2021年3月25日木曜日

【動画】森のウィンキー

 が管理編集している Winky_Tsushima のインスタグラム用に制作したウィンキーの動画の第3弾ができました。(MGM映画を強烈に意識した冒頭イントロにご注目ください)
 まだ花や新緑が見られない頃3月3日(2021年)、パリの南郊外ムードンの森で撮影しました。巨大な樫の木が多く、秋には栗拾いもできる森の散歩コースです。ウィンキーさんは起伏のある小道が大好きで、道からはずれて木々の間を全速力でスラロームしたりします。
コロナ禍対策の外出規制が続き、ここもわが家から10キロ以内(正確には7キロ)の距離なので許可の範囲内ですが、本当はもっと遠くに行きたいのです。
 それから本日(3月25日)、ウィンキーのインスタのフォロワー数が第一目標の"100人"を突破しました。娘の次の目標は"1000フォロワー”と息巻いております。ご期待ください。


Winky in Forest (March 3, 2021)
Cameraworks and montage : Yu Tsushima

2021年3月21日日曜日

そんなバナナ...

Frànçois & The Atlas Mountains "Banane Bleue"

フランソワ&ジ・アトラス・マウンテンズ『青いバナナ』

ランソワ&ジ・アトラス・マウンテンズを初めて聴いたのは2009年のことで、その4枚目のアルバムにあたる"Plaine Inondable(洪水に襲われやすい平原)"でやっとフランスのメディア(FIP、Radio Nova、レ・ザンロキュプティーブル...)が大きく取り上げ始めたおかげで、私も版元のボルドーの小さなレーベルTalitres Recordsから通販でCDを手に入れることができた。この衝撃は当時の当ブログで詳しく伝えたし、次いで英国ドミノ・レーベル(ジ・アークティック・モンキーズ、フランツ・フェルディナンド...)と契約してメジャーデビューした2011年の傑作アルバム『エ・ヴォロ・ラヴ』についても当ブログに興奮した紹介記事を載せている。
 さてジ・アトラス・マウンテンズは2005年に英国ブリストルで結成された実体のあるリアルなバンドであり、フランソワ・マリーはこのバンドと共にレコーディングとコンサートツアーを続けてきた。この”フランソワとジ・アトラス・マウンテンズ”を名乗る新アルバムは、2019年8月から12月にかけて、ベルリンとパリとアテネの3都市で録音されたものだが、ミュージシャンとしてクレジットされているのはフランソワ・マリーとフィンランド人のマルチインストルメンタリストにしてドミノ・レーベルの僚友ヤーコ・エイノ・カレヴィ(Jaakko Eino Kalevi)のみ(+若干のエキストラミュージシャンあり)。録音はいつものアトラス・マウンテンズではないのだが、アトラス・マウンテンズを名乗る。そして2021年春からブッキングされている(この新アルバムのレパートリーを中心とした)新コンサートツアーではいつものアトラス・マウンテンズがバッキングを務める予定(だが、現時点のコ禍状況で定かではない)。
 今回の道連れヤーコ・エイノ・カレヴィは、1993年設立以来インディーのシーンで最も先鋭的な英国レーベルのひとつであるドミノ・レーベルが契約したただひとりの北欧人であるが、同じようにフランソワ・マリーはドミノが契約した唯一のフランス人である。英国という何十年も世界で最もイノヴェーティヴな音楽の数々を発信している国がヨーロッパで発掘し門戸を開いた二人のアーチストであった。そして英国はあの時ヨーロッパでもあった。アルバムは英国が欧州に最後の別れを告げる頃に制作された。前作までとは打って変わってミニマルで音数を削り取ったような軽妙なサウンドに漂う哀感は、英国とヨーロッパの別れを象徴しているように聞こえる。またヨーロッパが"共同体”だった頃への郷愁とも。
 アルバムタイトルの『青いバナナ』とは日本語版ウィキペディアの記述をそのままコピペすると
西ヨーロッパにおいて特に経済的、人口的に発展しているバナナ型の地帯のこと。(中略) 北西方向にはノースウェスト・イングランド、南東方向にはミラノまで、バーミンガム、ロンドン、アムステルダム、ブリュッセル、ルール地方、ストラスブール、チューリヒ、トリノ、ミラノなどを含むように湾曲して及ぶ。「青」というのはEUの旗の色として、また、伝統的にヨーロッパを示す色として青が使われてきたことに由来する。
とある。すなわちかつての西欧の先進地帯であり、ヨーロッパを未来に導く中軸だったところである。フランソワはこの「青いバナナ」を中学の社会地理の教科書で教わった世代であるが、今この呼称がフランスの中学教科書に残っているかは定かではない。20世紀後半の欧州のイメージと言える。
 このアルバムは旅への誘いである。冒頭の曲「ザ・フォーリナー(The Foreigner)」では、あの頃ヨーロッパの長距離列車や長距離バスで聞かれたようにさまざまな言語が飛び交っている(歌詞はギリシャ語、フィンランド語、スペイン語、イタリア語、フランス語)。国境のないアメリカやロシアのように広いゾーンだったヨーロッパの記憶はこんな言語が飛び交う旅だった。フランソワには「インターレイル」(日本人的には"ユーレイルパス")と呼ばれる欧州鉄道周遊パスで旅した思い出がある。2020年全世界を襲ったコ禍は、このかつての簡単に移動すること、簡単に言語の異なる友人たちに会いに行くことを不可能にさせ、私たちの知るヨーロッパはさらに記憶の彼方に追いやられた。
 つづく2曲めの「ククー(Coucou)」(↓クリップ)はいかにも無害でバブルガムのようなポップソングのように聞こえるが..... 別れの歌なのである。

