2021年10月3日日曜日

芸術と病気と家族の絆

"Les Intranquilles"
『穏やかならざる人々』

2021年ベルギー映画
監督:ジョアキム・ラフォッス
主演:レイラ・ベクティ、ダミアン・ボナール、ガブリエル・メルツ=シャマー
フランスでの公開:2021年9月29日

気の名前は双極性障害という。私がいた頃の日本では「躁鬱病」と呼ばれていた。軽度から重度までさまざまであるが、芸術的創造性との関連はよく指摘され、作家、哲学者、画家、音楽家等でこの障害を患った著名人は多く知られている。この映画で登場するのは画家である。ダミアン(演ダミアン・ボナール←『レ・ミゼラブル』)は画廊が未来の個展出品作にアドバンスでキャッシュ払いをする類の評価の安定した画家であるが、自分で40日あれば40作作れると言い放つほど、創作に興が乗ればすさまじい勢いで夢中で描き続けるタイプ。当然それは冒頭で挙げた病気と関係した”勢い”なのであるが、その状態は往々にして手がつけられない。
 映画の冒頭は夏の海のヴァカンス。小型モーターボートで沖に出たダミアンと息子のアミン(演ガブリエル・メルツ=シャマー)。陸地からかなり離れている。ボートからひとり海に飛び込むダミアン「俺は泳いで戻るから、おまえがボートを操縦して帰れ」と。小さな男の子がモーターボートを操縦していくさまは、かなり尋常ならざる危なっかしい光景。浜辺では母レイラ(演レイラ・ベクティ)が日光浴をして待っている。無事母の元にボートを着岸したアミンは、パパは泳いで帰ってくる、と告げる。レイラの不安の始まり。高いところに登り海の沖方面を眺めるが泳ぐ人間の姿は見えない。そして時間は過ぎ夕暮れになってもダミアンの姿はない。(フランスの夏の遅い夕暮れを考えると20時〜21時ごろか)薄暗く見えにくい時間になって、レイラの位置から遠くに見える岩場の岸に海から這い上がる人影が。ダミアンの名を叫ぶレイラ。ダミアンは何食わぬ顔で陸に帰ってきた。
 こんなイントロなので、それがどの程度の病状なのかは映画の進行につれてわかっていくことになるが、この親子3人は強く愛し合っていることはすぐさま了解される。特に子供アミンは甘えたい盛りで、わがままもあるが、それに十分に応えている両親が(愛し合いながらも)実はこわれそうでボロボロな現場も見ている。この映画は監督ジョアキム・ラフォッスの実体験をベースとしていて、幼い頃から見ていた双極性障害の父とそれに耐えながら支える母のドラマは生々しい記憶となっている。だからこのアミンの反応や両親への関わり方が映画のカメラアイとなっている部分が多い。そしてこのアミンを演じるガブリエル・メルツ=シャマー(大女優イザベル・ユッペールの孫)が両親の極端に緊張した対立場面で見せる複雑な表情や言葉がどれほど雄弁にこの映画の難しさを表現していることか。
 ダミアンが芸術家であるように、レイラもアルティザン=オーダーメイドの木工家具工芸家である。大きな田舎館の一方の離れ屋がダミアンの画家アトリエであり、もう一方の納屋がレイラの木工アトリエであり、住まいはそれらに挟まれた母屋である。恵まれた芸術家環境である。二人ともそれぞれの審美眼があり、それぞれのアートを尊重しながらそれぞれのアートを愛しながら対等のアーチスト同士として結ばれたのだろう。ダミアンの発病がいつだったかはこの映画ではわからない。だが、レイラは強く愛することによってこの病は(治癒されることはないだろうが)克服できるものと信じていたろう。しかしその確信は度重なる修羅場をくぐることで揺らいでいったに違いない。精神科入院、リチウム療法...。
 ダミアンの躁状態は不眠から現れる。これが絵画的霊感の昂まりでもある。ボザール校で学んだ経験がある俳優ダミアン・ボナールは、この極度の興奮の中で(しかも夜の少ない光量の中で)憑かれたように速攻で描いていく画家ダミアンのクリエーションを体現していく。迫真の演技。この長いシークエンスがダミアンの" 症状"をポジティヴに見せるシーンでもある。
 ジョアキム・ラフォッスは自分の父(写真家)をモデルにこの映画を考案したのだが、写真家ではなく画家を主人公に変更したきっかけは、実在の画家ジェラール・ガルースト(Gérard Garouste、1946 - )であり、同じように双極性障害を患い精神病院の入退院を繰り返しながらの創作を支えたのが妻のエリザベート・ガルースト(内装建築家/デザイナー)であったという経緯を綴った自伝著の署名が "L'Intranquille"(『穏やかならざる男』2009年)であった。映画タイトルはここからの出典で、穏やかならざる画家だけでなく、その妻と子も含めた複数の"穏やかならざる人々"を主役とする作品となった。
