことではないわ。愛情と教育のことよ。同時にわたしは彼らの生き方、動き方、しゃべり方に魅了されてしまったの。映画の中で、主人公の少年に恋してしまう少女、それはわたしなの。

 映画の中のターニングポイント、それはまさにマロニーを愛してしまう少女テス(演:ディアンヌ・ルークセル)の登場です。鑑別施設のフランス語教師の娘であるテスは、極短ショートカットで、その上キックボクシングを習う明らかに少年的な立ち振る舞いの少女。このテスを何が何でもマロニーに会わずにはいられない衝動 に駆り立てた恋は最初は完全に一方的なもの。マロニーは野獣のようにテスと性交はできるものの、それが何なのか全く分からない。抑制のきかない恋慕と性欲でマロニーに迫ってくる少女を、マロニーは拒否せず受け入れていくが、テスはジュテームと言えても、マロニーはそれがどういう意味なのか分からないし、母親以外ジュテームなる言葉は言えないのです。
 周囲の人々の懸命の努力にも関わらず、さまざまな偶然も手伝って、マロニーは車の盗難+無免許運転+交通事故という監獄行きが避けられない事態に陥ってしまいます。心が少しずつ通じ合っていたと思われた女裁判官も教育員ヤンも、もはや何もできなくなってしまいます。そういう状況の中で、マロニーはテスが妊娠したことを知るのです。テスはそれが監獄を早く出られる法的な理由になれるのだから、それを利用してちょうだい、と言うのですが、マロニーには子供を持つ、父親になる、ということが全く自分の理解に及ばない、自分とは無関係のことにしか思えないのです。
 拒否されたテスは失意のどん底で妊娠中絶手術を受けることを決めます。監獄にいるマロニーの心が揺れます。そのことが気になってしかたがありません。そして監獄仲間たちの協力を得て、遂に脱獄を挙行してしまうのです。一目散に病院に駆け込み、テスの中絶手術を直前で力づくで阻止するのです(映画の最大のヤマ)。そしてその時初めてテスにジュテームと言うのです....。

 17歳で男児の父親になったマロニーが、赤ん坊を抱いてダンケルク地方裁判所の女裁判長の執務室を訪れます。何度もマロニーが出頭を命じられてやってきた執務室です。「なんだかすっきりと片付いているみたいだけど?」とマロニーが聞くと女裁判長は「もう引退するのよ」と答えます。「きみとはもう10年のつきあいなのよ」と。赤子を抱いたマロニーを彼女は祖母であるかのように抱きしめます。そして、マロニーは赤子を抱いて、裁判所の出口階段を一歩一歩降りていくのです。こうべを高く上げて。エンドマーク。

 社会派映画というのは何でしょうね? と考えました。ひとりの人間がひとりの人間を救済したり変えたり、ということではなく、目に見える人/目に見えない人、さまざまな人たちが構成して機能している社会が、この世ではみ出して自己破壊してしまいそうな人をなんとかして持ちこたえさせる、そういうパワーがまだある、ほとんど絶望的だろうけど、懸命に抑えようとしている人たちがいる、それは本当に普通の市民には理解されていないことなのではないでしょうか。グザヴィエ・ドーランの『マミー』は母と子のギリギリの物語でしたが、ベルコの『こうべを高く』は少年と社会のギリギリのドラマだと私は見ました。そしてそれは限りなく現場に近く緊張したものなのです。現場は(例えばテレビ報道での非行少年ドキュメンタリーのような)そんなもんじゃないんだ、という現場の声が聞こえてくる映画なのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

エマニュエル・ベルコ監督 "LA TETE HAUTE"(こうべを高く)予告編


2013年9月21日土曜日

オン・ザ・ロード・アゲイン

ドヌーヴの勝手に逃げろ(という邦題を提案したい)』2013年フランス映画
"Elle s'en va"
(日本上映題『ミス・ブルターニュの恋』)

監督:エマニュエル・ベルコ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ネモ・シフマン、ジェラール・ガルースト、カミーユ
フランス公開:2013年9月18日