(↑)青いバナナを食べて、みんな仲良くヨーロッパ、みたいな皮肉なメタファーのクリップ。歌はそんなふうにとても軽く簡単に恋人関係になれたんだけど、一緒に騒いで、セックスをして、朝になるとよそよそしくなっていて、メール(あるいはSMS)に他人行儀なあいさつを書いてくる。
Coucou coucou coucou
coucou, comment vas-tu ?
まるで彼女が僕の裸を一度も見たことがないような
まので僕が赤の他人であるような
Coucou coucou coucou
coucou, comment vas-tu ?
なぜ彼女はこんなことを書くの?
まるで彼女が僕の裸を一度も見たことがないような

これがヨーロッパだったのかもしれない。相手の「裸」を認知しないような関係。急いで関係をつくっても絆はもろいもの。歌はライトな鼻歌ふうだけれど、結末は彼女が使っていた歯ブラシを捨ててしまう、という別れ。一聴だけでこの悲しみはわからないものだけど。
 英語とフランス語ちゃんぽんで歌われる3曲めの「ジュリー(Julie)」(↓クリップ)、英語の5曲め「ホリー・ゴーライトリー(Holly Golightly)」(↓クリップ)と9曲め「ゴールド&リップス(Gold & Lips)」などを聞くと、ヨーロッパを支えてきた重要な要素のひとつが英語だったということを思ってしまう。欧州共同体を中心的に推進してきた国の言語(ドイツ語、フランス語、オランダ語)はついに共通語にならずに、それぞれの土地の訛りがついた英語がどうにかこうにか通じる言語になった。20世紀の中頃、誰がフランス人が英語をしゃべることになると想像できただろうか。私たちのヨーロッパはこうやって「口」を形成していったのだが...。
 
(↑"Julie" ウォークマンと、テレビアンテナと、ルノー12が象徴的)

(↑"Holly Golightly"、映画『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘップバーンの役名ホリー・ゴーライトリー。画家/造形作家でもあるフランソワのペインティングによるヘップバーンのポートレイトをアニメ化したクラフトマンシップあふれるクリップ制作。脱帽)

 ヨーロッパという成就しない恋のメタファーであるとこじつけるのは無理があるかもしれないが、決して成就することのない関係を歌う90年代風シンセ・エレポップ(ピコピコ)曲が7曲め「軌道回転(Tourne autour)」(↓クリップ)なのである。
奇妙なことに、真っ昼間なのに僕は道を見つけることができない
僕ときみは周り道ばかりしていて、きみは僕の周回を避けてるが、
そんなこと気にしない
きみは何も待っていないから何も失わない、明日も無音、不在
僕だって何も失うものはない、遠くからきみを監視する塔を建てて
そこに住み着くんだ、遠距離から楽しむ、悪賢い王子さ
もうこの恋物語は遠ざかってしまったときみに信じ込ませ
絹の肌の女王たちをあしらった僕の衣装をキラキラ輝かせ
必要ならば、きみの雌犬のような心根と戦うために戻ってくるよ