 (因みにジェラール・ガルーストのウィキペディアで気付いたのだが、当ブログでも紹介した2013年エマニュエル・ベルコ監督カトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画『Elle s'en va(日本題:ミス・ブルターニュの恋)』で、なんとジェラール・ガルーストがドヌーヴの相手役で出演していた。)
 不眠と長引く躁状態を抑えるためにリチウム錠剤を飲まされることになるのだが、ダミアンはそれをなかなか受けつけられない。無理やりにでも飲ませようとするレイラ、頑なに「俺は正常だ」と拒むダミアン。レイラの努力は限界に近づいていく。それを見ているアミン。
 それは" 狂気の錯乱”ではない。自分の高揚は限りがなく、人とこの高揚を共有したい、世界はこうしたらもっと良くなる、と思ったら抑えがきかなくなるようだ。アミンは俺が学校の送り迎えをした方が幸せだ、とか。危険な躁状態のまま、運転などできる状態ではないのに、車にアミンを乗せ学校までぶっ飛ばす。パン屋にマスクなしで(=コ禍時代の映画!)飛び込み、アミンのクラス全員分量のケーキ菓子を買い占める。アミンのいる授業中の教室に乱入し、子供たちにケーキ菓子を配ろうとする。授業なんかやめて、みんなで泳ぎに行こう、と煽動する...。必死で抑えようとするレイラをダミアンは見ていない。
 私はもう限界、私は支えきれない、私はもう続けられない... レイラはこういうセリフを映画中くりかえし吐き続ける。ダミアンの目を見据えてそう言うのだが、ダミアンには見えていない。この映画の愛の限界点はここなのである。この映画での女優レイラ・ベクティの素晴らしさは、このぎりぎりの限界点になんとしてでもとどまり続ける女の顔なのだ。時には鬼になっても絶対にあきらめない顔なのだ。その顔がダミアンには見えているのか見えていないのか、そこがこの愛の生命線なのだ。
 「私は15キロも太ってしまったのよ」と言う。たしかにこの映画でレイラ・ベクティはでっぷりしている。このストレス太りがどういうことなのか、ダミアンはわからない。「きみはとてもきれいだ」と常套句のようにくりかえすダミアンにはこの現実が見えていない。私はあなたの母親でも看護婦でもない。なのに私はあなたをずっと監視し続けなければならない。私はあなたと同じアーチストで、あなたと同じように創造活動をしているのよ。その叫びがダミアンには届かない。
 ダミアンはダミアンで自分の人生は医師診断書が決めることではない(←私はこの部分激しく同意する)という主張がある。精神科医の診断範囲内で生きろ、と言われることには承服できないものがある。クリエーションがその境にあることを知っているから。その衝動なしに絵は描けないから。
 最後の手段であるかのように、救急車が来て、拘束ベッドに縛りつけられ、精神病院に搬送される。こんなこと繰り返したくない。それは誰もがそうなのだ。その後に訪れるしばしの休戦状態。レイラは友人の野外パーティーに招かれ、人々に紛れ、ひとり首と体をスウィングさせてダンスに興じていく。このダンスするレイラのひとときの解放された微笑みが本当に泣けてくる。

 映画はこの3人の家族がこの上なく幸せだった瞬間も映し出すのだ。ダミアンが運転し、助手席にはレイラ、後部シートにはアミン。カーステからベルナール・ラヴィリエ(とニコレッタのデュエット)の"Idées Noires"(1983年)、これに合わせてダミアンとレイラが大声でデュエットで歌い、それをアミンがうれしそうに見ている。こんな瞬間があるから、この3人はどんなことがあっても愛し合っている、と思わせるには十分なのだが....。
 映画の終わりはハッピーなものではないし、まだ(ダミアンとレイラが)分かり合えないまま、このままこれを繰り返していくのだろう、という余韻。ただ、これを繰り返すということがこのアーチストたち(+子供)が生きていく、ということなのだろう。重い。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"Les Intranquilles"予告編

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