2020年10月29日木曜日

夢のアルジェリア

"ADN"
『DNA』

2020年フランス映画
監督:マイウェン
主演:マイウェン、ファニー・アルダン、ルイ・ガレル
フランスでの公開:2020年10月28日


いろいろ問題多い。
マチュー・ドミー(ジャック・ドミー&アニェス・ヴァルダの息子)との共同シナリオとあるが、映画のベースになっているのはマイウェンの"自分史"である。
映画は主人公ネージュ(40歳代、離婚し、3人の子の母、職業不詳。演マイウェン)の母方の祖父エミール・フェラー(演オマール・マルワン)の老人施設での最後の日々から始まる。アルジェリア独立に重要な役割を果たした共産党員であり、独立後新政府のさまざまな要職の座にあった後フランスに移住(この理由は映画では明らかにされない)。エミールの娘二人がフランスで家庭を持ち、たくさんの孫、ひ孫ができる。この複数の家族の集合体はじつにバラバラでお互いに特別仲が良いわけではないが、この祖父エミールが要となってなんとか親族の絆を保つことができてきたし、このエミールが亡くなったら崩壊してしまうだろうことを窺わせる描き方。ネージュが友人のジャーナリストと組んでアルジェリア独立の立役者のひとりだったエミールのフォトバイオグラフィー本(アルバム大の大判)を自費出版し、記憶が薄くなってしまったエミールの存命中に完成する。エミールの(最後の)誕生日に印刷された本が到着し、老人施設に集まった親族たちに配られ、古い写真の数々に遠いアルジェリアに想いをはせるという美しいシーンがあるが、それを心良く思っていないのがネージュの母親のキャロリーヌ(演ファニー・アルダン)だった。
 しかしてエミールの死はやってくる。ここからにわかに映画は”擬似”コメディー展開になり、葬式の形式やら、棺桶の材質やら、葬衣の色やら、あらゆることで家族がもめはじめる。イスラム教徒ではなかったのに、最晩年に日々の合間にコーランの唄句を吟じていたということから、モスク葬が選ばれるが、それに反対する孫のひとりが葬儀中の送辞に"アーメン"と祈祷するとか。そしてネージュが送辞をする番になり、かのバイオグラフィー本の著者のメッセージを読み上げようとすると、乱暴に母のキャロリーヌがマイクを取り上げ、ネージュに一言も言わさずに自分の送辞をひとしきりぶち上げてしまう...。
 火葬した後の遺灰を管理することになったネージュに、母キャロリーヌが遺灰を手渡す段になって、この娘と母の関係が長年にわたってきわめて険悪であったことが、この映画上では初めて表面化するのであるが、事情通でマイウェンの個人史を知る者ならよく理解できる図である。マイウェンの母で女優のカトリーヌ・ベルコジャは娘を「スター」に育てることに固執し、厳しく半ば暴力的な養成方法を用いるが、娘がオーディションに落ちるなどの失態を見せると強烈な折檻が待ち受けていた。この映画では40歳を過ぎても母親の「おまえのためにこれだけしてやっても、おまえは出来の悪い娘」という叱責を受け続け、それを常に怖がっている娘、という極端な母娘関係が描かれる。ファニー・アルダンが演じる執念の塊りとなって悪魔的に意地の悪い言葉を吐き続ける女のさまは、監督マイウェンが望んだ通りの姿だったろう。
 そして映画には鬼の母親の他に、母親と別れて別居している父親ピエール(演アラン・フランソン)も登場する。マイウェンの個人史では、父親(ブルターニュ人とベトナム人の混血)も母親同様の言葉と身体的な暴力を娘に行使していたことが知られているが、この映画でも冷笑的で毒舌的で偏屈なインテリ隠居者のように描かれている。
 重要なのはこのネージュは父母の愛とは無縁に育ち、その両親との絶対的な不和関係をずっと維持しているということ。この母と父がサイテーだからこそ、この映画ではネージュは心の拠り所の「隔世遺伝」を求めるのである。それがエミールの"アルジェリア”なのだ。
 その自分の"アルジェリア度"の濃さを確認したくて、ネージュはインターネットで見つけた(アメリカのサイトらしい)有料のDNA鑑定を試してみる。民族的ルーツをパーセンテージで表すその検査では、北欧やイタリアや南欧のパーセンテージが高く、北アフリカ(マグレブ、アルジェリア)は18%ほどしかない。この数字に落胆しながらも、もっとルーツについて詳しく知りたくなり、父親ピエールにDNA鑑定を求めるが頭ごなしに断られ(おまけに、俺は生粋”フランス人”であることに揺るぎない誇りがあり、前の選挙ではFNに投票した、という余計なことまで知らされる)、その後の夢の中で父親を呪うシーンが見もの(詳しくは言わない)。
 そのルーツ的アイデンティティー的な揺らめきの中で、ネージュはアルジェリア大使館に"国籍取得”を申請し、多くの書籍や映像ドキュメントを漁ってアルジェリア漬けになる。その極端で無理やりな”自分探し”は精神を蝕み、拒食症におち入り、「1971年10月17日の虐殺」(パリの独立派アルジェリア人デモ隊数万人に対してのフランス警察機動隊の過剰警備によって死者不明者数百人を出した事件)のセーヌ川溺死者慰霊石板のある橋の上で気を失い、病院に収容される。長い眠りからさめると、アルジェリア大使館から電話が入り、無事アルジェリア国籍が認可されたことを知る...。
 映画クライマックスは病院を(点滴管を抜きちぎって)抜け出し、新パスポートを持って、(古式に則って)鉄道と船をつかってアルジェリアに渡るネージュの"解放された”姿なのだ。そしてそのアルジェリアはかの2019年民主化要求の大運動の只中にあり、そのデモ隊の中に混じって、若いこの国の人々に迎えられて恍惚とした表情のネージュなのである。夢のアルジェリアに抱かれて再生した女のように。
 