執念のように、ストーカーのようにひとりの女性の周りを回り続ける人工衛星マンという態のクリップであるが、本当に恋は成就しないものなのか。
 
 ライトで耳障りのよい鼻歌のように聞こえてしまう10曲35分のアルバムは、実はヨーロッパの黄昏のメランコリーに満ちている。ヨーロッパと失われたままそこにある英国という恋人、閉じ込められて1年以上になるパンデミックの世界。この悲しみは、ポップな鼻歌に込めることもできるのであるよ。

<<< トラックリスト >>>
1. The Foreigner
2. Coucou
3. Julie
4. Par le passé
5. Holly Go Lightly
6. Lee-Ann & Lucie
7. Tourne autour
8. Revu
9. Gold & Lips
10. Dans un taxi

Frànçois & The Atlas Mountains "Banane Bleue"
LP/CD/Digital DOMINO Wig478
フランスでのリリース 2021年2月

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓"Coucou" 2020年12月レ・ザルク映画祭に出品された雪山ヴァージョンのクリップ。すごく好き)

2021年3月16日火曜日

あるセザール賞男優の蒸発

Florence Aubenas "L'inconnu de la poste"
フローランス・オブナ『郵便局の不審者』

2021年2月から3月、フランスの書店ベストセラー1位だった本。2008年12月フランス東部ジュラ地方で起こった殺人事件を追うドキュメンタリー書である。著者でジャーナリストのフローランス・オブナ(1961 - )は現在ル・モンド紙とロプス誌の特約リポーターとなっているが、リベラシオン紙の海外特派リポーターだった2005年にイラクで反政府ゲリラに誘拐され157日間人質として監禁されていたことで、あの当時その解放を求めてフランス中の市庁舎役場の正門に顔写真が飾られ、私たちには勇気あるジャーナリストの鏡のようなイメージがある。このことはオブナの2010年の著作『ウィストレアム河岸(Le Quai de Ouistreham)』に関する当ブログの記事で触れているので参照してください。
 さてスイス国境に隣接するアン県(01県、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地方)の人口3500人の町モンレアル=ラ・クリューズで事件は起こった。この人口の町なので誰もが誰もを知っているムラ社会。時代と共に農業/酪農業が廃れ、その代わりにこの峡谷地帯に多くのプラスティック工場ができ、住民のほとんどがこのプラスティック産業に従事し、この土地は誇らしげに「プラスティックの谷」を僭称するようになる。だから他のフランスの奥まった地方に見られるような破産状態はなく、隣町ナンチュアの湖上スポーツリゾートの観光収入もあり、人々がなんとか暮らせる環境であった。しかし容赦のない公共サーヴィスの予算減らしは、鉄道やバスでこの町に来ることを困難にさせ、学校や病院は遠くまで行かなければならなくなった。そんな中で郵便局も町の中心部の本局だけ残して町外れの分局は閉鎖するはずだったが、元助役(レイモン・ビュルゴ)の抵抗で存続させ、娘カトリーヌ・ビュルゴをそのごく小さな郵便局のたったひとりの局員として切り盛りさせ、地区住民たちには重宝している。書留や私書箱などの郵便業務、郵貯口座の出し入れ、ラ・ポスト印の携帯電話販促... やることはあまりないが、現金も扱うしATMも金庫もある。ずっと平和な町だったのが仇になって、この局には21世紀になっても防犯カメラがなかったのだ! そして少ない仕事の合間に、町のひまな旧友たち(もちろん全部女)がこの局の小さな待合室に集まり、ほぼ一日中の茶話会を繰り広げるのだった。この田舎の女たちは茶話会だけなく、夜のハメはずしやら、近くの都市へのショッピングなども共にする心許せるコピーヌたち。カトリーヌは最初の結婚で娘をもうけたが、夫との関係はきわめて悪く、二度の自殺未遂を起こしていて、精神的には不安定なところがあった。カトリーヌが死んだという報せが流れた時、このコピーヌたちは遂に自殺に成功したか、と早合点したのだが、それは自殺ではなかった。2008年12月19日、この小さな町でも人々がクリスマス準備に明け暮れる雪の日の朝、ひとり局員は局の前から娘をスクールバスに乗せて送り出したあと、局の中で28カ所をナイフで刺され血の中に倒れた死体で発見された。しかも夫と別居(離婚はしていない)したのち、新しい恋人ができ安定した新生活に向かいつつあり、妊娠中の身だった。静かだったモンレアル=ラ=クリューズの谷は町始まって以来の深い衝撃と悲しみに包まれ、カトリーヌの葬儀にはほぼ町中のすべての人たちが詰めかけ、犯人逮捕のためのあらゆる協力を惜しまないと誓った。ムラ社会の堅固さありあり。 