 っけからこんなこと言ったらナンですが、この人、何歳だと思います? - 1943年生れ。これを書いてる時点で言うと、もうすぐ70歳になられます。言うまでもなくこの方は20世紀フランス映画のイコンです。もとい20世紀映画の大文字と定冠詞つきの一等賞女優そのものであります。モニュメントであります。そのモニュメントに対して、「あんた本当は何歳なんだい?」と若い男が聞くシーンがあります。
 ディープ・フランス、ブルターニュの内陸部の村におそらく一軒しかないファミレス兼バー兼ディスコ兼ゲームセンターに迷い込んだベティー(カトリーヌ・ドヌーヴ)が、土地の風来坊マルコ(ポール・アミ。ワイルドなダメ男風貌+5日髭で、獄中時代のベルトラン・カンタによく似ている)にしこたまアルコールを飲まされて、朝目が醒めたら、ホテルのダブルベッドで男と裸で寝ている、という具合。朝食をトレイに載せて持ってきたマルコに、一体昨夜何があって、どうしてここにいるのかの一部始終を聞いて、そんなバカな、と愕然とするベティー。「あんた本当は何歳なんだい?若かった頃はきれいだったろうなって想像しながらあんたとセックスしてたんだ」なんてことをこの田舎の若造が言ってしまうのですよ!ええい、控え居ろうっ!ここにおわすお方をどなたと心得る! 天下のカトリーヌ・ドヌーヴなるぞ...。....ではないのですが、この映画では若い頃はとびきりきれいだった女で、1969年の「ミス・ブルターニュ」に選出されたということになっています。
 これまで汚れ役やお笑い役がなかったわけではないのに、「美人」「大女優」の看板が邪魔して、何やっても硬質で、理知的で、元・お嬢さん的で、ブルジョワ的で、体感温度低めで、というイメージがあった人です。まあ、それを本人も気にしていたようです。
 カトリーヌ・ドヌーヴは変わった。老いたし、体重も増えた(体型はずいぶん変わった)。しかし、今この大女優がありのままで出てきても、多くの人は、やっぱり幾多の輝かしい過去を背負った大女優の姿を見てしまうでしょうね。
 映画の最初の舞台はブルターニュ地方の漁港の町コンカルノーです。ベティーは母親と二人暮らしで、レストランを経営していますが、このレストランが今や経営破綻状態です。おまけに30年来愛人関係にあった妻ある男エチエンヌ(画面に登場しない)が他の若い女のところに逃げてしまいます。ベティーはその夜、長年やめていたタバコを深々と吸ってしまいます。す〜〜〜〜っ... ふぅぅぅぅぅ〜〜〜〜っ....。なんとおいしそうにタバコを吸う大女優でしょうか。21世紀になってから、フランスではタバコは社会悪のチャンピオンの座にあり、テレビや映画からどんどんシャットアウトされてきました。ところが、この映画はこの瞬間から「タバコへのオード」とでも言うべき、タバコによる恵みと救いがサブ・テーマのように随所に登場します。私は元・スモーカーですから、この救いは実体験としてわかってしまう部分があります。そもそもタバコは南米古代マヤ文明の沈痛薬・悪霊祓い薬として使われていたそうですから、歴史的に長い間これは痛みや悪から救ってくれるものだったはずでしょう。
 倒産の危機&愛人の離反という目の前真っ暗な事態に、ベティーはタバコでいっときの落ち着きを取り戻すのですが、タバコが切れた時点でパニックはまたやってくるのです。つまり長年やめていたタバコに手を出したその時から、ベティーは仮性「モク中」に陥ってしまったのです。レストランの昼の営業中、この女主人は「ちょっと出て来る、すぐに帰ってくる」と言い残して、ベージュ色のメルセデス・ベンツ・ブレーク(90年代ものでしょう)に乗り込み、さまざまな暗澹たる思念に涙しながら、タバコを買いに出かけるのです。こうしてこのロード・ムーヴィーは始まります。
 ところが2013年的今日、タバコを買うというのは大変なことなのです。場所はフランス深部、時は日曜日、開いているタバコ屋などあるはずがない。ベージュのベンツは出発点からどんどん遠ざかっていきます。その道々でベティーはさまざな人(一人暮らしの手巻きタバコの老人、深夜のショッピングセンターのガードマン、バーのテーブルの一角を占拠している気のいいレズのお姉さんたち、そして上に述べた若い風来坊...)と遭遇して、相手の身の上話を聞いたり、自分の身の上のあることないこと(かなりデマカセを言うこともある)を話したりということで、自分が抱えた山ほどの厄介ごとから少しずつ離れていくのです。
 という老女の家出行が軌道に乗り始めた頃に、普段全く音信のなかった娘ミュリエル(カミーユ!怪演!)から携帯電話にメッセージが入ります。夫を失い、女手ひとつで息子シャルリー(ネモ・シフマン。これまた怪演)を育てていますが、ずっと失業中だったミュリエルにやっと就職のチャンスが見つかり、明日面接という時に、息子シャルリーの夏ヴァカンスの世話を見なければならず、困り果てているから(普段には嫌っている)母ベティーにSOSを発信。すなわち、息子を亡夫の父のところでヴァカンスを過ごすために、そこまでベティーに送り届けて欲しい、と。普段にはあり得ないこの娘の願いをベティーは受け入れ、ここから第二のロード・ムーヴィーが始まるのです。
 ベージュ色のベンツはブルターニュからマイエンヌ地方に入って、娘の家でシャルリーをピックアップし、進路を南東に取り、ローヌ・アルプ地方までの長い旅路に出ます。ところが、このシャルリーという少年が、母親(ミュリエル)似の手に負えない120%自己主張の子である上、120%情緒過敏な子なのです。道中はトラブルが絶えませんが、始終ベティーは「いいおばあちゃん」であり続けます。しかし、突然に(ベティーのレストランの経営破綻の結果として)彼女のクレジット・カードが支払い停止となり、支払いが出来ないばかりか、現金引き出しも拒否されて、高速道路上のサービスエリアでベティーは一文無しになってしまいます。金もない、食べるものもない、タバコもない。シャルリーは役立たずとなった祖母に反逆し、車を降りてひとり逃走し、映画は最大の窮地に陥ります。はらはら、ドキドキ。
 美は危機を打開する。上にちらりと書いたように、ベティーは1969年度の「ミス・ブルターニュ」に選出されるほどの美人であった。その往年のミス・フランスを一堂に集めての写真セッション(チャリティーと化粧品メーカー宣伝の目的で旧ミスばかりで写真カレンダーを作る)が、ローヌ・アルプ地方アン(Ain)県(県番号01。フランス人だったら他の県は知らなくても、誰でもこの県は知っているのです)の湖畔の町の豪華ホテルで催されている。ベティーはその招待をずっと断っていたのですが、(金と食べ物のために)急遽その招待を受諾して、シャルリーを連れて豪華ホテルに乗り込むのです。 ミス・ノルマンディー、ミス・ピカルディー、ミス・ラングドック、ミス・アキテーヌ、ミス・プロヴァンス、ミス・イル・ド・フランス.... たくさんの旧ミスたちとの再会。このシーンは大いに笑えます。しかしみんな美しい。その美しさを人工的に保っている人もいれば、内面から保っている人もいれば... ここは教えられるもの多いですね。
 この写真セッションの虚飾に満ちた世界のストロボ・フラッシュの連続の果てに、ベティーは気を失って倒れてしまいます。その収容された病院に、ミュリエルの義理の父、すなわちシャルリーの祖父であるアラン(ジェラール・ガルースト)が現れます。この男は気難しくも不器用で、シャルリーとベティーの自分の領域への出現を全く歓迎していないような対応をします。しかし.... このアランはスモーカーなのです。ベティーとアランのぎくしゃくした最初の出会いは、一本のタバコの共有です〜っと救われるものがあるのです。
 アランはこのアン県の小さな町 の町長で、折しも地方選挙の真っ最中、「この大事な選挙の時に、あんたたちにかまっているヒマはない」みたいなナーヴァスな態度だったのですが、選挙当日、支持者たちを自宅庭園に招いて昼食会、その料理を(現職レストラン経営者である)ベティーが準備します。そこへ、ベティーの失踪を案じてブルターニュからベティーの母親がかけつけます。その上、就職活動で忙しいはずの娘のミュリエルもやってきます。ミュリエルは積年の恨みをぶちまけるように、ベティーへの悪口雑言(曰く、あんたは自分の夫=ミュリエルの父よりも愛人を愛した不貞の妻・母、娘=ミュリエルを愛したことのない冷血な母...)を衆人に聞こえる大声&早口で超ワイルドに長広舌します(このシーン、本当にカミーユのキャラクターにはまりすぎ)。
 田舎の庭園の大昼食会には、(絵に描いたようなフランスのように)アコーディオンがつきものなのです。そして古いシャンソンがあります。おいしいワインがあります。ここでユートピアが出現してしまうのです。ミュリエルとベティーは和解し、その夜、ベティーとアランは恋に落ちます。なんでや、この結末は,,,,