 問題はこう立てられていると思う。父母に愛されなかった娘。このどうしようもない父母から生まれた不幸。私の不幸は父母によって決定されているのか。私のアイデンティティーを形づくるものはそれを超えたなにかがあるはずだ。綿々と流れるDNAに刻まれたもの。このような秘伝伝授的な探究の末に見つかったものがアルジェリアだった、と。これはかなりはしょってませんか?短絡ではありませんか? ー というのが私の疑問。なぜにアルジェリア?という問いにはもっと深くわからせてくれる映像作品でなければならないでしょう。アルジェリアの独立の惨劇のドキュメント映像をモンタージュ導入して、自分の側の苦悩にしてしまうだけでは説明不足でしょう。映画終盤、アルジェリアの人々の波に身を沈め「私はこの民と一緒」と言わんばかりのカタルシスに浸る図、そのために作った映画なのですか?
 そのアルジェリアは大地なのか、民なのか、国なのか。私は個人的に国旗はためく光景というのにアレルギーがあり、たとえそれがトリコロールでも日の丸でも、そういうナショナリズム象徴へのありがたがりに拒否反応を起こしてしまうタチである。この映画でアルジェリア国旗はおおいにはためくのだが、それをマイウェンは例えばアルジェリア系人のフランスでの結婚式に市役所前にはためいてしまうアルジェリア国旗(=これは極右政党から攻撃の的になっている)や、アルジェリアでの民主化要求デモの時にはためいてしまうアルジェリア国旗のように、あたかも民衆の側のシンボルのように映そうとするのだ。どうなんだろうか。私はどうしてもこの旗は「民衆」ではなく「国=国家」ではないかと思ってしまう。
 そして主人公ネージュの長かったアイデンティティー障害と拒食症の苦しみを一挙に解消して救済してしまうのが国籍=パスポートである、というシナリオにも私はついていけない。なぜなら彼女を救済したのは DNAに象徴される個人史の豊かさや奥深さではなく、"国”だということなのだから。国に救われ国に愛されたと彼女は感じたのだろうか。あなたがどんなに国を愛しても、国はあなたを愛することなどない。ここがこの映画のマイウェンと私を分つところだ。このブログも高く評価していた映画人だったので残念。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

↓『DNA』予告編。


マイウェンの監督作品では以下の2作が爺ブログで紹介されています。めちゃくちゃ高く評価しています。
『ポリス(Polisse)』(2011年)
モン・ロワ(Mon Roi)』(2015年)