 さて、捜査線上で早くから容疑者として上がったのがジェラルド・トマサン(1974 - )という男で職業は映画俳優である(→写真はトマサンが最後に主演した2008年ジャック・ドワイヨン監督映画"Le Premier Venu"のスチール)。商業映画とは程遠いこのドワイヨンのような独立系の作家主義映画にばかり出演しているので、一般的には全く知られていない俳優であるが、そのデビュー作でジャック・ドワイヨン監督にキャスティング発掘されて16歳で準主役として出演した"Le Petit Criminel"(1990年)で、(フランスで最も権威ある映画賞である)セザール賞最優秀新人賞を授与されている。アクターとして養成されたわけではない。実生活での体験の生々しさをそのまま映画に出せる素人を探した結果見出された。トリュフォー『大人は判ってくれない』(1959年)のキャスティングで発掘されたジャン=ピエール・レオーのケースとよく似ている。トマサンは深刻な家族の問題があり養護施設で育ったが、ドワイヨンのキャスティングは養護施設の中で行われ、その様子がヴィデオとして残っていて、フローランス・オブナはその7分8秒のやりとりを本書の102ページから106ページまで一言漏らさず再録している。複雑な情緒を持った少年であったことがはっきりと浮かび上がってくる。
 トマサンはこのセザール賞で変わった。一時的な高収入はドラッグとアルコールをいよいよ深化させ、時々声がかかる映画の仕事のためにドラッグ/アルコール抜きの治療を受けにさまざまな土地に転地して、ノマド的に生きていた。映画出演のギャラ収入はすぐに絶え、安宿に住み、非常勤興行労働者(アンテルミッタン)のための失業手当を郵便局経由で受け取って暮らしていた。転々と移住していた先々で、トマサンは自分は映画俳優であることを隠さず、出演した映画のDVDを見せたり、話し上手にその世界のことを吹聴するものだから、土地土地で出会うジャンキー仲間同士の中では人気があった。もちろん女性たちにも。だが将来を一緒にと相思相愛になった女性との間でもその情緒の不安定さ(+暴力)は顔を出すのだった。
 事件の土地モンレアル=ラ・クリューズには2007年夏に当時の恋人コリンヌと谷の私営キャンプ場にテントを張ってヴァカンスを過ごす予定でやってきた。ところが、不安定なトマサンは発砲事件を起こしキャンプ場から放逐され、コリンヌは自分の車で逃げ出してしまう。ひとり残されたトマサンが見つけた低家賃のアパートは、町はずれの泉の広場に面した2階建ての古い建物で、トマサンの部屋は最も安い半地下のステュディオで、窓からは通行人たちの足しか見えない(2019年ボン・ジュノ監督『パラサイト』のようだ)。その窓から覗けて見える泉の広場の向こう側に町の郵便局の分局があり、たったひとりの局員としてカトリーヌ・ビュルゴが働いていた。
 ひとりでこのジュラ山系の谷間の町に暮らしはじめたトマサンはその低家賃アパート建物の他の住人たちとも溶け込んでうまくやっていた。そしてジャンキーはジャンキーを呼び、この町で無職生活保障受給者ながらドラッグとアルコールだけは絶やさないタンタンとランブイユという二人の男と急激に親しくなる。町から遠くはずれもはや誰も近づかない農家の廃屋を三人の隠れ家として、誰にも邪魔されずアルコールとドラッグを好きなだけ堪能できる秘密の楽園をつくっていた。このマージナルな三人のユートピア体験はこの本の中で異彩を放つ美しさであり、かの事件の後もこの三人の絆は壊れない。
 2008年12月19日、朝8時40分から9時7分の間に郵便局分局の中でカトリーヌ・ビュルゴは上半身28カ所をナイフで刺され死亡、金庫にあった(たった!)2600ユーロ が持ち去られた。金庫の金が目当てだったのか、金額を知らなかったかもしれないが、それにしてもこのわずかな金のために残忍極まりない28回のナイフ突き。尋常ではないと誰もが思う。