 これは70歳のカトリーヌ・ドヌーヴだから可能だった映画なのです。シナリオの弱さやこじつけはままあるとしても、この最後の幸せに至るまでの極端な紆余曲折を、ベージュのメルセデス・ベンツとタバコの煙を伴わせて、老いてなお(太ってなお)魅力にあふれたカトリーヌ・ドヌーヴ、地についた人生ひきずったカトリーヌ・ドヌーヴ、恋するカトリーヌ・ドヌーヴとして撮ることができたエマニュエル・ベルコという若い女流監督にシャポー。

カストール爺の採点:★★★★☆

 (↓ "Elle s'en va" 予告編)



PS (2015年1月31日)

この映画に関するカトリーヌ・ドヌーヴのコメント「彼女はすべてを投げ出したんじゃない。全然劇的なものなんかない。でも彼女は行ってしまうのよ。それはね、そういう瞬間だということ。人生において、疲労や怒りのあまり、人はそうしたいと思うことがよくあるわよ。もうたくさん、いち抜けた、ってね。でも結局そういうことって絶対しないのよ。私はそれを実行した人って知らないわ。唯一の例外は、タバコを買いに行くって外に出て、そのまま帰らなかったヴェロニク・サンソンね。」(ローラン・カリュ&ヤン・モルヴァン著 "VERONIQUE SANSON - LES ANNEES AMERICAINES" P14)

2021年10月3日日曜日

芸術と病気と家族の絆

"Les Intranquilles"
『穏やかならざる人々』

2021年ベルギー映画
監督:ジョアキム・ラフォッス
主演:レイラ・ベクティ、ダミアン・ボナール、ガブリエル・メルツ=シャマー
フランスでの公開:2021年9月29日