2020年10月26日月曜日

傷だらけのトゥールーズ

Magyd Cherfi "La Part Du Sarrasin"
マジッド・シェルフィ『サラセンの領分』

元ゼブダのリーダー、マジッド・シェルフィの4冊めの著作であり、これまでで最も分厚く、430ページの大著である。前作『俺のゴール人的部分(Ma Part de Gaulois)』(2016年)は、生まれ育ったトゥールーズのシテ(低家賃社会住宅地区)始まって以来初めてバカロレア(大学入学資格試験)に合格するという快挙をめぐる自伝的小説で、その年のゴンクール賞の第一次選考作品のひとつに選ばれるほど高い評価を受け、ベストセラーにもなった。そのあと自主制作(クラウドファウンディング)でソロアルバム『Catégorie Reine (女王級)』(2017年)を発表して、ソロでコンサートツアーも行っている。ゼブダ時代ほどの派手さはないものの、ちゃんと活動を続けているし、何よりも昨今は「作家」の顔がメインのような印象である。
 2016 - 17年のことなのに、なぜ私はマジッドの小説もアルバムのこともどこにも記事を残していなかったのだろう?このブログにすら何の痕跡もない。これは(自分の)病気のせいにしたらいけないのだけど、たぶんそうなのだと思う。小説『俺のゴール人的部分』は、前2作に比べて非常に読みづらかった記憶がある。それは語彙にしても文体にしてもモーパッサン/バルザック/ユゴー文学からフランス語表現を身につけた少年マジッドがその生きた現場を疾走感持って書き綴るという”半古典的”と言える作品だったからだろう。ゼブダの歌詞とは違う世界なのだということは承知していても、このロマネスクな「文学寄り」(ゴンクール賞候補)はたいへん疲れた。それを覚悟で今度の作品に立ち向かったのだが、前作(260ページ)より170ページも多い大作である。何度かめげながら約1ヶ月もかけて読み終えた。
 マジッドはあるインタヴューで、自分は1962年にトゥールーズで生まれたが、フランスに入ったのは14歳、つまりリセの時からだ、と比喩的に語っている。その前までトゥールーズにいながら、彼が生まれ育ったシテの世界はまるでフランスではなかったのだ。音楽(ピストルズ、クラッシュ)を知り、(フランス)文学にどっぷり浸かり、少年はアルジェリア移民の父と母とぶつかり合いながら、徐々に「フランス人化」していく。シテという飛地したマグレブのような宗教的/家父長制的な重い圧力を当たり前の環境としてローティーン期までを過ごしたが、公立リセで一挙に"フランス”に視野を拡げられ、そのクライマックスとしてシテの子たちが誰一人としてパスしたことがなかったバカロレアに合格するのである。一体バカロレアなど何の役に立つのかと言っていたシテの大人たちが、この快挙にシテを上げての大祝宴を用意する。だがこのシテ的権威による手柄の横取りを拒否して、マジッドは大学に行かずに家出し、リセの”白人”ダチと始めたロックバンドに未来を賭ける。
 新小説は1983年、「ブールの大行進 (Marche des beurs)」 と呼ばれたマブレブ移民2世たちの人種差別抗議/平等権利要求をスローガンにした全国からパリに向かう徒歩の大行進(1983年10月15日から12月3日)という社会的事件から始まる。極右FNの勢力が台頭し、いわゆる”郊外”でリンチや警察暴力でマグレブ系と黒人系の若者たちが死傷する事件が相次いだことに対して立ち上がり、リヨン郊外の若者たちが始めたパリまでの抗議行進運動に全国の移民二世たちが合流していったもの。この小説ではそれに参加するトゥールーズのアソシアシオン(非営利市民団体)の有志たちの内部での論議が描かれていて、大規模で広範囲の若者たちに問題を共有してもらう大運動に、という者は少数派で、既成政党や左翼党派および他人種(すなわちユダヤ人や黒人)系運動との合流を避けて、ブール(beursすなわちアラブ系)だけでやりたいという排外的な主張をする者が多い。すでにアソシアシオンの中で重要な役割を果たしているマッジ(マジッドの愛称、この小説でずっとこの呼び名が使われているのは、前作で多くの名前を本名で表記した結果、リンチや脅迫が相次いだためだとテレビインタヴューで言っていた。本作では全部名前が変えてある)は、微妙な立場で半分"フランス人”の側にあり、アソシアシオンも”白人”ボランティア(女性)たちに支えられている部分がある。シテの子供/若者たちを学業補習やアート活動で支援しているアソシアシオンの仕事は、いわば"フランス同化”を目的としているところが大きい。シテからフランスへの架け橋のようなものだ。この子たちが"白人”の子たちに等しくこの社会で生きられる機会を得させるために働くこと、それはおのずと政治的であり、立ちはだかる障壁は多い。
 マッジは今や生まれ育ったシテを出て(家出して)、トゥールーズ市中のアパルトマンにアフリカ系黒人の青年アブドゥとルームシェアして生きている。これだけでシテの口の悪い連中はマッジを裏切り者と見たりする。マッジはそこから元リセ同級の(音楽を習い楽器が買えるほどの階級の)”白人”坊ちゃんたち4人と組んだロックバンドのヴォーカリストとして練習に行ったり、ライトバンに乗り込みツアーに出たりする。バンドの評判は悪くなく、あと少しでレコード会社と契約できるかな、というレベルであるが、マッジを当惑させるのはその観客たちのほとんどが"白人”少年少女たちであったということ。マッジが歌詞にこめたメッセージは"郊外”の子たちに向けられているのに、目の前にはロック好きのクールな子たちがいる。ロックは浮いている。ラップがどんどん郊外に定着していくのに、ロックはシテから疎まれている。マッジが悪戦苦闘して"郊外”のアイデンティティーを取り込んだロックを実現していくストーリーはこの小説の中にはない。加えてこの小説は忠実な「ゼブダ史」は全く描いておらず、ムースとハキムに相当する登場人物もない。ただ喰えない下積み時代のマッジとバンドのロックンロールなひたむきさはわかる。その音楽で固く結ばれた5人は、あるコンサートの演奏中、極右スキンヘッズの一団の攻撃を受け、その標的は”アラブ”たるマッジひとりであった。狙い撃ちがわかっているのに他のメンバーは演奏をやめなかった、とひとりボロボロになったマッジはこのバンドの固かった絆を疑うようになり、2年間にわたってバンド活動は中断する。
 このようにマッジはフランス人社会とシテ流儀マグレブ社会の境を越えて両方を行き来できる自由な人間を目指していたのだが、"フランス性”と”シテ性”のいずれかが強くなると、どちらからもはじかれてしまう。バンドでなど到底喰えないからバイトするしかないのだが、ハンバーガー屋では店長の指示で本名を隠し「クリス」と源氏名を使うことを強要され、たまたま店に入ってきたシテの悪友たちにクリスと呼ばれているのを聞かれ嘲笑の的になる、というエピソードもある。バンドメンバーの誕生祝いにディスコクラブに入ろうとして、マッジとアブドゥだけがガードマンから入場を断られるという話も。
 この両世界の架け橋になろうとしているのはマッジだけではない。この小説の第二の主人公的に登場するのがマッジのリセ時代からの親友で、現役理系大学生で優男白人のピエリックである。数学を得意とする頭脳を生かして、アソシアシオンでシテの子たちの算数/数学の補習を担当している。その情熱と授業の分かりやすさで子供たちに信望が厚い。そのおかげで見る見る成績を伸ばしているクリモという子がいる。クリモにはムーラードという兄がいて、これがシテの不良番長格の男。兄が弟にアソシアシオンでやっていることや学業成績など何の役にも立たないと補習行きを禁止しようとするのを、優男ピエリックがおまえの弟の成績をトップクラスにしてやると挑戦的に豪語し、以来不良番長はピエリックに一目置くようになっている。こんなふうにピエリックは何ものも恐れない。トゥールーズ山の手育ちの優等生がシテというジャングルに降りてきて、この空間を第二の故郷のように愛し、子供たちに熱意を持ってその知を授ける。この美しい話はケチのつけようがないのであるが、往々にして"白人”が”シテ人”に向かっていくという方向と"シテ人”が”白人"に向かうことの難しさの度合いが違うのは言うまでもない。だがこの聖人のような優男はマッジとは真の"戦友”なのである。そしてこの二人は同じひとつの敵によって、瀕死の重傷を負わされ、病院に担ぎ込まれる。
 それは恋が原因なのである。このシテの世界のマグレブ伝統が色濃い部分では、女性たちが暴力的に服従させられる。ビージャという娘がいて、その兄ブラヒムはその世界のどうしようもない乱暴者にして地下経済の羽振りの良さで勢力を持っている大物でマッジが「宿敵」とみなしている男だが、その妹がアソシアシオンに近付いたり、見聞を広めようと本を読もうとするだけで兄は妹に顔が変形するまでの乱暴を加える。前作でマジッドは(密かに恋心を抱いていた)ビージャに自由になってほしいと本を与えるのだが、良い結末が訪れるわけがない。その数年後ピエリックとビージャが恋に落ちるのである。それがナイーヴなのか無鉄砲なのか、前述のように何ものも恐れないピエリックの本領なのだ。傷害事件で何度も牢屋に入ったことのあるブラヒムは、自ら手下を引き連れて(婚前の妹を手込めにした)ピエリック(とマッジ)を襲撃し、二人を半殺しの目に合わせ、自分は簡単に警察に捕まり平気で牢屋に入るのである。ここで重要なのは、ビージャとピエリックの関係をブラヒムに密告した卑劣漢がいる、ということ、それがなんとルームシェアメイトであるアフリカ系黒人のアブドゥだったのである。アブドゥはマッジの瀕死の重傷にいたたまれなくなってそれを告白したのだが、アブドゥが許せないほど堪えられなかったのはピエリックではなく、ムスリムの娘にあるまじきビージャの尻軽さであり、トゥールーズの中心街で堂々と(白人男女のように)イチャイチャする姿に激昂し...。これがこの小説のテーマ「サラセンの領分」なのである。"sarrasin"(サラザンと読む)とは辞書にこう定義されている。
Musulman d'Orient, d'Afrique ou d'Espagne, au Moyen Âge.
中世における東方、アフリカ、スペインのイスラム教徒
つまり中世から綿々と続き、頭にカビが生えたような頑迷なアラブ人たちのことである。
それは若くおしゃれなシティーボーイのアブドゥの頭にも道徳観として根を張っていた。
 そして主人公マッジにもである。童貞だったマッジは、ロックンロールバンドのコンサート打ち上げの乱痴気騒ぎの中でも(バンド仲間にからかわれながらも)どうしても一線を越えられない。そんなマッジがこの小説でカウタールと名乗る娘と運命的な出会いを果たすのだが、この花売りの娘もマグレブからやってきた厳格な家族の中にあり、父親は”しつけ”のためなら娘を叩きのめすことなど当たり前だと思っている。予め悲恋であるこの関係を断念するか、父親と対決して娘を奪い取ってどこかへ逃げるか...。ここでマッジにも「サラセンの領分」たる、あの忌々しい旧アラブ的道徳観がじわじわ侵食してきて、なんとプラトニックな関係を続け、1986年、彼のバンドがメジャーレコード会社ユニバーサルと契約した時、その父親に結婚の承諾を求めるのである...。なんと保守的な。