 トマサンがなぜ最有力の容疑者として浮上したのか?犯行現場(郵便局)の向いに住んでいて、その朝自室にいたと証言しているが、アリバイを証明できない。護身用に自分の名前を彫ったナイフを所持している。金がない。ジャンキーである。1年半前に移住してきた新参者である。犯罪者役をしたこともある俳優であり、ジャンキー的心神喪失による現実と演技の区別がつかなくなる場合あり、等々。ところが現場にはトマサンの指紋もDNAも検出されていない。自白さえ取り付ければ、検挙もできるのだが...。
 だが本意ならずとも自白とも取れるセリフをトマサンは吐いている。カトリーヌが埋葬された墓地で(既に泥酔状態で)トマサンがひとりさめざめと泣いている。たまたま通りかかった(カトリーヌと面識のある者としてムラのみんなと同じような気持ちで墓参りに来ていた)町の女二人が、トマサンの悲涙を慰めんと話を聞いてみたら、トマサンは弁舌さわやかにあたかもその犯行現場にいたかのように、その不器用な犯行を解説してみせたのだった。俳優だから俺は知っているが、プロだったらこんな殺し方はしない... といったことなど。これをさっそく女二人は警察で証言してしまうのである。トマサンが犯行現場にいた可能性と墓地で死者に犯行を悔いて泣いていた可能性...。
 そして生まれてくる子供と第二の人生をやり直すはずだったひとり娘を殺された父親、町の名士(元助役)であるレイモン・ビュルゴの絶対に犯人を罰せずにはおかないという執念は、すでにこのトマサンを本ボシと決めてかかっていて、なんとしてでも落とせと警察に圧力をかける。町はそのパワーに同調し、反ドラッグの市民感情も手伝って、ジャンキーたちは居場所を失っていく。かの三人組(トマサン、タンタン、ランブイユ)は散り散りになり、トマサンはモンレアル=ラ・クリューズを逃げ出し、コリンヌのいる西フランスのロッシュフォールに移住する。しかし新証言・新事実が上がる度に執拗な取り調べ、仮勾留、仮釈放は繰り返され、それは事件から10年を過ぎてもなお続いたのである。その長い年月の間、容疑者ナンバーワンのトマサンは精神を病み、映画出演もかなわず、無収入で転々と移動している。
 フローランス・オブナは事件の5年後からこの件の詳細な調査に入り、ジェラルド・トマサンをはじめ関係者たちひとりひとりに会いに行き、6年がかりでこの本を書いた。トマサンが投獄され、精神的に危険な状態になったこともその目で見ている。オブナはトマサンにあらかじめ断った「私はあなたの伝記を書くのではない。あなたが関係したある山の村で起こったひとりの女性の殺人事件について書くのである。私の仕事は、あなたのように私に会うことを承諾してくれたすべての人たちに会って話を聞くことだ」と。ジャーナリスト・オブナの仕事は警察の側に立って事件の真相を究明することではない。彼女が会って話を聞いた人々の尊厳を尊重しながら、この事件から浮き彫りにされた「あるフランス」の姿を明らかにすることだ。ムラ社会、地方、ジュネーヴとリヨンを結ぶドラッグ街道、インターネットの暴力性、ゆがんだ司法システム...。いろいろ見えてくる。
 オブナがこの本のために調査を始めた頃は、まさか、こんな結末になろうとは思っていなかったことは間違いない。この本の終盤は推理小説まがいのどんでん返しが連続する。読む者は面白いだろう。だが小説のように読まれては困るようなところではあると私は思う。
 事件から何年すぎてもトマサンは不動の容疑者ナンバーワンだった。これに決着をつけたいとトマサンは思った。いっそのこと自白してしまった方がどんなに楽か、とも思った。月日は流れ、投獄され、ボロボロに痩せ細り、仮釈放された頃、新容疑者が現れる(強盗の事実は認めるが殺人は否認している)。2019年8月29日、トマサンはリヨン裁判所に出廷を求められる。この日この法廷で、トマサンはすべての嫌疑から解かれて、正式に無罪となるはずだった。フローランス・オブナはその日リヨン裁判所前でトマサンと落ちあうことになっていた。しかしトマサンはいくら待っても現れない。ロッシュフォールから電車に乗ったことを見届けた友人の証言はある。しかしトマサンは乗り換え駅のナントで下車したのち、失踪している。リヨン裁判所では被告(トマサン)欠席のまま開廷、トマサンの無罪が確定した。2020年3月現在、セザール賞男優ジェラルド・トマサンは行方不明のままである。