気の名前は双極性障害という。私がいた頃の日本では「躁鬱病」と呼ばれていた。軽度から重度までさまざまであるが、芸術的創造性との関連はよく指摘され、作家、哲学者、画家、音楽家等でこの障害を患った著名人は多く知られている。この映画で登場するのは画家である。ダミアン(演ダミアン・ボナール←『レ・ミゼラブル』)は画廊が未来の個展出品作にアドバンスでキャッシュ払いをする類の評価の安定した画家であるが、自分で40日あれば40作作れると言い放つほど、創作に興が乗ればすさまじい勢いで夢中で描き続けるタイプ。当然それは冒頭で挙げた病気と関係した”勢い”なのであるが、その状態は往々にして手がつけられない。
 映画の冒頭は夏の海のヴァカンス。小型モーターボートで沖に出たダミアンと息子のアミン(演ガブリエル・メルツ=シャマー)。陸地からかなり離れている。ボートからひとり海に飛び込むダミアン「俺は泳いで戻るから、おまえがボートを操縦して帰れ」と。小さな男の子がモーターボートを操縦していくさまは、かなり尋常ならざる危なっかしい光景。浜辺では母レイラ(演レイラ・ベクティ)が日光浴をして待っている。無事母の元にボートを着岸したアミンは、パパは泳いで帰ってくる、と告げる。レイラの不安の始まり。高いところに登り海の沖方面を眺めるが泳ぐ人間の姿は見えない。そして時間は過ぎ夕暮れになってもダミアンの姿はない。(フランスの夏の遅い夕暮れを考えると20時〜21時ごろか)薄暗く見えにくい時間になって、レイラの位置から遠くに見える岩場の岸に海から這い上がる人影が。ダミアンの名を叫ぶレイラ。ダミアンは何食わぬ顔で陸に帰ってきた。
 こんなイントロなので、それがどの程度の病状なのかは映画の進行につれてわかっていくことになるが、この親子3人は強く愛し合っていることはすぐさま了解される。特に子供アミンは甘えたい盛りで、わがままもあるが、それに十分に応えている両親が(愛し合いながらも)実はこわれそうでボロボロな現場も見ている。この映画は監督ジョアキム・ラフォッスの実体験をベースとしていて、幼い頃から見ていた双極性障害の父とそれに耐えながら支える母のドラマは生々しい記憶となっている。だからこのアミンの反応や両親への関わり方が映画のカメラアイとなっている部分が多い。そしてこのアミンを演じるガブリエル・メルツ=シャマー(大女優イザベル・ユッペールの孫)が両親の極端に緊張した対立場面で見せる複雑な表情や言葉がどれほど雄弁にこの映画の難しさを表現していることか。
 ダミアンが芸術家であるように、レイラもアルティザン=オーダーメイドの木工家具工芸家である。大きな田舎館の一方の離れ屋がダミアンの画家アトリエであり、もう一方の納屋がレイラの木工アトリエであり、住まいはそれらに挟まれた母屋である。恵まれた芸術家環境である。二人ともそれぞれの審美眼があり、それぞれのアートを尊重しながらそれぞれのアートを愛しながら対等のアーチスト同士として結ばれたのだろう。ダミアンの発病がいつだったかはこの映画ではわからない。だが、レイラは強く愛することによってこの病は(治癒されることはないだろうが)克服できるものと信じていたろう。しかしその確信は度重なる修羅場をくぐることで揺らいでいったに違いない。精神科入院、リチウム療法...。
 ダミアンの躁状態は不眠から現れる。これが絵画的霊感の昂まりでもある。ボザール校で学んだ経験がある俳優ダミアン・ボナールは、この極度の興奮の中で(しかも夜の少ない光量の中で)憑かれたように速攻で描いていく画家ダミアンのクリエーションを体現していく。迫真の演技。この長いシークエンスがダミアンの" 症状"をポジティヴに見せるシーンでもある。
 ジョアキム・ラフォッスは自分の父(写真家)をモデルにこの映画を考案したのだが、写真家ではなく画家を主人公に変更したきっかけは、実在の画家ジェラール・ガルースト(Gérard Garouste、1946 - )であり、同じように双極性障害を患い精神病院の入退院を繰り返しながらの創作を支えたのが妻のエリザベート・ガルースト(内装建築家/デザイナー)であったという経緯を綴った自伝著の署名が "L'Intranquille"(『穏やかならざる男』2009年)であった。映画タイトルはここからの出典で、穏やかならざる画家だけでなく、その妻と子も含めた複数の"穏やかならざる人々"を主役とする作品となった。
 (因みにジェラール・ガルーストのウィキペディアで気付いたのだが、当ブログでも紹介した2013年エマニュエル・ベルコ監督カトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画『Elle s'en va(日本題:ミス・ブルターニュの恋)』で、なんとジェラール・ガルーストがドヌーヴの相手役で出演していた。)
 不眠と長引く躁状態を抑えるためにリチウム錠剤を飲まされることになるのだが、ダミアンはそれをなかなか受けつけられない。無理やりにでも飲ませようとするレイラ、頑なに「俺は正常だ」と拒むダミアン。レイラの努力は限界に近づいていく。それを見ているアミン。
 それは" 狂気の錯乱”ではない。自分の高揚は限りがなく、人とこの高揚を共有したい、世界はこうしたらもっと良くなる、と思ったら抑えがきかなくなるようだ。アミンは俺が学校の送り迎えをした方が幸せだ、とか。危険な躁状態のまま、運転などできる状態ではないのに、車にアミンを乗せ学校までぶっ飛ばす。パン屋にマスクなしで(=コ禍時代の映画!)飛び込み、アミンのクラス全員分量のケーキ菓子を買い占める。アミンのいる授業中の教室に乱入し、子供たちにケーキ菓子を配ろうとする。授業なんかやめて、みんなで泳ぎに行こう、と煽動する...。必死で抑えようとするレイラをダミアンは見ていない。
 私はもう限界、私は支えきれない、私はもう続けられない... レイラはこういうセリフを映画中くりかえし吐き続ける。ダミアンの目を見据えてそう言うのだが、ダミアンには見えていない。この映画の愛の限界点はここなのである。この映画での女優レイラ・ベクティの素晴らしさは、このぎりぎりの限界点になんとしてでもとどまり続ける女の顔なのだ。時には鬼になっても絶対にあきらめない顔なのだ。その顔がダミアンには見えているのか見えていないのか、そこがこの愛の生命線なのだ。
 「私は15キロも太ってしまったのよ」と言う。たしかにこの映画でレイラ・ベクティはでっぷりしている。このストレス太りがどういうことなのか、ダミアンはわからない。「きみはとてもきれいだ」と常套句のようにくりかえすダミアンにはこの現実が見えていない。私はあなたの母親でも看護婦でもない。なのに私はあなたをずっと監視し続けなければならない。私はあなたと同じアーチストで、あなたと同じように創造活動をしているのよ。その叫びがダミアンには届かない。
 ダミアンはダミアンで自分の人生は医師診断書が決めることではない(←私はこの部分激しく同意する)という主張がある。精神科医の診断範囲内で生きろ、と言われることには承服できないものがある。クリエーションがその境にあることを知っているから。その衝動なしに絵は描けないから。
 最後の手段であるかのように、救急車が来て、拘束ベッドに縛りつけられ、精神病院に搬送される。こんなこと繰り返したくない。それは誰もがそうなのだ。その後に訪れるしばしの休戦状態。レイラは友人の野外パーティーに招かれ、人々に紛れ、ひとり首と体をスウィングさせてダンスに興じていく。このダンスするレイラのひとときの解放された微笑みが本当に泣けてくる。