 この小説でマッジは何度も袋叩きにされ、傷だらけである。重傷を負った時、リハビリでマッジは育ったシテの実家に戻り、勘当された母親から厚い看護を受け和解する。父親も口では許していないが半ば和解したようなもの。イスラム的宗教心は一度も持ったことのないマッジはロックや文学を通して"フランス”に”解放”されたものの、サラセンの領分を持って生まれた人間であることを改めて自覚する。それがゼブダ的音楽世界として昇華して、全フランスの若者たちを熱狂させるのは次作の上での話かもしれないし、そうならないかもしれない。
 この作品の魅力は、マッジというひとりの魂の記録になることなく、いつも仲間がいて複数の人間たちが活き活きとしていること。アソシアシオンでの議論、味のあるシテの年寄りたちと女たち、子供たち、社会運動の中にいるモモとサリムという論客、旧知の不良たち、そしてマッジに最も近いバンドの面々...。しかしこの小説で最も魅力的な人物は秀才優男のピエリックであろう。この男のその後も気になるところである。

カストール爺の採点:★★★☆☆

Magyd Cherfi "La Part Du Sarrasin"
Actes Sud刊 2020年8月 430ページ 22ユーロ


(↓)マジッド・シェルフィ『サラセンの領分』について語るプロモ動画

2020年10月22日木曜日

さらばれこん

"Adieu Les Cons"

『コンどもよ、さらば』

2020年フランス映画
監督;アルベール・デュポンテル
主演:ヴィルジニー・エフィラ、アルベール・デュポンテル、ニコラ・マリエ
フランスでの公開:2020年10月21日

映画冒頭の献辞に"テリー・ジョーンズに捧ぐ"と出てくる。ジョーンズが77歳で亡くなったのはこの(2020年)1月のこと。モンティ・パイソンの全エピソードを暗記するほと溺愛したひとりであろうアルベール・デュポンテルのキテレツさのルーツ。映画には、バーンアウトした天才的ハッカーのJB(演アルベール・デュポンテル)が自殺用にインターネットで購入する大口径ライフルのデモンストレーションヴィデオにテリー・ギリアムが(特別)出演している。
 さて、この映画は死を宣告された女と死を選んだ男が組んだ"共闘”の記録である。共闘と言うからには"敵”がいるわけで、それは"Les cons(レ・コン)"、すなわちこの21世紀的社会を作ってしまった愚者たちなのである。40代の美容師シューズ(演ヴィルジニー・エフィラ)は、20数年間その仕事で使ってきたエアゾール(ヘアスプレー)の有害成分を吸いすぎて肺をやられてしまい、余命幾ばくもなしと宣告される。死を前にして彼女の最大の心残りは、30年前、15歳で一夜の恋(マノ・ネグラ「マラビーダ」で二人躍り狂っていた)でできてしまった子供を、シューズの両親の猛反対によって、やむなく親不詳の孤児として手放さなければならなかったこと。 その子を一目見て無事を確認してから死にたい。そんな思いで何度も役所に足を運び、30年前の行政資料を手に入れようとするが、役人は「30年前などディジタル化されるずっと前ですよ」とそんな古文書のことなど知ったことではないという態度。
 そのシューズと役人の面談の隣室 では 、バーンアウトの極みに達した50代の上級官僚公務員JBが自殺を遂行しようとしている。ITに長じ、国家的機密に属するハッキングのシステムなどを作ってきた超有能エンジニアであるが、その仕事が全く評価されず、その席を若造に空け渡さなければならなくなった。その理不尽を死をもって抗議する。遺言を録音し、その最後の言葉"Adieu les cons(愚者どもよさらば)"を合図に、銃口を自分に向けた大口径ライフルの引き金に繋いだヒモを引くはずだった。Adieu les cons ! ところが引いたヒモの勢いはライフルの銃口を隣室に向けてしまい、弾丸は壁を突き破り、シューズの応対をしていた役人の肩に命中する。悲鳴、大量出血、役所フロアの大パニック、2度目の銃声...。この大混乱でJBは気を失ってしまうが、この男が上級官僚であり自分の子探しに利用できると悟ったシューズは、混乱に乗じてJB(とその頭脳のすべてが詰まったノートパソコン)を救い出す。

 事態は国が関係してくる。JBは国の暗黒部のシステムを作っていたエンジニアであり、彼がそのシステムの入ったパソコンと共に失踪したとなると...。内務大臣は警察とメディアに感知されぬよう、特別のエキスパートたちを放ってJBの行方を捜索させる。