Florence Aubenas "L'Inconnu De La Poste"
Editions de l'Olivier刊 2021年2月11日  240ページ 19ユーロ


カストール爺の採点:★★★★★

(↓)2021年2月11日、国営テレビFrance 5「ラ・グランド・リブレーリー」で自著『郵便局の不審者』について語るフローランス・オブナ。2分37秒めから、ジェラルド・トマサン(当時16歳)のジャック・ドワイヨン映画"Le petit criminel"のためのキャスティング時のヴィデオが出てくる。(注:”この動画は YouTubeでご覧ください”と出てきます。指示に従って、"YouTubeで見る”をクリックしてください)

2021年3月12日金曜日

私の体はおもちゃなの?

Céline Banza "Praefatio"
セリーヌ・バンザ『序章』

アルバムタイトル”Praefatio"(プラエファチオ)はラテン語であり、大学でラテン語哲学を学んでいたセリーヌ・バンザ(1997 - )が当時最も感銘を受けた哲学者がキケロ(106BC - 43BC)だったことに由来する。このすべての分野において雄弁な哲学者・弁護士・政治家に魅せられ、(歌手の道に進まなかったら)アフリカの女性たちの権利のために弁護士あるいは政治家になることを夢見ていた。キケロの著作にはいつも既に雄弁な導入部(イントロダクション)があり、自分も最初の著作(あるいは音楽作品)にはキケロに倣って「プラエファチオ」と名付けて、後に続く自分のライフワークの序章にしようと決めていたのだそう。
 セリーヌ・バンザは1997年コンゴ民主共和国(RDC)の首都キンシャサで生まれた。幼少からコーラス隊で歌う音楽好きで、父から贈られたギターで早くも作詞作曲する少女であったが、その父が亡くなり、一家はRDC中央部のキサンガニに移住する。家族の反対にもめげず、少女はこの町のアリアンス・フランセーズを中心として展開する様々なアート(音楽、ダンス、演劇、ヴィデオ、映画...)活動に専心していき、録音スタジオ(Studio Kabako)やダンスワークショップに入り浸る。誰が何と言おうが私は音楽の道に進むと決めたセリーヌはキサンガニの養親のポケットから金を抜き出し置き手紙を残して単身キンシャサに戻り、国立芸術院(Institut National des Arts)に入学し音楽民俗学(Ethnomusicologie)を学ぶ。この"民族学”がセリーヌにRDCコンゴの民俗音楽の豊穣さを開眼させるのである。約250に分類できる民族集団があり、言語も同じほどの数存在するマルチカルチャー風土にあり、その個々の文化遺産はやんぬるかな急速に消滅しつつある。これを絶やすまじと、セリーヌは祖父祖母が話していたンバガンディ語(両コンゴ北西部、中央アフリカ共和国、カメルーンにまたがって話される)を再学習し、ンバガンディ語で作詞作曲するようになる。またその学部で知り合った仲間たちとバンド、Banza Musikを組み、そのメンバーとの活動は今日まで続いている。
 2017年、セリーヌはテレビ(フランス語圏アフリカ版)「ザ・ヴォイス」にエントリーしていて、その時のコーチが(コート・ディヴォワールの世界的ズーグルー・バンド)マジック・システムアサルフォだったらしい。私は「ザ・ヴォイス」は、歌唱を世界標準の商業芸能としてフォーマット化するためのものであり、百害あって一利もなしと考えているので、セリーヌのチョイスはいただけないが、長いことその中にいたわけではなさそうなので目をつぶる。
 そしてセリーヌはコンゴの俳優/ダンサー/劇作家/演出家のファブリス・ムカラに見出され、彼の戯曲『3人の怒れる女(Trois femmes en colère)』に出演すること、そしてその劇中歌を作詞作曲することを依頼される。こうして作られた歌が「テレ・ムビ(Teré mbi = 私の体)」であり、ンバダンディ語で作詞され、劇中ではセリーヌがギターの弾き語りで歌った。キンシャサのアリアンス・フランセーズで上演された『3人の怒れる女』は大成功を収め、とりわけセリーヌ歌う「テレ・ムビ」はたいへんな評判となった。「私の体はおもちゃになってしまった」ー 女性の肉体をおもちゃのようにした見なさない男たちへの抗議の叫びであり、アフリカの女たちが受けている屈辱へのマニフェスト的告発であった。20歳そこそこのセリーヌは、この歌で怒れる女たちの代弁者となっていった。この歌の噂は RFI(ラジオ・フランス・アンテルナシオナル)のジャーナリストの耳にも届き、アフリカに広く電波網を持つこのラジオが毎年主催している「RFI デクーヴェルト」賞(過去にティケン・ジャー・ファコリ、ロキア・トラオレ、アマドゥー&マリアムなどを世に知らしめることになった新人発掘賞)に応募することを強く進言する。アルバムはおろかシングルも録音したことのなかったセリーヌは急遽仲間をスタジオに招集して、「テレ・ムビ」を含む3曲の持ち歌を録音して、RFIに送りつけたところ、予選、二次選を通過し、数ヶ月後には最終選考の末、2019年度の「RFI デクーヴェルト賞」を受賞してしまう。