 映画はこの3人の家族がこの上なく幸せだった瞬間も映し出すのだ。ダミアンが運転し、助手席にはレイラ、後部シートにはアミン。カーステからベルナール・ラヴィリエ(とニコレッタのデュエット)の"Idées Noires"(1983年)、これに合わせてダミアンとレイラが大声でデュエットで歌い、それをアミンがうれしそうに見ている。こんな瞬間があるから、この3人はどんなことがあっても愛し合っている、と思わせるには十分なのだが....。
 映画の終わりはハッピーなものではないし、まだ(ダミアンとレイラが)分かり合えないまま、このままこれを繰り返していくのだろう、という余韻。ただ、これを繰り返すということがこのアーチストたち(+子供)が生きていく、ということなのだろう。重い。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"Les Intranquilles"予告編

2020年3月3日火曜日

これからは立ち上がってずらかることだ(ヴィルジニー・デパント)

2020年2月28日(金)、第45回セザール賞セレモニーにおいて、(複数の婦女暴行前歴のある)ロマン・ポランスキーが最優秀監督賞を獲得したことに抗議して、(自らも未成年女優だった頃に監督から性的暴行を受けていたことを告白/告発していた)女優アデル・エネルが席を立ち、「何たる恥!」と吐き、足早に式場から去っていった。
その夜、作家ヴィルジニー・デパントは火の出るような憤怒の一文を書き上げ、リベラシオン紙に投稿した。その全文は3月1日にリベラシオンWEB版に、そして3月2日付けの同紙印刷版に掲載された。以下無断で全文訳してみました。

(↓)リベラシオンWeb版の記事直接リンクはこちら
https://www.liberation.fr/debats/2020/03/01/cesars-desormais-on-se-leve-et-on-se-barre_1780212


Désormais on se lève et on se barre
今後は立ち上がってずらかることにする

んなふうに始めてみようか。落ち着いて読みなよ。権力者たち、ボスたち、親分たち、大物たち、ひどいことになったもんだね。そんなことはよく知ってるし、あんたたちのことはよく知っているし、あんたたちのどでかい権力をあんたたちの目の前で何十回も奪ったことがあったんだが、それはいつもひどく痛いものだったよね。この週末の間中、あんたたちのうめきやめそめそ泣きや不平を聞いていた。あんたたちの法案を通すために「憲法49条3項」(国会の投票抜きの法案可決)どうしても使わなければならない心苦しさ、あんたたちにポランスキーの受賞を心安らかに祝わわせてくれない悲しさ、あんたたちのパーティーは台無しになったんだろうが、気にすることなんかない、あんたたちのめそめそ泣きのすぐあとで、私たちにはあんたたちの大喜びの声が聞こえてくる。あんたたちが真のパトロンであり、本物の傑物であることの喜びの声が。メッセージは一語もらさず伝わった。この合意という概念は、あんたたちがこんなにうまく通るとは思っていなかった。権力者たちの閥に属するという喜びは、従属者たちの合意ということを考慮に入れてこそのことでしょう? あんたたちの見事な力づくのデモンストレーションを目の当たりにして、憤怒と無力感で泣きたくなったのは私ひとりだけではないだろうし、絶対罰せられることがないあんたたちのオージーの見世物によって身を穢されたと思ったのも私ひとりだけではないはずなのだ。