 シューズはJBの上級官僚の地位を使って行政書類保管所の所在をつかみ、わが子出生その後の資料を探しに乗り込む。こまかいギャグであるが、その建物に入り「資料室(archive)はどこですか?」と尋ねると署員のほとんどが知らない、「シリョウシツとはどんな綴りですか?」と聞き返す者も。21世紀的現代にあって"紙”を保存する資料室など遠い遠い過去のものなのだ。やっと突き止めた建物の地下奥深くにあった(何年も人の訪れたことのない)資料室、その管理をまかされているのが、盲目の古文書保管士のムッシュー・ブラン(演ニコラ・マリエ、怪演!)、かつての反権力/反権威運動の過激活動家でその闘争の事故で失明している。シューズとJBとブランの3人は、シューズのイニシャル(Suze Trappetの"T")とその子の出生年で整理保管された書類ファイルだけで何千もある書類の山をひとつひとつ確認する、という途方もなく超アナログな作業にとりかかるのだが、この長〜い時間に3人の堅〜い連帯が生まれていくのだよ。
 やっと見つかった出生書類を手がかりに、3人による”子探し”の大冒険が始まる。権力の追手に狙われているJB、元反権力の闘士ゆえにあらゆる権力の追手に過剰に反逆してしまうブラン、破壊的なカーアクションを含むこのドタバタ遁走劇が見もの。
 その中で(おそらくこの映画の中で)最も感動的なエピソードが、出生後の経過を知っている産科医リント(演ジャッキー・ベロワイエ、これも素晴らしい!)との出会いであり、この引退医師は今やアルツハイマー病で入院していて過去の記憶など吹っ飛んでしまっている。だから話にならないのだが、多くの古い時代の医者がしていたように、このリント医師も診療日誌をつけていて、それが(映画ですから)本棚のてっぺんから落ちてくるのである。その中にシューズが出産した日の項を見つけ出したのだが、多くの古い時代の医者がそうであるように、その筆記の文字は一般人には判読ができないのである(一体何なんでしょうか、万国共通のこの医者のふにゃふにゃ字というのは?)。リント医師に問いただしても、自分が医者だったことすら憶えていない。誰がこの文字を解読できるのか? きっとリント医師の妻ならば ー 夜中に車を走らせ3人はリント夫人(演カトリーヌ・ダヴニエ)の住む館へ。この女性がまた素晴らしい。この残酷な世界にこんな慈愛が残っているとは。3人を暖かく館に迎えたリント夫人はその解読不能と思われた文字をひとつひとつ解き明かし、その日誌にシューズが産んだ子が施設に預けられず、ある一家に託されたことが記されていることを告げる。ところがその一家がどこの誰なのかは解読できない...。一方病室に残されたリント医師は、かの日誌が本棚のてっぺんから落ちてきた時に一緒に降ってきたさまざまな写真に見入り、そこから妻との日々の記憶が少しずつ蘇り....。その蘇った断片的な記憶の中に、シューズの産んだ子のことも...。
 かくして映画はシューズが30年前に産んだ子、アドリアン(演バスティアン・ユゲット)のところにたどり着き、JBとブランは母子再会を強く勧めるのだが、シューズは無事であればそれでいい、と窓の外からその姿を覗き見るだけ。しかしその覗き見でわかったのはアドリアンが強烈な片思いで悩んでいること。この切ない恋を成就させてやることが、産み捨てた母親が今になってできるせめてもの罪滅ぼし。そこからは稀代の天才ハッカーたるJBの腕の見せ所であり、アドリアンと意中の女性クララ(演マリルー・オシユー、すごく可愛い女優さん)が仕事している巨大な超近代的ビルの管理システムに遠隔潜入し、電気や防災系統を狂わせてビル全体を大パニックに陥れ、アドリアンとクララの二人だけをまんまとエレベーターの中に閉じ込めてしまう。そしてアドリアンがエレベーターの中からコールした非常電話に(自らを名乗らずに)シューズの声が...。

 不条理で残酷なこの世界に逆らった3人、何も失うものがない3人の最後の抵抗戦であるこの映画は、やはり死でもって終わるのである。死に向かう最後の合言葉は「Adieu les cons (愚者どもよ、さらば)」。この最後は日本のヤクザ映画、もしくは北野武映画の援用かもしれない超ヴァイオレントなものであり、私は涙がどっと噴き出ましたね。

 ただこの映画も、昨今の凡百のテレビ/映画と同じようにAIやIT最先端技術のおかげで手元のパソコンキーボードをちゃらちゃら叩くだけでいろんな答えが得られてしまうシナリオが、私には本当に残念なのね。ヴィルジニー・エフィラという素晴らしい女優を起用しても、この人に宣告された不条理な死というものへの反逆を、エフィラが生身の人間の表現として出せるチャンスをテクノロジーが奪っている感じ。そこだけにケチをつけておきますが、これは一級の反逆映画です。われわれはなぜ反逆するのか、それはこの世界に "Mala vita"(生きる苦しみ)を感じているからなのだよ、mi corazon。

カストール爺の採点:★★
★★

(↓)『コンどもよ、さらば』予告編



(↓)マニュ・チャオ「マラビーダ」(2013年ブエノス・アイレスでのライヴ)

2020年10月10日土曜日

むげなり

Aki Shimazaki "Suzuran"