私の体 私の体
おもちゃになってしまったの?

私の体 私の体

おもちゃになってしまったの?

今や私の言葉は
ほとんど叫びになってしまった
あなたが望んでるのはそれ?
私が女であるっていうこと?
あなたが望んでるのはそれ?

あなたには腕力はある
私の力はおなかの中にある
あなたには体の力がある
私の力はおなかの中にある
あなたは私よりも値打ちがあると思っている
あなたは私に金で施しをしたことを覚えている
あなたは私よりも値打ちがあると思っている
おおおお、おおおお!

あなたにはもはや私より強い力などない
私に人を押し倒すような癇癪は起こさないけれど
世界の強がっている男どもよ

あなたには腕力はある
私の力はおなかの中にある
あなたには体の力がある
私の力はおなかの中にある
私の力はおなかの中にある

あなたは私よりも値打ちがあると思っている
あなたは私に金で施しをしたことを覚えている
あなたは私よりも値打ちがあると思っている
おおおお、おおおお!
 
あなたは私をつまみ上げる物のように見なす
召使いのように見なす
だけど私は人類の母なのよ
あなたの母なのよ
あなたの母なのよ
私の体は

("Teré Mbi" 私の体)


 それからこの"金の卵”をめぐってレコード会社の争奪戦があり、フランスに本拠を置くコンゴ系のラップ/R&Bレーベル、Bomayé(ボマイエ)が獲得に成功、ファーストアルバムの制作とあいまった。このボマイエという会社、創業者(兼メインアーチスト)がユースーファというラッパーで、ザイレアン・ルンバの王フランコ(1938 - 1989)と並び称される歴史的大歌手タブー・レイ・ロシュロー(1940 - 2013)の息子である。フランスでもフランス語圏アフリカでも広く名が知れたレーベルであり、そのチョイスは悪くはないとは思うんだが、このユースーファという人は目立ちたがりなので、さっそくこのセリーヌのファーストアルバムでも"フィーチャリング”出演している。(↓アルバム11曲め「出発 Départ」feat. ユースーファ)