セザール賞審査委員会が2020年度の最優秀監督にロマン・ポランスキーを選ぶということは何ら驚くべきことではない。それはグロテスクで侮辱的で汚らわしいことではあるが、驚くべきことではない。ひとりの男にテレビ映画もどきの作品をつくるために25百万ユーロ(30億円)もの予算を託した時、もう言いたいことはその予算の中にある。反ユダヤ思潮の高揚への闘いがフランス映画の興味対象となるのであれば、それはおのずとわかるだろう。それに対して非抑圧者たちの苦難の歴史を物語る彼らの声というのは、あんたたちをうっとりさせたのだ。百人ほどのフェミニストたちに騒々しくいびられているひとりの映画監督の諸問題と、ドレフュスという前々世紀末の反ユダヤ思潮の被害者をうまく天秤にかけるという話を聞いたとき、あんたたちはこの話に飛びついたのだ。この対比対照に25百万ユーロ。すばらしい。出資者たちに大喝采だ。なぜならこんな予算を集めるにはあらゆる大物たちが賭けに乗ってこなければならなかったのだから。配給会社ゴーモン、国庫文化予算、フランス2、フランス3、OCS、カナルプリュス、イタリア国営放送....、ポケットに手を入れて、一度きりかもしれないが気前よく、身を寄せ合って、あんたたちの仲間を助けた。最強の権力者たちは彼らの特権を守るために協力する。それがあんたたちの優雅さの一部であり、性暴力はあんたたちの様式の基礎となっているものでもある。法律はあんたたちを保護し、法廷はあんたたちの領域であり、メディアはあんたたちが所有している。あんたたちの莫大な財産の力というのは、まさにこんな時に役立てるためにあるのだ。下級と自ら宣告した集団を管理下に置くこと。この集団は口を閉ざし、彼らの観点からの話をしない。最高の富豪たちが、この美しいメッセージを伝える時がついにやってきた。人々が彼らに払わなければならない敬意は、今後は彼らが強姦する子供たちの血や糞で汚れた彼らのイチモツにまで及ぶものとする、と。それが国会であれ、文化の領域であれ。彼らはもう身を隠すことも、遠慮するフリをすることも耐えられないのだ。あんたたちはその敬意が全的で恒常的なものであることを強要する。その敬意は性暴力についても及ぶべきだし、あんたたちの警察の権力濫用にも、セザール賞の決め方にも、年金法改革にも及ばなかればならない。被害者たちの沈黙を強要すること、それがあんたたちの政治だ。あんたたちの領地の一部であり、そのメッセージを私たちに恐怖をもって叩きこむことがあっても、あんたたちは何ら問題があることとは思わない。なによりもまずあんたたちの病的快感だ。あんたたちの周りには恭順な下僕たちしか近づけない。あんたたちがポランスキーに冠を与えたことなど、何ら驚くべきことではない。こんなセレモニーにあっては、祝福すべきものは金でしかない。映画なんて知ったこっちゃない。観客なんて知ったこっちゃない。あんたたちが重宝するあんたたち自身の壊滅的金銭力がものを言ったのだ。あんたたちが彼への支援の印として提供した巨大予算がものを言ったのであり、彼を通じて人々が敬意を表さなかればならないのはあんたたちの強権である。

このセレモニーについてのコメントにおいて、こちらの男たちとあちらの女たちを分けることなど不要だしとんちんかんなことだろう。私にはそれらの態度の違いなど一切見受けられない。大きな賞というものは排他的に男の領域のものであり続けるということが了解されている。なぜなら基本的なメッセージは、何も変えてはならないということだから。ものごとは今あるそのままの状態で至極良い。フォレスティ(註:フローランス・フォレスティ、今回のセザール賞セレモニーの司会者、コミック芸人、フェミニスト)が、「嫌悪で胸が悪くなり(écoeurée)」と言い、式典を途中で降りたことは、彼女は"女”としてしたのではない。彼女は”個人”としてその職業を敵に回すというリスクを冒してそれをしたのである。彼女は映画産業に全面的に服従しているわけではない”個人”としてそうしたのである。なぜなら彼女はあんたたちの権力が彼女のショーの客席を空にするほどのところまでは及ばないということを知っていたから。彼女はセレモニー 中、誰も口にしようとしなかったジョークをあえてしたたった一人の女だったし、他のすべての人たちはその主題を避けて通った。ポランスキーについて一言も言わないこと、アデル・エネルについて一言も言わないこと。この業界ではみんな一緒に夕食を取るし、みんな合言葉は知っている。もう何ヶ月も前からあんたたちは一部の観客たちが声を上げようとしているのに苛立っていた。もう何ヶ月も前からあんたたちはアデル・エネルが発言し、彼女の子役時代にあったことや彼女の観点について語ることに悩まされていた。