アキ・シマザキ『スズラン』

ンレアル(カナダ)在のフランス語作家アキ・シマザキの第16作めにして、新しい(4つめの)パンタロジー(五連作)の第一話。この作家については過去当ブログで6件の記事で作品紹介しているので、そちらも参照してください。
私はこれまで全作品つきあってきているが、第一パンタロジー『秘密の重み』で大きなスケールで戦争、原爆、朝鮮、キリスト教など20世紀日本が抱えて生きた(欧米の読者からは見えにくい)歴史に生身で関与した複数の主人公たちを描くことができていた、それがシマザキの本領ではないかと思っていた。第二、第三のパンタロジーに進むにつれて、それは現代日本に根強く残る旧時代の(家父長的)モラルだったり、会社組織のきまりごとだったり、女性たちのポジションだったり、男性原理の風俗だったり、日本に住む人々に重くのしかかる公的圧力だったり... そういう”個"対"社会”の軋轢が見えてくる作品になっていく。これらの要素は物語の土台であり、(欧米読者にとっての)日本という土壌の特異さそのものである。シマザキはこの日本というエキゾティスムを武器にしていて、欧米人がおそらく(翻訳の)日本文学では把握できないであろうことがらをガイド本のように解説しているところがある。この日本解題が欧米人には貴重であり、知られざる日本を見る思いがするのであろうが、彼女の作品群が(第1作『椿』を除いて)日本語化されていないのは、日本人にはその解題部分が不要であるというあらかじめの拒否感からなのではないだろうか。言われなくてもいい言わずもがなのことを言われているような不快感を呼び起こしてしまうかもしれない。こういうところまでおもんぱかってしまえるのが、われわれバイリンガル人の密かな愉しみであり、日本語だけの人たちはおおいに嫉妬してほしい(ふっふっふ...)。シマザキは仏語環境における初の日仏バイリンガル視点の文学を創造したのだよ、お立ち会い。
 さて、小説はスマホが幅をきかせている21世紀的現代の日本が舞台であり、主要登場人物のひとりユージは東日本大震災の津波で両親を失っているという設定なので、2020年に近い現在と仮定できる。ところは山陰地方、鳥取、美しい大山(だいせん)を背景に海辺にはデートコースに最適な弓ヶ浜のある静かな地方都市米子(よなご)が舞台。主人公アンズ(漢字では”杏子”と綴る)は祖父から石窯を継いだ石窯焼きの陶芸家であり、主に生花用の花器を作っていて、陶芸展で多くの賞を得ていて、アトリエ/ブティック/陶芸教室も持つという、若くしてそこそこ名のある芸術家である。23歳で結婚して男の子(トール)をもうけるが、夫婦生活はうまく行かず、離婚して息子をひとりで育てている(毎週末に前夫が子供を預かるという日本では一般的ではないであろう離婚後共同親権のケース)。匠のわざに秀でたアーチストであるが、その芸の外に出ると性格は控えめで、容姿も"並”でしかないという自己評価。そのアンズに、東京で華々しい生活(外資系貿易会社のエリート職、英語堪能、海外出張多し)を謳歌している姉、キョーコ(漢字では"京子”)がいて、美貌を誇り、都会好き、派手好き、パーティー好き、男好きときている。幼い頃から成績も優秀で、美術以外点数のあまり良くない妹をよく助け、常に妹に対して指導的な態度をとっていたが、姉とは対照的に内気で控えめな妹は姉を頼り、姉を好いていた。小説はこの姉妹の関係のラジカルな変化が進行の軸である。
 この姉妹にはノブキ(漢字で"信樹”)という弟がいるが、この小説では全く出る幕も存在感もない。おそらくシマザキのこの新パンタロジーの何作めかで主役を取るのかもしれない。老いた父と母は米子で暮らしているが、母親に認知症の傾向が始まっているため、それまで住んでいた家を借家にして(行く行くはアンズとトールに住まわせることにしている)二人は老後施設に入る引越しの準備中である。末のノブキは結婚して家庭を持ち子二人を得たが、その姉二人はいい歳なのに安定していない、というのがフツーの日本のお父さんお母さんの心配ごとのように書かれている。母親はとりわけキョーコのことが気がかりでしかたがない。東京に出て世界を股にかけて活躍する派手なキャリアウーマンではあるが、母の望みは良い人と結婚して幸せな家庭を、というステロタイプさである。姉を良く知るアンズは、選び放題に男をつくっては捨ててきたキョーコが(30代後半になったからと言って)ひとりの男に落ち着くことなど考えづらい。ところがびっくり仰天、キョーコは「合コン」(シマザキ小説なので、これがどんなものかは詳しく説明されている)でフィアンセを見つけたので、次のゴールデンウィーク(これもシマザキ注釈あり)に米子に連れて行き家族に紹介する、と言うのである。
 アンズの側では高校同窓会があり、幹事が同期にアンズと同じような離婚者(女も男も)が増えていて、離婚者合コンのノリで来てみれば、と普段出席しないアンズを強引に誘う。そこにアンズの初恋の相手アキラ・Z(シマザキ小説にあっては、登場人物の名はファーストネームだったり、ファミリーネームだったり、イニシャルアルファベットひと文字だったり、同ふた文字だったり、どういう規則になっているのだか不明だが、このファーストネーム+イニシャル "アキラ・Z”のパターンはおそらく初めて。おそらくこのパンタロジーの重要人物かもしれない)がやはり離婚独身者として出席し、アンズの心が少し揺れる。この高校生の時の初恋は、眉目秀麗・スポーツ万能・成績優秀で女子たちのあこがれの的であったアキラ・Zが、文化祭に出品したアンズの陶芸作品を"詩的表現”で称賛したことがきっかけで(ひいてはそれがきっかけで将来陶芸家になってしまうのだが)、二人は弓ヶ浜でプルミエ・ベゼを交わすほど盛り上がるのだが、アキラ・Zに好きな女性ができたと告白され、あっけなく破局する。その20年後に、アンズはその時アキラ・Zがなびいていった女性というのがなんと姉キョーコであったということを知る。
 さらに離婚した元夫のR(トールの父)の経営していた印刷会社が倒産する。このRはアンズと出会った頃はスポーツ好き好青年で堅実な公務員職についていたが、トールが3歳の時、その父親が死んで結構な額の遺産が入ったのを機に実業家に転身、滑り出し好調で羽振りがよくなり経営そっちのけで遊びまわるようになる。隠してはいたが遠距離にいる愛人と逢瀬を重ねていたのは明らか。トールが分別がつくようになり、自分も陶芸家としてなんとかやっていけるようになり、アンズは未練もなくこの愛情のない夫婦生活を終わらせ別居する。離婚から数年経った今になって、アンズはその時夫Rが会いに行っていた遠距離の愛人というのがなんと姉キョーコであったことを知る。すべてを告白し、お互いを知り尽くし、最高に頼りにしていたはずの姉キョーコが...。
 さて、ここで本作のタイトルである「スズラン」について。これはアンズが次の陶芸個展用に焼いていた一連の花器のうち、最高の自信作で個展でも非売品にして自分のためにとっておこうと思っていた作品の題として、その作品のインスピレーション源であったすずらんの花にしたというわけ。これもシマザキならではのパッセージで、アンズがこの作品名を漢字("鈴蘭")にしようか、ひらがな("すずらん")にしようか、カタカナ("スズラン")にしようか、という非日本語人にはミステリアスな悩みを開陳し、やっぱりカタカナにしたわ、と。