 アルバム『プラエファチオ』はキンシャサで録音され、基本的にアフロ・アコースティック・フォークだが、土地柄ルンバもズーグルーも顔を覗かせ、いい感じに多彩さがある。私には「テレ・ムビ(私の体)」という超強烈なインパクトの1曲だけでこのアルバムは十分に価値があるのだけれど、ンバガンディ語の歌はすべて(歌詞カードはあっても翻訳がついていないにもかかわらず)とても説得力があり、往年のトレーシー・チャップマンを思わせる大事な言葉づかいを感じさせる。”アフリカ女性のアンガージュマン”もびしびし感じる。それにひきかえ、2曲の英語曲はどうしたものだろうか。誰に向かって歌っているのかちょっと曖昧になるような気がする。
 そんな中で異彩を放つのがフランス語で歌われる3曲め「路地の上で(Sur le pavé)」であり、キンシャサというメガロポリスの路上で貧困と共に生きる少女のストーリーが、まるでフランスのシャンソン・レアリスト(1930年代の写実派シャンソン:ダミア、フレエル、ピアフ...)のように語られ、物語の最後に悲劇が待っている。これはまさにシャンソン・フランセーズの本領のような歌ではないか。

わたしは8歳、路地の子供
でもわたしにはちゃんとした家族があった
わたしは舗道の上で新しい父たち、新しい母たち、
姉妹たち、兄弟たち、なんでも目印になるものを見つける
 
タクシー運転手で一日15時間
夜明け前から真夜中すぎまで
こんな仕事で何日かの生活費にはなる
だからわたしを見てあの人は幸せそうに微笑んだ
 
父も母も同じように
働き尽くめ、だからわたしをひとりにしておく
 
ビルの清掃係
屑篭を空にし、床にモップをかける
通勤の混雑は言うまでもない
母はわたしのごく小さかった頃のことをまるで知らない

母も父も同じように
働き尽くめ、だからわたしをひとりにしておく

わたしは8歳、路地の子供
でもわたしにはちゃんとした家族があった
わたしは路地の上で新しい父たち、新しい母たち、
姉妹たち、兄弟たち、なんでも目印になるものを見つける

午後2時にわたしは学校から戻る
帰っても親も神様の代わりもいない
大人の女たちもようにわたしは舗道を駆け回りたい
ミニスカートの女たちがわたしの味方になってくれる

かの姉たちはかの兄たちと同じように
用心深くて、しっかり絆で結ばれていた
 
その人たちは店員だったり、客だったり、原付タクシーだったり
カサイ出身だったり、イトゥリ出身だったり
わたしにやさしい言葉と微笑みとボンボンをくれた
路地で暮らす者はあいさつなしで通りすぎることなどしない
かの兄たちはかの姉たちと同じように
思慮ぶかく、なんでも分かち合っていた

わたしは8歳、路地の子供
でもわたしにはちゃんとした家族があった
わたしは路地の上で新しい父たち、新しい母たち、
姉妹たち、兄弟たち、なんでも目印になるものを見つける

女たちが乗り込んでいく車と車の間を縫って
両替屋が請求書を勘定しているそばを通って
いつもと同じような日、そこにあるバー
わたしはその奇妙な場所に行くのをOKした

かの姉たちはかの兄たちのように多忙で
わたしをほったらかしにしておいた

それでもわたしはこのやさしいおじさんを知っていた
毎晩わたしにソーダをおごってくれた
知らない人に付いて行ってはダメ
それが路地の姉たちの忠告だった

その男が服を脱ぎ始めたとき
わたしは逃げ出したかった、
でももうドアは閉まっていた...
(「路地の上で Sur le pavé」)
<<< トラックリスト >>>
1. TERE MBI(私の体)
2. SONGO TE HE(私たちの愛)
3. SUR LE PAVE (路地の上で)
4. RAIN 
5. NA MILELI (私は泣く)
6. ZINGO(目覚めよ、立ち上がれ)
7. MBI NGO YEMO (あなたが好き)
8. MBI GWE(私は旅立つ)
9. MBI YEMO SI BABA(父のことを永遠に愛する)
10. IS IT LOVE
11. DEPART (旅立ち)
12. MBI LO (私はここにいる)
13. LEGIGI NO GBI (失われゆく世界)

Céline Banza "PRAEFATIO"
CD/LP/Digital Bomayé/Believe
フランスでのリリース:2021年2月19日

カストール爺の採点;★★
★★


(↓ "Na Mileli 私は泣く" オフィシャルクリップ)