当夜このホールの席についたすべての人間たちはたったひとつの目的のために召集されたのだ。それは有力者たちの絶対的な権力を確認すること。そして権力者は強姦者を好む。両者に似たところがあるとすれば、力が強いということ。強姦のせいで彼らが嫌いなのではなく、彼らには才能があるからなのだ。彼らには才能があり、強姦者ゆえの独自性がある。だから彼らは好かれるのだ。彼らの快感の病的性質、他者を破壊せずにはいられない衝動、それは実際には彼らに接するすべてのものを破壊したい衝動であるのだが、その病性を世に要求するという勇気において彼らはお互いを愛し合っている。あんたたちの快楽は捕食の中にあり、それこそがあんたたちの理解できる唯一の独自性なのだ。あんたたちがポランスキーを擁護する時、あんたたちは自分が何をしているのかよ〜く知っている。 あんたたちは人々のあんたたちへの称賛はあんたたちの犯罪行為まで含むことを強要している。この強要によってこのセレモニーにおいてすべての人間たちは箝口令に従わされた。人々はポリティカリー・コレクトネスやソーシャル・ネットワークのせいにして、この箝口令はつい昨日始まったばかりであるかのように、悪いのはフェミニストたちだと言うが、この沈黙の掟は何十年も前から施行されていた。何十年もの間フランス映画賞の式典において、パトロンたちの神経を逆撫でするようなジョークは一度も話されたことがない。ゆえに全員が口をつぐみ、全員は微笑む。もしも小児強姦者が清掃夫だったら、間違いなく村八分にされ、警察、監獄、大言壮語の糾弾声明、被害者の全的救済、最大量刑での判決となる。しかしその強姦者が有力者なら、敬意と連帯となる。公にはキャスティング、制作準備、撮影、プロモーションの間に何が起こったかを絶対に語ってはならない。うわさにはなるが、口はつぐめ。これはみんなが知っていることだ。常にこの沈黙の掟が優先する。この掟を遵守することが雇用の際の条件となる。
みんなそんなこと何年も前から知っているというのに、本当のところ、毎回この権力のふてぶてしさには驚かされる。つまり見事であるのはこのことであり、あんたたちの汚辱はどんな時でも機能するのだ。式参加者たちが、賞を発表するためだったり賞を受け取るためだったりで、登壇して演台の前に立つのを見るのは屈辱的なことである。このハーレムに属する私のような人間でなくても、このセレモニーを見つめるいかなる人間たちも、この人たちに自分を投影し、その代理者のように屈辱感を味わう。なんという沈黙、なんという服従、なんという熱心な隷属。人は自分のことのように感じている。死にたくなってしまう。この苦行の果てに、あらゆる人間がこの大汚辱の塊の使用人であることを思い知らされるのだから。『火のついた若き娘の肖像』(註:セリーヌ・シアマ監督映画、2019年カンヌ映画祭脚本賞、主演アデル・エネルとノエミ・メルラン、二人の主演女優賞ほか10部門でセザール賞にノミネートされていた)が最後までセザール賞を一個も獲得できないのは、アデル・エネルがものをしゃべったという唯一の理由からなのだということを知っていて列席者たちすべてが沈黙しているのを見るとき、私たちはその代理者のように屈辱感を味わう。これらの人たちはみんなそれが、自らの体験を語ろうとおもっていた(性犯罪)被害者たちがその沈黙の掟を破る前によ〜く考えた方がいいんじゃないかとわからせるためのことなのだと知って口を閉ざしていたのだ。あんたたちは最優秀監督賞を発表する役目のために、あえてその賞をかつて取ったこともなく未来においても取れるわけがない二人の女流監督(註:クレール・ドニエマニュエル・ベルコ、共にフェミニストとして知られる)を選んだということにもその代理者のような屈辱を覚える。その二人が発表した最優秀監督賞とはロマン "fucking"ポランスキーその人なのだ。Himself ! 私たちの顔のど真ん中へのパンチだ。あんたたちは全くもって恥というものを一切知らない。25百万ユーロ(註:30億円)!すなわち『レ・ミゼラブル』(註:ラドジ・リ監督映画、2019年カンヌ映画祭審査員賞、この2020年度セザール賞で最優秀映画賞受賞)の14倍以上の制作予算であり、その監督野郎はその作品を年間観客動員数のベスト5にも入れることができなかったのだ。あんたたちはそれでもこれに褒美を与える。あんたたちは自分たちがそこで何をしているのかよ〜く知っている。そのメッセージをよく理解した聴衆の大部分が受けた屈辱は、その次に受けた賞、すなわち『レ・ミゼラブル』(註:最優秀映画賞)にまで拡張していて、式場にいた最も立場の弱い人間たちをあんたたちは壇上に上がるようにしむけ、それらはほんのささいな警察による身元検査で身が危険となる人たちであり、その中に女性たちが少ないのは彼らが賢明である証拠であると示すことである。そして当夜祝福された強姦者が罰せられないことと、彼らが住む地区の状況はどれほど密接な関係にあるのかをよ〜く知っているのである。あんたたちの超越した免罪性に賞を手渡した二人の女流監督と、あんたたちの卑劣で穢された賞を得た(男性)監督たちは全く同じ戦いを強いられたのだ。どちらも映画産業に従事する者として、明日も仕事を続けたいなら、口をつぐむことだということをよくわきまえている。ひとつの笑い話もジョークもない。それがセザール賞のスペクタクルだ。そして日付の偶然で、このメッセージはあらゆる分野で通用するようになった。私たちが望まない年金法改革に反対しての3ヶ月におよぶストライキ、あんたたちはこれを力づくで突破しようとしている。これはあんたたちと同じ階層から発せられた私たち民草へのメッセージである:「黙れ、口をつぐめ、おまえの合意などおまえのケツ穴の中にでもしまっておけ、俺とすれ違う時には微笑め、俺は有力者で、俺には資金があり、おまえのボスは俺なんだから。」