j'ai finalement choisi le katakana, simple et vigoureux, parfait pour cette plante qui se multiple à une vitesse suprenante.
(最終的に私はこの驚くべき早さで繁殖する植物に完璧に合っているシンプルさと力強さを兼ね合わせているということで"カタカナ”を選ぶことにした)(超訳:カストール爺)
カタカナにはシンプルさと力強さがある。なるほど。シマザキからは教わることが多い。そしてアンズはスズランを想いをはせて、こんな五行詩をしたためる。
Tu m'appelles sans voix  あなたは音もなく私に呼びかける
Comme une clochette sans battant 打ち棒のない小鐘のように
J'entends tout, Suzuran ! 私にはすべて聞こえている、スズランよ!
Je t'aime depuis toujours ずっとずっと私はあなたが好きだった
Depuis avant ma naissance 私が生まれる前からずっとずっと
Joli, non? (註:"ずっとずっと”という訳語は、荒井由実作「まちぶせ」からの援用 by カストール爺)ー しかしそんなスズランの別の面をアンズは自分の母親から知らされることになる。まず、姉キョーコの誕生日は5月1日であり、フランスではすずらん祭りの日、幸運をもたらすというこの花を愛する人に送る日、この花はこの日に生まれたキョーコの花。教養のある母はこの花が外国語で"lily of valley"、"muguet"、"amourette"などと呼ばれている、とウンチクを垂れる。ん?3番目の言葉を私は知らない、とアンズは辞書を引いて調べる。するとこの可憐なスズランを意味する"amourette"が、「浮気」、「不倫」、(複数形で)「動物の睾丸」などの意味もあるのを知り心を暗くする。睾丸はともかく、アヴァンチュール、フラート、火遊び、ハント、お戯れ... などと連鎖的に思い浮かべると、これは私のイメージするスズランとは違う、が、しかし、キョーコのイメージと合致すると驚くのである。
 さらに、初対面のキョーコのフィアンセで生物学専攻の製薬会社マンのユージから、スズランには猛毒があると初めて知らされ、この花は私ではない、キョーコである、といよいよ確信していくのだが...。
 長い間複数の男たちとの悦楽的関係を興じてきたキョーコがその趣味から足を洗って、合コンで知り合ったというフィアンセのユージを連れて、ゴールデンウィークに米子に行き家族にそのフィアンセを紹介するという。5月1日はキョーコの誕生日であり、家族パーティーが用意されている。暴かれたキョーコの真の姿を知ったアンズはもはや元どおりの姉妹関係を保てないと思っている、が、そこに現れた(その時点での)未来の義兄たるユージは...。
 このゴールデンウィーク滞在中(キョーコは急用ありで単身東京に帰ってしまう)、アンズの陶芸に魅せられ、全作品を観賞し、息子トールとも仲良く遊び、山中にある窯まで行ってくべる薪を割るなどアンズの窯入れの助手として汗を流す。ユージと同じ屋根の下で3夜を過ごしたアンズは、ユージの体から漂ってくる匂いに強烈に反応してしまう。今日びの日本語ではこれを「フェロモン」と称するのだろうが、シマザキ小説にはこんな言葉は出てこない。このフェロモンの魔力に、アンズはその夜ユージとの交情の夢を見てしまい、それまで一度も体感したことのなかった性的オーガズムに身をよじらせるのである。ここ重要。それまでの人生で知ることのなかった性的絶頂を夢で知るアンズ。一体いつの時代の文学なのさ!
 案の定というか、見えすぎるシナリオ進行で、アンズはユージへの恋慕でどうしようもなくなり、ユージはアンズのアートに心動かされ(↑上紹介の)かの詩を目にするや、出会う前から知っていた運命的な出会いを直感してしまう。これはアンズにしてみれば、それまで愛した男たちを尽くキョーコに奪われていた(と後で知った)アンズが、初めてキョーコから恋人を奪うという復讐の構図になるわけだ。果たしてそれまで完璧に調和していた姉妹の関係はもろくも崩れて、ひとりの男ユージをめぐって戦争状態に入っていくのか? アンズとユージはお互いの愛を宣告しあい、ユージはキョーコにもはや結婚の意志はないと告げ、混沌の終盤、小説は全く違う(まあ読めないでもないが)カタストロフを用意する...。

 スズランはキョーコではなくアンズであった。可憐な姿ながら強靭な植物としてのスズランであった。これがアンズの世界。イッツァ・アンズアンズアンズ・ワールド。わぉっ! ー  だがこれでいいのか? シマザキの小説世界全体に言える弱点である薄っぺらい人物像、現代日本人のステロタイプな描かれ方(見合い/合コンでしか相手を探せない日本男女、家庭子孫の安泰を願う旧世代人、既得権のように当たり前にマッチョになる男たち、都会/派手が解放された女性たちの象徴、地方都市人ののどかさと保守性...)、フランス語圏人はそのエキゾティスムだけで読めてしまうのではないか。日本人にはこれは出来の悪いテレビドラマの脚本と思われてもしかたないのではないか。日本人の仏語学習者向き、これは中級者にはすらすら読めるし、言いたいことよく理解できてうれしいと思う。だが、文学ってそういうもんじゃないっしょ。第一パンタロジー『秘密の重み』で展開できた壮大さ、重厚さをシマザキは取り戻すことができるのだろうか。次作も読みますけどね、ほんと「頼むわぁ」と言いたいのが正直なところ。

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

Aki Shimazaki "Suzuran"
Actes Sud 刊 2020年10月、170ページ、15ユーロ

(↓)小説とは関係ないが、ダニエル・ダリュー「すずらんの咲く頃 Le Temps du Muguet」(1957年)(元歌はロシア大衆歌謡「モスクワ郊外の夕べ」)



(↓)同じ曲。ザ・ピーナッツ「モスコーの夜はふけて」(1962年)
作詞音羽たかしで歌い出しが「スズランの花あわく 匂う街角に」と。
(”YouTubeで見る”をクリックしてください)
 

2020年10月2日金曜日

微動ダニ

Dani "Horizons dorés"

ダニ『黄金色の地平線』

(←)真はジャン=バチスト・モンディーノ。うまいよねぇ。これを書いている10月1日がちょうどダニの誕生日で、1944年生れ、今日で76歳になった。マヌカン、女優、歌手として長〜いキャリアのある人だが、今日多くの人々が記憶している歌手ダニの歌は2001年エチエンヌ・ダオとのデュエットによるシングルヒット「ブーメランのように(Comme un boomerang)」(詞曲セルジュ・ゲンズブール)のみである。