アデル・エネルが立ち上がった時、それはまさに歩く冒涜者であった。再犯する雇われ女であり、公衆の面前で彼女に水をかけても彼女は微笑む努力をしない、彼女自身への辱めのスペクタクルに拍手する努力もしない。アデルは以前立ち上がった時と同じように立ち上がった。立ち上がり、あんたたちのその監督と未成年女優に起こった事件について彼女がどう思っているか、彼女自身があの事件をどう生きたか、彼女が今それをどう引きずっているか、彼女の皮膚にどう刻印されているかを話した時と同じように立ち上がった。あんたたちはあらゆる方法をつかって私たちを屈服させることができる。例えばあんたたちの言う人間と芸術家を区別するという論法 ー 芸術家による強姦の被害者たちは、強姦された肉体と創造のための肉体の間に奇跡のような区別など存在しないということを知っている。自分が持っている肉体で生きている、それだけだ。私の書き仕事を始める前に、事務所の扉の前で少女が強姦されてるのを見過ごすには一体どういう態度で振る舞ったらいいのか、あんたたち、ここに来て説明してくれよ、道化師連中よ。

アデルは立ち上がり、ずらかった。この2月28日の夜、美しきフランスの映画産業について私たちが知らずにいたことを新たに発見したということはほとんどない。それでもイヴニングドレスというものがどんな風に着られているのか、ということは初めて知った。それは戦闘服のように着られる。高いヒールの靴で歩くのだから。建物全体を解体しに行くように、背筋を伸ばし、怒りで首を硬化させ、肩で風を切って。45年間のセザール賞セレモニーで最も美しいイメージ、それはアデル・エネルが階段を降りて出口に向い、あんたたちに拍手を送ったことだ。これで今後どうしたら最も効果があるかがわかったのだ。その場をずらかり、あんたたちに「メルド」と言うことだ。私はこのイメージは、私のフェミニスト書棚の蔵書の80%に匹敵するものだと評価する。この教訓に。アデル、私はおまえを"男好き”しているのか"女好き”しているのかわからないが、おまえを"ラヴ好き”して(註:この部分の翻訳には自信がない。原文は"Je sais pas si je te male gaze ou si je te female gaze mais je te love gaze...")、私のスマホでおまえの退場あのイメージを何度も繰り返し見ている。おまえのボディー、おまえの目、おまえの背中、おまえの声、おまえのジェスチャー、すべてがこう言っていたのだ : そうよ、私たちはコナス(バカ女)よ、私たちは辱めに汚れた者、そうよ、私たちは口をつぐんで、あんたたちの出す御馳走を食べていればよかった、あんたたちはボスであり、あんたたちには権力があり、それに見合った鷹揚さもある。でも私たちはもう何も言わずに座り続けるのはやめるわ。私たちはもうあんたたちをリスペクトしない。出ていくわ。あんたたちのバカ騒ぎは仲間うちだけでやっておいて。祝福し合いなさい、お互いに侮辱もしなさい、殺しなさい、強姦しなさい、搾取しなさい、クスリ漬けにしなさい、あんたたちの手元にやってくるすべての人たちを! 私たちは立ち上がり、ずらかるわ。これはこれからの未来を暗示するイメージとなろう。ここには男と女の違いなどない。あるのは被抑圧者と抑圧者の違い。言論を奪いその決定を強要しようとする者たちと、立ち上がって怒りの声を上げてずらかる者たちの違い。これがあんたたちの政治に対する唯一の答えなのだ。ことが立ち行かないとき、ことが行き過ぎるとき、人々は立ち上がり、その場を去り、そしてあんたたちを侮辱する。たとえ私たちが底辺の者であっても、たとえ私たちがあんたたちの糞権力の被害をまともに被る者であっても、私たちはあんたたちを軽蔑し、へどを吐きかける。あんたたちの威厳を競うマスカラードになど、私たちは一切敬意を払わない。あんたたちの世界はデゴラス(不潔極まりない)だ。あんたたちの最強者への愛は病気そのものだ。あんたたちの権力は陰険そのものだ。あんたたちは致命的な愚者の徒党だ。あんたたちがゲスのようにその上で支配するために作った世界はもはや呼吸困難だ。私たちは立ち上がり、ずらかる。もうおしまいだ。私たちは立ち上がる。私たちはずらかる。私たちは大声で叫ぶ。私たちはあんたたちを無視する。

ヴィルジニー・デパント(小説家)

(↓)2月28日、ポランスキーの監督賞受賞のアナウンスに、席から立ち上がり、退場するアデル・エネル


(↓)2020年3月2日にYouTubeにアップされた BRUT によるアデル・エネルのポートレイト。