これはたいへんないわくつきの歌で、これだけで1冊の本になりそうなほど。時は1974年英国ブライトンで開催されたユーロヴィジョン・コンテストにフランス代表としてダニが出場するはずだったが、時の共和国大統領ジョルジュ・ポンピドゥーが急逝、コンテストが国葬にぶつかるということで、フランスが同コンテスト出場を辞退。翌1975年、前年やむない事情で出場できなかったダニが当然代表出場権を継げるはずだったのだが、ダニは当時のヒットメーカーにしてその10年前にフランス・ギャル「夢シャン」で同コンテスト優勝の経験がある作曲家セルジュ・ゲンズブールの曲にしてくれと要求した。出来上がってきたのがこの「ブーメランのように」という曲で、デモは3ヴァージョン(ダニのみ、ダニ+ゲンズブールのデュオ、ゲンズブールのみ)録音された。ところがこのデモを聞いて、同コンテストの放映権を持つフランス国営テレビAntenne 2が、この歌詞が性と暴力を暗喩しているとしてこの曲での出場を拒否。それ以来25年間、この曲はオクラ入りし、その間にセルジュ・ゲンズブールも1991年にこの世を去ってしまう。その封印を解いて、歌手活動からも久しく遠ざかっていたダニを焚きつけて新曲として録音させたのがエチエンヌ・ダオだったというわけ。このヒットがダニを再び第一線に復帰させることになる。さまざまな歴史的過去を背負って死なずに生きていた生還者のように、その酒焼け/ドラッグ焼け/タバコ焼けした声のせいもあって、イギリスにマリアンヌ・フェイスフルあれば、フランスにダニあり、というノリで。
 19歳で故郷ペルピニャン(フランス側カタロニア)からパリに出て、"美校”(エコル・デ・ボザール)に席を置くも、早くもモデルとして注目され、ヘルムート・ニュートンやジャン=ルー・シーフの被写体としてモード誌を飾り、Zouzou(ズーズー)と共にパリのナイトクラブシーン(カステル, シェ・レジーヌ...)で最も美しい娘として、常連客のアーチストたち(ビートルズ、ストーンズを含む)のミューズとなる。映画女優としては主に70年以降に重要な作品が多く、とりわけフランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』(1974年)と『逃げ去る恋』(1979年)はダニのフィルモグラフィーにおいて最重要な2作であろう。
 マヌカン、歌手、女優として60-70年代を(表面的には)華麗に生きたこの女性は、じわじわとドラッグに心身を冒され、80年代には芸能シーンから姿を消し、南仏ヴォークルーズに隠れ住んで"毒抜き”の年月を過ごしていた。1987年にそのドラッグの暗黒時代を告白した手記本"Drogue, la galère(ドラッグ、その苦難)”(Michel Lafon刊)を刊行している。この人がりっぱだなぁと思うのは、その後実業家として成功していること。全くの夜型人間と思われていたダニが朝日に始まり夕日に終わる昼型人間に転じて、花屋になるのだよ。ただの花屋ではない。バラ専門店。1993年、あのウンベルト・エコの小説「バラの名前」(仏語題Le nom de la rose)にインスパイアされた"AU NOM DE LA ROSE(オ・ノン・ド・ラ・ローズ、バラの名において)という名のバラ専門生花店第一号店を開店。このコンセプトが成功してたちまちパリ圏20店舗、さらにフランス全国展開、さらにヨーロッパ各国でフランチャイズ店が、という快進撃。ただしダニはこういう大きなことになる前に、高値でその権利を売って、自分サイズの別のバラ専門店を別名("D-Rose", "By Dani", ”Roses Costes Dani Roses”)で開く。いいじゃないですか。(仏語だが、ダニのバラへの情熱をまとめたダニのオフィシャルページ記事のリンク
 さて、そんな感じで"ルーザー”ではなく"成功者”として生還したダニは2016年に(何冊めかの)自伝本『夜は長続きしない(La nuit ne dure pas)』(Flammarion刊)を発表、ベストセラー、それとタイアップで同名のコンピレーションアルバム"La nuit ne dure pas"(再録音4ヴァージョンを含む20曲ベスト盤)をリリース。
 このアルバム"Horizons Dorés"はそれに続くアルバムということになるが、9曲全曲新しい録音であるものの、4曲が未発表新曲、残り5曲は過去のレパートリーの再録音である。プロデュースがルノー・レタン(マニュ・チャオ、セウ・ジョルジ、ファイスト、ゴンザレス...)であり、バック・ミュージシャンはエミリー・マルシュのギターひとつだけ(+ごくわずかにプログラミング・サウンド)である。 つまりダニのあの酒焼け/ドラッグ焼け/タバコ焼けした味のある低音ヴォイスを最前面に出した"ダニ節”アルバムである。作詞は長年の詞提供者であるピエール・グリエ(バシュング「マダム・レーヴ」の作詞者)がほとんどあるが、新曲は重い年季の貫禄の女性のメランコリーがひしひしと。
 例えば1曲めでアルバムタイトル曲の「黄金色の地平線(Horizons dorés)である。
私は何日、何ヶ月と数えていた
私は何年と数えていた
数えることを覚えたことを後悔するほどに
私は何かに賛成するためにも何かに反対するためにも戦ってきた
私はただただ戦ってきた
私は戦ってきたことを後悔したことなど一度もない
黄金色の地平線はいつ見えるの?
生きる価値のある生活はいつやってくるの?
肌と肌を合わせてそれを感じられる日はいつくるの?
人はそれを期待する理由が本当にあるの?
その地平線を
黄金色の地平線を

それに続く2曲め「お誘いご辞退します (Je décline l'invitation)」(残念ながらクリップ/動画がない)は電話受け答え形式の悟りを開いた老女の感慨を。
アロー? そうよ
私よ
何?
何て言ったの?
セックス?
ノン
だめよ
なぜって?

私はその誘いは辞退するわ
残念だけど
私はそういう種類の案件に
身を乗り出すのは
もうやめたのよ
 (・・・・)
外出する
飲みに行く
ええ大好きよ
今だってしたいわよ
でもね私は待ってるのよ
天国が
死が
私に合図してくれるのを
だから

私はその誘いは辞退するわ
残念だけど
私はそういう種類の案件に
身を乗り出すのは
もうやめたのよ
 ("Je décline l'invitation")

再録ものでは9曲めで、ジョーイ・スタール(ex NTM)と掛け合いで歌われる"Kesta Kesta"はアルバムの中で最も"ロック”を感じさせるナンバー。当年52歳(もうそんな歳か)でダニの大後輩とは言え、ジョーイも仏ヒップホップを引っ張ってきた重い年季の貫禄で、二人が掛け合えばそれはそれは渋く重い味わい。ケレン・アン・ゼイデル作(詞ドリアン)の”Dingue”(3曲め)はエマニュエル・セニエ(いろいろ問題ある映画監督ロマン・ポランスキーの現在の夫人)のために書かれた曲だが、どうしてダニはカヴァーしたのだろう? セニエよりもロックに聞こえるし、歌唱法はほぼゲンズブールと言っていい。
5曲めの"N comme Never Again"は、1993年にザ・ストラングラーズのジャン=ジャック・バーネルがプロデュースしたダニの同名アルバムのタイトル曲(詞ピエール・グリエ/曲ジャン=ジャック・バーネル)の再録だが、百倍メランコリック。
 このブログでも紹介したジェラール・ドパルデューの『ドパルデュー、バルバラを歌う』と同じように、この声の重みがあれば、歌の要所要所にその重みを置いていくだけで、感嘆するしかないほどの歌芸になってしまいそうだ。おらが国さのマリアンヌ・フェイスフル、という程度ではおさまらない何かがある。

<<< トラックリスト >>>
1. Horizons dorés
2. Je décline l'invitation
3. Dingue
4. Les artichauts
5. N comme Never Again
6. Reine d'Autriche
7. J'voudrais que quelqu'un me choisisse
8. La vitesse
9. Kesta Kesta (duet with Joey Starr)

Dani "Horizons dorés"
CD/LP/Digital Washi Washa / Warner
フランスでのリリース:2020年9月25日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランソワ・トリュフォー監督映画『アメリカの夜』(1973年)
1分47秒めにスクリプト・ガール役でナタリー・バイ(めがね)とダニ。


(↓)フランソワ・トリュフォー監督映画『逃げ去る恋』(1979年)予告編
1分57秒めと2分14秒めにダニ。